暗闇に支配されるツェルニの街角を歩きつつ、レイフォンの手が強めにメイシェンのそれを掴んでいるのが分かる。
完全な静寂という訳ではないが、殆どの音が消えているために前を行く二人の足音も十分に聞こえる。
当然尾行している方は足音を忍ばせているので、レイフォン達には聞こえていないだろう。
開いている距離は僅かに十メルトル少々。
やや暗いが十分に見える距離だ。
レイフォンが何かを決断した事は理解している。
それが刀絡みの問題である事もおおよそ理解している。
イージェの来訪から僅かに五日で何かを選択出来たのだ。
流される事しかできていなかったはずのレイフォンが、選択できたことをリーリンは祝福しているのだ。
それがどんな選択だったとしても、レイフォンが決めた事だったらそれで良い。
そうリーリンが決意を固めてから一分ほど時間が流れた。
いきなり立ち止まったレイフォンがメイシェンに向き直り、いきなり頭を下げた。
「ごめんメイシェン。僕は刀を捨てる事が出来ない」
今のレイフォンにとって刀とは戦う事の象徴だ。
そして、メイシェンを心配させたくないからと戦わない事を選んだ。
その選択も実は支持したいのだ。
だが、それでも、やはりレイフォンには刀を持っていて欲しい。
天剣がない状況では全力を出せない。
ならば、せめて本来の技を使って戦い、そして生きて帰って来て欲しいのだ。
二つの相反する思考がリーリンの事も縛り身動き出来なかった。
少なくとも四日前まではそうだった。
イージェがどんな話を持ってきたのか詳しくは知らないが、基本的には何も変わらない。
レイフォンが刀を持つと言う事は武芸者であり続けると言う事だ。
それはつまり、戦い続けて何時か何処かで死んでしまうかも知れないと言う事だ。
そして、帰らないかも知れないレイフォンをメイシェンが待つ事になる。
それが嫌だったはずなのだが、それでもレイフォンは刀を持つ事を選んだ。
この結論を出した今も、レイフォンは恐らくかなり怯えているに違いない。
持たないで欲しいとメイシェンに懇願されるかも知れないし、もしかしたら、戦うレイフォンとは付き合えないと絶縁されるかも知れない。
その恐れと共にメイシェンに決意を伝えているのだ。
偉いねと頭を撫でてやりたくなるほどに立派な行為だと思う。
ヘタレなレイフォンにしては十分に立派な行為だ。
そして僅かな時間が流れた。
リーリンにとってはほんの短い時間だったが、レイフォンにとってはまさしく永遠に等しく感じられただろう。
そして、メイシェンの手がゆっくりと上がって行く。
いきなり叩かれるかも知れないと全身に力が入るのが、遠くから見ていても分かった。
そんなはずはないと端から見ていれば分かるのだが、本人にそれを求めるのは酷なのだろう。
ゆっくりと上がった手が、レイフォンの頬に添えられた。
驚いたようにメイシェンを見るレイフォン。
こちらからは見えないのだが、きっとメイシェンは微笑んでいるのだろう。
内心持って欲しくないと、戦って欲しくないと思っていても、それでもレイフォンが決めたのだから、それを許すために無理に微笑んでいるのだろう。
「うん。レイフォンが決めたんだったらそれで良いよ。だから謝らないで」
予想通りに穏やかな声でその言葉が聞こえた。
だが、よくよく注意していれば微かな震えを認識する事が出来ただろう。
これも今のレイフォンに分かれと言う事は酷なのだろうと思う。
そして呆気に取られるレイフォンの表情はかなり見物だった。
最近では見る事が出来なかった。
だが、その表情も一転、不安そうになるのが分かった。
メイシェンが無理している事には気が付かないだろうが、それでも平静でない事は理解したようだ。
「メイシェン?」
「な、なに?」
何時までもそんな無理が利く訳がないのだ。
先ほどよりも明らかに声の震えが大きくなっている。
限界が近いのだ。
「無理しないで。メイシェンが無理する必要なんか無いんだから」
これは何だろう?
よりにもよってレイフォンから無理するなと言う単語が出てきたように聞こえた。
一人で全てを背負い込んでしまうレイフォンから、無理をするなと告げられる。
ある意味究極的な嫌がらせともとれるのだが、今回に限ってはあまり外れた台詞でもなかったようだ。
「あ、あの」
メイシェンが涙声で何か言おうとしている事が分かった。
それをじっと待つレイフォンと覗き組の面々。
「本当は、持たないで欲しい。怪我とかするレイフォンを見たくない」
「うん」
必死に取り乱さないようにと頑張るメイシェンの言葉を、ゆっくりと待つレイフォン。
後ろ向きになったその肩が震えている事が分かる。
「で、でも、好きな事が出来ないレイフォンを見るのも嫌だから、だから、えっと」
この先何を言いたいのか分からないのだろう、メイシェンの声が途切れ途切れになる。
かなり言葉に迷ったようだが、言うべき事を見つけたようでそっと顔が上を向いた。
「必ず、帰って来て下さい」
「うん。必ずメイシェンの居るところへ帰るよ」
震えるその身体をレイフォンがそっと抱きしめる。
そして、顔を上げたままのメイシェンとやや下を向いたレイフォンがゆっくりと近付く。
「止めて!」
影から見ているだけのはずだったが、思わず叫んでしまった。
レイフォンの選択を祝福して支持すると決めたはずなのに、それなのに叫んでしまっていた。
だが、十メルトルしか離れていないリーリンの叫びが聞こえたはずなのに、二人の距離はみるみる狭まって行く。
「お願い! 止めてレイフォン!」
声を限りに絶叫した。
そして理解してしまった。
重なる二人の影が全てを物語っている。
今からでも遅くはない。
駆け寄って二人を引きはがせと、何処かで誰かがささやいている。
だが、身体は全く言う事を聞かずにその場で震えているだけだ。
そして、重なっていた影が離れレイフォンが踵を返す。
レイフォンの腕がメイシェンの肩を掻き抱き、メイシェンの腕はレイフォンの腰に回されている。
二人が歩む方向にあるのは、質素で小さなアパート。
それは二人の門出のために用意された、小さな巣なのだろう。
「さよならリーリン。僕はもうグレンダンには行けないんだ」
首だけをこちらに向けたレイフォンの一言がリーリンをしたたかに打ちのめした。
グレンダンに帰れないとレイフォンは言わなかった。
それはつまり、既にグレンダンでの事は過去の出来事だと割り切ってしまっていると言う事だ。
だが、リーリンにとってはそうでは無い。
レイフォンの事は現在進行形の問題なのだ。
「駄目! 行かないでレイフォン!」
必死に叫んだが、それでも二人の歩みは全く変わらず、とうとうアパートの中へと消えてしまった。
絶望と後悔の念に支配されたリーリンを残して。
そして、そこで目が覚めた。
目を覚ますとそこはベッドの上だった。
濃い緑色のカーテンが引かれ、通り抜けてきた僅かな光が狭い部屋を照らし出している。
あまり陽は高くないようで、ベッドを照らす光の量はかなり多い。
だが、実はリーリンはそれどころではないのだ。
「気持ち悪い」
別段見ていた夢のせいではないと思うのだが、非常に気分が悪い。
グレンダンで戦闘が長期化した時にシェルターに批難している間に、たまにこんな気分になった事がある。
その時はレイフォンが無事に帰ってくるかどうか心配していたと思うのだが、今この瞬間は断じて違う。
服を着たまま眠ってしまったので皺だらけになったのが原因かも知れないし、もしかしたら見知らぬベッドで目を覚ましたのが原因かも知れない。
お茶の香りのする枕で眠った事など初めてだし。
「・・・・・。なんですと?」
そう。見知らぬベッドなのだ。
慌てて身体を起こしたリーリンは次の瞬間再び枕へと頭を押しつけていた。
拘束されている訳ではない。
急に起き上がってめまいを起こしてしまったのだ。
これは今までにない状態である事を再認識。
今度は細心の注意を払って上体を起こし、視線を周りに飛ばす。
殺風景な部屋だ。
家具と呼べる物はベッドただ一つ。
だが、物がないという訳ではない。
棚に収められることなく積み上げられた本の数々が、部屋を殺風景に見せつつも賑やかさを演出している。
窓際から順を追って行くと、医学、数学、物理学、化学、経済学、料理に音楽、言語学に破壊弾道学。
専門書と思われる物が数冊ずつ分野ごとに並べられているのだ。
そして、合成樹脂製の大きな板と筆記用具が本の上に無造作に放り出されている。
これを作った人間は浅く広い知識が何よりも重要だと主張しているようだ。
その結論に達したところで、昨夜何が有ったかおぼろげに思い出す事が出来たリーリンは、服の皺を気にしつつも寝室の扉の方に向かっておぼつかない足取りで歩く。
立ち上がると良く分かるのだが、なんだか胸がむかつき下腹部が圧迫されているし、非常に喉が渇いているようにも思う。
昨夜の事を考えれば当然の現象だと自分を納得させつつ、扉を開いて驚いた。
「おはようリーリン」
「・・・・・・。おはよう」
ベッドが置いてあった部屋よりは広いのだが、比較対象が少々問題かも知れない。
その狭い部屋の真ん中に低いテーブルが置かれている。
そして、冷蔵庫とテレビに固定電話と一通りの家具が壁際に並び、生活感を演出している。
だが、最も問題なのは、部屋のあちこちに置かれた映像記憶素子や情報記憶素子を納めた小さな箱の数々。
全てを合わせれば小さめの図書館が設立出来るはずだが、それが全て個人の持ち物だと思うだけで気が遠くなる。
そして、この気が遠くなるような情報の所有者が、低いテーブルに乗せたなにやら無闇に分厚い本を丹念に読んでいたのだ。
それはもう一字一句見逃すまいとするかのように、必死の形相で。
挨拶する時にも視線は本から離れない辺りに、ウォリアスの人となりが現れているように思える。
「そっちがお風呂とトイレ。冷蔵庫の中に飲み物が入っているから適当に飲んで。食事は出来そう?」
「食欲はないわね」
用意周到というのがウォリアスの心情なのは理解しているつもりだったが、その理解はまだまだ甘かったようだ。
取り敢えず小型で冷凍装置のない冷蔵庫を開けてみて、溜息をつく。
中を見渡す必要がないほど、それは綺麗に片付いていた。
殆ど飲み物と調味料しかないという意味で、綺麗に片付いていた。
後は果物とヨーグルト、ジャムとバターらしき物が少々。
「何ですぐに食べられる物と飲み物しか入ってないの?」
「食事はたいがいにおいてメイシェンかレイフォンのところだから」
「成る程ね」
料理が出来ないのかする必要がないのかは判然としないが、取り敢えず冷えたスポーツドリンクを取り出して一気に飲み干す。
コップを探しても良かったのだが、喉の渇きはかなり深刻になっていたのだ。
あまり行儀がよいとは言えないけれど、既に後の祭りである。
妹や弟には絶対に見せられない姿だが、それも後の祭りである。
こんな醜態をリーリンがさらしているのには当然理由がある。
切っ掛けは昨夜誘われたからだ。
「レノスでは、十五歳以上の飲酒は許可されているんだ。酒精成分五パーセントまでだけれどね」
やや強引だったが、ウォリアスに付き合う形で生まれて始めてでは無いにせよお酒を飲んでしまった。
だが、シノーラに付き合わされた時とリーリンの精神状態が明らかに違った。
とても平静ではいられなかったはずなので、色々あったのだろう事が理解できる。
視線の先にある物も、リーリンのその認識が正しいのだと語っているように見えるのだ。
冷蔵庫の脇にまとめておかれた酒瓶は、合計五本。
全てが一リットルル程もあるという大きな代物だ。
「えっと? あんまり呑み過ぎちゃ駄目よウォリアス」
「・・・・・・・。僕は一本の半分しか呑んでいないよりーリン」
「! 常習的な飲酒はおすすめ出来ないけれど」
「基本的に僕はお酒に弱いんで呑まないんだ」
以上の会話から分かった事と言えばただ一つ。
かなりの量をリーリンが一晩で飲んでしまった。
あまり褒められた事ではないと言う事は理解している。
だが、リーリンにだって言い分はあるのだ。
メイシェンとレイフォンのあのシーンを間近で見てしまったせいで、かなり精神的に追い詰められていた。
途中からは覚えていないけれど、かなり激しく愚痴を言っていたような気がする。
おまけにレイフォンがいかに鈍感かを延々と解説し続けたような気もする。
おぼろげな記憶としても殆ど残っていないが、激しく泣いたようにも思う。
最終的に、少々つっけんどんなウォリアスが出来上がった訳だ。
極めて辻褄があう。
「シャワー浴びてきたら?」
「そうします」
小さな溜息混じりにそう言われたので、それに従って浴室へと続く脱衣所に足を踏み入れたリーリンは、ウォリアスの用意周到さが異常なレベルである事に気が付いた。
パッケージを解いていない女性物の下着が紙袋に収められておいてあったのだ。
きっとミィフィかナルキに頼んで買っておいてもらったに違いない。
何故それが分かるかと問われると、領収書込みのメモが置いてあったからだ。
後で払いに行かなければならないし、心配させてしまった事に対して謝りに行かなければならない。
それと、殆ど連絡もなく外泊したことを寮長さんに謝らなければいけないかも知れない。
「はあ」
重い身体と頭、それ以上に重い心を引きずって服を脱いで浴室へと入る。
運がなかったと諦めるべきだろうか?
もし、レイフォンがグレンダンにギリギリまで居たのならば、話は違ったのかも知れない。
違ったかも知れないがそれは全て起こらなかった歴史だ。
今更悔やんでも後悔しても全く無意味だ。
だが、熱いお湯を全身に浴びた事で少しだけ気分が良くなった。
何時もウォリアスが使っているだろうシャンプーが少々無頓着だったが、それでも清潔になって行くという感覚は味わえた。
バスタオルで身体を拭き、服を着てからリビングらしい場所に戻ると、なにやら良い匂いがしている事に気が付く。
「ご飯作れるんじゃない」
「作れないとは言っていないよ。朝ご飯はここで食べてるし」
なにやらコンロにかけた平たい鍋のような物から蒸気が上がり、お米を煮ているらしい事が伺える。
食欲はないのだが、何か食べないと身体のだるいのが、治らない事は理解している。
取り敢えずテーブルのそばに座り出来上がるのを待つ。
「その辺にある映像は見て良いよ。出来上がるのにもう少し時間が掛かるから」
「ありがとう」
言われるがままに映像記憶素子の一覧を眺めて行き、料理関連の物を発見。
取り敢えずそれを再生機にかけて呆然と眺める。
呆然と眺めていられたのはほんの一瞬だった。
「ぷっくくくくくく」
なにやら面白いのだ。
実際に笑えるかと聞かれると否と答えるしかないのだが、やや無理をしてでも笑う。
涙を流すか、笑う事で心が平静を取り戻すと何処かで聞いたのだ。
たぶん涙はもう流したから、笑うしかない。だから笑うのだ。
そのリーリンの心境に今見ている料理番組はうってつけだった。
料理番組のはずなのだが、いやまあ、確かにレストランの紹介シーンは魅力的で参考になるのだが、その後に続いた小話が非常に面白い。
レイフォン絡みですさんだ心が癒されるような気がするほどには、面白いのだ。
「ねえウォリアス。これ貸して」
料理中のウォリアスに声をかける。
メニュー画面を見て行くとおおよそ百五十本ほどあるのだ。
流石に一日で見終わるには無理がある。
ならば借りていって存分に見る事こそが最善の選択だろうとの結論は、間違っていないはずだ。
「いいけど。料理を作り始めたら見るのは止めた方が良いよ」
「なんでよ? 面白いのに?」
「いや。すぐに分かるから良いんだけれどね」
なにやら語尾が少し震えていたようだが、それを意識の外に放り出して画面に集中する。
そして、すぐに自分の行為を後悔した。
ウォリアスの肩が震えていたのは、笑いをこらえていたのだと言う事にも気が付いた。
「うぅぅぅ。き、きもちわるい」
大量の溶かしバターで焼かれる、脂身の多い鶏肉を目撃してしまった。
付け合わせにバターをたっぷり使ったソースでゆでられる野菜と、溶かしバターをこれでもかというくらいに使って焼かれるパン。
普段でも少々気分が悪くなる程度には油っぽいのに、確実に二日酔いである今これを見てしまってはかなりきつい。
ヘロヘロとテーブルに突っ伏しつつ映像を止める。
確かにこれは今見ない方が良かったと後悔したが、後の祭りだ。
「と言う訳でご飯出来たよ」
「私が苦しんでいるのがそんなに楽しい?」
ニヤリと笑いつつ深皿を差し出すウォリアスに、殺意が芽生える。
この展開を予想していた事は間違いない。
出来ればもっと的確に注意して欲しいところだ。
「一度失敗すれば懲りるからね」
「・・・・・。ぬぬぬぬ」
深皿にお米を煮た物が移されるのを眺めつつ、リーリンは少し唸ってみた。
唸ってみたが胸のむかつきは変わらない。
これでバターやチーズを使った料理だったら、明らかに食べる事は出来なかっただろうが、ウォリアスはそんな素直な男ではなかった。
「これは油使ってないから食べられるよ」
そう言いつつ、なにやら赤い果実をすりつぶした物を煮たお米の上に少量乗せる。
今まで食べた事のない料理に少々興味を持ったが、相手はウォリアスだ。
十分に慎重にスプーンで少しだけすくってみる。
「ああ。その果肉は良くほぐさないとかなり酸っぱいからね」
「酸っぱいのね」
言われた通りに軽く果肉をほぐしてから、改めてスプーンですくって恐る恐ると口に運ぶ。
酸っぱいと聞いていたが、もしかしたら苦いかも知れないし甘いかも知れない。ウォリアスという人物はそう言う罠をしかけることが大好きだと、この短い時間でリーリンは認識してしまっていたからだ。
「あれ?」
割と美味しかった。
二日酔いで食欲はないのだが、それでもこれならある程度食べられそうだ。
空腹を感じる能力はまだ目覚めていないが、それでも取り分けられた分は食べ終える事が出来た。
「ごちそうさま」
「はい。お粗末様でした。何か呑む?」
「お茶とかが飲みたいかな?」
なにやら怪しげなイントネーションだったのには目を瞑って、片付けをしつつお茶を淹れるウォリアスを見守る。
気が付かなかったが、なにやら何時もと様子が違う。
まあ、記憶がはっきりしないけれど、かなり暴言を吐いたはずだから、少々引かれているのかと思ったが、それにしてもやや様子がおかしい。
「何か私に言いたい事があるの?」
「うぅぅん? 眠っている間に何をしたのとか聞かないのかなって」
「・・・・。そんな度胸あるの?」
「無いよ」
どうやら、ウォリアスという人物はかなり複雑怪奇な生命体のようだ。
単純馬鹿なレイフォンとは偉い違いである。
だが、ここでふと思うのだ。
思春期の男子などケダモノとあまり変わらないと何処かで聞いた記憶がある。
であるならば、今目の前にいる生命体は思春期の男子ではないのかも知れないが、単にレイフォン並みにヘタレなだけかも知れない。
「別に僕はそんなにヘタレじゃないよ。もしリーリンと交際していて二人の覚悟があったら、そう言う関係に突入していたよ」
「へえ。それが本当ならレイフォンよりは増しね」
「レイフォンと比べられることに憤りを覚えるべきなのか、安心して接することが出来る男子として評価されると喜ぶべきなのか」
更に複雑怪奇になるウォリアスを軽く流しつつ、先ほどの料理番組を再生する。
料理を作っているところを見るのはまだかなりきついのだが、クラハム・ガーと言う進行役兼料理人の話は、テンポが良くて聞いていて飽きないのだ。
すさんだ心を癒すという事は出来ないかも知れないが、気を紛らわせると言う事は十分に出来る。
若干下ネタがあるので、評価は微妙なところをうろついているけれど。
「ところでリーリン」
「なぁに?」
片付けが終わったのか、お茶を持ってやって来たウォリアスが斜め前方に座る。
なにやら真剣な表情をしているように見えるのだが、眼が細すぎてはっきりとは認識出来ない。
「僕を男だと認識している?」
「しているわよ? 力尽くで私をどうにかする事は出来ない程度のヘタレだと」
「・・・・・。それなら良いけれど」
微妙な表情をしているらしいウォリアスを横目に、料理番組に集中する。
ついでではあるが、テーブルの上にあったメモを使ってレシピや作り方のコツを記録して行く。
なにやらこの部屋は何かを見ながらメモを取る事について、非常に都合の良い家具の配置になっている。
きっとこれもウォリアスの人となりの一部なのだろう。
しっかりと頷ける現象だ。
リーリンが目覚めたのは朝の遅い時間だった。と言うか昼食を作ろうかと考えるような時間だった。
休日の朝、ウォリアスはたいがいに置いて早く目覚める。
実は休日ではない時も早起きなのだが、ベッドをリーリンに貸してしまった今朝は何時もよりも更に早起きだった。
そんな訳で身体のあちこちが痛むのを無視しつつ、延々と読書を続ける。
中途半端な時間に朝食を摂ってしまったリーリンの体調は、あまり回復していないようではあったが、それでも溶かしバターを大量に使った料理番組を見ても、何とか平静を保てる程度には回復しているようだ。
やや遅い時間に昼食を摂ったが、おかゆだけの朝食よりは食事量が増えていたのも確認している。
二日酔いが回復するのには時間が掛かるのだが、それもそろそろ終了しようとしているようだ。
だが、昨日のリーリンはかなりすごかった。
何しろレイフォンがいかに馬鹿で鈍感かと言う事から始まり、いつの間にかどれほど優しくて思いやりがあって孤児院のために働いたかに話が変わり、最終的にはリーリンのレイフォンに対する気持ちを延々と語られた。
酔いつぶれる寸前には大泣きしてしまったのだが、どうやら早々に記憶に止めない状態に移行してしまっていたようだ。
これはきっとリーリンのためには良かったのだと思う。
ウォリアス的には少々では済まない、複雑な心の動きを呼び起こしているのだが。
「ねえウォリアス」
「なに?」
本のページに視線を落としたままリーリンの呼びかけに答える。
気になったところを記録しておくノートのページが、かなり消費されているところから判断して、結構な時間が経っているようだ。
窓の外を覗けば、日がかなり傾いているのも確認出来た。
「私達って何やってるのかな?」
「有意義に休日を過ごしている」
本を読んだり昔の番組を鑑賞したりと言う事は、リーリンにとってはそれ程有意義な行動ではないようだ。
料理のレシピやコツを書き連ねたメモ用紙が、かなりの量になっているのだが、それも本人にとってはあまり有意義ではないのかも知れない。
まあ、ざっと見ただけでそのメモには非常な問題があるのを無視しての話だ。
当然、ウォリアスにとっては非常に有意義な休日の過ごし方だ。誰かに強制するつもりはないが、邪魔されたくもない。
「折角の休みを無駄にしてないかな?」
「僕はたいがいこんな休日の過ごし方だよ」
「ウォリアスってインドア派なんだ」
「レノスの人間はおおよそインドア派だね」
古文都市という、古い資料や記録を収集する事を目的としているような都市に住んでいるのだ、住人はかなりの割合で都市の影響を受けてしまっている。
武芸者を始めとするアウトドア派もいるのだが、その数は全体の一割に満たないと言われているほどインドア派の天国だ。
当然図書館の蔵書は驚異的に多いし、映像ライブラリーも信じられないほど充実している。
「刺激が足らないと思わない?」
「刺激ね。そろそろ夕食だしレイフォンのところに襲撃でもかける?」
固有名詞を出してリーリンの反応を窺う。
これで過剰に反応してしまったら、かなり重傷であると判断しなければならないのだが、どうやらウォリアスが思っている以上にリーリンは強がりの出来てしまう女性のようだ。
出来るだけ無視していたのだが、料理番組を見つつ笑っているリーリンのそれは、非常に乾いていて怖かった。
非常な努力をしているのは間違いないが、笑えるということ自体がかなり強がりの出来てしまうことを意味している。
この先更に衝撃的なことが起こったら、壊れてしまうのではないかと思うくらいにリーリンは強がりが出来てしまう。
あまり良いことではない。
強いと言う事は堅いと言う事と同義だ。
何か起こったらぽっきりと折れてしまうかも知れない。
それを何とか防ぐ方法を、今から考えておくべきかも知れないと、心のメモに大きな字で書きつつも観察を続ける。
「・・・。そうねぇ。メイを連れ込んでいたら頭を撫でて褒めてあげようかしら?」
「首がもげる前に止めるんだよ?」
「善処するわ」
まあ、実際にメイシェンを連れ込むなんて度胸がレイフォンに有る訳はないので、これはこれで問題無い。
問題無いと言う事にしておこう。
無意識でとっているらしいメモが、殺すとかひねり潰すとか物騒な内容なのにも目をつぶって。
「それで、何を聞きたい?」
「・・・。気が付いていたんだ」
「普段のリーリンと違った切り口の会話だったからね」
普段と違うと言うところを強調してみたが、実は少々違うのだ。
メモを取りながらも、なにやら考え込んでいた様子であちこち字を間違えていた。
何が気になるのかと推測すれば、今だけはレイフォンの事だと予測出来てしまう。
「あの人の事、どう思う?」
「イージェの事ね」
何度か会って話をしたのだが、敬称を付けられる事を異常なレベルで嫌う事と、ヨルテムがレイフォンに用意した条件について分かっただけだった。
だがまあ、それはそれで良いのだろうと思う
「嫌いみたいだねイージェの事」
「・・・。あの人さぁ」
「うんうん」
「なんだかちょっとグレたレイフォンみたいだと思わない」
「・・・・・・・。それはどうかな」
リーリンに言われてみて、レイフォンが少々グレたところを想像してみる。
目付きと言葉遣いが悪くなり、年中誰かに喧嘩を売っているようなレイフォンを想像してみる。
だけど、泣いている女の子に滅茶苦茶に弱かったり。
それはまさに、イージェ・ハジマと言う人物像に極めて近いような気がしてきた。
「否定出来ない」
「でしょう」
ならば、リーリンがイージェを嫌う理由というのも理解出来てしまうと言う物だ。
なにしろ、レイフォンがイージェと交際を続ける内に似たような性格になってしまう危険性があるのだ。
それはそれで見たいような気もするが、あくまでも他人としての話である。
「それに、私に出来なかった事があの人に出来るのって、かなり悔しいじゃない」
「ああ。そう言う訳ね」
レイフォンに刀を持たせる事が、リーリンには出来なかった。
だが、それをイージェはあっさりとやってしまった。
それが悔しかったのか、あるいは自分の無力を思い知ってしまったのかの、どちらかと言う事らしい。
だが、それは有る意味リーリンの思い違いだ。
「イージェと言うよりはヨルテムが頑張ったんだよ」
「どう頑張るのよ?」
「正確には、ヨルテムの武芸者のお偉いさん」
レイフォンとイージェの話を総合すると、ヨルテムの交差騎士団長という人がかなりあちこちに手を回しているらしい。
別段刀を持てと強要している訳ではないようだが、ほんの少しでもレイフォンの人生が穏やかな物になるように、苦労してくれているようだ。
「ヨルテムがレイフォンに期待しているのはね、教育者となる事なんだそうだ」
「あれに何かを教えるなんて事が出来るの?」
普段から武芸馬鹿だと公言しているところのあるリーリンからしてみれば、レイフォンが何かを誰かに教えると言う事が酷く異常に思えるのだろう。
だが、実際にはレイフォンは馬鹿ではないのだ。
まあ、それはさておき話を進めなければならない。
「実戦経験だけなら、他の都市の武芸者は全然勝てないでしょう?」
「それはまあ」
「レイフォンが教えるとしたらそれ関連だね」
実際にレイフォンに期待されているのは、若手の武芸者に汚染獣戦という物がどんな物かを教える事。
そして基準型都市の場合、殆ど汚染獣と戦う時には組織として戦う。
連携での戦いを取得するためには、何かと戦うのが手っ取り早い。
そこへ行くとレイフォンはこれ以上ないくらいに好都合な相手だ。
何しろ基準型都市が壊滅してしまうかも知れない老性体と戦ってきたのだ。
生半可な連携はすぐに撃破されてしまう。
つまり、レイフォンと戦えるようになる事で、たいがいの汚染獣と余裕を持って戦えるのだ。
これは武芸者の質の向上と、生存率の向上という二つを一緒に行える素晴らしい事だ。
グレンダンはレイフォンを追放しなければならなかったが、ヨルテムはそれを拾う事で非常に得をするのだ。
「と言う訳で、レイフォンは実戦に出ないで教育に専念するのが基本だね」
「実戦に出ないから刀を持つためのハードルが低くなったのね」
「そ」
戦いに出てメイシェンを心配させたくないという、レイフォンの心情を最大限にかなえつつ、ヨルテムは最大限の利益を得る。
双方丸く収まるという珍しい事態がここに起こったのだ。
「それともう一つ」
「まだ何かあるの?」
「ナルキだよ」
ナルキはただいま現在サイハーデンを学んでいる。
サイハーデンの最終目的は生き残る事。
ならば、生き残るために悪足掻きをする事だけを教えても、実はあまり意味がない。
実際の戦いの場で生き残ってきた武芸者達の技を受け継ぐ事で、その効率は最大限に発揮される。
逆に言えば、不完全なサイハーデンでは効率が著しく落ちる事になる。
剣を持ってサイハーデンを教えるだけでは、実は不十分だったのだ。
「技は教えていると思ったけれど?」
「その辺が一般人には理解出来ないかも知れないね」
技を教わる事と使えるようになる事は、全く別問題なのだ。
ナルキが刀を持っているにもかかわらず、その攻撃が打撃に見えてしまうのは、明らかにレイフォンに責任がある。
試合でレイフォンに傷を付ける事には成功しているが、それは突きの攻撃と身体捌きを最大限に使ったからだ。
斬撃系の技ではない。
ナルキのためにもレイフォンのためにも刀を持った方が良いのは間違いなかった。
「と言う訳なんだ」
「良く分からないけど分かったわ」
当然武芸について良く分かっていないリーリンに説明しても、かなりの部分で理解不能なところが出てきてしまうのは確かだ。
とは言え、そろそろ本格的に空腹を覚えてきたのも事実だ。
昼食に食べたのは、果物を適当に切ってヨーグルトであえた即席のデザートと、ライ麦を使っていると宣伝されている食パンだけだ。
普段の朝食メニューでは、流石に空腹を覚えようという物だ。
そして、ここには夕食を作るような食材はない。
「と言う事でレイフォンのところに奇襲攻撃を仕掛けよう」
「異議はないわね」
よっこらせと立ち上がったリーリンがややふらついたが、それを見なかった事にする。
この先もリーリンのフォローが少々大変かも知れないと思うが、それはそれで刺激的で良いかもしれないと思う。
アウトドアでの刺激にはあまり興味はないが、インドアでの刺激は大歓迎だ。