005
「許可します」
例によって戦場ヶ原の家で、受験勉強に勤しんでいた僕に、突然一人で休憩に入ってお茶を飲んでいた戦場ヶ原が、唐突に口を開いた。
取りあえずこれだけはそこそこ出来る数学の参考書を解いていた手が止まり、隣に座っている戦場ヶ原に目を向ける。
「えーっと。それは、何がだ? 戦場ヶ原」
「何を卑屈な物言いをしているの? 何か、やましいところがある男の目だわ。それは」
それは、と言いながら、目にも止まらぬ速さでお茶を置き、ボールペンを僕の右眼球すれすれまで持ってきた戦場ヶ原の瞳は異様に冷たい。
正直、やましいところがある男である僕は、ゴクリと唾を飲んだ。当然、もう手に持ったシャーペンは動きを止めている。
「何よ。僕にやましいところなんてある訳無いだろ。僕は戦場ヶ原一筋さベイベー。とか言わないの? あの日のように」
「言ってねーよ。似てねーよ」
まだボールペンが眼球前から移動しない為、強くものをいうことが出来ない僕を前に、戦場ヶ原は嬉しそうに歪んだ笑みを見せた。
「あらそう。私渾身のモノマネだったのに残念だわ」
ノック式ボールペン。まだペン先は出ていない。と言うより、出たら眼球に突き刺さりそうな位置だ。ボールペンを握る戦場ヶ原の親指を見る。まだ上端に掛かっていない。頼むぞ。そのまま動かないでくれ。ノックされたが最後、僕の眼球が。
「ところで阿良々木くん。一つ聞きたいことがあるのだけれど。良いかしら?」
「何だよ。ぼ、僕にやましいところなんて」
無いぞ。と言い切れないのが悔しい。まさか、神原が戦場ヶ原に報告するとは思えないが……
「神原のことよ」
いや、報告しない方がおかしいのか。
「か、神原? あー、そう、神原、神原。どうしたんだ。最近会ってないけど、元気なのか?」
声は上擦り放題、つっかえ放題。あ、これ拙い。
戦場ヶ原の笑みが広がってるし。いや待て、まだ確定した訳では。
「セカンドキッスは何味だったかしら?」
確定した!
「な、何の……」
「あら嘘をつくの? なるほど、怪異に関して隠し事や嘘をつかないと約束したけれど、それ以外のことに関しては、隠し事も嘘も平気でついてやるぜ。へっへっー。と言う訳ね」
冷静な口調がまた恐ろしい。僕の身体はすっかり逃げるという選択肢を忘れてしまっている。いや、だが待て阿良々木暦。これは戦場ヶ原の罠という可能性はないか。そもそも神原がキスを強請って来たのは、戦場ヶ原に許可を得てと言っていた。それにそうだ。さっき戦場ヶ原は、許可します。とも言っていた。つまりこれは彼女特有のジョークであり、僕がボールペンで眼球を刺されることはない。そうだ。そうに違いない、その証拠に戦場ヶ原の親指は、ノックの気配すら。
「えい」
可愛らしいかけ声と共に、彼女はボールペンをノックするのではなく、そのまま前進させた。
「ぎゃーっ!」
「煩いわね。隣に住んでるニートに迷惑でしょう」
右目を押さえてのたうち回る僕を見下しながら戦場ヶ原は言った。
隣にはニートが住んでいたのか。初めて知った。のたうち回りながら、そんなことを思った。
006
「改めまして、許可します」
「それは神原とのことって意味か?」
やや時間を置いて回復した眼球で戦場ヶ原を見ながら言う。その声は当然小さい。
「それに関してもそう。勿論。あれは私が阿良々木くんにあげたものの一つだもの。どう扱っても良いのよ。私より先に進まなければ」
神原の言っていた奴か。だとすれば何故僕は眼球を刺されたのだろう。
「嘘をついたからよ。ペナルティー、当然でしょ?」
「お前もテレパシーを受け取れるのか?!」
「当たり前でしょう神原が出来るんだもの。私に出来ないはずがないわ。だって私、阿良々木くんの、その……彼女だもの」
頬を赤らめる僕の彼女。
「超可愛い!」
思わず口走る僕に、戦場ヶ原は、一瞬で頬の赤らみを消して頷いた。
「それも当たり前よ」
「自信満々だ!」
「それはともかく、私が何で二番手に出てきたか分かる?」
「二番手?」
何の。と問う前に戦場ヶ原は言った。
「こよみハーレムの、二番手」
「タイトルを把握している!? 戦場ヶ原、お前もか」
お前までメタなことを。がっくりと肩を落しながら、僕は気が付いた。彼女が口にした言葉の意味。こよみハーレム。それは神原が語っていた戦場ヶ原を頂点に置いた、羽川やら神原やら、何故か千石やら僕の妹×2やら僕の影の中にいる金髪金眼ロリッ子吸血鬼やらで構成されているという、神原の脳内にしか存在しないものだ。それをまるで既に存在しているかのように、そして、その存在を許容しているかのように、戦場ヶ原は語ったのだ。
「戦場ヶ原?」
その言葉の真意を探ろうと落した肩を持ち上げて、戦場ヶ原を見ると、彼女は相変わらずの無表情を貫いていた。
「何よ阿良々木くん。そんな捨てられてボロ雑巾のようになった、汚らしい野良犬みたいな目で私を見ないでよ。汚れちゃうじゃない」
「お前、犬嫌いだったのか?」
「いいえ、犬が嫌いなんじゃないの。阿良々木くんが嫌いなの」
「ショックだ!」
「嘘よ。そんなはず無いじゃない。好きよ。大好き」
「ツンドラが溶けた!」
「偶にはデレっておかないと、私の属性が勘違いされてしまうから」
「まだツンデレのつもりだったのか」
などと、例によって例の如くやりとりをして、僕は改めて、戦場ヶ原を見た。
「戦場ヶ原の言うところの許可って言うのは、どういうことなんだ?」
「私の質問に答える前に、自分から質問をしてくるなんて、どう言うつもりなのかしら。飼い犬に手を噛まれるとはこの事ね、阿良々木くん如きが私の手を噛もうだなんて、恐れ多いを通り越してるわね」
「ああ、悪い。お前が何で二番手で出てきたか。だったか? ……正直さっぱり分からない」
「でしょうね。貴方が理解出来るほどの知能を有していたら、今年の大学受験成功するもの。そんなことは絶対無いから、結果分かるはず無いものね」
毒舌は絶好調らしい。本当に僕を罵倒している時の戦場ヶ原は楽しそうだ。そんな時でないと、楽しそうなところが見えないというもの、何とも普通の彼氏彼女の関係とは思えない。
そもそも僕たち自体が、普通から外れているのだから仕方が無いとも言える。
「僕の一浪は決まってるのかよ! だったら僕は何で今勉強してるんだ」
「来年、再来年、再々来年の受験の為に決まっているでしょう?」
「何年浪人するの!?」
「大丈夫よ。安心して、私はちゃんと大学で待っててあげるから、何回一年生をやり直すことになっても、阿良々木くんを待っているわ。そして阿良々木くんは私が留年を重ねる度に、学費を出してくれるお父さんに冷たい目で見られることになるのよ。君のせいでうちの娘は何回留年するんだね。とか言われるの」
「舅との関係が最初から最悪に!」
ついノリで。
ついノリで、言ってしまった言葉に、戦場ヶ原は反応した。
「舅、舅か……へぇ? 阿良々木くん、家に婿に来てくれるんだ。そうなの」
実に楽しそう。と言うよりは嬉しそうな戦場ヶ原。そんな笑顔を見せられては、ノリで。なんて言えっこない。しまった。回り込まれてしまった。
「いや、あの戦場ヶ原?」
「でもそれは困るわ」
何とか弁明しようとした、僕の言葉を遮って、戦場ヶ原は僕を見た。
「困るって。それは……」
もしかして、となんとも説明しがたい奇妙な気持ちが心の中に浮かび上がってくるのを感じた。
戦場ヶ原が困る。この意味は二つに分けられる、一つは僕と結婚する気がない。ので困るという、僕にとってかなり凹む意味。けれど自惚れではないけれど、それはきっと無いだろう。無いと嬉しい。
となるともう一つ。僕が婿になるのが困るのは、戦場ヶ原がその、何というか、モノローグでも言い辛いのだが。
「阿良々木家に嫁に行きたいのでは。でしょう? モノローグくらいしっかり言いなさい。本当に愚図ね」
テレパシーを使われた上に罵倒された。もはや僕にはモノローグで思いのままに思うことすら許されないのか!
「当然よ」
「モノローグと会話するな!」
「あら失礼。でも阿良々木くん、一応言っておくけれど、困る理由はそれではないわ。勘違いしないで」
テレパシーを使われた上に罵倒されて、更に傷つけられた。
「傷物語ね。私あれ嫌いよ。私が出てこない上、羽川さんがヒロインなんだもの」
「だからメタ的なことは止めろよ。戦場ヶ原」
「あらそう。私が困る理由だったわね。だってそうでしょう? 阿良々木くんが阿良々木くんでなくなったら、私は阿良々木くんのことをなんて呼べばいいのよ。戦場ヶ原くん? 嫌よそんなの」
「普通に暦って呼ぶ選択肢はないのか!」
そう告げると戦場ヶ原は驚いたように目をしばたかせた。
「暦って……誰? また別の女を引っかけてきたんじゃないでしょうね」
「僕だよ! 僕の名前だよ。え? 何、戦場ヶ原さん、僕の名前覚えてなかった訳? 恋人なのに? て言うか別の女って、一瞬TSの僕を思い浮かべちゃったじゃないか……火燐ちゃんと月火ちゃんそっくりだ!」
「ツッコミが煩いわ。いい? ツッコミは親切丁寧に、あれもこれも拾って言えば良いってものじゃないのよ。精進しなさい」
「だめ出しされた! はあ。もういいや。話を進めようぜ。脱線しすぎだ、お前が二番手。の話だったよな」
戦場ヶ原との会話がつまらない。なんてことは勿論無い。それは確かに会話を続けていくだけで僕の心に深い傷が負っていくのは確かで、公式で八九寺との会話が一番面白いって言ったり、神原との会話が楽しいって言ったりするし、羽川に何でもは知らないわ、知ってることだけ。と言って貰うと喜んだりするのは否定しないし、千石や……これ以上考えを進めるのは止めておこう。いつの間にか戦場ヶ原との会話がドンドン下位ランクに押し下げられていく気がする。
「ロリコンは違うわね流石ロリコン」
「やっぱり聞こえてた!」
「まあいいわ。確かに話を脱線し過ぎた感はあるから、阿良々木くんの提案を受け入れてあげる。ああ、間違ったわ。阿良々木くん如きの提案を受け入れてあげる」
如きは絶対必要なのか。
「でも最後に一つだけ」
「何だよ」
まだ何か僕を傷つけるようなことを言うつもりか。
多分アニメなら僕のアホ毛が項垂れる描写が描かれているだろう。そんな僕に対し、戦場ヶ原は、いつかのように僕を指差して告げた。
「婿に来てくれるなら嬉しい。嫁に行けるのなら嬉しい。阿良々木くんと結婚出来るのなら、私はとても嬉しいわ」
いつかの言葉より長く、いつかの言葉より驚き、そして嬉しい言葉を、戦場ヶ原は口にした。