突然ではあるのだが、カリアン・ロスはツェルニの生徒会長である。
司法研究科六年であり、もう一年もしないうちに卒業を迎える。
だが、今問題としなければならないのは、目前まで迫った武芸大会に勝ち、セルニウム鉱山を確保して滅びを回避することだ。
武芸科の訓練はヴァンゼやレイフォン、そしてイージェといったスペシャリストがいるので問題無いが、予算の確保や都市運営などなどと、やる事はいくらでもあるのだ。
そんなカリアンだから、昼食の時間などと言う物は殆ど無い。
たいがいにおいて都市外作業用に作られたゼリー飲料をすすって済ませている。
しかも、予算には一応余裕が有るのだが、それでも無駄なことを好まないために賞味期限が迫った物を優先的に飲んでいる。
裕福で贅沢には慣れているはずなのだが、味もろくに感じない仕事中の食事に、予算と労力を裂く気にはなれないのだ。
何時も通りに書類の決裁をしながら、抽斗の一つに大量に放り込んであるパッケージの一つを取り、殆ど無意識的な動作で封を切り、そして一気に飲み干す。
躊躇してはいけない。
生暖かいゼリー飲料の不味さはもはや伝説的なのだ。
「?」
だがここで、違和感を覚えた。
何か何時ものゼリーと違うような気がする。
だが、結論を導き出すことは出来なかった。
「ごわぁぁ!」
何か、苦痛が全身を貫く。
それが痛みなのかどうかさえ分からない何かに、身体を蹂躙されつつもカリアンはまだ持ったままだったパッケージを見た。
視界がかすみつつあるが、まだ何とか見えている今しか確認する時間はないのだ。
その表面の殆どは黒で塗装されていた。
だが、一部に白が配されている。
その白い図柄は、人間の髑髏のように見えた。
その下には、大腿骨らしき物が交差している。
つまり、カリアンが今躊躇無く飲み込んだ物の正体とは。
「ふぇ、ふぇりぃぃぃ」
老性体戦の終了後に、レイフォンを瀕死の状態に陥れたという、伝説のデンジャラスゼリーだった。
疲労困憊したレイフォンは、これを飲んだために丸二日間意識不明だったと聞く。
だがそれは、おそらくレイフォンだったからこそ二日で済んだのだ。
体力のないカリアンでは、意識を無くしたら二度と目覚めることがないかも知れない。
その恐怖を振り払うように、必死に緊急呼び出しボタンを押し込む。
本来は、有るとは思えないが刺客の到来などに対応したものだったが、ある意味暗殺であるから間違った使い方ではないのかも知れない。
これを押してしまえば、隣の部屋に詰めている秘書が駆けつけてくるまで、僅かに五秒。
その時間だけ意識を確保しておけばいいのだ。
目標があるならば人間は何とか耐えられる。
長く感じたが、実際の時間は十秒以上ではあり得ない。
椅子の上にいることさえ困難になり、ゆっくりと床へと身体が傾いて行き、そして完全にくずおれた。
そして、くずおれ机の端からしか見ることの出来ない扉が開かれ、現れた人物を見てもう一度絶望した。
「クスクスクスクス。どうかしましたか?」
銀髪を腰まで伸ばし、人形のように整った顔に氷のような無表情を貼り付けたその美少女は、ゆっくりとカリアンの元へと歩み寄る。
そして、カリアンは死を覚悟した。
暗殺者が救護のためにやってきたのだ。
生き残ることなどあり得ない。
ヴァン・アレン・デイ当日のことだった。
一昨日から昨日にかけて、ハトシアの実とシャンテ絡みのごたごたに巻き込まれたレイフォンだったが、その事件もゴルネオの被害だけでおおよそ終了した。
そして今、日常という世界へと返ってくる事が出来たのだ。
更に、非常に珍しいことではあるのだが、レイフォンは今ヨルテム三人衆の住んでいる寮へとやって来ていた。
普段は通学の途中で待ち合わせをしたり、学校で直接会ったりしているのだが、今日は少々荷物が多いと言う事なので朝に迎えに来いと命じられたのだ。
ミィフィに。
そして訪問した直後ミィフィの攻撃を受け、首をロックされた状態のまま、メイシェンの部屋の前へと連れて来られてしまっている。
「やっほうメイッチ!! レイとんが迎えに来たよぉぉ!!」
そう声をかけた次の瞬間には、蹴破らんばかりの勢いで扉が開けられた。
当然、首をロックされたレイフォンも一緒にメイシェンの部屋へとお邪魔することとなり。
「え?」
次の瞬間視界に飛び込んできたのは、当然のことメイシェンだった。
窓を背にしていても、それは間違えようがない。
ベッドから立ち上がろうとしているところだ。
既に髪は何時も通りに整えられ、何時でも泣き出しそうな瞳に驚きの色を乗せてこちらを見ている。
こんな時間に来ることなど初めてなのだし、当然ミィフィが知らせているなどと言う事はない。
驚くのは当然なのだが、次の行動に移ろうとしない。
普通なら何かリアクションがあるはずだ。
驚いて、立ったばかりのベッドへと座り込んでも良いし、軽く手を挙げて挨拶を返してきても問題無い。
だが、メイシェンは全く動こうとしない。
「あ、あの、メイシェン?」
そう声をかけてみた物の、凍り付いてしまっていることだけはレイフォンにだって十分に理解できている。
それは何故か?
ベッドから立ち上がろうとして中腰になっているからである。
本来中腰というのは、結構辛い姿勢なのだが、今のメイシェンにとっては何ら問題無い。
そう。スカートを膝の付近まで引き上げているという状況の前では、中腰でいることなど何ら問題ではない。
とても柔らかそうな白い肌は瑞々しく、日差しを背にしたその姿はまさに清らかな乙女である。
い、いや。中腰になったためにいつも以上に強調され、縛ったリボンとブラウスを持ち上げている、その豊満な胸の膨らみはあまり清らかではないかも知れない。
いやいや。胸の膨らみが豊満かどうかと清らかかどうかは、全く関係がないから問題無い。
つまり、メイシェンは今も清らかな乙女なのである。
スカートが中途半端なところで止まっているけれど。
(ああ。薄桃色なんだ)
そう心の中で呟く。
何が薄桃色なのかという詮索はしてはならないのである。
前回は水色だったが、何がと言う詮索はしてはいけないのだ。
そして、数秒の時間が無為に流れた。
今見ている映像は、何時ぞやの腕試しの時の映像と共に、脳の最重要記憶領域へと慎重に保管しつつ、ミィフィが握ったままだった扉のノブを掴み、ゆっくりと閉める。
他に何かするべき事は存在していないのだ。
そして大きく一つ息を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。
ミィフィの拘束をやんわりと解き、立ち上がる。
「なんだ? メイはまだ準備中だったのか?」
ここでやっともう一人の住人であるナルキが、自室から出てきた。
これは最大限利用しなければならない。
ミィフィとアイコンタクトで全てを打ち合わせて、そして即座に行動に移す。
「「ナルキ!!」」
「な、なんだ?」
当然、何が起こっているか分からないナルキが驚愕して固まっている間に、全てを終わらせるのだ。
今まで色々と酷い目に合わされてきたミィフィだったが、この瞬間だけは共闘しなければならないのだ。
「「後は任せた!!」
「な、なんだ?」
当然レイフォンは登校の準備を終了させている。
そしてミィフィも、鞄を持つだけになっていたようだ。
そして二人で後も見ずに寮から逃げ出す。
この後何が起こるかなど考えてはいけないのだ。
最終的に、ナルキに付き添われたメイシェンが登校したのは、レイフォン達が到着してから二十分後のことだった。
良くもこれだけ短い時間で、メイシェンを再起動させられたと関心こそすれ、批難したりすることなど有りはしない。
そして恐るべき事が判明したのだ。
なんとミィフィは朝食を抜いていたのだ。
どうやらメイシェンは、朝食の準備は制服を着た後にやるつもりだったようだ。
ただ単に、メイシェンを驚かせたくてレイフォンを朝早く呼び寄せただけだったようだ。
ミィフィが着替えを終わらせていたのも、レイフォンを迎えて襲撃するためだったとすれば、納得が行こうというものだ。
「と言うようなことがあってな」
そして今、昼食の席でナルキが事の顛末を大雑把に語っている。
集まったメンバーは何時も通りで、ナルキにリーリンにフェリ。
そして徹夜続きだったらしいウォリアスと、非常に元気そうなイージェ。
何故かシャーニッドに連れられたエドも、何時も通り一緒にいる。
そして目の前には、メイシェン渾身の力作と、リーリン快心の絶品料理が所狭しと並んでいる。
昨夜機関清掃があったために、レイフォンは料理をしていないが、それでも十分な量がそろっているし、質的に何ら問題無いのは当然である。
そしてこれが最も重要なことなのだが、ミィフィとレイフォンはお預けを食らっているのだ。
「くぅぅん」
「あぅぅぅ」
「ふんだ!」
懇願の視線でメイシェンにお伺いを立てるが、当然のようにそっぽを向かれてしまった。
それはまあ当然のことではある。
あんな辱めを受けて、平然としていられたらそれこそ清らかな乙女ではない証拠だから、それはそれで問題無い。
問題なのは、今空腹だと言うことだ。
「お前って、何処までラブコメ体質なんだよ?」
「ぐへへへへへ。そうでなくちゃつまらねぇよなぁ」
酷くやつれているウォリアスの溜息混じりの呟きと、変にテンションの高いイージェの、下品な笑いが空っぽの胃に響く。
そして、当然のようにリーリンとナルキの視線も非常に冷たい物となっている。
いや。明らかにリーリンのは殺意さえこもっている。
何故こもっているかは全く分からないが、それでもこもっているのだ。
「まあ、若い内に色々体験しておいて損はないな」
「へへへへへへ。もてる男なんてみんな餓死すれば良いんだ」
シャーニッドとエドは何時も通りの反応だ。
空腹であることに変わりはないけれど。
当然のことではあるのだが、メイシェンの許可を貰わなければ、目の前の食事に手を付けることは出来ない。
なのでさっきから懇願の視線を送っているのだが、当然まだ怒ったままだ。
「見ていると情けなくて腹が立ってきますね」
そう言いつつ席を立ち、レイフォン達の方へやって来たのは、鞄を手に持ったフェリだ。
もしかしたら、何か食べさせてくれるのかも知れないと、ほんの僅かな期待を込めてその挙動に注目する。
それはミィフィも同じだったようで、必死の形相でフェリを見ている。
それはもう、女神を崇拝するかのような真摯な視線だ。
そして、女神がそっと鞄の中から何かを取りだした。
それは二つだった。
それは黒かった。
それは、レイフォンの背中に冷や汗を流させた。
それは、ミィフィに絶望という名前の雷を叩き落とした。
「これを飲めば、二、三日何も食べなくても平気だという、私が調合した超臨死ゼリーです」
臨死である。
しかも、超である。
即死でないのは救いなのだろうか?
それとも、死に神の采配なのだろうか?
「さあ。遠慮せずに二人ともこれを飲んで下さい」
後ずさる。
空腹とは言え、あれに手を出してはいけないのだ。
何故か全く不明だが、レイフォンの全身を冷や汗の集団が猛烈な速度で駆け下りて行く。
それはもう、リーリンに惨殺されかけた時と同じくらいに、危険極まりないと感じてしまっているのだ。
「クスクス。安心して下さい」
「な、なにをでしょうか?」
「ど、何処を安心すればいいのでしょうか?」
二人そろってフェリを観察する。
どう見ても嗜虐的に、事態を楽しんでいるようにしか見えない。
「兄で人体実験は終了しています。死にかけるだけですから安心して下さい」
「何処を安心するんですか?」
「生徒会長よりも私はか弱いですよ」
あれを飲むくらいなら、餓死寸前まで我慢した方がましである。
いや。この事態を根本的に解決するためには、メイシェンのお許しが必要だ。
そうすれば、あの恐ろしげなゼリーから逃れられるだけではなく、満足な食事だって出来るのだ。
と言う事で、メイシェンに助けの視線を送ろうとして、絶望した。
「クスクスクスクス」
当然フェリは気が付いている。
レイフォンとミィフィだけが気が付かなかった。
三人を残した残りのメンバーは、机と椅子を移動させて、怖々という感じでこちらを観察しているのだ。
もしかしたら、恐怖映画を見て楽しんでいる感覚に近いのかも知れない。
十分にあり得る。
「さあ。存分に召し上がれ。完璧な栄養計算を行っていますから、これだけ飲んでいても全く健康的に過ごせますよ」
何個目で死ねるだろうかとか考えてしまった。
何個までだったら平気だろうかとは考えない。
何時、慈悲に満ちた死が訪れるかそれが問題なのだ。
この極限の拷問は、授業が再開されるその瞬間まで続いた。
昨日はバンアレン・デイというものだったそうだ。
他人事なのは、ニーナにはあまり関係がなかったからだ。
セリナに延々とお菓子を作れとせっつかれたが、それを極力無視して過ごした。
だが、完全に無関係というわけにはいかなかった。
長身で赤い髪をした先輩と関わってしまったからだ。
不可思議な現象をいくつも経験した。
なんといっても、雷迅という技を見せられた。
攻撃に特化した技で、確かに防御主体のニーナには是非とも必要な技だった。
その後機関部へと案内する羽目になったが、まあ、それ自体はさほど問題無い。
問題なのは、機関部の入り口で遭遇した、変な集団の方だ。
その変な集団、お面を付けてフードを被った連中と戦う羽目になった。
ニーナの攻撃が命中したら、中身は空っぽだったのに驚いたが、問題はその後だ。
何故か上手く身体が動かない瞬間を狙って、お面集団の一部が機関部へと侵入しようとした。
その時、助けを求めるつもりはなかったのだが、それでもレイフォンの顔が浮かんできた。
次の瞬間には、そのレイフォンがニーナの前にいて、何時の間にかそこにあった白銀に耀く剣を手にした。
そしてただの一撃でお面集団を吹き飛ばしてしまった。
帰さなければ巻き込まれると言われたために、その場に放置してしまったが、それで良かったのかどうか未だに確証が持てない。
一度機関部へ降りて出入り口へと戻ってみると、何故かレイフォンが正気に戻っていて更に雷迅を知っているというのだ。
全くもって訳の分からない事件だった。
だが、今問題としている事柄はもっと即物的でいて、それ故に困難なものだ。
「でだが、これは食べても大丈夫な物なのか?」
その赤毛の先輩、ディクセリオ・マスケインから貰ったのだ。
内圧で上下の金属板が変形した缶詰を。
何でもディックの大好物だとかで、一度食べてみろとかなり強引に渡されたのだ。
しかも、かなり大量に。
先輩であるし、雷迅を見せてくれた恩もある。
とは言え、内圧で変形した缶詰というのは中身が腐敗している証拠である。
ディックの好物だからと言って、不用心に食べる気にはなれない。
そうなれば、食べ物に詳しい人間に聞くのが一番だ。
と言う事で、やや抵抗を感じたのだが、ウォリアスを女子寮へと呼んで件の缶詰を見せる。
いや。正確にはニーナが呼んだわけではない。
戦略・戦術研究室に籠もり気味なウォリアスを、リーリンが食事に招待したのだ。
そのついでに缶詰を鑑定して貰っているというのが、正しい表現になるだろう。
「ああ。ニシンの塩漬け缶詰ですね」
何故かろくに見ないうちにそれがなんであるか解ったようだ。
流石と言うべきか、それとも、それ程の特色が缶詰にあるのか。
だが、正体不明の敵に挑みかかるよりは遙かにましであることも事実。
「これは食えるのか?」
「食べられますよ。発酵しているだけですから」
「・・・・・。発酵と腐敗では何が違うのだ?」
ウォリアスの言葉に少しだけ疑問を持った。
今まで気にしていなかったが、発酵と腐敗は何が違うのだろうかという疑問が湧いてきたのだ。
別段、知らなくても何ら問題無いのだが。
「同じ現象ですよ」
「お、同じなのか?」
「ええ。現象としては同じです」
平然と返ってきた答えに、かなりの衝撃を覚える。
発酵も腐敗も同じなのだとは、どうしても思えないのだ。
「人間にとって、都合の良い物を発酵。悪い物を腐敗と呼び分けているだけですから」
「・・・・・・・・・・。そうなのか?」
「そうなんです」
何度も頷きつつ、なにやら小麦粉を練っている。
食事に招待されたはずだが、最終的に作るのを手伝わされているようだ。
きっと、栄養補給と軽い運動をかねた、合理的な理由でそうしているのだろうと思うのだが、実はもう一つ不思議なことがあるのだ。
「にゃぁ?」
「はいはい。少し待っていてね」
何故かソファーに座り込み、セリナの方を見詰めている赤毛で小柄な女性がいるのだ。
昨日何か問題を起こしたのか、問題に巻き込まれたのかしたらしい、第五小隊のシャンテその人である。
普段以上に猫的な属性を発揮して、座りつつも何か非常に機嫌良さそうに丸くなっている。
そしてセリナの方はと見れば、なにやらお菓子の準備をしているが、ニーナは見てしまった。
セリナが隠し持った、小さな注射器を。
何か液体が入っているわけではない。
ならば採血のために使うのだろうと思うのだが、何故シャンテの血液が欲しいのかが分からない。
いや。分かりたくない。
こっそりと笑うセリナの表情が、もの凄く怖いからだ。
と言う事で、ニシンの塩漬けとか言う物を開封しようと試みる。
著しく変形しているために、非常に缶切りを当てにくいが、それでも何とかするのがニーナクオリティーだ。
「そうそう。それが大好物だった武芸科の先輩がいまして」
「ああ。ディック先輩だろう」
こんな変な物が好きな人間など、そうそういるものでは無い。
ならばもうディック以外に考えられない。
そう言えば、貰った人物がディックだと言うことは言っていない。
これを開けて、みんなで食べる時にでも言えば良いかと作業に集中する。
「良く知っていますね?」
「私を脳筋人間だと思っていたのか?」
珍しくウォリアスに感心されたので、思わず調子に乗って悪い言葉を使ってしまったが、まあ今回だけだからかまわないだろう。
この次があるかどうか怪しいのだから。
「ディック先輩の肝いりで作り始めたんですけれどね、なかなかに癖の強い味と香りなもんで、未だに少数生産の貴重品というか、高級品に分類されるらしいですよ」
「ほう。ただでそんな物をくれるとは流石に太っ腹だな」
雷迅も殆どただで見せて貰ったようなものだし、レイフォンが教えてくれるというのならば、体得できる確率は極めて高い。
丸儲けである。
そして、小麦粉を延々と練りつつ殆どこちらを見ないウォリアスが。
「そうそう、それを開ける時に注意事項がありましてね」
「うん?」
ちょうど夕食の用意が出来たのか、リーリンとレウもこちらにやってきた。
少し変わった物を夕食に出せるかも知れないと、ニーナは期待を持った。
「内圧が高い上に悪臭が凄まじいので、屋内での開封は厳禁なんですよ」
「ほう。そう言う物なのか? ・・・。なに?」
奇跡的な確率で、缶切りが引っかかってしまった。
そして思わずウォリアスの方を向いた拍子に、力が入り金属を打ち破り、そして内圧が解放された。
目の前には、ハンカチで鼻と口を押さえたレイフォンがいる。
普段こんな事をされたら、それこそ女性陣が烈火のように怒り狂うところだろうが、残念なことに現在は非常事態の真っ最中なのだ。
「ああ。信じてくれないとは思うのだけれどな」
その当事者であると同時に被害者であるウォリアスは、女子寮の四人と共にレイフォンの部屋を訪れていた。
現在女子寮は封鎖されている。
ニシンの塩漬けの缶詰は、それはもう凄まじい悪臭を振りまくのだ。
しかも、なかなか臭いが取れないというおまけ付きの凄まじさである。
と言う事で、清掃専門業者に入って貰って、徹底的に清掃してもらう事となっている。
現在進行形でないのは、夕食の時間だったからで、作業自体は明日からとなっている。
再び人が住めるようになるためには、数日かかるという診断結果が出ているほどに、ニシンの塩漬け缶詰は凄まじいのだ。
そして、ここにいないもう一人は、現在ツェルニ中を逃げ回っているらしい。
もともと、野獣に育てられたシャンテは、非常に感覚器官が敏感だった。
そこへ持ってきてあの悪臭の直撃を受けてしまったのだ。
涙を流し、鼻水を垂らしながら、全力の活剄を使って女子寮の壁をぶち破って脱出。
そのまま行方不明となっていたのだが、第五小隊が総出で捜索。
つい先ほど果樹園の側で泣き声を聞いたという情報を得たところだ。
よほど臭かったのか、あれから二時間以上経っているというのに、シャンテは未だに泣いているのだ。
ならば、目の前にいるレイフォンの対応も納得できようというものだ。
「全員服を着替えて、これでもかというくらいに身体を洗った後なんだよ」
「そ、そうなんだ?」
はっきりと疑いの視線でこちらを見るレイフォン。
ウォリアスだけだったら、間違いなく嘘だと決めつけられていただろう。
リーリンやニーナがいるから疑われているだけで済んでいるのだ。
「それで、ここに何の用?」
そう。ここはレイフォンの部屋である。
二人部屋を一人で使えると喜んでいるという話は聞くが、それでもかなり狭い。
普段ならば、よほどの用事でもない限りここには来ない人達が、ただ今現在ここにいる。
そう。非常事態なのだ。
そして非常事態ならば、贅沢は言っていられないのだ。
「ここに、四人泊めて欲しいのだ」
代表してニーナが言う。
残り三人も頷いている。
「無理です」
即答されたが、それは当然だ。
ここにはレイフォンが住んでいるのだ。
そこに四人の女性など放り込むことは、おおよそ不可能である。
ただ一つの解決方法を無視すれば。
「お前が僕ん所に泊まれば話は簡単だ」
そう。レイフォンがウォリアスの部屋に泊まりさえすれば、二つのベッドに四人で寝られる。
狭いだろうが、非常事態ならば仕方が無いし、数日間の辛抱なのだ。
だが、当然そんな物でレイフォンは納得しない。
「有料の宿泊施設は?」
「断られた」
そう。着替えて身体を洗ったというのに、有料の宿泊施設に断られてしまったのだ。
レイフォンの今の状態を見れば、その判断が間違っていないことは十分に納得が行く。
もしウォリアスが責任者だったら、間違いなく断っていると言い切れる。
「・・・・・・・・・・・・・・・。分かりました」
「済まない」
長い沈黙の後、レイフォンが渋々と了承してくれた。
これでやっと人心地つくことが出来る。
「お詫びにニシンの塩漬けを」
「持って帰って下さい、そんな物騒な代物は!!」
何を思ったのか、ニーナが差し出した変形した缶詰を払いのけるレイフォン。
容器が破損しなくて良かったと胸をなで下ろしつつ、十分すぎるほどにレイフォンの気持ちが分かる。
と言うか、ニーナの考えが分からない。
求めよ、さらば奪い取れ。
この言葉を残したディックは今、その言葉の通りの行動を取っていた。
そう。ニシンの塩漬けの缶詰が保管されている倉庫へと侵入し、持てる限り持って逃げ出したのだ。
殆ど需要がないために、生産量が限られている上に、知っている人間まで極少数となれば、警備など殆どされていないのは当然のこと。
と言う事で、悠々と盗んで記念女子寮へと侵入した。
「げへへへへへ。俺って強欲だからよ」
室内は、特有の悪臭で満たされている。
素人が嗅いだならば、瞬時に逃げ出すだろうこの悪臭こそ、ディックにとってはお袋の味ならぬお袋の臭いだ。
いや。じいさんの臭いだろうか?
胸に吸い込みつつナイフを強引に突き立てて、更に臭いをきつい物へと変える。
これで、もう暫くここは無人だ。
久しぶりにツェルニにやって来たのだし目的も達成できたので、少し骨休めをしようと思い立った。
事は昨夜ニーナと会う少し前に遡る。
ツェルニと縁を結ぶ事を目的にやってきたのだが、ふと思いだしたのはディックが脅して製造を開始させたニシンの塩漬け。
あまりにも懐かしくなったというわけではないのだが、それでも思いついたらどうしても食べたくなった。
と言う事で、売っている店を見つけて盗んできたのだが、気まぐれで全部ニーナにやってしまった。
と言う事で、縁を結び終えて目的を達成した今になって、倉庫へ侵入して更に大量に盗み出してきたのだ。
記念女子寮にやってきた理由は簡単。
ここなら確実に食料品があるから、盗むのは簡単。
もしかしたら、料理された物があるかも知れないから、それとニシンの塩漬けを食べようと思っていたのだ。
だが、入ってみたら建物はもぬけの殻。
更に悪臭に支配されている。
ならばもう、やる事は一つしかない。
と言う事で、開封した缶詰と夕食らしい料理をつまむ。
これほどゆっくりと食事が出来るのはずいぶん久しぶりだと、ほんの少しだけ気を緩める。
ここでもし狼面集なんかが襲ってきたら、それこそ恨み辛みを込めて全滅させるところだが、今日はそんなイベントは存在していないようだ。
「げへへへへへへ。暫くここは俺のもんだ」
ツェルニの卒業生であるディクセリオ・マスケインは、取り敢えず暫くここで骨休めをすることとした。
非常に傍迷惑であるが、全く気にしていない。
その瞬間、何が起こったか全く分からなかった。
それでも、シャンテは本能的に行動できたのだと思う。
具体的に言うと、その何かから逃げるという行動を取ることが出来たのだ。
あと三秒あそこにいたのならば、二度と美味しい物が食べられない身体になっていただろうと、そう確信している。
だが、それでも、未だにシャンテの目からは滂沱の涙がこぼれ落ち、鼻からは鼻水が延々と流れ続けているのだ。
あれが何だったのか、シャンテには分からない。
分からないが、とても恐ろしい物だと言う事は間違いない。
こうまでシャンテを苦しめる物が、平穏無事な何かであるはずがないのだ。
そして、シャンテは全力で走り続ける。
目は見えないし鼻も利かないが、他の感覚器官を総動員して、障害物を避けながら、時々粉砕しながらも全力で走り続ける。
止まっては駄目なのだ。
止まったら最後、あの恐るべき何かに追いつかれてしまうから。
女子寮を逃げ出して数分した頃、走る速度を落としたことがあった。
あそこから逃げたのだからもう大丈夫だろうと思ったのだが、それはシャンテを追ってきていたのだ。
目や鼻に降り注ぐ何かが強烈になったのだ。
正体不明の何かは、シャンテを捉えようと未だに追い続けているに違いない。
その証拠に、活剄を使って回復をしているはずだというのに、未だに涙と鼻水が止まらないのだ。
これほど恐ろしい化け物から逃げることなど、出来るとは思えないのではあるが、それでも野生の本能が逃走を選択し続けているのだ。
止まったら死んでしまうかも知れないのならば、走り続ける以外にないではないか。
だが、走り続けるにも限度という物がある。
そもそもが、シャンテの活剄はあまり効率が良くないのだ。
ゴルネオを凌駕する剄量を持っていたとしても、それはかなりの部分で無駄に消費されてしまう。
そう。もうすぐあれに追いつかれてしまうのだ。
「シャンテ!!」
絶望が首筋を撫でた瞬間、最も愛しく頼りになる人物の声が聞こえた。
目も耳も使い物にならないが、耳には何ら問題はない。
だからこそ、シャンテには聞こえたのだ。
「ゴルゥゥゥゥゥゥゥ」
涙と鼻水を流しつつ、ゴルネオの声のした方向へと全力で走り続ける。
そして、唐突にシャンテの感覚は目の前に障害物が何もなくなったことを認識した。
これならばゴルネオのいる場所まで一直線だと、そう確信した。
「シャンテ?」
だが、次の瞬間には、そのゴルネオの声が右後ろから聞こえてきたのだ。
どうやらすぐそばにいたのに、活剄を使って走っていたために行き過ぎてしまったようだ。
とはいえ、落胆する必要は全く無いのだ。
大きく時計回りに円を描けばゴルネオの所にたどり着けるのだ。
ならばもうやる事はただ一つだけだ。
ゴルネオのいる場所に向かって全力疾走するだけであるから、最後の力を振り絞って活剄を総動員して、更なる加速をしようとして、そして何かに足を取られた。
勢いを殺せないまま、身体が前方へと投げ出されつつ、空中で回転する。
致命的な失敗だ。
ゴルネオが待っている場所まで、あと少しだというのに、躓いてあれに追いつかれてしまう。
だが、次の瞬間襲ってきた何かは、今までの恐るべき正体不明の何かとは違った。
「ごぼごぼごぼごぼ」
息が出来なくなった。
次の瞬間、シャンテは自分が水の中にいるらしいことを認識した。
そして不思議に思った。
正体不明の、あの恐ろしい何かが追いついてきていないのだ。
それどころか、涙と鼻水が急速に収まり始めている。
いくら活剄を使って回復させようとしても、一向に収まる気配の無かった、あの恐るべき何かが急速にシャンテから離れて行く。
だが、驚いている暇はないのだ。
そう。シャンテが今いるのは水の中である。
そして、陸上での狩りは十分に心得ているのだが、水の中などと言う物に入ったことはない。
それはつまり。
「ごぼごぼごぼごぼごぼごぼ」
吐き出した空気の分からだが重くなり、どんどんと沈んで行くという現実が目の前にある。
このまま、あの何かに殺されるのではなく、溺れて死ぬことになるかも知れないと、そう思った瞬間、とても力強い手がシャンテを抱えた。
そして、驚くほどの速度で上昇して行く。
「ごほごほごほ。ゴルゥゥゥゥゥゥ」
水面から顔が出て、呼吸を整えた次の瞬間、シャンテは自分を助けてくれた最も頼りになり、最も愛おしい巨漢の首に力任せに抱きついた。
そこに一切の手加減はない。
「ぐえ!」
何か変な声がしたような気がするが、今のシャンテにはどうでも良いことだ。
兎に角恐ろしい体験続きだった今日を生き残れたことをゴルネオに感謝しつつ、抱きついた手に込めた全力を緩めることはしない。
当然の事、ゴルネオが自分とシャンテを支えきれなくなり、再び水の中へと沈んでしまったが、第五小隊総掛かりで無事に救出された。
こうして三日続けてシャンテに振り回されたゴルネオと第五小隊の苦労は、報われたのであった。
朝日が病室を照らす中、カリアンは目覚めた。
一事は死を覚悟したが、何とかフェリ以外の人間が駆けつけてくれて、命は助かった。
とは言え、丸二日近く意識を失っていたらしく、頭の上にある時計で日付を確認したカリアンは、驚いてしまった。
「レイフォン君と同じ程度には、私の生命力は強いのかな?」
口にしてから気が付いた。
レイフォンは、治療を受けずに丸二日昏睡していたのだ。
カリアンは、治療を受けて二日近く昏睡していたのだ。
この差は決定的である。
治療が間に合わなければ、今頃本格的に葬式の真っ最中だったかも知れないのだ。
あまりにも恐ろしい事態に、十分以上に鳥肌が立ってしまった。
これからは、ゼリー飲料には細心の注意を払おうと、堅く心に誓う。
だが、油断してはいけない。
相手がゼリー飲料だけだとは限らないのだ。
これからは、誰かに毒味をして貰ってからでなければ、水一杯すら口に出来ないかも知れない。
そんな恐ろしい未来予想図を思い浮かべたカリアンは、今だけは安らかな眠りをむさぼることに決めた。
そうでなければ、とても耐えられないからだ。
解説。
シュールストレミングについて。
意味としては、酸っぱいバルト海のニシン。
世界一強烈な臭いを放つ発酵食品として、一部で有名。
臭いの強度としては、焼きたてのくさやの七倍近い強烈さだとされているが、俺自身試した事がないので全く不明である。
リクエストにより登場させようとしたが、オスカー先輩では臭いに負けてしまいそうだったので、レギオス世界最強のトラブルメーカーの大好物となった。
ちなみに、缶詰後に発酵が進むために、日本では缶詰扱いされていないそうである。
インターネットなどで手に入るそうなので、度胸のある方は一度お試しください。
後書きに代えて。
ディックがこそ泥になっているという突っ込みは、不可ですのでご了承ください。
それはさておき、実はこの話こそが食料大戦の原点だったりします。
一応の完成を見たのが、なんと去年の九月と言うから、かなり掲載まで時間がかかってしまいました。
ディックのおじいさんの特色などで、かなり加筆修正が加わっているのは言うまでもありません。
まあ、これ以上はやらないつもりですので、ご安心ください。