「じゃあな、オレは先に事務所に行ってる。あんまり待たせるんじゃねぇぞ」
「ふん。精々、夕食に期待しておこう」
「また後でね、タッちゃん!」
午後五時。茶会の開始から二時間が経ち、茶菓子とコイバナが尽きる頃である。
忠勝はおもむろに立ち上がると、ほっとしたような表情でアパートを後にした。
茶会中、俺と蘭によって延々と続けられる執拗な尋問に、流石に誤魔化し切れないと観念したのか、忠勝はムスッとした顔で色々と吐いてくれた。
初恋の相手が孤児院時代からの幼馴染であり、その想いは現役である事。
どうにも自分は彼女にとって家族でしかなく、男として認識されていない節がある事。
今年度になって同じクラスになれたのは良いが、今更どう距離を縮めるべきなのか分からないんだがどうすれば云々。
うむ。聞いていると、忠勝はいたって健全な青春を送っているようで何よりだ。
俺から見た忠勝は少々ストイック過ぎて、正直なところ女というものに興味がないのだと思われても仕方の無い部分があった。その旨を言うと、
「違ぇよ。一子以外の女に興味がねぇだけだ」
と実に男前な答えを頂けた。十数年もの間、純粋な片想いを貫いている忠勝はさすがというか何というか。是非とも報われて欲しいものだ。
幸運にも今年はクラスが同じ(2-F)なので、接近のチャンスは幾らでもある。俺も影ながら応援させて貰うとしよう。
「さて。準備が、必要か」
源忠勝の恋愛事情についての思考を一旦打ち切って、俺は行動を開始した。
さしあたって俺が考えるべき事項は、今晩にでも降り掛かるであろう厄介事にどう対処するかだ。
「主。宇佐美さんのお話と云うのは、やはり例の件でしょうか」
「十中八九。お前も準備を怠るな。慢心と油断は破滅を招く」
「ははーっ、その御言葉、蘭は確かに心に刻み申し上げました!」
まあ、蘭が準備しなければならないのは心構えくらいのものだろうが。問題は俺の方だ。
大抵の事は武力で突破できる蘭と違い、基本スペックが一般人の俺は入念に準備しなければあっさりと足元を掬われる羽目になる。
まずは服装からか。それに小道具も可能な限りは持ち込みたいところ。状況を推測するに、今日の俺に必要なものは……この辺か。念の為にアレも持参しておこう。
そんな調子でガサゴソと装備を整えた後、時計が午後六時を回るまで適当に時間を潰してから、俺は蘭を引き連れてアパートを出立した。
紅い夕日が沈み、夕方と夜の境界が訪れると、日本有数の歓楽街たる堀之外は真の意味での賑わいを見せ始める。
朝方だろうが昼間だろうが治安が悪いことには変わりないが、しかしそれも夜間の危険さに比べれば生易しいものだ。
メインストリート、親不孝通り。俺と蘭が今まさに足を踏み入れたこの通りは、ほとんど無法地帯も同然である。
夜の闇に紛れ、後ろ暗い経歴を持った連中が雑踏を形成し、各々の欲望に従ってありとあらゆる悪を為す。
ここでは、“力”が全てだ。暴力権力財力知力、なんでもいい。他者を圧倒する何かしらの力を持つ者だけが唯一絶対の正義。弱者には強者の餌となる以外の運命は待ち受けていない。
―――そうだ。だから、気の遠くなるほどの昔、俺は強者になることを選んだ。
外出用の高級な黒コートを翻し、三歩後ろに忠実なる従者を引き連れて、何も恐れる物はないとばかりに織田信長はネオンで満ち溢れた通りを闊歩する。
「アレは……」「の、信長だ……!」「オイお前、早く道を開けろ!死にてぇのかっ!」
そんな俺の姿に気付くと、群衆は一様に青褪めた顔で自ら道を空けた。
堀之外の街、特に親不孝通りに集う類の人種で、俺の顔を知らない者など殆ど居ない。知っていて道を開けない命知らずとなれば、尚更である。
「お、織田さん、久し振りです、この前の件ではお世話になりやした」
腰を低くして恐る恐る挨拶してくる者には鷹揚に頷き返しながら、歩調を変えずに悠然と足を進める。
ここにいる連中の大半は、過去に一度は何らかの形で俺に関わっていた。大抵は俺が叩き潰した相手だが、中には先程のように恩を売った奴も多い。
何にせよ確実に言えるのは、この堀之外において、織田信長は絶対的な強者だという事だ。
―――日々の食事を得る為に行ったスリが露見し、半死半生になるまで叩きのめされた。目つきが気に入らないと腐臭の染み付いたゴミ箱へぶち込まれた。それでもただ生き残るためにひたすらもがき足掻いた、惨めな幼少時代。
力が欲しい。力があれば。当時の俺は、自身の持つ最大の“武器”をまるで理解していなかった。だから、地面に這い蹲って無様に震えるしかなかったのだ。
今は違う。今の俺には、力がある。
あれから十数年の歳月を生き抜く過程で、俺はこの腐った街で現在の地位を築き上げてみせた。
それでも、未だ真の目標地点には遠い。しかし、いつかは必ず実現してみせる。幼心に抱いた、あの果てしない夢を。
「あ、お、織田さん!?」
感傷に浸っていた俺は、狼狽と恐怖を足して二で割ったような声で現実に引き戻された。
気付けば、良く見知った集団が俺の目の前に固まっている。懐かしき太師高校時代、つまりは去年までクラスメートだった連中のグループだ。何人かは俺の知らない顔も混じっているが。
「如何にも。久しいな」
春休み突入寸前の終業式にて、全校生徒を相手に転校を宣言したその日以降、俺は太師高の連中と一度も遭遇していなかったのである。
それも理由の一つだろうが、今の今まで俺は元クラスメートの存在を完全に失念していた。
「あ、は、はい」「お、お久しぶりっす……」
おずおずと挨拶を返す元同級生共は、明らかに腰が引けていた。まあ当然か。太師時代に俺がしてきた事を考えれば、気安く接するなど自殺行為も同然だ。
「え、何スかセンパイ、この人そんな偉いんスか?チョーワルい人っスかぁ?ほーへー、パネェっスねぇ」
「お、おい!前田、ちょっと黙ってろっ」
ケバケバしい金髪と耳から大量にぶら下げたピアス。いかにも頭の中身が軽そうなチャラチャラした男が、俺の顔を無遠慮に眺め回す。
元クラスメートをセンパイと呼んでいるという事は、太師の新入生か。道理で俺が顔を知らない訳だ。
「えー、何スかセンパイ方、ちょっとビビり過ぎじゃないんスか?言いたかねーんですけどォ、ちょーっとダサイっスよ?」
「馬鹿ヤロウが、てめーこの人のこと知らねぇのかよ!“太師の魔王”だぞ!」
初めて聞いたぞそんな称号。しかも残念なことにネーミングセンスが致命的に欠如している。魔王て。
どうせならもう少しくらい気の利いた称号にして欲しかった、と思う俺は贅沢なのだろうか。
「はーっ、この人がそーなんスか。でもこの人、アレなんスよね?もうウチから引き上げたんスよね?要するにィ、イモ引いたんじゃないッスか。別にそんな風にヘコヘコする理由なくないっスか?」
「バカ、てめ、なんつー……!あ、す、スイマセン織田さん、コイツ新入りで礼儀を知らなくて……っ」
見る見るうちに顔を青くして、元クラスメートは無理矢理にでも頭を下げさせようと、前田と呼んだ後輩の後頭部に手を伸ばす。
が、前田はその手を鬱陶しげに払いのけて、ニヤニヤしながら言葉を続けた。
「えーっと、織田サン?でしたっけ?オレってなんつーかー、下げたくない頭は下げないって決めてるんスよォ。ポリシーってやつ?で、アンタ、“魔王”って呼ばれてるくらいなんスからチョーつええんスよね。実はオレもケンカには自信アリアリっつーか地元じゃ負けなしっつーか?ってワケなんでェ、ちょーっと相手してもらえると嬉しいんスけど」
言葉の途中から何かを諦めたように天を仰いでいた元クラスメートだが、流石に見過ごせなくなったのか、血相を変えて前田に掴み掛かった。
「アホなこと言ってんじゃねぇよ、てめぇ死にてぇのか!今すぐ謝れ、そうすりゃ――がっ!?」
「センパイ、正直ウザイっスよ。オレ、この人とハナシしてるんスから、邪魔しないでくださいよぉ」
なるほど。ケンカに自信ありとは、何も口先だけではなかったらしい。
固めた拳で無防備な腹を殴られた元クラスメートは、一撃で気絶したのか、ピクリともせずアスファルトの上に転がっている。
改めて観察してみれば、その身体はチャラい外見に似合わず、引き締まった筋肉で覆われていた。
「前田ァ、てめぇ!!」「センパイ殴ってタダで済むと思ってんじゃねぇだろうな!」
「だァ、かァ、らァ。オレはそっちの人と話してるんだっつってんだろォが、貧弱野郎どもがァ!!……で、どうなんスか織田サン、イモ引くってんならそれでもいいッスよぉ?」
自分を取り囲む元クラスメートの集団を恐ろしい形相で一喝して黙らせると、前田は一転してニヤニヤと笑いながらこちらに問い掛ける。なるほど、そちらが本性と言う訳か。
対する俺はと言えば、無礼な物言いに怒るよりもまず、その度胸に感心していた。いくらその自信が無知から来るものだとしても、こうも躊躇無く“織田信長”に喧嘩を売る命知らずがいるとは。
堀之外のチンピラどもは大抵が軽く威圧しただけで膝を屈するのだが、稀にこういう変り種が現れる事がある。
「主――――」
おっと、従者へのフォローを忘れていた。これだけあからさまに喧嘩を売られているのだ、そろそろ蘭の忍耐ゲージが危険域に達する頃だろう。
「蘭。下がれ」
「……はっ」
俺の背後で静かな殺気を漲らせていた蘭を控えさせる。
危ないところだった。あと数秒でも放置していたら、親不孝通りに局所的な血の雨が降っていたかもしれない。
なにせ今日の蘭が腰に提げているのは、訓練用の木刀などではないのだから。
「ふん。些か、後輩の教育が不足しているようだな」
「す、スイマセンっ!」「今すぐこいつシメますから、どうか俺たちは……!」
「構わん。此処で遭ったのも何かの縁。俺が直々に、矯正してくれよう」
「おお、いいッスねぇ。そうだよなそうだよなぁ、オトコならそうでなくっちゃア」
俺が戦いの意思を示した途端、前田は心底嬉しそうな笑顔を浮かべた。
話していて何となく予想はついていたが、やはり戦闘狂の類か。竜兵や川神百代に近い性質を感じる。ぞっとしない話だった。
「話が決まったところで、場所はどォしましょおかね?」
「時間が惜しい。此処で何の問題もないだろう」
「ストリートファイトっスか、いいッスねェ!でも大丈夫っスかァ?アンタがここでボコにされちまうと大恥かく羽目になると思うんスけど?」
「ふん。御託はいいから早く来るがいい。野犬の躾などに時間を取られたくない」
舐めるのはいい加減にして貰うとしよう。俺は堀之外における絶対的強者、“織田信長”だ。
怪物相手ならいざ知らず、同じ土俵に立つ人間を相手に脅威を感じる事など有り得ない。
ポキポキと両手の骨を鳴らしながら挑発してくる前田を、俺はただ冷たく鼻で笑う。
「……言いやがったなァ……、後悔すんなやオラァァァァっ!!」
怒りの形相で雄叫びを上げるや否や、前田は右腕を大きく振りかぶって突進してきた。そのまま上から叩き下ろすようなテレフォンパンチを放つ。
あからさまな喧嘩殺法だ。型も何もあったものではないが、威力だけは相当なものだろう。
まあしかし、ここは有名なアレだ。
当たらなければどうということはない!
半身を軽く傾けるだけの最低限の動作で前田の拳を回避する。
まさかこうもあっさりと避けられるとは思っていなかったのか、前田は殴りかかった勢いを殺しきれず、前方へとたたらを踏んでいた。
やや狼狽した表情で焦りながら体勢を立て直し、振り返りざまに顔面を狙った裏拳を繰り出す。咄嗟に首を軽く後ろに倒すと、拳はまたしても虚しく空振った。
「ふん。やはり、所詮はその程度、か」
「っ!ナメんじゃねぇ!こっから本気で行くぞオラァ!!」
冷め切った表情でさもつまらなさそうに言ってやると、前田は憤怒で顔を赤く染め上げ、再び拳を振り上げた。
対する俺は心中にてほくそ笑み、回避行動のために悠然と身構える。
そして、数分後。
「ハァ、ハァ、クソッ!なんでだ!なんで当たらねぇんだよォォ!!」
息を切らして怒鳴り声を上げる前田と、汗の一筋すらも流す事無く、余裕綽々とそれを受け止める俺がそこにいた。
戦闘の展開はある意味で一方的なものだった。ひたすらに前田が攻撃を続け、俺がそれら全てを最低限の動きで避け続ける。
その様子をダイジェストでお送りしてみると、大体こんな感じだ。
前田のこうげき!ミス! ダメージをあたえれない
前田はたいあたりをはなった!ミス! ダメージをあたえられない
前田はまわしげりをはなった!ミス! ダメージをあたえられない
前田はおたけびをあげた! 信長にはきかなかった
前田のきあいため! 信長はようすをみている
前田のばくれつけん!ミス! ダメージをあたえられない×4
前田はこしをふかくおとしまっすぐにあいてをついた! ミス!ダメージをあたえられない
注、イメージです。あくまで比喩である。―――そう、俺の憧れたばくれつけんはもっと速いし、せいけんづきはもっと重いのだ。
なんてどうでもいい俺の妄想はこの際置いておこう。今は一応、真面目な戦闘の最中である。
「ふん。何故当たらない、だと?答えは明瞭。俺に拳を届かせるには、お前は鈍過ぎる」
実際のところ、むしろ動きが直線的なだけ速度は相当なものがあったのだが、わざわざそれを教えてやる義理はない。
まあ、一般人の感性からすれば十二分に速いのだろう。だが、残念ながらその程度では俺を補足する事など到底不可能だ。
あの地獄のような命懸けの特訓を思えば、あまりの落差と楽さに涙が出てきそうにすらなる。
「……このオレが遅い?このオレが、スロォリィ?」
「確かに、そう言った筈だが。言葉も通じんのか?」
「冗談じゃ、ねええええええええええええええっ!!」
ブォン、と盛大に大気を唸らせながら、拳が顔のすぐ横を通り過ぎる。
いちいち雄叫びを上げるのはこいつの趣味なのだろうか、と悩みながら、俺は全力を込めたであろう顔面狙いのストレートパンチを、その場から一歩も動くことなく、首を捻って回避してみせた。
その結果を受け入れられなかったのか、愕然とした表情で、前田は力なく呟く。
「く、チクショウ、どうなってやがる!オレが、手も足も出せねェだと……!?」
「……もういい。詰まらん。飽きた」
ここまでやれば、力の差を思い知らせるには十分だろう。宇佐美代行センターでは今頃、忠勝とタダ飯が待っているのだ。こんな所で無駄に時間を潰している場合ではない。
日常的に抑えている殺気を開放し、収束させる。
一昨日の決闘で忍足あずみに対して使用したアレを、少し控え目に威力を調整してから、俺は目の前で呆然としている前田に叩き付けた。
「が、アっ……!?」
効果は歴然である。石化の魔法でも掛けられたかのように、前田は完全に硬直した。
あずみの時とは違い、この金縛りが破られる事はないだろう。いかに強力なチンピラであろうと、所詮は一般人の範疇からは出ない。
プロの軍人や“気”の扱いに習熟した武闘家、或いは板垣一家のような突き抜けた異常者でもない限りは、俺の殺気に抵抗することなど不可能だ。
「なん、だ、なん、だよ、こりゃァ、体が、動かねェ……!」
「ほう。意識を失わず、加えて舌の根が動くか」
俺は素直に感心していた。さすがは竜兵の同類だけはある。戦闘狂という人種は、総じて殺気に対する耐性が相当に高いらしい。
まあ幾ら喋れたところで、身体機能が凍っていれば同じことだ。
相手が抵抗していようが無抵抗だろうが、俺がやるべき事は何一つとして変わらない。
彫像と化した前田にゆっくりと歩み寄ると、悔しげに歪んだ顔に冷笑を送ると、その後頭部を鷲掴みにし―――手加減を一切省いた力で、顔面から路面に叩き付ける。アスファルトと頭蓋とが衝突する鈍い音が響き、周囲に鮮血が散った。
「ひっ!?」
あまりにも容赦の無い暴力を目の前で見せつけられ、元クラスメート達が小さく悲鳴を上げた。
そんな周囲の反応に構わず、俺は黒革のブーツの踵で、路面に倒れ伏す前田の頭部を踏み付ける。
「くく。下げたくもない頭を、下げさせられた気分はどうだ?」
「て、めェ……!」
まだ反抗する気力が残っていたか。これはあまりよろしくない。体重を更に上乗せして、踵に込める力を増す。額が軽く路面にめり込んだ。
「お、織田さん、ちょっとやり過ぎなんじゃぁ……」
「やり過ぎ。やり過ぎ、だと?」
サッカーボールを蹴る様な無造作さで前田の後頭部に蹴りを入れると、元クラスメート達が息を呑む。
「新入りが図に乗る要因が、お前達のその温さにあると、何故気付かない」
僅かな殺気を込めて睨み付ければ、一様に震え上がって黙り込んだ。
そんな情けない我が元クラスメート達を放置して、俺は足元に転がっている後輩に視線を移した。未だ心は折れていないのか、頭から出血しながらも反抗的な眼でこちらを睨みつけている。
「先輩として、特別に教えてやろう。この堀之外において、暴力は罪ではない。罪は、弱さだ。弱者はその罪を問われ、強者により罰せられる。この様にな」
「ぐぅっ!?」
淡々と語りながら、今度は腹にブーツの爪先を食い込ませる。くの字に折れ曲がった姿を見下ろしながら、無感情に続ける。
「罪と罰の両者から逃れたければ、強くなる事だ。足掻きもがき這い蹲ってでも、力を手に入れろ。その覚悟が無い者は、この街では生きられない。いずれ強者に喰われ死ぬのみ」
「……っ」
「本来ならお前は、此処で俺と言う強者に喰われて終わる所だが。その度胸に免じ、一度だけ機会をくれてやるとしよう。精々、拾った命を無駄にしない事だ」
冷たく言い捨てると、俺はコートを翻して、沈黙した前田とクラスメート達に背を向ける。
―――もはやここには用はない。織田信長としての俺は、既にその務めを果たした。
少し離れた所に佇み、ただ黙して事の推移を見守っていた蘭に、声を掛ける。
「蘭。往くぞ」
「ははっ」
「……待て、待ってくれ!」
そのまま去ろうとする俺達を、後ろから呼び止める声。
肩越しに振り返ってみれば、前田が必死の形相で身体を起こし、顔に幾筋も血を流しながらこちらを睨んでいた。
「オレの―――オレの名は、前田啓次ッ!いいか、この名を覚えとけ。ゼッテーにいつか、アンタの居るところに立ってやるからよォ!」
場違いに活力の漲る雄叫びに、俺は内心にて、呆れ半分感心半分といった気分で苦笑した。
何ともまあ、元気な事だ。どう考えても、あそこまで自分を痛めつけた相手に対して取るような態度ではない。
「ふん。期待せずに、待つとしよう」
案外、大物なのかもしれない。少なくとも此処の住人として馴染むのはそう遠い話ではないだろう。
声にも表情にもそんな感情を滲ませずに吐き捨てて、今度こそ俺はその場を後にした。
「お疲れ様でございました、主」
「ふん。俺は俺の義務を果たしただけだ」
気遣わしげに声を掛けてくる蘭に素っ気無く返すと、俺は小さく溜息を漏らした。
勘違いした余所者には誰かが、この街の流儀を教えてやらなければならない。無知に任せて自分が強者だと錯覚し続けていると、そのうち本当に取り返しのつかない事態になる。
そういう意味では、あの前田という男は運が良かった。もし自分の実力を知らないまま悪名高い板垣一家にでも喧嘩を売っていたら、目も当てられない事になっていただろう。
天か辰子の二人ならまだしも、長男長女―――竜兵や亜巳が出てきた場合、悲惨の一言では済まない。
身の程知らずには多少痛めつけてでも身の程を教えてやるのが、本人の為だ。馬鹿な元クラスメート達は気付いていなかったが、俺のやり方などむしろ温いと言われても仕方がない。
「無駄に時間を浪費したな。急ぐぞ、蘭」
「ははーっ!」
その後は誰にも絡まれる事もなく、無事に親不孝通りを抜ける。
それから歩き続けること数分、俺と蘭は薄汚れた小規模なビルに到着した。
このビルの二階に位置する事務所こそが、宇佐美巨人の城。宇佐美代行センターである。
「よう。やっと来たか」
事務所のドアを叩くと、忠勝が応対に出てきた。その片手に包丁を握っているのは、まあ料理中だったからだろう。むしろそれ以外の可能性など考えたくもない。
「親父が待ってるぜ。ほら、さっさと入れ」
後ろから包丁で追い立てるように俺と蘭を招き入れると、忠勝はそのまま奥の調理スペースに引っ込んだ。律儀にも忠勝自ら俺との約束を守るつもりらしい。
素晴らしい友を持ったものだ、などと大袈裟に感激してみながら、俺は所長用の事務机の前まで歩み寄った。
机を挟んだ向かい側で、代表取締役たる宇佐美巨人はだらしなく背椅子にもたれかかっている。どうやら接客という言葉はこの中年親父の辞書には存在しないらしい。
「さて。来てやったぞ、宇佐美巨人。いや、ヒゲとでも呼ぶべきか?くくく」
「今晩は、宇佐美さん」
「お、こんばんは、蘭ちゃん。若いのに礼儀がしっかりしてるってのはいいねぇ。そこの御主人様にも少しは見習って欲しいぜ、ったく」
「畏れながら、信長様は元来、人の上に立たれるお方。私如きのような従者と同様の礼儀などは全く必要ないのです」
「あ、そ……。蘭ちゃん、その癖さえなけりゃウチの忠勝の嫁に欲しいくらいなんだがな、のわっ!?」
その瞬間、調理スペースと事務室を遮る暖簾の向こうからお玉が飛来した。巨人の顔をギリギリのところで掠めて壁に衝突し、床に転がる。
数秒後、両手にトレーを載せた忠勝が暖簾を押しのけて姿を見せた。
「ひでえな忠勝、いい年したオッサンに何しやがる」
「アホなこと言うからだろうが。ったく、ボケ親父が」
文句を飛ばす巨人に不機嫌に返しながらも、手はてきぱきと動き、手際良く皿をトレーからテーブルに移していく。
ここで明かされる新事実、忠勝はそのまま主夫が務まりそうな程に家事スキルが高いのだ。
「まずは食え。てめぇらにはこれからすぐに働いて貰うんだからな。しっかり栄養付けとけ」
「……ま、話ってのはそういう事だ。聞きたい事もあるだろうが、今はとりあえずメシにしようぜ。冷めると忠勝がうるせーからな」
「んなもん当たり前だろ。オレの目が黒い内は、食材を粗末にする事は許さねぇ」
男前な宣言を頂いたところで、俺達は事務所中央のテーブルを囲み、昼間と同じく無言の食事を開始した。
ちなみに献立は豚カツと味噌汁、そしてホウレン草の胡麻和え。なんと言っても我らが源忠勝の手料理、味は最初から保障されているようなものだ。
「ふぅ。ごちそーさん」
満足気な様子で食事を終え、空になった食器類を調理スペースの流しの中に放り込み、そして洗い物を全て忠勝に丸投げしてから、宇佐美巨人が口火を切った。
「あー、今回お前らを呼んだのは……、まあいつも通りの用件だ。俺達の仕事の助っ人を頼みたい」
「助っ人か。近頃は、あまり呼ばれなくなっていたが」
「そりゃそうだろ。俺達は代行のプロなんだ、これでもプライドってもんがある。そうそうお前らの手を借りる訳にはいかねーよ」
言われてみれば当然の話である。過去、俺と蘭は何度か巨人の仕事を手伝った事があるが、それらは合コンの穴埋めやら猫探しやら、そんなチンケな仕事では勿論ない。
俺と蘭が力を貸したのは、宇佐美代行センターが独力では解決できないと踏んだ、規模の大きな難題ばかりだった。しかも大抵が“裏側”絡みの荒事である。
という事はつまり。今回もまた、同様なのだろう。
「ま、そういう事だな。これまでと較べてもかなりデカい依頼だ。多分だが、お前さんも無関係じゃない」
「ふん。そう云われれば、予想も付く。大方、“黒い稲妻”を名乗るグループの件だろう」
「やっぱ知ってたか。ああ、その通り。あの連中、少しばかり調子に乗り過ぎててな。人数を頼んで暴れ回って、色々な所から恨みを買ってる。“裏側”と無関係な民間人にもちょっかい掛けてるっつー事で、“正義の鉄槌”を食らわしてやりたいってのが今回の依頼人サマの頼みだ」
「具体的には?」
「一体どこから掴んだ情報かは知らんが……依頼人が言うには、今夜、連中の集会が開かれるらしい。時間と場所を教えるからそこで確実に連中を叩き潰してくれ、と来たもんだ。やれやれ、相手が何十人いるかホントに分かってて言ってるのか疑問だぜ」
眉間を揉み解しながら、巨人が面倒くさそうにぼやく。
確かに名が売れているとは言え、宇佐美代行センターの従業員は数えるほどしか居ないし、戦闘要員に至っては巨人と忠勝の二人だけである。そんな所にそんな依頼を持ち込むのは理に適っているとは言いがたい。
「依頼人は、何者だ?何を考えている」
「俺は知らんよ。匿名の依頼だからな。ただ口座に前金が振り込まれてるから、支払いに関しては信用できそうだぜ」
「そんな事は訊いていない」
匿名ねぇ。あからさまに怪しいが、しかしどういう事なのか。
俺達が手伝った事で、過去にこの事務所は結構な数の荒事を解決している。
その実績を考慮した結果、今回の件も達成可能と踏んだ可能性は十分にあるのだが。
……取り敢えず、この問題に関しては頭の片隅に留めておくとしよう。思い過ごしならそれでいいし、無駄に悩むのも馬鹿な話だ。
「成程。それで、俺と蘭の力を頼ろうと考えたか」
「ここまで来てノーとは言わないでくれよ、もう依頼は受けちまったんだからな。何なら報酬の取り分はそっち優先でいいぜ」
無責任に引き受けたお前が全面的に悪い、とよっぽど言ってやりたかったが、まあ勘弁してやるとしよう。
どちらにせよ、俺としても“敵対勢力”である連中を放置する訳にはいかないのだ。
前回の尋問では集会に関する情報は引き出せなかったので、まさに今回の巨人の申し出は渡りに船というものであった。
忠勝と巨人が戦力として加われば、こちらとしても楽に目的を達成できる。そして俺達は相当額の報酬を頂けて、更には宇佐美代行センターに恩を売れる。果たして一石何鳥だろうか。
「ふん。仕方が無い。力を貸してやるとしよう。恩に着るがいい」
内心ではほくほく顔になりながら、俺はいかにも面倒くさげな調子を装って言った。
巨人はそんな俺の態度に気付いているのかいないのか、「これで信用を落とさずに済むぜ」と安心したように額の汗を拭っている。
「どうやら話はまとまったらしいな」
その時、暖簾が持ち上げられて、忠勝が事務室に戻ってきた。という事は洗い物を終えた筈なのだが、両手に小鉢を持っているのはどういう訳か。
「ほらよ、食後のデザートだ。言っとくが、別に手伝いを頼んだ礼に作ってやった訳じゃねぇぞ」
さすがは我らが源忠勝、アフターサービスも万全だった。忠勝にはツンデレ喫茶の店員こそが天職なのではなかろうか。
そんな事を考えながらタッちゃんお手製の杏仁豆腐をぱくついて、来るべき戦いに備えて英気を養う。
依頼人からの情報によれば、“黒い稲妻”の集会は川神の重工業地帯、第十三廃工場にて、午後十時より開かれるらしい。
「蘭。覚悟は済んだか」
「ははっ。不肖森谷蘭、命に代えても主の御身を護り抜き、主の敵を討ち砕いてみせます!」
時計が示す現在時刻は午後八時―――決戦の時は、すぐそこまで迫っていた。
~おまけの???~
「どうしたんだい、リュウ。いきなり召集なんて掛けて」
「あと少しで獣拳で五連勝できそうだってのに、着メロで気が散って負けちまったじゃねーか!あ゛ー、思い出すだけでも腹立つ!」
「うう~、まだ眠い……」
「くっくっく、なぁに、すぐに目も覚める。――マロードから新たな指令が来たぞ」
「うはっ、マジか!なんだなんだ、ウチは何すりゃーいいんだ?」
「くく、そう急かすな……喜べ天、お前好みの指令だ。例の“黒い稲妻”のアジトに乗り込んで、原型が残らなくなるまで叩き潰せ、だとよ」
「おおー、そりゃーいいな!暴れ放題じゃん!やっぱイカシてるなぁ、マロードは」
「マロードだからな。当然の事だ」
「つまり、マロードは連中のアジトを突き止めたってことかい?流石だねぇ」
「マロードだからな。それも当然の事だ。くっくっく、あいつはやはり最高だ……!」
「ねえリュウ~。それっていつやればいいの?」
「奴らの集会は今晩の十時。つまりは一時間後だ。今から身体が疼いて仕方がないな」
「そっかぁ。じゃあ、それまで寝ててもいいよね。おやすみ~」
「「「寝るな!」」」
この話を書いてる時は妙に調子が良く、他の回の数倍のペースで書き上がってしまいました。
何でだろう、作者的に前田くんが書き易過ぎたのか。
普段からこの調子が出せれば良いのに、と切実に思う今日この頃です。それでは、次回の更新で。