昼間の内に心身ともにぼろぼろになったので、靴を脱いでソファーの上に胡座をかいて力の限りにだらけていた。
いきなりの事だが、夕食を終えて何も考えていなかったレイフォンは。
「レイとん」
「な、なに?」
普段は絶対に見る事のないだろう、壮絶な決意を秘めたメイシェンに右の袖を掴まれてしまった。
その姿は、雨が続いて散歩に連れて行ってもらえない犬の様でもあったし、これから死闘を演じなければならない武芸者の様でもあった。
「一緒に来て」
そう言いつつ、袖口を掴んだまま、一向に動こうとしないメイシェン。
「? どこに?」
「う、うあう」
掴んだは良いものの、そこで限界に達してしまったのか、動きが完全に停止するメイシェン。
「ああ」
そのメイシェンの先、扉の所にナルキとミィフィがいる事に気が付いた。
恐らく、三人で話し合って、この展開になったのだろう事が理解出来た。
「行こう」
そっと袖口を掴んでいた手を解き、むしろレイフォンが引っ張る形で、ナルキ達の所へと行く。
「あ、あう」
何やらいきなり落ち込んだメイシェンと、溜息をついたナルキ達が不思議だが、今はそれどころではないのだ。
この三人、特にメイシェンの状況から、かなり重要な話がある事は理解出来るし、それが恐らく、グレンダン時代の事だろうと予測出来る。
今まで色々有ったのに、有耶無耶にして来てしまったつけを、ここで払わなければならない事も、理解しているのだ。
理解はしているのだが、それをきっちりと受け止められているかと聞かれれば、答えは否だ。
落ち着いた様に見せかけているが、実際はかなり動揺している。
始めて汚染獣と対峙した時でさえ、これほど緊張していなかった。
似た様な精神状態は、今までになかった。
始めての体験と言うのは、人を緊張させ興奮させ硬直させる。
「ぐわ!」
思わず壁の角っこに、小指の先をぶつけるくらいには緊張して興奮して硬直しているのだ。
靴を脱いでだらけていたのが、最も大きな失敗の原因だ。
(っていうか、靴くらい履けよな!)
自分に心の中で突っ込みつつ、完全に平静を保てていない事だけは理解出来た。
「だ、だいじょうぶか?」
あまりの唐突な事態に、脱力したナルキが溜息を吐き、ミィフィが何やら写真を撮っている。
出来ればこのことは、死ぬまで思い出したくない大失態なので、是非ともミィフィの写真は処分したいところだ。
「だ、だいじょうぶ。行こう」
本当は大丈夫ではないのだが、身の置き所が無いレイフォンは、珍しく強情に意地を張ってみた。
「あ、ああ。こっちだ」
その意地に免じて見ないふりをしてくれたのか、ナルキが先導してゲルニ家を出る。
元々、割と外縁部に近い所に有ったナルキ家から、更に人の来なさそうな場所を目指して、ナルキは歩いているようだ。
「この辺で、良いかな?」
街灯が殆ど無い防風林の側まで来たナルキが止まると、ミィフィが頷いた。
それを確認したから、レイフォンはメイシェンの手を離し、そっと背中を押して二人の方へとやった。
「レイとん。聞きたい事が有るんだ」
「うん。グレンダンでの事だね」
覚悟が出来ているかと聞かれれば、まだ出来ていないが、それでも、目の前の三人に隠し事をしたくは無いと思ってしまっていた。
僅か四ヶ月程度の時間だが、今までに無い生活はレイフォンを大きく変えていたのだろう。
「ああ。レイとんみたいな優秀な武芸者が、何で都市を出られたんだ?」
代表してナルキが質問しているが、三人の疑問は、おおよそこの辺に集約されるのだろう事が理解出来た。
「そうだね。何処から話そうか」
グレンダンを出られたと言うよりは、追放された理由は簡単なのだが、恐らく三人はもっと基本的な事を知りたいのだろうとも思う。
「そうだね。出来るだけ始めから話すよ」
レイフォンの認識が間違っていなければ、始めから、武芸者を目指した辺りから話を始めるのが最も適切だとも思う。
だが、今ここで話せない事もいくつか有るのも、また事実だ。
それは、また別の機会に話すとして、レイフォンは最初の単語を口にした。
「天剣授受者と言うのが居るんだ」
グレンダンに伝わる汚染獣戦における至高の武器、白銀に輝く錬金鋼。
天剣。
それを与えられるのは、最大で十二人。
グレンダンの武芸者の頂点を意味するその称号と錬金鋼を、十歳という年齢で授与されたと言う事。
そこまで武芸にのめり込んだ原因である食料危機。
天剣授受者としての報奨金を、孤児院の生活費として納めていたこと。
他の孤児院の事も気になって、もっと金を稼ぎたいと思ってしまった事。
その稼ぐ場所として闇の賭け試合に出場し、天剣の技を見せ物として披露したこと。
それらを出来るだけ順序良く、伝わり易い様に話す。
賭け試合に出ていた辺りで、ナルキの表情が強ばったのは解ったが、喋るべき時ではないと判断したのか、口をつぐんだままだった。
「じゃあ、その賭け試合に出ていた事がばれて、追放処分?」
代わりにと言うか、質問しない事が我慢の限界に来たらしいミィフィが、マイクでも差し出し兼ねない勢いで突っ込んで来てしまった。
「それだけなら、多分追放処分にはならなかったと思う」
今から考えてみれば、強ければそれで良いと言う女王の態度から考えると、賭け試合に出ていただけなら、大して重い罰は下されなかっただろうと思う。
問題は、女王の性格と態度からどんな事になるか予測せずに、一人で悩んで突っ走ってしまった事だ。
「天剣授受者は十二人だけれど、実力が全てなんだ。だから、自信の有る人は天剣に挑む事が出来るんだ」
挑戦者が勝てば、自動的に授受者は変更される。
そうで無ければ、老性体と戦うための天剣授受者の質が落ちかねない。
まあ、それは建前だろう事は理解している。
他の天剣を見てみれば、たいがいにおいて戦いが好きだったり、強い奴と戦ってみたいと思っていたりで、腕が鈍る事を極端に恐れる連中ばかりだった。
つまりは、上を目指すなら好きにしろと言う、暗黙のルールだったのだろうと思う。
「五ヶ月前くらいに、賭け試合の事をバラされたく無ければ、天剣争奪戦で負けろと、脅しをかけて来た人が居たんだ」
ガハルドにそう脅されて、レイフォンは大いに混乱してしまったのだ。
誰かに相談する訳にもいかず、結局の所、試合中に殺すと言う選択をしてしまった。
結果的に殺せなかったがために、天剣を剥奪された上に、都市外追放処分を受けた。
今から考えれば、ガハルドを殺しかけた事よりも、あまりにも圧倒的な強さを見せつけてしまった事の方が、大きな問題だったのだと言う事を理解出来る。
あまりにも遅い理解だが、何も解らないよりは遥かにましだと思うのだ。
同じ過ちを繰り返さずに済む。
「で、でも、レイとんが人を殺せるとは思えないな」
人を殺すと言う事に何か思う事が有るのか、普段は見せない弱々しい口調でナルキが言う。
「うん。今から思えば、あの状況で僕が人を殺せるとは、到底思えないね」
あの時かかっていたのは、名誉を含めた、大して価値のないものばかりだった。
だから太刀筋が鈍り、最悪の結果になったのだと、今は理解している。
「でも、一年も有ったんでしょう? 退去猶予は」
質問したミィフィに答える形で、レイフォンは孤児院の弟や妹の事を話した。
師であるデルクも、何もしなかった。
だから、レイフォンにはもう、逃げる以外の選択肢が無かったのだ。
武芸に対する情熱は失われ、生きる目的も無くなった。
かといって、死ぬ様な気にもなれない。
宛のない、まさしく放浪の旅を覚悟したが、ヨルテムで偶然メイシェンを始めとする人達に出会った。
その偶然が、レイフォンに今まで気が付かなかった、色々な事を教えてくれたのだと、その偶然に感謝をしているのだ。
ここで話せる事は、全て話し終えたと、レイフォンは思う。
武芸者を目指し、文字通りに必死になって強くなった原因というか、原風景を話す事は今この場では出来ない。
だから、三人の返事を待つ。
話し始める前は、色々混乱したり迷ったりしていたが、今は何故かすっきりした心境だ。
やるだけの事をやったのだから、後は結果が出るだけだと、開き直ったのかも知れないし、もしかしたら、三人の事を信じているからかも知れない。
だからレイフォンは待つ。
待ちつつ、ふと、もう一つ話せる事が有る事に思い至った。
恐らく結構重要な事なのだが、すっかり失念していたのだ。
話そうと口を開きかけた瞬間を見計らっていたかの様に、メイシェンが一歩前へと進み出た。
「わ、わたしは、良く解らないけれど」
しどろもどろになりつつ、整理出来ていない感情と考えをまとめる様に、ゆっくりと話し出したので、レイフォンは口を閉ざして、再び待つ。
「でも、レイとんが凄い人だって言うのは、解るけど、悪い事をしたのも、解るけど」
複雑な感情の波に翻弄されている様で、メイシェンの言葉はあまりはっきりとしていない。
「その時、その場所にいなかったから、解らないけれど、それでも、レイとんの事を悪く言う人達が・・・・。怒りたいし、悲しいし・・・。けど」
再び考え込む様に、唇を噛むメイシェン。
「レイとんは頑張ったんです。頑張って、みんなのために頑張ったのに、それを認めないで酷いことを言うなんて・・・・。間違っていると、思います」
弟や妹の事を批難され、一瞬反論しかけたが、それを必死に押さえ込んだ。
メイシェンは批判したいのではなく、レイフォンを弁護したいのだと解ったから。
「みんなの事を、守ってくれたんでしょう?」
「え?」
一瞬、話が飛んだのかとそう思ったが、少し違うようだ。
「汚染獣のとき、レイとんがナッキ達を守ってくれたんでしょう?」
前回、思わず汚染獣を真っ二つにしてしまったときの事だと言う事は解った。
レイフォンが見学者からいなくなった事を知っているナルキがいれば、この結論にたどり着くのはそれほど難しくない。
「うん。あの時も、もう少し考えて行動していれば、色々問題は起こらなかったけれどね」
トマス達の胃に穴が開きかけるなんて事は無かったはずだと、そう後悔しているのだ。
「レイとんは、みんなの事を守ろうとして、頑張っているんだもの、もうすこし、その、えっと、あの、胸を張っても良いと思う」
胸を張って生きる。
メイシェンは簡単そうにそう言うが、犯罪者である以前に、サイハーデンに泥を塗ってしまったレイフォンには、かなり難しい生き方だとも言える。
だが、ここでもう一度始められるのならば、もしかしたら、胸を張った生き方が出来るかも知れない。
最近、そう思う様になって来ていた。
だから、レイフォンはこう言えるのだ。
「ありがとう」
割と素直にそう言う事が出来た。
これも、ヨルテムに来たおかげなのかも知れないと思う。
「わ、私に、何か出来る事は無いですか?」
「え?」
唐突に,いきなりそんな事を言われたので,思わず思考が停止してしまった。
「レイとんは,私達の事を守ってくれているんだもの。私は,戦う事とか出来ないけれど,でも、レイとんのために,何かしたいと思う」
消え入りそうな声でそう言うメイシェンが,一歩近付き,レイフォンの服の袖をしっかりと握る。
「わ、わた、わたしは、れ、れ、れ」
何やら必死の形相で,何かを訴えようとしているのだが,顔を赤くして俯きつつ,小さく振るえるだけでなかなか先に進まない。
だが、その必死さは十分に理解出来るので,じっとメイシェンの言葉の続きを待つ。
(ああ。なんだか最近,待つのになれているな)
ふと,そんな事を思った瞬間
「私は,レイフォンの事が,好きだから。だから、何かしたいんです」
「・・・。え?」
頭から蒸気を吹き上げつつ,唐突にそんな事を言われたレイフォンは,再び思考が停止。
これは思っても見なかった事態だ。
「あ、あう」
勇気のありったけを振り絞ったのだろう,震えつつこちらを見上げるメイシェンが,ただただ返事を待つために意味不明なうめき声を上げている。
だが、レイフォンにとって,今の告白は正直意外だった。
メイシェンの所に,永久就職が決まっていると思っていたので。
だが、きっちりと言葉にして伝えられた思いには,やはり言葉で返さなければならないと言う事も,確かな事だ。
「ありがとう。こんな僕の事を好きでいてくれて」
喉につっかえる声を,必死に振り絞り,何とかその言葉を送り出した。
「ありがとう。僕の側にいてくれて」
考えてみれば,ガハルドとの一件の後,心配したり励ましたりしてくれる人はいなかった。
もしかしたら,いたのかも知れないが,それに気が付く前にグレンダンを出てしまった。
ここに来て、トマスを始めとする人たちに出会い,事情を知りつつも庇ってくれる人が大勢いた。
そして、最も一緒にいる時間が長かったのがメイシェンだ。
気が付かないうちに、レイフォンの中でメイシェンの占める割合が大きくなっていた。
「ありがとう」
そのメイシェンから、好きだと言われた。
こんなに嬉しい事は無かったと思う。
袖口を必死に掴んだメイシェンと、掴まれたままで硬直しているレイフォンを眺めつつ、ナルキは思うのだ。
街灯もほとんど無い闇の世界で、必死に袖口をつかむ少女と棒立ちする少年というのは、なかなか見られるものでは無い。
「レイとんはやっぱりお人好し回路が全開だな」
「うん。回りの人がどう思っているかとか、あんまり考えてないみたいだし」
これはある意味困った事だとも思うのだが、トマスが何故あれほど神経質になって、レイフォンの事を隠しているかは十分に理解出来た。
天剣授受者と言うのが、どれほど凄い武芸者かは相変わらず解らないが、レイフォンと言う人物についてはおおよそ理解出来た。
「全くレイとんも情けない。ここぞとばかりにメイッチを抱きしめて押し倒せば良い物を!」
「そっちか」
思わず脱力してしまった。
「それで、アレはどうするんだ?」
当然、手をつなぎ損ねて、硬直している二人組のことだ。
「にひひひひひひ。あのまま暗がりに放り出しておこう、もしかしたら来年は。にひひひひひひ」
極悪非道なことをいう幼なじみだが、ナルキも反対はしない。
「そうだな。レイとんが性犯罪者じゃ無い事が分かったし、放っておいて平気だろうからな」
恋するメイシェンを応援するという気持ちも有るのだが、二人がもう少し落ち着いてからでも良いかと思うのだ。
「私たちは、帰るぞ」
「はいよ」
そう返事したミィフィが、何時もの野次馬根性を発揮せずに後についてきたのに少しだけ驚いたが、二人の事をそっとしておく事に決めたのだろうと言う結論に達したので、気にせずに家へ向かって歩く事にした。
メイシェン一人でなら強引にでも連れて帰ってくるのだが、レイフォンが一緒なのだ。
そちらの方は安心していて良いだろう。
「なかなか、良い少年ではないか」
「うわ!」
「ひぃ!」
突如、何の前触れもなく後ろからかかった声に驚き慌て、大いに混乱しつつ戦闘準備を終了させ振り返る。
もちろん、ミィフィをかばうように行動するのは当然だ。
「そう慌てる事もあるまいて」
声の主は、武芸者と思われる長身で白髪のオッサン。
やや着崩した感じのある服装と言い、暗がりでは是非とも知り合いたくない。
「だ、だれだ?」
活剄を最大限行使していても、現在のナルキにはその細かい表情は見えない。
「ふむ。ゲルニ君。トマス氏に会いに行ったら、偶然君たちが出かけるのを見かけたのでね。思わず後をつけてしまったのだよ」
「な!」
家の付近からつけられていた事に、全く気がつかなかった。
ナルキは当然としても、レイフォンが気が付かないなどと言う事が有るかと考える。
「有るかもしれん」
今日あの場所だけならば、レイフォンが見逃してしまったとしても、何ら疑問はない。
ナルキから見ても、話し始めるまで過度の緊張に囚われていたのだ。
熟練した武芸者の追跡に気が付かなくても、仕方が無いと言えない事もない。
「ふむ。とりあえず、トマス氏に会いに行きたいのだが、これはどうしたものかね?」
そういいつつオッサンが左の掌を指し出したそこには、小さな何かの機械が乗っていた。
「げげ!」
それを見て大いに慌てるミィフィ。
「ミィィ?」
てっきり、二人をそっとしておこうと決めたと考えたのだが、それはナルキの考え違いだったようだ。
活剄を使い視力を強化しなくても、おおよそ今の反応で理解できる。
小型のカメラとマイクで、一部始終を記録しておこうと画策していたと言う事が。
「え、えっと」
「・・・・・。まあ、いいけどな」
どうせあの二人では、何かできるとは思えないから、気にせずに流す事にした。
「うむ。彼はなかなか良い乙女たちと知り合ったようだな」
なぜか、感心しているオッサンを伴って、ナルキは我が家へと足を向ける事にした。
「はあ」
小さくため息をつきつつ。
「それはそうと、あの二人をあのままにしておいて良かったのかね?」
「それは、問題無いと思います。どうせ何も出来ないでしょうから」
「そうそう。何かあってもすでに売約済み。一向に何の問題も無いですって」
二人の認識は一致を見たのだが。
「しかしな。私は彼よりもやや年上だったが、乙女の柔肌に心奪われたものだよ」
「それは、まあ、心奪われているんでしょうけれど、二人とも初心ですからね」
頬を突かれただけで、蒸気を上げるメイシェンは元より、突くレイフォンも蒸気を上げてしまうのだ。
この先の進展は当分望めない。
「ふむ。ならば何も言うまい。万が一の事があっても、お互いが納得しているのならばそれで良しとしよう」
何故か非常に偉そうな事を言いつつ、付いてきたオッサンの足が止まった。
振り返ってみると、何か耳を澄ませているような感じだ。
「どうしたんですか?」
疑問に思ったナルキだが。
「いや。何でもない、気にしないでくれたまえ」
そう言われて気にしないわけではないのだが、とりあえず家はすぐ目の前だ。
ふとここで、今まで暗くて良く分からなかったオッサンの顔を見る事が出来るようになっている事に気が付いた。
「?」
その横顔には、どこか見覚えが有るような気がしなくもないのだが、何故か思い出せなかった。
「ここです」
「うむ」
やはり偉そうに頷くと、呼び鈴を押してしまう。
押してから正確に三秒後。
『はい。何方ですか?』
帰宅してくつろいでいるふりを装っているらしいトマスの、少し緊張した声が聞こえた。
当然、レイフォンがどう言う話をしたのか気になっているのだ。
「私だ」
『どわ!!』
オッサンが一言発しただけで、中のトマスが非常に慌てた事が分かった。
『す、すぐに開けますので』
なにやら、テーブルを蹴ってしまった音や、コップの割れる音などを響かせつつ、トマスの足音が扉の向こう側にやってきた。
「そう、急かずとも良いものを」
なにやらつぶやいている間に、扉が壊れないぎりぎりの力加減で開け放たれた。
「だ」
何か言いかけるトマスの口元に、活剄を使って移動したらしいオッサンの掌が押し当てられた。
「ここでその呼び方は拙かろう。お邪魔しても良いかね?」
「む、無論ですとも」
なんだか今夜は、少し慌てる人間が多いような気がすると思いつつ、ミィフィと別れたナルキは自宅へと入り。
「? どうしたんですか? なんだか顔中アザだらけですけれど?」
そう。明るい照明の中で見るオッサンの顔は、あちこちアザが出来ていて、かなり酷い状態なのだ。
「うむ。若い者と組み手をやってしまってね。若さにはもう太刀打ちできそうにないよ」
がははは! と、豪快に笑うオッサンの顔に、やはり見覚えが有るような気がするナルキだが、とりあえずお茶を出すために台所へと向かった。
誰かがきたようなので自室から見に来たシリアは、リビングの入り口に立ち尽くしていた。
ソファーに腰掛けているのは三人。
顔色が悪いトマスが、全身から冷や汗を流しているのは、夫婦喧嘩の時によく見る光景なのであまり気にしなくて良いだろう。
問題なのは、並んで座ったアイリまで、顔色が悪く全身から冷や汗を流していると言う事だ。
「シリア? そこ、邪魔なんだが」
後ろからお茶を持って現れたナルキに声をかけられるまで、硬直は解けなかった。
「ね、姉さん」
「うん? どうかしたのか?」
問題の人物。
二人の前に腰を下ろした初老の男性は、落ち着き払い、睥睨するわけでも威圧するわけでもなく、その場に座っているだけだというのに、凄まじい存在感を発散している。
武芸者と言うよりは、人の上に立つ物の発するオーラとでも言える物が彼の全身からほとばしっている感じなのだ。
「そう堅くならんでも良い。私は別段詰問しに来たわけではないのだからな」
そうは言うものの、存在そのものが非常に問題だと言う事は、初老の男性も理解しているのだろう。
一向に堅さが抜けない二人に、かまうことなくナルキが用意したお茶に手を伸ばしている。
「実はな。レイフォン君の事なのだが」
「はい! 申し訳御座いません!!」
いきなり平謝りに謝るトマスを認識したナルキが呆然としているが、シリアにはトマスの方の気持ちが十分に理解できる。
「だ、だれなんだ? あのオッサン?」
小さな声のナルキの問いかけに、一瞬現実が認識できなかった。
「お、おっさん?」
平然としている様に見えるだけで、ナルキも内心動揺しているのだと思ったのだが、どうやら男性の正体に気が付いていないだけの様だ。
「だ、誰って。ダン・ウィルキンソン。交差騎士団の団長」
「い?」
シリアのその小声の回答を聞くやいなや、その場で硬直するナルキ。
どうやら、本当に気が付いていなかった様だ。
「うむ。私の事などどうでもよろしい。問題はレイフォン君だ」
こちらの事などお構いなしに話を進めようとするダン。
実際には十分に意識しているのだろうが、それをおくびにも出さない。
「彼の覚悟は聞いた」
「か、覚悟ですか?」
覚悟と言われても、シリアにはどんなものか想像も出来ない。
汚染獣戦の時も、そのあまりにも凄まじい威力のまえに、力量を推し量るなどと言う事が出来なかった。
そんな想像を絶する様な人の覚悟がどれほどのものか、シリアには分からない。
「彼はこう言ったのだよ。今はまだ何も出来ないが、戦う以外で生活を支えられる様になりたいと」
「!」
それは、レイフォンという個人を知っているシリアでさえ、少々どころではない驚きを持って知る事実だった。
武芸者としてしか生きてこなかったと思われるレイフォンが、ほかに生きる道を探すと言う事は、たぶんシリアが想像しているよりも多くの困難を伴うはずだ。
「あれほどの実力を持っていれば、傭兵などやれば左団扇だろうに、それを投げ捨てる覚悟があるのだ」
だがよく考えてみれば、元々、武芸に対してはあまり積極的ではなかった事も事実だ。
トマスがどうやってレイフォンを説得したか不明だが、始めの内はさほど熱心に教えているという雰囲気でもなかった。
ならば、武芸以外の方法で生活を支えられる様になる事が、レイフォンにとっては良い事なのかもしれないと思う。
「あ、あの。団長」
「何だね、トマス君?」
シリアが色々と悩んでいる間に、トマスが非常に恐る恐るとダンに声をかけていた。
「その覚悟とやらを、いつお聞きになったのですか?」
ダンの顔を彩るアザから考えて、もしかしたらレイフォンと一戦交えたのではないかと思っていたシリアにしてみれば、少々驚くべき質問だ。
「ついさっきだよ」
「へ?」
何故か、驚いたのはナルキだ。
「ついさっきって?」
「うむ。君達と一緒にここに来る途中に、レイフォン君が黒髪の乙女に向かって、生活できる様になったら結婚して欲しいとプロポーズしておった」
「なにぉぉ!」
ダンの目の前だというのに、驚きと怒りに染まるナルキ。
なんだかんだ言いつつミィフィと同じように、決定的シーンを見る事が出来なかった事が残念なのだろう。
「いや待て。レイフォンはすでにメイシェン君にプロポーズしていたはず。二度目の求婚か?」
「よく考えて見てください。レイフォンは求婚しましたが、メイシェンはまだ返事をしていませんよ」
「おのれレイとん。二人だけの時にそんなイベントをこなすとは!!」
ゲルニ家の皆さんは、今日も元気だ。
などと他人事にしておきたいのは山々なのだが。
「ああ。話の続きをしても良いかね?」
「!! は、はい。もちろんですとも」
身内の世界から帰ってきたトマスが、姿勢を正してダンに返事をする。
この辺の変わり身の早さは警察官だからなのか、それともアイリの夫だからなのか。
その辺はいつかきちんと理解したいところだ。
「うむ。それでなのだが。留学させてはどうかと思うのだが」
「留学ですか?」
動揺著しい三人から、会話の主役を奪ったシリアが聞く。
「うむ。前回の汚染獣戦の影響で、レイフォン君を探し出そうというものが若干だがおるのだ」
しつこいというのは、少し話が違う。
あれだけの実力者が正体不明というのは、控えめに言っても少々寝覚めが悪いのだろう。
「成る程。しばらくヨルテムから離す事で、冷静さが戻るのを待つわけですね」
「そうだ。そして、彼の欲しがっている物も手に入るだろう」
ダンの考えは非常に理解できる。
だが。
「レイフォンさんの様な実力者を、武芸から遠ざけるのですか?」
「それも考えたのだが、彼が武芸を止めたいと望むのを、無視してしまうのはよろしくない」
「それは、確かにそうですね」
別段、ヨルテムの戦力が少ないというわけではない。
ならば、レイフォンの生きたい様にさせるのも、一つの手段ではある。
ちょうど、都合の良い事もいくつかあるのだ。
「分かりました。ちょうどナルキも留学する予定でしたので、レイフォンも付けましょう」
「ほう? ご息女も何か悩みがあるのかね?」
「はい。その答えを見付けるまでは、ヨルテムから遠ざけた方が良いと考えました」
ナルキが留学する経緯は十分にシリアも理解している。
ついでにレイフォンも行く事になれば、それはそれで良いことのようにも思う。
「だが、黒髪の乙女はどうなるのだ? まさか、幼子と二人で長い間待てなどとは言わぬであろうな?」
「お、おさなご?」
いきなり飛び出してきた単語で、シリアは活動を停止。
すでに、そう言う関係になっていて、しかも、もうすぐそう言う事になる。
あのレイフォンがとか、あのメイシェンがとか、トリンデン家の皆さんがとか、色々な疑問があたりを飛び回っている。
「問題有りません。留学組には、その乙女も混ざっていますので」
「ならば良い。では、私も準備にかかろう」
そう言って立ち去ってしまうダン。
「お、幼子って?」
「あの人の言う事をいちいち真剣に聞くんじゃない。レイフォンと同じで少し問題のあった人だから」
疲れ気味のトマスが呟くのと、玄関の扉が開き、レイフォンが帰ってくるのは同時だった。