一日の間に色々なことがあって、危うく忘れそうになっていたのだが、夜間の清掃作業という仕事があったのだ。
昨日も色々あったが、今日も色々あったのだ。
とある事情により、二名様ご宿泊招待券は未使用だ。
その事情のために、おそらくこれからもツェルニ在学中は使う事はないだろうと思っている。
それはレイフォンがヘタレだからと言う、どうでも良い理由と共に、もう一つ重大な事情に根ざしているのだ。
だがしかし、レイフォンとて健全な思春期の少年であるからして、メイシェンとそういう関係になりたくないかと聞かれれば、是非ともなりたいとは思っているのだ。
だが、その本能的な欲求に従うわけにはいかない極めて重要な事情も確かに存在している。
これから先の事を考えると、いつまで理性が持つか疑問ではあるのだが、それでも全身全霊を持って耐え抜かなければならないと思っている。
特にミィフィの協力が必要かもしれないとも思っているのだ。これ以上挑発をしないで欲しいという意味で。
そして、今日はリーリンの様子も何故かおかしかった。
批難するような視線で見られたかと思うと、何かほっとしたような溜息をついたり、その直後にはいきなり何かに腹を立てたりと、見ている合間に表情や雰囲気がころころと変わったのだ。
これはこれで非常につかれる現象だったが、それも既に過去へと旅立っている。
そして総決算と言えるのは、清掃作業を始めるための準備室に現れた、予想もしなかった人物との接触である。
「アルセイフ君か。相変わらずここで仕事をしているのだね」
「オスカー先輩?」
機関部清掃のために訪れた控え室には、何故か食肉加工業を営んでいるオスカーが居た。
もしかしたら、夜食の材料でも運んできたのかと思ったのだが、おそらくは違う。
通常、夜食は業者が完成させた状態で機関部まで運んできて、そこで販売だけするというシステムを取っている。
そうでなければ、食事の衛生管理が非常にやりにくくなるから当然で、ここにオスカーが居る理由が全く思いつけない。
そんなレイフォンの疑問を察したのか、質問する前に答えてくれた。
「ここの責任者が、同じ都市の出身でね。色々と世話になっているので賄賂を届けに来たのだよ」
「賄賂ですか?」
もちろん、本当に賄賂を持ってくるような性格ではないが、それに近い状況であることは間違いない。
だが、オスカーほどの人物が世話になるという状況の方が信じられないのも事実だ。
もちろん、色々な人との関わりを持つことが絶対に必要であることは間違いないが、それでも、こんな時間にオスカーがここに来なければならないほどの事態が分からない。
「実はだね」
「はい」
いきなり声を落としたオスカーの方へ向かって、一歩進み出る。
ここで大声を出されると少々驚いてしまうが、オスカーはそんな事をする人ではないと確信しているので、かなり安心だ。
「刀絡みの問題が起こっている時にだね」
「小隊に入ったばかりの頃ですね」
「そう。その時期にアントーク君とアルセイフ君が、同じエリアで仕事をしないように取りはからってもらったりしたのだよ」
「へ? 何でそんな事を?」
刀を持つかどうかで悩んでいた時期は確かに有った。
それは既にレイフォンの記憶の一部であり、迷って答えを出したという経験は間違いなく血肉となって今を作っている。
だが、それとニーナと同じエリアにならないようにしたというオスカーの行動に、全く関連性を見いだせないのだ。
「アントーク君では、君に刀を持つ様に強要しかねなかったからね」
「・・・・・・。それは現実として既に経験済みですね」
あの時のことは忘れられない。
最終的にニーナが再稼働するまでに、二時間も必要だったのだ。
だが、それはレイフォンが答えを出した後だったから、笑い話で済ませられるのだが、迷っている時だったらどうなっていたか、非常に疑問である。
「訓練の時などには干渉できなかったが、少しでも危険は減らしておきたかったのでね」
「え、っと。ご面倒おかけしました」
レイフォンは、知らないところで色々な人に助けられて、今ツェルニで平穏無事に過ごしている。
それを改めて認識して、深々と頭を下げたが。
「いや。アルセイフ君が我々のためにしてくれたことに比べれば、どうと言う事ではないよ」
「そんな大げさなことじゃないですよ。最終的には僕自身のためにやったことですから」
幼生体の時も老性体の時も、最終的にはレイフォンが嫌な思いをしたくなかったから戦っただけで、ツェルニのことはおまけでしかない。
おまけの方が巨大な気がするが、それでもレイフォンからすればツェルニがおまけなのだ。
「特別カリキュラムのこととか、小隊戦での君の戦い方とかも含めてだよ」
「そう言えば、そんな事もありましたね」
老性体戦直前の、特別カリキュラムのことは今でもはっきりと覚えている。
戦場を経験した武芸者として、後輩達に伝えるべき事を伝えなければならないと言う事は分かっているのだが、それでもかなりの負担であったことも間違いない。
「あのカリキュラム以降、武芸科全体の空気が一変したのは認識しているかね?」
「それは何となく」
小隊対抗戦では、極力今まで通りにやるという暗黙のルールが出来上がっているが、その裏で行われている訓練はかなり過酷な物になっている。
怪我人の出る割合が急速に高くなったのもそうだし、時間が長くなったのもそうだ。
そして何よりも密度が高くなっている。
全ては、レイフォンの行ったカリキュラムが切っ掛けになっているのだ。
そもそも、そのつもりで行ったので何の問題も無い。
休みが猛烈な速度でなくなっているという事実は少々困ってしまうが、それでもやらなかったよりは良かったと思っている。
だがしかし、武芸者達の努力を一般人に知られてはならない。
アルシェイラに言われたことは、おそらく正しいのだ。
だからこそ、一般人には気付かれてはならないのだ。
武芸者や念威繰者が人間でないと言う事を、本当の意味で気付かせてはいけないのだ。
だからこそ、対抗試合は今までと同じようにイベントとして楽しんでもらっているのだ。
レイフォンが変なノリで暴れ回っているのも、実はこの辺の事情と関連しているのだ。
武芸者の実力など、武芸者だけが知っていればそれで良いのだと、ほぼ全員の意見は一致しているはずだから。
「アルセイフ君が来たことによって得た利益に比べれば、私の努力など全くもって足りていないよ」
「そんな事はないと思いますよ。隊長のこととか」
ニーナにブレーキをかけたのはオスカーだと聞いている。
カリアンの暗躍によって、失敗させられたらしいと言う話はウォリアスから聞いたが、オスカーがニーナを止めたことに変わりはない。
「あれは、少々予想外だったがね」
カリアンに対する憤りか、それとも他の何かなのか、オスカーの表情から穏やかさが急速になくなって行く。
これはかなり怖いことになりそうだと、本能が告げているような気がする。
なので、全力で話を誤魔化すことにした。
「そ、それよりも、こんな夜遅い時間に出てこなくても良かったでしょうに」
「うん? それは簡単だよ。私の知人は夜行性なので昼間はたいがい寝ているのだよ」
「・・・・・。何処の吸血鬼ですか?」
「本人は、山猫の末裔だと言っているが」
山猫がなんなのか少々疑問ではあるのだが、どうやら相当逝ってしまっている人のようだ。
あまり近付かない方が良いかもしれない。
レイフォンがそう判断したのを見計らったかのように、オスカーが退室を宣言し、代わってニーナが入って来た。
これから徹夜の清掃が始まるのだと、いやが上にも実感した瞬間だった。
だが、サマーズ医師の小火器による治療でひどい事になっていたはずだと思い出し、しげしげと観察してみたのだが、痕跡を発見する事は出来なかった。
手加減した攻撃だったのか、それとも活剄を総動員して治したのか、全く不明だが関わらない方が良いかもしれないと判断して、何も聞かずに機関部の清掃作業を開始した。
念威繰者であるフェリは、あまりにも恐ろしいことを思いついてしまったために、そんな自分を恥じて外縁部へとやって来ていた。
そう。それはあまりにも恐ろしく、そして魅力的すぎたのだ。
そして何よりも、計画を実行することは極めて困難であり、ツェルニ最高権力者であるカリアンの助力を得たとしても、おそらく実現することが不可能な物だった。
そんな非現実的な計画を立ててしまった自分を恥じて、フェリは気分転換を兼ねて外縁部へとやって来たのだ。
そして、エアフィルターを突き抜けた外の世界へと念威端子を飛ばす。
汚染物質による焼け付くような感覚は、選択的に排除。
その状態で、感覚を広げる。
空気の揺らめきや、殆ど誰にも気付かれていないだろう、微生物が活動する様子を堪能しつつ、端子を遠くへと飛ばし、更に遠くの物を見るために意識を集中する。
暫くそうやって、誰よりも遠くを認識している間に、徐々に精神が落ち着きを取り戻してきたことを認識した。
あのまま、情熱に任せてしまっていては取り返しの付かないことになったかも知れないが、その危険は回避されたのだ。
かなり遠くへ飛んで行ってしまった端子に、帰還命令を出そうとしてふと気が付いた。
何かがおかしいと。
端子が送ってくる情報に精神を集中させ、可視光線から紫外線、そして赤外線、更に磁気の状況などを総合して、その巨大な物体が何かをやっとの事で理解した。
このままツェルニが進めば、二日ほどで到達する場所に、それは有った。
「これはどうしたことでしょう?」
どうしたことかと独りごちながらも、実は考えていることは違うのだ。
むしろ、これをどうしようかと考えているのだ。
あまりにも異常な事態のせいで、フェリでさえとっさに決断できなかった。
だが、取り敢えず陰険腹黒眼鏡な肉親に面倒ごとを押しつけることにした。
こう言う時にこそ、コネというのは使うべきなのだ。
実の兄をコネと呼んで良いかどうかは別問題として。
機関部での清掃という重労働が終了する直前のことだったが、いきなりニーナが呼び出された。
当然と言えば当然だが、呼び出したのは生徒会で、もっと正確に言えばカリアンだ。
そして更に当然のこととして、同じエリアで働いていたレイフォンも一緒に付いてきてしまった。
別段帰っても問題はなかったのだが、夜明け直前の呼び出しなどと言う物は、間違いなく緊急事態である。
最終的にはレイフォンも呼び出されると見て間違いない。
最悪の状況として、眠りに落ちた瞬間に叩き起こされるという、これ以上ないくらいにきつい展開だってあり得るのだ。
ならば、眠らないでそのまま一足先に行動しておいた方が、まだ精神的な疲労の度合いが少ない。
汚染獣との戦闘が数日間に及ぶのはよくあることなので、眠らずに行動を続けると言う事は何ら問題無い。
機関清掃の後に、授業を受けることに比べたら何ら問題無いくらいに、どうと言う事がない。
だが、少々困った物を見てしまってもいた。
「フェリ先輩?」
「何でしょう?」
なにやら非常に不機嫌そうな表情と声と共に、第十七小隊の念威繰者が返事をしてくれた。
完璧に制服を着こなして、何時も通りの髪型で、その身だしなみに一切の緩みもない。
それはこの部屋にいるもう一人の人物、カリアンについても同じ事が言える。
もしかしたらこの兄妹は、自宅でも制服をきっちりと着ているのかも知れない。
いやいや。眠る時にも一糸乱れぬ身だしなみを心がけているという危険性だって有る。
そんな恐ろしいところに住むことにならないとは思うのだが、それでもあまり近付きたくはない。
「何かあったのですか?」
そんなレイフォンの心境など知らぬげに、全く何時も通りにニーナがカリアンへと質問を放つ。
ふとここで恐ろしいことを思いついてしまった。
ニーナの家も、母都市では裕福なところだと聞いたことがある。
ならば、やはり眠る時にも身だしなみに気をつけて、完璧な寝相を実現しているのかも知れない。
大勢での雑魚寝が基本であり、寝相の悪い子に蹴飛ばされることも日常茶飯事であり、レイフォン自身何度も他の子を寝床から叩き出したことも有る身としては、驚くと共に恐怖も感じてしまっていた。
「もう少し待ってくれ給え。後二人ここに来る予定なんでね。その間に朝食でもどうかね? まだだろう?」
あまりにも恐ろしいその予想を徹底的に消去している間に、カリアンが手配しておいたのだろう軽めの朝食が運ばれてきた。
ロールパンに切れ目を入れて、ジャムを塗った物とサラダ、そして紅茶を胃の中に流し込み終わった直後、やはり恐るべき物が視界に飛び込んできた。
完璧に制服を着て、起き抜けの表情など微塵も見せない武芸長のヴァンゼだ。
その後ろには、やはり完璧に覚醒している第五小隊のゴルネオまで居る。
もしかしたら、裕福なところの人間は、眠る時にも身だしなみをきっちりとして、僅かな乱れもない完璧な寝相を実現しているのかも知れない。
孤児出身で貧乏が身体に染みついているレイフォンは、この時ほど自分の境遇を喜んだことはなかった。
「朝早くから済まないね。少々問題が発生したので君達に集まって貰ったのだよ」
そう言いつつカリアンが抽斗から取り出したのは、何時ぞやの老性体戦の前に見たのと全く同じ封筒だった。
思わず引く。
またあんな物騒な奴とやり合うのかと思うと、恐ろしく寿命が縮む思いだ。
「二時間ほど前に無人偵察機が持ち帰ってきた写真なのだが」
「二時間だと? またえらく急いでいるな」
「先に情報があったのでね」
そう言うカリアンの視線が、ほんの一瞬フェリを捉えたような気がした。
となれば、フェリの念威で先に異常を察知。
それを確認するために偵察機を飛ばして、確認のために写真を現像。
その直後ニーナ達に非常招集が掛かったのだと予測できる。
「これは!」
だが、そんなレイフォンの予測などお構いなしにヴァンゼの驚きの声が聞こえてきた。
また汚染獣だ。
今度こそメイシェンを泣かせてしまう。
そんな事を考えたのは、しかし一瞬のことだった。
「そう。レギオスだよ」
「え?」
カリアンの声に、思わず間抜けな声を出してしまった。
てっきり汚染獣がやってきていて、その迎撃任務に駆り出されるのだと思っていたのだが、どうやら違ったようだ。
「それは分かるが。まさか都市戦か?」
「いや。それは違うはずだよ。この辺を見てくれ給え」
偉い人が二人で何かやっているのは分かるが、取り敢えず汚染獣でないことがはっきりしたので一安心しているレイフォンにはどうでも良いことだ。
だが、そうすると非常招集の意味が分からない。
「これがどうしたというのだ?」
「見た事があるような気がしないかい?」
「・・・・・・・・・! まさか」
「そう。ツェルニが唯一保有しているセルニウム鉱山だよ」
余所のレギオスの保有する鉱山に近付くというのは、殆ど考えられないことではある。
頻繁に有るようなら、そもそも都市間戦争や武芸大会など始めから意味がないから。
だが、何か突発的な理由で起こる確率は存在する。
例えば、都市のエネルギーが極端に少なくなり、本来自分の持っている鉱山までたどり着けない場合などだ。
だが、それでも少しおかしいと思う。
もし、都市の飢餓状態が深刻だとした場合でも、採掘するのは最低限のセルニウムのはずだ。
本格的な補給ではないのならば、長居する必要はない。
にもかかわらず、ツェルニが発見できる距離に近づくまでその場に居続けている。
ならば、かなりの異常事態であると判断できてしまう。
「都市と言えども、飢餓には勝てなかったと言う事なら良いのだが」
「問題はそこだね。この写真は夜間に撮影されているが、灯りが全く見えていないのだよ」
「それはつまり」
何か通常では考えられない事態が起こったという事だ。
そして、それこそが非常招集の原因である。
「第五および、第十七小隊には、この都市に出向いて貰って危険の有無を確認して貰いたい」
危険があった場合、ツェルニは全力の迎撃態勢を構築できる。
無ければ何の問題も無く、鉱山での補給に専念できる。
どちらにせよ、偵察しないなどと言うことは考えられない。
そこで最大の戦力を有する第十七小隊と、レイフォンの事を一番理解しているゴルネオの第五小隊が選ばれた。
至って順当な判断であると、そう結論付けられてしまう。
何か裏があるかも知れないと考えてしまうのは、目の前にいる、腹黒陰険眼鏡の人となりのせいである。
順当な判断であると思っていた。
ツェルニ最強のレイフォンを有する、ニーナが指揮する第十七小隊と、ツェルニで唯一天剣授受者などと言う化け物を理解しているらしいゴルネオが指揮をする、第五小隊の混成部隊。
その混成部隊が出向いて、謎の都市を調べる。
そのはずだった。
「なんでナルキがここに居るの?」
「い、いや。私に聞かれても困るんだが」
そう。問題なのは、ニーナの目の前で困惑しきりに首をかしげている赤毛で長身の武芸者だ。
攻撃力だけを取れば、明らかにツェルニでも最強の一角に数えられるというのは理解している。
前回の老性体戦でも、レイフォンのバックアップ要員として、万が一の囮として派遣されていたほどに、優秀な武芸者であることも理解している。
だが、それでも、納得できていないニーナが確かに存在している。
いくら優秀だとは言え、一般武芸者であり、更に一年生であるナルキがここに居る理由が、皆目分からないのだ。
いや。レイフォンのような規格外ならばまだ分かるのだが、最終的にはナルキは規格内に収まる武芸者である。
「夜勤をしていたらいきなり呼び出されて」
「あれよあれよという合間に、ここに連れてこられてしまったわけだね」
「ああ。さっぱり訳が分からないんだが、また老性体とか言わないだろうな?」
ここはツェルニの最下層。
都市外作業の拠点となる場所であり、ランドローラーの発進口も存在している。
言うなれば、ここから先は都市外と言う事である。
そして、つい一月ほど前に老性体との戦いに赴いたのも、やはりここだった。
ニーナは見ていないが、間違いなくここから出撃したはずだ。
ならば、ナルキの心配も十分に理解できようという物だ。
「今回は、汚染獣って訳じゃないみたいだけれど、何が何だか良く分からなくて」
「成る程な。何が起こるか分からないから、動員できる最大の戦力で望む。戦術の基本だな」
「そうなの?」
「この間ウッチンがそんな事言っていただろう」
「そう言えば、そんな事言っていたかも知れないね」
テンポの良いナルキとレイフォンの会話が耳を通り過ぎて行く。
付き合いは既に一年以上と言う事もあり、お互いの呼吸が完璧に飲み込めているようで、その会話には一寸の隙も存在していない。
だが、事実としてナルキが呼ばれたのは、ある意味数合わせでもあるのだ。
現在ニーナ達が着ている新型の都市外戦装備は、まだ数をそろえる事が出来ていないために、第五第十七の二個小隊分と、もう一着しか無かったのだ。
そして先に声をかけたのがイージェだったが、こんな朝早くから働く事を拒否。
次に声をかけたナルキが無事捕まったという事情も実はあったりするのだが、全部説明する必要はないと、心の中にしまっておく。
「じゃあ、これナルキの錬金鋼だよ。昨日少し設定を弄ったから確認してみて」
「分かりました」
沈黙を保っている間に、二人の会話に、自然に割って入ったのはニーナの幼馴染みで、ダイトメカニックのハーレイだ。
存在感が薄いと言われるが、それでも自分の仕事をきちんとこなしているという立派な幼馴染みだ。
そしてナルキが復元した錬金鋼を見て、少しだけ意外に思った。
全体的には以前レイフォンと戦った時や、幼生体戦の時と変わらないが、刃文が数珠刃に変わっていることと、反りが深くなっていてどちらかと言うと優しい匂いを放っているように見える。
明らかに刀の性質が変わっている。
以前は、突きを主体にしていた刀の作りが、今は挽き切ることを主体にしているように見える。
「うんうん。刀はやっぱり反りがないと刀らしくないね」
「まあ、ここ最近何とか切ることが出来るようになってきたからな」
レイフォンが刀を持つようになって二ヶ月少々。
その間にナルキの鍛錬も色々と変わったのだろう。
その変化の象徴が今手にしている刀なのだろう。
「キリクが、速く猿から人間になれって言っていたよ」
「そう言われても、難しいんですよこれ」
素振りを繰り返し、違和感がないかを確認しているナルキがぼやく。
ニーナ自身切る武器と言う物とは縁がないが、レイフォン達が使っている刀の潜在能力を引き出すことは、かなり難しいと言う事だけは認識している。
だが、実はもっと違うところで不信感を抱いていたのだ。
「シャーニッドは何処へ行った?」
そう。夜勤明けだとは言え小隊員でないナルキが来ているというのに、ニーナの部下であるシャーニッドがまだ来ていないのだ。
まあ、性格的に言って真っ先に来ることはないと思っていたが、それでももうすぐ出発時間になろうという頃合いになってまでこないというのは、全くもってけしからん事態だ。
「シャーニッド先輩? 呼び出しはかけたから、もうすぐ来ると思うけれど、ああ、来たよ」
ナルキの錬金鋼の確認が終わったハーレイが、視線で指し示した先には、確かにシャーニッドが居た。
だが、その立ち居振る舞いはあまりにもだらしなく、まだ半分眠っているとしか思えないほど弛みきっていた。
いや。完璧に眠っているニーナでさえもっとしゃきっとしていると断言できるほどに、弛みまくっている。
「よう。こんな朝っぱらから元気だねぇ」
来て早々、弛みまくった声と共にそんな挨拶がやってくる。
既に第五小隊は完璧に出発準備を整えているというのにだ。
「出発した後に詳しく説明してやるから、さっさと着替えてこい」
「へいへい」
もちろん、付き合う理由など無いので、早々に都市外戦闘衣一式を差し出して追い立てる。
やはり弛みきった表情で差し出された戦闘衣を眺めたシャーニッドの視線が、ニーナに向けられ、更にフェリへと流れ、ナルキを素通りしたところで再びニーナに注がれた。
そして一言。
「なんだかエロイな」
「さっさと着替えてこい!!」
荷物をまとめてシャーニッドへと叩きつける。
第五小隊の方から、失笑が聞こえてきたが、それを全力で無視する。
そして、何故かナルキの殺意の視線がシャーニッドを追っているのにも気が付いていたが、それも無視する。
何故か、何時如何なる時でも飄々としているシャーニッドの、その雰囲気に助けられたことは多いのだが、それでもこう言う場ではきちんとして欲しいと思うのだ。
「どうしたの、こんな朝早くにこんな場所に?」
そんなニーナの心境を察しているのか居ないのか、何故か頷いていたレイフォンの視線が、いきなり上へと続く階段付近へ注がれた。
シャーニッド以外の準備は終わっているので、ニーナもそのレイフォンの視線に習って階段付近を見て、そして驚いた。
メイシェンを中心に、リーリンとミィフィがいきなり出現していたのだ。
老性体戦でも、見送りに来たというメイシェンだから、今回もそのために来たのかも知れないと思うのだが、まだ夜も明けきらないこんな時間にやってくるとは思っていなかったのだ。
そして、ニーナの驚愕が消え去るよりも早くにメイシェン達三人がレイフォンへと近付く。
なにやら決意の色も堅く、強ばった表情をしたメイシェンは良いだろう。
もしかしたら、目的の都市に危険が待っているのかも知れないのだ。
既に心配でたまらないのだろうと予想できる。
だが、問題はそのメイシェンを挟んでいる二人の方だ。
二人とも、ニヤニヤと下品に見える笑いを浮かべているのだ。
ミィフィが浮かべる分には何の問題も無い。
問題はリーリンだ。
ある意味、何か人格が壊れてしまって再構築したのではないかと思えるほどに、なにやらニヤニヤとしているのだ。
そして、二歩先に進んだメイシェンがレイフォンの前に立ち、脚を肩幅に開き、右手が素早く動き、胸の内ポケットから何か銀色に耀く細長い金属片を取り出して、レイフォンに突きつけた。
「? な、なに?」
あまりにもあまりな展開に、全く反応が出来ないレイフォンの心境は十分以上に理解できる。
その金属片が何かを認識したニーナだって理解できないのだ。
メイシェンが右手でレイフォンへと突きつけていた、その金属片の正体とは、スプーンだったのだから。
何処にでも有る、ティースプーンである。
特に高価な物でもなければ、何か呪いの品というわけでもなさそうである。
そんな状況だから、全員の注目がメイシェンとレイフォンに集まった、まさにその瞬間。
「浮気したら、眼球抉っちゃうぞ」
「・・・・・・・・・・・・・・・」
数秒の沈黙が降りてきた。
そして、その直後に凍り付いた。
時間がでは無い。
ツェルニでもない。
レイフォンや他の人達でもない。
メイシェンが凍り付いてしまったのだ。
何が何だか分からない。
だが、一瞬の時間差を置いて理解した。
メイシェンが何故凍り付いたのかと言う事をだ。
浮気を許さないと言う事はすなわち、貞操権の主張に他ならない。
それが出来るのは、法的な手続きを終了させた夫婦か、あるいはそれに極めて近い関係の者同士だけ。
言った後になってそれを理解したのだろうメイシェンは、凍り付きながらも蒸気を吹き上げるという奇跡的な現象を実行している。
そして、ニーナの理解が進んだ今になっても、周りの人間は沈黙を保ち続けている。
だが、そんな沈黙に支配された場でも動ける人間がいた。
ミィフィとリーリンだ。
凍り付いて固まったメイシェンを、ゆっくりと仰向けに横たえたのだ。
何時の間にか用意されていた担架の上へと。
「それじゃあ逝ってらっしゃい」
「気をつけて逝ってくるのよ」
そんな台詞を残して、凍り付いたままのメイシェンを担架に乗せたまま、何時の間にか呼んであったエレベーターで上の階へと消えて行く。
全く意味不明でいて唐突な展開である。
「え、えっと。浮気って、僕にそんな甲斐性有るのかな?」
「安心しろレイとん。お前にそんな甲斐性はないから」
「そうだよね。僕にそんな甲斐性有るわけ無いよね」
何故か安心したように微笑むレイフォン。
激しく何かが間違っていると言う事には、気が付いていないようだ。
いや。間違っていないのだろうか?
それはそれとしても、出発前に既に疲労困憊してしまっている自分を、唐突にニーナは発見してしまった。
出来ればこのまま帰って仮眠を取り、授業に出るという日常へと復帰したいとさえ思ってしまう。
「おまっとさん! って、なんか有ったのか?」
そんな疲れ切った空気を掻き回して、活力を呼び戻す声が聞こえてきた。
遅れてやって来たシャーニッドが、準備を終えて戻ってきたのだ。
片手を上げて挨拶した姿勢のまま、あまりにも異常な空気を感じ取り固まっているが、もはやそれは問題にならない。
もう、疲れ切った空気は霧散しているのだから。
そしてニーナは感謝したい気持ちを持っていたのだ。
この時ほど遅刻魔の上級生が有難いと思ったことはなかった。
これはこれで、もの凄く何か間違っていると思うのだが、兎に角出発することが出来そうで安心した。
眼球抉っちゃうぞについて。
MF文庫j 日日日(あきら)作の蟲と眼球シリーズから引用。
少々癖があるけれど割とおもしろかったのと、とある事情で最後のパートを作り直したためにメイシェンに泥をかぶってもらいました。