始めて訪れたツェルニの機関部で、レイフォンは精神に不安を抱えていた。
無意識的な動作でモップを動かして掃除をしつつ、考えるのはただ一つだ。
週間ルックンの倉庫に刀を返したレイフォンは、その場でミィフィと別れて自分の寮に帰っていた。
夜間の清掃のバイトがあるので、仮眠をとらなければならないという建前を前面に押し出して。
実際には逃げ出したのだ。
あの刀を持ってしまったために、著しく精神が不安定になっていたから。
鞘に収まっていて尚、レイフォンの心に狂おしいほどの歓喜を呼び覚ます、ただの鉄の固まりにして殺傷力を秘めた刀。
あれは間違いなく刀だった。
例え刃が付いていなくても刀だった。
天剣の技を見せ物にすると決めた時に別れを決意したにもかかわらず、ナルキとシリアに技を伝えるという大義名分の元未だに振るい続けている武器。
レイフォンが刀を見てどう思ったかなど、あの場にいる全員が分かったはずだ。
そして全員が、恐らくレイフォンは刀を持つべきだと言うに違いない。
それが善意であることは理解している。
それでもレイフォンが刀を持つことは許されない。
デルクは許してくれたが、それでもレイフォンには持つことが出来ないのだ。
もし、もう一度実戦で刀を使ってしまったら、きっともう二度と手放すことは出来なくなってしまう。
それは、ツェルニに来た目的を諦めることに他ならず、戦いに身を置く武芸者であり続けることだ。
出撃する度に帰らないかも知れないレイフォンを心配させてしまう。
それは出来るだけ避けなければならない。
グレンダン時代リーリンもレイフォンの帰りを心配してくれてはいたが、メイシェンはもっと激しく心配する。
このツェルニにはレイフォンと同じかそれ以上の実力を持った天剣授受者がいないのだ。
それは、レイフォンが頼ることが出来ないと言う事。
確実に無理をしてしまう。
怪我をしたレイフォンよりも、激しく取り乱すメイシェンを容易に想像できるのだ。
それは絶対に避けなければならない。
汚染獣との戦闘が殆ど無い学園都市ならば良いかも知れないが、ヨルテムではそうはいかない。
だが、武芸科に転科してしまった。
これはレイフォンの目的が達成されない事を意味するかも知れない。
これ以上武芸と関わるべきではない。
だが、今は間違いなく武芸者だ。
だったらどうしたらいいのだろうか?
考える。
考える。
考える。
「?」
考えている最中に、いきなり左の頬に何か当たる感触で我に返る。
いつの間にか考えていたはずが、眠っていたようだ。
これはもしかしたらあれかも知れない。
下手な考え休むに似たり。
それはまあ、置いておいて。
気が付けば始めにいた場所とは、似てもにつかない景色が広がっているのだが、問題は実はそこではない。
「君が起こしてくれたの?」
目の前で浮遊する金色に耀く童女に向かって話しかける。
どうしてこんなところに女の子がいるのかとか、何で裸なのかとか、何で浮いているのかという疑問もあるにはあるのだが、まあ、後で考えようと心に決めた。
童女が頷いていることだし、お礼を言うのが先だ。
「有り難う。ところで君は誰?」
五歳くらいに見える、踵に届くほど髪を長く伸ばした童女は、その大きな瞳に好奇心の光を宿して興味津々とレイフォンを見つめている。
何処かで会ったことがあったかと記憶をさかのぼるが、生憎と思い出せない。
頭蓋骨の中身が剄脈であるらしいレイフォンが、覚えていないだけかも知れないが、
「へ?」
目の前で浮かんでいる童女がふわふわとレイフォンの周りを回ったおかげで、それを見ることが出来た。
前方三メルトル程度のところで通路が終わっている。
それは良い。
その先は何か巨大な機械が有り轟音を立てて稼働し続けている。
それも良い。
通路の先は無論断崖絶壁になっていて、下の床までおおよそ二十メルトル。
落ちたらいくらレイフォンでも怪我をする高さだ。
まあ、それもまだ良い。
落下防止用の柵が壊れていることに比べたら、どうでも良い出来事だ。
「有り難う。助かったよ」
感謝の意を込めて童女の頭を撫でる。
とたんにこれ以上ないほどの笑顔になり、レイフォンの頭にしがみついてきた。
「うわ」
全く重さを感じない暖かさに頭全体が包まれる。
異常な事態の連続だったが、やっとの事で童女の正体が分かった。
「ツェルニ。君がツェルニなんだね」
よくよく思い出してみれば、学園都市に来た時に遠目に見た旗に童女の姿が描かれていた。
余りはっきり覚えていないが、諸々のことを総合的に繋ぎ合わせると、頭に抱きついて嬉しそうにしているのがツェルニと言う事になるのだろう。
他に予測できる事態はない。
「保護者っているのかな?」
嬉しそうなのは見ていてほほえましいのだが、流石に電子精霊がその辺を飛び回っていて良いとも思えない。
さてどうしようかと考えつつも、バケツの水を替えつつ誰かに聞けばいいかと思いついた。
なので、綺麗になった床が大量生産された通路を元来た方向に戻る。
眠っていたはずなのだが、身体は勝手に掃除を続けていたようだ。
自分でやっておきながら呆れてしまう。
そんな思考をしつつ歩いていると、もう少しで出発点に戻れるというところで、見知った人物を遠目に確認。
距離にしておおよそ五十メルトル。
通路の先、T字路になった場所で一息ついているところのようだ。
パイプの一つに腰を下ろして、夜食だと思われるサンドイッチを頬張っているその姿は、第十七小隊長のニーナだ。
あちこち汚れたオイルでまだらになっているが、見間違える距離ではない。
ニーナが機関部の清掃なんて仕事をしていることに驚きを感じつつも、ついでなのでツェルニのことを話してみようと歩く速度を少し早める。
ウォリアスが全て話しているはずだから話すのは気が重いのだが、もし居心地が悪くなったとしても、ツェルニに居る事が出来なくなったとしても、レイフォンには帰る場所があるのだ。
必要以上に恐れる事はない。
「おおいニーナ」
「まさかまたか?」
そんな決意と共に、もう少しで声が届くという距離になったのだが、先にニーナに声をかける人物がいたようだ。
機関科の技術者らしいその人物と、意味不明な会話が成立しているところを見ると、時々起こる突発事態なのだろう事が分かる。
「頼めるか?」
「分かった」
そんな事を考えている間にも、二人の会話は先に進み何処かに行こうと腰を上げるニーナ。
ここで逃げられてはかなり困ってしまうかも知れない。
「あ、あのぉぉぉ」
一気に距離を詰めてやや大きめの声をかける。
何事かとこちらを向いた二人の視線が、レイフォンの頭の上に注がれ硬直する。
まあ、裸の童女を頭の上に乗せていたら誰だって驚くだろうから、当然かも知れないと思いつつ、二人の側まで移動する。
当然レイフォンの移動につられて二人の視線も移動する。
まさに信じられない物を見る視線だ。
それがツェルニに対しての物なのか、それともレイフォンに対しての物なのか、それは今の段階では分からない。
「この子の保護者って何処にいるんでしょうか?」
呆然としたままなので、強引に話を進めるために質問したのだが、まだ呆然としたままだ。
二秒たっても再起動しない。
「もしもぉぉぉっし」
二人の目の前で手を振っていると、いつの間にかツェルニも加わっていた。
きっと珍しいのだろう。
こうまで呆然としている二人が。
「あ? ああ。なんだレイフォン? そろそろ夜食の時間だな。よし。私がおごってやろう」
「そうだな。そろそろ夜食の時間だな。俺も急いで食事に」
意味不明だが、いきなり現実逃避をしてしまう二人の袖をしっかりと掴む。
軽く振って現実へと呼び戻す。
「先輩。落ち着いて下さい。この子の保護者を捜しているんですよ」
「あ? ああ。ツェルニの保護者か? お前が保護者じゃないのか?」
「何で僕なんですか? それよりも現実に戻ってきて下さいよ」
どうやら余りにも衝撃が強かったようだ。
取り敢えず二人に、持参していたお茶を飲ませて落ち着かせる事にした。
「ツェルニの保護者を捜しているだけなのに、何でこうもみんな驚くんだろうね?」
パイプに座ってお茶を飲む二人を眺めつつ、レイフォンも適当に座りツェルニを膝の上に乗せる。
この辺は、孤児院で小さな子供達を相手にしていたので手慣れたものだ。
「落ち着きましたか?」
「ああ。済まないな。ツェルニがあんなになついているのは始めて見たのでな」
「そうだな。ニーナ以外で誰かになついているのを見たのは初めてだな」
やっと理性的な反応が返ってくるようになってきたので一安心だ。
それなので話を元に戻す。
「それでツェルニなんですが、歯を磨いてベッドに入れたらいいですか? それともお風呂に入れますか? それとも食事が先ですか? ああ。食事って言っても、セルニウムはどうやって料理するんでしょう?」
小さな子供の扱いには慣れている。
だから、その常識に照らし合わせて次の行動を聞いたのだが、目の前の二人は再び呆然としている。
「あ、あのぉ?」
不安になって声をかける。
もしかしたら電子精霊は、普通の子供と違う手順があるのかも知れない。
そうなったら、レイフォンにはお手上げなのだが、ふと思う。
目の前にはツェルニの専門家が居るではないかと。
動揺しているのはレイフォンも一緒らしい。
「ああ。気が付いたかも知れないが、電子精霊が歯を磨いたり風呂に入ったりはしない」
「じゃあ、着替えさせてベッドに入れるんですね」
裸でその辺飛び回っているのは良くない。
最低限パジャマを着せなければならないが、何処にあるかは不明だ。
だが、これもやはりツェルニにはいらないのかも知れないと再び思考。
「ああ。着替えもいらないんだが、取り敢えずベッドと言うか元いた場所には戻さないといけないな。付いてこい」
「はい」
立ち上がったニーナに続いてレイフォンも立ち上がる。
狙ったわけではないが、心配したよりも会話がスムーズに行っているので良しとする事にした。
機械科の生徒は他に用事があるのか、ツェルニをレイフォン達に任せて何処かに行ってしまった。
元々ツェルニをどうにかするために行動していたので、別段レイフォンの行動に変化はない。
むしろ、詳しそうなニーナに会った事でかなり前進したと言って良いだろう。
相変わらずツェルニが後頭部に抱きついたままだが、気にする事もないのでそのままついて行く。
「話は聞いた」
「はい?」
突然そう言われたので、何の話だったかと一瞬分からなかったが、それがレイフォンの過去である事はすぐに理解できた。
余り触れられて気分の良いものでは無いが、スカウトしようとしているニーナにとっては必要な事なのかも知れないと、先を促す事にした。
「正直に言えば、飢えた事がない私にお前の気持ちは分からないと思う」
「分かって欲しくはないですね」
レイフォンの気持ちが分かると言う事は、同じ体験をすると言う事に他ならない。
何処の誰だろうと、あんな体験をして欲しいとは思えない。
「だが、大切な者を亡くした気持ちは理解できるつもりだ」
「? それは」
実戦経験が無いはずのニーナが経験する事態を想像したが、全く思いつかなかった。
だが、この世界で死はそれほど珍しくない。
何かあっても不思議ではないのだ。
「十年ほど前になるのだが、私は誘拐されそうになった電子精霊を助けようとした」
「電子精霊?」
頭にくっついているツェルニを見る。
電子精霊と言えば、都市を動かしている自意識の事だ。
それを助けると言う事は実戦経験が有ると言う事になるはずだが。
誘拐できる物かどうか疑問だし、出来たとしても八歳程度のニーナがどうこうできるとは思えない。
とは言え、電子精霊なんて物に会ったのは今日が初めてなので詳しい生態は分からないので、もしかしたら子供にしか助けられないと言う事も、あるかも知れない。
「電子精霊と言っても、私の故郷シュナイバルは、電子精霊の故郷と言われていてな。形のない、そうだな」
ニーナが遠くを見るような仕草をした。
そして、ツェルニが心配気にニーナを見ている事が何となく分かった。
「青く耀く綿菓子のような物なんだが、そんな電子精霊がいくつも都市内を浮遊しているのだ」
想像してみるが、上手くできなかった。
最終的にツェルニが都市中を飛び回っている光景に行き着いてしまう。
身長が三十センチくらいの、小さなツェルニが飛び回るところを想像したのだが、それだったらニーナにも何か出来るかも知れないとも思う。
「そのおかげで、シュナイバルは疫病が流行る事も飢饉に見舞われる事もなかった」
それは羨ましいと正直そう思ってしまった。
グレンダンにも電子精霊がいくつか居れば、あの体験はなかったのかも知れないと、埒もない事を考えてしまう。
「何とか助ける事は出来たのだが、私自身が重傷を負ってしまってな」
十年前と言えば、普通はまだまともな鍛錬もしてない時期のはずだ。
一般人と変わらない状況なら、不測の事態には対応できないだろう。
「文字通り瀕死の重傷だった。
それを救ってくれたのが、私が助けようとした電子精霊でな」
話を総合すると、さっぱり分からない。
レイフォンの頭が悪いせいなのか、そもそも電子精霊が誰か個人を助けると言う事が想像できないのだ。
「酷い怪我をした私を助けるために、自分の身を犠牲にしたのだ」
そう言うとニーナは自分の身体を抱きしめた。
何が有ったかは非常に不明だ。
その電子精霊が人を呼びに行ったとか言う話でない事は理解できるのだが。
ニーナにとって非常に辛い出来事である事も理解したのだが。
「えっと。つまり?」
「ああ。そうだな。電子精霊がフワフワと飛ぶところを知らなければ、理解は無理かも知れんな」
レイフォンが理解していない事をニーナは理解してくれたようだ。
「怪我をした私の身体に入る事で、治してくれたのだ」
沈痛な面持ちでそうニーナが言った直後、相変わらずレイフォンの後頭部に抱きついたままのツェルニの身体が、僅かにでは有るが震えるのを認識した。
そっと振り返ってみると、何か訴えかけるようにニーナを見つめる大きな瞳と出会ってしまった。
そして一つだけニーナの認識が間違っているらしい事を、何故か直感的に感じてしまった。
「それは違いますよ」
「何が違うんだ?」
レイフォンの言葉をやや誤解したらしい、怒気を孕んだニーナの視線を真っ正面から受け止めて。
「多分その電子精霊は、アントーク先輩と同化したんですよ」
「・・・? なに?」
「ですからね、犠牲になったんじゃなくて、持っているエネルギーと一緒にアントーク先輩になったんですよ」
微かな驚愕の気配が後頭部に感じられる。
目の前では、事態を理解していないらしいニーナが呆然としているが、ツェルニの反応でおおよそレイフォンの直感が正しい事が分かった。
「その電子精霊は、今もアントーク先輩と一緒にいるんですよ」
驚愕の気配が去った後にやってきた、歓喜の波がレイフォンの後頭部に伝わる。
そして、やっと事態を認識したらしいニーナの視線が、レイフォンの頭の少し上に向けられる。
ツェルニに確認しているのだろう。
頷く気配を感じる。
次の瞬間、ニーナの瞳から涙があふれるのを見た。
「ああ! そうだったのか! 私は何も失ってはいなかったのか」
我が身を抱きしめ座り込み涙を流し続けるニーナに、かける言葉など思いつかない。
慰める必要のある状況でない事がせめてもの救いだ。
だからレイフォンはただ見守る。
放っておいても立ち直る事が分かっているから。
二十分ほどそうしていただろうか、涙をぬぐいつつニーナが立ち上がった。
「済まなかったな。みっともないところを見せてしまった」
「とんでもないですよ」
誰かを喪って涙する人など見たくはないが、今回はそうでは無いのだ。
少しだけレイフォンの胸の奥が痛んだが、別段気にする必要はない。
「取り敢えず、ツェルニを寝かしつけたいんですけれど」
「あ? ああ。そうだな」
やっとの事で平常心を取り戻し始めたニーナに、本来の目的を思い出させたのだが、耳を引っ張られた。
ツェルニに。
「な、なに?」
振り返ってみると、なんだか不機嫌そうにレイフォンを見ている。
もしかしなくても、まだ眠くないとだだをこねているようだ。
「駄目だよ? ちゃんと眠らないと大きくなれないからね」
不満の表情も凄まじく、もっと遊ぼうと訴えられた。
こうまでされると、もう少し良いかとか思ってしまうのは、レイフォンの駄目なところかも知れない。
「はははははは。相変わらず元気なやつだな。だがそろそろ戻らないと駄目だぞ? お前だって何処も悪くないのにあちこち弄られるのは好まないだろう」
そう言ったニーナが、やや強引にツェルニをレイフォンの頭から引きはがした。
やはりレイフォンは子供の教育係としては甘すぎるようだ。
酷い眠気に襲われつつも、レイフォンの横に並び校舎へと向かうウォリアスだったが、活剄を総動員しても眠ってしまいそうである。
その原因にして結果はと見れば、夜間の機関清掃などと言う激務をこなしているにもかかわらず、全く平然としている。
まあ、普通に寝不足だったらウォリアスも平気だったのだが、今回はかなり色々と大変だった。
「眠そうだね」
「眠いよ。レイフォンがらみで」
「へ?」
当然分かっていないレイフォンが疑問を浮かべている。
これで変に納得したり完全に流したりしたら、出来るかどうかは別として抹殺の対象になった。
「やはり小隊には入って欲しいんだそうだ」
「別に良いけど」
「・・・・・・? なに?」
夕べはカリアンと散々議論してしまったのだ。
レイフォンが武芸を続ける意味と小隊に入らない方が良い理由について、ヴァンゼも含めて散々に話し合った。
結果、小隊には是非とも入って欲しいという結論に落ち着いてしまったのだ。
理由は十分に納得できる物だったし、そもそも当然の物だったので、ウォリアスの方が折れる形になった。
結局何処かで実力を見せなければならないのだ。
実力の分からない者の教えを素直に聞くほどのお人好しは、生憎とその辺に転がっていないのだ。
最も効果的なのは汚染獣に襲撃され、武芸科全生徒が見守る中レイフォンが戦って勝つという状況だが、何時有るか分からないので却下となった。
そうなると、次善の策として、小隊戦で活躍するという物に落ち着いてしまうのだ。
この結果は良い。
カリアンと激論を戦わせるのは実に有意義だった。
武芸者であるヴァンゼだが、武芸長という政治に関わる人物との意見交換も有意義だった。
そう。散々ごねたレイフォンがあっさりと承諾するのに比べたら、何万倍もましだった。
「お前ね」
「断れなさそうだし」
「・・・・・。成る程ね」
ある意味諦めが先行している事がはっきりと分かった。
別にそれが悪いとは言わないが、もう少し早めに決断してくれても良いのじゃないかとも思うのだ。
具体的に言うと十時間くらい早く。
昨夜何かあったのかも知れないが、余り突っ込んだ話はしない事にした。
「それでやっぱり十七小隊?」
「他の所に入ると小隊戦に出られないんだ」
他の小隊は、多かれ少なかれ戦力が充実している。
そんなところに入ってもすぐにデビューというわけには行かない。
だが、第十七小隊だけは話が別だ。
元々レイフォンのために作られた小隊という側面もあるし、最小構成人員がそろっていないのも事実だ。
ここなら即座に対抗戦で戦える。
「アントーク先輩か。会いづらいな」
「ああ? 前もって話してあるから大丈夫だろ?」
「それはそうなんだけれど、昨日のアルバイトでばったり会っちゃってさ」
「はい?」
話を総合すると、ニーナが機関部の清掃をしている事になる。
良家のお嬢様っぽいところのあるニーナが、高収入だがきついところで働いている。
かなり色々と腑に落ちない。
「まあ、色々あったんだよ」
「そうか」
詳しく聞く事はやめておいて、取り敢えず今後の予定についてレイフォンと打ち合わせる事にした。
実を言うと、ヴァンゼもレイフォンの実力には非常な興味を持っていて、一度手合わせをしてみたいと主張しているのだ。
そして、当然ニーナも同じような事を考えるに違いない。
それは昨日の三人の間でえられた、共通見解だった。
つまりそれは、今日の午後盛大に手合わせすると言う事が決定した瞬間で。
「えっと。逃げちゃ駄目?」
「駄目。そもそもアントーク先輩の所に入るんだったら、避けては通れない道だよ」
ゴルネオの所ならば、この行程は不要だ。
サヴァリスという天剣の側にいた以上、その実力の程は良く知っているだろう。
「と言うわけだから、午後は練武館側の体育館に来るようにって」
「体育館の裏に呼び出し?」
「いやいや。それは違うから?」
学校に行っていないにもかかわらず、変な事だけ知っているレイフォンを小突きつつも、ウォリアスは認識していたのだ。
今日も平穏には始まらないと。
何故かと問われれば。
「ミィフィ。ソード」
大勢の生徒が登校しているにもかかわらず、玄関の一部が完全に近い無人に陥っているのだ。
その原因は何かと問われるのならば、玄関前で刀を要求している少女が居るからに他ならず。
「ひぃ!」
都市一つを壊滅させる事なんて朝飯前の人間が怯えて、非力な人間の後ろに隠れているからに他ならない。
だから一緒にいる原因に話を聞いてみたのだ。
「今日も元気だね。原因は何?」
「にひひひひひ。これ」
そう言いつつミィフィが取りだした携帯端末に映し出された映像は、ある意味衝撃的だった。
それは、幸せそうな表情でメイシェンの膝枕で眠るレイフォン。
どちらが幸せかと聞かれれば、当然両方だ。
「う、わ」
ウォリアスを盾にしていたレイフォンが逃げようとするのをひっつかまえて、リーリンの前に差し出す。
これはもうリーリンに殺されるしかない。
「おっと。これは昨日のだ」
そう言ってミィフィが端末を弄って新たな映像を映し出した。
目にした映像では、縦断する傷に右目を潰されたレイフォンが、ゆるみきった顔でメイシェンの頬を情熱的に突いているのだ。
彼女がいないウォリアスからすれば、もはや死など生ぬるい犯罪行為だと断言できる。
「貴男が馬鹿だとは思っていたけれど、まさか性犯罪者だったなんて」
糾弾するリーリンの手にはすでに流通君村正が握られている。
その刀身は日の光を浴びて白銀に耀き、これから行われる残虐非道な行為を心待ちにしているように見える。
「せ、せいはんざいしゃって?」
「ええ。性犯罪者よ? こんなに激しくメイの頬を突いておいて、万が一にも妊娠したらどうするのよ?」
「へ?」
何故かいきなり動きが止まるレイフォン。
止まったら死ぬ戦場で生きてきたはずなのにだ。
この辺は研究の余地があるのかも知れないと思いつつ、成り行きを見守る。
「い、いやだなリーリン。頬を突いただけで妊娠するわけ無いじゃないか」
「っな!」
妊娠云々は、レイフォンを殴る口実だと思っていたのだが、リーリン的には本気で心配していたのかも知れない。
周り中がレイフォンと同じ意見で頷いている最中、リーリンだけが凍り付いている辺りからそれが予測できるのだが、どう修正して見ても異常な事態である事は理解している。
常識人であるはずのリーリンが固まっているのだ。
立場が反対だったら別に驚かないのだが。
「レ、レイフォン? 貴男誰に教えて貰ったのそんな常識?」
「ふふふふ。一年前の僕だったら手をつないだから妊娠したと言われたら信じ込んだけれど、今の僕は少し違うよ?」
驚愕のリーリンからの会話で分かった事は一つ。
ヨルテムでの一年はレイフォンにとって、とても重要だったと言う事。
信じられないほど重要だったのだろう。
常識の取得という意味において。
「五歳くらいまで、赤ちゃんは道ばたに落ちていて欲しい人が勝手に持って行くのだとか信じてたのに?」
「ふふん」
「十歳まで、袋がある変な生き物が赤ちゃんを運んでくると信じてたのに?」
「ふふん」
「女の人が赤ちゃんを産んで青天の霹靂だって驚いていたのに?」
「ふふん」
一々偉そうに笑うレイフォンだが、袋のある生き物云々以降は非常に問題が有る認識だ。
道ばたに子供が落ちているという認識も、孤児であるレイフォンだからたどり着いた推論なのかも知れないが、こちらもかなり問題が有ると言えば問題がある。
まあ、正しい教育が施されているようなのでこれ以上の心配はないだろうが。
「っち! 知り合った直後にメイッチが妊娠したからとか言っとけば面白かったのに」
そんな事を言う邪悪な生き物も居るようだが、ここは取り敢えず話を閉める必要に迫られている。
驚いているリーリンから刀を奪い取りつつ、ウォリアスは現実を見せつける。
「そろそろ授業だから行かない? かなり目立っているし」
いきなり玄関の前でこんなことをやっていては、当然目立ってしまいかなりの人だかりが出来ているのだ。
まあ、このところこんな事が続いているので、もう慣れてしまっている人もいるようで、素通りする姿もちらほら見えるが。
お昼休みが終わるよりも速く、レイフォンは第十七小隊付きの錬金技師、ハーレイ・サットンの所を訪れていた。
カリアンとの交渉の際に便宜が図られる事が約束された、刃引き設定の錬金鋼を受け取るためだ。
なんだか懐かしい感じの建物の中に入ると、やはり懐かしい空気が出迎えてくれた。
ヨルテムでもそうだが、錬金鋼の調整をするとなるとどうしてもダイトメカニックの所に行かなければならない。
グレンダンでもそうだったが、錬金鋼に関わるのは同じような雰囲気の人が多い。
最終的に、ダイトメカニックが集まる建物というのは似たような雰囲気を持ってしまうようだ。
とは言え、部屋に入ってみてレイフォンはその認識が間違っていたかも知れないと思った。
端的に言って汚い。
すぐ足の先には食べ終えた弁当の空き箱が転がっているし、その先にはなにやら雑誌らしき物が大量に埃にまみれている。
更に、資料や書類が所狭しと部屋中に散乱していて、文字通り足の踏み場もない。
更に更に、触媒液を始めとするなにやら意味不明な匂いが立ちこめていて、長い時間居る事に苦痛を感じるのだが。
レイフォンがもっとも強く感じる欲求は、この部屋を掃除して綺麗にしたいという物だ。
ゴミを捨て、物を有るべきところに片付けて、掃除機をかけて、徹底的な拭き掃除をしたい。
レイフォンになら出来ると思うだけに、この欲求はかなり強い物になっていた。
部屋の主が汚い事を全く気にしていない以上、始める事が出来ないのが問題だが。
「初めましてで良いんでしょうか?」
「ううん? 一度会っているんだけれどね」
挨拶こそしていないのだが、実質的に初顔合わせと変わらないので、取り敢えず二人で挨拶を交わした。
取り敢えず話を始めないと何時までもここにいる事になるので、すぐに錬金鋼の話に入る。
「それでどんなのにする?」
「訓練用ですから丈夫なやつで」
殺傷設定のまま持ち歩いている青石錬金鋼をテーブルの上に乗せて、これと同じ設定でと注文する。
基礎状態の錬金鋼を端末に接続して、設定を読み込んでいたハーレイが、何かに驚いたようにレイフォンを見る。
「? これって、二種類設定があるけれど?」
「ああ。片方は危険すぎるんでこっちだけ」
青石錬金鋼は二本とも鋼糸に出来るような設定がしてあったので、普通の長剣の設定をハーレイに示す。
ヨルテムでの調整のおかげで、両方共に万全の状態を維持している。
とは言え、使い続ければいつかは狂いが出てくる物なので、鋼糸の方の設定も記録しておいてもらう。
「ふむふむ。こっちの方もなかなか興味深いね。一度使っているところを見たいな」
「機会が有れば良いですよ」
レイフォンの錬金鋼を見て貰う必要に迫られるのは確実なので、多少なりとも媚びを売っておいて問題無いだろうと判断した。
その度にここに来ていたら、問答無用で掃除を始めそうなのは問題かも知れないが、とりあえず錬金鋼の調整はしなければならないのだ。
自分の欲求を抑える訓練をしなければならないかも知れない。
「で、これから腕試しなんだよね?」
「そのようですね」
余り気乗りはしないのだが、承諾してしまった以上やらなければならない。
そのためにも訓練用の錬金鋼が欲しかったのだ。
もちろん十分に気をつけて怪我をしないようにはするつもりだが、やはり保険は多い方が良い。
「で、材料はどれにする?」
「黒鋼錬金鋼で」
実戦で黒鋼錬金鋼は剄の伝導率が悪すぎて使いにくいのだが、この場合はそれが長所となる。
丈夫なのももちろん長所だ。
などと会話をしている間にも、流石に手早く新しい錬金鋼が仕上がって行く。
「はい。ちょっと復元してみて」
「はい」
復元鍵語と共に復元されたのは、今までの青石錬金鋼とはかなり印象が違う真っ黒な長剣。
軽く振ってバランスや柄の状況を確認する。
特に問題は見あたらなかった。
「僕は錬金鋼のメンテナンスをやりたくてね、なんて言うんだろうね?」
「ダイトメカニックとグレンダンでは言っていましたよ」
「へえ。なるほどね。うん」
何か納得したようでしきりに頷いているハーレイを残して、レイフォンは移動する事にした。
事業で固まった身体を少しほぐしておきたかったのだ。
ウォリアスを始めとする人達から、頭蓋骨の中に剄脈が詰まっていると言われるのだが、多分それは正しいのだろうとこの頃思うのだ。
頭を使うと身体が固まってしまって、上手く動かせなくなるのだ。
「取り敢えず、練武館側の体育館だから、歩いて行けばちょうど良いかな」
全速力ならすぐに到着するのだが、流石に平時でそれをやるわけには行かない。
なので、出来るだけ歩幅を開けてストレッチをするように歩く。
入学式がついこの間終わったばかりの学園都市は、何処かまだ浮ついた空気で満たされているが、活力に満ちた空気を胸一杯に吸い込みつつゆっくりと身体を伸ばすように歩く。
結局武芸とは離れる事が出来ないのかも知れないと思うと、少し心が重くなるが、何処かでこの状況にほっとしている自分が居る事をレイフォンは認識していた。
「武芸が、好きなのかな? お金を稼ぐためだけにやっていると思っていたけれど」
グレンダンでは金を稼ぐ事しか考えなかった。
それが変わったのは、ヨルテムに着いてからだ。
もし、グレンダンで失敗したままツェルニに来てしまっていたら、どうなったか見当も付かない。
帰る場所が無くなってしまったから衝動的に放浪してしまったのだが、結果的にはそれが良かったのかも知れない。
「なあレイフォン」
「へ?」
いきなり肩を掴まれ我に返り、振り返った先には何故か疲れ切ったウォリアスの姿があった。
と言うか若干息が切れている。
「何処へ行くつもりだ?」
「何処って、体育館」
「それは二分前に通り過ぎている」
「え?」
どうも考え事をしていると周りが見えなくなるようだ。
その割に身体は勝手に行動を続けてしまう。
誰にもぶつからずにここまで来る事が出来た事もそうだし、見当違いの場所に行かなかった事も驚きだ。
「取り敢えず戻るぞ」
「う、うん」
促されるまま方向を転換したのだが、出来るだけ考え事をしながら歩くのはやめよう。
密かにそう決意したレイフォンだった。