「美味しかったねー♪」
「だろ?」
暖かい木漏れ日の差し込む森の中で、俺と桃香は食べ終えた弁当箱を包み直しながら満足感に満ちた溜め息を零す(俺のは月賦、とかいうツッコミは無しの方向で)。
いざデート、と決めた俺と桃香だったけど、突発的な思いつきなだけに完全なノープランだった。
とはいえ、そんなのは大した問題じゃない。黄巾の乱の最中に出会って、反北郷連合とかで長く離ればなれだった俺と桃香は、こんな風に二人で『日常』を過ごした事は一度もなかった。
だから、桃香と一緒ならそれだけで嬉しいし、楽しい。それを直接伝えたら、桃香は非常に嬉しそうに賛成してくれた。
………ので、二人でのんびり出来そうな森の中をデートスポットに決めて、さあお弁当でも持って繰り出そうかと食堂に向かって………舞无と風に出会った。
正直、舞无が泣いて逃げ出したり、逆に強烈なアッパーカットくらいは貰う覚悟を決めたんだけど、実際にはそんな事はなかった。
騒ぎだす直前の舞无に風が何事か耳打ちしたかと思えば、何故か背後に炎を燃やした舞无は「ちょっと待っていろ」と言い残してから、二人分の弁当をマッハで作成してくれた。
桃香に弁当箱を渡した時の「フフン」と妙に勝ち誇ったような顔が気になるけど……風のヤツ一体何言ったんだ。
「でも意外ー、華雄さんって武芸一筋っていめーじだったけど、こんなにお料理上手だったんだ」
「元々は素人だったみたいだけど、この一年で急激に伸びたんだよ」
正直、俺もビックリした。舞无のヤツ、またレベルアップしてやがる。
「……………わたしも練習しよっと」
「ん? 何?」
「う…ううん! 何でもないよ!」
何か小さく呟いた桃香は、誤魔化すようにパタパタと両手を振る。……何だろ、気になる。
答えを催促するサインとしてジ~~っと視線を送ってみたけど………
「ね! 遊ぼ!」
無駄でした。誤魔化しの駄目押しに、桃香は俺から背を向けて軽やかに駆け出す。
「(ま、いっか……)」
本当に楽しそうにスキップしている桃香を見ていると、ちょっとした疑問なんて気にならなくなる。
「んしょっ」
膝上(むしろ太股?)まである長いブーツを無造作に脱ぎ捨てて、桃香はピョンと小川に足を踏み入れた。
露になった白い生足にドキドキしつつ、俺も水辺に駆け寄る。
「(まるで子供だ)」
無邪気にはしゃぐ姿にそんな感想を抱きつつ、同じ姿に別の想いも重ねた。
陽光を浴びて清らかな水に立つ、穢れ一つ知らないような清廉な女の子。明るくて、優しくて、強い………ひまわりみたいな桃香。
「(眩しいな……)」
可愛いとか、綺麗だとか、そういう印象も受けたけど、やっぱりこの言葉が一番相応しい気がする。
「一刀さんも早くー、冷たくて気持ちいいよー!」
「今行くってば」
桃香に倣って、俺も靴を脱いで小川に入る。桃香と違ってズボンが濡れるけどまあいいや。
初めて川遊びをするみたいにテンションの高い大きな子供に苦笑しつつ、俺も川の水を掻き分け進む。
「もう春だって言っても、水に濡れたら冷えるからな。転ばないように………」
「えぃや♪」
若干愛紗の気持ちになりつつ小言を並べようとした俺の顔面を、早速冷たい水が打った。
ほー……そうかそうか。そういう趣向か、桃香。
「あははっ♪ 水も滴る佳い男だね、一刀さん♪」
「面白ぇ、俺の川遊び経験値を舐めるなよ桃香!」
などと強気なセリフを言ってみた俺に、桃香は情け無用の水飛沫をお見舞いしてくれる。
「やったな!」
「捕まらないもーん!」
とはいえ、ホントに桃香をずぶ濡れにするわけにもいかない。挑発みたく水を掛けてくる桃香と迫り来る俺の、戯れるような追いかけっこが開始された。
「おっ……っと……!?」
「鬼さんこちら♪ 手の鳴る方へ♪」
桃香は意外なすばしっこさで逃げ回る。しかし、いくら俺でもおっちょこちょいの桃香に負けるわけにはいかん。
普段星とか霞とかに手玉に取られてる鬱憤を今ここで晴らす!
「うりゃあ!」
「なんの!」
一気に波を立てて詰め寄る俺。……けど、それがいけなかった。
桃香は、急接近した俺から慌てて逃げようとして―――
「え……きゃ!」
水中で何かに足を取られ、後ろ向きに倒れそうになる。その光景を、俺の眼がスローモーションに捉えていた。
「っとぉ!」
次の瞬間。俺は自分でも軽くビックリするほどの瞬発力を発揮し、小川にひっくり返る寸前だった桃香の体を、腰に手を回すようにして抱き留めていた。
「だから気を付けろ……って……」
……が、状況は別の意味でマズい事になっていた。互いの息が掛かるほど近くにある桃香の顔が、俺の眼しか見ていない桃香の瞳が、緊張事態で麻痺してた俺の脳に警鐘を鳴らす。
今、俺は……桃香を、思いっきり抱き締めていた。
「…………………」
「…………………」
桃香は何も言わない。俺も、金縛りにあったように動けない。一瞬とも永遠ともつかない沈黙を経て――――
「一刀、さん………」
桃香は俺の首に両手を回し、祈るように両の瞳を閉じる。
「桃香………」
何を求められているか、それが解らないほど鈍くもないし、何より俺自身がそれを望んでいた。
「………………好きだ」
躊躇う理由は何もない。俺は腕の中の桃香を強く抱き寄せ……その唇に自分の唇を重ねた。
「大丈夫?」
「うん。まだちょっと辛いけど……嬉しいから」
樹木に背を預ける少年、に、隣から体を預けるように寄り添う少女。
気遣う以外に為す術の無い犯人に、桃香は強がりではない笑顔を向けた。平気というわけではないが、その笑顔は余裕や虚勢とは別の感情から来るものだったのだから。
「何だか……夢みたいだ」
一刀はまだ青い空を仰いで、感慨深げに声を漏らす。
これまで……一刀と桃香の間には様々な紆余曲折があった。愛紗や鈴々、朱里の主君として現れた桃香に、一刀も当初は複雑な感情を抱かざるを得なかった。共に黄巾党と戦う流軍の日々で想いの萌芽が芽生え、しかし再会した二人は群雄割拠の幕開けの前に引き裂かれた。
二人がそれぞれの死線を越え、長い旅路の果てにこうして寄り添っていられる事が……一刀には夢のような奇跡に思えたのだ。
「夢なんかじゃないよ。……ホントは、ずーっと前からこうして居たかった」
桃香は幸せそうにそう零した後、一転して膨れっ面を一刀に向けて拗ねてみせる。
「一刀さん、わたしの事どう思ってるか言ってくれなかったし」
「え?」
本気で解らない。そんな一刀の態度に、ますます桃香はお冠になる。
「きすしたのもわたしからだったし……ずっと不安だったんだよ?」
「あー……でも、あの時は桃香が不意打ちして逃げたんじゃ……」
「う……だって……恥ずかしかったんだもん。それに……応えを聞くのが少し……怖かった」
拗ねていたはずの桃香が思わぬ逆撃を受けて言い淀む。……が、その恥じらう姿が堪らなく愛らしく、一刀はその肩を抱き寄せた。
それだけで、桃香の心を覆う殻がパラパラと剥がれ落ちていく。剥き出しの心を曝すのが少し怖くなって、桃香は体を反転させ、一刀の胸に額を押しつける事で顔を隠した。
「お別れして……連合で戦って……ずっと離ればなれで……一刀さんがわたしの事をどう思ってるのか……ずっと不安だった……」
「………うん」
一刀もその表情を見ようとはしない。震える少女を抱き締めて、柔らかな髪に顔を埋めて、優しく背中を撫で続ける。
「……天界語も、いっぱい勉強したの。……そうしてると、少しでも近付けるみたいな気がして……いっぱい元気が出て……」
「………うん」
一刀はただ、受け止める。こんなにも自分の事を思ってくれる少女の告白を、大切に胸に刻む。
「あんな無茶な事して……一ヶ月もちゃんと話せなくて……一刀さんの、ばか」
「ごめん」
桃香の事を心配していたのは一刀も同じ。忙しかったのもお互い様。それでも一刀は謝罪する。
男が女の子を泣かせたら、どんな理由があっても謝らなければならないのだ。
「……大好き」
「うん……」
張り詰めていたものが解けていく。暖かな睦事と互いの温もりを感じながら、二人はいつしか微睡みの中に沈んでいった。
「…………………」
日輪が傾き、朱色が世界を染める中で、二人の少女が一つの光景を眺めている。
「どうやら邪魔立ては叶わなかったようだな、姉馬鹿殿?」
「………最初から、邪魔立てするなどと言ったつもりはないぞ」
「ふっ、よく言う」
一人は透き通るような水色の髪を、一人は流れるような黒い髪を持つ少女。二人が見据える先には、一組の男女。
「私は……桃香さまがかどわかされはしないかと………」
「心にも無い事を。固さも悋気も大いに結構だが……少しはそれを表に出さねば武器にならんぞ?」
「………何が言いたい」
「目ざといのはお互い様、という事さ」
「意味がわからん」
「少しは自分で考えろ。己自身の気持ちだろう」
二人は男女に声を掛けない。そこに映る一枚の絵画を崩そうとしない。
「黄昏時まで少し間があるな。どうだ? 一杯付き合うか」
「付き合わん!」
共に在る至福を讃えて寄り添い眠る恋人たちを邪魔する事など、二人には出来るはずもなかった。