王都・洛陽の陥落からしばらくの時が過ぎ、一刀や皇帝を慕ってついて来た民たち共々流れ込んだ長安の日々も、ようやく落ち着きを見せ始めたある日の事。
執務室で真剣な顔を突き合わせている、大陸有数の頭脳たちの姿があった。
「しかし解らないのは、やはり魏の軍事活動ですね」
今では執務中のみ掛けている眼鏡を軽く指先で押し上げる稟に、風が緩やかに相槌を打つ。
「星ちゃんがハジけてた時、兵の様子がおかしかったそうですがー?」
風に水を向けられた星が、当時はがむしゃらで曖昧だった記憶を探るように言葉を紡ぐ。
「うむ。敵陣を単騎で凛々しく駆け抜けた際に気付いたのだが……兵の練度に大きく差がある。一刀がいた前曲の魏兵は練達の近衛に等しい空気を纏っていたのに対し、後曲の兵は呆れるほど御粗末だった」
それをゆっくりと飲み込んで、雛里が控え目に口を開く。
「……徴兵したばかりの兵が未熟なのは、別段おかしな事ではありませんが……」
「そもそもその徴兵自体が曹操らしくない……と言いたいのだろう」
その言葉尻を継いだ協君が、じろりと一刀に半眼を向けた。コクコクと揃って首を縦に振る一刀と桃香の姿が、より一層一同の呆れを助長させる。
二人がそう主張する理由が、敵国の主君の人格に対する評価から来ている事を皆が解っているからだ。
「しかし確かに、“らしくない”ですね……」
だから、もちろん稟がその言を肯定するのは別の理由からである。
「戦で征した地で間を置かずに徴兵などすれば、その都市の人心は離れてしまう。……曹孟徳ほどの人物が、それを解っていないとは思えないのですが……」
議題はそこに集約される。
華琳がそんな愚行を冒すはずがない、だから兵力では引けを取らない。当たり前のように抱いていたその認識を覆されて、一刀らは敗北を喫したのだ。
「だから、そんな無茶苦茶な徴兵を曹操がしたとは思えないんだよ」
「なら一刀殿は、街や邑から人を駆り出さずに兵力を生み出せるとでも言いたいのですか」
「そういう経験もあるけどなー……」
「はい?」
「いや、何でもない」
前の世界で無尽蔵に湧いて出た白装束を思い出して、一刀はすぐにかぶりを振った。そして改めて自分の意見を表明する。
「制圧した都市から人を集めたって部分は俺も疑ってないよ。……でも、曹操が人民をそんな無理矢理戦に駆り出すのがイメージ出来ないって言うか……」
「つまり……治めたばかりの都市で、人民の不満を買わずに兵を集めた、という事ですかー?」
と言っても、感じた事をそのまま口に出しているだけで酷く曖昧だ。その曖昧な意図を、風が分かりやすく纏めてみる。
「そんな都合のいい事を実現するには、人民を根こそぎ惹き付けるような絶大な求心力が必要です。……曹操がそこまで人心を掴んでいるとは思えません」
「……やっぱ難しいか」
稟が肩を竦めて、そこで議論は止まってしまう。魏が強引な徴兵など行ったとするなら、遠くない未来、その業によって自ら破滅の道を辿るだろう。
仮にそうなら悩む事も無いのだが、そんな楽観を許さない威厳が華琳にはあった。
「(う〜〜ん……)」
自分のあごに指を当て、桃香は深い思考に耽る。先ほどからの会話で、何かが頭の隅に引っ掛かっていた。
「(………あっ)」
そして思い至る。
「絶大な求心力って言えば……あれ、凄かったよね、白蓮ちゃん!」
「あれって……ああ、あれか」
そして、実は居た白蓮と顔を見合わせて両手を叩く。いかにも『気になってた事を思い出しただけ』といった様子の二人は、しかし議論が止まってしまっていた一同の注目を集める。
「桃香、あれって?」
「うん。わたし達、ちょっと前までエン州で旅してたんだけど、すっごく楽しそうに歌う女の子たちがいたの」
既に雑談のノリである。
「何だっけ? え〜、と………そうだ! あいどるぐるーぷ!」
しかし、その会話を聞いていた風の瞳がキラリと光る。
「数え☆役満しすたぁず!」
他愛ない雑談の中から、最大の謎が解けた瞬間だった。
「………旅芸人の一座、ですか?」
「それが魏の求心力の正体、とでもいうのか?」
「え? え?」
雛里と協君が訝しげな顔をし、情報発信源の桃香はよく解っていないらしい。
にしても、アイドルグループか。完全に意表を突かれた。……とはいえ、前の世界にそんなのいなかったし、三国志の知識からそんなの連想するのは無理があるだろ、とは思う。
「歌と踊り……本当にそんなもので人が集まるものでしょうか」
稟がそう思うのも解らんでもないけど………
「「甘い(ですねー)」」
俺と風がツープラトンで切って捨てる。
「甘いぞ稟、ライブ会場に充満するあの熱狂と大音量はちょっと言葉に出来ん。軽く引く」
「ホントに凄いんだよ? 声援が肌に響いて怖いくらいなんだから!」
「稟ちゃんはらいぶの一つも見た事の無い世間知らずさんですからねー」
「あなたも見た事ないでしょうがっ!」
俺、桃香、風で稟の認識を改めに掛かる。風までまるで見た事ある感じで得意気にしてるのが地味にシュールだ。
「………そんなに、なんですか?」
「え? 私?」
おずおずと雛里が確認を要求した相手は、白蓮。……俺や桃香の主観は信用出来ないのか、軽くショックだ。
白蓮はしばらく考え込んでから…………
「………本当に凄かったよ。そういう観点で見れば、人気取り自体を目的にしてる分、桃香や北郷よりもあいつらの方が上かも知れない」
と、チラッとこっちを見ながら言った。……あの言い方だと、“かも知れない”はリップサービスだろう。
天の御遣いって虚名を使ってたり、都市によっては地獄の使者とか言われてたりで求心力って言葉が今一つ当て嵌まらない俺はともかくとして……桃香以上か。どうやら俺の持ってるライブのイメージは、この世界でも再現されてるらしい。
「……なるほど。しかし、元より曹操の自滅を待つような消極策を取る気はないのでしょう。問題は魏軍が増大した原因よりも、強くなった今の魏軍をどうするか、という事です」
稟も、白蓮が言うと疑問を持ちつつも納得した。……でも、原因がどうでも良いって事はないと思う。
相手が強くなった原因が解れば、こっちもそれに合わせた対策が取れるかもだし。
「それは良いあいであかも知れませんねー」
そんな俺の心をナチュラルに読んで、風が賛同してくれる。もうこれくらいじゃ今の俺は驚かない。
「あっちが人気取りをするなら、こっちもそれに対抗すれば良いのです!」
「む?」
アメをくわえたままの風が、ズビシッ! と星を指差した。なにゆえ?
「あちらが『数え役満☆しすたぁず』ならば、こちらは翠ちゃん、たんぽぽちゃん、そして最近たんぽぽちゃんの義姉に納まった星ちゃんを加えて、『西涼馬乗り☆しすたぁず』を結成するというのはどうでしょう?」
「………ふむ」
また突飛な事を言い出した。たんぽぽはともかく、翠がそんな柄かと。そして星はと言うと……少し黙った後、俺を横目で見てきた。何?
「せっかくだが、私は遠慮させてもらおう。武人として、有象無象の男に媚を売るような振る舞いをする気にはなれん。もっとも―――」
……そこで何故、俺を見ながら意地悪そうに笑うのでしょうか。
「親愛なる主が嫉妬に狂った姿を見られるのならば、それもまた一興だが……如何ですかな、北郷一刀殿?」
そう来たか。稟とか桃香とか雛里とか協君とか風とか白蓮とか……要するに全員の白い視線がプスプスと刺さる。
俺が何をしたと? 星は星で面白そうな顔してからに。こういう時は…………話題を逸らそう。
「でも西涼三姉妹で行くんならさ、むしろ星より散の方がしっくり来ない?」
「来ませんよ、馬鹿ですか」
間髪入れず真後ろから否定が………って。
「うおぉ!?」
「若い子に混じって年増が踊るわけないじゃないですか。ナメてるのかな、と」
振り向けば、棺から生えた散がいる。
「それはともかく、最近出過ぎなのでそろそろ退散しようかな、と。ちなみに他の皆は、演習終わってお風呂なようで」
それだけ言い残して、散は棺に戻っていった。そして瞬き一つした後にはもう棺は消えている。
………どんな手品だ。
「何をしに来たのだ? あやつは」
「……俺が訊きたいよ」
そもそも何であいつだけ風呂にも入らずにこっち来てんだか。……でも雰囲気がいつもの三倍刺々しかったし、ホントにやりたくないんだろうな。あいつなら余裕でサバ読めると思うんだけど……まあ、キャラじゃないか。
「貴様ら、馬鹿話はそのくらいにしておけ。朕とて歌や踊りに詳しいわけではないが、思いつきで人を魅せられるほど易い事ではなかろう」
「「はーい……」」
協君に叱られた。元々大して本気でも無かったのか、風も俺と一緒に即座に謝る。
今まで会話のノリについて来れなかった雛里が、このタイミングで咳払いをした。
「……いずれにしても、わたし達も先の戦いで大きな犠牲を払ってしまいました。敵に隙があるのなら、そこを突いて迎え撃つ事は可能だと思いますが、こちらから討って出るのはあまりに危険です」
……要するに、守りに回った魏を倒すのは厳しいって事か。でも―――
「それって、曹操の方から攻めて来る事はないって事?」
「星ちゃんが死ぬほど暴れましたからねー。曹操さんも、自軍の内情を知られた事には気付いているはずなのですよ」
俺の疑問に風が応えてくれる。確かに、華琳が攻めるつもりなら一月も間を開けたりはしないかも。
「先の大戦は、一見すると魏軍の圧倒的な優勢に見えますが……その実、曹魏にとっても博打に近いものだったのでしょう。この上、外れると判っている塞を振るとは思えません」
さらに稟。俺は話について行くのがやっとで、ただ頷くしかない。
「こちらから討って出られない理由はもう一つある。先の戦いで敗れた一因がそれだ」
流石に星は理解出来てるらしい。ので、必然的に生徒は俺と桃香、白蓮、そして協君になる。
俺たちが討って出られない、理由………。
「………曹操と向き合った時、背中ががら空きになるって事?」
「よく出来ましたー」
風が俺の回答にパチパチと拍手をくれるけど、何だか褒められてる気がしないような……。ま、いっか。
「今はまだ我々も、曹魏も、決戦に向かう準備が足りません。来るべきその日に向けて我らが採るべきは……力を蓄え、そして後顧の憂いを除く事。つまり先に獲るのは――――」
稟が机の上に地図を広げる。それを皆が、取り囲むように覗き込む中で――――
「―――天然の要害、蜀」
大陸の南西を、細い指が差した。