「何ぃ! 今日は北郷殿が休みだと!?」
立ち上がって机をバンッ! と叩く愛紗の魔の手から、星はまだ中身の残っている皿を素早く持ち上げて救う。
「大声で喚くな。致し方ないとはいえ、主もここ最近は働き詰めだったのだ。たまの休みくらいで何を騒ぐ。……食事くらい落ち着いて摂れんのか」
「別にそれに反応したわけじゃない! ああ……それで朝からあんなに…迂闊だった…ただ休日を楽しみにされているとばかり……」
星の醒めた対応も、周囲の「何事か」という視線も耳に入らず、愛紗は何やらブツブツと一人で呟いている。星は「やれやれ、昼食くらいもっと味わって食えんのか」という顔で肩を竦める。
「そういえば今日は桃香殿も休みだったかな? なるほど、今頃二人は旧交を暖めている……というわけか」
その言葉に、愛紗は思考の海から引き戻された。呑気に茶を啜っている星を敵意も露に睨み付ける。
「この際だからはっきり訊こう。おぬしは……いや、おぬしに限らず、この陣営の臣らは北郷殿をどう想って接している」
唾を飲み込み改まって質問する愛紗とは対称的に、星は面白そうに片方の眉を上げるだけだ。わざわざ一度立ち上がり、愛紗の肩に手を掛けて座り直させる。
「男女の機微には疎いかと思っていたが、存外に鋭いではないか。……いや、目ざといというべきか?」
「質問に応えろ」
「その前に料理を食べろ。せっかくの逸品が冷めてしまうではないか」
今一つ会話の運びが噛み合わない星に苛立ちを覚えつつ、愛紗は餃子を一つ口に運んだ。
「どうだ? 中々に美味だろう」
そして、非常にイイ笑顔で訊ねる星に構わず、これで満足かと言わんばかりに詰め寄るのだ。
「そんな事より、私の質問にはっきりと応えろ」
そんな愛紗の態度に、星は少し詰まらなそうに眼を伏せたが……すぐに余裕を取り戻して薄笑いを浮かべる。
「ならば、じわじわと勿体ぶって応えてやるとしようか、あやつの愛人として」
「いきなり応えているではないか!」
「おや? これは失敗」
星はわざとらしくおどけて見せる……が、愛紗はそれに怒る余裕すらない。みっともなく取り乱し、星の首根っこを掴んでガクガクと揺さ振る始末だ。
「あ、愛人という事は……つまり北郷殿は誰か正室を娶り、あまつさえおぬしを側室に迎えたと……そういう事か!!?」
「いや、そういうわけではないのだが……“愛人”という言葉の持つ、この何とも言えぬ背徳の響きが実に佳い。うむ!」
「何が『うむ!』だこの変態女ぁ!!」
今にも青龍刀を抜きそうなほど熱くなっている愛紗に首を揺らされても星は動じず、むしろ愉快そうに高笑いまで上げ始めた。
その姿に気勢を削がれた愛紗は、へなへなと脱力して椅子に座り込む。
「ほれ、水だ。……にしてもおぬし、そういつも鼻息荒くしていて疲れんか?」
「お前がからかうような事ばかり言うからだ」
「失敬な。私はいつでも到って真面目!」
漸くまともに対応してものらりくらりと躱されるだけと悟ったのか、それとも単に疲れただけか、愛紗は差し出された水を力なく受け取る。
一息に器の半分ほど水を飲んだ愛紗は、悪い意味で落ち着いた瞳で水面を見つめながら、零す。
「……お前ほどの武人が、忠誠に不純な動機を混ぜたのか」
「相変わらず頭が固いな、お前は。戦う理由は多ければ多いほど良いではないか。愛する男と敬愛する主君が同じになれば、主命に命を賭ける事が悦びとなる」
しかし、それに連れて星の眼の色と声音に、どこか真剣なものが混ざっていく。
「……その相手が、別の女にうつつを抜かしていても、か」
その空気を、愛紗も鋭敏に察知する。対処も理解も出来ない陰鬱な悩みが、ただの一言に重く含まれていた。
「私は私。桃香殿は桃香殿。交わす想いも重ねる時間も別のものよ。それをすり替えるほど愚かではないさ。……それに、これはこれで悪くはないぞ? 常に競う相手が犇めいているゆえ、己の女を磨く気概には事欠かぬからな」
「……………………」
軽く、しかし自信に満ちた星に……愛紗は何も応えない。軽薄とさえ取れる星の姿勢が少し……羨ましいと感じる己の感情を決して認めず、それに主君にして義姉たる桃香を当てはめる事はさらに忌避する。
後ろ向きに一直線な愛紗に溜め息を一つ零して、星は言葉を続けた。
「やれやれ……姉馬鹿殿も結構だが、行き過ぎるとただの無粋だぞ? 独りよがりの過保護が空回り、結果的に桃香殿を傷つける事になる」
「………独りよがりだと?」
「桃香殿は主の在り様などとうの昔に解しておるよ。そんな事は百も承知で健気に咲き誇る花一輪、これを邪魔するのを無粋と言わず何と言う?」
「…………………」
さらに愛紗は押し黙る。愛紗が星に口で勝てるはずがない、という性格的な問題以前に、そもそも当事者である桃香の行動が星の弁舌を肯定しているため勝ち目など初めから無いのだ。
愛紗も理屈では解っているのだ。自分の行為が桃香の望みと相反している事を。……しかし、心は納得してくれない。もどかしさにも似た痛みが愛紗の胸を掻き毟る。
そんな愛紗に、星は微かに笑い掛ける。
「とはいえ、気になるというのも解らんでもない。いつかのように我々二人で主らを見張ってみるか?」
いつもの愛紗なら、「職務中に何をふざけた事を」と一蹴している場面だろう。しかし今回ばかりは事情が違う。
「そうと決まれば話は早い。今すぐにでも二人の足跡を………」
愛紗は水を得た魚のように立ち上がった。その行動に、今まで余裕を見せていた星は眉を潜め、間髪入れずに諫める。
「だから待てと言うに、まだ料理が残っておるだろうが」
「この期に及んで何を悠長な。店主、馳走になった。味は悪くなかったぞ」
今度は星の制止に耳を貸さずに勘定を済ませようと愛紗は店主に声を掛ける。
その愛紗の前で、店主は―――何も言わずに焼売の皿を差し出した。
「…………え?」
勘定を済ませようとしていたはずなのに、何故か差し出される追加の料理。状況が飲み込めず戸惑う愛紗を置き去りに、星と店主は全く同時に親指をビシィッ! と立てた。
「この趙子龍、店主が遥々洛陽からついて来てくれた事を心から嬉しく思うぞ」
「趙将軍なくして我が店の存続もありません。地獄の果てまで御供させて頂きやすぜ!」
「うむ、良く言った! 共にこの道の極みまで辿り着こうぞ!」
「????」
近寄り難い……否、近寄りたくない熱を漲らせる星と店主に疑問符を多量に浮かべつつ、愛紗は気圧されるように一歩………
「待てぃ!」
「わぁっ!?」
後退ろうとして、白蛇の如く伸びた星の腕に捕まった。ここが運命の分かれ目と、愛紗は後に知る事になる。
「関雲長殿? 店主が丹精込めて作った逸品を、よもや残して去るつもりではあるまいな」
シャキシャキコリコリとした歯応えを持った、美味しい餃子に焼売、炒飯、ラーメン。そう思っていた。
「いくら将軍様とはいえ、そいつは許せねぇ。しっかり完食してっておくんなせぇ!」
ラーメンを食べていたのは星だった。やや引きつつもそれは他人事だからと放置した。しかし改めてみると……全ての料理がどこか茶色に見えた。
「そもそもメンマとは、一流のメンマ職人が自らの足で樹海の奥地へと足を運び、その慧眼によって選りすぐりの筍を見いだし、それを絶妙な味付けの下に昇華させた代物! 一時の激情に任せてそれを無碍に扱うなどとはあまりに不遜な行い!」
「そうだ! メンマに謝って下せぇ!」
「謝れ! メンマの神様に!」
全ての料理にふんだんにメンマを盛り込むここは……都から遥々移店を遂げて復活した、メンマ好きの、メンマ好きのための、メンマ好きを広げるメンマ専門飯店・『メンマ園』。
この後、事前に星から呼び出しを受けていた恋、鈴々、猪々子、斗詩、白蓮が加わり……愛紗が店を出る頃には、既にその瞳から光が失われつつあったという。
「演習場でしか歌えないってどーいう事よ!」
ちぃ姉さんが怒る気持ちも解るけど、私に怒鳴られても困る。
「今後は募兵活動は中止して、魏軍の士気を向上させるために歌え。それが曹操の考えよ」
私は単に、命令をそのまま伝えてるだけなんだから。
「せっかく公演出来るようになったと思ってたのに……悔しいなぁ」
滅多に笑顔を崩さない天和姉さんでさえ、はっきりと肩を落としてる。
捕虜の身に自由は利かない。私たちは曹操に生かされている。生き方を選べない。
ずっと籠の鳥で、漸く大勢の前で歌う事が出来た時はまだ良かった。利用されていても、歌う事が出来たんだから。
「(………でも)」
私たちの歌は、人を惹き付けるためじゃなく、殺し合いに向かわせるためのものになってしまった。
今はまだいい。歌う場所を選べなくても、歌そのものを汚されても、生きてさえいればやり直せる。
………でも、いつかは? 戦乱が終わり、曹操が天下を握って……私たちに利用価値が無くなったら?
「…………………」
未来が暗くて、何も見えない。歌が好き、ただそれだけで生きる力を持てた頃が懐かしい。
「(私は……私たちの夢を捨てられない)」
――――籠の鳥は啼き続ける。いつか大空に飛び立つ日を夢見て。