突然ではあるのだが、メイシェン・トリンデンは乙女である。
交通都市ヨルテムが誇る交差騎士団、その団長であるダン・ウィルキンソン公認の乙女である。
そんな花も恥じらう乙女であるメイシェンだったが、宿命の戦いから逃れることは出来ないのだ。
事の発端となったのは一週間ほど前、食後にアイスクリームを食べた時であると断言出来る。
その時に既に戦いの火ぶたは切って落とされていたのだと、今から思い返せば断言出来る。
全然嬉しくないけれど。
「あ、あう」
視線の先にいるのは、ヨルテムから一緒にツェルニにやって来た幼なじみの二人だ。
何時如何なる時にも、メイシェンのことを支えてくれる頼れる親友でもあるのだが、その二人が今は敵として立ちはだかっているのだ。
取り縄の準備を終わらせて、何時でも捕まえられるように身構えている長身で褐色のナルキ。
そして、あまりにも恐ろしい兵器を持ち、弱った獲物をいたぶり尽くすことだけを考えているような表情をした、茶髪ツィンテールのミィフィ。
抗う術はメイシェンの手にはない。
それでも本能的に後ずさりしてしまう。
「さあメイ」
「諦めるのだ」
「あ、あう」
捕縛用の取り縄を何時でも投げられるように準備したナルキが、一歩前へと出る。
釣られるように、あまりにも恐ろしい兵器を振りかざしたミィフィも前へと出る。
そう。棒を中心に冷え固まったアイスキャンディーを手に。
恐らくそれで、メイシェンの最も弱いところを攻撃して、完膚無きまでに撃破し尽くすつもりなのだ。
「いい加減に白状しても良いだろう?」
「にひひひひひ。メイっちが虫歯だと言うことは分かっているのだ」
「あ、あう」
そう。ここ数日奥歯が痛くて堅い物が食べられなかったのだ。
その関係で、作る料理の全てが柔らかい物ばかり。
更に、時々頬を押さえて溜息をついていたのでは、確実に二人には分かってしまう。
分かっていたからこそミィフィは最凶兵器を用意出来たのだろう。
用意する必要は全く無かったと思うのだが、乗りと勢いで作ってしまった以上使わないと損だと思っているのだろう。
極めてミィフィらしい思考だと思うのだが、その思考こそがメイシェンには恐ろしくて仕方が無い。
アイスキャンディーで虫歯を突かれたら最後、メイシェンはショック死してしまう。
全力を持ってその地獄を回避すべく、メイシェンの脳は今までにない速度で働いた。
だが、残念なことに解決策は全く思いつくことが出来なかった。
当然である。
考える前から分かっていたことだが、それでも考えてしまうのは人間の性という物だろうと判断する。
「大人しく歯医者に行くか」
「これで地獄の苦しみを味わうか」
「あ、あう」
振りかざされるアイスキャンディーが恐ろしくて身動き出来ない。
宿命の戦いだとは言え、これはあんまりにもあんまりだ。
始めから敗北が決まっているのだ。
ならばメイシェンの取れる選択肢はただ一つ。
「歯医者に行きます」
「「よろしい」」
二人そろって頷いて解放されたかに見えた、まさにその瞬間。
いきなりミィフィが目の前にいた。
「それはそれとして。これはこれとして」
「っひぃぃ!」
小さく悲鳴を上げて後ずさろうとしたが、既に壁際まで追い詰められていてこれ以上は下がれない。
二ヒヒと笑うミィフィの顔が既に目の前だ。
そして恐るべき破壊兵器が、目の前に迫る。
「取り敢えず白状したから良いだろう」
「ぬを!」
まさにこの世の地獄へと落とされようとしたその瞬間。
いきなりミィフィの襟首が捕まれて持ち上げられた。
そのまま遠くへと持って行かれるのを眺めつつ、今日のところは生き残ることが出来たのだと安堵の息をつくことが出来た。
突然ではあるのだが、シャンテ・ライテは野獣である。
森海都市エルヴァの研究機関が公認する、れっきとした野獣である。
野獣であるので、本能に従って行動することが多い。
たとえば、日頃の行動を突き詰めると、わずか三種類にまとめることが出来るほど、単純な生活を送っている。
その三つとは当然、食う寝る遊ぶである。
そんなシャンテだからこそ、小隊対抗戦も遊びの一環として、楽しくゴルネオと戦っているのだ。
だが、今日は状況が違うのだ。
何が違うのかと聞かれたのならば、非常に話は簡単だ。
「待てシャンテ!」
「にゃぁぁぁぁ!」
全力の活剄を走らせたゴルネオが、延々とシャンテを追いかけているからに他ならない。
この追いかけっこは、すでに一時間近く続いている。
本来ならば、ゴルネオを圧倒する剄量を持つシャンテが逃げられないと言う事はない。
だが、もう一つの理由によって、シャンテは全力を出せないでいるのだ。
そう。活剄をいくら動員したとしても、ある部分に力が入らないせいで、著しく効率が悪いのだ。
「待っていたぞ副長!」
「にゃぁぁぁ!」
後方のゴルネオに注意を向けすぎると、いつの間にか先回りしたオスカーの銃撃がシャンテを襲うのだ。
これを何度も繰り返している現状では、逃げていられる時間は加速度的に削られてしまう。
だが、諦めるという選択肢は存在していない。
ゴルネオとオスカーの挟み撃ちから逃げるために、咄嗟に右へと進行方向を変えて、死にものぐるいの旋剄で距離を稼ぐ。
更に旋剄を連続使用して、倉庫街の暗く狭い場所へと逃げ込んで一息つく。
野獣として育ったシャンテだが、体力的に限界が来てしまったのだ。
普通の状態ならば、まだ逃げ回ることも出来たのだが、今日という日にはこれが限界だった。
倉庫街の暗い路地に潜み、丸まって乱れた剄息を整える。
「あれシャンテ先輩じゃないですか?」
そんなさなか、いきなり声をかけられたシャンテは一瞬で戦闘態勢へと復帰した。
一瞬とはいえ、油断した自分を罵りつつも剄を練り上げて、即座に攻撃できる態勢を確保する。
「・・・・。なんだおまえか」
これで第五小隊の人間だったら、即座に化錬剄の炎をお見舞いしたのだが、幸か不幸か相手は第十七小隊の人間だった。
ゴルネオの兄弟子を再起不能にしたとかで、一時期敵対関係にあったレイフォンだ。
なにやら微笑みつつてを後ろに組んで、暗い方向から現れた。
少々驚いてしまったが、今はゴルネオがなんとも思っていないといっているし、積極的に敵対する訳でもないので、やや緊張をゆるめて一息つき治す。
「こんな所でどうしたんですか?」
「シャンテの勝手だ!」
こんな所で何をやっているか分からないのはレイフォンも同じなのだが、先に聞かれた腹いせで少々強めに反抗しておく。
だがふと思う。
メイシェンでなくて良かったと。
普段ならとても歓迎なのだが、今日だけは残念なことに歓迎できないのだ。
「もしかして」
「なんだ?」
「倉庫を襲撃して食べ物を奪うつもりじゃ?」
「シャンテはそんな事しないぞ!!」
いくら野獣とはいえ、ゴルネオに人の物を取ってはいけないと教えられているのだ。
ゴルネオに言われた以上、出来るだけやらないように心がけているのにこの言いよう。
非常に不機嫌になってしまった。
思わず不意打ちで殺してしまおうかと思ったが、メイシェンのお菓子が食べられなくなりそうなので却下だ。
「そうですか」
何か納得したようなしないような表情で、うんうんと頷いているレイフォン。
そしていきなりレイフォンのまとう空気が変わった。
一瞬で暗い倉庫街が戦場になったような、そんな凄まじい緊張感がシャンテを襲う。
「僕は人を探しているんですよ」
「誰だ?」
話を続けつつ、剄を練り上げ戦闘態勢を確立する。
ここが戦場になったらしいので、相手がレイフォンなだけに油断など出来はしない。
とは言え、正面切って戦って勝てるかと問われるのならば、負けるほか無いと答えるしかないところがつらいが。
「赤毛で虫歯の女性なんですけれど、シャンテ先輩は知りませんか?」
決定的だった。
そんな具体的な特色を備えた人間など、シャンテ以外にはいない。
ナルキも赤毛ではあるのだが、虫歯になっているという話は聞いていないし、そもそも、探す必要があるとも思えない。
「シャァァァァァ!!」
先手必勝で攻撃しようとして、身体が動かないことに気が付いた。
何かに縛り上げられているのか、殆ど指一本動かすことも出来ない。
そしてレイフォンが、後ろに組んでいた手を前に持ってきた。
その手に握られているのは、柄だけの錬金鋼。
「先輩。確保しましたよ」
「ご苦労だったな」
レイフォンが後ろに向かって声をかけると、なんとゴルネオが路地へと出てきた。
その動きは全く余裕で、完全に罠にはめられたことが伺えた。
思い返してみれば、何故か追われている間、他の第五小隊員を見ていなかった。
去年は総掛かりだったのだが、今年はレイフォンがいるためにこういう余裕を持った罠を用意することが出来たのだと理解してしまった。
全ては後の祭りだが。
「シャァァァァァァ!!」
それでも諦めるという選択肢は、シャンテの仲には存在していない。
野獣の本能に従って、全力で活剄を動員して暴れる。
あちこち痛いが、歯医者に行くよりは遙かにましである。
だが、その抵抗が無駄であるのも、本能が理解していた。
取り敢えず歯医者の予約を取り、運がよいのか悪いのか次の日には治療台に乗って、まな板の上の鯉となることが確定したメイシェンだったが、実際のところ怖くて仕方が無いのだ。
歯を削る音と消毒液の匂い。
そして何よりも、強力なライトで口の中を観察される雰囲気。
全てが苦手であり、だからこそ痛くても我慢していたのだ。
それも既に過去形で話されなければならない。
既に歯医者にやってきていて、しかも受付を終わらせているのだ。
取り敢えずミィフィが付き添いとしてきてくれているのだが、それももしかしたら逃げないようにと監視に来ているだけかも知れない。
十分にあり得る。
「トリンデンさん。どうぞ」
「あ、あう」
待つこと五分。
何の前触れもなく呼ばれてしまった。
こうなっては諦めて断頭台に上るしかない。
断頭台なんて物は見た事無いが、それでもきっと同じような気持ちに違いない。
だが、事態はいきなりの展開を見せてしまった。
そう。蹴破られるほどの勢いで扉が開けられると、数人がなにやら抱えて乱入してきたのだ。
「シャァァァァァァ!!」
何処かで聞いたことがあるような、威嚇とも絶望とも付かない声がしたので、順番が伸びるのならばその方が良いと思いそちらを見てみた。
そして視界に入ってきたのは、常識を疑ってしまう光景だった。
「レイとん?」
「レイフォン?」
ほぼ同時にミィフィと同じ物を認識してしまった。
なにやら必死の形相で汗をかいているレイフォンがいる。
その表情はまさに真剣で、普段の茫洋とした雰囲気とは一線を画し、これが戦いに赴く時の顔だと言う事を本能的に理解してしまった。
結果として、思わず鼓動が跳ね上がってしまったほどだった。
それは良い。
良くはないかも知れないが、その他の人達の方が遙かに問題だ。
「いい加減に諦めろシャンテ」
「そうだぞ副長。抵抗は全て無駄なのだ」
「シャァァァァァァァ!!」
レイフォンと同じグレンダン出身で、何か因縁があるらしい、巨漢の第五小隊長ゴルネオと、メイシェンもよく利用している食肉加工店のオスカーだ。
そして、二人に抱えられ、更にその拘束を振り解こうと全身で抵抗しているのは、小柄で赤毛で猫な第五小隊所属のシャンテ。
至って意味不明な集団である。
いや。実はおおよそ理解してしまっているのだ。
「シャァァァァァァ!」
建物に入ったことを認識したのか、更に激しく暴れ出すシャンテは、何かに縛られてでもいるのか、身体をくねらせる以外の抵抗が出来ないようだ。
ここまで観察すれば話は見えてくる。
シャンテが虫歯になった。
でも歯医者には行きたくない。
そのまま放置する訳には行かない。
保護者であるゴルネオとオスカーで協力して連れてきた。
暴れ方が激しくて手が付けられないので、レイフォンも応援に呼ばれた。
と、ざっとこんなところだろうと言うことは見ていれば十分に分かる。
そしてメイシェン・トリンデンは思う。
あんな無様はさらせないと。
特にレイフォンが来てしまっている以上、勇気と正義に燃える心で歯医者に立ち向かい、そして堂々と勝利を収めなければならない。
具体的には泣かないで治療を終えるという勝利を、その手に掴まなければならない。
そんなメイシェンの決意を待っていたかのように、いきなりレイフォンが大量の汗を流しながら口を開いた。
「せ、先輩」
「なんだアルセイフ。もう少しだ」
「は、速くして下さい」
「弱音を吐くなアルセイフ。お前なら出来る」
「集中力が限界です。これ以上拘束を続けていると」
「どうなるというのだ?」
「ぶつ切りにしてしまいます」
「しゃぁぁぁぁ?」
暴れているシャンテを含めて、全員の視線がレイフォンに集まった。
ナルキが必死に体得した鋼糸という物を使って、シャンテの動きを押さえつけているのは理解出来ていたが、それもそろそろ限界らしいと言うところまでは分からなかった。
元々細い糸を使う技らしいので、少し油断すると縛るのではなく切ってしまうらしいことは理解出来る。
たこ糸で鶏肉を縛ることはたまにやるメイシェンだが、それをピアノ線でやれと言われたら相当怖い。
下手に力を入れると鶏肉が切れてしまうし、入れなければ料理中に分解してしまうから、その力加減は非常に微妙だ。
レイフォンの使っている鋼糸はピアノ線よりも更に細く、しかも相手は生身の生きている人間だ。
どれほどの集中力で切らないように押さえつけているか、想像するだけで目眩がしてきそうだ。
「切れてしまったら修復は出来るのかね?」
「無理です」
一瞬の沈黙の後、オスカーが恐る恐るとレイフォンに訪ねる。
もし切れてしまっても、治療出来ればそれ程大きな問題にはならないと判断したのだろうが、しかしそんな生やさしい危険性ではなかったようだ。
「ぶつ切りというか、不揃いな賽の目切りになります」
ぶつ切りと言われて思い出すのは、数日前に作った南瓜と鶏肉を使ったシチュー。
南瓜の方はルーとして使ったが、鶏肉はぶつ切りにしてその存在感と食感を楽しむようにしたのだ。
思わずシャンテを凝視してしまう。
「う、うむ。あと少しだ。もう少しだ」
危険性を理解したらしいゴルネオとオスカーの顔から血の気が引いて行く。
ミィフィも、実はメイシェンの顔からも血の気が引いているのだ。
目の前で人体が細切れになるところを見てしまうかも知れないと。
そうなったら、ショックのあまり菜食主義者になってしまうかも知れないし、それ以前に暫く何も食べられない。
と言う訳で、心の中でレイフォンを応援しつつ出来るだけシャンテの方を見ないように、視線を背ける。
万が一に備えなければならないのだ。
「はいはい! それじゃあこれ付けてね」
そんな騒動などお構いなしと言わんばかりに、ケーシーを着た人物がシャンテの側までやって来て、いきなりガスマスクのような物をその顔に押し当てた。
ガスマスクに見えるが、きっと何か違う用途に使うのだろうと思うが、シャンテを見ないように必死になっているメイシェンには、はっきりと認識することが出来ないのだ。
「シャァァァァァァ!」
最後の抵抗とばかりに、更に激しく身体をくねらせるが、それも段々と小規模になっていった。
そして一分ほどすると、完全に動きを止めてしまうシャンテ。
なにやら瞼を閉じて寝息を立てているように見える。
「麻酔終了」
ケーシーを着た人物がそう宣言する。
ほっとレイフォン達三人から安堵の溜息が聞こえる。
マスクはまだしたままだが鋼糸を解いたのか、だらりと手足が垂れ下がるシャンテ。
本当に眠ってしまっているようだ。
「感謝するよアルセイフ君。去年は第五小隊総出で押さえつけなければならなかったからね」
「い、いえ。お役に立てたのなら良かったですが」
レイフォンの視線がシャンテを捉える。
完全に眠ってしまっているが、着ている服はあちこち切り裂かれ所々軽く出血している。
「・・・・・・・」
なんだか非常に腹立たしい気がするが、きっと気のせいだ。
レイフォンにしてみれば、大怪我をさせていないか確認しただけなのだろう事は分かる、
分かるのだが、気のせいだとは思うのだが、それでもなんだか腹立たしいような気がする。
だが、全ての事情は一瞬で明後日の方向へと飛んで行ってしまった。
「メイ?」
「あ、あうぅぅぅぅ」
あろう事か、視線に気が付いたレイフォンがメイシェンを認識してしまったのだ。
歯医者の待合室で座っていると言う事は、すなわちこれから治療だと言うこと。
ミィフィの付き添いと言う事で誤魔化せる訳もなく、レイフォンの視線がメイシェンに突き刺さる。
本人は突き刺しているつもりはないのだろうが、メイシェン的には突き刺さってしまっているのだ。
「これから治療?」
「あ、あう。そ、そうです」
嘘偽りを言っても仕方が無いので、正直に答える。
そして気が付いてしまった。
自らの手で退路を断ってしまったのだと。
いや。始めから逃げるという選択肢は存在していないのだが、それでももはや後には引けない。
「えっと。色々ありましたがトリンデンさんどうぞ」
「あ、あう」
こうなってはもう、歯を食いしばって痛みに耐え抜くしかない。
震える足に鞭を打って治療台に上る。
今まで料理してきた食材達も、きっとこれほどの覚悟でまな板の上に乗ったのだろうと思うと、これからはもっと感謝して無駄なく使おうと決意が新たになる。
「はいはい。口を開けないと治療出来ないからね」
「あ、あう」
断じて違うのだ。
歯を食いしばっていたのは痛みに耐えるためであって、断じて治療を拒んでいる訳ではないのだ。
違うったら違うのだ。
虫食いになっていたのは奥歯だったので、しっかりと麻酔をされて治療は終了した。
とは言え、麻酔は完璧ではなかったようで結構痛かった。
それでも、覚悟していたほどの痛みは感じなかったが、麻酔はまだ効いているようで、顔の下半分右側に違和感を感じている。
三時間ほど効果は切れないと言う事なので、夕食を作る際は十分に注意しなければならないと判断出来る。
味見をする時にも何らかの問題が出てくるだろうから。
だが、治療室から待合室に移動したメイシェンの前に出現したのは、おそらくはこの世で最も意味不明な出来事達だった。
「ルッケンスさんよ! 前にも言ったけれどシャンテを虫歯にするなよな!」
「も、申し訳ありません」
巨漢であるゴルネオが、小柄な歯医者に向かって深々と頭を下げている。
治療はもう終わったのか、眠ったままのシャンテがソファーに寝かされているが、それは事態の僅かな部分でしかない。
「本人に言って駄目だったら、お前が歯を磨いてやれと言っただろう!」
「そ、そう言われましても」
「ああ? 毎回毎回あちこちで騒ぎを起こして! 去年ツェルニ中を逃げ回ったシャンテを追いかけて、どれだけ周りに迷惑かけたと思ってんだ!」
「誠に遺憾です」
「来年も一年生に頼る気かお前は!! それとも来年から獣医に診せるか?」
メイシェンは一年である。
だから、去年何が有ったか全く分からないが、レイフォンがいない分、周りの被害は凄まじい物になったに違いない。
レイフォンが誰かの役に立ったと思うと、それだけで何となく誇らしい気持ちになるのだが、来年もシャンテを縛り上げるかも知れないと思うと、その誇らしい気持ちもずいぶんとしぼんでしまう。
「だったら! おまえがやるしかないだろう!!」
「び、微力を尽くします!」
冷や汗を流しつつ、歯医者に怒られるゴルネオはまだ良いかもしれない。
問題は実はレイフォンの方だ。
我関せずと脇で眺めているオスカーは、来年にはここにいないから対岸の火事と言った気分なのだろうが。
「にひひひひ」
「な、なんだよ?」
笑っているだけでレイフォンを追い詰めているミィフィ。
ツェルニに到着した直後にもそんな事があったかも知れないが、今は状況が明らかに違う。
なぜならば、明らかにレイフォンを虐めるつもりでミィフィが追い詰めているからだ。
「にひひひひ。レイとん」
「な、なんだよ?」
腰砕けになりかけているレイフォンは、ついさっきシャンテを縛り上げていた時とは別人のようだ。
今にも泣き出しそうだ。
「上着だけのケーシーしか着ていないメイッチに歯の治療をしてもらいたいでしょう?」
「っぶ!」
何を想像したのかは理解出来るが、いきなりレイフォンが腰砕けになってしまった。
もちろん、メイシェンがここに居ると言う事は認識していないはずだ。
とは言え、あまりにもあまりな格好を想像されてしまって、一瞬反応に困ってしまった。
レイフォンが喜ぶのだったら、それくらいは良いかもしれないと思わなくもないが、それでもメイシェン・トリンデンは乙女なのだ。
そんな破廉恥な格好は流石に問題が有りすぎる。
「ミィちゃん!」
「のわ!」
ミィフィもメイシェンの接近に気が付いていなかったのか、茶髪ツインテールを跳ね上げつつこちらを振り返る。
そして一瞬で作戦を再構築したのが分かってしまった。
これはもしかしたら、藪蛇だったのかも知れない。
だが、既に賽は投げられてしまっているのだ。
後戻りは出来ない。
「にひひひひ。メイッチもレイとんに歯を磨いてもらいたい?」
「ひゃ!」
出てきた内容が、覚悟していた物とだいぶ違ったので再び硬直。
一秒ほどかけて、レイフォンに歯を磨かれる自分を想像する。
「・・・・・・・・」
結果。なにやら子供扱いされてしまっているような気分になることが判明。
この案は却下である。
「そ、そんな。メイシェンは子供じゃないんだから。小さな子供の歯を磨くのはなれているけれどさ」
なにやら聞き捨てならないことをレイフォンが言っているような気がするが、少しだけ落ち着いて検証する。
レイフォンは孤児である。
孤児院をそんなに多く知っている訳ではないが、それでも小さな子供が結構な数いることは分かる。
その小さな子供達が虫歯にならないように、効率よく的確に歯を磨くことはある意味必要な技量と言えるだろう。
そうなると、レイフォンが慣れていることも十分に頷ける。
断じてメイシェンが磨かれたいと言う事はないのだが。
「にひひひひ。だったら、二人の子供が出来ても虫歯は大丈夫だね」
「ひゃ?」
「っぶ!」
続いて出てきたミィフィの台詞に、思わずレイフォンと目があってしまう。
いや。確かに子供は欲しいと思うし、それ以前に結婚だって考えているのだが、だからと言ってこうもあからさまにそう言われてしまうと、少々では済まない衝撃に見舞われてしまうのも事実。
思わず見つめ合っていた視線をお互いがそらしてしまう。
いくら何でも早過ぎるのだ。
家族がそれを望んでいることは理解しているが、ダンもそれを期待していることは知っているが、だからと言っていくら何でも早過ぎるのだ。
「え、えっと」
「あ、あう」
明後日の方向を眺めつつ、二人して言葉に詰まる。
これではいけないと分かっているのだが、だからと言って何か解決策があるという訳でもない。
「にひひひひひ」
ミィフィだけは絶好調だ。
お菓子減量の刑に処すことを決定しつつも、話題転換を含めて少し気になることがあった。
「レ、レイフォンは、虫歯とか大丈夫?」
「ぼ、僕?」
いきなりだったせいだろうが、反応が猛烈に遅い。
当然である。
メイシェンが話題を振られたら、レイフォン以上に遅い反応しかできないのは間違いない。
「僕は半年に一度は医者に来て点検しているから、酷い虫歯になったことはないかな」
「へ?」
「な、なに!」
驚いたのはメイシェンだけではない。
ミィフィもゴルネオもオスカーも、みんなして驚いている。
これは相当異常な事態なのだろうと言う事は理解出来た。
「武芸者は歯を食いしばることが多いから、定期的に確認しておかないとすぐに歯が駄目になるんだよ」
立ち直りつつそう言うレイフォン。
運動する時に歯を食いしばることが多いのは知っているが、それでも疑問は残る。
小隊員である二人も驚いているところだ。
思わずそちらの方を見てしまう。
「た、確かに、歯を食いしばることが多いのは間違いないが」
「私達はそれ程頻繁には来ていないぞ」
驚いたようにお互いの顔を見つめ合う男性二人。
レイフォンの行動は相当珍しいのだろう事は分かった。
「それは危険ですよ。虫歯で戦えないなんて事になったらどうするんですか?」
「う、うむ」
「むん」
「今日のシャンテ先輩も、きっと歯が痛くて全力を出せなかったんですよ」
「確かに、いつもならもっと引き離されていたはずだが」
「活剄の密度は十分だったが、それを効率よく使えなかったのか」
「おそらくそう言うことですよ」
考え込む第五小隊員二人。
戦いたくないと言いつつも、戦うための準備を怠らないレイフォンは、もしかしたら相当に矛盾を抱えた人物なのかも知れない。
だが、メイシェンにとってはある意味天恵でもある。
小まめに来て虫歯の確認をしていれば、今回のような騒動にならずに済むかも知れないのだ。
これは根気を入れて歯医者に通う価値があるかも知れない。
虫歯との戦いに終わりがない以上、常に備えることは絶対に必要なのだ。
決意を新たにしたメイシェンは、次なる戦いに備えて気合いを入れ直した。
そして、ミィフィはやはりおやつ減量の刑に処すことも決意した。