ロイの持っていたカードを使うことで、比較的容易に機関部への侵入を果たしたナルキは、マイアスの道案内を得て目的地へと向かっていた。
道案内と言っても、マイアスの見ている方向へと進んでいるだけなので、あまり効率は良くなかったが、それでもパイプが入り組んだ機関部を手探りで歩くことに比べれば、遙かに容易な道のりだったと言えるだろう。
これがもしツェルニの機関部で、歩いているのがレイフォンだったならば、殆ど単独で中心部へと到達できただろうが、残念ながら、それを望むことは出来ないのだ。
だがしかし、大雑把とは言え道案内があるのと無いのでは、雲泥の差がある。
複雑にパイプが入り組み、方向感覚が全く無くなってしまった現状に不安を抱きつつも、それが見えてきた。
なにやら正体不明のプレートで囲まれた、機械の塊に見える物。
それが、この都市の、本当の意味での中心部であることは間違いない。
ナルキの中の何かも、それが中心部であると断定しているし、何よりも。
「待ち伏せのつもりか?」
そう声をかける。
独り言ではない。
確かにいる存在へと、その言葉を放った。
そして、気配が動く。
「よくぞ見破ったと言っておこうか」
物陰から現れたのは、先ほど全滅させたはずのお面を被った武芸者だった。
いや。倒した連中よりも、存在感があるような気がする。
もしかしたら、ナルキが倒したのは、レイフォンの千斬閃に似た、実体を持った幻覚だったのかも知れない。
そう考えれば、致命的な打撃を与えた瞬間に、消えて無くなった理由も納得が行く。
「未熟なる者よ。その力ここで失うには少々惜しい。我らのために使わぬか?」
「断る!」
ナルキの中の何かが叫ぶ。
それは、目の前に現れたお面武芸者を、例えマイアスが滅ぶことになろうとも倒せと絶叫している。
だが、その絶叫がなかったとしても、ナルキは断った。
今、ナルキがマイアスを手放すと言う事は、都市に住む大勢の人間が死を迎えると言う事だ。
それを認めることは出来ない。
都市か人かと問われたのならば、人を取ると応えるナルキだが、今は都市を守ることが人を守ることにつながるのだ。
ここで引く訳には行かない。
「よく考えるのだ。鍛錬の苦痛、汚染獣の恐怖から逃れたいとは思わぬか? 多くの武芸者が我らと共にイグナシスの夢想を共有すれば、オーロラフィールドは開かれ安寧の世界を切り開くことも出来るのだぞ?」
鍛錬の苦痛と言われて、一瞬だけクラッと来た。
レイフォンのしごきから逃げられるのだったら、それも良いかもしれないと、ほんの一瞬考えてしまったが、すぐにその思考を切り捨てる。
ナルキだけが逃げてしまっては駄目なのだ。
全ての人達が逃げられなければ、それはきっと駄目なのだ。
その決意と共に、鋼鉄錬金鋼を握り治す。
行動で敵対を表現する。
「ふふ。未熟な上に理も弁えぬとわな。良かろう。貴様に宿った力我らが頂く」
そう言うと、武器破壊を主眼に置いているらしい錬金鋼をナルキへと向ける。
はっきり言って、ツェルニに居た頃のナルキだったら一対一でもかなり危なかった。
一対多数となれば、瞬殺されても何ら不思議はなかった。
だが、今はナルキの中にいる何かが力を貸してくれる。
いや。むしろ闘争へと迸ろうとしている。
それを何とか押さえつつ、慎重に間合いを計る。
ここは機関部。
マイアスの中心部であり、損傷してしまったが最後、今の人類に修復する統べはないのだ。
今のナルキならば、楽勝できる相手であったとしても、周りに被害を出さないようにとなると話は飛躍的に難しくなる。
マイアスを守らなければならない。
そして、そのためには、どうしても目の前のお面武芸者を始末しなければならない。
レイフォンだったのならば、鼻歌交じりにやってのけただろう。
どんな強力な技を放とうと、機関部には傷一つ着けることなく、戦ったという認識を得ることがないほどあっさりと勝利を収めてしまっただろう。
だが、ナルキは違う。
この閉鎖空間内では、水鏡渡りを含めた高速移動は使えない。
化錬剄などもってのほか。
剄量は上がっているようだが、それを上手く使いこなす技量が決定的に足らない。
その状況の中で、最善を尽くし、そして結果を得なければならない。
おそらく目の前のお面武芸者は、そこまで考えてここで待ち伏せをしていたのだろう。
それを認識していて尚、ナルキの選択は変わらない。
じりじりと、爪先で距離を詰めつつ、最善の手は何だろうかと考える。
斬撃系の技は、キリクに言われるまでもなく大したことはない。
打棒の時の癖が抜けきらずに、刀を叩きつけてしまうために、本来の切れ味を発揮できないのだ。
だが、一つだけ使えそうな技があることに気が付いていた。
ぶっつけ本番という訳ではない。
レイフォン相手に、散々練習してきた技ではあるが、相手が悪かったのか、それともナルキの限界だったのか、一度としてヒットしたことがなかった。
だが、今はそれにかけるしかない。
じりじり爪先で詰めていた距離が、ナルキの間合いの僅か外側へと縮まる。
次の一瞬に全てが決する。
練り上げた剄を、一気に爆発させ、脚力を強化して一歩を踏み出す。
加速のためではない。
上方への移動でもない。
振り上げた刀の威力を増すために、剄を込めた足で大きく踏み込む。
機関部を振動させた踏み込みからの一撃は、しかし、劇的な効果を得ることは出来なかった。
「ぬるい!!」
何の捻りもない一撃だったために、お面武芸者は余裕を持ってナルキの攻撃を受け止めることが出来た。
元々、刀というのはその切れ味を増すために薄く作られている。
武器破壊を主体とした錬金鋼相手には、最悪の組み合わせだと言える。
当然の結果として、接触した鋼鉄錬金鋼から悲鳴のような金属音が聞こえてきたが、それにかまっている余裕はナルキにはない。
用意していた技を発動させるために、最大限の集中力を動員する。
サイハーデン刀争術 鎌首。
爆発させた剄を一気に鋼鉄錬金鋼へと流し込む。
そして、ものおち部分から閃断を放つ。
「な、なに!!」
サイハーデン刀争術とは、弱者が強者と戦い生き残るために編み出された流派だ。
そこには当然、不意打ちや騙し討ちのような技が含まれている。
その典型例が、今ナルキが使った鎌首だ。
普通に受けてしまったのでは、刀が止まった状態からの第二撃目が致命的な攻撃となって襲いかかってくる。
そして、目の前のお面武芸者は、ナルキが放った鎌首をどうにか出来る技量を持ち合わせていなかったようだ。
実戦で使ったことが無かったので非常に心配だったが、どうやら上手く使えたようだ。
だが、頭部に致命傷を撃ち込むことが出来たが、ほっとするよりも早く、驚くべき事はここからだった。
「あ、あれ?」
頭部に致命傷を受けたのならば、間違いなく死ぬはずだ。
だが、今まで存在感を放っていたお面武芸者は、他の分身と同じように始めからそこにいなかったかのように消えて無くなってしまったのだ。
結果を認識して、一瞬とは言え硬直してしまったナルキは、自分を叱咤して他の伏兵がいないかを警戒しつつ、マイアスが本来いるべき場所へと近付いて行く。
破壊されかけた刀は、罅が入り、これ以上の酷使には耐えられそうにないが、鋼糸だけで戦うことは出来ないので、何とかしのぐしかないと腹を決めたのだったが。
「サヴァリスさん」
「うん? どうしたんだいナルキ? もしかして次は僕を殺してみたくなったのかい?」
ふと気が付くと、息がかかるほどの近距離にサヴァリスがいたりして、一瞬冷や汗が流れてしまった。
そもそも、気が付いたのも単なる偶然でしかない。
構えた刀に、ちらっとだけ銀髪が映ったから見つけられただけで、そうでなければ確実に気が付かなかっただろうと断言できる。
いや。ちらっと見えたのでさえサヴァリスが狙ってやったのに違いない。
「今のは、おそらくイグナシスの下っ端戦闘員だね。雑魚には違いないけれど、殺しきれないところが少し面倒かな? それよりもさっき使った技はサイハーデンだよね? 僕にも使ってみてくれないかな?」
「使いませんから。それと、見ているだけじゃなくて手助けしてくれても良いでしょうに」
サヴァリスが助太刀してくれていたら、ナルキはあんなハラハラする展開を経験しなくて済んだのにと、そんな不満があるのだ。
不満はあるのだが、サヴァリスがどうして助太刀しなかったのかも、おおよそ理解しているつもりだ。
きっと、ナルキの実力を見極めるとか、殺し合いの経験を積ませるとか、そんな戦闘狂的な理由に違いない。
「ナルキが戦っているところを、特等席から観戦できる機会なんて、そうそう無いからね。ゆっくりと堪能させてもらったよ」
「そ、そうですか」
てっきり、ナルキが誰かと殺し合う経験をするのを邪魔したくなかったとか、そんな話だと思っていたのだが、かなり違う内容となっていた。
心なしか、サヴァリスの吐息が熱いような気がするが、きっと気のせいだと結論付けて、正体不明のプレート群へと進む。
あそこにマイアスを返しさえすれば、それでこの都市は再び動き出すことが出来るのだと信じて。
ナルキと戦いたいがために、サヴァリスが邪魔するなどと言う絶望的な事態にならないことを祈りつつ。
プレートの山の前まで来たナルキは、サヴァリスに注意を払いつつも、そっとマイアスをそのプレートへと向かって差し出す。
マイアスは、それを認識したのか、ゆっくりと羽ばたき、ナルキの手を蹴って本来いるべき場所へと帰っていった。
「はあ」
これで一息付ける。
そして、もしかしたら、ツェルニに帰れるかも知れない。
そう思ったのだが、心残りもあるのだ。
「そう言えば、汚染獣はどうなりましたか? 騒ぎが大きくなっていないから殲滅できたんだと思いますけれど」
「うん? 僕が手を貸してあげたからね。ナルキが機関部に入る前にケリは付いていたよ」
「そ、そうですか」
そう言えばと思い返せば、機関部に入り込んだ辺りから、胸の中の何かが少し大人しくなったような気はしていた。
それが汚染獣の殲滅と関係があったのだと気が付いたが、実は事態はそれどころではないのだ。
気が付けば、自分の身体が薄くなり出しているのだ。
それと同時に、今まで沈黙を保っていたマイアスの機関部が、轟音を立てて稼働し始めたのだ。
マイアスは無事に元の場所に戻り、そして、都市の移動が再開されたのだ。
心なしか、遠くから歓声が聞こえるような気はするが、ナルキの中の安心感は別な理由からの物だ。
これで帰ることが出来る。
そのナルキに向かって、サヴァリスの熱い視線が突き刺さる。
「ああ。行ってしまうのだね、僕を捨てて」
「その言い方は止めて下さい!!」
「レイフォンに頼んでおいてくれないかな?」
「何をですか!!」
「ナルキをもっと強くしてくれと。僕と全力の殺し合いが出来るくらいに」
「無理です!!」
天剣授受者などと言う非常識な生き物と、同じ土俵に立つことなどナルキには出来ない相談だ。
剄量も技量も、ナルキでは全然足らないのだから。
「ならば仕方が無いね。・・・。そうだ。じゃあ、ツェルニに行ったらレイフォンと殺し合ってこの僕の失恋の心を癒やすことにするよ」
「誰が失恋したんですか!!」
そう叫んだ次の瞬間、ナルキの意識はふと途切れたのだった。
何時もそこにある物がないと、人というのは非常に落ち着かない精神状態となるのだと、ミィフィは改めて認識していた。
メイシェンとレイフォンが一緒のベッドで寝ているから、住み慣れた自分の部屋へ帰れないことは気にならない。
ルックンの取材や編集作業で泊まり込むことが多かったし、そもそも、ツェルニ全体が異常な興奮状態の中にいるために、何処にいても緊張を解くなどと言う事は出来ないという事実は、確かに有る。
だが、現在体験しているような異常事態は、やはり今までの興奮状態とさえ明らかに違った緊張感をもたらせている。
そう。ツェルニの足が完全に止まっているのだ。
鉱山での補給作業という訳ではない。
見た事もない汚染獣に命じられたツェルニが、自主的にその足を止めてしまったのだ。
見えない糸が張られたような緊張感を持ったまま、ツェルニに住む人達は息を潜めて現状が好転するのを待ちわびている。
ツェルニの代表者として出発したカリアンと、その護衛として連れ出されたレイフォンが無事に帰ってきて、ツェルニに張り詰めている緊張の糸を緩めてくれるのを待っているのだ。
そう。汚染獣に呼び出されたカリアンがレイフォンを連れて出発したのは、既に半日ほど前になる。
戦うつもりはないらしいと、出発間際のレイフォンは言っていたが、その予測が正しいかどうかは誰にも分からないのだ。
もしかしたら、呼び出した汚染獣とは全く関係のない個体がやってきて、ツェルニの全生徒を捕食してしまうかも知れない。
接触を終えて帰ってきた二人を出迎えるのは、無残に食い散らかされたミィフィ達と言う事も十分に考えられるのだ。
「そ、それは、少々嫌かも知れない」
実際にはかなり嫌である。
まだ十五年しか生きていないのだし、やりたいことだって沢山あるのに、ここで死ぬなどと言うのは断固拒否すべき未来である。
だが、ミィフィ自身に戦う術がないことも事実である。
原黒陰険眼鏡の生徒会長に、どうにか頑張ってもらうしかないのが辛いところだ。
レイフォン共々無事にツェルニに帰って来て、そして、この異常事態から脱出したいところだ。
だが、兎に角もミィフィにはやるべき事がある。
今回も危険な場所へと出発してしまったレイフォンを心配している、幼馴染みを何とかしなければならないのだ。
汚染獣に向かってツェルニが突っ込んでいた間に、二人が一線を越えたらしいことは間違いない。
それはおおよそ見ていれば分かるという物だし、そうなるようにミィフィも色々と協力した。
リーリンも協力してくれた。
きっと、色々な感情が複雑に入り乱れて、本人にも制御できなくなりつつあるのだとは思うのだが、それでも、今回は協力してくれた。
だが、それも一時的なことに過ぎない。
今回の接触で、レイフォンが帰らなかった場合、メイシェンがどうなるかなどは考えたくないが、それでも、万が一の事態に備えなければならないのだ。
そのために、ミィフィは暫くぶりになる我が家へと足を進める。
近付くにつれて、段々足が重くなってしまったが、それでも、何とか前へと進む。
都市外戦闘に備えるために、ツェルニの最下層へとやって来たゴルネオは、肩に掛かる重さを再認識して平静を保とうと努力し続けていた。
まだ、丸一日しかたっていないために、鮮明な記憶として残っているあの事件、突如としてツェルニの上空へと現れた汚染獣は、とてもでは無いがゴルネオの手におえるような相手ではなかった。
あんな異常な汚染獣がいるということ自体が驚きだが、それでも迎撃の準備だけはしておかなければならない。
喋る汚染獣との交渉が成功しても、他の汚染獣がやってこないという保証はないのだし、抵抗せずにむざむざと食われるというのも納得の行かない展開である。
出来れば、きちんと抵抗して、そして全員が生きて、このおかしな事態から脱出したいと思っているが、それが果たせるかどうかは非常に疑問である。
それ以前の問題として、ツェルニは内部に爆弾を抱えているような物だ。
多くの生徒が不安を抱え、事態がどう転ぶかを息を潜めて見詰め続けているのだ。
昨日一日は、誰も彼もが次に何が起こるか分からずに、緊張の糸を張り詰め続けるだけで何も起こらなかった。
だが、もし、どこかで、誰かが、何かをしてしまったら、それを切っ掛けに暴動が発生してもおかしくない。
あんな汚染獣が突如現れた瞬間に、制御不能の暴動が起こって内部から崩壊しなかったことの方が、遙かに不思議だ。
もちろん、そんな事にならないように、都市警や小隊員があちこちで働いているのだが、何時までも現状を維持し続けると言う事はおそらく出来ない。
押さえてるはずの都市警や武芸者だって、何時かは限界が来るのだ。
耳が痛いほどの静寂と、胃を引きちぎられるような緊張に支配されたツェルニは、内外の敵から責め立てられて何とか存続しているような物なのだ。
そして、ゴルネオ達が対応できるのは、外からの脅威だけ。
それも、あまり強力な個体が来た場合や、幼生体の集団が来たら、撃退などままならないという寒い現実が存在している。
「ゴル?」
「何だ、シャンテ?」
そんなゴルネオの心境を知ってか知らずか、いや。おそらく知っていて声をかけてきたシャンテを見上げる。
何時も通りに脳天気な表情をしているのかと思えば、なにやら心配気にゴルネオを見下ろしている。
そんな深刻な顔をしていたのかと、自分に問いかけてみれば、していたと答えることが出来てしまう。
指揮官としては失格だと自嘲の笑いを押し殺しつつ、話の先を促す。
「ゴルは大丈夫だ」
「そうか?」
「おう。何しろ! 私のお守りを持っているんだからな!!」
「っぶ!!」
思わずのけぞってしまった。
器用にバランスを取って、転落を免れるシャンテ。
老性体戦直後に、シャンテから渡されたお守りは、確かに今もゴルネオの都市外戦装備の内側に仕舞い込まれている。
結局のところ、その正体が何だったのかは怖くて確認していないが、なにやらとても危険極まりない物であることだけは確信できている。
確信できているのだが、それでも、お守りという物はきちんと持ち歩くべきだとそう思っているのだ。
だからこそ、今の瞬間でさえ持ち歩いているのだが、まさか、話題として出てくるとは全く思っていなかった。
「シャンテ?」
「おう? 私のお守りを持っていれば、ゴルは無敵不敗最強だぞ!!」
どちらかと言うと、シャンテの方が無敵不敗最強のような気がするのだが、今は黙って感謝しておくこととした。
深刻な感情も、過度の緊張も、先行きの不安も、この瞬間だけはあまり感じずに済んでいるから。
「そうだな。どんな敵が来ても俺は負けない」
「おう! ゴルは強いんだぞ!!」
ゴルネオは、自分の肩の上で拳を突き上げて気炎を上げる赤毛な生き物をちらりと見上げ、改めて決意を固めた。
どんな敵が来ようと、全力で戦い、そして勝利を手にすると。
そう決意すると、ずいぶんと身体と心が軽くなったような気がした。
単純な物だと思う反面、これでよいのだとそうも思う。
さてと、戦略・戦術研究室に籠もったままだったウォリアスは、座り続けていたために痛みが酷い身体を押して、扉を開けて外へと向かった。
カリアンとレイフォンが出発してから、ほぼ二日の時間が流れた。
その間、特にこれと言った変化は起こっていない。
町全体に、目に見えない緊張の糸が張り巡らされ、誰かがその糸を切ってしまうのではないかという恐怖はあるが、実行に移した人間はまだ現れていない。
これはおそらく、立て続けに異常事態が起こったために、場数を踏んだ生徒全員がある意味馴れてしまっているためだろうと思う。
暴走初期にあんなのが現れたら、即座に暴動が広がり、収集の出来ない混乱の中、ツェルニは滅んでいたに違いない。
そのツェルニの暴走からこちら、異常な事態というのには十分な耐性が出来ているとは言え、ここまでの規模は流石に限界を超えかけている。
何しろ、瞬間移動できる上に、人の言葉を操ることが出来る汚染獣がいたのだ。
想像を絶する体験をした今回、ツェルニの他の生徒にとってはとてつもないストレスだろうが、ウォリアスにとっては悪くはない刺激に分類されている。
未知の体験が出来ているからだ。
残念なことは、体験したことを他の都市へと伝えられないかも知れないと言うところだろうか。
出来れば、喋ることが出来る汚染獣が存在していると言う事を、レノスに伝えたいのだが、その方法が残念ながら存在していない。
一応、サリンヴァンの放浪バスに今回の事態についての詳しい報告書を乗せてもらっているが、無事にこの区域を脱出できる保証はない。
それはサリンバンも分かっているようで、何時もよりも真剣な表情で情報記憶素子を受け取ったハイアは、料金はレノスに着いてからもらうと言っていた。
「さてさて。一体何が起こっているのやら」
この世界がおかしいことは、ずいぶん前から分かっていた。
そう。伝承が正しいのならば、辻褄が合わないことがいくつもあるのだ。
今ある情報を繋ぎ合わせて、この世界の成り立ちを解き明かすことが出来るかも知れないとは思わない。
失われてしまった情報があまりにも多いから。
だが、それでも、知りたいという欲求を抑えることは出来ないし、情報を集めたいという気持ちを抑えることも出来ない。
それでも、今の状況が既にウォリアスがどうこうできる物でないことは分かりきっている。
ダルシェナに引きずられていったディンは、喋る汚染獣が消えた直後に戻ってきた。
そして、二人してあの汚染獣と戦い、なんとかして生き残る事が出来ないかと話し合った。
結果は最初から出ていた。
レイフォンが勝てないと断言した瞬間に、ツェルニに残された手段など無いのだ。
だが、一つ分かったことがある。
何故、グレンダンは天剣授受者などと言う人外の化け物を集めているのか?
その理由が分かったのだ。
あれ、あるいは類似した、現実離れした汚染獣と戦い、そして勝つために異常な強さを持った武芸者を集めているのだ。
そうであるならば、汚染獣に向かって突撃を続けるグレンダンの行動も説明が付く。
本来、都市の行動に人間が関わることは出来ないが、それを可能にする方法がグレンダンには有るのだろうと、そう仮定すればと言う前提条件は付くが。
「いや。逆かも知れない」
都市が強い武芸者を求めたからこそ、今のグレンダンは存在するのだと、そう言い換えることも出来る。
グレンダンに引き寄せられるように、天剣授受者が集まってきた。
だとするのならば、武芸者を含めた人類は、現実離れした汚染獣と戦うために都市によって生かされていると言う事も出来るかも知れない。
まだ結論はおろか、仮説さえ立てられない状況だが、それこそが望ましい。
「うん。これはこれで知的好奇心をそそられるね」
新たな検討課題を見いだしたウォリアスは、強い日の光を避けるように日陰を選んで歩きつつ、外縁部を目指す。
戦うつもりはない。
いや。幼生体の一体くらいだったら何とか差し違えることは出来るが、それ以上はもうお手上げだ。
ツェルニの終演を告げる、破壊者達が最も良く見えるのが外縁部だ。
だからこそ、外縁部で自分とツェルニの終わりを待とうというのだ。
無駄に終わるかも知れないが、それはそれで結構な話だ。
だが、無駄な思考で遊びつつやっとの思いで辿り着いた外縁部には、先客がいた。
外縁部にシートを引き、その上に小さなコンロと薬缶を含めた、お茶のセットを揃えている少女達の集団である。
いや。集団というのは少々語弊がある。
そこにいるのは僅かに四人でしかない。
銀髪を念威の光で耀かせた小柄な少女が、嫌そうにこちらに視線を飛ばしてきた。
いや。もはやガンを飛ばしていると言える勢いだ。
「どうしたことですか? 貴方が日の光の下に出てくるなんて珍しい」
「気まぐれですよ。取り敢えずあの二人が帰ってくるまで、することが無くなったので」
そう言いつつ、シートの横に立ち、活剄を使ってレイフォン達が向かったらしい方向を見るが、当然のこと何か変わった物が見える訳ではない。
視線を横にずらして、汚染獣などの危険が迫っていないかも念のために注意をする。
フェリがいる以上、問題無いと思うのだが、念のためである。
「それで、何やっているんですか、四人で?」
フェリに向かって訪ねる形になったが、答えてくれるのは誰だってかまわない。
外縁部へ座り込み、お茶会をしているのは四人だ。
フェリとリーリン、メイシェンとミィフィだ。
まあ、聞いたがおおよそのところは予測している。
おそらくレイフォンの事が心配で、危険であることが分かっていても、来てしまったメイシェンとリーリン、それに付き添う感じのミィフィ。
その行動に触発されて、何となくここにやってきたフェリと言ったところだろう。
ウォリアスのように、破滅を最も見晴らしの良いところで待つなどと言うおかしな思考を持っている人間は、そうそういる訳ではないのだ。
「まあ、物見遊山かな?」
「そんなところだと思ったよ」
代表して答えたミィフィの声は、心なしか震えていた。
それは、この場所の気温が少し低いからかも知れないし、もしかしたら、何時汚染獣の大群が視界に飛び込んでくるか分からない恐怖からだったかも知れない。
それを深く追求することなく、ウォリアスは外縁部から外の世界へと、視線を投げ続ける。
だが後悔もしていた。
帽子か日傘を持ってくるのだったと。
殆ど真上から降り注ぐ日差しが、予想以上に体力と気力を削っているのだ。
ここに長い間とどまることは出来ない。
「帰ってくるまで、ここで待っているなんて話は無しだよ?」
「うん? もうすぐ帰ってくるかも知れないじゃないかね?」
ここに留まることが出来る、残り時間を考えながらも話を続ける。
心配なのは分かるのだが、ここで待ち続けることはおそらく出来ない。
「往復に、最低限四日はかかる」
「へ? どうしてそう言いきれるの?」
「フェリ先輩の念威に引っかからなかった。そこから逆算すれば、往復二日以内の場所にあれはいないはずだよ」
とは言え、あれに常識が通用するかどうかはかなり疑問だ。
いや。通用しないと思っておいた方が良いだろう。
その前提で、何か打てる手はないかと考えた。
考えたのだが、先に進むことは出来なかった。
どの様に、常識が通用しないのかが分からないのだ。
これでは、何かを予測してそれに備えることは出来ない。
「まあ、気が済んだら帰っておいで。今日は久しぶりに休暇を取ることにしたから。夕食くらいなら作るよ」
予測して、その対策を立てることが仕事であるウォリアス達にとって、この事態はもはや手におえなくなっているのだ。
と言う事で、今日と明日は休みをもらっている。
急な汚染獣の襲撃があったとしても、今まで作ってきた作戦でおおよそ撃退できるはずだし、出来なければ、やはりウォリアスの手にはおえない。
この辺は割り切ってしまっているのだ。
「レイフォン、いつ帰ってくるかな?」
「明日辺りじゃないかな?」
ウォリアスの言葉が聞こえないのか、メイシェンとリーリンのそんな会話が聞こえる。
それをどうこうするつもりはない。
人間は、目の前の希望に縋らなければ生きて行けない時があるからだ。
むしろそれを予測して、もう少し希望的なことを言っても良かったのにと、少しだけ自分を非難した。
「そうだね。今回都市外作業指揮車は使っていないから、ランドローラーのバッテリー次第かな? 切れたら、会長さんを背負って走らなきゃならないから、もう少し時間がかかるかも知れないね」
ふとここで考える。
都市外作業指揮車は、今何をやっているのだろうかと。
そして、見える範囲に何かを発見した。
活剄を総動員してそれが何なのかを確認して、そして驚愕のために身動き取れなくなってしまった。
疑問に思った、都市外作業指揮車が、いたのだ。
その周りに、機械科の生徒らしき人影も見える。
何をやっているか、それはもはや疑問の余地はない。
試し掘りだ。
ツェルニが停止している今だからこそ、比較的安全に試験をすることが出来るというのは分かる。
鉱山での採掘中も、同じような試験をしていたという話は聞いていた。
だが、この非常時に、まさか試し掘りをしているとは思わなかった。
「いや。今だからか」
ツェルニが異常な事態にある今だからこそ、自分達がここでこうして仕事をしているのだと知らせて、誰かを安心させたいのだろう。
その誰かの中には、当然自分も含まれている。
極めて納得の行く仮説を打ち立てることが出来たウォリアスは、ふと、視線に気が付いた。
やや表情が強ばったフェリの視線が、ウォリアスに向かって放たれ続けている。
自然な動作を装いつつお菓子をつまむその姿はしかし、かなりぎこちなく、フェリ自身が平静ではないことがうかがい知れた。
「ウッチン」
「はい?」
その動作と視線のまま、声さえも固くなったフェリに呼ばれた。
緊急事態ではなさそうだが、楽観できる状況でもなさそうである。
そしてなによりも、ここで情報を伝えることに問題が有ることも同時に分かった。
「お茶菓子が少なくなってきました。買い出しに付き合って下さい」
「良いですよ」
駄目だという理由はない。
ここで話せない内容となると、あれとの接触を持つために出発した二人絡みと言う事が考えられる。
どんな物かは分からないが、あまり好ましくないことだけは間違いない。
お菓子が少なくなっているという事実もあるだろうが、口実であることも理解している。
だからウォリアスは、脳内で近くの店を検索しながら、立ち上がったフェリと共に歩き出すのだった。
強烈な日差しに、そろそろ体力が限界を迎えつつあったが、活剄を使って何とか誤魔化しつつ。
そして伝えられた事実は、どう判断したらよいか判断できない類の物だった。
そう。ある一定以上の距離を超えると、念威が全く届かなくなると言う事実だ。
まるで、そこに壁でもあって、念威が吸収されてしまっているような感覚だという。
即座に危険な状況が思い浮かぶという訳ではないが、楽観的な状況でないことも間違いない上に、何が起こるのか分からないという不安もあるという、どうすることも出来ない状況がやってきたのだ。
これは、ウォリアスが最も役に立たなくなる状況に他ならない。
取り敢えずお菓子を大量に買いながら、防衛体制の強化についてヴァンゼと打ち合わせるという妙技を見せただけであった。