障害物を効率よく越えるために高く跳躍したレイフォンは、視線を指示された付近へと向けた。
そして理解した。
確かに通常の生き物ではないと。
目的とする場所付近にいたのだ。
金色に耀く、四つ足の動物らしき物が。
活剄を使って視力を強化してみるが、それは雄山羊のように見えた。
猛々しく伸びた巨大な角が頭頂部を飾り、悠然とその場に佇んでいる。
報告では移動しているとのことだったが、レイフォンが見つけた瞬間から全く動いていない。
跳躍の最高点を過ぎ、穏やかな降下に入りつつある今も、それは変わりがない。
そして、その金色に耀く雄山羊の少し手前に着地するために、軌道をやや修正した第二跳躍を実行した。
計算通りに、謎の山羊の宿泊施設側、二十メルトル付近へと着地することに成功した。
この一事を取ってみても、相手に敵意や害意がないことが分かる。
目の前に着地するのを黙ってみている敵など、よほどのお人好しか自信過剰な馬鹿者しか居ないからだ。
万が一に攻撃された時のために、復元しておいた鋼糸を刀の状態へと変化させつつ、レイフォンの思考は既に凍り付きかけていた。
敵意も害意もない。
汚染獣特有の、飢餓感と共にある殺意さえない。
だが、その場にいるだけの雄山羊から、壮絶な存在感が溢れ出しているから、レイフォンの思考は凍り付きかけているのだ。
その存在感は、とてもレイフォンに耐えることが出来ないほど強烈な物だ。
「なんだ、お前は?」
未知なる存在に上手く動かない思考と共に、レイフォンは問いを発する。
敵ではないと思うが、味方であるとも思えない。
ならば、排除すべき存在か?
それにも明確に答えることが出来ない。
『お前は違うな』
その黄金の雄山羊が、都市そのものを振るわせるように喋った。
いや。その口は固く閉ざされているから、もしかしたら違うのかも知れないが、それでも目の前の未知なる存在が喋ったとしか思えなかった。
『この区域の者か。ならば伝えよ。我が身は既にして朽ち果て、もはやその用を為さず。魂である我は狂おしき憎悪により変革を遂げ炎とならん。新たなる我は新たなる用を為さんがための主を求める。炎を望む者よ来たれ。炎を望む者を差し向けよ。我が魂を所有するに値する者よ出でよ。さすれば我、イグナシスの塵を払う剣となりて、主が敵の悉くを灰に変えん』
長い台詞の間、やはり雄山羊の口は閉ざされたままだが、それでも間違いなく目の前で言葉を発しているのだと直感的に理解した。
だが、そこから先を決断することが出来ない。
戦うべきなのか、それとも交渉を持つべきなのか、はたまたお引き取り願うべきなのか。
だが、一つだけ分かったことがある。
こんな異常な存在をツェルニに向かわせるわけには行かない。
ならば、ここで戦いその行動能力を奪わなければならない。
「簡単に言うな」
自分の出した結論に甚だしい疑問を持ってしまった。
敵対行動を取っているわけでもない存在に、一方的に押しまくられている状況を脱して、その戦闘能力や移動能力を奪う。
どう考えても無理な話だ。
『止めておけ。今お前が感じているのは、お前自身だ』
意味不明なことを言っている雄山羊に向かって、一歩踏み出す。
だが、距離は全く縮まっていない。
そして驚愕した。
雄山羊が後退したというわけではない。
レイフォンが動いていないのだ。
「そんな」
色々な汚染獣と戦ってきた。
普通の都市だったら確実に滅ぼされているような、老性体二期以降とも何度か戦った。
ついこの間も、老成二期と戦い、何とかそれを撃退した。
だと言うのに、そのレイフォンが一歩も動く事が出来ない。
こんな異常な存在がツェルニに乗り込んだのならば、間違いなくこの都市のように廃都市となってしまう。
その事態だけは絶対に避けなければならない。
そう決意したレイフォンは、錬金鋼に回さないように細心の注意を払いつつ、全身に全力の剄を巡らせる。
全身から衝剄を迸らせ、あらゆる物を吹き飛ばそうと試みる。
『無駄だ。我は道具。我は何者でもない。何者でもない以上切ることは出来まい』
混乱しつつあるレイフォンの思考だったが、それでも片隅に残っている冷静な部分が雄山羊の言っていることが正しいと認めていた。
だが、ここで止まることなど出来ようはずが無い。
ツェルニに行かせるわけにはいかない。
いや。
この場に留めておくことさえ危険だ。
食事時だったために、捜索隊全員があの場所にいた。
ならば、それ程時間を経ずにみんながここに来てしまう。
そして、誰かが犠牲となってしまうだろう。
誰か一人でも帰らなかったら、きっと誰かが悲しむ。
レイフォン自身には関係ないと言えない程度には、ここにいる人達と深く関わってしまっているのだ。
そして最も恐れなければならないのは、ナルキが犠牲になることだ。
もし、ナルキが帰らなければ、メイシェンが悲しみの中で壊れて行くかも知れない。
その危険性を認識した次の瞬間、恐怖が消えた。
感情の尽くを切り捨て、目の前の存在を敵と見定めて、滅ぼすために我が身を省みずに・・・・・・。
「違うだろ」
それでは駄目だ。
レイフォンが帰らなかった時も、結果は同じなのだ。
ならば、目の前の雄山羊を切り伏せ無事にツェルニに帰らなければならない。
感情を全て切り捨てるのとは明らかに違う、何か静かな水面のような精神状態に変化した。
それと同時に、今まで呼吸することさえ困難だった威圧感が、殆ど消えて無くなっていることに気が付いた。
『おお! その極限の意志は見事。だが、やはりお前は違う』
雄山羊から初めて生き物らしい感情が見えた気がした。
それは驚きであり賞賛であったかも知れないが、今のレイフォンにとってはあまり意味のない出来事だ。
そもそも、雄山羊の認識は間違っているのだし。
「これは極限の意志なんかじゃない。グレンダンにいた時の普通だ。極限なんかじゃない」
常に戦場に出て、そして帰る。
考えてみれば、レイフォンは始めからここに居たのだし、今だってここに居るのだ。
ならば何ら特別なことではなく、何時も通りの日常でしかない。
相手が正体不明の、生き物かどうかさえ怪しい黄金に耀く雄山羊だと言うだけのことだ。
だが、敵と見定めた雄山羊は、確実に知性を備えてレイフォンと交渉、あるいはそれに近いことをしようとしている。
戦う必要はないのかも知れないが、それでも野放しにしておくことは出来ない。
活剄で強化した感覚が、後ろから多数の人間が接近しているのを捉えている。
もはや時間はない。
今まで清眼に構えていた刀を、右下段へと移す。
全身に回った活剄の余波だけで既に赤熱化している青石錬金鋼は、もはや使い物にならないだろう事が分かる。
ならば使い捨て覚悟でほぼ全力の剄を注ぎ、一気に閃断を放った。
『見事』
捉えたという感覚はない。
放った剄はそのまま雄山羊を素通りし、少し先にあった建物を斜めに切り裂いて終わった。
だが、効果があったかどうか非常に疑問であるのだが、閃断を受けた雄山羊の姿が揺らぎ、そしてそのまま消えて行くのを確認することも出来た。
その次の瞬間、レイフォンは未だに刀を持ったままだったことに気が付き、慌てて全力の活剄を使って投げ捨てた。
「ひぃぃ!」
ギリギリだった。
僅か五メルトル先で錬金鋼が爆発。
真面目に寿命が縮む思いを味わったが、それでもなんとか無傷でおかしな敵との戦いを終えることが出来た。
そして、その爆発音が消えた頃合いになって、とりあえず錬金鋼だけを手に持っただけと言える状態の、ほかの面々が駆けつけてきたのだった。
夕食の準備を終えつつあるリチャードを眺めつつ、デルクは嫌な汗が背中から流れるのを止めることが出来ないで居た。
今日も滞りなく道場の稽古は終了し、近くに住む武芸者はみんな帰宅している。
そして今道場に残っているのは、デルクとリチャードだけである。
何ら問題無いはずだというのに、冷や汗が止まらない理由については、何となく心当たりがある。
ここ何日か、人であって人でない不気味な気配が身の回りにあるために、緊張を解くことが出来ないのだ。
武芸者である以上、常に戦いのために準備をしておくことは当然である。
そのためにも、日常生活でも緊張を完全に解くと言うことはない。
それはグレンダンという汚染獣との戦闘が異常に多い都市に住んでいる、全ての武芸者について言えることだし、レイフォンに至っては恐るべき事に眠っている時でさえ戦闘時並に感覚を鋭くしていたほどだ。
リーリンが蹴り起こしに行く時は、何故か全く反応できなかったのだが、これはもしかしたら一種の遊びだったのかも知れない。
「どうしたんだ親父? なんだか無駄に緊張しているみたいだけれど」
「う、うむ」
そんなデルクの緊張を感じ取ったのだろう、リチャードが巨大な鍋をテーブルに置きつつ軽い口調で話しかけてきた。
だがデルク以上に、リチャードも緊張していることが分かる。
普段は決して見せないほど、その視線は鋭く研ぎ澄まされ、何か起こったらすぐにリアクションを取れるように身構えているのだ。
デルクの知らないところで何か進行していることだけは間違いない。
サヴァリスが決闘を申し込んできたとか言う話でなければ、かなり恐ろしいことが進行しているのかも知れないと思う。
「何事もなければよいのだが、なにやら不穏な気配を感じてならないのだ」
「・・・・。ああ。武芸者に狙われているという感覚はあるんだが、その感覚が不安定というか揺らぎがあるというか」
「お前も感じていたのか」
レイフォンの殺剄さえ効果がないリチャードの感覚でさえ、明確に捉えることが出来ない相手。
それは即座に天剣授受者以上の実力者に狙われていると言う事につながってしまうかも知れない。
そんな存在が居るとすれば、それはグレンダン女王アルシェイラだけ。
つまり、デルクとリチャードはアルシェイラに狙われている。
「それはありえん」
狙われた次の瞬間には、道場ごと綺麗に蒸発しているはずだ。
それがグレンダン女王の実力である。
そして問題はもう一つ。
デルクの感じている人間ではないかも知れないと言う気配。
もし、この人間ではない気配をリチャードが感じているのだとしたら、不安定だと言う事も納得が出来る。
そこまで考えた瞬間、気配が動いた。
「来るぞリチャード!」
「おう!」
ここ数日持ち歩いていた鋼鉄錬金鋼を復元。
次の瞬間壁が粉砕されて、爆発的な勢いで破片がデルクと姿勢を低くしたリチャードを襲う。
咄嗟にテーブルを蹴って横倒しにして破片を防ぎつつ、牽制のための針剄を放つ。
それと同時に埃で塞がれた視界が、向こうからの衝剄によって割られた。
第一線を退いたとは言え、デルクは熟達の武芸者である。
そのデルクに拮抗するだけの戦闘能力を持つ襲撃者に、凄まじい悪寒を感じつつもリチャードを庇うように立ちはだかる。
何が有っても息子を傷付けさせるわけには行かないのだ。
そして、それは見えた。
「お主は! ガハルド・バレーン!!」
それは、一年ほど前にレイフォンにより植物状態に追いやられたはずの、因縁のありすぎる武芸者のように見えた。
だが、明らかにガハルドではない。
その目に生気も知性も理性も存在せず、有るのはただ憎しみと闘争本能のみ。
そして何よりその身に纏うのは、剄の気配ではない。
「お主に何が有ったというのだ?」
植物状態になったまま、その意識は戻っていないと聞いている。
戻ったとしても、今目の前で起こっている現象を説明することは出来ない。
だが、困惑していられる時間は既に無かった。
大きく息を吸い込んだガハルドらしき物から、なにやら振動が沸き上がる。
それが徐々に高く鋭く暴力的になった。
「拙い!」
何が起こるか、直感的に理解できてしまった。
外力系衝剄の変化、咆剄殺。
高まった振動波が凝縮され、分子構造を破壊する衝撃波として指向されて撃ち出される。
内力系活剄の威嚇術で破壊力を押さえようとデルクが動くよりも速く、何かが脇を通り過ぎた。
「なに?」
一瞬だった。
何かが目の前に広がり、一瞬でそれが霧へと変化を遂げた。
なにやらとても良い匂いがする、摩訶不思議な霧へとだ。
「親父! 咆剄殺だ!!」
不思議な現象に呆然としていられたのは、僅かに一瞬だった。
なにやら緊張に支配されたリチャードが、巨大な鍋を抱えてデルクの斜め前に佇んでいる。
そしてその鍋の中身が、リチャードが作った大量のシチューだったことを思い出した。
そしてやっとの事で目の前で起こっていることの説明が付いた。
鍋の中身をデルクの前にぶちまけて、シチューを分子崩壊させることで咆剄殺を防いだのだと。
霧状になったのは、水の分子が細かく砕かれたからだと。
咄嗟の判断ではないだろう事は分かる。
ルッケンスの流派には知られていないはずだが、レイフォンは咆剄殺を習得していた。
何度か外縁部で使っているところを見たこともある。
そして、リチャードはそのレイフォンの咆剄殺を無効化する方法を、色々と試していたのも覚えている。
まさか、実際に役に立つとは思いもよらなかったが。
だが、これが使えるのは一度きりでしかない。
相手が状況を理解したら、それに対抗する手段を取ってくると言うのもあるが、そもそも咆剄殺を封じ込められるほどの、大量の液体はおいそれと用意できないのだ。
大量のシチューは既に破壊され霧となり果てている。
相手の準備が終わる前にこちらから動いて決着を付けなければならない。
決意を込めて一歩前へと踏みだし、水鏡渡りで一気に間合いを詰める。
そして全力の剄を乗せた一撃を変わり果ててしまったガハルドへと放った。
確実に捉えたはずだったが、手応えがおかしい。
堅さと柔軟性を兼ね備えた衝撃吸収材に斬りつけ、そして受け止められてしまったようなそんな感じだ。
慌てて錬金鋼から手を放して全力で後退する。
「どうなっている?」
あまりにも異常な事態が立て続けに起こったせいで、動きが一瞬以上止まってしまった。
これは致命的だ。
ガハルドらしき何かから、再び振動がわき起こる。
「いかん!」
「あのよう」
デルクが絶望の声を上げた瞬間、リチャードがやはり声を上げた。
だが、それはある意味脱力してしまっていたのだ。
「なににやけてるんだ?」
咆剄殺が放たれた。
そのはずだったが、何も起こらなかった。
そしてデルクは見た。
ガハルドの少し後ろにいる、既に顔なじみとなってしまった天剣授受者を。
「クォルラフィン卿?」
「やあ。なかなか良い夜だと思わないかい? 特にこんな面白い奴と戦えるなんて、心躍るとても良い夜だと思うだろう?」
いつも以上ににこやかなその表情は、しかし、しっかりとリチャードを捉えている。
むしろガハルドなど眼中に無く、本命はリチャードだと言っているように、その視線はデルクの息子を見据えているのだ。
これは非常に危険である。
思わずリチャードとサヴァリスの間に割って入る。
まさか、この瞬間に天剣授受者が一般人へと襲いかかるとは思えないのだが、それでも割って入る。
「まさかルッケンスの秘奥を、あんな方法で防がれるとは思わなかったけれど、これはこれで面白いねぇ。そう思うだろうガハルド? 人間やめてまで習得したというのに、一般人に防がれる程度の威力でしか咆剄殺を撃てないなんて、本当に面白いと思うよね?」
ここでやっと視線がガハルドを捉える。
だが、それは路傍の小石を見るよりも遙かに興味がなかった。
いや。邪魔な虫を見る程度の敵意と殺意はこもっているかも知れない。
「ちなみに、さっきお前が放った咆剄殺は僕の咆剄殺で中和したんだよ。こう言う使い方もあると言う事を納得したかい? 正直お前なんかと遊びたくないけれどこれも女王からの命令でね。仕方なく、渋々と、嫌々相手をしてあげるよ?」
次の瞬間、サヴァリスの視線がデルクを捉える。
いや。おそらくリチャードを捉える。
そして、本来の標的でないはずの、デルクの背中にびっしりと冷や汗が流れた。
今まで戦った汚染獣などとは全く次元の異なるその威圧感に、呼吸が止まったのをはっきりと認識した。
後ろではリチャードが腰を抜かしているのが分かるが、それをどうにかすることなど思いもよらないほどの、凄まじい威圧感だった。
「まあ、楽しみは後に取っておくとして、先に仕事を片付けようか? 本当に面倒でやりたくないんだよ? レイフォンを脅して天剣授受者になろうなんてしたような、そんな情けない武芸者と戦うなんて、まっぴらごめんなんだよ?」
挑発をしていることは理解できた。
ガハルドに理性や知性が残っているかは不明だが、それでもその挑発に怒りの表情を浮かべてサヴァリスへと向き直る。
いや。実際に怒りの表情だったかは自信がないが、兎に角サヴァリスへと相対した。
「そうそう。君に相応しい戦場を用意してあるから付いておいで」
そう言った次の瞬間、サヴァリスがかき消えた。
それを追う様にガハルドも居なくなった。
そして残ったのは、壁が見事に破壊された無残な姿となった台所だけ。
「リチャード?」
ここに来て、やっと息子へと視線と注意を向けることが出来た。
そして視界に治めたその姿は、やはり完全にサヴァリスに飲まれて腰を抜かしていた。
「なあ、親父」
「なんだリチャード」
デルク自身も相当疲労しているのだが、それでもリチャードに向かって手を差し出す。
助け起こしながら、しかし次の言葉は何となく予想できていた。
「俺も学園都市に留学したくなってきた」
「実を言えば、私も留学したいと思っていたところだ」
既に老年に達しているデルクが留学することは出来ないのかも知れないが、それでもリチャードだけはもう少しましな人生を送って欲しいと思う。
訳の分からない襲撃事件は、こうして膜を落とした。
少なくとも引退した武芸者でしかないデルクと、一般人でしかないリチャードにとっては、天剣授受者が出てきた瞬間に終わっているのだ。
リチャードが咆剄殺を封じ込めるとは全く思っていなかったが、それはそれは非常に楽しい光景だったとサヴァリスは確信している。
咆剄殺は習得が困難なために、ルッケンスで最強の技だと思われているが、実を言えば破壊力はそれ程でもないのだ。
更に言えば、どうしても空気中を振動波が進む間に拡散してしまうから、距離が開くとそれだけで本来の破壊力を発揮できなくなると言う致命的な欠点がある。
そして今日知ったのだが、咆剄殺など大量の水があるだけで十分に防げてしまうのだ。
もちろん、あれを放ったのがサヴァリスだったら、デルクもリチャードも完璧に粉砕していた自信がある。
と言うか、道場ごと吹き飛ばす方が遙かに簡単だったと言い切れる。
「ふはははははははははははは!! 楽しいねガハルド! 老性体に取り憑かれた武芸者と戦えるからと思っていたんだけれど、もう君なんかどうでも良いよ! 早く片付けてリチャードと遊んでみたいんだ」
心の底からの高揚感と共に、笑い声を上げつつ走る。
建物の屋根を足場に高速で移動する。
そして空中の一点できっちりと停止した。
「ようこそ戦場へ」
リンテンスの張り巡らした鋼糸の上に立っているのだ。
傍目には何もないところに立っているようにしか見えないが、そこはそれ、天剣授受者の張り巡らせた鋼糸である以上、相当の衝撃でも十分に持ちこたえることが出来る。
「理解できるかどうかは兎も角として言っておくけれど、足の裏からの衝剄は止めないこと。逃げようとしたら即座に切り刻まれるからね? まあ、僕にとってはそっちの方が楽で良いんだけれどね。ああ。なんでリチャードは一般人なんだろうねぇ? レイフォンの代わりに天剣授受者になれるくらいの才能があったらきっと楽しかったのに。この世は全く不条理だと思わないかい?」
別段挑発しているつもりはない。
ただ思ったことをガハルドと老性体に向かって喋っているだけのことだ。
これほど楽しい気分になれたのは、リンテンスとレイフォンと共に戦った、ベヒモトの時以来だ。
目の前の不細工な咆剄殺しか放てない木偶人形など、もう本当にどうでも良い。
だが、サヴァリスが折角技の完成まで待ってやったというのに、こちらの台詞を全く聞いていないようなそのそぶりに苛立ちが募る。
「だからね! 人の話はきちんと聞こうよ! 折角僕が饒舌になっているんだからさ!!」
ガハルドがじっくりと練り上げた疾風迅雷の型から迸り出た蹴り技を、風列剄の一撃で粉砕する。
じっくりと技が完成するまで喋りながら待ってやったというのに、更にこちらの話を聞く気がないと言わんばかりの態度に、嫌気が差してきた。
サヴァリスの軽い一撃で撃退できる程度の、脆弱な技しか放てない老性体に取り憑かれているガハルドに。
「これなら普通の老性体と戦った方がよっぽど面白いよ? 全く特殊進化して都市を内部から破壊するなんて、着目点は良かったのにそれを生かす実力がないなんて、嘆かわしいこと甚だしいよ!」
発端は数週間前に遡る。
幼生体の大群落に突っ込んでしまったグレンダンは、当然駆逐には成功した。
だが、念威繰者が幼生体の対応に追われている隙を突いて、老性体の変異体が都市に進入したことが分かった。
当然公表することは出来ずに、天剣授受者が駆逐するために駆り出された。
だが、人に寄生することで場所を転々としつつ破壊活動をする老性体相手に、流石に手こずったのは少し前の話だ。
餌としてガハルドを放置してその側に老性体を追い込んだ。
思惑通りにガハルドに寄生したが、隠れることに特化したためかデルボネの探査を逃れてしまったのだ。
だが、ガハルドに寄生した時点で決着は付いていたのだ。
そう、レイフォンへの恨みをもったガハルドなら、その行動は予測可能である。
そして今、逃げられない状況を作り、サヴァリスが最終的に止めを刺すことになったのだ。
なったのだが。
「ああ。本当にこの世はままならないねぇ」
リチャードに老性体を取り憑かせた方が、よっぽど面白いことになったと今頃になって気が付いたのだ。
自分の浅はかさを思い知らされた上に、相手が弱いとあっては目の前の敵などもうどうでも良い。
「面倒だからさっさと始末を付けるよ」
宣言の次の瞬間、サヴァリスの身体が二つに増えた。
更に次の瞬間には四つに、次の瞬間には八つに、爆発的にその数を増やし、僅か数秒後に千を越えるサヴァリスが老性体を包囲する。
活剄衝剄混合変化・千人衝。
ルッケンスの秘奥であり、最も派手な技で一気に勝負を付けにかかる。
全てはサヴァリス自身の欲を満たすため。
軟弱な老性体なんかに引っかかって、時間を無駄には出来ないのだ。
「安心すると良い。ガハルドは汚染獣戦での戦死者と言う事で、盛大に弔ってあげるから」
その言葉を切っ掛けに、千のサヴァリスが一気に老性体に襲いかかり、乱打に次ぐ乱打を繰り出す。
当然大きさ的にそれ程でもない老性体相手に、千を越えるサヴァリスは余ってしまうのだが、化錬剄の糸をつなげることで無駄なく戦力を使うことが出来ている。
そして、僅か三秒後にはただの肉片となってグレンダンの夜風に散ってしまった。
「ああしまった。棺桶に入れる分を残しておかなくちゃいけなかったんだ」
既に後の祭りである。
まあ、父親に言って空の棺桶だけ用意して貰えばいいかと、あっさりと自己完結したサヴァリスだったが、次の瞬間思わず動揺してしまった。
「おおっと!」
いきなりリンテンスの鋼糸で作られた戦場が崩壊したのだ。
いや。せっかちなリンテンスのことだから、終わったと判断して糸を回収したのだろう。
当然、この程度の高さから落ちたくらいではどうと言う事はないが、それでも一瞬ほど驚いてしまったし、文句の一つくらいは言っておかないと流石に気が済まない。
「全く貴男はもう、どうしてこうも力尽くで事を運びますかね?」
あまり文句を言っているように聞こえないかも知れないが、それでもサヴァリス的には不平不満を口にしているのだ。
だがここでふと恐ろしいことに気が付いた。
「リンテンスさん? まさかリチャードにちょっかいだそうとか考えてませんよね? それは駄目ですからね。あれは僕の玩具なんですから」
この線だけは譲れない。
例えグレンダンを崩壊させるような戦いに発展したとしても、リチャードと遊ぶのはサヴァリスの権利なのだ。
例えアルシェイラの命令でも、これだけは聞けないかも知れない。
そんな事を考えつつ、数秒の自由落下を楽しみつつ、サヴァリスは通い慣れたサイハーデン道場を視界に捉え続けた。
廃貴族について。
こちらでは原作通りに雄の山羊であるメルルンに登場していただきました。
構想段階では、役目だけ同じで違うキャラも考えていたのですが、どうも動かしてみるとしっくり来ませんで、最終的に原作に敬意を表して(どこら辺に表しているかは謎)メルルンとなりました。
ちなみに、候補に挙がったキャラは以下の通り。
凶暴化したフリーシー(羊 ミッシングメール)
凶暴化したビスマルク(兎 本日の騎士ミロク)
凶暴化したパトラッシュ(犬 フランダースの犬)
凶暴化したラスカル(アライグマ あらいぐまラスカル)
凶暴化したピカチュー(ピカチュー ポケモン)
すべて可愛い系の動物であるあたりに、俺の限界を感じますね。
ただ、最後の最後まで使うかどうするか迷ったキャラがいます。
それは。
凶暴化したデーモン閣下(人間 実在)
これはかなり凄い事になると、構想段階ではっきりしていたために、泣く泣く却下してしまいました。
たとえば。
「フハハハハハハ!! 我が輩の体は既にして朽ち果て、魂である我が輩は狂おしき憎悪により、悪魔として変革を遂げん!!」
「う、うぁ」
「新しき我が輩は、世界征服の野望を達成するために、新たな器を求める!!」
「ひぃぃん」
「そして小僧!!」
「は、はひ!」
「その肉体を我が輩への供物として捧げよ。嫌だというのならば」
「いうのならば?」
「蝋人形にしてくれる!!」
「ど、どうぞこの体をお使いくださいませ!!」
等々。
閣下に取り憑かれたレイフォンが、あのお姿でツェルニを徘徊して、いつの間にかツェルニ武芸者の全員があのお姿に変わってしまうとか。
そんな事を考えてしまったので、泣く泣く却下しました。
ああ。でも、黒巫女のデルボネ様は書いてみたかったかな?
誰か書いてくれる人がいるとうれしいです。