「しょっ、と………」
両膝に二人の頭を乗っけてたから、丸一時間くらい立つ事も出来なかった。
散歩中のセキトを寝呆けた恋が抱き枕にしなかったら、下手すりゃ一晩中あのままだったかも知れん。
恋はその場で丸まっちゃったし、動物たちが天然の布団になってくれてたから安心………というより、寝てる恋を無理に起こすと俺の命が危ない。
仕方ないので、桃香だけでも客室の寝台までお姫様抱っこで運び、そのまま横にした。
「………………」
酒が入ったからだろうか、桜色に火照った肌とか、寝息の零れる唇とか、やけに色っぽく見える。
「………酒、弱かったんだな」
別にそれほど意外でもなかったけど、何となくそう思う。寝顔をよく見たくなって、前髪にそっと触れ………
(ぴくっ)
……たら、桃香の目蓋が少し動いた。ヤバい、起こしたかも。
「スー……スー……スー……」
杞憂だった。桃香は変わらず一定の間隔で寝息を漏らす。……いや、これは。
「………………」
桃香の眼は開かない。眠りから覚めない。僅かにあごを上向けた体勢は、どこかキスをせがんでいるようにも見えた。
………なるほどね。
「………そんな風に無防備にしてると……悪戯するぞ?」
また、今度は桃香の肩がぴくっと揺れる。みるみる内にトマトに変わっていく桃香の顔に、俺は詰め寄って………
「ひゃん!?」
人差し指で頬っぺたをつついた。眠りを邪魔されたというにはオーバーなリアクションで桃香は飛び起きて………寝台から落ちる寸前で俺にキャッチされる。
……こないだの俺、こんな感じだったのか。
「随分と早いお目覚めですね、お姫様?」
「うぅ〜……いじわる」
おどけて笑い掛ける俺を、寝たフリ桃香は恨めしげに、上目遣いに睨んでくるけども、全く怖くない。むしろ可愛い。
寝たフリしてた動機を考えると、なおさらに。
「いつから起きてたの?」
「………べっどに下ろされたあたり」
下を向いて俯いたまま、可哀想なくらい赤くなる桃香。……さすがに罪悪感が湧いて来た。
「少し夜風に当たろうか」
まだ眠りたくない気分だった。俺は桃香の手を引いて、もう一度庭に出る。
「ふー、気持ちいいねー♪」
庭に出る頃には、桃香は羞恥心から復活していた。伸びをするように両手を上げて、軽やかにクルクルと跳ねる。
「また酔いが回るよ?」
「そしたら一刀さんに運んでもらうから平気だもーん♪」
……いや、そもそも最初から酔いが抜けてないのかも。
「はれ……?」
覚束ない足取りで、フラりと桃香はよろける。もう………
「ほら」
「ふぁ……」
こうなるのは予想の範疇だ。真後ろから肩を抱いて、そのまま支えた桃香ごと腰を下ろす。
後で「あたまいたいー……」って言いだすのは眼に見えてるんだから、少しおとなしくしててもらう。
それに、今日はそもそも月見酒にぴったりの綺麗な夜なんだし、二人でこの静けさを楽しみたい。
「あったかい……」
「…………………」
桃香は、されるままに体を預けた。嬉しそうに俺の胸に頬を寄せる。
「……桃香は甘えんぼだね」
「一刀さんはこういう女の子、嫌い……?」
「ううん、嬉しい」
安らかに身を任せて、不安に瞳を揺らして、甘えるように眼を閉じる。桃香の表情は、コロコロとよく変わる。
「楽しいね……」
「……うん」
噛み締めるように、同意を求めるように、桃香は呟く。
「こんな時間が……ずっと続けばいいのにね……」
その幸せが、心の底からのものだからこそ――――その声色に、切なさが過る。
「そうする事が出来たら、いいのにね……」
「………………」
言葉にしなかった桃香の悔しさが、痛いほどに伝わってくる。
キツく、でも弱く俺の服を握り締める小さな手が、力無く震えていた。
「桃香………」
反北郷連合、袁紹と、そして華琳との戦い。……一緒に黄巾賊と戦っていた義勇軍の時とは違う。あれから……桃香は何度も残酷な現実と向き合って来たはずだ。
―――そして、傷つき、敗れて……ここにいる。
「曹操さんとも……本当は戦いたくなんてなかった。辛くて、悲しくて、情けなくて……それでも……戦ったの」
いつも、眩しいほどの笑顔を見せてくれる桃香。彼女を信じる皆に、勇気と元気を与えてくれる桃香。―――いつだって、皆の光であらねばならない桃香。
「でも……ダメだったの。わた、し……なにもっ、守れなかった……!」
そんな…強くて、誰よりも優しい桃香が、自分の弱さを曝け出している。
「わたし……間違ってたの……? 力が無いと、何一つ変えられないの……?」
桃香にとって……俺だけにしか、見せる事の出来ない弱さ。俺だけにしか受け止められない、桃香の痛み。
その事実に気付いた。
「桃香………!」
力いっぱい、腕の中の桃香を抱き締める。どうしようもなく、この女の子を守りたいと思った。
でも…………
「どうしていれば、良かったの……」
今の桃香は、見知らぬ土地で道に迷った子供と同じだ。求めているのは、慰めでも優しさでも無く……進むべき解。
でも、俺には………
「………応えられない」
俺の解を桃香に押しつけても意味が無い。何より……桃香の理想は高過ぎる。叶える方法なんて考えつかない。
そして――――
『どんな理想でも、叶えるためには力が要るんだよ。“こうなればいいな”って思うだけなら子供にだって出来る』
桃香に“壁の存在”を突き付けたのは、他でもない俺だ。
それでも俺に出来る事は……ただ、本音で向き合う事しかない。
「一刀さんも、戦うの………?」
「………うん、戦う」
俺の応えを予想していたのだろう。桃香は俯いたまま、消え入りそうに訊いてきた。予想していても、辛いものは辛いはずだ。期待を裏切られた瞬間に、僅かに爪を立てられる。
「覚悟は決めた、はずだったのにね………」
未練がましい自分を笑う。まるで脱け殻のような一言だった。
「桃香」
俺はそれ以上続けさせない。まだ、本当に伝えたい事を伝えていない。
俺の胸に顔を埋めて表情を隠す桃香を、少し強引に引き剥がす。イヤイヤをして往生際悪く顔を見せたがらない桃香の両肩に手を置いて………
「桃香」
「っ………」
もう一度。小さく……でも、より一層心を込めて呼んだ。
漸く、桃香と眼が合う。涙を溢れさせて泣き腫らしたその表情を、俺は脳裏に強く焼き付ける。
この涙を……涙の意味を、決して忘れないために。
そして………ゆっくりと口を開く。
「俺は……自分が絶対に正しいなんて思った事はない。桃香と同じだよ。いつも迷ってばかりだし、後悔する事もたくさんある」
………守れなかった人もいる。
「『俺は万能じゃない』、『全ての人を救う事なんて出来ない』……そう考えて行動してたくせに、失った後になって考えるんだ。『あの時ああしていれば、救う事が出来たんじゃないのか』って」
俺の言葉に従って、桃香が自分の理想を捨てる。……それはきっと、間違ってると思うから。
「俺だって間違ってるかも知れない。諦めてしまってるのかも知れない。……だからその時は、桃香が俺を叱って欲しい」
前の世界で愛紗に言った言葉。それを今、桃香に告げる。
「俺に出来ない事も、桃香になら出来るかも知れない。桃香に出来ない事を、俺が出来る事もあるかも知れない」
無責任かも知れない。割り切ろうとしていた桃香に、さらなる苦悩を背負わせる事になるかも知れない。
それでも――――
「桃香が俺を信じてくれたように、俺も桃香を信じたい」
これが、俺の偽りの無い本心だったから。
「………………」
長いような短いような静寂。俺はただ、見開かれた海色の瞳をじっと見つめていた。
「一刀さん………」
その瞳が、柔らかく細められる。そこに、さっきまでの悲痛な感情は見て取れない。
桃香が俺の胸に飛び込んで来る。でも今度は、泣き顔を隠すためじゃない。
「わたし、頑張るから………」
「………うん、頑張ろう」
俺は桃香の、桃香は俺の、足りない何かになるために。
―――強くなる事が出来るのだろうか。
「………………」
まるで比翼の鳥のように抱き合う二人の姿を見るでもなく、動物に埋もれた紅の少女は目蓋を開いていた。
「(………一刀)」
嫉妬はある。羨望もある。欲求も不満もたくさんある。それでも少女は、「……邪魔はしない」と自らを律していた。
しかし、二人の会話は少女の予想を越えて深く、重いものへと変わっていった。
そして、桃香を羨む以上に、改めて思い知る事になる。
「(………偉い)」
昔のままで、少女………恋が惹かれた姿のままで、一刀はそこに立っていた。
「(……好き)」
理屈も言葉遊びも恋は興味を持たない。ただ自身の想いを強く抱き締める。
「(………後で、布団に潜り込む)」
贔屓をきっちりと根に持ちつつ、恋は浅く短い眠りに向かった。