無駄に広く造られた玉座の間、趣味の悪い装飾に彩られたその場所で、癇癪気味な怒声が響く。
「百歩譲って張遼どもに遅れを取った事は目を瞑ろう……だが! 撤退を始めた敵軍に追撃も掛けず見送るとはどういう事だ! 背後から突き崩して攻め登れば漢中を落とす程度の戦果は挙げられたのではないか!? 申し開きがあれば言ってみろ!!」
蜀の中枢たる成都。そして眼下の三人に叱責を飛ばしているのは……蜀の王・劉障。
「(戦も知らん小僧が、知った風な口を利く)」
三人の一人、長く柔らかな銀髪の妙齢の美女・厳顔は心中でうんざりとぼやいた。
「(あれほど戦慣れした連中が、馬鹿正直に背中を見せるわけがなかろうが)」
先の戦い……漢中へと攻め上った厳顔らは、援軍として現れた精鋭と矛を交えた。張衛率いる漢中軍相手に優勢に戦を運んだ蜀軍だったが、その援軍の力を前に形勢をひっくり返された。
分が悪いと判断するや、厳顔らは軍を後退。蜀の地形を活かした戦法に切り替えるために敵を誘きだした。そこから戦の主導権を取り戻そうか、という段になって………北郷十文字軍は唐突に全軍を退き、厳顔らはそれを見送ったのだ。
「(むしろ、あのまま向かって来てくれた方がまだ戦り易かったわ)」
その咎を、彼女らは今、主君から受けている。
「敵の撤退は罠だと判断した。無駄な被害を抑えるために深追いは避けたまでだ。別に敵に臆したわけではない」
劉障の顔も見ずに明後日の方を見ながら、一部のみに白を持つ癖のある黒髪の少女……魏延は、面倒そうな仕草を隠そうともせずに返した。
「(焔耶の奴、よく言う)」
そんな魏延……焔耶を横目に見て、厳顔は劉障に見えないように苦笑する。戦場で誰より追撃を促していたのは、他でもない焔耶なのだから。
「何が無駄な犠牲じゃ! 戦に勝てぬ兵卒など何の価値も無いわ! ああどうする……力を取り戻した北郷が余に復讐を考えたら……いや、考えるに違いない。恐ろしい……考えるだけでも恐ろしい。余はどうすればいいのじゃ……」
もっとも、焔耶の言葉など劉障には届いていない。怒りに赤く染めていた顔を今度は蒼白にして、頭を抱えて蹲る。
「(貴様は最初から何もしとらんだろうが、さっさとお開きにせんか)」
そんな劉障を、厳顔は今さら矯正出来るともしてやろうとも思わない。当に見放した哀れな小僧を見下して、今夜の晩酌に思いを馳せる。
それは他の二人、焔耶ともう一人も同じはずだった。
―――しかし、そのもう一人の発言がこれまで続いてきた蜀の形に波紋を呼ぶ。
「………わたくしから一つ、提案がございます」
長くきめ細かな紫色の髪を靡かせる一児の母。姓は黄、名は忠、真名は紫苑。
前の外史に於いて、一刀の仲間として戦った女性だった。
「鎧の上からとはいえ、私の矢は確かに北郷の胸を捉えていました。……存命か否かは、判りかねます」
「そう……」
寝台の上、半身だけを起こした寝間着姿のままで、秋蘭は主に一部始終を語る。秋蘭の本心は、こんな姿で主に対したくないと思っているのだが、当の華琳が「気にするな」と言っているのだから是非もない。
「おそらく生きているでしょうね。死んで当然の窮地から抜け出した時点で、あの男は天運を得ているわ。……いえ、真に畏れるべきは魔王の右腕……趙子龍か」
特に残念そうでもなく感慨を漏らす華琳。その最後に出た名前に、秋蘭の表情が目に見えて曇った。
それを見逃す華琳ではなく、また見逃されると思う秋蘭でもない。武人としては恥に等しい吐露を、迷いなく打ち明ける。
「恐ろしい……そんな感情すら抱けませんでした。敵として目の前にいるというのに、数多の同胞が屠られているというのに……私は見惚れてしまっていた」
敵陣を駆けて殺戮の刃を振るう、恐ろしくも美しい蒼き死神。脳裏に焼き付けられたその姿を思い出して、癒えていない脇腹に痛みが走る。
もう自分は、武人として役に立たないのではないか。そんな秋蘭の不安を………
「それでも貴女は戦い抜いた。趙雲の勇猛も、私への愛には敵わなかったという事かしらね」
余裕の笑みと頬に添えられた手が、いとも容易く吹き飛ばした。
「(本当に、敵わない………)」
まったく今さらの、幾度となく繰り返した感慨をまた噛み締めて、思う。ついて来て良かったと。
「馬超というのは……確か西涼の馬騰の娘だったわね。馬騰と一緒に死んだとばかり思っていたわ」
そんな秋蘭の感慨など、華琳は意にも介さないだろう。たとえ口に出しても、「当たり前の事でしょう」と不敵に応えるのは解り切っている。
だから秋蘭も、勉めて当たり前に華琳の在り様を受け入れた“事にして”会話を続ける。
「柳葉を馬鹿にした鳳令明というのは何者かしら。聞かない名前だけど……」
「連合の時には無かった名前です。馬超と同じく西方の将か、或いは在野の士か……いずれにしろこの一年の間に北郷陣営に加わった者でしょう」
確かに、北郷軍の有能な人材は侮れない。しかし、それ以上の懸念はむしろ内側にある。
「………知られたでしょうね」
「………はい」
魏軍の兵の半数以上が、まだまだ練度の低い弱輩で構成されている事。星が単騎で大軍を突破出来た最大の要因もそこにある。
星の実力や決死の覚悟、闇雲な突撃ではなく、指揮官たる将を次々に屠って指揮系統を混乱させた作戦もその一因ではあるのだが、やはり個人の力で大局は動かない。
それが動いたのは、大局そのものが元々危うい綱の上に成り立っていたからに他ならない。
そして、それを知られた。知られたからには狙われるだろう。
「まだまだ覇道を終えるには早いみたいね。ついて来れるかしら?」
「無論です」
誰よりこの覇道を終わらせたかったのは、他でもない華琳だ。それを良く理解しているからこそ、秋蘭は淀みなく返した。
『何も感じていないのか』
そんな言葉、口にするまでもない。
洛陽を脱し、南の宛を経て、長安を目指す。
一刀や協君を慕ってついて来た民草を伴っての旅は、魏軍の追撃部隊に追われた事も相まって、かなり厳しい長旅となった。
その行軍の中に、徐州を失い行方不明になっていた桃香たちも加わっている。
「雛里ちゃん、あれから元気にしてた?」
「……うん。色々あったけど、やっぱりわたしはご主人様について来て良かったって思う」
「そっか……。後悔がないなら何よりだよ」
黄巾の乱以来の旧交を暖め直す朱里と雛里。
「結局ここでも麗羽さまの手掛かりは無しかぁ~」
「はは……まあ、心当たりがあった方がまずかったと思うけど……」
相変わらずの主君の行方不明に不満と安心をそれぞれ感じる猪々子と斗詩。
「お前、強いんだなぁ……気持ち悪いけど……」
「言うに事欠いて気持ち悪いって何よぉ! こ~んな美女を捕まえて、失礼しちゃうわ」
ここに至る道程で共に山賊を蹴散らし、他愛ない会話に騒ぐ鈴々と貂蝉。
「でも不思議だよね~、“ちきゅう”が丸くて“うちゅう”に浮かんでるんなら、反対側の人とか落ちちゃわないのかな?」
「それは所謂、万有引力の法則というやつなのですー」
「ばんゆーいんりょく?」
「勉強不足ですねー、お姉さん」
「おいお前たち……可哀相な人と思われるぞ」
義勇軍の頃から地味に仲が良かった事、共通の話題を持っている事から打ち解けている桃香と風。会話に混ざれない白蓮。
「騒ぐなセキト、長安はもうすぐだ。後少しの間くらい我慢せんか」
桃香たちの存在を無視するように恋のお友達の相手をしている協君。
そして―――――
「…………………」
一人沈黙を通し、しかしイライラソワソワと落ち着きの欠片もない愛紗。
「ご主人様が心配?」
そんな愛紗に、貂蝉が声を掛けた。
「きゃっ……!? 寄るな筋肉!!」
筋骨隆々の巨漢の接近に、愛紗は反射的に距離を取る。こんな化け物に“ご主人様”などと呼ばれている一刀に対して、また何とも言えない疑心が湧く。
「まあ、あなたの場合無理もないと思うけどねん。意志が固すぎて振り回されてる感じかしら?」
「勝手に私を解った様に語るな。馴れ馴れしいぞ貴様」
取りつく島も無い愛紗の態度にも、貂蝉は特に動じない。むしろ意味深に笑ってしなを作る。
「まあ、恋する乙女は硝子のように繊細で複雑だもの、あんまり深く訊いちゃうのも野暮ってもんよね」
「…………………」
貂蝉の戯言に、愛紗は返事もしない。しかし、頭の中では大いに反応してしまっていた。
「(恋……? 誰が、誰に? …………馬鹿馬鹿しい)」
何かを振り払うように、必要以上に口汚く否定して……自分の言葉が胸に刺さる。
不快な痛みに眉をしかめる中で、ふと……愛紗は思った。
「(恋する乙女は繊細、か…………)」
なら、と思い……何故か貂蝉に訊ねる。どうしてこの怪物に相談などしているのか、誰かに訊かずには居られないのか、本人にその自覚はない。
「繊細なら……どうして平気でいられる。どうして、笑顔でいられるのだ」
極力言葉を省いた、ともすれば独り言とも取られない言葉だが、その真意を察する事など、生粋の漢女たる貂蝉には造作もない。
「それだけ彼女が強いって事でしょ。……でも忘れちゃいけないのは、王様である前に、武人である前に、一人の女の子だって事。」
チクリと、また愛紗の胸が痛む。
「百聞より一見よん、見てごらんなさい」
促されて、愛紗は視線を巡らせる。―――いつの間にか、桃香の姿が消えていた。
「はあっ……はあっ……はあっ……」
街の影が小さく見えた時、わたしは一人で駆け出していた。
使いの人から、事前に安否は聞いてた。今のわたしの立場が非常に微妙な事もよく解ってる。
でも……居ても立ってもいられない。体が勝手に動いてた。
「(一刀さん……)」
今までカッコつけてたのに、全部台無し。どうしてわたしってこうなんだろう。
そんな反省も全部、“また今度”になっちゃう。
街が見えて、門が見えて、そこに………見間違えるはずのない人影が見えた。
息が切れて足がツリそうに痛いけど、気持ちだけが前に出る。込み上げてくる衝動が抑えられない。
疲れも痛みも全部無視して走り続けたわたしは、なのに………
「あ、う………」
あと数歩、という所まで近づいた場所で、情けなく失速した。
『構えろ、桃香!』
『今さら停戦を持ちかけるくらいなら、どうして連合に参加した?』
『最初から信じられないような相手に、どうしてそんな強引なやり方で停戦が出来ると思った?』
『どんな理想でも、叶えるためには力がいるんだよ。“こうなればいいな”って思うだけなら子供にだって出来る』
気持ちだけが先走って、何も考えてなかった。本人を目の前にして、どんな顔をすればいいのか解らない。何を言えばいいのか解らない。
「あの……その……えぇと……」
恥ずかしい。みっともない。心が、凄く脆くなっていくのが解る。やっと会えたのに、わたし何してるんだろう。
「(泣きそう……!)」
切なくて、もどかしくて、俯いてしまいそうになったわたしの全てが―――――
「(あ…………)」
柔らかく、包まれた。
「おかえり、桃香」
言葉の意味が、温かさが、どうしようもなく染み込んで来る。
「ただいま、一刀さん………」
ようやく、強く、実感出来た。
―――あなたの傍に、帰って来れたんだって。