「信長様、信長様。どうかお目覚めになってください」
誰かに―――否、誰かは分かり切っているのだから、そんなまだるっこしい表現はすまい。
我が従者たる森谷蘭にゆさゆさと身体を揺さぶられて、俺は目を覚ました。
さて今日は何月何日の何曜日だっただろうか。七割方サボタージュ中の俺の頭脳は、たっぷり五秒ほど思考してからやっと答えを引っ張り出してくれた。
四月十日、土曜日。
そう、今日は川神学園への転入を果たしてから初めての休日だった。
「あ、お早う御座います、主!」
俺が目を開けている事に気付くと、ベッドの傍に立ってこちらを見下ろしながら、蘭はニコニコとやたらに明るい笑顔を浮かべた。
どうやら料理の途中で起こしに来たらしく、私服に着重ねた純白のエプロンがなんとも家庭的な雰囲気を醸し出している。
十年来の付き合いの俺にとっては特に目新しくもない格好だが、それでもほんの少しだけ心動かされてしまったのは否定できない。
これで相手が蘭でさえなければ、溢れ出る新妻オーラに間違いなくノックダウンされていたことだろう。危ないところだった。
朦朧とした意識の中で益体も無い思考を行いながら、俺は身体を起こして時計を確認する。
「正午を過ぎたか。多少、寝過ぎたな」
いくら休日とはいえ、平日と起床時間がズレ過ぎている。これはよろしくない。こんな風に昼を過ぎるまで爆睡したのは久しぶりだ。
まあ今週は転校やら決闘やら川神百代やら、色々と濃い日々が続いたので、知らず疲労が溜まっていたのだろう。
「はっ。畏れながら、これ以上の睡眠は御健康に差し障るやもと愚考し、主にはご起床頂くべく行動致しました。主の許可を得ぬ勝手な振る舞い、お許しください」
「苦しゅうない。主の意を汲み、己が裁量で働いてこそ真の臣と言えよう。褒めて遣わす」
「は、ははーっ!勿体無きお言葉、蘭は果報者にございますっ!」
半ば寝ている脳味噌が適当に考え出した台詞を、欠伸を噛み殺しながら言ってやると、蘭はえらく感激した面持ちで平伏した。
こういう時に埃一つないフローリングが役に立つ。と言うか、まさかその為に毎日念入りに掃除しているんじゃなかろうな、こいつは。
あまり考えたくもない疑惑を抱きながら、体温の残る布団から身体を引き剥がして、洗面所へ向かう。
頭が冴えてくるまで存分に冷水で顔を洗い、適当に髪型を整えてリビングに戻ると、蘭が狭いテーブルに料理皿を並べているところだった。
「献立は……冷麺か」
黄金色に輝く麺の上に緑のキュウリと赤のキムチを添え、更にゆで卵や焼豚等の幾つもの食材がトッピングされた、実に色鮮やかな一品である。当然、見た目だけではなく味の方も保障済みだ。
「それで、蘭」
「ははっ」
「何故、皿が三枚も用意されている」
俺の眼球が正常に機能しているとすれば、明らかに一枚多い。
ついでに言うなら、冷えた麦茶の注がれたグラスも一名分余分に用意されている模様である。
「むむ、不覚。主、も、申し訳ございません!蘭はお伝えし忘れておりましたっ」
「何を」
「間もなくお客様がこちらにおいでになるそうです。主にご起床頂いたのは、その事にも関係がございました」
「客?」
休日の真昼にお客様、ねぇ。生憎と心当たりは一人くらいしかないのだが、さて。
もしやと思い携帯電話の着信履歴をチェックしてみれば、見事に当たりだった。
睡眠中の俺が一向に電話に出なかったので、代わりにより確実な蘭の方に連絡を入れたのだろう。蘭は休日も鍛錬のために早朝から活動している事が多いのだ。
悪い事をしたな、と反省していると、アパートの階段を上る軋んだ音が聞こえてきた。
次いで、ドアをノックする音が数回。噂をすれば何とやら。どうやら当人のご到着のようだ。
「この“気”は……、間違いありませんね。はい、ただいま!」
嬉しそうに返事をしながら、蘭が玄関の扉を押し開く。
予想通りの仏頂面でそこに立っていた幼馴染に向かって、蘭は身近な者にしか見せない満面の笑顔を浮かべた。
「いらっしゃい、タッちゃん!」
「おう。……邪魔するぞ」
「邪魔するなら、帰れ」
「はっ、くだらねぇ。ベタ過ぎてツッコミを入れる気にもなれねぇな」
そっけなくダメ出しをしながら今まさにリビングに足を踏み入れたこの男こそ。
我らが幼馴染にして至高のツンデレ。タッちゃんこと源忠勝である。
忠勝は目つきが鋭く言葉遣いが乱暴で喧嘩っ早い、の三拍子が揃った生粋の不良だが、実際に接してみると意外と親切な部分も多かったりする。
面倒見もよく、機転が利いて腕っ節も強い。何とも頼りがいのある出来た人間なのだ。
にも関わらず、その素顔を知る人間はあまりにも数少ない。第一印象で損をするタイプの典型と言えよう。もっとも、本人は他人にどう思われようが全く気にしていないのだが。
「ちっ、このアパートは相変わらずのボロさだな。階段がいつ抜けるかと冷や汗モンだぜ。その割に部屋だけは妙に綺麗ってのが納得いかねぇが」
「ふん、此処は俺の住居、侵されざるべき寝所だ。故に、清純を保つのは当然のこと」
「アホか。家事をことごとく蘭に任せっきりの野郎が威張ってんじゃねえ」
毒づきながらベッドの縁に腰を下ろして数秒後、忠勝は気難しい表情を浮かべた。
布団にまだ俺の体温が残っている事に気付いたらしい。
「電話に出ないと思ったら、やっぱり寝てやがったか。ったく、怠惰な生活してやがるぜ。蘭の世話がねぇとまともに生きていけるかどうかも怪しいな」
「その時は、忠勝。お前を新たな世話係に任命するだけの話」
「ええっ!?だ、ダメです!タッちゃん、主の世話をするのは私だけの仕事なんです!取らないで下さいよ~!」
「誰か取るかボケ!こっちから願い下げだ、お前は好きなだけ世話焼いてろ!」
口を開けば文句と小言ばかりだが、忠勝はどこか楽しそうな様子だった。蘭は言うまでもなく活き活きとしているし、勿論俺も楽しんでいる。
気心の知れた三人だけの集いなのだ、楽しくない訳があるまい。しかも三人が三人とも事情あって友人が少ない身となれば、尚更である。
源忠勝と俺達との出会いは、およそ十年程前にまで遡る。
当時の堀之外で起きた“とある事件”を通じて知り合って以来、俺達は適度に衝突と和解を繰り返しながら友情を育んできた。
今では紛う事なき親友同士であり、互いに互いの本性を知る数少ない人間の一人となっている。
織田信長と、森谷蘭と、源忠勝。三者が力を合わせれば、大抵の障害は無理矢理に突破できるだろう。乗り越える、ではない辺りがミソである。
「これは……、冷麺か。もしかしてオレの分まで作ったのか?」
テーブル上の皿の枚数に目敏く気付いて、忠勝が尋ねる。それに対し、蘭が弾んだ声で答えた。
「はい!電話のとき、昼ご飯がまだだって言ってましたから。それに、久し振りにタッちゃんと一緒に食べたかったですし!」
「お節介なやつだな、ったく。……だがまあ、一応感謝はしといてやる。ありがとよ」
「えへへ、蘭はタッちゃんにお礼を言われてしまいました、主」
「くく。お前も漸く、素直に感謝する事を覚えたか。忠勝」
「勘違いするんじゃねえ、文句を付けながら食うのは食材に失礼だから言ってやったまでだ」
忠勝の素敵なツンデレっぷりは今日も絶好調だった。これで自覚がないのだから恐れ入る。
その後、三人で黙々と冷麺を啜る。何年も昔に忠勝が「食事は静かにするもんだ」と主張し始めて以来、俺達は食事中の発言は自重する事にしていた。
賑やかでなければ皆で食べる意味が無い、と当時の蘭は半べそを掻きながら反対したものだが、そんな蘭も今ではこの静かに流れる時間を気に入っているようだ。
数分間、ずるずると麺とツユを啜る音だけが部屋に響く。客観的に見るとさぞやシュールな光景だろう。
「ふう。また腕を上げたんじゃねえか、蘭。そこらのラーメン屋なんぞよりよっぽど上等な味だぜ」
食事を終えて、冷たい麦茶で一服しながら忠勝が口を開いた。
全く以ってその通りだと思う。スーパーの安売り品とボロアパートの貧弱なキッチン設備でここまでの味を出すのは容易ではなかろう。
実際、本格的に勉強すればそちらの道でもやっていけるのではと真剣に検討したくなる程に、蘭の料理の才能は突き抜けているように思える。
「えへへ、蘭はタッちゃんに褒められてしまいました、主」
「くく。お前も漸く、素直に賞賛する事を覚えたか。忠勝」
「あのな、信長。てめぇはオレを何だと思ってやがる」
それは勿論ツンデレですが何か、と言いたいが殴られるのは嫌なので耐える。幼馴染の関係には遠慮も容赦もないのだ。必要以上に刺激するのは得策ではない。
「ああ、そういや……オイ。こいつを取っとけ」
ぶっきらぼうに言いつつ、忠勝は自分の脇に置いてあった紙袋を差し出してくる。受け取って中身を覗いてみれば、駅前の人気洋菓子店の箱が姿を見せた。
「和菓子の方が好みって事は分かってるがな。別に洋も嫌いって訳じゃねぇだろ」
「わー、これってベーカリー・ラクスティの梱包じゃないですか!あそこってすぐに品切れになるから入手が難しいって噂になってるんですよ。わざわざありがとう、タッちゃん!」
これで三時のおやつは決定です、と上機嫌にはしゃぐ蘭。
「仕事で依頼人に渡されたのを処理できねぇから厄介払いしただけだ。言っとくが別にお前らの栄養状態を気遣った訳じゃねぇぞ」
ツンデレ全開な台詞を無自覚に吐きながら、忠勝は俺に向かって僅かに目配せした。
……やれやれだ。やはりただ三人で集まって呑気に駄弁りに来た、という訳ではなかったか。まあ何となく予想はしていたのだが、遣る瀬無いものがある。
この心地良い空気をもう少し楽しんでいたかったのだが、仕方がない。
「蘭。忠勝と話がある。席を外せ」
「え、あ……は、はい、主。蘭は了解致しました……」
未練たっぷりな様子でちらちらと振り返りながら、しょんぼりと部屋から退出しようとする蘭。
その哀愁漂う背中につい笑ってしまいそうになるのを堪えて、俺は言葉を続けた。
「但し。三時までには戻れ。舌の肥えた客人を満足させられる茶を淹れるには、従者が要る」
「は……、ははーっ!三時のお茶会を励みに、蘭は己を鍛え上げて参ります!」
途端に元気を取り戻して、そのままの勢いで部屋の外へと飛び出していく。
何とも気分の浮き沈みが激しい奴だ。あの立ち直りの早さは見習うべきポイントかもしれない――などと頭の片隅で思考しながら。
二人だけになった部屋で、俺はベッドの対面にある椅子に腰掛けて、忠勝と向かい合った。
数秒間の沈黙の後、切り出す。
「それで、忠勝。何用か」
「まずはその面倒くせぇ喋り方をやめろ。誰も聞いちゃいねえし、今は蘭もいねえんだからな」
ふむ、言われてみればそれもそうだ。唯一の従者が不在なら、主君の存在は必要ない。
今この場に限っては、俺が“織田信長”を演じる理由は皆無だった。
その事に思い至った以上、俺としても不要な我慢はすまい。我慢は身体の毒である。
「あー、あー。やれやれ、普通の喋り方をするのも久々な気がするな。何だか“あっち”が板に付き過ぎてて、本来の喋り方に違和感を覚えつつある自分が怖い」
「……相変わらず、蘭とはいつもあんな調子なのか?二人だけの時でも」
「相変わらず。いつだってあいつは従者で、俺は主君だ。おはようからおやすみまで、ずっとな」
肩を竦めて皮肉っぽく答えると、そうか、と忠勝は少し暗い表情で頷いた。
幼馴染の忠勝は、俺と蘭の複雑な関係を誰よりも良く理解している。俺達主従を取り巻く厄介な事情を知っている以上、俺の言葉には感じるものがあるだろう。
「色々と言いたい事もあるが……これは結局のところ、てめぇらの問題だからな。オレが口出しするのも違うだろ」
「ああ。そうしてくれると助かる」
実際、こればかりは誰かにどうこう言われて解決するような問題でもない。
答えの出ない問答をあれやこれやと続けるよりも、今は優先すべき事があるハズだ。
「それで?その話がしたくてわざわざ蘭を追い払った訳でもないだろう、タツ」
ちなみにタダカツを略してタツ。蘭の“タッちゃん”も由来は同じである。
実のところ、最初はカツと呼んでいたのだが、そう呼ぶ度にキレて殴りかかってきたので仕方なくタツで譲歩したという背景があったりする。
子供の頃の忠勝は今以上に喧嘩っ早かったのだ、という微笑ましいエピソード。
閑話休題。
「ああ、そっちも気になるっちゃあ気になるが、今のオレが訊きたいのはその事じゃねぇ。信長、てめえ……どういうつもりで、ウチに転入してきやがった」
「……成程、そういうことか。今まで訊かれなかったのが不思議なくらいだな、それは」
忠勝の鋭い目が据わり、声も低くドスの利いたものへと変化する。ただそれだけで、室内の雰囲気が重苦しいものへと染め上げられていくのを感じた。
どうやらこの件に関しては、忠勝は真剣らしい。適当に答えたりしては殴られる程度じゃ済まないかもしれないな。心して掛からねばなるまい。
「随分と気にするんだな、タツ。俺が今までどういう風に生きてきたか知らない訳じゃないだろ?何故今更になって文句を付ける?」
「確かにオレはてめえの行動に関しちゃ干渉しなかったさ。ヤバい連中と関わってる事も、二人分の学費を稼ぐ為の手段の事も、それに―――太師高でてめぇらがやらかした事も、な」
太師高とは、俺と蘭が川神学園への転入前に通っていた県立校の通称である。
「だがな、それを“表側”に持ってくるってんなら話は別だ。てめえと蘭が、太師高でやったのと同じような事をウチの学校でもやるつもりなら、オレはそれを見過ごす訳にはいかねぇんだよ」
俺の目を真っ直ぐに見据えて語る忠勝の表情からは、悲壮な使命感のようなものが感じられた。こいつのこういう顔を見るのは随分と久し振りな気がする。
「やけに拘るな。母校が大切……ってタイプでもないか、タツは。だったらアレだ、学園内に誰か好きな女でもいるのか?で、俺の魔の手がその娘に伸びるのを心配してるとか」
「……」
割と冗談のつもりで言った台詞だったのだが、忠勝はなぜか沈黙してしまった。
まさか意図せずして図星を突いてしまったのだろうか。だとしたら何とも申し訳ないことをした。
そういえば随分と昔に、好きな人がいると聞いた覚えがあったが、もしかするとその恋は未だに現役なのかもしれない。
いや、きっとそうなのだろう。何だか忠勝にはそういう純情な想いが似合う気がする。
「成程な。そういう事なら、心配するのも道理だろう。川神学園が太師高と同じような状態になったら、好きな娘の青春に拭い難いケチがつくのは間違いない。それが嫌だったと」
「……否定はしねぇ。オレは、あいつには普通の学園生活を送らせてやりたいんだよ。あいつの幸せを見届けるのが、オレの役目だ」
力強い意志を双眸に込めてこちらを睨む忠勝の姿は、最高に眩しかった。
常に不機嫌そうなイメージしかない忠勝も、その内面ではちゃんと青春していると言う訳か。
これで色々と合点がいった。どうにも先程から調子がおかしいと思っていたら、そうかそうか。恋なら仕方が無い。
「くくっ」
「んだよ、笑う事はねぇだろうが。心配しなくても、似合わねぇってのは承知の上だ」
「くくくっ、別にそういうつもりじゃないんだがな。ただ、恋は盲目という言葉を思い出さずにはいられなかっただけだ」
今の忠勝は完全に目が曇っている。それだけ想い人の事が大切だということなのだろうが、しかし“らしく”ないのも確かである。
「川神学園の学長の名前を思い出してみるべきだな。或いは3-F所属の孫娘の方でもいい。あと、あの体育教師もイイ線いってるか」
川神鉄心、川神百代、ルー・イー。川神院を代表する世界レベルの強者達。
「なぁ、タツ。俺がその人外どもを“どうにか”して、太師時代のような状況を再現できると……本当にそう思うのか?」
脳裏に蘇るは愛すべき我が古巣、県立太師高等学校。
俺と蘭の入学当初、そこにあったのは無秩序な混沌だった。堀之外という街を象徴するかのような、ルール無用の無法地帯。
品の無い人間達による品の無い争いが日常的に繰り広げられ、それによって学校としての正常な機能が完全に麻痺している状況だ。
そんな様があまりに見苦しく、腹立たしいものだったので、俺はいっそ自らの手で学校を統治することに決めたのであった。
もっとも、理由はそれだけではない。この十数年の人生で俺が培ってきた力がどれほどのものなのか。学校と言う一つの社会構造にどれほどの影響を及ぼす事が可能なのか。
―――俺の夢は本当に実現できるのか。
丁度、何らかの形で試す機会が欲しかったところでもあった。
見せ掛けの威圧と多少の暴力、更にはそれらによって作り上げてきた裏社会における人脈と噂を最大限に活用して、まずは自身の所属するクラスを掌握。
危機感を覚えて攻撃を仕掛けてきた他クラスの連中を適度に痛めつけると、お次は先輩方の御登場である。
そんな風にわらわらと沸いて来る反抗勢力を、手段を問わず叩き潰し、従う者だけを配下に加える。
一年間を通じてそんな闘争を繰り返し、勝利を重ねている内に、いつしか校内で俺に逆らえる人間は居なくなっていた。教師ですらも例外はない。皆が俺を恐れ、畏敬の念を払って接してきた。
授業中に騒いでいる連中も、俺が睨めば借りてきた猫の如く大人しくなったし、クラス同士の抗争は俺が出張るだけで瞬時に鎮圧された。
いつしか恐怖による新たな秩序が生まれ、気付けば俺は、事実上の独裁者として君臨していたのであった。
―――だが。川神学園で同じ事が可能かと言われれば、答えは否。断じて否である。
まず第一に、トップにあの“武神”が居る時点で論外だ。恐怖による学園支配など目論めば、呼吸する間もなく叩き潰されて終了だろう。
そして、あの爺さんを除外したとしても尚、障害は多い。
天下の九鬼財閥の御曹司に、日本三大名家が一つ、不死川家の御息女。本当の意味で敵に回した瞬間、背後に控える巨大な勢力が動き出すような、別の意味で危険な連中もいる。
そこに加えて言わずと知れた川神百代だ。正直言って難易度が高いなんてものじゃない。
そんな事は、これまで川神学園の生徒を続けてきた忠勝の方が良く理解しているハズなのだ。
「……ああ、そういうことかよ」
俺から視線を外すと、忠勝は苛立たしげに頭をガリガリと掻きむしった。いつにも増して不機嫌そうな面だが、その怒りは主に自分自身の迂闊さに向いているようだ。
「ちっ、確かに、頭に血が昇ってたらしい。んな簡単な事にも気付けねえとは情けない限りだぜ。ったく、アホかオレは」
「なに、恋愛は人を狂わせると言うからな。タツも人の子、例外ではなかったってだけの話だろ。気にする事はないさ。何より面白いから俺は許すぞ」
「うぜえぞボケ!……しかしまあ、八つ当たりみてぇな形になっちまったのは確かだ。一応は謝っておく、悪かった」
忠勝は僅かに表情を和らげて頭を下げた。「デレたか」と無性に言いたくなる衝動をどうにか抑える。今それをやると、ツンに逆戻りを通り越してキレる可能性が高い。
「それにしても、太師か。くく、今となっては懐かしいな。果たして今頃はどうなっている事やら」
織田信長と云う独裁者が消えた事で、再び混沌の坩堝と化しているのだろうか。それとも誰かが俺の跡を引き継いで秩序を保っているのか。
まあ、俺にとってあそこは既に通過地点の一つでしかない。後は野となれ山となれだ。
「信長。てめえがウチで無茶をするつもりはねえってのは分かった」
最初に比べればかなり険の取れた口調で、忠勝が切り出した。
「だが、だったら何が目的だ?わざわざ“あんな手段”で入学金を稼いでまで、ウチに転入しようと思った理由が分からねぇな」
「タツと同じ学校に通いたいって事だよ。言わせんな恥ずかしい」
「だったら言うなアホが!オレも聞きたくなかったぞボケ!ちっ、いいからさっさと話せ」
場を和ます小粋な冗談はさておき。俺が川神学園への転入を決意した背景には、まあ幾つかの理由がある。
太師高における俺の計画は万事が上手く運んだが、問題が一つだけ生じた。それはすなわち、あまりにも上手く行き過ぎたことである。
予想に反して最初の一年で概ねの目的を達成してしまった俺は、今後の身の振り方を色々と考えた。
このまま底辺校の番長を続けるだけで、十代の貴重な三年間を無為に過ごしてしまっていいのか。当然、答えは否だ。良いハズがなかろう。
「タツ。お前も知っての通り、俺こと織田信長には夢がある」
「……どうした、突然。一年や二年の付き合いじゃねえんだ、てめえが難儀な夢を抱えてる事くらいは知ってるよ」
「夢とは坐して叶うのを待っていても仕方が無い。だから俺は何としても前に進まなければならなかった」
確かに俺は太師高の支配を通じて、自身の成長と実力をある程度、確認することができた。
しかし、足りない。その程度では全く以って足りないのだ。俺の最終目標地点、すなわち“夢”に届かせるには、何もかもが不足している。
知識、人脈、経験、学歴。十代を終えるまでには、それら全てを一ランク上のものへと昇華させる必要性があった。
要するに、川神学園は俺にとっての修行場なのだ。
川神学園のSクラス、特進組は有力者の子息が多く集う。学生期間の内にどういう形であれ関わっておけば、将来思わぬ形で役に立つかもしれない。
実力が足りなければ問答無用で落とされる、という厳しいルールも、修行にはかえって好都合だ。元々頭の出来にはそれなりに自信がある。二年間マジメに勉強すれば高偏差値の大学を狙うのも不可能ではないだろう。
半ば公然と相手に喧嘩を吹っかけられる制度である“決闘システム”と、常に強者との戦闘を求めている川神百代の存在がネックだったが、それも修行の一環と考えれば悪くないものだ。
それらの試練を乗り越えることで、俺は更に成長できる。胆力演技力思考力判断力行動力、俺にはまだまだ鍛える余地が残っている筈なのだから。
“織田信長”をより理想的な存在として完成させるために、俺はあえて虎穴に足を踏み入れた。
正直、転入一週間目にして色々と弱音を吐きたくなる現状だが、しかし逃げ出す訳にはいかない。
――全ては、“夢”を叶えるためなのだ。
「……とまあ、大まかな理由としてはそんなところだ。納得してくれたか?」
「ああ。てめえが例の夢に関して、今でも真剣だって事は分かった。そこまで決意が固いってんなら、オレも邪魔をする気はねぇ」
目を瞑りながら、忠勝はどこか諦めたような調子で呟いた。
子供の頃、俺が一度だけ語って聞かせた“夢”の内容に、忠勝は少なからず反対したものだ。この態度を見る限り、その意見は未だに変わっていないらしい。
まあ、それも当然の話か。俺の夢はそれだけ、一般的な人間の感性から“外れて”いる。俺はその程度の事は自覚していた。
「ただな。あまり無茶すんじゃねぇぞ。一昨日、グラウンドでモモ先輩に絡まれた時はどうなるかと思ったぜ。ヒヤヒヤさせんなボケ」
「おおっと、俺を心配してくれるとは。くくっ、タツはやはり優しいな」
「違ぇよ、勘違いすんなボケが。放って置いて昔馴染みが取り返しのつかねぇ事になったら俺の寝覚めが悪くなるからな。それだけだ」
憮然とした表情で吐き捨てる忠勝。これが照れ隠しだと分からなければ、源忠勝の親友を名乗る資格はない。
目つきと口は悪くとも友誼に厚く、世話好き。そんな我が幼馴染には是非ともずっと変わらずにいて欲しいものだ。
「……」
「……」
お互いに言うべき事は言った、という風に、俺も忠勝も口を閉ざした。
そのまましばらくの間、静かな時間が流れる。気まずさや居心地の悪さは、少しも感じなかった。
「ああ、それと」
数分後。ふと思い出したような調子で忠勝が声を上げた事で、沈黙は途切れる。
「仕事絡みで親父から何か話があるらしい。今日の夕方に事務所まで来て欲しい、だとよ」
忠勝の言う親父とは、何を隠そう川神学園2-Sクラスの担任教師、通称ヒゲこと宇佐美巨人である。名字が違うのは、巨人が孤児院出身の忠勝を養子として引き取ったからだ。
巨人は堀之外の某所に代行業――いわゆる何でも屋の事務所を構えており、忠勝は日頃からその仕事を手伝っている。依頼内容は様々で、浮気調査やらストーカーの特定やら合コンの人数合わせやら、とにかく節操無く引き受けているらしい。
あまり表沙汰に出来ないような類の依頼も結構な数をこなしているという事で、宇佐美代行センターと言えば裏社会でもそれなりに名の通った事務所である。
その巨人からの呼び出し、それも仕事絡みと来れば、用件の内容も大体は予想が付こうと言うものだ。十中八九“裏側”関係だろう。
例のクスリ―――ユートピアの件と言い、最近は“裏側”の騒がしさがやけに目立つ。
ここのところ、あの板垣一家の動きが妙に活発化している事を考えても、俺にはこの川神で何事かが起きようとしているような、そんな予感がしてならないのだ。
「タツ。飯時に行くから夕食を用意して待っていろ、とおっさんに伝えてくれ」
休日にも関わらず、わざわざこちらから事務所まで足を運ぶのだ。それくらいの見返りはあっても罰は当たるまい。
「ちっ、相変わらずセコい野郎だぜ。まあ親父の女遊びに使われるよりかは食事代に消えた方が幾らかマシかもしれねぇがな。分かった、伝えておく。……オレの用事はこれで終わりだ」
「ふむ、だったらさっさと蘭の奴を呼び戻してやるとするか。そろそろ三時だしな」
今も中庭で律儀に鍛錬を続けているであろう我が従者を出迎えるべく、玄関のドアを押し開く。
「三時!三時でございますねっ!?蘭はすぐに参ります!参ってお茶をお入れ致します!」
忠勝を交えた久々の茶会をよほど楽しみにしていたのだろう。
俺がドアを開けた途端、こちらに向かって中庭から叫ぶや否や、あろうことか蘭は直接ジャンプし、一瞬で二階の部屋の前まで飛び上がってきた。
ああ、やはりこいつも人外なんだなぁ、と実感せざるを得ない光景であった。
「ところで、僭越ながらお聞きしても宜しいでしょうか。先程まで主は何のお話を?」
「何。天下国家に関する諸問題について、思う所を論じていた」
「流石は信長様、談ずるところの壮大さが違います!蘭は感服致しました」
「おいてめぇら、合流早々アホな会話してんじゃねえよ。イライラさせんな」
「あー、酷いです、タッちゃん!そんな意地悪ばかり言ってると愛しの一子ちゃんに嫌われてしまいますよー」
「なっ……!蘭、何でその事を知ってやがるっ!?」
「愛しのと申したか。蘭。詳細を」
「てめぇも食いつくなボケ!ちっ、薮蛇もいいところだぜ……ったく」
そんな調子で始まったお茶会は、幼馴染のコイバナという最高の話題を肴に、大いに盛り上がったのであった。
ちなみに忠勝の想い人だが、何とあの川神百代の義妹であることが判明した。なんというチャレンジャー、そこに痺れる憧れる。真似はしないがな!
~おまけの風間ファミリー~
「っくしょーい!ううっ、急にくしゃみがぁ」
「花粉症かもしれないな。この季節、症状持ちは辛いだろうし」
「風邪でも引いたんじゃないの?……あ、いや、それはないかな」
「モロの言うとおり。ワン子が風邪を引くわけがない」
「ぐぬぬ、どーいう意味よ!何だかすっごいバカにされてる気がするわ……」
「ワン子はいつも身体を鍛えていて健康的だから、風邪なんて引く理由が無い。ってモロと京は褒めてるんだと思うんだけどねぇ」
「えっ!?そ、そうだったの!?あ、あはは、てっきりバカだから風邪引かない~とか言われてるんだと思って」
「なんという被害妄想。自分が褒められても気付けないとは、さすがの私も同情せざるを得ない」
「うう~。お姉さまぁ」
「おーよしよしワン子、存分に私の胸で泣くといいぞ」
「そういえば大和、例の転入生ズについて何か新情報はないか?オレ、どーにもあいつらのことが気になるんだよなー」
「それなんだけど……太師高の知り合いから聞いた話によると、あの二人、ウチに転入してくる前は、冗談抜きで学校を一つ支配してたらしい。しかも極端な恐怖政治」
「えー、支配ってそんな大袈裟な。ちょっとばかり仕切ってただけでしょ?」
「いやー、そうでもないと思うぞ、モロ。私がこんな風に言うのも何だが、あいつはとんでもない化け物だよ。本当に全校生徒を恐怖で抑え付けていても不思議じゃないな」
「同感。あの殺気、尋常じゃなかった。……正直、人間とは思えない。アレは悪魔」
「その悪魔にウチの学園が狙われてるのかもしれないんだ。注意だけはしておかないと」
「オレ達の学園はオレ達の手で守る!青春学園バトル物って感じだな。おおー、なんだか燃えてきたぜっ!」
「キャップは悩みが無さそうで羨ましいよ、ホント……」
今回は主に説明+次回への繋ぎ的な話でした。あとゲンさんは皆のヒロイン。
尚、感想で何人かの方から共通の疑問が上がっている様なので、この場を使って回答しておきたいと思います。
Q1.どうして主人公はわざわざ危険が多いと分かっている筈の川神学園に転入したの?
この疑問に関しては、大体は今回で説明された通りです。主人公がドM野郎だという設定は特にありません。
Q2.鍛錬の時間が一日一時間って少なすぎじゃない?
全く以ってその通りです。が、これに関しても一応はちゃんとした理由を用意してありますので、どうか作中にて明かされるまでお待ちください。プロット上そろそろ判明する予定です。
今回の事で痛感しましたが、やはり色々な設定を小出しにし過ぎるのは悪い癖ですね。説明不足になってしまっては元も子もありません。反省の材料とさせて頂きます。
それでは、次回の更新で。