024
僕の影の中には吸血鬼が住んでいる。
まだ住み始めて二ヶ月と少々だが、実際に顔を合わせることは少なかった。
それは生活習慣の違いに寄るところが大きい。夜型(本人が認めたのだから僕は何も言うまい)の忍とごく普通に昼起きて夜眠る昼型の僕では、起きている時間帯が違う。とただそれだけのことだ。
とは言え別に昼間は必ず眠っている訳ではないし、呼んでもいないのに昼間出てくることもある。
こちらから呼んでも出てくることは少ないのだが、その日僕は勉強中、小腹が空いて何か食べるものはないかと台所を散策していたところ、それを見つけた。
安物のドーナツ。忍御用達のミスタードーナツではなく、コンビニで売っていそうな、ちっちゃいドーナツが四つばかり入った子供のおやつのようなドーナッツだ。
おそらくは母親が買ったものなのだろう。僕はそれを持って、階段を上り、二階の自室へと入った。
今日は月火ちゃんはいない。つまり千枚通しで穴を開けられる心配がない。だからと言う訳ではないが、勉強の合間に、僕はちょっと忍とコミュニケーションでも取ろうと思い立ったのだ。
「さて、始めるか」
窓に背を向けて立ち、自分の足下の影を見る。
「おーい、忍。ちょっと出てこいよ」
声をかけて少し待ってみる。
返答はない。無視しているのか、或いはまだおねむなのかどちらかだろう。
仕方ない。
あまりこれを多用すると味をしめて、これをしないと出てこなくなるから嫌なのだが。
そんな風に考えながら僕はドーナツを裁縫用の糸に括り付けたものをゆっくりと自分の足下、影に向けて降ろした。
もしここに鏡があったのなら、相当危険な絵図らを見ることになっただろう。自分の足下に糸を付けたドーナッツを垂らす男子高校生、両親が見たら、勉強のし過ぎで気が触れたと思われるかもしれない。
影ぎりぎりまで持って行き、その糸を揺らす。
やっぱり昔やったザリガニ釣りを思い出すなあ。こうやっていると巣穴から赤いハサミが出てきて。
とそんなことを考えていると白い手が、影の中からぬっと顔を出し、出鱈目に動き始める。ドーナツを探しているらしい。
それを察し、ドーナツをちょっと持ち上げると、今度は金髪の髪が顔を出し、その後一気に上半身が影から出てきた。
「よう、忍」
金髪金眼の少女は眠たそうな半目で僕の顔を見てから、すぐに僕の手の先、つまりドーナツを見つけるとそれを素早く手にし、糸を切断して小さな口に運んだ。
少しの間もぐもぐと租借し、ゴクンと飲み込む。そうしてから忍は再び僕を睨み付けた。
「お前様よ。仮にも儂を呼ぶのであれば、種類は問わんからせめてミスタードーナツにせい」
相変わらずの憮然とした態度で告げて、けれどなおも忍はドーナツを頬張り続けた。
025
「で? 何の用じゃ、我が主様よ」
四つ入りのドーナツを僕が一つ、忍が三つ平らげた後、指についた砂糖を舐め取りながら忍は言う。ベッドの上に腰掛けて、下まで届かない足をプラプラと揺らしている様は実に可愛らしかった。
「いや、暇だったから、ちょっと話そうかと思って」
そう告げると忍はあからさまに嫌そうな顔をした。
廃ビル時代には見ることの出来なかった表情だ。
「あれか。妹御を二人とも堕として、味を占めたお前様は今度は儂にもその毒牙をかけようと言うことか」
やれやれじゃな。と続けて首を振ってみせる忍。
ふざけるなよ。でっかくなった時のお前ならともかく、八九寺以下のちんちくりんのお前に欲情する程僕は終わってない。
八九寺だって、あれが仮に小学五年生相応の成長しかしていないロリ幽霊だったら僕に取っては何の意味もないんだぜ。
八九寺をまな板胸とするなら、お前なんかむしろマイナス、えぐれ胸じゃないかよ。まあ、お前の場合成長するとあれになると言うことが確定している点だけは評価してやるけどな。
「何故お前様が怒っとるのじゃ。それはむしろ儂の方じゃろう」
僕の心の声は聞こえないらしい。そうか公式設定で一番僕の心情が読めそうな忍であるが、それは結局のところ、感情とか痛み、衝撃、などの大雑把なものであって、心の中で何を考えているかまでは読めないのか。
やるじゃないか忍。これでまた一つ、何も出来ない無能元吸血鬼からパンツの色をリークすることに加え、僕の束の間の安息地としての地位も得たな。
と言うかお前、なんだかんだ言って一回もパンツの色教えてくれたことねえじゃないか。
何のために僕が勉強会の時、毎回毎回羽川に、阿良々木君ちょっと近い。と言われるまで接近してると思ってるんだよ。
お前に羽川のパンツの色を教えて貰うために決まってんだろ。
「おい忍」
「なんじゃ。この間の妹御の様に儂もここに押し倒すつもりか?」
なんかお前、さっきからむしろ誘ってない? いや、誘われても僕は戦場ヶ原を裏切らないよ。お前が食欲、睡眠欲に続いて三大欲求の一つ性欲も強いのは何となく知っていたけれど、手は出せないんだぜ。残念ながら。
「お前様よ。その締まりのない顔をなんとかせい。仮にも我が主様ならばのう」
締まりのない顔って言われた。それ、なんかたまに言われるけど、実際どんな顔してるんだ。
一度見てみたい。
「あれだよ。パンツの色をリークしてくれる話はどうなったんだよ。羽川のパンツの色教えてくれよ」
一つは見たことがあるし。一つは持ってもいるが、他にどんなパンツを持っているか知りたいというのは健全な男として当たり前の欲求だろう。
そんな僕の切なる願いに対して忍は、一度首を傾げてから、ああ、と言うように頷いて見せた。
「そんな話もしたかの。忘れ取ったわ」
この無能元吸血鬼、本当に役に立たないな。
「ってことは何か? お前結局あの後、何度も僕が羽川に接近を試みているのに、そのいずれもパンツは覗いていないってことかよ!」
あんなに食わせてやったのに。
「うむ。おねむだったのでな」
おねむとか言ってんな。ちょっと可愛いだろ。
「今日もまたミスタードーナツに連れて行ってくれるのならば、今度委員長に会う時はきちんと覗いてやるのじゃが……どうじゃろう?」
上目遣いで見んな。
割と可愛いだろ。
時計を見る。現在昼三時。ミスドは当然まだ開いている時間帯だ。この時間に忍が起きている(今回に限って言えば僕に起こされたと言う可能性も捨てきれないが)のは珍しい。
あの後、何回か僕が一人でミスタードーナツに出向き、買ってきたことはあったが、忍はあれ以来店に行っていなかった。
或いはこんな機会を虎視眈々と狙っていたのかも知れない。
その為にワザと羽川のパンツを覗かなかったのか、もう一度僕に対する交換条件にするために。なんてセコい奴だ。
怪異の王とか呼ばれてた頃からは想像もつかないセコさだ。
だが、しかし。それを差し引いてもまだ、
「よし。んじゃ行くか」
羽川のパンツの色を知れるのは魅力的だった。
「アホが! 二度も儂の話術に引っ掛かりおったわ」
相変わらず心の声はただ漏れだった。しかしな忍、今度もし約束を破ったら僕はお前を許さないからな。
「じゃ、さっさと影に戻れよ。また店の前についたら教えてやるから」
「うむ、それなんじゃが。どうやら今日はあまり太陽も出ておらんようじゃ、偶には儂も自ら歩いて行く」
「はあ?」
確かに今日は曇りだが、何も歩かなくても良いじゃないか。
「前みたいに自転車で行こうぜ。歩きだとちょっと遠過ぎ」
昼間の世界を見たい。以前忍が僕に要求した結果、僕らはミスドから帰り道、変則的な二人乗りで家路についたことがある。
本当はこんなに目立つ金髪ロリ幼女と一緒のところを町の人に見られたくはないのだが、殆ど一日中僕の影の中に入っている忍だ。偶に広い世界を見せてやるのは問題ない。
けれど距離の問題はある。歩いて行くにはあのミスドはちょっと遠い、それだけ時間を食うことにもなるし、そうなると幾ら曇っているとは言え、忍にとってもあまり良いことではないだろう。
「むう。偶には自分足で歩いてみたかったが、仕方ないのう。早くミスドに行きたいことじゃし、妥協してやろう」
いちいち偉そうに言う奴だな。
だがまあ忍にとってはこの言葉遣いが、様々なキャラ崩壊を経て唯一残ったアイデンティティだから許してやろう。
「よし、じゃちょっと準備するから待ってろよ」
「うむ。急げよお前様。早くせんと売り切れてしまうかもしれん」
だからあの手の店の商品は早々売り切れねえよ。
とは言え、今日の僕は昼に買い物に行っていたこともあり、普通にそのまま出ても問題ない格好だったため、財布と携帯だけ持ち、後は誰もいなくなる家の鍵を閉めてくるだけだ。
夏と言うこともあり、どの部屋も窓が全開になっている。それらをすべて閉めてから僕は忍を連れて玄関に向かった。
「よし。さっさと行こう。早くしないと月火ちゃん達が帰ってきちまう」
誰が帰ってきてもまずいのだが、その中でもやはり一番危険なのは月火ちゃんだろう。
月火ちゃんは何故か忍に対するエンカウント率が異常に高いのだ。
「それは儂も同意じゃな。ところでお前様よ」
「ん? 何だよ」
「こういう話をした後に、実際に遭遇してしまうことを、なんと言うんじゃったか」
「お約束、かな?」
言いながら、玄関の扉を開ける。
「なるほどのう。これがそのお約束という奴じゃな」
「え?」
言われ、忍から視線を持ち上げて、玄関の開いたその先を見る。
「ただいまー。ってあれ? その子……」
そこに立っていたのは、和服姿の僕のちっちゃい妹。月火ちゃんだった。
「え?」
玄関に手をかけたまま、僕も、月火ちゃんも、忍も動きを止める。
「あの、月火ちゃん?」
硬直してしまった妹に声をかけると、それを合図にしたように、月火ちゃんが前に出た。
けれど表情には一切感情が籠もっていなかった。
「……」
無言のまま更に距離を詰め、思わず身構えた僕だったが、月火ちゃんは何も言わず、何もせず、無言のまま玄関に入り、忍をもスルーして靴を脱ぐと、家の中に入っていった。
向かう先は真っ直ぐ、台所。
「急げ忍。包丁持ってくるぞ!」
「う、うむ」
慌てて玄関を飛び出した僕らは自転車を大急ぎで外に持ち出し、忍をカゴの中に詰め込むと、自転車の鍵を開けて、サドルに跨った。
ガチャ。と玄関が開く音が鳴った瞬間、僕らは勢いよく自転車を発進させた。
そのまま全力を持って自転車を漕ぐ。後ろを見ている余裕は皆無だった。
とにかく早くこの場を脱しなければ、殺される。
それはかなり切実な思いだった。
「おお。本当に包丁を持ってきおったぞ」
暢気に解説してるんじゃねえよ。くそ、怖くて振り返れない。
「裸足のまま追いかけて来とる。急がんと追いつかれるぞ」
あの日を境に結構仲良くなった僕らだが、それと引き替えに、月火ちゃんのヒステリックな凶暴性は、以前に増して強くなっているらしかった。
「っ! 曲がれ! お前様よ!」
突然せっぱ詰まった声を出した忍に僕が急いでハンドルを切って横道に入ると、僕が先ほどまで走っていた道路に、カランと音が鳴った。道路に上にはむき出しの包丁が転がっていた。
投げつけやがった。
忍がいなかったら僕の背中にそれが突き刺さっていたのだろう。いや、忍がいたからこんな事態になったんだけれども。
背中に流れる冷や汗を感じながら、僕の感情が伝わったのだろう。忍と僕は揃えて安堵の息を漏らしたのだった。
「お前様の妹御は相変わらずじゃのう」
「いや、むしろ悪化してる。月火ちゃんは僕の身体のこと知らないはずだからな。あれ、完璧殺すつもりだったぞ」
「ふむ。ぱないの」
前カゴの中で腰を動かしながら、ようやく良いポディショニングを見つけたらしい忍はふう。と小さく息を吐いて、僕を見上げた。
お前、それ言いたいだけじゃないのか? こいつこうやって着実に自分のキャラを作っていくつもりだな。決め台詞って奴だ。
そう言えば戦場ヶ原の蕩れ(ほぼ使われていないのに決め台詞と言っていいかは別として)羽川の何でもは知らないわ、知ってることだけ。八九寺の、失礼噛みました。千石の~以外ないんだよ! 月火ちゃんのプラチナむかつく。等々、なんだかんだでみんな決め台詞を持っているんだよな。特定のが無いのは火憐ちゃんと神原、後は僕もか。まあ神原に関しては全身が決め台詞みたいなもんだから、あんまり気にしないが、いつだか長ったらしい決め台詞も考えてたな。あれは確か。
「私は、阿良々木先輩の自転車のサドルを使っていやらしい行為を行える女だ」
そうそう。そんな感じ。
ふと横を見ると全力疾走しているはずの僕と併走しているスポーツ変態少女の姿があった。
これもあれか。お約束って奴か。
「神原。何故お前がここに」
「決まっているではないか、阿良々木先輩がそこにいるからだ」
どこだ。どこから付けていやがった。
「それにしても、これはどういう状況なのだ。阿良々木先輩、忍ちゃんをカゴに乗せて対面しているなんて、素晴らしく可愛い光景ではないか! ああ、凄い。股間が高ぶってきた」
前カゴの忍を見るなり、嬉々として言う神原。
夏休みに入ろうと、髪を伸ばそうと、変態は変態、神原は神原、変態は神原だった。