手紙を出してから、少しの時間が流れた。
もちろん、ナルキとシリアの鍛錬は続けているし、トマス達との組み手も同様だ。
だが、それでもレイフォンは非常に落ち着かない。
時間がある時は、部屋の中をうろうろウロウロと歩き回り、座っては貧乏揺すりをしている有様だ。
メイシェンが近くにいると、何となく落ち着けるので今日はそれほど酷くは無いと思ったのだが。
「落ち着け馬鹿者!!」
「ぐべら」
ナルキの鉄拳制裁が、レイフォンの側頭部へと襲いかかる。
普段なら平然と避けるなり受けるなり出来るのだが、デルクからの手紙を待っている今はとても無理な話だ。
「グレンダンはあまり放浪バスが寄りつかないんだ。返事が来るまでかなり時間がかかるだろう!」
「り、理屈では理解しているんだけれど」
理解はしていても、納得が追いついていないのだ。
「だぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
咆哮を上げるナルキの鉄拳が、更に飛んで来るが、それは何とか回避した。
もちろん、ゲルニ家のリビングに被害を出さない様に、細心の注意を払いつつ、特に観戦している三人に迷惑がかからない様に。
「避けるな!!」
「無理言うなよぉぉ」
ムキになって殴りかかってくるナルキを捌きつつ、何となく、今のこの瞬間が非常に貴重な物である事を理解してしまった。
「もらった!!」
「上げない!」
もはや、普段の鍛錬とあまり変わらない拳打の応酬になっている。
本来レイフォンは肉弾戦は苦手なのだが、今のナルキ相手ならば十分に通用するレベルではある。
まあ、ナルキの方も全く本気ではないのだが。
「元気だね、二人とも」
「そうですね。何時もの事ながら」
「合格通知も、もうすぐ来るのに」
メイシェンの一言で、レイフォンの集中力が一気にナルキから離れてしまった。
「え? ごぼべ」
「戦っている途中で、よそ見などするからだ!!」
顔の正面からナルキの正拳突きを貰ってしまい、思わず鼻のあたりを押さえてうずくまる。
「ご、合格通知って?」
実は、この単語の意味が分からなかったのだ。
「ツェルニの」
「? ツェルニって、何だっけ?」
「あ、あう。学園都市」
「・・・・・。ああ。そう言えばそんな事もあったかも知れない」
実際問題、デルクからの返事の方が遙かに気になっていて、合格しているかどうかという心配をすっかり忘れていたのだ。
そもそも、留学の事も殆ど意識に上らなかった。
「おまえ。本当に脳みそ入っているのか?」
ナルキが恐る恐るレイフォンの頭を打診でもするかの様にたたく。
「入っているよ。僕だって筋肉と剄脈だけで出来てるわけじゃないんだから」
とは言ってみた物の、本人でさえ余り自信がない様な気がしなくもない。
「まあ、私達三人は平気だろうから良いけど、問題はレイとんよねぇ」
「そうですね。武芸者としては無敵でしょうけれど」
「頑張ったんだから大丈夫だよ」
好意的な言葉は、メイシェンからしか返ってこなかった。
「え、えっと」
思わずナルキの方を見る。
「武芸科なら兎も角、一般教養科だろ? 危ないかも知れないな」
そのナルキも、うんうんと頷きつつ心配そうな視線を、何故かメイシェンに送る。
「だ、大丈夫だよ。レイとん頑張ったんだから」
「いやいや。犠牲を払っても、何も出来ないと言う事もあるんだ」
「あう」
「はう」
毎日死ぬ様な思いをしてと言うよりは、何度も走馬燈を見ながら勉学に勤しんだというのに、もしかしたら不合格という結末しか待っていないと思った瞬間、レイフォンは違う世界を見そうになってしまった。
「まあ、大丈夫かも知れないから、心配しておいて損はないんじゃない?」
「あう」
「はう」
ミィフィに止めを刺されてしまった。
「まあ、あんまり虐めちゃ可哀想ですよ。どちらにせよ賽は投げられて、後は結果が出るだけなんですから」
「あう」
「はう」
シリアに念押しをされてしまった。
実際問題として、今ヨルテムにいる事はあまり得策でないのも事実。
そのための留学だったのだが、色々な事が一気に起こってしまい、レイフォンの処理能力が追いつかなかった様だ。
「取り敢えずお茶にしよう。レイとんで遊んだらお腹すいたし」
「そうですね。お昼ご飯はさっき食べたばかりですから、お菓子を食べると太るかも知れませんけど、お茶だけなら問題無いでしょうね」
「い、いや。お茶とお菓子はセットでしょう」
「良いんですかミィフィ? この間体重計に乗って、恐怖していたと思いましたけれど」
「あ、あれは、ちょっとした間違いよ」
などと何時もとあまり変わらない時間が、ゆっくりと流れている事に、レイフォンは少し安心した。
だが、その安心もすぐに終わった。
ポストに郵便物が放り込まれる音を聞いてしまったから。
「ゆ、郵便だね」
「う、うん。郵便だね」
「よ、よし。私が確認してくる」
じゃれ合っていた二人は一瞬反応が送れ、レイフォンは動けず、メイシェンも同様だったので緊張と共にナルキが玄関へと向かった。
「て、てがみ、かな?」
「手紙だと思う」
すでにレイフォンの心臓は全力疾走をしているし、冷や汗をかき手が震えている。
「大丈夫だと思うよ」
「そうですよ。きっと合格しているし、怖い内容の手紙でもありませんよ」
ミィフィとシリアがそう言うけれど、どちらも全く自信がない。
ミィフィの見ている前では、グレンダンからの手紙を前にレイフォンが相変わらず固まっていた。
全身に冷や汗をかき、顔色が青白く手が震え、まるで死刑判決を待つ被告の様な状態だ。
(いや。ある意味正しいのかな?)
無罪が言い渡される確率が極めて高いのに、有罪確定を覚悟している被告にしか見えないが、心情的にはそれが一番近いのだろう。
「レイとん」
相変わらず心配気なメイシェンがレイフォンの左の袖をつまんでいる。
「だ、大丈夫だよ。きっと大丈夫だよ」
そう言う物の、全く手は封筒を開けようとしない。
「読もうか?」
「え?」
「いやね。私が読んであげようかって」
前回の二の舞になる確率が高かったので、あえてそう言ってみる。
是非とも内容を知りたいという好奇心も少しはあるのだが、今は目の前のヘタレを何とかしたいと思う方が強い。
「だ、大丈夫だよ。僕が読まないといけないんだから」
やっとの事で決心がついたのか、震える手が開封し便箋を取り出す。
だが、その便箋は手から滑り落ち、乾いた小さな音を響かせた。
「う、うわ」
「いや。手が滑っただけだから、安心しろよ」
自分の失敗で一気に動揺激しくなるレイフォンを叱りつけ、再びレイフォンの手に便箋を握らせる。
「う、うん。よ、読むよ」
そして、最初の一行を読んだらしいレイフォンは、顔色を土気色にして卒倒目前になってしまった。
「あ、ああああああ」
何が彼を絶望させたのか、手紙が再び床に落ち、慟哭の叫びをレイフォンが上げる。
「レ、レイフォン?」
予想と違うそのあまりの反応に、メイシェンが酷く怯え、ナルキとシリアも何も出来ないでいた。
だからミィフィは素早く床から便箋を取り上げ、ざっと目を通し、声に出してそれを読み上げる。
「レイフォン。私がお前を許す事など無い」
挨拶も無しに書かれたその一行が、レイフォンに絶望を与えた様だが、かまわずに続きを読む。
「何故なら、お前の犯した過ちは、本来私がやらなければならなかった事だからだ」
無駄が無く、しっかりとした筆跡を、追う。
「私に甲斐性が無いばかりに、お前が孤児院の運営費を稼がねばならなかった。
道場などで教えている間に、私自身も清貧を旨とする様になってしまっていた。
サイハーデンは、たとえ見難くとも生き残る事を目的とする部門だ。
それを体現しなければならない、サイハーデンの名を継いだ私が、足掻かなかった事が、全ての原因だ。
そして、私の代わりとして裁かれたお前を、庇う事も出来なかった。
孤児院も私も、お前に頼らずともやって行ける様になった。
だからお前は、自分の幸せを考えて欲しい。
そして、今周りにいる人達のために、何が出来るのか、何をしてはいけないのかを考えて欲しい。
そして、どうか死なないで欲しい。
最愛なるレイフォン・アルセイフへ。
デルク・サイハーデン」
ミィフィが読んでいる内に、落ち着きを取り戻したレイフォンが、床にへたり込んだままこちらを見上げている。
「ほれ」
気楽さを装って、手紙を渡す。
全部読めと。
無言の圧力が功を奏したのか、恐る恐る手紙を受け取り、ゆっくりと読み始める。
前回と同様、何度も読んで理解した様で、今度は喜びの涙を流す。
「ほれ。取り敢えず手紙をしまっておいで」
「う、うん」
とても他の事が出来る様には見えなかったので、部屋へと追い立てる。
「でもさ」
その姿が見えなくなってから、ミィフィは思わず愚痴る。
「どんな手紙書いたんだか、レイとん」
「ああ? デルクさんの子供だぞ? 似た様な文章だろう」
ナルキも疲れ果ててソファーに座り込んでいる。
「良かったね」
ただ一人、メイシェンだけがレイフォンの事で喜んでいる。
レイフォンに負けず劣らずのお人好しだ。
「それにしても、手紙をしまって来いって追い出したけれどさ」
少し喋りにくいが、それを誤魔化しつつ続ける。
「なんだ?」
「レイとん、あの手紙どうするんだろう?」
にひひひと笑いつつ、メイシェンを見る。
「何で私を見るの?」
「だってさ、レイとんがさ、手紙を宝石箱に入れて、僕の宝物だとか言いながら、お花畑で転げ回ったらどうするのよ?」
「ひゃぅ」
思わずその光景を想像したのだろう、一気に混乱して怯えるメイシェン。
「にひひひひひ」
「楽しそうだな」
更に疲れ切ったナルキが、二通目の封筒を取り出した。
「本当は、思わず泣き出したいんだろ」
「あ? 分かる? でもさ、キャラ的に泣けないじゃない」
ミィフィも結構嬉しいのだ。
本人の前では、決して言えないが。
「でさ。それが結果通知?」
「ああ。私とレイとんの分だ」
当然だが、今頃はミィフィの家にも似た様な封筒が送られている事だろう。
「にひひひひひ。不合格だったら、どうするんだろう?」
「ああ? そうだな。六年間ツェルニで一時滞在か?」
それはそれで面白そうだと思うのだが、行動の自由度が少ないので、少し不満でもある。
「早く開けて確認しようよ」
「いや。こっちもレイとんが開けないといけないだろう。グレンダンのと違って、そんなに怖くないはずだし」
「それもそうか。じゃあ、私も自分の確認してこよか」
と、シリアの腕を捕まえて引っ張る。
「な、なんですか?」
「荷造りをするので手伝え」
「い、今から留学の準備?」
「たわけ。違う用事があるのだよ」
こう見えてもミィフィは色々と忙しいのだ。
そして、ふと思う。
デルクは、レイフォンに許しを求めなかった。
自分は悪くないと思っているのかとも考えたのだが、文面から違う事が分かる。
ならば、レイフォンのグレンダンでの将来を奪ってしまった事の責任を、一生背負って行くつもりなのだろうと思う。
「蛙の子は蛙か」
良くも悪くも、デルクとレイフォンは似ているのだと、改めて認識した。
デルクからの手紙でレイフォンが許されてから、一月ほどの時間が流れた。
後三ヶ月もすれば、ここを離れてツェルニへ向かう。
そんな時期だったが、色々な事があった。
ナルキとシリアにサイハーデンの技を少しずつ教える様になったし、警察の武芸者との組み手の頻度が非常に上がった。
そして、生まれて始めて遊園地なる物に行った。
しかも、女の子と一緒に。
これも人生初。
更にジェットコースターという、恐ろしい乗り物に乗せられた。
連続で。
そのせいで瀕死の状態に陥ってしまい、女の子に膝枕されるという、これまた人生初体験をしてしまった。
ヨルテムに来てから、生まれて始めてとか、人生初とか言う体験目白押しだ。
それ故か、充実した日々を過ごせているのだろうと、レイフォンは思っている。
三家族合同、全員そろった十四人の食卓というのにもなれた。
その、恐るべきマシンガントークが乱れ飛ぶ戦場を生き抜いた人達が、お茶をすすったりテレビを見たり、ゲームに勤しんだりしているリビングで、いきなりアイリがレイフォンの顔をまじまじと見つめているのに気が付いた。
「あ、あのぉ?」
「うぅぅん? ねえ、レイフォン」
「はい?」
散々見つめ続けたあげく、決心したと言わんばかりに、アイリが決然と質問してきた。
そのあまりにも真剣な表情に、周りにいた人たち全員の視線がレイフォンに向けられる。
なぜかアイリに向く視線は一つもない。
「右目、どうしたの?」
言いつつ、自分の右目を右の人差し指で縦になぞるアイリ。
「ああ。これですか」
何が来るのかと思って身構えていたのだが、用件はたいしたことはなかった。
「ずっと気にはなっていたのよ。でもね、聞くタイミングが今まで無かったのよ」
「そうだ。私も聞こうと思っていて、何時も時機を逸してしまっていたのだよ」
トマスも同じように、レイフォンの右目の付近を見つめている。
「いや。別段たいしたことないですよ」
レイフォンにしてみれば、本当にたいしたことがないのだが、どうやらそれで済ませられる雰囲気ではなくなっている様だ。
レイフォンを除く十三人の視線が、固唾を飲んで事情が披露されるのを待っているからだ。
「え、えっと」
別段、秘密と言う訳でもなければ、話せないという物でもないのだが、ここまで期待される、あるいは、興味を持たれるほどでもない。
「グレンダンで」
何故か、ボイスレコーダーとマイクとメモ帳を取り出すミィフィとその父。
「二歳くらいの男の子が」
全身を耳にしているらしいナルキとシリアと、その他の子供達。
「路面電車の軌道に飛び出してしまって」
ハラハラと胸の前で手を組むメイシェン。
「運悪くそこに車両が来てしまいまして」
うんうんと先を促す、ロッテン家の大人達。
「引かれそうだったので、思わず飛び出してその子を抱きかかえて反対側まで飛んだんですが」
ここまでの展開で、感心したのか感動したのかしているトリンデン家の大人達。
「後先考えなかったんで、目の前にガラス窓があった時は、驚きました」
先が予測できたのだろう、不満そうなナルキとシリア。
「結局、窓ガラスに飛び込んで、その時のガラスの破片が右目に突き刺さったんですよ」
もう少し注意していれば、怪我人も壊れる物も無かったのだとそう思うのだが、これこそ後の祭りだ。
「レイとんなら、何とかなったんじゃないか?」
「そうですよ。色々使えそうな技もあるのに」
非常に納得行かない表情のナルキとシリアが抗議に似た声を上げる。
不満の原因が怪我をしないための努力を怠ったからだと言う事は、十分に理解できる。
「二歳の子供を抱きかかえたままじゃ、殆ど何の技も使えないよ」
相手は、とても柔らかい体しか持っていないのだ。
急激な加速はもちろん、衝剄を放った余波で大怪我をしかねない。
その危険が分かっていたからこそ、レイフォンは頭から窓ガラスに突っ込んだのだ。
「子供が無傷だったから、それで良いですよ」
話は終わりだと、お茶をすする。
「でもさ、レイフォン」
だが、更に不思議そうにアイリが、レイフォンを見つめる。
「はい?」
まだ、何か不思議な事があるのだろうかと、少し気になった。
「何で治さないの?」
右目を指しながらそう訪ねられたが、その答えはとうに出ている。
「お金がありませんから」
うんうんと頷きつつ、お茶の最後をすする。
そして、部屋の空気が凍り付いている事に気が付いた。
「あ、あの? 僕何か変な事言いましたか?」
別段、変わった事は言っていないと思うのだが、もしかしたら、また非常識な事をしてしまったのかも知れないとも思う。
「なあ、レイフォン」
「はい?」
右手で顔を覆っているトマスが、疲れた声を出した。
「預金通帳は見てるか?」
「ええ。時々は」
基本的に貧乏で貧乏性なレイフォンは、大きな金額という物になれていない。
天剣授受者だった頃には、かなり大きな金額を貰う事もあったのだが、それはたいがい孤児院に寄付してしまっていたので、全く実感がこもっていないのだ。
それは今もあまり変わっていない。
「警察での訓練の報酬として、割と普通の金額が振り込まれているはずだが」
「はい。この間記帳してきたら、結構な数字でした」
数字としてしか扱えないのだ。
「い、いやね。お金はあるんだから、治しても良いんじゃないかって」
トマスが疲れた体に鞭を打っている様なのだが。
「はあ。お金有るんですか?」
あまりにも実感がない。
「レイとん。良かったら通帳持ってきて見せてよ」
わくわくとミィフィが催促するので、トマス達に視線を向ける。
「子供の持つ金額がどの程度な物か知るのも、良い事かも知れないな」
了承が出たので、いつの間にかレイフォンの部屋になった場所へ通帳を取りに行く。
他の子供達もあちこちへ散ったところを見ると、それぞれの通帳を持ってくるのだろう。
「そう言えば、お金ってあんまり使わなくなったな」
寄付する場所が無いからだというのは理解しているのだが、思わず口からこぼれてしまうのだ。
「はい。持ってきましたよ」
そもそも、ほとんど物がないので、探すのには手間がかからない。
当然の様に、大人しかいないリビングへと戻ってきていた。
「では、他がそろうまで少し待つ様に」
いつの間にか司会進行を受け持っているトマスに言われるまま、先ほどまでいたソファーに座り込む。
程なくしてみんなが戻ってきたが、トリンデン家の長女と三女の顔色が悪い。
ちなみに、ミィフィの顔色もかなり悪い。
「どうしたの?」
「気にしてはいけない。残高が少ない事を認識しているだけだろうからね」
トマスの一言で、更に顔色が悪くなる三人。
「では、まず衝撃の真実! レイとんの通帳拝見!!」
顔色が悪いのを誤魔化す様に、いきなりミィフィに通帳が奪われてしまった。
「あ」
っという間に残高が調べられ。
「・・・・・・・・$ かなり凄いよ」
呆然としつつ、ミィフィの手からメイシェンの手へと通帳が移動する。
「・・・・・・£ すごい」
同じように他の人達に渡る通帳。
「? これって、少ないのかな?」
当然、他の子供達の物も見るが、別段少ないとは思わなかった。
だが。
「これは、酷い」
思わず呟いたのは、残高が限り無くゼロに近いミィフィの通帳。
「悪かったな! 誰かさんのおかげで、出費がかさんでるのよ!!」
何故か怒られてしまった。
「ねえ、レイフォン」
最後に通帳を確認したアイリの表情が、かなり怖い。
「な、なんでしょうか?」
そっと、両肩に手が置かれた。
メイシェン母とミィフィ母の。
「今すぐに治しに行きましょう」
「い、いや。別段困らないですから」
お金があるらしいので、断る理由はないのだが、アイリ達が怖いのだ。
「いいえ。傷物の男の子では、お婿に出せません!!」
「そうよ! 傷物の男の子をお婿にする訳には、断じて参りません!!」
「そうですとも!!」
いつかの様に両腕を拘束され、足を持ち上げられたレイフォンに抗う術はない。
「きぃぃぃやぁぁぁぁぁぁ」
情けない悲鳴を上げる以外は。
右目が見える様になった事で、再びレイフォンは自主訓練を厳密に行った。
見え方が変わったために、太刀筋や見切りが変化してしまったからだ。
結果として、制御能力が格段に上昇するという事態を体験。
思い返せば、雄性体二期を真っ二つにしてしまった時にも、制御能力が上がっていた確率があった。
それまでと同じ感覚で技を放ったので、威力が増してしまい、結果トマス達に多大な迷惑をかける羽目に陥った。
同じ過ちを繰り返さないために、外縁部で散々閃断や衝剄、化錬剄を放ち、レイフォンの中の認識と威力の誤差を修正した。
そう考えつつも、レイフォンは悲鳴を上げそうになる口を必死に閉ざしている。
隣には、恐怖とも歓喜ともつかない悲鳴を上げるメイシェンがいるのだ。
見栄を張るつもりはないのだが、それでも悲鳴は上げられない。
こうなった事の発端は、レイフォンの完治と出発前の息抜きをかねて、みんなで遊びに行こうという話からだった。
以前も行った遊園地に行く事になったあたりで、遺言書と遺品の手筈を終了させた自分を、レイフォンは褒めたい。
「楽しかったね」
珍しく頬を上気させて、ジェットコースターを堪能した事がはっきりと分かるメイシェンが、立ち上がりながら言う。
「そうだね」
若干棒読みになりつつも、きちんと返事が出来た。
これもやっぱりレイフォンは自分をほめたい出来事だ。
「? レイとん、顔色悪いよ?」
「へいきだよ。僕が走るのとあんまり変わらないし」
実際には、自分で走る方が遙かに気楽なのだが、それは口が裂けても言えない。
自分が思った方向に曲がれない事もそうだし、乗り物に乗って振り回されるという感覚も、ほとんど始めての体験で、そちらの方にこそ恐怖の根幹があるのだが、当然言えない。
「おうおう。メイッチはジェットコースターに乗ると性格変わるからな」
乗らなかったミィフィがポップコーンをつまみつつ、のんびりと喋っているのに、殺意の視線を突き刺しておく。
「ま、まあ。メイッチの数少ない楽しみだからな」
レイフォンの後ろに乗っていたナルキも、若干顔色が悪い。
「うん。次、あれに乗ろう」
二人の武芸者の事を知っているのかどうか、とても人間が乗って良いものでは無い乗り物を指さすメイシェン。
何時ものおとなしい彼女とは、やはりかなり違う。
「す、済まない。私はパスだ」
とうとうギブアップしたナルキが、申し訳なさそうにレイフォンを見る。
「わかった。いこう」
棒読みの台詞をそのままに、その恐るべき乗り物に立ち向かう。
「うん」
何時もなら恥ずかしがってやらないだろう事だが、メイシェンの手がレイフォンの手を握り、積極的に引っ張って行く。
「逝ってらっしゃい」
非常に不気味な台詞を、非常に明るくミィフィが言いながら手を振る。
今回も乗らないつもりの様だ。
「い、いってきます」
もしかしたら、本当に遺言が役に立ってしまうかも知れないと覚悟を決めたレイフォンは、ふと思う。
絶叫マシーンに殺された天剣授受者。
その一つの事実はもしかしたら、超絶を極める武芸者集団が、やはりただの人間だった事の証明になるのではないかと。
「まさかね」
サヴァリスやリンテンスが、絶叫マシーンを怖がるとは思えない。
「いや。デルボネ様とかティグリス様なら」
ショック死してしまうかも知れない。
かなりの高齢だから。
それは、現実逃避だったのかも知れない。
そして、目の前に現れた物は、やはり人間が乗ってはいけない代物に思えて仕方が無い。
この遊園地は地上百メルトル、幅がそれぞれ二百メルトル程の建物で構成されている。
その中に、色々な乗り物やアトラクションがある。
そして、外壁を利用して絶叫マシーンの数々が装備されているのだが、問題は屋上だ。
当然の事、屋上にも色々な乗り物があり、沢山の人達が楽しそうに悲鳴を上げたりしているのだが。
「こ、これって、乗って平気?」
「うん。前に乗った時にとっても怖くて面白かった」
無邪気にそう言うメイシェンと、恐怖に引きつるレイフォンの視線の先には、レールがある。
そのレールの上には、当然の事、座席が乗っている。
三つの座席をひとまとめにしたやつが三つ。
最大九人まで乗れる訳だ。
問題なのは、そのレールが建物の外に向かって延びていて、しかも、いきなり切れていると言う事だ。
もしかしたら、座席ごと空中に放り出して、絶叫させるつもりかも知れない。
完璧に死ねるが。
「だ、だいじょうぶ」
自分に言い聞かせつつ、座席に着き、肩と胸を覆う安全装置をおろす。
何故か、乗っているのはメイシェンとレイフォンだけだ。
周りからは、勇者を見る様な哀れな仔羊を見る様な視線が送られてきている。
嫌な予感という物に襲われつつ、ブザーが鳴ってしまった。
「ひっ!」
いきなり、レールの基部が前へと滑り出す。
レイフォンの座っている座席が、建物の端へと押し出されたのだ。
壊さない様に細心の注意を払いつつ、安全装置を握る。
「!!」
何の前触れもなく、いきなりレールの先端が降下。
おおよそ三十度の角度で、絶景が広がっている。
(ああ。感想が変になってる)
自覚しつつも、レイフォンは見てしまった。
爪先の遙か下の方。
おおよそ十メルトルに展開されている、落下防止用のネットを。
射出してあのネットで受け止めるつもりかも知れないと一瞬考えたが、普通に考えて真下には落ちない。
「!!」
そんな現実逃避をしている間もなく、いきなり座席が急加速。
悲鳴を上げる事も出来ない恐怖に全身を縛られ、レールの先端を見つめる。
射出とはかなり違うゆっくりとした減速で、レールの先端で止まる座席。
隣では、やはり恐怖とも歓喜ともつかないメイシェンの悲鳴が上がっているが、今はそれどころではない。
必死に、力加減を忘れない様にしつつ、安全装置にしがみつくので精一杯だ。
そして、ゆっくりとレールの先端が上昇する。
まさか、これから本格的に打ち出されるのかと覚悟を決めかけた瞬間。
ゆっくりと座席が後退して行くのを認識。
どうやら、生きて帰れる様だ。
全てが元の位置に戻った頃合いになって、安全装置のロックが外れる音が響いた。
当然、レイフォンは動けない。
まだ、硬直したままなのだ。
「レイとん? もう終わったよ?」
ふと気が付けば、さっきよりも頬が上気しているメイシェンが、不思議そうにレイフォンの事をのぞき込んでいる。
「そ、そうだね」
全力でもって、手を離す。
硬直している指を一本ずつ離す。
「し、死ぬかと思った」
「大げさだねレイとんは。あれくらいじゃ人間死なないよ」
デルボネなら確実に死ぬだろうし、もう一度乗ったらレイフォンだって危ないと思うのだが、これに乗るのはメイシェンは今日で二回目なのだ。
もしかしたら、人間と言う生き物は汚染獣よりも遙かに恐ろしい生き物かも知れないと、そんな事を少し思いつつ、ふらつく足腰に力を入れ、メイシェンについてミィフィの占領しているベンチへと向かう。
「メイッチはここね」
何故か非常に元気なミィフィが、ベンチの端っこを指し示す。
「? うん」
言われるがままに腰掛けるメイシェン。
「レイとんはここ」
少し離れた場所を指示されたので、疑う余裕もないままそこに座る。
「えい」
そのかけ声と共に、レイフォンの体が押され。
「ひゃ?」
「はう」
いきなり左側頭部付近に、何か柔らかくて暖かくて良い匂いのする物が当たった。
その少し後、視界が非常におかしい事に気が付き、横倒しになっている事と、メイシェンの太股を枕にしている事を認識。
「う、うわ」
思わず後から悲鳴らしき物を上げてみたが、今のレイフォンに体を起こすだけの精神力は残っていない。
恐る恐る上の方を見れば、蒸気を吹き上げているメイシェンも見えたのだが。
「ほれ」
いきなり額に非常に冷たくて気持ちの良い物が当てられた。
「ひゃ」
二度目のメイシェンの悲鳴でそちらを見ると、ナルキがよく冷えた缶ジュースを二本、二人の額に当てているところだった。
「少し落ち着け、お前ら」
若干呆れの入った声と共に、缶ジュースから手が離される。
「有り難う」
何とか礼を言う事が出来たが、レイフォンの頑張りもそこまでだった。
「ああ」
何故か、視界が急激に暗くなり、どこかへ落ちて行く感覚だけが残った。