グヘヘヘと心の中で笑いつつ、イージェはある作業を終了させた。
そして心底思う。
ツェルニに来て本当に良かったと。
汚染獣との戦闘が殆どないという学園都市に来たために、汚染獣戦での稼ぎが少なくなるかと思いきや、他の都市と比べると遙かに高い確率で遭遇し続けた。
教官としての報酬と対汚染獣戦に参加した報酬で、当分遊んで暮らせるだろう程には稼げた。
だが、それでさえ付録でしかない。
そんじょそこらでは決してお目にかかれないラブコメを、結構な頻度で目撃して記録を取ることが出来た。
これは今までに経験したことのない程の、完璧に黒字だ。
男性ならば理解できる激痛にのたうつ前に、意識を手放したレイフォンに対して、蹴りを放ち続けていたリーリンだが、そもそも肉体派ではなかったために息が切れで身動き取れなくなってしまった。
蹴られまくったレイフォンは死んだかも知れないが、それでも男としては幸せだっただろうと確信している。
何しろ、あのリーリンの胸に飛び込むことが出来たのだ。
これで未練があるなどと言う事は考えられない。
「レイフォンの奴!! 確かに胸を揉んだら殺すとは書いたわ!! でも、でも、胸に顔を埋めてスウハアするとか何よ!! やっぱり巫山戯てるの? それとも殺して欲しいの? この私に殺して欲しくてやっているの!!」
絶世の美女と呼ばれる怪生物が何か叫んで羨ましがっているのだから、未練などあるはずはないのだ。
だがしかし、傍観を決め込めたのはここまでだった。
レイフォンを殺し尽くしたリーリンの視線が、イージェへと向けられる。
厳密に言うと、イージェがもったままの映像記憶装置へと。
既に分かりきったことだった。
「イージェ?」
「おう?」
声をかけつつリーリンが近付く。
その歩みは疲労に震えているが、それでもまだ必殺の一撃を放つ力は残っているだろう。
いや。怒りと羞恥と、その他諸々の感情が、必殺の一撃を放つ力をリーリンに与えているに違いない。
そして、すぐ前までやって来たリーリンの手が伸びてくる。
「渡しなさい」
「ええええ?」
何をと聞く必要はない。
先ほどのラブコメ限界突破映像を納めた、映像記憶素子をよこせと言っているのだ。
それ以外には考えられない。
何かあるとは思わなかったが、まさかの展開を期待して録画は続けていたのは間違いない。
そして、確実に先ほどの映像は記憶素子に記録されている。
リーリンが奪い去りたいと思う気持ちも理解できる。
だがしかし、イージェだって老後の楽しみを奪われたくはないのだ。
それなので、若干後ずさって抵抗の意思を表明する。
「リンテンス様」
「なんだ?」
つい先ほど蹴られてからこちら、リンテンスから受ける威圧感がずいぶんと小さくなったことに気が付く。
実は、この手の女の子が苦手なのかも知れないと思うが、問題はそこではない。
「イージェを死なない程度のバラバラにして下さい」
「待った!!」
予想通りの命令がリーリンから発せられたところで、抵抗を諦めることにした。
死ぬことさえ覚悟しているが、避けられるのだったらあえて突っ込むべきではないのだ。
と言う事で、映像記憶装置から記憶素子を取り出してリーリンに向かって差し出す。
それを怪しげに見詰めるリーリン。
本物かどうか疑っているのだろう。
「確認しても良いけどよぉ。どうする?」
「・・・・・・・・・・・・」
フルフルと身体が震えつつ、赤みが引きつつあった顔が落ち着きを無くす。
どんな状況だったか、外から見せつけられるのが嫌なのだろう事は疑いの余地がない。
このくらいは十分に理解できるのだが、生憎とそんな気を遣う人間ばかりではなかった。
「こ、ここはこの私!! 女王アルシェイラが確認してあげるわ!!」
「止めて下さい!!」
鼻息を荒くした怪生物の介入を、一撃で切って捨てたリーリンの手が伸びてきて、記憶素子を奪い取る。
後で確認するのか、それともこのまま捨ててしまうのかは分からないが、取り敢えずイージェを解体するという計画は中止になったようで一安心だ。
それはそれとして。
「しかし、美味しい奴」
「・・・・」
小さく呟いた一言を拾ったらしいリンテンスが、とても複雑な表情をしている。
もしかしたら、キャラの都合上リーリンの胸に埋もれたいなどとは言えないが羨ましいのかも知れない。
と同時に、男である以上、あれを食らいたくはないのだろう事が分かる。
イージェだって食らいたくない。
と、そんな事をやっているところにもう一人現れた。
「・・・・・・・・・。ああ」
シェルターの天井が破壊されたところから、軽く身を捻り地表部に現れたのはツェルニ最弱にして最強の武芸者、細目魔神。
大型のリュックを背負ったその姿は、授業に出るために近道をしているのとさほど変わらない気軽さだった。
そして、僅かに嬉しそうな表情で死にかけているレイフォンを見詰める事二秒。
的確に何が有ったかを予測したその視線が、リーリンを捉える。
慰めるでもなく、批難するでもなく、その視線には何故か慈愛が含まれているような気がした。
そしてそれは、恐らく間違いではないのだ。
「帰るんだね」
「・・。うん。私は多分グレンダンで必要とされているから」
「そ」
素っ気なく響くその短い言葉とは裏腹に、視線には相変わらず慈愛が含まれていた。
そして、その視線がイージェへと流れ素通りし、リンテンスの上で止まる。
「リンテンス・サーヴォレイド・ハーデン」
驚くべき事に、あるいは予想通りに、母都市をただの一人で敗者の位置へと叩き落とし、ウォリアス自身の放浪の切っ掛けを作った人物に向ける視線は、尊敬の光で満ちあふれていた。
「う」
すぐに動きを再開した視線が、絶世の美女という怪生物の上へと差し掛かる。
だが、その視線に暖かみは存在せず、驚くべき速度でアルシェイラを解体しているようにしか見えなかった。
その視線の威力は、厚顔不遜の女王を一瞬とは言えたじろがせるほどの威力を秘めていた。
リーリンは何故か、怪生物に哀れみの視線を送っているところを見ると、ウォリアスがどんな行動をするか予測しているのだろう。
実は、イージェだっておおよそ見当が付いている。
「アルシェイラ・アルモニスとお呼びしますか? それともシノーラ・アレイスラ?」
その声にも全く暖かみは存在せず、むしろ言葉を放っている間にも温度は失われて行く。
お前のことなど知りたくはないが、話の展開上聞いてやると言わんばかりの勢いだ。
そして、そんな物に負けるようではグレンダンの女王など勤まらないとばかりに、怪生物が虚勢を張る。
「あら!! このわたしのうつくしさはじんるいにしれわたっているのね!!」
最初の一声が発せられた次の瞬間には、ウォリアスの興味は完璧に失われていた。
それを察知した怪生物の言葉が、虚しく響き渡る。
あまりにも無残な話だったので、イージェでさえ思わず同情してしまった。
ツェルニに来たばかりに酷い目に合っているなと。
「それでなんだけれど」
「うん?」
怪生物の背骨を木っ端微塵に打ち砕いたツェルニ史上最強の生物は、再び暖かみを取り戻した視線でリーリンを捕らえる。
そして、その視線は何故かレイフォンの屍へと向けられた。
「グレンダンに必要なのは、リーリンだけ? いや。多分レイフォンも必要なんじゃないかな?」
「そんな事はないわ!!」
ウォリアスが何を言っているかを理解したリーリンがいきなり激昂し、そして渾身の力で否定する。
そこに普段の落ち着きは存在せず、ただただ、感情の流れに流されるだけのようだ。
「グレンダンが迎えに来るのだったら、候補は四人だと言ったよね?」
「言ったけれど、レイフォンは違うわ!!」
「違わないよ。天剣がレイフォンを選んだ」
「そ、それは」
暖かみを失わない声と共に、それでも冷徹なウォリアスの言葉がリーリンを追い詰める。
我が儘な妹を諭す兄なのかも知れないし、もしかしたら、父親かも知れない。
ツェルニ史上最強生物であるウォリアスならば、どちらでも勤まるだろうと確信している。
「グレンダンが、どんな目的で天剣授受者を集めているか知らないけれど、それでもレイフォンが必要だと天剣が、あるいは他の何かが考えたのは間違いないよ。残念だけれどね」
現象からその裏を読むことを趣味としているらしいウォリアスの前に、感情に流されたリーリンでは太刀打ちできない。
熱血なだけが取り柄のニーナが連戦連敗しているのと、基本的に何ら変わらない。
だが、それでもニーナとリーリンに対するウォリアスの態度は明らかに違った。
ゆっくりとリーリンに近付き、そして背負っていたリュックをそっと差し出す。
「レノスが集めて、僕が選んで持ってきた対汚染獣戦の戦術データと、その他に広範囲破壊兵器の資料。必要はないと思うけれど持って行って」
と、いきなり意味不明なことを言い出した。
よりにもよって、グレンダンに広範囲破壊兵器などと言う手間暇かかる物を売りつけようとしているのだ。
いや。金は取っていないけれど。
「どうして?」
同じ疑問に達したリーリンの視線が、リュックとウォリアスの間を往復する。
イージェの視線だって往復する。
普通に考えたら必要ないと思うから。
「その他にも、化学やら数学やら思想やらの基本情報が大量に入っているから、邪魔になっても持って行って欲しい」
「化学に数学?」
「そ」
とうとう意味不明の局地を突破してしまったのか、常人には分からないことを喋るウォリアス。
ふと気になってリンテンスに視線を向けてみたが、こちらは我関せずと煙草を吹かしているだけだった。
イージェも見習うべきかも知れない。
「何が起ころうとしているかは分からないけれど、人類がこれを生み出すために使った時間は莫大な物だから。念のために一番安全な所に予備を残しておきたい」
「予備?」
「そ。予備。使わないんだったら売ってくれても良いよ」
ふと、ここで欲が出た。
あれだけの情報ならば、たたき売っても一財産になると。
もちろん、そんな恐ろしいことは出来ないけれど。
リーリンにあれを食らって生きている自信がないから。
「情報記憶素子は貰って行くけど、レイフォンは駄目よ。メイが悲しむから」
「それを言われると心苦しいけれど、グレンダンに立ち寄る必要がレイフォンにもあるんだよ」
「無いわよ」
「むしろ一度帰る必要と言うべきかな?」
ウォリアスの提案を一部受け入れるふりをしつつ、是が非でもレイフォンを持って帰ることを拒むリーリン。
どんな気持ちなのかはイージェには分からないが、何かよほど強い感情が働いていることだけは間違いない。
それが愛情なのか、それとも哀れみなのか。
「レイフォンは、孤児院を最後に見た時のことを限りなく明確に覚えているんだよ」
「それが何?」
ウォリアスの視線がリーリンから逸れて、レイフォンの死体へと注がれる。
その視線はしかし、リーリンに向けられていた異常に暖かい何かで満たされていた。
一体どんな人生を送ってきたら、こんな視線が出来るのか疑問に思えるほどだ。
「確認してみたけれど、レイフォンは物心が付いた時からの記憶が全部欠けることなくそろってる」
「・・・・? え?」
「極々たまにいるんだよ。完全記憶とでも言うのかな? レイフォンの場合は興味がある事柄に関してのみ働くみたいだけれどね」
とてももったいないと、咄嗟に考えてしまった。
その能力があれば、記憶系のテストはほぼ完璧に出来るはずだというのに、全く役に立ってないのだ。
受験勉強を控えた学生ならば、喉から手が出るほど欲しい能力を持っているのに、使わないなど、もったいないことだ。
「レイフォンが?」
「そ。レイフォンは頭が悪いんじゃなくて、その能力の殆どを身体と剄を制御することに使ってしまっているんだよ。後は、思い出を記憶することにね」
実にレイフォンらしいとそう思う。
だが、その能力とグレンダンに立ち寄る必要があることになんの関係があるのか、それが分からない。
だが、それはすぐにウォリアスが教えてくれた。
「レイフォンは見たくないから戦場に出たと言っていたけれど、それだけは断じて違う。レイフォンは見届けたいんだよ。家族が家を出て行く姿をね」
「え?」
「この莫迦はね、自分が家を出ることを全く考えていなかったんだ。だからお別れを言わないで来てしまった。それはきっと後々になって問題になるから、一度帰ってきちんとしておきたい」
そんな事あるのだろうかと考えてみて思い出した。
幼生体戦直後の雑魚寝部屋で、ウォリアスがやたらとレイフォンの事に対して怒っていたことを。
あの時は確か、リュホウとの別れをデルクが覚えているという話から、レイフォンが孤児院を最後に見た時を明確に覚えているという話になったはずだ。
それを聞いて予測を立てて確認をしたのだろう事は分かる。
実にウォリアスという人間らしい行動だ。
「だからね、レイフォンは一度グレンダンに帰ってきちんと決着をつけないといけないし、多分孤児院の方でも同じなんじゃないかな? いきなり何の前触れも無く、いなくなったんだから」
「それは・・。弟とか妹はそう思うかも知れないけど」
リーリンも、レイフォン以外の人間の話になると少し状況を冷静に見ることが出来るようになるようだ。
そして、これははっきり言ってウォリアスの罠にはまったのだと断言できる事態だ。
どんなに強固な防壁だろうと、一カ所が崩れてしまえばとても脆くなる。
いや。強固であればあるほど脆くなる。
「天剣授受者に返り咲くかは兎も角として、孤児院には必要だと思うよ。お互いがお別れを言うくらいの時間はね」
「そ、そのくらいだったら、陛下もそれなりの対応をしてくれるんじゃないかな?」
ここに来てやっとの事で視線を怪生物へと送るが、それはあまりにも無残な姿を捉えるに留まってしまった。
イージェとウォリアスで散々虐めたせいだと思うのだが、グレンダン女王であるはずの人物はすっかりと意気消沈してしまい、近くに落ちていた石ころに向かって自分の偉大さを延々と呟くだけの存在となり果てていた。
なんと言うことだろうかと、一瞬だけ過去の自分を殴り倒したい衝動に駆られてみた物の、すぐに気が変わった。
あまりにも打たれ弱すぎるのだと、そう考えたのだ。
精神的な強さと肉体的な強さは、全くもって関係が無いのだと改めて認識した瞬間であった。
「え、えっと、うんと、あの」
イージェの感想は兎も角として、是非とも女王との話し合いをしなければならないリーリンはその場で対応に困る。
このまま無断で連れ帰って良い物かどうか分からないのだろうが、こればかりは怪生物が復活してくれないことにはどうしようもない。
だが、世の中はリーリンに対しては割と親切に出来ているようだ。
「へ、陛下どうなさいましたか!!」
比較的ゆっくりした速度で近付いてきていた、天剣授受者の一人が声をかけたのだ。
その速度はあまりにも遅く、イージェでさえ息を切らせることなく普通に追いつける程度だった。
だが、その理由はすぐに分かった。
一般人らしい少年を一人、その天剣授受者が抱えていたからだ。
速度が遅かったと言っても、それは武芸者基準での話であり、一般人らしい少年にはかなりきつかっただろう事が、呼吸が完全にみだれていることからも理解できる。
「あ、あにきぃ。なんでそうやってあねきをおこらせんだよぉ」
その乱れた呼吸の合間を縫い、リーリンとレイフォンに向かって声をかける。
どうやら二人の知り合いらしいと言うか、同じ孤児院の出身者だろう事までは予測できる。
いや。デルクの所で何度か見ていることを思い出した。
確か、家事担当だったはずだ。
名前は確か。
「リチャード? なんでそんな事に?」
思い出す前にリーリンが教えてくれたので苦労が少しだけ少なくなったことに、かなりの安堵を覚えた。
安直な生き方を続けるつもりはないが、買ってまで苦労をしたいわけではないのだ。
「色々ありまして、リチャードさんには陛下のしつけ役をお願いしている次第でして」
「しつけ!!」
驚き固まるリーリンだが、イージェに至っては完全に固まってしまい、声を発することさえ出来ない有様だ。
そして、恐る恐ると視線をしつけの対象へと向けてみる。
状況は何も変わっていなかった。
「取り敢えずレイフォンを持って帰って、後ほど陛下が正気を取り戻したら裁可を仰ぐと言う事でいかがでしょうか?」
「そ、それで良いんでしょうか?」
「恐らくそれで宜しいかと」
後からやって来た天剣授受者、恐らく顔を知らないからカナリスがそう返答をする。
当面それ以外に選択肢は存在していないかと、誰もがそう考えていた時に、それは起こった。
「起きろ」
「はいぃぃ!!」
何か衝撃を与えたというわけではない。
ただ、優しいとは言えない声でリチャードがアルシェイラに命じただけなのだ。
ただそれだけで、今まであちらの世界へと旅立っていた怪生物が覚醒を果たした。
これ以上に驚くべき事は、先ほどリーリンがリンテンスを蹴り飛ばしたことぐらいしか思いつけない。
一体何が有ったというのだろうかと、思わずカナリスやリンテンスへと視線を飛ばしてみたが、あまりの事態に驚愕していることだけを認識できた。
だが、その疑問はすぐに解決する。
「起きました!! だからわさびは止めて!! 辛子も唐辛子も胡椒も止めて!!」
惰眠を貪っている怪生物に手を焼いたリチャードが、刺激の強い香辛料で優しく起こして差し上げたらしいことがはっきり分かった。
グレンダンの女王、人類最強の武芸者と言われている怪生物とは言え、単なる主夫には全く歯が立たないことがはっきりとした瞬間であった。
イージェも気をつけようと、心の底から決心した瞬間でもあった。
「宜しい」
「は、はいぃぃ」
そして思う。
どうしてこうも駄目人間ばかりが集まるのだろうかと。
いや。これはきっと話が違う。
駄目人間こそがこの世界を動かしているのだ。
そして、今この瞬間に限れば、ツェルニこそ世界の中心である。
であるならば、駄目人間が集まってきても何ら不思議ではない。
この結論に達したイージェは少しだけ優越感を得ていた。
俺はここまで駄目人間では無いと。
なぜならば、すっかり話の外側におかれているから。
そして映像記憶装置を確認する。
先ほどレイフォンがリーリンの胸に飛び込んだ瞬間の映像は、記憶素子と記録装置に分散して保存されていたのだ。
つまりリーリンの手にあるのは複製でしかない。
記録装置内の情報を後で取り出せば老後は安泰である。
心の奥底でほくそ笑むイージェであった。
取り敢えずアルシェイラを叩き起こしたリチャードだったが、その内心は複雑だった。
確かに以前、掃除をしている最中であるにもかかわらずリビングで惰眠を貪っているアルシェイラに腹を立てて、その鼻先にわさびを塗ったことはあった。
その時、今まで聞いたことの無いような悲鳴を上げて暴れ回ったのは確かだ。
そのお陰でリビングは被害を受けたが、それ以来掃除をしている最中に惰眠を貪ることはなくなったので何とか黒字だった。
だが思うのだ。
わさびごときでそんなに恐れるなと。
仮にもグレンダン最強の、おそらくは人類最強の武芸者であるはずの女王が、たかだかわさびごときでこうも恐れ戦くとは想像もしなかった。
実際問題として、孤児院にいる弟や妹たちはこの程度では全く静にならない。
それどころか、鼻がつんとしたとか涙が出たとか騒がしさが増すのだ。
何故か最近、食べ物絡みで人類最強の女王がへこたれすぎているように思う。
羊羹の時もそうだが、リチャードはただ己の不満を形として表しているだけなのだ。
そこまでリチャード自身を含めて恐れる必要はないのにと思う。
そして視線をアルシェイラに向ければ、リーリンがなにやら説得を行っている。
この決断に関わらないようにするために、他の人間に視線を向けて、そして大きく溜息をついた。
「あにき」
飛ばした視線の先では、何処から持ってきたか全く不明だが棺桶が鎮座していた。
そしてその鎮座した、巨大な箱の中へと、レイフォンが安置されようとしている。
作業をやっているのは暫く前にサイハーデンの巡礼でやって来たイージェと、ツェルニの学生らしい細目で長髪の少年。
レイフォン絡みでこの特徴を持っているのは、ウォリアスという極悪非道の武芸者だけ。
つまり、極悪非道が限界を突破してしまい、まだ死んでいない人間を棺桶に入れて埋葬しようと、そう画策しているのだろう事が分かる。
何処までも不幸な奴だと、哀れみと憐憫の感情を覚えたリチャードだが、レイフォンを安置する作業に手を貸すこととした。
他に何かすることがあるわけではなかったし、レイフォンの手紙が本当ならばきっとこの行為にも何か意味があるはずだから。
どんな意味があるかは分からないが。
「よう兄弟。お前もレイフォンをぶち殺したくなったか?」
「いや。そう言う訳じゃないけれど、他にすることもないし」
何故何時もイージェは兄弟と呼びかけてくるのかは置いておいて、視線をウォリアスへと向ける。
ヴォルフシュテインを胸に置き、ほぼ安置作業が終わったところでだ。
後は蓋を閉めるだけである。
「生きたままグレンダンに帰るのは無理かも知れないけれど、死体だったらさほど大事にはならないと思ってね」
「な、成る程」
思いもよらない方法を思い付き、そしてそれを即座に実行してしまっていることがはっきりと分かった。
いや。もしかしたら、埋葬のためにグレンダン入りするという計画は既に立案されて実行の時を待つだけだったのかも知れない。
十分にあり得る。
ヴォルフシュテインを胸においているところを見ると、本格的に火葬するつもりはないのだろう事も分かる。
恐ろしくも、それなりに筋の通った考えだ。
「こいつ、このまま火葬したら気分が良くないかしら?」
「・・・・。陛下。そんなにむねにぃ!!」
アルシェイラの呟きに思わず反応したリチャードの後頭部に、リーリンの拳が振り下ろされた。
絶対に触れてはいけないと、その拳が物語っている。
まあ、不用意に反応してしまったリチャードにも問題はある。
これからは気をつけようと考えつつ、棺桶の蓋をそっと閉める。
釘を打ちたそうなアルシェイラを牽制しつつ話を少し進める。
追放処分が解かれたというわけではないのだ。
「グレンダンが動き出した後になって、本当は生きていましたって事にするのは良いが、バスが来たら即座に追放のやり直しだろう?」
「それは無い」
「な、なんで?」
だが、ウォリアスはその心配がないと断言した。
その断言はあまりにもはっきりしていたので、アルシェイラでさえ仰け反ったほどだ。
もちろんリチャードは驚きすぎて固まっている。
「あと五十週間はグレンダンにいられるよ」
「なんでそんなに?」
一年は五十二週間と一日だ。
であるならば、レイフォンは一年近くもグレンダンにいられることになる。
この思考の途中に、気になる単語があった。
「ん? 一年?」
「そ。この莫迦は、一年の猶予があるのにすぐに出ちゃったからね。残りの時間ぐらいグレンダンにいられるでしょう」
理論的に合っているようでいて、実は全く的外れだと思うのはリチャードの考えすぎだろうか?
だが、ウォリアスは更に動き続ける。
いや。こちらの方こそが本命だというような確信を持った動きで立ち上がり、リーリンに向かって何かを差し出した。
「な、なに?」
「これ貸すって」
「え?」
リーリンに手渡されたのは、端的に言って首輪と鎖だった。
合成樹脂製の首輪と、銀製に見える細やかな鎖である。
何に使うのかさっぱり分からなかったのは、グレンダン組だけであった。
「ぶははははははははははは」
それを見た次の瞬間、イージェが堪える素振りも見せずに全力で笑い転げ、リーリンはあまりの事態に茫然自失という状況だ。
提案したウォリアスでさえ、堪えるのだけで精一杯と言った感じである。
これは是非とも解説して欲しい。
「猶予の手が使えないんだったら、最終手段としてフォンフォンを使う」
「つ、つかっていいの?」
「他の方法が思い付かない」
「か、かんがえた? ちゃんと?」
「もちろん。百分の一秒くらい」
「・・・・・・・」
とうとうリーリンの動きが完全に止まった。
あまりにも酷い展開であることだけは確実だが、それさえ事態の一部でしかなかった。
『フォンフォンと一緒に返してくればそれでかまいませんので、存分に使って下さい』
「い、いやですね」
『選別だと思って頂いてかまいません。私のことはどうかお気になさらないで下さい。フォンフォンがいない間、寂しくて泣いてしまうかも知れませんが、きっと耐えて見せます』
「あ、あのですねフェリ先輩」
どこからか飛んできた念威端子から、少女の声が聞こえてきた辺りで、とうとうイージェが笑いすぎて死にかけた。
それだけではなく、ウォリアスでさえニヤニヤ笑いを堪えきれなくなったようで、軽く棺桶を叩いて感情を表現している。
事態は全く意味不明である。
だが、何か恐るべき事が起こっていることだけは理解していた。
「ああ。出来れば説明して欲しいんだが」
「あ、後で説明するから、今は駄目」
とうとうリーリンが先延ばしを選択するほどには、事は異常であると認識した。
ならば、当分関わらない方が良いのだろう事がはっきりすると言う物だ。
「兎に角、これを運び込んでしまえば後はどうにでもなるから」
話はこれまでとばかりにウォリアスが閉めにかかる。
そして、恐らくそれが正しいのだろうと言うことは理解できている。
そして、ここに来てアルシェイラへと視線を向ける。
レイフォンを本当にグレンダンに運び込んで良いのだろうかと。
この決断にリチャードが関わってはいけない。
それはきっと、私事で公的な権力を使うことに繋がるから。
だが、やはりアルシェイラは大雑把であり、更に退屈しのぎで揉め事を引き起こすのが大好きであった。
「まあ、色々楽しいことになりそうだし、リーちゃんが良いんだったら良いんじゃない? ただししばらくは内緒にするけどね」
極めて無責任なお言葉が発せられた。
いや。取り敢えず内緒にすると言う辺りに責任感を感じることが出来るのだろうか?
そして気が付けば、棺桶が空中を浮遊していたりする。
既にリンテンスが運搬を開始しているようだ。
ならばもうリチャードにすることはない。
「できればね」
「あ?」
「次の天剣が見付かったら、早めに返却してもらえると嬉しい。レイフォンを必要としている人がここにもいるから」
「出来うる限り早く返却するよ」
次の天剣が見付かるまで。
それが何時のことなのかリチャードには分からない。
減ることはあっても増えることがないとさえ思っている。
天剣授受者とは、そう言う生き物なのだ。
だが、それでもリチャードはその権限がないにもかかわらず、言わずにはいられなかった。
レイフォンを待っている人がツェルニに居ると理解しているから。
こうしてレイフォン・ヴォルフシュテイン・アルセイフはグレンダンの天剣授受者として、こっそりと復活を遂げた。
当面は戦闘時以外、殆ど王宮から出ることなく過ごす予定だったのだが、復活直後に襲来したドゥリンダナ戦において、その存在が大きく知られることとなってしまった。
だが、グレンダンの人達は同姓同名の別人であるとそう確信することとなる。
顔も良く似ているが別人であると頑なに信じるようになる。
何故それ程までに頑なになったのか、都市外の誰もそれを知ることは出来なかった。
おまけ。
「そう言えば、てっきりグレンダンに行ってレイフォンを倒して天剣を我が手にとか言うと思っていたんだけれど」
「天剣なんてもう興味ないさぁ」
「うん? それはなぜ?」
「オレッチは、あそこまで駄目人間になれないさぁ」
「そ?」
「それにさぁ」
「うん?」
「ミュンファが、脱臼垂れ目女に同情しちまってさぁ。おいてくのも寝覚めが悪いから面倒見るさぁ」
「そ」
こうして、ツェルニはイージェとハイアという教官を得ることとなり、武芸者の地獄は更なる激化を辿る事となったのであった。
後書きに代えて。
と言うようなわけでして、復活の時十一話目をお送りしました。
来週エピローグを上げますが、恐らくそれで最後となります。長い間お付き合い頂きまして、有り難う御座いました。
ちなみに、フェリファンの方は来週のエピローグ最後までがんばってお読みください。途中でへこたれないようにお願いします。
このシリーズ、実は原作へのアンチテーゼとして始めました。レイフォンを初めとする天剣授受者たちがひどい目に合い続けるのは、この辺に原因があります。
いや。このシリーズで非道い目に合わなかったのは主要登場人物ではウォリアスのみと言う凄惨な内容となってしまいました。
メイシェンがヒロインになったのは、単に俺の好みだったのですが、最終話あたりまで行くとこちらもアンチテーゼとなっていますね。
そうそうもう一つ。
約一年ほどかかって書き上げた話ですが、本来の俺の執筆速度からするとこれはかかりすぎです。
それには理由があります。
まず第一に、柿ながら聞いているのが、RCサクセションになったこと。忌野清志郎のよれているんだかよれていないんだかの声を聞いていたら、自然と執筆速度が遅くなりました。
二つ目。二頁目の洋館騒動で、駄目人間エネルギーを使い果たし、最重点に時間がかかってしまったこと。
そして、これが最大の原因ですが、ブログを始めてしまったこと。一週間で6キロバイト前後書いているせいか、全然こちらが進みませんでした。
等々有りまして、この年末の忙しい時期に更新と相成りました。
いかがだったでしょうか?