ミィフィとウォリアスのくだらない話に、抗議の悲鳴を上げようとしたレイフォンだったが、それは喉の奥で凍り付いてしまった。
汚染獣の老性体。
それも、何期か分からないほど年を経た個体に、突如として後ろを取られたような、そんな危機感と恐怖。
それを感じたからかも知れないし、何時もは好奇心に任せてキョロキョロと辺りを見回しているミィフィの視線が、一点に固定され猛烈な勢いで瞳孔が収縮したからかも知れない。
もしかしたら、糸のように細いウォリアスの目が、限界という壁に挑戦して、それをぶち壊したかの様に大きく見開かれたからかも知れない。
「な、なに?」
あまりにも急激な二人の変化に、思わずメイシェンが後ろを振り返り。
「ひゃぁぁぁ」
絞り出す様な悲鳴を上げ、腰を抜かして座り込んだ。
「お、おい」
それを見たナルキが助け起こしてから振り返り、そして。
「う、うわ」
普段強気なナルキをして恐怖のあまり、メイシェンを抱きかかえる様にして後ずさらせる存在がレイフォンの背中に迫る。
「レ、レイとん」
震えるミィフィの声が聞こえ、絶対零度で凍結したつばを強引に喉の奥に押し通した。
本能は、たとえ汚染物質に灼かれようと汚染獣に生きながら食われようと、ツェルニから脱出すべきだと主張する。
理性もそれを肯定しているのだが、手も足も全く動かない。
今の恐怖と比べたのならば、女王の威圧感など子供のお遊戯にしか思えないほど、異常な恐怖などと言う物がこの世にあるとは思わなかった。
「久しぶりレイフォン。元気だった?」
背筋を凍らせる灼熱の手が、レイフォンの右肩に置かれた。
「う、うわぁ」
足音を聞いた時点で、誰かという疑問の答えは出ていた。
だが、何故その人物がここに居るのかという愚問が浮かんだ。
事実を書き換える事など出来ないというのに。
そして、今、その声を確認した。
振り返ったら駄目だという本能と理性の警告を無視し、体がゆっくりと後ろを振り返り。
「ヤアリーリンゲンキソウデナニヨリ」
抑揚という物が全く無い音の集団が、目の前の人物に向かって放たれた。
くすんだ金髪を後ろで束ね水色の瞳をした、レイフォンの事をもっとも良く理解しているであろう、キラキラしたとても嬉しそうな笑顔を浮かべつつ、武芸者でもないのに体の周辺に放電現象を起こしている人物へ。
「ええ。とっても元気よ? もうこれ以上ないくらいに元気すぎて困っちゃうくらいに元気」
猛烈に嬉しそうなリーリンがニコリと微笑み、剥き出しになった犬歯がキラリと耀いた。
それは、すでに捕まえた獲物をいたぶり尽くしてから、己の欲望のままに食らい尽くすという、無言の宣言。
リーリンの犬歯がこんなに大きかったのかとか、食べられたらやっぱり痛いのかなとか、くだらないことを考えてしまうのは現実逃避だろうか?
「あ、あのぉぉ」
牙の生えたリーリンがレイフォンの喉笛に食いつき、一滴残さずに生き血を啜る光景が想像という世界から飛び出し、現実化しようとした瞬間。
レイフォンのすぐ横を何か引きずるような音が通り過ぎ。
「何でしょう?」
もの凄く素敵な笑顔のリーリンが、ウォリアスを盾として接近していたミィフィに向けられた。
激しく首を振って拒絶するウォリアスは、もしかしたらミィフィの金剛剄なのかも知れない。
一撃で粉砕されるであろう事は、間違いない金剛剄だが。
そんな現実逃避をしている間に、ミィフィのインタビューが始まってしまった。
記者根性としては立派だと思うが、一言忠告をしておきたい。
猫は何故死んだのか? と。
「レイとん。いえ。彼とどういうお知り合いですか?」
基本的でいて愚かな質問をしたが、これが糸口だと言う事は十分に理解できる。
メイシェンに孤児院について問いただされた時に、リーリンの事は話しているのだ。
「そうですね。幼なじみですね。同じ孤児院で一年くらい前まで一緒に暮らしていたので」
それを見た全ての人物を魅了する笑顔と共に、殺意と害意が言葉として迸る。
ちなみに、リーリンの手に力がこもりレイフォンの肩を粉砕する寸前だ。
「そ、それは、貴女もグレンダン出身と言う事ですね」
「ええ。そうなりますね」
あくまでもにこやかに、そして、揺らぐ事のない戦闘力と共にリーリンが答える。
「で、では、本題です」
「はい。短めにお願いします。これから結構忙しくなるので」
当然、その用事とはレイフォンがらみだ。
出来れば早めに切り上げて欲しいと思う。
リーリンの用事を。
そして早く楽になりたい。
「あ、貴方は、オカマですか?」
「・・・・・・? は?」
突如発せられたミィフィの質問は、あまりにも意表を突き、あまりにも現実離れしすぎていて、誰もが正しく認識できなかった。
当然その中にはリーリンも含まれているわけで。
「おかま?」
あまりの事態に動揺したのか、体の周りの放電現象がいきなり消失。
それどころか、今まで辺り一面を支配していた緊迫感や殺意も霧散している。
「おかまって?」
「い、いえね。レイとんがヨルテムに来た頃にこう言っていたんですよ。女の子なんて物とは接点がなかったから、謎の生命体だって」
確かにそのような事を言った記憶はあるが、それがリーリンと何の関係があるのか、極めて理解できない。
「い、いや。私普通に女の子ですけれど」
「え?」
理解できないながらも、状況を見守っていたレイフォンの耳に、違和感のある単語が飛び込んできた。
それはもう、これ以上ないくらいに違和感のある単語だ。
「な、なに?」
驚いた様子でこちらを見るリーリンを、見つめ返す。
修羅場一歩手前だった状況だが、ミィフィの機転によって流血の惨事は回避された。
だが、新たな問題がすでに目の前に存在している。
レイフォンの話に何度か出てきていたリーリン。
聞いている限りでは、かなり年上の女性だと思われた。
だが、今目の前にいるのはどう贔屓目に見てもナルキと同い年くらいの少女だ。
レイフォンが嘘をついていたという確率は、無視して良い程度の低さであると認識している。
だが、ナルキの予測とは違っていたのならば、かなり困った事になる事は間違いない。
それが理解できているのだろう、メイシェンの身体が硬直している。
そして、嵐の中心にいるレイフォンの視線が、リーリンの頭の天辺からゆっくりと時間をかけて、足の先まで降りていった。
そして、再び、ゆっくりと時間をかけて上に。
「!」
何かに驚いた様に、少し硬直した後に、もう一度、視線が降下開始。
「な、なにやってるの?」
意味不明なレイフォンの行動に、思わずリーリンが小さな声を出したが、それを全く無視して視線が足先まで到達した。
「レイとん?」
恐る恐るとメイシェンが声をかけたのだが、それも無視され、徐々に視線が上に移動を開始。
そして、膝のあたり、スカートの裾をじっと見つめる事三十秒。
動き出した視線は、今度は胸のあたりで停滞。
やはり三十秒ほどかけてから、移動を再開。
セクハラとか視姦とか、非常に女性に対して失礼なことをしているはずなのに、恐らくレイフォンにそんな自覚はないのだろう事が分かった。
最後に、リーリンの顔を一分近くもしげしげと眺め、そして一言。
「女の子だったんだ」
場に満ちていた、凍り付く様な緊張感が一気に霧散。
あまりにあまりな一言に、思わずメイシェンの左手が一閃。
「ピコ」
ウォリアスが持っていて、メイシェンが譲り受けた合成樹脂製の巨大なハンマー。
赤と黄色に塗り分けられて、叩くと軽い音がする突っ込み兵器を、レイフォンの後頭部へと叩きつける。
ピコと口に出すのがメイシェンのお気に入りらしい。
「はあ」
当然だが、ナルキは右手で顔を覆い大きく溜息をつく。
レイフォンが嘘をついていたのではなく、リーリンを女の子と認識していなかった事がはっきりと分かったから。
これならば、全ての辻褄がきっちりと合ってしまう。
だが。
「愚か者がぁぁぁぁぁ!!」
「がっ!」
渾身の拳をレイフォンの頭頂部へと叩き落としたミィフィは、少し違う感想を持ったのかも知れない。
「い、痛いなぁ」
当然、レイフォンは抗議の声を上げるが。
「ええい! 貴様の様な愚か者には、鉄拳制裁でさえ生ぬるいわ!!」
怒り心頭なミィフィには全く通じない。
実はナルキも同じような気持ちになってきているのだ。
あまりにもあまりな展開に、何時も通りのリアクションしかとれなかったが、状況を認識できてきた今は少し違う。
何しろ、リーリンを女の子として認めていないのだ。
これは万死に値する罪と言って差し支えない。
いくら鈍感王レイフォンと言えど、許される限度を超えている。
そのリーリンはと言えば、あまりにもあまりな発言の連続に、怒る事も忘れて呆然としている。
そして、ミィフィが。
「こんな、こんな」
「ひゃ!」
何を思ったのか、リーリンの胸を鷲掴みにした。
「こんな立派な物を付けているのに!!」
ぐわっしぐわっしと揉みしだく。
「ぐっぬぬぬ」
何故か、涙を流しながら。
「こんな、こんな立派な物を付けているのに、女の子と認めないなんて、貴様それでも男かぁぁぁ!!」
絶叫しつつ更に揉みしだくミィフィ。
「あ、あの。止めてください」
慣れているのか、諦めの心境でミィフィに懇願するリーリン。
だんだん激しく情熱的になってきているのは、見なかったことにした方が良いのか、それとも即刻止めさせた方が良いのか、判断に迷うところだ。
「なあ、お前ら」
「はい?」
そんな収拾の付かない混乱のさなか、軽薄というか気の抜けた声がかかった。
見ると、金髪を後ろで縛った軽薄そうな男性が、呆れた雰囲気を隠すことなくナルキ達の事を見ていた。
武芸者らしく剣帯に錬金鋼を差しているが、全く威圧感を感じない所を見ると、殺剄のたぐいが得意なのかも知れない。
なんだか胃のあたりを押さえているところを見ると、もしかしたら始めからこの寸劇を見物していて、そろそろ胸焼け気味なので休憩したいだけかも知れないが。
「新入生だよな」
「はい。先日着いたばかりですが」
代表して、比較的冷静なナルキが対応している。
ウォリアスこそ一番冷静なのだが、ミィフィを羽交い締めにするのに忙しく、それどころではないのだ。
「取り敢えず、場所を移そうぜ」
青年が軽くあごをしゃくって、ある方向を示した。
「え?」
そして、ふと、周りを見てみる。
今まで気にしていなかったが、大通りの交差点でこの惨劇は起こっていたのだ。
つまり、それは。
「ひゃぁぁ」
あまりにも大勢の人間に見物されている事に気が付いたメイシェンが悲鳴を上げてしまった。
「い、いどうしよう」
動揺しているが、それでも判断力を持ったウォリアスに促されるまま、引率者に連れられたナルキ達は移動する。
武芸科四年のシャーニッド・エリプトンは、今年の新入生が異常に面白い連中ばかりなのかと、真剣に検討してしまっている自分を発見していた。
一通りの自己紹介が終わり、停留所から少し離れ練武館にも近い公園の片隅で落ち着いた六人を目の前に、まず始めに確認しておきたい事がある。
「お前さ。武芸者だよな?」
「? そうです」
レイフォンと名乗った少年が、何を当然の事を聞くんだと言わんばかりの表情で、シャーニッドを見つめ返す。
「だったら、錬金鋼の携帯は御法度だろ?」
レイフォンの腰の左側にある、不自然な膨らみを指さしつつ聞いてみる。
剣帯を着用していないので、恐らくベルトに直接差しているのだろうと予測しつつ。
もしかしたら、新入生用の注意書きを見ていないのかと思ったのだが、他に武芸者が二人いて、二人ともきちんと預けているらしい事を考えると、非常に不自然だ。
「ああ。一般教養科なんですよ。僕」
「はい?」
朗らかに言うレイフォンに、ヨルテム三人衆が頷いているが、グレンダンからの留学生は驚きの表情を浮かべている。
「一般教養科?」
黒髪で細目の少年は、何とも言えないと言わんばかりに、無表情を通している。
「はい。あの注意書きは武芸科に当てた物ですから、僕には関係ないですよ」
言われてみて、よくよく思い出してみると、確かに武芸科に入学した生徒という前提条件が付いていた。
付いてはいたのだが。
「来年から、武芸科という文言が削除される事は確実ですね」
知っていて止めなかったと思われる細目の少年が、非常に楽しそうにそう言っているので。
「ああ。確かに確実だ」
一応相づちを打っておいた。
さっきの無表情は、この展開を予測していたかららしい。
極めて悪質な人格を持っているかも知れない。
ウォリアスの評価はそこまでにしておくにしても、武芸科に入らない武芸者という前例はないはずだ。
だから何の問題も無かったのだが、今、目の前にその常識を覆す存在が鎮座しているのだ。
更にたちの悪い生き物も居るが、これは無視する事にした。
シャーニッドにどうこうできる訳ではないから。
「それにしても、何で、こんな、こんな立派な」
何故か再びリーリンの胸を揉みしだくミィフィが、先ほどの話題を蒸し返す。
「あ、あのぉ。そろそろ止めて頂けないかと?」
なにやら非常に嬉しそうにリーリンのその発達した一部分を揉みしだくミィフィ。
「だって。こんなに立派なんだよ? わたしなんか、わたしなんか」
涙を流しつつ、そう言うミィフィの胸元を見たシャーニッドは、全てを理解して納得してしまった。
良く言って年相応な一部分を見て。
きっとレイフォンは、胸が大きな女性でなければ女性と認識できないのだろうと結論づけて。
「まあ、それはそれとして」
ウォリアスに羽交い締めにされ、リーリンから遠ざけられたところで、ミィフィが割と冷静に話を進める。
「これ以上ないくらい見事な女の子が幼なじみなのに、何で女の子が未知の生命体なのよ?」
シャーニッドの認識と少し違うが、人それぞれの世界なので、あまり突っ込んではいけないのだろう。
「ええっと」
少し困った様な表情で、レイフォンが頭をかき思考する事数秒。
「僕にとって、リーリンって言うのは、うぅぅぅん? リーリンだったんだよ」
だが、そんなシャーニッドの事などお構いなしのレイフォンは、若干意味不明な事をのたまわっている。
「理解できたか?」
おろおろしているメイシェンに聞いても無駄な事が分かったので、ナルキに聞いてみたのだが。
「つまり、レイとんにとって、リーリンさんは人間じゃなかったと言う事か?」
ぴくりと、リーリンの米神が痙攣した。
ついでに、今まで感じた事のないプレッシャーをひしひしと感じる。
武芸者でもない少女から発生する圧力に、腰が引けてしまう。
「い、いや。人間だよ。ただ、一緒にいる時間が長かったから、性別に気が付かなかっただけで。スカート履いているところ見たの今日が初めてだし」
極限の状況の中、人が嘘をつき続ける事は困難である。
ならば、これこそがレイフォンが持つリーリンのイメージなのだと理解できる。
非常に問題有りまくりな認識だ。
「へえ。私ってそんな風に思われていたんだ」
とてもにこやかな笑顔と共に、リーリンがレイフォンに迫る。
「はぅ」
すでに土気色になったレイフォンの顔色が更に悪くなったのを確認。
「そ、それにしても。グレンダンって言ったら武芸の本場だろ? そんなところの武芸者が何で一般教養科なんだ?」
目の前で流血の惨事が行われるのを阻止するために、強引に話題をそらせる。
痴話喧嘩を眺めるのは好きだが、今回は回避する方が賢明だと判断したのだ。
「ああ。その辺色々事情があるんですよ」
本当に色々ある様で、ナルキが言葉を濁すとリーリンの動きも止まった。
そして、心配気にあるいは不安げにレイフォンの事を見る。
想像できないほど、色々な問題が有る事だけは理解できた。
「・・・・。まあ、優秀な武芸者は多いに越した事はないんだが」
ツェルニに残されたセルニウム鉱山はあと一つ。
今年行われる武芸大会で敗北したのならば、待っているのは穏やかな滅び。
それを避けるために、少しでも戦力が欲しい。
とは言え、何か問題を抱えたレイフォンを武芸科に転科させる訳にはいかない。
要するに、シャーニッド達が奮戦して勝利すれば良いだけの事だ。
「僕はあまり強くないんですよ。戦力としては、いてもいなくてもどっちでも良いと思いますよ」
リーリンに睨まれていなければ、普通の少年にしか見えないレイフォンがそう言うのだが、五人の表情や仕草を見る限り、それは謙遜かあるいは隠しているかのどちらかのような気がする。
だが、それも一瞬。
「ふん! ツェルニの武芸者など、レイとんの手にかかれば、瞬き一つする間に全滅させられるけどね」
何か、とんでもない事をミィフィが言ってくれた。
もしかしたら、シャーニッドの予測が当たっていたのかも知れないが、それでもこの発言は捨て置けない。
「ほう。そんなに凄いのかい、そこのヘタレ君は?」
あえて、挑発的な言葉遣いをしてみた。
何か問題が有るらしい武芸者一人に、ツェルニの武芸者全員が敗北するなど、有ってはならない事態なのだ。
一般人であるミィフィに言っても仕方が無いのかも知れないが、それでも言わずにはいられない。
だが、ふと、他の連中に視線を向けて、そして驚愕してしまった。
全員が、ミィフィに向かって責める視線を送っていたから。
(まさか)
あり得ないと思っていたのだが、もしかしたらと、思わなくもない。
「ふん! これを見ろ!」
いきなり携帯端末を取り出したミィフィに言われるがまま、その小さな画面を視界に納め。
「?」
一瞬、何が映し出されているのか分からなかった。
「・・・・」
じっと見つめる事三秒。
脳がやっとの事でその映像を認識して、理解し始めた。
どう見ても、大勢の目の前で派手な口付けをしているカップルだ。
黒髪の少女と茶色の髪の少年。
目の前の六人の中に、この組み合わせに該当するのはただ二人だけ。
「な、何見せたんだよ?」
何故か、猛烈に冷や汗を流しているレイフォンの視線が不安げにシャーニッドをとらえている。
だからシャーニッドは、彼の肩に手を置いて。
「お前はまさに最強だ。あらゆる敵はお前の前に屍をさらす事しかできない」
ツェルニの全部芸者の中で、これほどの勇者が存在するかと聞かれたのならば、即座に答える。
皆無、と。
「な、何を見せたんだよぉぉぉぉ?」
意味不明ではあっても何か感じ取った様で、レイフォンがミィフィに詰め寄っているが、シャーニッドにとってはどうでも良い事だ。
「大変だな」
リーリンの肩にも手を置いてそう言う。
「え、えっと。何見たんですか?」
会って間が無いシャーニッドにだって、リーリンがレイフォンの事をどう思っているかは理解できる。
自分と同じ道を歩むかも知れない少女に同情しても、罰は当たらないと思うのだ。
「いいんだ。生きていればきっと幸せになれる」
観戦していた武芸者二人が頷いているのを確認しつつ、シャーニッドはこの連中を取り敢えず解散させる事にした。
新入生が、死体になって発見される確率を少しでも下げるために。
シャーニッドに解散を命じられたからではないのだが、取り敢えず心の整理をしたかったので、案内された宿泊施設へとやってきていた。
「はあ」
リーリンは宿泊施設の部屋の床に荷物を放り出し、自身はベッドに腰掛けてから大きく溜息をついた。
「はあ」
今日は、色々な事がありすぎた。
ツェルニにやってきてすぐにレイフォンに逢う事が出来た。
それは良い。
リンテンスが言うように、彼女が一緒だった。
まあ、百歩譲って、それも良い。
変な女に引っかかったのではないかという、心配もあったが、相手はまあ許容範囲内だ。
と言うか、鈍感王のレイフォンがつきあう事が出来たのが不思議なくらいに、素敵な人だった。
そのメイシェンの事を嫌う事は出来ないし、批難する事も出来ない。
そして、もっとも問題なのは。
「私って、リーリンって言う種族?」
女性として認識されていなかった事が、もっともショックだった。
いや。実際にはかなり激しくショックだった。
一瞬動きが止まり怒りを忘れるくらいには、ショックな出来事だった。
だが、それもまさに一瞬の出来事だ。
時間が経ち事態を理解したのならば、きっとリーリンはレイフォンの首を絞めていたに違いない。
あるいは、喉笛に噛み付き血を啜っていたか。
どちらにしても、流血の惨事間違い無しだった。
その意味においてシャーニッドの乱入はありがたかった。
「それはまあ、確かにスカートを履いている所なんか、レイフォンは見ていないだろうけどさ」
あまりにも近すぎたのがいけなかったのか、そうでなくても鈍感王のレイフォン相手に、今の気持ちを伝えるなんて事は出来そうもない。
そして。
「一般教養科か」
まだはっきりとはしていないが、武芸科を選んでいないと言う事は、レイフォンは武芸を止めるつもりである事を意味している様にも思える。
あるいは、学園都市で学ばなければならないことはないから、一般教養科に行ったとも考えられるし、錬金鋼を持ち歩いているところを見ると、色々な考えの中でぐらついているのかも知れないが、あんな事があった後だ。
二度と戦わないと言ったとしても、リーリンに攻める事は出来ない。
「渡せなかったし、伝えられなかったな」
デルクから頼まれた錬金鋼もそうだが、もっと重要なのは、弟や妹たちの事だ。
事件があまりにも衝撃的だったので、リーリンもデルクもみんな戸惑い混乱していたのだ。
「みんなあの馬鹿が悪い。二人部屋にメイシェンさんを連れ込んで子供を作るだなんて」
バスの中で何度となく想像していた事実に、極めて近い現実的予測を口に出してみて、ふと思う。
「子供を作るって、そんな事レイフォンに出来るのかな?」
武芸馬鹿である。
連れ込んだは良いが、何も出来ない確率が極めて高いような気がする。
「うん。きっと何も出来ないよね」
出来ないから何だと言われると非常に困るのだが、取り敢えず自分を落ち着かせる事には成功した。
「寝よう」
今日は、これ以上何か考えてもきっとまとまらない。
それを認識したリーリンは、久しぶりのベッドの感覚を楽しむ余裕もないまま、横になり眠ってしまった。
深夜の都市。
巨大な機械がうごめく機関部の一角で。
「はあ」
ニーナ・アントークは溜息をついていた。
前に溜息をついたのは、確か武芸大会で惨敗した次の日だったと記憶している。
実に一年半ぶりの溜息だ。
学園都市ツェルニは、今日も元気に放浪を続けている。
それは、機関部で動く機械が正常に活動している事で分かる。
慣れなければ、長い時間居る事に苦痛を感じる騒音だが、ニーナにとっては都市が生きていると実感できる素晴らしい場所に思えるのだ。
セルニウムを液化し、それをエネルギーとして都市は動き、人間を生かしているのだ。
だが、ツェルニに残された鉱山はあと一つ。
今年の大会で負けたのならば、後はない。
そのために、ニーナは自らの小隊を編成した。
あちこちに迷惑をかけ、散々色々な人達とぶつかり、それでもカリアンの協力が得られたので結成する事が出来た。
性格には非常に問題が有るが、能力は一級品の隊員もいる。
チームワークなど皆無だが、それでもまだ時間はあるし何とかして行くつもりだ。
だが、ニーナは溜息をつかずには居られない。
何故かと問われれば。
「新入生も入って来て、これからだというのに、何故練武館に誰も来ないのだ?」
現在最小構成員さえそろっていない第十七小隊。
新入生で即戦力がいるかどうか不明だが、それでも通常の鍛錬をおろそかにする理由にはならない。
いや。むしろ、定員割れを起こしているからこそ十分な鍛練を積んで、個人の技量を最大限発揮しなければならないのだ。
だが、いかんせん第十七小隊は非常に出席率が悪い。
普段から出席率は極めつけ悪いが、それにも限度という物がある。
錬金鋼の調整をするハーレイは、まあ、毎日来る必要はないし、来られても困るから良い。
だが、フェリとシャーニッドは明らかに来なければならない人材のはずなのに、連続欠席が四日目に突入している。
「ぬぅぅぅん!」
思わず変なうなり方をしてしまった。
思わず力の入ってしまった両手に捕まれたモップが嫌な音を立てる。
「本当に分かっているのか? あの二人は?」
小隊に誘っておいてなんだが、やる気がないと言うよりも使命感を感じないようにしか見えない。
過去のシャーニッドはそれほど不真面目ではなかったはずなのだが、何が彼を変えたのかニーナの元に来てから非常にやる気がないように見える。
更にフェリに至っては、あからさまに手を抜いていると言うよりは、念威繰者としての自分を嫌悪しているようにさえ見える。
ニーナの忍耐の限界はかなり近い。
武芸者とは、都市と人を守るための存在だ。
その武芸者が、やるべき事をやらない。
これ以上我慢できない事は、ニーナには存在しない。
かつて、ニーナを助けるために犠牲になった名も無き電子精霊のためにも、都市を守らなければならないのだ。
だというのにこのていたらく。
「明日、誰も来なかったら」
切れてしまうかも知れない。
そうなったニーナがどうなるか、誰も知らない。
ニーナ自身も。
「ふふふふふふふふふふふふふふふふ」
偶然通りかかった同僚が、踵を返して逃げ出したのさえ気が付かず、ニーナは笑う。