講義をしていた建物を出た次の瞬間、レイフォンの脛を猛烈な痛みが襲ってきた。
いや。この事態は十分に予測していたのだが、それでもこれほどの痛みがやってくるとは全く思っていなかったのだ。
引きずってきたナルキとウォリアスは全く我関せずと、明後日の方向を向いているし、助けは期待出来ない。
「ぐぐぐわぁぁぁ」
二人の肩にかけていた手を外して、必死に痛みをこらえるために膝を抱えて飛び跳ねる。
こんなことをこの瞬間にやる人間はただ一人しかいない。
「ふぇ、ふぇりせんぱい?」
長い銀髪と念威繰者特有の無表情がトレードマークな、生徒会長の妹さんだ。
レイフォンのその表情が気に入らないのか、大きく足を後ろに引いて無事な方の足を狙っていらっしゃる。
あれを食らったら、暫く歩けない。
「馬鹿だ馬鹿だとは思っていましたが、一体あれは何ですか?」
猛烈な視線がレイフォンを捉える。
ここで間違った反応をしてしまったら、それはもう恐ろしくて眠れないほどの事態になる。
馬鹿なことと言えば、食べ物絡みの話題の方を思い出すが、フェリがここまで怒り狂っているのは間違いなくそっちの話題ではない。
「最低限、戦力の底上げをしておきたいと思いまして」
「そんな事をしているから、兄に良いように利用されるのです」
「それは理解していますが、ツェルニが無くなってしまうと困るんですよ」
正確には違うのだが、その辺はフェリも十分に理解してくれているだろう。
実際問題としては、レイフォン以外で死者が出る実戦を経験しているのは、ツェルニではフェリだけなのだ。
恐らく聞いていてかなり深刻な精神的ストレスを受けたのに違いない。
ならば、多少の理不尽は許容出来ると思っていたのだが。
「昨晩、第二陣の探査機が持ってきた情報です」
そんな予測を無視するかのように、何処から取り出したか全く不明だが、大きめな封筒をレイフォンに向かって差し出す。
それを受け取り、深呼吸を一つして中を確認して。
「悪夢と最悪と災厄って、どれが一番気楽だと思う?」
「そりゃあ。悪夢じゃないか? 問題は睡眠不足だけだし」
ツェルニが近付いたためだろうが、前回見た物よりも遙かに鮮明な写真をウォリアスに渡す。
山の斜面らしきところに蜷局を巻いている、巨大な汚染獣の姿がおおよそ理解出来る。
それは良いのだが、問題はその汚染獣のある部分だ。
だが、写真を見てもウォリアスはあまり実感がないようだ。
流石に、本物の汚染獣なんて物を見慣れているわけではない以上、ある意味仕方がないのかも知れないが、それでも期待してしまっていたのだ。
現在の絶望的な状況を理解してくれないかと。
「これがどうしたんだ?」
横から見ていたナルキは、更に何が何だか分からないと言った感じで、じっと写真を見詰め続けている。
この質問が出ることは、当然なのだろうとは思うのだが。
「脚がない」
そう言いつつ、誰かが聞いていないか周りに気をつけながら、蜷局を巻いている汚染獣の内側、退化してはいても、脚の痕跡があるはずの場所をゆっくりと指でなぞる。
汚染獣は、脱皮を繰り返す内に徐々に脚が退化して行くのだ。
そして、一期の老性体となった時に完全に脚が無くなる。
つまりこれは。
「既に老性一期と言う事か」
「そう」
これが死体でなければ、ツェルニが遭遇することになる汚染獣とは、最大限の脅威である二期以降の老性体と言う事になる。
よりにもよって天剣がない状況で、正面から戦って勝てるかと聞かれたのならば、良くて相打ちだとしか答えることが出来ない。
それなりの準備をしているのだが、それでも脅威が少なくなったわけではない。
そしてレイフォンは覚悟を決めなければならない。
「これは食べたら美味しいのですか?」
「「「・・・・・・・・・・・・」」」
覚悟を決めなければならないはずなのだが、何故か脱力してしまった。
いや。突然のフェリの台詞を聞いたレイフォン達三人は、そろって絶句してしまった。
そして冷たい視線がナルキとウォリアスからやって来ている。
結構痛い視線だ。
先ほどはニーナを振り切るために強引に話を切り上げたのだが、それが裏目に出てしまっているらしい。
これは全力で誤魔化さなければならない。
「出来れば、ツェルニの外苑部で迎え撃ちたいですね」
「ああ。遮断スーツの制限が無くなるからな。ところでこれって美味いのか?」
話題の転換に乗ってくれたと思っていたウォリアスが、再び話を元に戻してしまった。
だが、遮断スーツの制限が無くなると言うことは非常にありがたい。
カウンティア程極端では無いが、天剣授受者なんて怪生物の戦闘能力の前では、たいがいの材質で作られた繊維はちぎれてしまう。
繊維がちぎれてしまえば、汚染物質に灼かれながら戦うという、時間制限が発生してしまう。
その制限を気にせずに戦えるだけで、かなり勝率が上がるのだが。
「そんな化け物がツェルニに上陸なんかしたら、それだけでパニックだな。ところで、生で食べられるのか?」
ナルキの台詞の、後ろ半分を聞き流しつつ考える。
老成二期以降と戦う武芸者なんて物は、グレンダン以外では目にする事が無いはずだ。
そして、戦闘による衝撃波は確実に都市を揺るがせる。
その揺れだけで一般人はおろか、武芸者も平静を保てなくなるのは間違いない。
もしそうなったら、ツェルニは汚染獣によってではなく人の手によって崩壊してしまう。
それは出来るだけ避けたい。
折角老性体を倒したというのに、帰ってみたら知っている人達がパニックのために大怪我をしていたとか言うのは、出来るだけ避けて通りたいのだ。
それでも、勝率が高い方を選ぶべきなのかも知れないが。
「出来れば、兄は今夜辺りに出発して欲しいと言っていました。それでどういう料理方法をするのですか?」
まだその話題を引っ張るフェリの足がゆっくりと引かれて行く。
そして、レイフォンの両肩をナルキとウォリアスが押さえて逃がさないようにしている。
汚染獣と戦う前に、既に危機一髪だ。
ならばもう、レイフォンに出来ることはただ一つ。
「ごめんなさい。食べたことありません」
冗談が過ぎたのだと後悔したが、既に遅かったのだ。
フェリの口元がニヤリと歪むのを見てしまった。
そして、恐るべき事を言ってきた。
「フォンフォンが倒したのならば、その肉を貴方に食べさせて差し上げます」
「勘弁して下さいよぉぉぉぉ」
どうやら、講義の内容がフェリをかなり怒り狂わせているようだ。
実戦経験者にあの話はきつすぎたのだと後悔したが、既に遅いのだ。
講義は終了しているし、フェリは怒っている。
「帰って来たら、出来る限りのご馳走を作りますから、どうかお許しください」
平身低頭という言葉は、今のレイフォンのために作られたのに違いない。
自分でそう思ってしまうほどに平身低頭するレイフォンだった。
フェリが機嫌を直してくれるためには、合計三十食分の料理が必要だった。
材料費はカリアンが出してくれるだろうが、それでもレイフォンにとってかなり巨大なペナルティーだ。
だが、そんなフェリの機嫌など実のところ今のレイフォンには関係ないのだ。
都市外戦装備に身を包み、試作品という複合錬金鋼その他の装備を調えて、後はもう出発するだけとなった。
そして、今回の作戦で最も恐れていた、そして先延ばしにしていた問題が目の前にある。
緊張と、もしかしたら恐怖のために強ばった表情をしたメイシェンだ。
前回の幼生体戦は、成り行き上ニーナに無断で出撃してしまった。
そして、やはりメイシェンにも何の連絡もなく出撃してしまった。
あの時は時間との勝負だったからと言う言い訳も出来るが、それでも心配をかけたことは事実だ。
予測していた通りリーリンとミィフィが側にいてくれたし、カリアンが犠牲者となってくれたから必要以上に取り乱したりせずに済んだが、今回は事情がかなり違う。
遠距離で戦うために、どうしても数日ツェルニからいなくなってしまうのだ。
「メイシェン」
呼びかけたが、反応が何時もよりもかなり鈍い。
レギオスの最下層にある、ランドローラーや各種作業車のゲートが近い、やや騒々しい一角だ。
こんなところに呼び出されて、そしてレイフォンの今の格好を見れば、これから何が起こるのか想像出来てしまっているのだろう。
そもそも、色々と誤魔化してきた物の、メイシェンがそれに惑わされるという確率は極めて低い。
最低限でも、何らかの不安は抱えていたのだろうことは間違いない。
そして、それが今現実の物となっているのだ。
「ごめんなさい。これから少し戦いに行きます」
深々と頭を下げて、戦わないで済むようにと、武芸者を捨てるためにツェルニに来たのに、結局危険なことを続けてしまっていることを謝罪する。
汚染獣との戦いは避けて通れないとは言え、そんな理屈はグレンダンを出た時に捨てたはずだった。
「レイフォンじゃないと、駄目なんですか?」
強ばった表情をそのままに、自分の声がレイフォンを殺してしまうのではないかと、それを恐れるような小さな声が漏れ出てきた。
こんなに心配させるならば、戦場などに出たくないが。
「僕以外では多分駄目だから」
レイフォン以外で、老性体と戦えるような武芸者は、現在のツェルニには居ない。
それは間違いない。
恐らく、有りっ丈の質量兵器と全武芸者を磨りつぶすつもりで挑んでも、レイフォン抜きでは勝てない。
だが、レイフォンの実力を十分に発揮することが出来るのならば、勝つことが出来るのだ。
それはうぬぼれでもなんでもなく、単なる事実であり自信だ。
そしてその認識は即座にレイフォンが異常すぎるのだと、改めて気が付く。
「あ、あ、あの」
俯いて視線を下げるメイシェン。
スカートの裾を力の限りに握りしめ、震える膝が今にも折れてしまいそうだが、それでも、何かを伝えようと必死になっているのが分かる。
だからレイフォンは、紡がれるはずの言葉を待つ。
床を何かの液体が濡らしているのにも気が付いているが、それを指摘することなど出来はしない。
そして、沈黙の内に時間が過ぎて。
「無事に帰って来て下さい」
「必ず」
完璧に涙声の台詞だった。
だからレイフォンに出来ることは、きっぱりと言い切ることだけ。
天剣さえあれば、かなりの確率で勝ち、そして無事に帰ってこられるが、今の状況ではどうなるか全く分からない。
思えば、グレンダンは戦うことだけを考えたら、素晴らしい都市だった。
天剣があり、天剣授受者がいて、そして戦うための全てがそろっていた。
そこから出てしまった今になって、こんな危機が訪れるとは思いもよらなかった。
だが、当然そんなことを言うほどには、レイフォンは馬鹿ではない。
「だから、帰って来たら遊びに行こう」
これから行くところが地獄の戦場などではなく、軽く運動するために少し遠出するだけのように、気楽にそう声をかける。
どれだけの効果があるのか全く分からないが、それでも言わずにはいられない。
「はい」
涙の跡が幾筋も残り、そして未だに表面張力で瞳に溜まっているが、それでも笑顔で送り出してくれた。
いっそのこと、大声を上げて泣いてくれた方が気楽だったかも知れない。
それならば、レイフォンは罪悪感と共に戦場に出るだけで済んだし、言う事を聞かないとメイシェンは怒ることも出来たかも知れない。
だが、行かないでくれとは言わなかった。
それが、きっとメイシェンなりのけじめなのだろうと思う。
もしかしたら、レイフォンのために強がってくれているのかも知れない。
だからレイフォンは、軽くメイシェンを抱きしめると、すぐに踵を返して早足で扉を潜った。
メイシェンには無理をしないで欲しいと思っているのだが、今回それは見事に無駄な望みとなってしまった。
どれだけの負担をかけたのか、戦う側であるレイフォンには分からない。
だが、その負担はきっとリーリンとミィフィが和らげてくれると信じて、一度だけ背中の扉を振り向いてから、出撃するための最終チェックを始めた。
『良いのですか?』
「良くはありませんけれど、他の方法が思いつきません」
最後の確認のために、ヘルメットを装着した瞬間、非難囂々のフェリの声が聞こえて来た。
ヘルメットのスリットに入っている念威端子経由の声だ。
と同時に、一気に視界が明るく広くなる。
ヨルテムから持ってきた都市外戦装備ではなく、ツェルニで新開発されたそれは、ある意味フェリの念威繰者としての能力があったからこそ、今までと一線を画する設計と機能にたどり着けたのかも知れない。
『トリンデンと別れを惜しんでいる内に、老性体とやらがツェルニに来てしまえば、なし崩し的に戦闘に入ることが出来ますよ。そうすれば、どれだけ貴方に頼っているか、兄を含めて色々な人が知ると思いますが?』
「それは駄目です」
外苑部で迎え撃った方が有利であるには違いないが、それはいくつもの理由で避けざる終えなかった。
新式装備が開発されていたから、使わないともったいないとか言う話では無いのだ。
都市に被害を出さないためというのもあるのだが、何よりも。
「天剣授受者の戦闘は、殆どの場合単独か、同じ天剣授受者と組んででした」
『低脳な連中に足を引っ張られないためですか?』
相変わらずの毒舌だが、間違いというわけではない。
天剣授受者として出撃した戦場では、老性体と普通に一対一で戦っていた。
そんな戦場に一般武芸者などいても邪魔なだけだ。
あるいは、ひたすら数が多い時に駆り出されることもあったが、その時は破壊力よりも連射性を優先したために、普通の武芸者が恐怖することはなかったと思う。
「違いますよ。怖いからですよ」
『何が怖いのですか?』
「天剣授受者が」
少し考える。
どうやったらフェリに理解してもらえるだろうかと。
「前回の幼生体戦を見て、先輩はどう思いましたか?」
『とても人間とは思えませんでした』
「僕がですよね」
『ええ』
ツェルニ全武芸者をあっさりと凌駕するレイフォンだ。
あの姿を見てしまえば、普通の武芸者は恐怖を覚える。
それは理解している。
だが、フェリの認識は実は正しい物ではないのだ。
「あれは僕の全力のおおよそ十分の一に届きません」
『・・・・・・』
沈黙が返ってきた。
当然だと思う。
ヨルテムで汚染獣戦を見学したり、交差騎士団を始めとする人達との訓練で、普通の武芸者の実力をしっかりと把握することが出来た。
そんな普通の都市で、レイフォンのような異常戦力は危険すぎる。
天剣授受者がいるのが当然という、グレンダンでさえ一般武芸者と違ったのだ。
「そして、今回の相手は全力で戦う必要があります」
もし、全力で戦うレイフォンを一般武芸者が見てしまったのならば。
グレンダンでさえ、それは危険だと判断されていたのだ。
ツェルニだったら。
「僕はきっと汚染獣と同じ生き物であると思われるでしょう」
全長百メルトルを越えるような、巨大な汚染獣とまともに戦える人間が、普通にいるはずがないのだ。
ならば間違いなく、レイフォンは。
『貴方を排除しようとするわけですね』
「そうなると思います」
気付かせてはならないのだよ。
武芸者や念威繰者が人間ではないと言う事を、本当の意味でな。
アルシェイラに言われたことを理解するのに、かなり長い時間がかかってしまった。
言われた直後にもきちんと理解出来ていたと思うが、今ならもっと深く納得と共に理解することが出来る。
一般的な武芸者でさえ、剄脈を持たない人間達にとっては驚異なのだ。
その一般武芸者をあっさりと凌駕するような化け物がいると、グレンダンでレイフォンは知らしめてしまったのだ。
同じ過ちをツェルニでする訳にはいかない。
「僕の安全な学園生活のためにも、汚染獣は都市外できっちりと始末を付けます」
その他の選択肢など無い。
先ほど終わった講義も、念のための処置に過ぎない。
レイフォン自身が伝えること、レイフォンを相手に戦うことで伝わること、まだまだ伝えていない事が多いのだ。
言葉で簡単に伝わることは伝えたが、それは全体のほんの一部でしかない。
リンテンスの言い分ではないが、最も良く伝わって百分の一。
普通に考えたら万分の一、下手をしたら億分の一も伝わらないかも知れないのだ。
そして、ヨルテムに帰ってからの生活もあるのだ。
ここで死ぬ訳にはいかない。
『成る程』
理解してくれたようで、フェリの納得の声がヘルメットに届く。
だが。
『命の危機が迫ると性欲が激しくなると聞きました』
「・・・・・・・・・」
『フォンフォンがトリンデンを抱きしめた時には、思い切って押し倒すのではないかと期待したのですが』
「・・・・・・・・・・・・・・・・」
『そしてピーをピーにピーして』
「先輩!!」
全力でもってその先を止める。
いや。既に遅いのだが、それでも止める。
『何でしょうか?』
「女の子がそんなこと言っちゃいけません」
『性差別は反対です』
「それは話が違いますって!!」
ピーと本当に口で言っているのだが、どう考えてもそこに入る言葉は決まってしまっているように思える。
なんだか最近、フェリの暴走が酷いような気がしてならないが、もしかしたらこれも先ほどの講義の影響が残っているのかも知れない。
レイフォンに意地悪をして気晴らしをしているとか。
「と、兎に角ですね。僕は戦いに行くのであって死にに行くわけではありませんから」
『それは残念です』
「何がでしょうか?」
『覗きをするチャンスだったと』
「・・・・・・・」
戦う前から既に全力で疲れてしまっている。
重くなった足を引きずるようにして、予定の区画まで進む。
その間に、ヘルメットがきちんと装着されているか確認するために、色々と吹き付けられているのだが気にしている余裕など無い。
「そもそもですね」
『はい』
話を始めの方の話題に切り替える。
このまま突き進んだら、本当に外苑部で迎え撃たなければならなくなるかも知れないから。
「メイシェンが笑ってくれている内に出撃したかったんですよ」
既に泣いていたという事実は、この際徹底的に無視する。
声を上げて泣いてしまう前に、逃げるようにして踵を返したと言う事実も無視する。
そうでなければ決意が鈍ってしまうから。
『泣いていませんでしたか?』
「錯覚です」
当然フェリからそう突っ込まれたが、これも全力で否定する。
出発前から疲れ切っている気がするが、きっと気のせいだと自分に言い聞かせてランドローラーに乗り込んだ。
二期以降の老性体と戦うのはずいぶん久しぶりだが、それでも出来ることは全てやってある。
今は、戦って勝って、そして無事に帰ってくることだけを考えよう。
そう考えつつ、アクセルを開いた。
出撃するレイフォンを見送ったメイシェンの膝から力が抜け、その場に座り込みつつ声を上げて涙を流すのを確認しつつ、小さく溜息をついた。
扉が閉まってから、僅かに三秒後のことだった。
厚い扉だから、レイフォンに泣き声は聞こえていないだろうが、こうなることは十分に予測していたはずだ。
だからこそ迅速に逃げ出したのに違いない。
それが少し羨ましい。
カリアン達が、今目の前で起っている事実から逃げることは許されていないからだ。
生徒会長であるカリアンには、責任がある。
このツェルニを運営する責任。
何かがあった時に、その対策を取り危機を乗り越える責任。
そして、犠牲が出てしまった時に取る責任。
全ての責任から逃げることは許されていないし、責任を取ることが嫌ならば責任のある立場に着くべきでは無いのだ。
とは言え、今回のことは少々度が過ぎていると愚痴りたくなる気持ちはある。
学園都市だと言うことで油断していたというわけではないはずだ。
そもそも、老性体なんて非常識な汚染獣と遭遇する都市などと言う物は、グレンダン以外には殆ど存在していない。
ツェルニは当然として、サントブルグもヨルテムも、恐らくシュナイバルや他の都市も老性体なんて物とは遭遇していない。
レノスはそんな非常識と遭遇して、奇跡的に生き残ったと言うが、それこそ例外中の例外だ。
そして、ある意味その老性体と戦うための武芸者たる天剣授受者が、この都市にいたことは幸運だと言えるのだろうと思う。
元と付いているのには目を瞑っても、十分におつりがくる。
だがそれは、学園都市ツェルニにとってと言う前提条件が付く。
カリアン個人にとってとなると、少々事情が違ってきてしまうのだ。
本来、武芸大会のために用意したはずの切り札が、ここで失われてしまうかも知れないと言うのもあるし、もちろんカリアンの安眠のためというのもある。
そして、目の前で泣き崩れている少女にとっても、天剣授受者だろうと天下無双の武芸者だろうと関係ない。
愛する存在が戦場に出て行き、そして帰ってこないかも知れない。
しかも今回は、往復しなければならないために耐える時間が非常に長い。
そんな状況に、目の前の少女は耐えられるのだろうかという疑問が出てくる。
メイシェンの姿を見ていると、恐らく耐えられないと思えてくる。
だが、レイフォンもカリアンもその辺はきちんと理解している。
そして、リーリンとミィフィが現れ、泣き続けるメイシェンを抱きかかえて去って行く。
こんな状況だが、ある計画に沿ってある人物の元へと送り届けるように、手筈は整っているのだ。
下策だとは思う。
いや。外道な振る舞いだとは思うのだが、それでもカリアンはやらなければならないのだ。
目前まで迫っているはずの武芸大会。
その中核となる戦力を整え、勝利を得るために。
そして、この後やってくるかも知れない汚染獣の脅威を退けて、ツェルニが生き残るために。
「とはいえ」
計画は実行段階へ進み、カリアンに残されているのは、結果を待って次の行動に移るという後始末的な物だけだ。
暇になったわけではないが、それでも一息つくことが出来る。
老性体を何とかしてくれなければ、ほぼ確実にツェルニは滅ぶが、打てる手は全て打ってしまった以上、結果が出るのを待つしかないのだ。
もう一度だけ溜息をつき、ままならない現実に対して愚痴をこぼしつつ、ヴァンゼ達が待っている会議室へと足を向ける。
万が一に備えて、迎撃準備を整えなければならないからだ。
無駄だとしても、何もしないという選択肢は存在していない。
「同じ穴の狢か」
何もしないという選択肢がないという考え方は、おそらくニーナと同じだと言う事を認識してしまったが、それでも黙って滅ぼされるなどと言う事は出来ない。
出来れば、脱出出来る生徒は脱出させたいのだが、二期以降の老性体は独自進化を遂げるというレイフォンからの情報を信じるなら、ろくに脱出計画も立てられない。
レイフォンが戦った中には、幼生体を大量に抱えた老性体なんて変わり種もいたそうだ。
もし、やって来るのが吐き出された幼生体だけだったら、ツェルニに残っていた方が遙かに安全だったという事態さえあり得る。
ここまで厄介な事態というのを経験する都市の最高権力者など、そうそういないだろうと思うのだが、世の中広いから油断は出来ない。
まあ、そんなに多くいるという話は聞かないから、極めて貴重な体験なのだろうとも思うが。
ふと、グレンダンの統治者はどうなのだろうかと考えてしまったが、それこそ例外中の例外と言うよりも、異常の中の異常な都市だ。
きっと老性体との戦いに慣れているに違いないし、それ相応の対策も出来上がっているはずだ。
なによりもグレンダンには天剣授受者が複数いる。
レイフォンが抜かれても後詰めがいるという安心感は、今のツェルニの状況と比べると遙かに安心である。
少しだけグレンダンが羨ましくなってしまった。
そんな事を考えつつ、ヴァンゼ達の待つ会議室へと到着した。
扉に手をかけたところでふと思う。
やらないという選択肢がないという考え方自体は、ニーナと同じだ。
だが、前もって計画を立てるという一点においてかなりの違いがある。
そして思うのだ。
今回の老性体騒ぎでニーナがよい方向に変わってくれればいいと。
具体的には、計画的に行動するために情報を集めて考えてくれるとか。
そう言う変化が起こってくれると本当に嬉しい。
会議室にいる、深刻で血の気の失せたヴァンゼを始めとする武芸者の顔を確認して、カリアンはそう思うのだ。
シュナイバルに帰れば、ニーナはきっと責任有る立場に立つことになる。
そのためにはまず何よりも、行動する前に考えると言う事を学ばなければならない。
突っ走っては駄目なのだと言う事を、今回の騒動でしっかりと学習して欲しいと願いつつ、扉を閉めて対策会議に臨んだ。