紅白試合が終わったニーナは、突如としてカリアンに呼び出されて生徒会長室へとやって来ていた。
何か問題が起こったという訳でないことは、カリアンの周りにいる役員の表情から何となく分かったが、心地よい内容の話でないことも同時に理解できてしまった。
執務机の上にある書類を、猛烈な勢いで決済しつつニーナの接近を察知したカリアンの視線が上に向く。
事務仕事をする人間は、皆この手の芸当を平然とやってのけるのだが、ニーナに真似が出来るとはとても思えない。
「呼び出しておいて済まないが、少しだけ待っていてくれ給え。この書類という奴は、組織を動かすためには必要な神経伝達物質だと思うのだがね、どうにも量が多くてかなわないよ」
そう言いつつ、武芸者からしても相当の速度で決済が進んで行くのを眺めつつも、ニーナは少し不安になっていた。
一月前から比べて、指揮官としては成長できたと思うのだが、それが本物かどうか自信がない。
基本的な性格として、ニーナは前へと出てしまう。
後方から全体を見て指示を出し、そして結果について責任を取るという責任者として、果たして役割をきちんとこなせるのだろうかと。
目の前のカリアンを見ていると、とても自信が無くなってくる。
特に、書類仕事をきちんとこなせるのか自信が無くなってくる光景だったが、それも唐突に終わりを迎えたようで、カリアンの視線がニーナをしっかりと捉える。
「さて。待たせてしまった上に唐突な依頼で申し訳ないのだがね」
断れないことがはっきりと分かった。
カリアンが下手に出て、しかも、命令ではなく依頼という形を取っているこの現状で断っては、ニーナの良心は致命的な打撃を受けてしまう。
小隊結成時に散々迷惑をかけた上に、つい最近まで隊長として色々と問題を抱えていたニーナを、見守り続けてくれたカリアンの頼みを断るなど、とても出来ないのだ。
だが、そんなニーナでさえも、カリアンからの依頼について平静でいることは出来なかった。
「ナルキを監視しろと?」
「そうだ。観察と言い換えても良いが、きちんと報告はしてもらう」
そう。行方不明だったナルキを監視して、その行動や言動を出来うる限り細かく報告しろと、そう言われたのだ。
残念なことに、これを平然と了承できるほどニーナは鈍くできていない。
だが、カリアンの視線も表情も真剣そのものであり、冗談を言っている訳でもなければ、軽い悪戯という訳でもなさそうだ。
そして、カリアンが言葉の続きを放つ。
「ナルキ君も了承してくれているよ。自分自身でも何が起こったのか分からないのならば、何らかの変化が起こっていても不思議ではないし、変わっていなかったとしても、誰かにそれを証言してもらいたいとね」
「す、少し待って頂きたい」
監視しろと言うカリアンの意図も分からないが、それを了承するナルキにも疑問を覚える。
だが、その感情を素直に表現してしまっては、以前の自分に戻ってしまいそうなのも事実なので、強引に話の腰を折ってゆっくりと瞳を閉じてから、カリアンとナルキの行動について考える。
一呼吸目では何も思いつけなかった。
だが、三呼吸目になった頃になって、少しだけ分かってきた。
放浪バスも使わずにツェルニから居なくなったナルキは、間違いなく今の人類の知らない方法で移動したはずだ。
そして、何らかの異常な体験をした。
その異常な体験というのがどんな物かは分からないが、ナルキは自分がきちんと自分であるか疑問を持ってしまっているのだろう。
カリアンの方も、そんな異常な事態に巻き込まれたナルキが危険でないか、その確証が欲しいのだろう事も分かってきた。
本来、無罪の証明というのは難しいが、行動を観察して分析することでかなり確実な状況証拠とすることが出来る。
つまりカリアンもナルキも、ニーナに安全であるという証拠を提出して欲しいのだと、そう結論付けることが出来た。
もちろん、安易な評価をすることは許されない。
安易な評価や手抜きの報告宇することが許されないからこそ、ある意味生真面目で融通の効かないニーナが選ばれたのだと、その結論に達した。
ニーナ自身、自分が融通の利かない人間であることは重々承知しているので、この人選は妥当な物だとそう判断することも出来る。
「・・・・・。色々と不満を覚える途中経過でしたが、引き受けます」
「ほう? 少し変わったね」
少し表情を柔らかくしたカリアンの視線が、ニーナを捉える。
ギリギリだったとは言え、今回は今までのニーナとは少し違う行動を取ることが出来たのだと、少しだけ安堵しても良いかも知れないと、そう考えることとした。
今までだったら、仲間を疑うようなことは出来ないと突っぱねてしまっただろうから、かなりの変化だと思う。
カリアンもそう評価しているからこそ、表情が柔らかくなったのだろう。
まあ、ナルキの同意がなかったとしたら、了承していたかどうかはかなり怪しいところではあるのだが、それでも引き受けることにした。
「先に言っておくとだね。ゲルニ君に何が起こったのか彼女から聞いたが、今それを話すことはしない。先入観になってしまうと後が大変だからね」
「理解できます」
全ては、ナルキが安全であることを確信するための行動である。
ならば、失踪中のことを知らない方が変な先入観を持たずに観察し、報告することが出来るという判断は間違っていないと思う。
そしてここまで来てふと気になったことがある。
レイフォンだ。
レイフォンの性格を考えると、観察することを伝えてはいないだろう。
「レイフォン君には内緒だよ。明らかに挙動不審になってしまうからね」
「分かりました」
知らない人間だったら、平然と日常生活を送ることが出来るはずだが、相手が良く知る人間になった場合、どんな挙動不審をするか見当が付かないのがレイフォンだと認識している。
ニーナの認識は、カリアンのそれと一致したようだ。
気の進まない仕事を引き受けたが、それもこれも、ツェルニとナルキを守るためだと強引に自分を納得させたニーナは、生徒会長室から去ったのだった。
通常の放浪バスの三倍近くある我が家の屋上に出たミュンファだったが、その視線の先にいる人物を認識して、少しだけ肩が落ちてしまった。
サリンバン教導傭兵団を束ねるハイアの背中は、ミュンファでさえ声をかけることがためらわれるほどに、張り詰めているように見える。
昨日は全く何時も通りだった。
何時も通りにリュホウとなにやら言い争い、レイフォンに喧嘩を売りに行ったが、食事の支度をしているからと相手にされなかったと、夕食の時に愚痴を聞かされた。
団員の殆どがいる中での発言は、軽い笑いと少しの安心感をもって迎えられたと記憶している。
この状況になったのは今朝、ハイア宛に届いた手紙を開封してからのことだった。
一度読んだ後に、徹底的に粉砕されて焼却されてしまった手紙の内容は、誰も知ることが出来ないが、何か決定的にハイアを追い詰める内容だったのだろう事は理解できる。
そうでなければ、現状を説明することが出来ない。
そこまで考えた時、後ろに誰かが立ったのを感じた。
ミュンファの認識する限りにおいて、この手の行動を取るのはフェルマウスだったのだが、本人は既に傭兵団を去ったのだからとツェルニの宿泊施設に泊まり込んでいて、殆どここにやって来ることはない。
ならばと、念のために用心しつつ振り返り、そしてその人物を視界の中心へと捉えた。
「フォルテアリさん?」
「はい。新参者の念威繰者で、しかも発音が極めて難しい通り名を選んでしまった間抜けなフォルテアリです」
フェルマウスの遠縁だとか言う話を少し聞いた気がするが、そんな事はさほど問題ではない。
切るのを面倒がって伸び放題という欠点を抱えていて尚、ミュンファが羨むほどに、その薄い金髪はしなやかで艶やかだ。
とは言え、目を見張る特色というのはせいぜいがその金髪くらいな物で、顔を含めた全体像は極めて平凡である。
だが、その平凡な外見の内側には、経験の差を差し引いてもフェルマウスには及ばないだろうが、それでも念威繰者としてかなり優秀であると断言できる。
まあ、欠点というか癖の強いところを上げるとなると、念威を使わないととても回りくどく言葉の数が多いところだろうか?
ミュンファの確認の言葉に返ってきたのも、かなり色々と自己主張をしている言葉の連続攻撃だったし。
「そ、それで、どうしたんですか?」
フォルテアリの略歴を頭の中でなぞりながらも、何故彼がここにいるのかを問いただす。
問いただすと言っても、ミュンファがやったら全く迫力に欠けるので、単に聞いているのと区別が付かないのだそうだ。
団員の意見は全て一致しているので、相当確実な状況判断だと思うのだが、それは今どうでも良いことだ。
「はい。団長の所に来た手紙が気になりまして。封筒からグレンダンの匂いがしたと思ったのですが、それを確認する前に粉砕されて化錬剄で綺麗に燃やされてしまいまして、もしかしたら、俺宛の恋文かも知れないなどとは思っている訳ではないのですが、それでもその内容には著しい興味を引かれている訳なのですが、団長があの様子では今暫く様子を見る以外に方法はないようですね」
「そ、そうですね」
念威を使わない時だけ、その言葉が異常なほど多くなる変わった念威繰者に指摘されるまでもなく、ミュンファから声をかけることがはばかられるまで追い詰められたハイアのことも、手紙のことも、もの凄く気になる。
だからミュンファは、ハイアから少し離れた場所でその背中を見詰め続ける。
何かが変わる訳ではないのだが、それでも見詰め続ける。
後ろの方でなにやら騒いでいた二人が静かになったのを確認しつつ、ハイアは今朝届いた手紙について考えるふりをしつつ、実は何も考えられずにいた。
本来サリンバン教導傭兵団というのは、先代のグレンダン王が廃貴族を探して捕獲させるために結成された組織だ。
そのために、専用の放浪バスと熟練の武芸者を与えられ送り出された。
だが、それもリュホウが団長を務めるようになった辺りからかなり怪しくなってきてはいた。
そう。世界を放浪していること自体が目的になったかのように、方々の都市で色々なことを経験してきた。
その結果、ハイアが団長を務めツェルニにやって来た。
何の因果か、廃貴族などにさほど興味のないハイアが団長をやっている今になって、それは発見された。
そして、何故か廃貴族の発見された都市に元とは言え天剣授受者がいたり、それが同じサイハーデンの継承者だったりと、色々と因縁を感じる展開となった。
そう。問題は、廃貴族発見の報をグレンダンに送った手紙の返信にある。
そこには、今までの苦労を労いつつグレンダンに戻れば、十分な報酬を支払うことが記されていた。
そして、天剣授受者をツェルニに送るので廃貴族の捕獲をその人物に引き継げと。
それはつまり、サリンバン教導傭兵団の解散を意味する。
「・・・・・・・」
ここで、思考が停止してしまう。
この先に進めない。
「いや」
この先に進みたくないのだ。
だが、このままここで立ち止まっていることもハイアらしくないので、少し戻ってきた気力を振り絞り考えを進める。
グレンダンからの命令である以上、それに逆らうことはおそらく出来ない。
この世界の構造上、命令を無視して放浪を続けてもさほど問題無いだろうが、グレンダン出身者が半分近くを占める団員の間に、確実に動揺が広がる。
それは、組織が内部から崩壊するかも知れないと言う爆弾を抱えることに等しい。
そんな危険を団長であるハイアが、自ら引き込む訳には行かない。
手紙が来たことを秘密にしておくことも、ハイアの今の状況を不審に思われてしまうだろうから出来ない。
ならばどうしたら良いのだろうか?
結論は、最初から出ている。
「・・・。皮肉が効いているさぁ」
元天剣授受者は、グレンダンでしくじって家族を失う羽目になった。
そしてハイアは、任務の達成が困難になったと判断されて、そしてお払い箱になろうとしている。
生まれた都市などと言う物を殆ど覚えていない、この放浪バスこそが家で有り、家族であるハイアが、それを奪われようとしている。
よりにもよって、レイフォンと同じ目に合おうとしているのだ。
いや。それも正確ではない。
レイフォンは突然に失いそして再び手に入れたが、ハイアはこうして迷う時間を与えられ、そしてその先はまだ見えていない。
運が良いのか悪いのかは別問題だが、ハイアは家族と家が失われるまでに時間を与えられた。
自分の心を整理して、そして天剣授受者がツェルニに到着する時までに色々な物にケリを付けなければならない。
「・・・・・・・」
ケリを付ける。
そう。何よりもハイア個人がケリを付けるべきは何なのだろうかと考える。
この答えも、やはり既に出ている。
小さな呼気と共に、立ち上がる。
まず向かうべきは父であるリュホウの泊まっている宿泊施設だ。
ケリを付けなければならない。
そう。レイフォンと戦いどちらが強いかを、誰の目にも分かるように、何よりもハイア自身が納得できる形で勝者と敗者を定めなければならない。
前回のように茶髪猫に弄ばれて、実力を発揮する暇が無いような戦いをすることは出来ないのだ。
正々堂々と正面から戦い、そして勝つ。
負けたとしても、ハイア自身が自分に言い訳が出来ないようにしなければならない。
そのために、リュホウの手を煩わせることになるが、ハイアはどうしてもここを通らなければ前に進むことが出来ないのだ。
宿泊施設でリュホウを捕まえて、少しの時間話した後一緒にレイフォンの元を訪れた。
だが、残念なことに、戦うべき相手は授業中だった。
学生などと言う職業に就いたことのないハイアは、すっかり授業という物があることを失念していた自分に怒りを覚えつつ、校舎の外で終わるのを待つこととした。
なぜかイージェは教室の後ろの方でにやけているが、あまり関わらないことに決めて、リュホウと並んで壁により掛かりつつ、授業が終わるのを待つ。
「それで、どうするつもりなのだ?」
「さぁ? 天剣授受者が来たらオレッチ達はお役ご免さぁ」
唐突にリュホウが質問を放ったのは、小さな欠伸が出る頃合いになってからだった。
そして、その疑問の真意をきちんと分かっていながら、ハイアはあえて違う答えを返した。
実際問題として、傭兵団が解散となった後どうするか、ハイア自身全く何も考えていないからだ。
いや。レイフォンとの勝負が終わるまでは考える気になれないと言った方が的確かも知れない。
当然、その辺まできちんと認識したリュホウの視線は、しっかりとハイアを捉えている。
「傭兵団などどうでも良い」
「んな!!」
だが、その口から出てきた言葉を受け流すことは出来なかった。
リュホウ本人にとっても、思い入れのあるはずのサリンバン教導傭兵団のことをどうでも良いと切り捨てたのだ。
思わず硬直した心と体でリュホウを見返す。
そう。心と身体が硬直してしまっているから、どんな感情も考えも浮かんでくることはなく、ただじっとリュホウを見詰める。
「お前とミュンファの行く末に比べたら、傭兵団などどうとでもなる程度の問題だ」
「お、おやじ」
続いた言葉がリュホウの気持ちを伝えてくれなければ、ハイアはきっと動き出すことが出来なかった。
それ程までに衝撃的な内容だったのだ。
「私やイージェのように、死ぬまで彷徨い続けるか? 他の者達には故郷があるが、お前とミュンファにとっては傭兵団こそが故郷。それを失う辛さは分かるつもりだ」
「っは! 別段どうって事無いさぁ。ミュンファは知らないけど、オレッチにとっては吹けば飛ぶ程度の話さぁ」
たとえ、リュホウ相手だろうと弱気なところを見せることは出来ないと、出来る限りの強がりを張ってみる。
実際にそうでないことはハイア自身もリュホウも分かっているが、それを表に出すことは何故かはばかられた。
「そうか」
微かな笑いが混じった声を聞く限りにおいて、完璧に隠し通せたという訳ではないことがはっきりとした。
生きてきた時間の長さを考えれば至極当然の結果であるが、それはそれでなんだか非常に悔しい。
と、ここでいきなりサイレンが鳴り響いた。
「んな!!」
再び驚きの声を上げつつ周りを確認する。
汚染獣の襲撃警報ではない。
ならば、サイレンの意味は一つ。
「都市間戦争さぁ」
これで、決闘は先延ばしになることがはっきりとした。
ハイアの気持ちはどうあれ、すぐ近くで戦争をやっている状況では、落ち着いて戦えない。
横槍が入ったりしたら、気持ちの整理も着かないかも知れない以上、今日この後戦うと言うことは出来なくなった。
そう思った。
「この時間に訓練をすると公表されている。おそらくそれだろう」
「さぁ?」
真剣なリュホウの視線と言葉がハイアに届かなければ、変な落ち込み方をしてしまったに違いない。
そもそも、訓練があるなどと言う話は聞いていないのだ。
だが、そんな話は聞いていないと言おうとして、今朝からずっとふさぎ込んでいたために、誰とも話さなかったことを思いだした。
笑いを含んだリュホウの視線がハイアを捉えて放さない。
とても居心地が悪いが、これが訓練だったのならば極めて重要なチャンスではある。
その証拠に、教室の窓から飛び出して何処かへ向かう武芸者を視界に捉えることが出来た。
当然、その中にはレイフォンとナルキも確認出来る。
このいたたまれない空気をぶち壊すためにも、やるべき事はただ一つ。
「ちょっくらレイフォンに宣戦布告してくるさぁ」
「うむ。派手に迷惑をかけて戦っても後味が良くないからな」
リュホウも話題の転換には乗ってくれたようで、ハイアと共にレイフォンを追跡することに同意してくれた。
後はもう、突き進むだけだ。
宣戦布告するついでではあるのだが、いたたまれない空気を吹き飛ばすために、少しだけ馬鹿な事をしようと思い、そのための準備も整える。
おまけ!!
ここからの話は来週の冒頭シーンとは全く関係ありません。ストレスの貯まった俺の暴走ですので、その辺ご了承下さい。
武芸大会に備えた訓練のために教室を飛び出したレイフォンは、あまりにも異常な物を見てしまったために空中での姿勢制御を謝り、危うく地面に激突するところだった。
それはあまりにも異常であり、そして良く見知った物だった。
「何をやっているんだ?」
声が尖ることを押さえられない。
斬り殺すつもりで放った視線はしかし、のほほんとした表情に迎撃されて効果を発揮しなかった。
そう。同じサイハーデンの継承者であり、因縁が色々とある傭兵団の団長へ向かった視線が、のほほんとした表情に迎撃されてしまったのだ。
ハイアがこんな顔をするとは全く思っても見なかった。
だが、それを見たために姿勢制御にしくじった訳ではない。
そう。立っているハイアの僅かに手前にいる存在が問題なのだ。
そう。のほほんと笑う団長の前に座らされて涙目になっているのは、同じ傭兵団に所属している金髪眼鏡で巨乳な幼馴染みの少女だ。
だが、何時もと決定的に違っているところがある。
そのために涙目になって、レイフォンに助けを求めているのだ。
本来助けを求めるべき人間が、後ろにいるというのに、前に向かって助けの視線を飛ばしているのだ。
それは何故かと問われたのならば、ミュンファが、亀甲縛りにされていたからに他ならない。
「・・・・・・」
思わず生唾を飲み込む。
い、いや。メイシェンに匹敵してしまうある部分が、縛られているためだろうが、何時も以上に強調されてしまっているために、とても平静を保つことが出来ないのだ。
これはつまり、男という生物の持つ最も根源的な部分が刺激されてしまっているからであって断じて浮気とかそんなものでは無いと断言できるかも知れない。
うん。間違いなく浮気などと言うものでは無い。
「なあレイとん」
「な、なになるき?」
そんな時に、弟子と呼べる少女の声が後ろからかかったために、おもわず身体が浮き上がるほど驚いてしまった。
全く接近に気が付かなかった。
これは、ナルキの技量が上がったという訳でないことは、きちんと理解している。
ミュンファのある部分に集中力が持って行かれたために、隙だらけになっていただけなのである。
それはそれとして、名残惜しい光景から視線をずらせてナルキを捉える。
レイフォンの方を見ていなかった。
ミュンファとハイアを見ているという訳でもない。
その視線は、二人の少し後ろ、木陰にいる人物に向けられていた。
こちらも良く知っている人物だ。
デルクの兄弟子であるはずのその老人は、全サリンバン教導傭兵団団長のはずだ。
だが、その身体に威厳は既に無く、巨木の幹に向かってお茶を飲みつつ遠い目をしているだけだった。
決してこちらを見ようとしないその姿に、何故か涙がこぼれてきてしまった。
「ヴォルフシュテイン」
「な、なんだ?」
あまりのリュホウの悲しい姿に心奪われ、もっと困った二人がいることに全く気が付かなかった。
いや。出来れば忘れたかったのだ。
「オレッチと決闘をしてもらうさぁ」
「な、なに?」
「今ここで返事をもらうさぁ」
「い、いや」
「さぁ? 断るって言うんだったら、こっちにも考えがあるのさぁ」
「ま、まて」
気が付いた。
ハイアも平常心を保っていないと言う事に。
レイフォンもナルキも、そして周りに集まりつつある観客も、全員が何処か平常心を忘れてきたように、状況に流される。
「断ったら、ミュンファの背中にミミズを入れちまうのさぁ」
「ひぃあぅ」
宣言されたミュンファが、逃げようと足掻く物の、それは尽く失敗に終わる。
亀甲縛りにされているだけではなく、首輪に繋がる鎖をハイアに握られていると気が付いたのは、この瞬間だった。
ミュンファに逃げ場はない。
そして、レイフォンにも逃げ場はない。
ある意味、ハイアにも逃げ場はない。
だが、ハイアだけはここで止まらなかった。
「更に」
「ま、まだ何かやるのか!!」
「サイハーデンは駄目人間の大量製造流派だって、世界中に宣伝して回るさぁ」
「・・・。おいハイア」
「ついでに、性犯罪者の痩躯だってデマも流すさぁ」
のほほんとしたハイアの表情はそのままに、そんな恐るべき脅迫をしてくる。
だが、レイフォンを動揺させたのは脅迫そのものではない。
「泣くくらいならそんな脅迫するなよ」
そう。のほほんとした表情そのままに、その瞳からは滂沱と涙が流れて、その内面でどんな心の動きがあるかを教えてくれている。
それは、木陰でお茶を飲んでいるリュホウにも言えることである。
「泣いてなんかいないさぁ。熱いんで目から汗が流れているだけさぁ」
「それを人は涙と言うんだよ」
「オレッチは言わないのさぁ」
どうあっても平然とレイフォンを脅迫していると言う事にしたいらしい。
別段、それに合わせること自体は問題無い。
問題無いと思う。
問題無いと言うことにしておきたい。
そう。既にここまで話が進んでしまった以上、レイフォンには決闘を受けるという選択肢以外存在していないのだから。
拒否したが最後、あらぬ噂が世界中に流れて、いたいけな少女の背中にミミズが放り込まれてしまうのだから。
こうしてレイフォンは、ハイアとの決闘を了承したのだった。