ふと目覚めると、そこはバス停の側に良くあるような、宿屋の食堂だった。
眠っていたつもりはないし、椅子に座ったまま姿勢よく眠るなんて特技も持っていないが、それでもナルキは唐突に目覚めた。
少し身体が重いが、別段何処か怪我をしているという訳ではなさそうだし、ゆっくりと首と視線を回して現状を確認する。
この手の施設は、都市警の仕事で散々出入りしたから、おそらく間違いではない。
間違いはないはずだが、それでも違和感を覚えたので、更に辺りを見回してみて、そしてすぐに気が付いた。
宿屋の食堂というのは間違いない。
旅に疲れたと顔に書いてある人達が、大勢いるという時点で、間違いなく放浪バス絡みの施設である。
そして、かなり床面積が広くあちこちに無駄な空間を取ってあるのは、狭いバスから解き放たれた人達に、存分に開放感を味わって貰うためだと言う事も間違いない。
そして何よりも、食べ物の匂いと音に支配されている以上、ここは間違いなく食堂である。
ツェルニでもヨルテムでも、バス停の側にある宿屋というのは、よほど変なところに行かなければ、おおよそこんな感じの雰囲気を持っていた以上、結論に間違いはない。
だが、それでもここが全く知らない場所であるという事実に比べれば、些細な問題である。
そう。都市警の仕事で、散々あちらこちらの宿屋に出入りしていたはずだというのに、全く見覚えがないと言う事実の前には、どうと言う事のない慰めである。
取り敢えず、椅子に座り直しつつ深呼吸をして、心を落ち着ける事にした。
ふと気付いて窓の外を見詰めてみるが、やはりツェルニやヨルテムとは少し違った町並みを確認することしかできない。
何が有ったのだろうかと振り返ってみて、そしてもう一つの違和感に辿り着いた。
そう。都市外戦装備に損傷を受けていたはずだし、笑って済ませることが出来るレベルだったが、負傷もしていたはずだったというのに、その痕跡が全く無いのだ。
さらに、服装それ自体もかなり違っている。
別段、乙女チックな物に変わっているという訳ではないのだが、やや地味なつなぎを着ているのだ。
腰を締め付けているベルトには、きちんと錬金鋼が刺さっているし、このまま都市警へ仕事に行くことだって出来そうだ。
これは大いに驚くべき事実である。
いや。都市外で戦っていたはずだというのに、何時の間にか宿屋の中にいるという事実も、大いに問題ではある。
結論として、さっぱり訳が分からない状況に放り込まれたのだと、そう言うことになってしまう。
著しく不本意な展開であるが、何とかこの状況を切り抜けて、ツェルニに帰り着かなければならない。
そして、ここから思考が前に進まないのだ。
入都した記録がないのに存在する人間は、間違いなく犯罪者である。
都市外強制退去処分とかもあり得る。
ならば、何時ぞやの情報窃盗団のように、放浪バスへ強制乗車という手段に訴えるべきかも知れない。
「いや。それは駄目だろ」
警官を目指す身としては、出来うる限りにおいて、犯罪行為は避けて通りたい。
通りたいのだが、残念なことに他の選択肢という物を全く思いつくことが出来ない。
八方塞がりである。
溜息をつきつつ、今度は食堂にいる人達へと視線を飛ばしてみる。
ビュッフェスタイルを取っているようで、思い思いの料理を好き勝手にとって、知り合いと一緒にテーブルを囲んでいる光景と出くわした。
だが、その中で一人だけ、たった一人だけ、明らかに異質な存在がいた。
他の人の三倍は有ろうかと思われる料理を、それこそ目にも止まらない速度で片付けている銀髪の男性だ。
食べることに生き甲斐を覚えているという訳ではなさそうだ。
その食事風景は、役所で事務仕事をしている人間が、淡々と書類を作成して判を押している光景に極めてよく似ている。
無表情とは言わないが、楽しんでいるという訳でもない。
そして、その男性はおそらく武芸者だ。
鍛え抜かれたその腕には、びっしりと筋肉が付いているし、何よりも微弱ではあるが剄の波動を感じる。
この感じ方は、ナルキの感知能力が低いのか、それとも相手が最低限の剄脈だけしか動かしていないのか、そのどちらかだろう。
そして、レイフォンが普段生活している雰囲気に極めて近いから、おそらく最低限の出力に絞っている方だろうと当たりを付ける。
そして、そこで、その男性に親近感を覚えた。
いや。既視感と言った方が近いかも知れない。
銀髪を長くして、首の後ろで無造作に束ねたその姿は、一瞬ウォリアスを思い浮かべたが、彼ならば食べ物に執着することはあっても、事務的に食べるなどと言うことはない。
それ以前に、髪型が原因ではないようだと気が付いた。
顔をじっくりと観察する。
整っているのに、何処か甘い雰囲気を漂わせている顔は、ナルキも良く知る人物と共通しているような気がする。
何処で見たのだろうかと疑問に思っていると、その武芸者と視線が合ってしまった。
そして、何故か微笑まれた。
更に、全く意味不明だが、背中に冷や汗が流れるのを感じてしまった。
だが、相手から認識されてしまっている以上無視することは出来ない。
顔をじっくり見ている視線に気が付かれたのだろうし、だからこそ目があってしまったのだ。
と言う事で、取り敢えず話しかけてみることとした。
言葉を交わせば、何かが分かるかも知れないからだ。
「す、済みませんが」
「うん? もしかして僕と殺し合いたいのかい? でも駄目だよ? あと二十年みっちり修行してからなら兎も角、今の君では瞬殺してしまって楽しくないからね」
何故かとてもおかしな方向に話が進んでしまった。
敵対する意志はないし、そもそも荒事をするつもりなんてこれっぽっちもないというのに、何故この男性はいきなり殺し合うつもりなのだと思ったのだろうか、そう疑問に思う。
だが、話はここで止まらなかった。
「もしかして、僕を殺したいのかい? ならば仕方が無いから、嫌々、渋々、ほとほと困った状況だと溜息付きながら相手してあげるけれど、瞬殺するのは許してくれるよね? 十分の三秒くらい苦しいだけだから、きっと大丈夫だよね?」
「い、いや。そんな話では無いのですが」
関わってしまってはいけない人間だったと、そう理解したが既に遅い。
目の前の人物はとても爽やかな笑顔と共に、ナルキに向かって攻撃的な剄を微弱に放出してきているのだ。
攻撃的な剄を微弱に放出するなどと言う、高等技術を、ただで見られたことに感謝する心境にはなれない。
何故かと問われたのならば、目の前の危険人物は間違いなく、今のナルキよりもかなり強いからだ。
格上の人間との対戦には慣れているとは言え、それには当然限界がある。
例えば、全力状態のレイフォン相手では、どう足掻いても一秒持たないだろうという自信がある。
目の前の男性が、十分の三秒と言っているのも、あながち間違いではないと思える。
いや。実際に戦ったのならば、十分の一秒持つかどうか怪しいところだ。
それは何故かと問われたのならば、目の前の人物が誰なのか、それを理解してしまったからである。
そう。レイフォンと同じかそれ以上の実力者である。
そして、銀髪と甘いマスクをもった青年。
既視感を覚えたのは、ゴルネオ・ルッケンスにどことなく似ているからに他ならず、だとするのならば、目の前の人物は。
「サヴァリス・ルッケンスさんですか、もしかして」
「うん? そうだけれど、何処かで会ったかな? ああ。もしかして、僕を倒して天剣を我が物にって人かい? それなら軽く戦ってあげるよ? 殺さないように気をつけるけれど、もし死んでしまっても恨まないでくれるよね?」
「い、いえ。そんな話でもないんですが」
熱狂的戦闘愛好家とか、戦闘狂とか、バトルジャンキーとか、戦うことしか考えていない危険人物とかレイフォンが言っていた、サヴァリス・クォルラフィン・ルッケンスと言う事となった。
話を聞いた時には、珍しくレイフォンが冗談を言ったのだとそう思っていたが、どうやら本当の事を語っていたようだ。
何でいきなりこんな物騒な生き物と鉢合わせしてしまったのか、それが非常に疑問だが、これでここが何という都市かははっきりとした。
槍殻都市グレンダン。
人類最強の武芸者に守護された、最も安全で、最も危険な都市。
他の選択肢など存在しない。
最強の盾であり、最強の矛をグレンダンがおいそれと手放す訳がないからだ。
レイフォンは、まあ、例外中の例外というか、もはや何かの間違いで天剣になったとしか思えないから論外だ。
それは置いて置くとしても、ほんの少しだけ希望が見えてきたとも言える。
ここがグレンダンならば、レイフォンの師父であるデルクがいるはずなのだ。
迷惑だろうが、彼に仲介を頼んで穏便にツェルニに帰ることが出来るかも知れない。
そう思った直後のこと。
「君はマイアスの武芸者とは少し毛色が違うようだけれど、留学の途中か何かかい? いや。それにしては時期が全然違うね?」
「・・・・・」
全身全霊を傾けて、動揺を押さえ込んだつもりだが、それでも天剣授受者に察知されないなどとは考えない。
剄量だけではなく、その技量さえも一般武芸者とは比べることが出来ない超絶の存在だ。
心臓の鼓動一つたりとも、聞き逃してはくれないだろう。
「そう緊張することはないよ? 僕はマイアスに足止めされて退屈なだけなんだ。ここで騒動が起こってくれたら、それはそれは楽しいだろうになって、そう思っているだけなんだよ?」
「そ、そうですか」
そして、僅かな希望は打ち砕かれた。
グレンダンの守護者が、何故都市を離れているかは知らないが、ここにデルクがいないことだけは間違いない。
だが、実は希望が打ち砕かれたなどと言う生温い話ではなくなっていることに、ナルキはやっとの事で気が付いた。
そう。サヴァリスの視線に宿った凶暴性が増しているのだ。
「勘違いだったかも知れないね」
「な、何がでしょうか?」
全身から冷や汗が流れるなどと言う話を聞くが、そんな事態がこの世に存在するとは今まで思わなかった。
だが、ナルキは今その有るはずのない事実を存分に味わっているのだ。
とても喜ぶ気にはなれないが、事実としてサヴァリスの視線は間違いなくナルキを捉えているし、その凶暴性は増し続けているのだ。
「僕とみっちり一年間修行してみないかい?」
「え、えっと。私は割と急いで帰りたいんですが?」
「うん? ここに足止めされている間だけでも良いよ? 解放される時に殺し合ってくれれば、それで僕は満足だから」
「い、いえ。私は殺し合いたくないですから」
サヴァリスの口元が歪んで行くのを眺めつつ、ナルキは走馬燈を見てしまっていた。
危険を感じた脳が、今までの人生を振り返り、目の前の危機を回避する方法を探すという、その走馬燈をナルキは見ているのだ。
それはつまり、身体は目の前に死に直結する危険が迫っていると判断していると言う事で。
「僕と君の間にある、四メルトルという距離を超えて、更にこの雑踏の中、ささやいている声を正確に捉えているその活剄はなかなか凄いと思うんだよ」
「う!!」
「それを計算に入れると、もしかしたら一秒近くは粘れるかも知れないよ? 試してみたくなったよね?」
「い、いえ。全く全然これっぽっちも」
気が付かなかった。
咄嗟だったので、立って近付くことさえせずに、相手がレイフォン並の武芸者だと思ったために、思わず座ったまま声をかけてしまっていたのだ。
当然活剄で聴力を強化しているから聞こえるだろうと、そう判断したし、ナルキ自身もこの距離で相手の声を聞き分けることが出来たため、そう判断してしまったのだ。
いや。今のナルキならば、もっと遠くからのささやき声でも十分に捉えることが出来る。
それを察したからこそ、サヴァリスはナルキの潜在能力を開発して暇を潰そうと、そう考えたのだと分かった。
そう。暇つぶしに命の危険にさらされているのだ。
にこやかに笑い続けるサヴァリスが、ゆっくりと立ち上がる。
ナルキの右手が、思わず鋼鉄錬金鋼に伸びる。
万全の状態でナルキが戦ったからと言って、素手の天剣授受者に勝てるはずがないことは分かりきっている。
だが、いきなり視線の凶暴性が焼失した。
「うん? 何か事情があるようだね。ふむ? それはそれで楽しそうだ」
ナルキの手が錬金鋼に伸びていることを見ているはずのサヴァリスは、何故かいきなり笑みを深くして踵を返す。
いきなりの展開について行けないナルキだったが、小さなサヴァリスの声が聞こえてきたことで、ますます混乱が酷くなってしまった。
「僕は錬金鋼を没収されたんだけれど、君は違うようだね。少し付き合って貰うよ? 殺し合うのは何時でも出来るけれど、今はもっと楽しいことが始まりそうだからね」
拒否権は存在しない。
いや。死ぬ覚悟があるのだったら拒否できるかも知れないが、ナルキにその選択は出来ない。
殺剄を展開したまま活剄を使うという技術は、レイフォンから散々習っていた。
習っていたが、まだ習得したという段階でしかない。
たとえばの話だが、殺剄と活剄を同時に使ったレイフォンの後について行くなどと言うことは、ナルキには到底不可能な話である。
不可能な話ではあるのだが、それでもサヴァリスがゆっくりと走ってくれたお陰で、何とか遅れずについて行くことが出来た。
「ぜぇぜぇぜぇ」
それでも、一般人はおろか、ツェルニの準小隊員がやっと付いて行ける程度の速度で移動されたために、酷い息切れを起こしているのも事実だ。
剄息を乱してはいけないと、レイフォンから常々言われているのだが、そんな生温い速度で移動してくれなかったのだ。
周りの状況を確認するなどと言うことも出来ずに、今立っているのが何処かの建物、その屋上であることに気が付いたのは、だいぶ剄息が回復してきてからのことだった。
活剄で疲労を駆逐しつつ、周りを見回す余裕が出来た。
そして、違和感を覚えた。
具体的に何がおかしいとは言えないが、それでも、何かが何時もと違う。
それ以上に、何か張り詰めた空気に満たされているというか、何かほんの少しの切っ掛けで破裂してしまいそうな、そんな空気を感じ取ることが出来た。
サヴァリスという危険人物がいる、この屋上がと言う訳ではない。
この都市そのものが張り詰めていて、何時切れてしまってもおかしくない、そんな状況なのだ。
これはいくら何でもおかしい。
暴走状態のツェルニでさえ、ここまで張り詰めた空気ではなかったと思う。
それは、都市の運営をしているカリアン達が、情報を秘匿しているからかも知れないが、それでもマイアスの現状を説明することは出来ない。
都市上層部が隠しきれないほどの、非常事態がこの都市で進行しているとしか考えられないが、そんな物があることの方が信じられない。
「ふむ。思っていたよりも優秀だね。頑張れば一秒以上生きていられるかも知れないけれど、やっぱり殺し合わないよね?」
「む、無理ですから」
この人は駄目だ。
本当に戦うことしか考えていない。
だが、そんな物騒な生き物と遭遇してしまったのだし、現状でサヴァリスを振り切って逃げるなど妄想することさえ出来ない。
一般武芸者と天剣授受者の間には、想像するだけでも絶望するほどの開きがあるのだ。
だが、サヴァリスも戦うためにナルキをここに連れてきたという訳ではないようで、視線が都市の外縁部へと向けられて、あまりこちらに注意を払っていないようだ。
何にそんなに興味を引かれたのかと思い、サヴァリスの見ている方向へと視線を向ける。
「!!」
そして、理解した。
違和感の正体を、これ以上ないくらい明確に。
そして、マイアスの張り詰めた空気の原因も、否応なく理解した。
もし、ツェルニで同じ事が起こったのならば、おそらく同じように張り詰めてしまうに違いない。
汚染された大地を、無数の金属製の足で放浪し続ける都市が止まっているのだ。
そう。自律型移動都市の足が、止まっているのだ。
振動を感じることはないが、足が大地を踏みしめる音が途絶えていると言うだけで、まるで世界が死んでしまっているかのような印象を受けるほどに、目の前の光景が信じられない。
いや。都市が止まることはごく希にある。
鉱山での採掘作業などがそれだ。
ツェルニもついこの間、完全に移動を止めた時期を経験している。
だが、マイアスが採掘中だという訳ではなさそうだ。
都市外で何か作業をしているという雰囲気ではないし、そもそも、きちんとした理由があるのならばここまで張り詰めた空気にはならないはずだ。
つまりこれは、突発事態だと言う事に他ならない。
「気が付いたようだね。この都市は止まっているんだよ。ワクワクしてきただろう? 何時汚染獣に襲われるか分からないと思っただけで、僕はもう興奮のしっぱなしなんだよ。ああ。老性体とか来てくれたら、さぞ楽しいことだろうと思うと、血湧き肉躍り、魂が躍動するんだ」
「そ、そうですか」
「天剣無しで老性体と戦えるなんて、レイフォン以外ではそうそう経験できないとても楽しいイベントだからね!!」
うっとりとした視線を都市外へ飛ばしつつ、異常なハイテンションで語り続けるサヴァリス。
汚染獣が来る前に、何とか都市を再起動させる必要があるのではないかと思うのだが、全くそんな考えはないようだ。
そもそも、レイフォンが老性体と戦ったのは、他に方法がなかったからであって、断じて趣味に走った結果ではないのだ。
だが、目の前にいる天剣授受者は、何処をどう間違ったのか趣味で老性体と戦いたがっているのだ。
いや。それ以上に。
「レイフォンみたいに天剣無しで老性体と戦って、勝てるんですか?」
「うん? 当然戦えるよ。勝てるかどうかなんて関係ないじゃないか? 命を削るような戦いこそ、僕達の最も望む物だよ?」
「い、いぇ。私はきちんと勝って友達を守りたいんですが」
ツェルニを守りたいと思っているのは、間違いのない事実だが、それでも、最悪の場合は友達だけでも守りたいのだ。
その思いに嘘偽りはない。
断じて、戦いが目的ではないのだ。
「うん? 君もレイフォンと同じ種類の武芸者なんだね。・・・。おや? レイフォンを知っているのかい?」
「っう!」
完璧に動揺してしまった。
これで気が付かない人間がいたら、是非ともあってみたい。そして渾身の突っ込みを入れてみたいと思えるほどに、完璧に動揺してしまった。
レイフォンとは誰かという疑問を持たなければならなかったのかも知れないが、何しろ天剣授受者だから知っていても不思議はない。
元と付いていても、グレンダンでは有名人だったのだ。
それも理解しているサヴァリスの、視線の温度が上がった気がした。
思わず後ずさる。
だが、そんな物は全くの無意味だった。
楽しげなサヴァリスの視線が、ナルキの身体を舐め回すように動く。
セクハラ的な視線だったらまだマシだったのだが、明らかに違う。
レイフォンとナルキの共通点を探しているのに違いない。
そして、その視線がベルトに刺さったままだった錬金鋼に止まる。
そう。サイハーデンの訓練でも使っている、雄性体戦で散々使った鋼鉄錬金鋼へと、溢れる情熱と共に視線が注がれる。
「それは、間違いなく刀だね? レイフォンは武器を持ち替えたんだね。本来の刀に」
まるで夢心地だと言わんばかりに、サヴァリスの視線がうっとりとする。
咄嗟の判断に命を賭ける武芸者には、割と直感的に物事を把握するという傾向がある。
そう。問題の後に過程などが存在しないかのように、いきなり答えにたどり着いてしまうのだ。
そして、相手は人類最強武芸者であり、何よりもサヴァリスの答えは間違っていないのだ。
ある意味思い込みとも取れる答えの先は、会って間もないナルキでさえ容易に想像できてしまう。
そう。本来の技を取り戻したレイフォンと、心ゆくまで殺し合いたいとか思っているに違いない。
聞きしに勝る危険人物であることを認識したナルキだが、それでも、今の状況ではとても必要な戦力であることも事実だ。
老性体が来るかどうかは別としても、確実に汚染獣はやって来る。
ならば、戦力は多い方が良いだろうし、天剣授受者という人外の化け物ならばなおさらに有難い。
有難いのだが。
「ところで話は変わるんだけれどね?」
「な、なんでしょうか?」
逃げ腰で訪ねる。
勘を取り戻すために戦おうとか言い出されたら、ナルキに拒否権は存在しない。
そう。ナルキが死んだとしても、マイアスにとっては著しい黒字なのだから。
雄性体五体を蹴散らすためにレイフォンは走る。
もはや何度目の戦闘なのか、考えるのも面倒なほどに戦い、そして全ての汚染獣を塵芥と変えてきた。
雄性体一期が三体までだったら、ツェルニの中隊に任せることが出来るほどには、戦闘が続いている。
もはや彼らを学生武芸者だと侮ることは出来ない。
最初から侮っていた訳ではないが、今から思い返せば、中隊の組織が固まった直後の雄性体戦では、まだまだ危険な状況があったように思う。
だが、今の三個中隊には、全く危ないところは見られない。
雄性体二期一体ならば、任せきりにしても何ら問題無いほどに、戦場での経験を積んで、確実に強くなっているのが分かる。
だが、それでも、今回のように雄性体五体とかになったら、レイフォンが単独で出撃する場合もある。
二体くらい任せても良かったのだが、流石に連戦に次ぐ連戦で疲弊が目立ってきた。
そのお陰で、レイフォンはさほど疲労している訳ではないので、今回の単独出撃となった。
(いや。違うだろ)
単独出撃を強く希望したのだ。
戦っていないと、精神の均衡を取れなくなりつつある。
戦うことに快楽を見いだしているという訳ではない。
ただ、ナルキを連れ帰ることが出来なかった負い目と、そして何よりも、その事でレイフォンを責めることをしないメイシェンから逃げているだけだ。
やはりミィフィもレイフォンを責めようとしない。
ナルキが異常な状況で行方不明となったことを、きちんと捉えつつも必死に帰ってくることを願っている少女達と比べたら、戦うことしかできないなど、情けなくて自分に腹が立ってくる。
だが、それでも闘うことしかできないのが、レイフォン・アルセイフと言う生き物だ。
「本当に、どうしようもないな!!」
憤りを込めた錬金鋼を振りかぶり、最初の汚染獣を一刀のもとに両断する。
持っているのが天剣だったのならば、雄性体一期か二期が五体程度、一撃の下に瞬殺することも出来たが、今の複合錬金鋼でそれをやることは出来ない。
そのもどかしさも相俟って、レイフォンは次の汚染獣に向かって、高速で突っ込む。
二体目の複眼の間に巨大な刀を突き立て、甲殻の中で衝剄を放ち絶命させる。
天剣授受者になったことで、全てが上手く行くと思っていた時期もあった。
実際にしばらくの間は順調だった。
全てが狂ったのは、ガハルドに脅迫されたあの夜だ。
あの時にリチャードにでも相談していたのならば、レイフォンの人生は全く別な物となっただろう。
だが、もし、レイフォンがツェルニにやってこなかったのならば、どう頑張ったとしても、老性体との戦いに勝利することは出来なかったはずだ。
出会っていなかったとしても、メイシェンやミィフィ、ナルキが死んでいたことは間違いない。
ならば、ガハルドに脅され、グレンダンを追放され、ヨルテムに流れ着き、そして今、ツェルニに居ることは、とても素晴らしいことだと言えるかも知れない。
それでも、やはり、ナルキが居ないことは大きなマイナスだ。
「あの山羊のせいだ!!」
ナルキが空へと消える瞬間、確かにレイフォンは見た。
傷付いた都市外戦装備を纏った、長身の女性の背後に、黄金に耀き雄々しい角をもった、巨大な雄山羊の姿を。
あれが廃貴族だというのならば、ナルキは極限の意志を持ってしまったために連れ去られたのだと、そう言うことになってしまう。
レイフォンからすれば、笑ってしまうような下らない物のために、ナルキが連れ去られてしまった。
更に掬いがたいのは、レイフォンこそが、その極限の意志を持つ手伝いをしてしまったと言う事だ。
その身体を鍛え上げ、極限状態に陥りやすい戦場へと誘ってしまったのだ。
冗談ではない。
冗談ではないが、確かにそう言った味方も成り立ってしまう。
だからこそやりきれない。
『あまり猛り狂うのは、貴男のキャラと整合が取れなくなりますよ』
三体目を輪切りにしたところで、不意にフェリの声が耳に飛び込んできた。
いや。この表現は正確ではない。
フェイススコープに接続されているのはフェリの念威端子であり、そして何よりも、レイフォンの独り言を延々と拾い続けていたのも彼女なのだ。
他人の独り言や愚痴に付き合うこと以上に、精神的に負担のかかる作業をレイフォンは知らない。
いや。学校の授業以外でと言う条件は付くが、どう過小評価しても、フェリにとってかなり精神的な負担になったことは間違いない。
「済みません。何か言いながら戦わないと、太刀筋が荒れてしまいそうで」
『そう言う物なのですか?』
「多分」
ツェルニに来るまでは、明らかに違った。
グレンダン時代のレイフォンは、戦いの場に感情を持ち込むことを拒絶していた。
あらゆる感情を排除して、生きて帰ることのみを追求する。
そうやって戦い、そして天剣授受者となった。
その基本は、ツェルニでもさほど変わらなかったはずなのだが、もしかしたら、拒絶することに限界が来たのかも知れない。
廃貴族が、レイフォンの精神状態を極限の意志と言っていたが、やはり違ったのだろうと思う。
戦闘が続いているが、廃都市で廃貴族と遭遇した時のような、静かな湖面のような気持ちにはなれていないのだ。
もしかしたら、極限であるだけに、長続きしないのかも知れないが、取り敢えず今のレイフォンにそんなたいそうな物はない。
『後二体ですが、このままサポートを続けますか?』
「いえ。次の汚染獣の探索をお願いします」
既に後二体であるから、念威繰者のサポートはそれ程必要という訳でもない。
ならば、次の戦いが何時になるのかの方が、より重要な情報となることは間違いない。
そして、それ以上に心配なこともあるのだ。
「フェリ先輩は、きちんと休んでいるんですか?」
『問題有りません。トリンデンのお菓子を補給できない方が、よほどきつい状況であると断言できます』
「・・・・。きちんと休んでください」
フェリの発言が、完全にらしくないと思う。
メイシェンのお菓子のためにシャンテを暗殺しようとしたことはあったが、今は完全に状況が違う。
そもそも、作る役であるメイシェンがそれどころではない精神状態なのだ。
その精神状態を改善する手立てを考えつかない現状で、補給がどうのと専門用語に聞こえる単語を使う時点で、かなり参っていることが伺えるという物だ。
『問題有りません。昨夜もきちんと一時間は眠りました』
「全然足りていませんからね、それ」
レイフォンの精神状態も、それ程良いという訳ではないが、いざ戦いとなれば何とかまだやれる。
いや。現実から戦闘という逃げ道へと突っ走ることが出来る分、他の人よりは増しなのだと言える。
人間、目の前の仕事を片付けるために、一時的に重要な物事を忘れることが出来るという、便利な機能が付いているのだが、残念なことにメイシェンには目の前の仕事などと言う物が殆ど無いのだ。
学校の授業も休みがちだし、食事を作ることもしなくなっている。
リーリンやウォリアスが食事を作って差し入れているが、それでも、徐々に顔色が悪くなり、やつれてきていると聞く。
残酷な言い方だが、これでナルキの死亡が確認されたのならば、大いに泣いて取り乱して、そして時間が経てば、精神の再建を始めることが出来たはずだ。
今の、訳の分からない行方不明という現状は、一事の衝撃よりも遙かに厄介なのだ。
何時終わるか分からない汚染獣との戦いよりも、メイシェンの精神状態の方が差し迫った問題だと、改めて認識したレイフォンは、手近にいる汚染獣へと突撃した。
無事に戦闘を終えたレイフォンが、ツェルニに帰って来るという連絡を受けたリーリンは、薬を使ってメイシェンを眠らせてから、戦略・戦術研究室へとやって来ていた。
念のためという訳ではないが、ミィフィも一緒だ。
まだ余裕が有る内に、何とかしなければならない。
何時も通りにやや散らかった地下室に入るなり、回り道抜きでいきなり本題へと入る。
「メイシェンがかなり限界なんだけれど、何かいい手は無いかな?」
何時もの二人組が、なにやら意味不明なことをやっている研究室に入ると、すぐにそう切り出した。
そこでリーリンは、自分もあまり平常心でないことを嫌に成る程明確に認識してしまった。
普段ならば、もう少し違う話題から入るだろうし、何よりもやや散らかっている室内の方に注意が行くはずだからだ。
まだ余裕が有るとは言っても、楽観できる状況ではない。
薬を使わなければ、眠れなくなっているメイシェンはその最たる物だが、探せば他にいくらでも問題はある。
と言う事で、リーリンにとっての最重要課題から片付けようと思ったのだが、最初から躓き気味だった。
「うん? レイフォンと同じベッドで寝かせておけば、それでおおよそ大丈夫じゃないかな?」
「それは名案だな。あの二人を一緒に寝かせれば、当面大丈夫なはずだ」
ウォリアスとディンから返ってきた答えは、残念なことにリーリンの期待したような物ではなかった。
とは言え、今の提案には一定の効力があるかも知れないと、思わないことも、無いかも知れないと、断言できるかも知れない。
憔悴しているミィフィが、一瞬身体を硬直させたが、実害が出ていないので話を進めることとする。
「他にない? もっとこう、きちんと解決できるようなのが」
一緒のベッドでメイシェンとレイフォンを寝かせるというのは、確かに評価できるかも知れないとは思うのだが、問題の表面化を先送りにしているだけだとも言える。
根本的な解決方法が見付かるまでの、その場しのぎの方法ならば、リーリンだって幾つか考えたのだ。
その中には、当然二人組の出した答えもあったには、有ったのだが。
レイフォンの気持ちは決まっていると分かっていても、今、その案を採用することは危険であると思うのだ。
メイシェンの身体の問題で。
「根本的と言われると、不確定要素が多すぎてかなり難しいよ」
ウォリアスの愚痴とも弱音とも付かない発言は理解できる。
ナルキが廃貴族とやらに取り憑かれたらしいことは、おそらく間違いないようだが、それでいきなり消えてしまうと言うのは、全く話が見えてこない。
何日か前に、疲れ果てたレイフォンが言っていたことがある。
ナルキの死体が見付かれば、その時の衝撃は大きいが立ち直ることも出来るだろうと。
今の、この訳の分からない状況こそが全ての元凶であると。
それは理解できる。
理解は出来るが、とうてい納得することは出来ない。
レイフォン自身も、現状を嘆きながら対応する疲れが溜まっていたために出てきた言葉だったようで、言った直後後悔していることがはっきりと分かる視線だった。
「それでも、何とかしたいのよ」
リーリンにとって、ツェルニの現状がどうのと言う事よりも、メイシェンのことを何とかすることの方が遙かに重要だ。
身近な者にしか注意が行かない、器量の小さな人間と言われようと、ツェルニ全体のことを考えることはリーリンには出来ない。
「これは、半分冗談だと思って聞いて欲しいんだけれど、それでもかまわない?」
「かまわないわ」
しばらくの逡巡の後、溜息と共にウォリアスが何かを決断した。
その視線は、何故か真っ直ぐにリーリンに向けられているのだが、それは今までに見たことがないほどに複雑な感情を宿していた。
哀れみや同情など、普段から割と接することの多い感情と、全く見たことのない不思議な物が入り交じっているが、それでも次の言葉が致命的な内容であることは間違いない。
「前提条件として、メイシェンもレイフォンも本質的には弱い人だ」
ウォリアスの認識している前提条件に間違いはない。
武芸に関してだけならばレイフォンは強いのだろうが、それを支える土台はとても脆弱だ。
孤児院の経営状態を何とかしたくて戦場に出て、天剣授受者となったが、それは多くのお金を稼いで家族を養うためだった。
つまり、家族に拒否された瞬間、レイフォンは戦うことが出来なくなってしまった。
その程度の土台で戦ってきたのがレイフォンなのだ。
そして、メイシェンに関してはもっとはっきりとしている。
誰かが支えていないと、すぐに倒れてしまうことは、ただ今現在証明され続けている。
「この前提を最大限有効に使うことで、二人を安定させる」
それは、さっき出てきた二人を一緒に寝かせると言う事だ。
それだけで、かなり長い時間を二人は稼ぐことが出来るだろう。
だが、やはり全く根本的な解決にはなっていない。
そう思ったのだが、違った。
「レイフォンが戦場から帰らなければ、その瞬間にメイシェンは完全に壊れてしまうだろうね」
「そ、それは考えなかったわ」
武芸に関してレイフォンは強い。
それはグレンダンで証明され続けてきた事実だと思っていた。
だが、それでも、レイフォンが死なないという意味ではない。
そこに思い至らなかったリーリンの精神状態も、かなり限界だと言えるが、問題はメイシェンとレイフォンだ。
二人を一緒に寝かせたとしても、レイフォンが帰らなければ、やはりメイシェンは同じ道を歩んでしまうだろう。
「だから」
「だから?」
嫌な緊張のために、リーリンの背中に冷や汗が流れる。
それはミィフィも同じようで、顔色がかなり悪くなっている。
だが、そんなリーリン達のことなどお構いなしに、おそらく唯一の有効手段であり、最も避けたい方法が細目の武芸者の唇から漏れ出した。
「メイシェンがレイフォンの子供を身籠もればいい」
「「!!」」
そして気が付く。
瞼の間から覗く、ウォリアスの視線が酷く冷たくリーリンを捉えている。
この提案をどうするか、その答えでリーリンという人間を見ようとしているのだ。
全身の血が逆流できずに下がって行くのが分かる。
熱を持っているはずの頭の中で、恐ろしく冷たい塊が脈動している。
だが、リーリンが何かするよりも速く、問いを発したはずのウォリアスの目が大きく見開かれ、そして顔を手で覆うと大きく溜息を付いた。
「吐き気がする」
そう呟く唇から零れ落ちてきたのは、血が滴り落ちないのが不思議な声だった。
自分がどんな問いを発したかを、今頃になって気が付いたという訳ではないと思うが、ならば何故こんな反応をするのかが全く分からない。
「そりゃあ。あんな事提案したら、誰だって吐き気くらいするよ」
だからだろう、ミィフィが重い唇をやっとの事で開いて、ウォリアスを支持するような発言をする。
誰もウォリアスを責めることは出来ない。
それは分かっている。
他の方法などリーリンにも思いつかないのだ。
だが、ウォリアスは明らかに違っていた。
「そんなんじゃないよ。提案自体は、他の方法がないという一点において、僕は全面的に支持するし、そうじゃなきゃ口にしないさ」
その提案がどう受け止められるか、それが分かっていないはずがないのだ。
ミィフィもそのくらいは分かっていても、それでも話を進めるためにあえて聞いたのだろうという事は間違いない。
「リーリンがどんな反応をするか予測して、それが実際にどうなるか観察している自分に、吐き気がする。僕は自分の人生を生きていないんだって、そんな結論が出ちゃったから」
「人生って?」
突如出てきた単語に、思わず辺りを見回せば、リーリンやミィフィだけでなく、ディンでさえ完全に理解不能だという表情をしている。
いきなり人生なんて単語が出てきて、戸惑わない人間は滅多にいないだろう。
だが、ウォリアスはこの話題を追求されることを避けるようで、手を降ろしてリーリンをしっかりと見詰める。
その視線には、先ほどまであった冷たさはほぼ見えなくなっていた。
だが、それでも、とうてい暖かな物にはなっていない。
実験動物を観察するような、そんな視線でしかない。
「それで、どうする? 止めるんだったら他の方法を何とか考えるけれど」
「・・・・・」
話を振られて、そして考える。
このままでは、確実に破局がやってくる。
レイフォンは戦うことで現実逃避が出来るだろうが、メイシェンはずっと向き合わなければならないのだ。
だが、それでも、リーリンに決断することは出来ない。
まだ、レイフォンへの気持ちはその胸に残っているから。
「考えると言ったけれど、他の方法が見付かるとは思えないし、そもそも、何もしなかったらいずれ確実にそうなる。遅いか速いか、子供が出来るか出来ないかの差でしかないよ」
追加で出されたウォリアスの言葉に間違いはない。
そう。誰も何もしなければ、間違いなく二人はそう言う関係となる。
そう。ナルキが見付からなければ、確実にそうなる。
子供が出来るかどうかは、それは分からないが、変えることは出来ない。
「っう!」
その時、リーリンの胃が急激に収縮した。
殆ど何も入っているはずがないにもかかわらず、焼けるような痛みと共に何かが喉をせり上がってくる。
「これ!」
咄嗟のことだったが、予測している人間がいた。
ウォリアスの差し出した袋に向かって、黄色みがかった白い液体を吐き出す。
喉を灼く痛みと、口の中に残る酸味がリーリンを更に責める。
レイフォンへの思いがその胸にあるにもかかわらず、それでもメイシェンのことを心配している自分を嘲笑っているのだ。
もし、万が一にでもメイシェンが自殺でもしてしまえば、リーリンにもまだ機会はあるかも知れないと、そう考える自分を確かに認識したから、胃液を吐き出したというのに、それでもまだリーリンは自分を責めてしまう。
背中をさすってくれるミィフィの、掌の暖かさでさえも、リーリンを責めているように思えてしまう。
「考えてみたら」
「うん?」
「朝ご飯食べたきり、何も食べていなかったのよ。気持ち悪くなっても仕方ないわね」
「食事抜くのは良くないよ。健康のためにはね」
あえて強がってみせる。
何処の誰が見たとしても、食事を抜いたために嘔吐している訳でないことは分かりきっているが、それでも強がる。
弱音を吐く権利など、リーリンにはないのだと自分を叱咤する。
そうしなければ折れてしまいそうだから。
その決意を改めて固める。
弱音を吐いて良いのは、ナルキが帰ってきてからだと。
折れてしまわないように、決意をもう一度固めたのだ。
そして次の瞬間、見てしまった。
にじんだ視界の中央に、黒いゼリー飲料のパッケージを。
「・・・・・・」
「他に缶詰とカロリービスケットもあるけれど、どれを食べる?」
今までのリーリンの覚悟や思いを、綺麗さっぱりと薙ぎ払ってしまったのは、ウォリアスの差し出した食べ物達だった。
いや。食べ物に擬態した恐るべき何か、だ。
「・・・・・・・・。カロリービスケットと水をお願い」
「美味しいよ? このゼリー。缶詰も適度に膨張していて」
「ビスケットと水でお願い」
ウォリアスはもう駄目だろうと、この時リーリンは確信した。
平静を装ってはいるが、既に限界を超えてしまっているのだと確信した。
そうでなければ、こんな恐ろしすぎる食べ物に擬態した何かを列挙するはずがないのだ。
「さっきフェリ先輩に、黒いゼリーを十倍に薄めて飲ませたら、心安らかに眠ってくれたよ。それはもう死んだようにぐっすりと」
本当に死んでいるのではないかという質問は、あえてしなかった。
肯定されるのが恐ろしかったというのもあるし、もしかしたら、既にウォリアスは黒いゼリーがなければ眠れなくなっているのかも知れないから。
考えてみれば、ツェルニの行く末を最も確実に予測しているのは、禿げ上がった頭を持つ四年生と、瞳の細い危険人物なのだ。
どれだけの負担と戦い続けているか、リーリンには想像することが出来ない。
「十倍か。俺もそれで眠れた時期があったな」
「僕は今、五倍でないときちんと眠れませんよ」
「俺は四倍少しだ。お前は強いな」
そんな男二人の会話が聞こえる。
予想したように、既にこの二人は限界を超えてしまっているのだ。
そして、おそらくこのまま行けば、ツェルニが限界を超えてしまう。
グレンダンでは全く問題にならなかった、汚染獣との連戦という事態だったが、学園都市ツェルニでは想像を絶する絶望と戦う時間だったのだと、改めてリーリンは認識した。
放浪バスがやってくれば、ゴルネオが旅立つことが出来る。
そうすれば、グレンダンからの援軍を待つという希望に縋ることだって出来たはずなのだが、今もゴルネオはツェルニに居る。
希望の見えない戦いはまだ続くのだ。