四月二十八日、火曜日。
ふと気が付いたら朝だった。泥の様に眠った、という自覚すら無い。就寝と起床との間に全くタイムラグを実感できなかった。体感的に言えば、自室のベッドに倒れ込んだ次の瞬間には朝の日差しを瞼越しに感じているのだ。一欠片の夢にも立ち入る隙を与えない、一種の昏睡にも似た睡眠。そんな随分と久方ぶりの体験と共に、俺の一日は始まった。
「……」
まあ前後不覚に爆睡してしまったのも無理はない事か、と未だ靄の掛かった意識の中でつらつらと思考する。何と言っても昨日という日は、俺にとって恐ろしく長大で恐ろしく濃密な、まさに激動と云うにも生温いような一日であった。“猟犬”ことマルギッテ・エーベルバッハの転入から始まり、一体幾つのイベントを立て続けに消化した事やら。メインイベントたる堀之外での合戦を終えた後も、既に疲労困憊の肉体を酷使して各種の戦後処理に奔走しなければならなかったのだから、夢すら見ない眠りっぷりも当然と言えば当然である。
まあ、益体も無い回想は此処までにしよう。新しい朝が来たなら、それは即ち希望の朝である。今日は疑いなく昨日の延長線上にあるが、だからと言って贅肉じみて余分なものを引き摺っていく必要は無い。そろそろ精神のスイッチを切り替えて、過去に浸らず未来を創造するべき頃合だろう。そんな決意を心中で固め、纏わり付くような眠気を頭から締め出しつつ両の瞼をこじ開けて――
目の前には蘭の顔があった。
「―――」
「あ、お目覚めですね。ふふ、おはようございます、シンちゃん」
「…………成程、ここまでが夢か。やれやれ全く、最近の夢落ちは手が込んでいて面倒だな」
我が幼馴染にして一の臣こと森谷蘭が、よもや俺の布団の中に潜り込んで添い寝している訳がなかろうに。灰色の脳細胞は一瞬の内に現状に対する分析を終え、然るべき対応を弾き出した。つまるところこの奇妙奇天烈な夢から脱出するには、夢の中でもう一度眠れば良いのだ。と言う訳で俺は迷い無く両目を瞑り、体温の残る掛け布団を被った。
「ああ、ダメですダメです、二度寝なんかしたら遅刻しちゃいますよっ」
慌てたような声と同時に身体がゆさゆさと優しく揺すられる。その度に何やら怖いほどに柔らかい感触と心地よい温もりが肉体に密着してくる事もあって、忌々しい事に睡眠妨害としての効果は抜群であった。
もしも“これ”が俺の無意識下の願望やら妄想やらが膨張を重ね炸裂し夢に顕れた結果なのだとしたら、織田信長という男は間違いなくどうしようもない破廉恥漢であり色情魔であり駄目人間である。少しばかり精神鍛錬に充てる時間を増やすべきなのかもしれない、と脳内嫁ならぬ脳内蘭を全力で無視しつつ真剣な思考に沈みつつあった時である。
「……こ、これは、主にご起床頂くため、遅刻を防ぐため。うん、“全力を尽くしても届かないなら妥協してもいい”ってシンちゃんも言ってました。これだけ頑張ってもぜんぜん起きてくれないんだったら……そう、これはいわゆる緊急措置、なのですっ」
何の因果か同じ布団の中に居る俺には、脳内蘭がぶつぶつと漏らすどうにも不吉な呟きが良く聴こえた。途轍もなく嫌な予感に駆られ、咄嗟に夢からの脱出を中断して両目を開く。今にも触れ合う寸前の位置まで接近しつつあった蘭の唇を見れば、その判断が間違っていなかったと知るには十分だった。
蜜花の如く甘やかな少女の芳香に充たされたベッドの上で、かつてない至近距離で目と目が合う。
「……蘭。これから一つ大事な質問をするから、心して答えろよ」
「はい」
ほぅ、と切なげな吐息を零し、潤んだ眼差しを俺の顔に注ぎながら答える蘭を全力で意識から除外しつつ、掠れた声で言葉を継ぐ。
「これは夢か?」
「はい、蘭はまるでステキな夢を見ているかのような心地です……、ああでもまさか、シンちゃんも同じように思っていてくれたなんて、蘭は、蘭は」
「やっぱりかァッ!!」
「ひゃあっ!?」
単なるピンク妄想にしてはリアリティが有り過ぎると思ったんだよ畜生。
何はともあれ掛け布団を吹き飛ばす勢いで跳ね起きて、ベッドの上に胡坐を掻く。未だ横になったまま頬を赤く染めている現実の幼馴染をジロリと見下ろし、胸中を駆け巡る無数の想念を一旦脇に置きながら、俺は努めて冷静な口調で当然の問いを発した。
「何をしてるんだ、お前は」
「添い寝ですよ?」
きょとん、と首を傾げながら答える蘭。何を当然のことを訊いているのか、とでも言わんばかりである。凄まじい勢いで込み上げてきた頭痛をどうにかこうにか堪えながら、尚も尋問続行。
「……男女七歳にして同衾せず、とか何とか言ってなかったか?」
常日頃からあれだけ主張していた潔癖キャラはどうしたんだお前は。
俺の疑問に対して、蘭はもぞもぞと布団の上に身体を起こし、わざわざ正座を組んで決然たる眼差しをこちらへ向けながら、どこか誇らしげに胸を張り、自慢げな表情で答えた。
「そうるしすたぁ曰く、“愛さえあればオールオッケー。恥じらいなんて後からついてくる”、なのです!」
「待て。色々と待て」
あのアマ蘭の莫迦さ加減を良い事に何を吹き込んでやがる、というか影響を受けたにしてもはっちゃけ過ぎだろうキャラが崩壊してんじゃねぇか、と内心で盛大に叫びつつ、俺は全力で動揺を押し殺し、速やかに状況を把握するべく蘭を見遣った。
無駄に凛々しく正座を組んで微笑んでいる蘭は、既に川神学園指定の白の制服を着込んでいた。となると布団の中に潜り込んだのは朝方、それもつい先程の事なのだろう。その証明として、テーブルの上には温かい湯気を上げる蘭お手製の朝食が用意されている。白米、味噌汁、鰆の塩焼き、白菜の漬物、それに関西圏で近頃話題らしい松永納豆。健康的な和膳のメニューを一通り見渡してから、再びその料理人へと視線を戻す。
「……」
「……」
結果として成立するのは、朝一番からベッドの上にて向かい合って見詰め合う男女の図。
何だこの予想外にも程があるシチュエーションは、と頭を抱えて転がり回ってそしてそのまま二度寝したくなる欲求を抑え付けながら、再び口を開こうとした――その瞬間である。
「ねーご主人、ランがどこ行ったか知らない? 起き抜けのホットミルクを作って欲しいんだけど、部屋にも中庭にも見当たらなくって……さ……」
「……………………」
「……………………」
「あ、ねねさん、おはようございます! 今すぐ用意しますね、ちょっとだけ待ってて下さい」
液体窒素をぶち撒けたかの如く瞬間凍結した部屋の中で、蘭だけが普段どおりの呑気さで動いていた。そそくさとベッドから降りてぱたぱたとキッチンに向かうと、冷蔵庫から牛乳パックを取り出し、コンロに火を付けて――その時になってようやく、戸口でパーフェクトにフリーズしていた我が第二の直臣は再起動を果たす。ギギギギと蝶番が軋む音がしそうな動きで首を巡らせ、俺と蘭を交互に見遣って、そしてくわっと猫目を見開いた。
「不覚、明智音子一生の不覚だよ! もし薄っすい壁の向こうから不埒なギシアンが聞こえてきたら即座に壁ドンで妨害する用意しながらwktkしつつ一晩を過ごしてたのに!」
「おい」
「え、いやいや一体全体どれだけハイレベルなサイレントプレイに励んでたのさ二人とも! 毛布、拉致監禁調教に大☆活☆躍な毛布先生の出番だったりするの!? やっぱりアレって防音性能バッチリなの!?」
「待て。色々と待て」
どう考えても良家の子女の口から出るべきではないNGワードのバーゲンセールであった。耳年増、などという愛嬌のある形容で済ませていいレベルを超えている。
まだしもの救いは、肝心の蘭がねねの色々アウトな台詞の意味を理解し損ねている様子で、きょとんと首を傾げている事であった。真面目一徹な性格からして当然の話だが、蘭はその手の知識には恐ろしく疎いのだ。……このまま椎名京を放置すれば、今後どうなるかは分かったものではないが。
「……? “ぎしあん”って一体……? えっと、こしあんの間違い、じゃないですよね」
「そりゃもうアレだよ、こしあんの百倍甘ったるくあんあん言いながらご主人のホットミルクをもう一つのお口で飲み乾して――ああいや何でもない何でもない、わたしホットミルクが早く飲みたいにゃー」
割と真剣で殺気混じりに睨み付けると、ねねは目を泳がせながら、オヤジ臭く下劣極まりないネタの披露を中断した。白々しく口笛など吹き始めた様子からして、どうやら本気で妙な誤解をしている訳ではない様だった。まあ莫迦の癖に頭は無駄に回るネコ娘のこと、ベタな勘違いに陥るほど単純ではないのだろうが……その明察具合をよりにもよって朝一番の下ネタに利用するとは許されざる暴挙である。成程成程、ここは一家の棟梁として、教育的指導と云う名の入念な躾が必要な場面らしい。
「おおっと! のんびりしてたら遅刻しちゃうしまずは着替えて来ようかなっ!」
水責めを筆頭に各種のお仕置きメニューを脳裏に描いていると、持ち前の危機察知能力を発揮したのか、未だパジャマ姿のねねは慌ただしく部屋から飛び出していった。
ふ、今は逃げるといいさ。だがひとたび閻魔帳に書き留めた以上、お前の悪行は必ずや償って貰うぞ覚悟しろよネコ――と心に誓いながら、俺はベッドの縁に腰掛けた。
起床後数分と経たない内にこの疲労感、俺は間違いなく長生きは出来まい。
「はぁ……」
爽やかな春の早朝にはおよそ似つかわしくない、どんよりと重苦しい溜息を吐き出しながら、黙々と食卓に向かう。気分は暗鬱でも、常と変わらず朝食は美味かった。蘭の腕も良いが、それよりも初めて食した松永納豆の質が思った以上に高い。程よい粘りと程よい甘み、それ単品で裕に白米一膳は平らげられそうである。今のところ西日本にしか流通していないらしく、今回食卓に並んだのは家臣の一人たるサギを通じて偶然手に入れる機会があったからだが、叶うならば定期的に購入したいものだ。
「~♪~♪」
先程から、ご機嫌な鼻唄が狭苦しい自室に響いていた。台所に立った蘭が、“大和丸夢日記”新シリーズのメインテーマを諳んじながら、手際よくねねの分の朝食を用意している。そのやけに渋いメロディーラインに暫く耳を傾けてから、俺は口を開いた。
「蘭」
声を掛けて、そして続く言葉に一瞬だけ躓いて――それから俺は、頭の中で選択した言葉を何気ない調子で紡ぐ。
「ご馳走様だ。美味かった」
「……はい。お口に合ったなら、嬉しいです」
蘭は包丁を握る手を止め、柔らかく微笑んだ。
極端に畏まる事も、もちろん平伏する事もない。ただ沁み入るような温かい笑顔を以って、蘭は俺の言に応える。
何でもない遣り取りだ。――何の虚飾もない、真実の遣り取りだ。
俺は俺で、蘭は蘭。そんな当たり前の事を、距離を、関係性を、俺達はようやく取り戻した。もはや何ら嘘偽りを差し挟む事無く、正面から俺達は向き合う事が出来る。その事実を強く噛み締めつつ、俺は蘭を見遣った。
「それにしても……」
家庭的な花柄エプロンの下に覗くのは、そろそろ馴染んだ川神学園の制服。制服とはつまり、生徒が生徒としての立場を主張しつつ己が学び舎に通う為に存在する、一種の身分証明である。まぁあの学園、特にSクラスの貴人ならぬ奇人どもに限っては少なからず例外が居る訳だが……とにかく制服を身に纏っている事が、学園生として籍を置いている事実を端的に示す事は間違いない。
何が言いたいかと言えば、要するに――
「入学一ヶ月と保たずに退学、なんて笑えない事態にならなくて良かったな。蘭」
「ええ、ホントに。これもみんな、シンちゃんのお陰です」
「いや……、無用に謙遜する趣味はないが、今回に関して言うなら、俺はさほどの働きをしちゃいないさ。お前の誠心誠意って奴が通じた結果だろうよ。その手の暑苦しい精神論が冷静な理屈よりも優先して罷り通るのは川神院の気風ならでは、ってところだろうが」
武の総本山・川神院――実質的には殆ど川神学園学長たる川神鉄心個人との交渉において、俺達は望ましい成果を掴む事に成功していた。
それに際して俺の弁舌が効を奏した部分が全く無い訳でもないのだろうが、決め手となったのはやはり、蘭が鉄心に対して己の意志を明確に示し、決して揺るがぬ己の心魂の在り方を示してみせた事だろう。
自分なりの方法で“森谷”の血塗られた業を乗り越え、拭えぬ過去を受け入れ背負いながらも未来へ進まんとする姿勢を前に、かつて武神と呼ばれた老翁が何を想ったのかは推し量るしかないが――鉄心が重々しく告げた蘭への処罰は、まさしく破格と言って良い程に軽いものだった。
即ち、とある一つのペナルティ……というか条件を受け入れさえすれば、退学も、停学処分すらも無し。川神院師範代にしては至極生真面目で常識的な体育教師、ルー・イー辺りは色々な意味で反対しそうなものだったが、意外にもすんなりと受け入れていた。蘭の日頃の礼儀正しい態度が関係しているのだろうか。少なくとも仮に俺が蘭の立場であれば、ああまで容易に首を縦に振っていたかは怪しい所である。
……まあ結果として無事に学園生活を続行出来る以上、文句もないのだが。そもそも教師に好かれて依怙贔屓の対象とされるなど、“織田信長”のパーソナリティとは程遠いだろう。勿論、俺が仮面を被らず素を披露する事さえ出来たなら、瞬く間に皆から愛される人気者になる未来は疑いないが……実演してみせられないのが全く以って残念でならない。
「とにかく、シンちゃんと離れずに済んで一安心ですけど、……ふふ、これからは気を付けなきゃダメですね」
「ん?」
「今は大丈夫ですけど、間違って外で“シンちゃん”なんて呼んじゃったら大変です。慣れるまではちょっと注意が必要かもしれません」
「……ああ、そうだな。くれぐれも心を砕けよ、昔からお前のうっかり属性は馬鹿にならないからな。と言うかだ、私生活的に考えてもその呼び方はどうなんだ? 十年前ならいざ知らず、高ニだぞ俺達」
「む。何年経ったって、シンちゃんはシンちゃんですよう。それを言うならタッちゃんだってタッちゃんじゃないですか」
「だからそもそもその点からして問題視してるんだが……あーいやいい、俺が悪かった」
何故か涙目になりつつある幼馴染(高校二年生)。こんな些細な事案に拘って泣かせるのは御免である。
「何と呼ばれようが戦術的優位性に対して直ちに影響はない。人前でなければ好きに呼べばいいさ」
途端にパァッと顔が明るくなる。記憶があろうとなかろうと、この単純さと極端さは特に変わらないらしい。
「シンちゃん」
「何だ?」
「ふふ、呼んでみただけです♪」
「……こうしている間にもネコのホットミルクが刻一刻と冷めつつあるぞ」
「あぁっ!? ら、蘭は急ぎねねさんの部屋に朝餉を運んできますっ」
慌てた調子で言うや否や、蘭は朝食を載せたトレイを両手にドタドタと部屋を去っていった。
全く、朝一番から落ち着きのない輩である。クール&クレバーの体現者たる俺という見本の傍で十年間も過ごしておきながらここまで知的成長が見受けられないとは逆に驚きに値する――と呆れ混じりに思考しながら、出立に向けて手早く身支度を整える。
昨日の疲労を癒す為に少しばかり遅めに起床時間を定めていたので、あまり悠長に構えている時間は無い。制服に袖を通し、寝癖を抑え付け、最後に洗面所の鏡を一睨みして、他者を圧する凶悪な眼光に衰えが無い事をチェック。うむ、今日も今日とて絶好調である。
「……さて」
出立準備を滞りなく完了し、後は中庭に出て二人と合流しつつアパートを後にするのみ。
学生鞄に必要な教科書類が詰め込まれている事をもう一度確認し、ベッド脇の棚上に設置された時計に目を向ける。時間的には未だ五分ほどの余裕があった。
俺は数秒の思索の末に、その僅かな数分間を更なる思索に充てる事に決めた。ベッドに腰掛け、学生鞄を床に置いて、瞼を閉ざす。
迷う事無く選択したテーマは――織田信長と森谷蘭の関係について。
「……告白、ね。愛の告白。恋愛。恋に、愛」
こうして声に出して並び立ててみると、それらの語群は何とも言えぬほどむず痒く、地に足が着いていないどころか、気を抜けば遥か星の海へまで浮き上がってしまいそうな響きを帯びていた。無二の親友こと源忠勝の不器用な恋愛模様を傍観して楽しんでいた俺だが……いざ当事者となってしまえば、これが中々に笑い事では済まないものだ。断じて適当に茶化して弄べるようなものでも、曖昧に濁して誤魔化せるようなものでもない。
『あなたを、心から、愛しています』
ましてや既に蘭が自身の想いを明確な形に出して伝えた以上、俺とて何かしらの回答を用意しなければならないのは当然だ。それもなるだけ早急に。
自分の都合よりも他者を慮る事を優先する性格から考えて、例えこのまま回答を保留して変わらぬ日常を送り続けたところで、蘭が俺に答を催促するような事は無いだろうが――その配慮に延々と甘える事を好しとするほど厚顔無恥な人間には、どうにも俺はなれそうもなかった。
何となれば、それは逃避だ。変化を厭い、困難と直面する事を怖れる惰弱な精神の発露だ。即ち、俺が自らに対して最も忌避する類の行為に他ならなかった。
故に。遠からず、答を出さねばならない。森谷蘭と云う少女が心の深奥から紡ぎ出した純なる想念に相応しい、決して惑わぬ確たる意志にて応えねばならない。今この瞬間に然るべき回答を用意できなかったとしても、せめてその自覚だけは強く心に刻み込んでおこう。
「そして――もう一つ、か」
脳裡に浮かぶのは先と同じく俺達の関係性についてだが、しかし今度の“それ”は浮付いた恋愛感情とは全く別の位相に在る問題だ。
もっと奥深く、より根源的な部分。
織田信長と森谷蘭の今後の在り方そのものを決定的な形で定めるであろう、一つの命題。
共に未来へと進む為には絶対に避けては通れない其れについての諸々を、未だ俺達は語っていない。俺も、そして恐らくは蘭も、語らなければならない事は重々承知しているが、如何せん時間的猶予と心理的余裕と云うものが些かばかり不足していた。
ただ、例えそうでなくとも、この問題に関しては……或いは今暫し、様子を見た方がいいのかもしれないが。
…………。
……。
「そろそろ時間、だな」
真剣な思索に沈んでいた五分間は、体感的には酷く短い。
瞼を上げて、ベッドから立ち上がる。学生鞄を引っ掴み、扉を開いて屋外へ。
考えるべき事も為すべき事も依然として数多いが、何はともあれ――新たな一日を、始めよう。
昨日の昼間から夕方に掛けて川神市を通過した大嵐の、その荒々しい爪痕を優しく拭い去ろうとしているかのように、本日の多馬川河川敷を吹き抜ける春風は至極和やかだった。緩く肌を撫でる風は適度に涼しく、薄い雲間から控え目に射し込む日差しは穏やかな温暖さを地表へと注いでいる。晩春に差し掛かりつつある川神市は、一般的な日本人にとっては総じて快適と云えるであろう気候に恵まれていた。
そんな好天の下、朝方の清々しい空気を存分に肺腑へと取り込みながら、俺は普段同様に蘭を三歩後ろに従えて、学園へと続く多馬川沿いの通学路を闊歩している。
ちなみに、何かにつけて騒動の種となりがちな第二の直臣は不在だ。「いいもんいいもん、私はまゆっちと百合の花咲き乱れる楽園を築いちゃうから別に寂しくないもんねー」とか何とか、理解したくもない妄言を吐き散らした末に別行動を取っていた。
まぁそうしてやさぐれた風を装いつつも、実際のところは件の剣聖の娘・黛由紀江を自陣営へと引き込むための活動の一環なのだろう。その事案に関しては彼女と同じ一年生と云う枠に属するねねに一任してあるので、俺としても下手に横合いから手を出す心算は無かった。
うむ、それはそれで構わないとして、さて問題は俺達の側である。
「……蘭」
「はっ」
「気の所為には非ず、か」
「ははっ。昨日の私の所業が忌まれているのかとも思いましたが……“それ”とはまた異なる様です」
打ち合わせ通り主従としての態を取りつつ会話を交わしている俺達だが、しかしそんな心遣いが果たして必要だったかどうかは疑問である。何故なら、俺達の周囲数十メートルにはおよそ人影というものが見当たらないのだ。戦々恐々とした面持ちを浮かべた学生達から遠巻きにされつつの登校には慣れ切っていたが、幾ら何でもここまで極端なものではなかった筈。
蘭と二人して首を捻りながら、やけに喧騒の遠い通学路を歩くこと暫し、やがて悪名高き変態の橋こと多馬大橋に到着する。背後から遠慮を知らない賑やかな喧騒が近付いてきたのもその時だった。“織田信長”の暴威を殊更に恐れず、あまつさえこれほど近くまで遠慮なく寄って来るような面子は限りなく限られているので、わざわざ振り返って確かめるまでもなく、喧騒の正体は自ずと知れた。
「ノーブりんっ♪」
「……」
「む、これは駄目か。じゃあ……ノブノブ? オダッチ?」
「……」
「むむむ、私が寝る前に頑張って考えた愛称をスルーとは相変わらずドSな後輩め。やっぱりこれしかないか――おーい“織田信長”!」
「…………(殺気)」
「おおう。お前結構分かり易いな……」
出会い頭に鬱陶しい絡み方をしてきた声の主へと振り返る。
身に纏う気配の濃密さが圧倒的過ぎて他の誰と間違え様も無い、そんな最強生物まっしぐらな先輩であるところの武神・川神百代の堂々たる立ち姿が其処に在った。
更にそのやや後方地点では、風間ファミリーの面々がぞろぞろと列を成して騒がしく登校中である。どうやら百代は幼馴染集団をひとり抜け出して、俺達へと声を掛けに来たらしい。
「いよーう信長、今度はまたド派手にやったモンだなぁ。出来ればおねーさんも混ざって遊びたかったぞ」
「さて、何の事やら。生憎と身に覚えが無いな」
「惚けるなよな~コイツぅ。昨日の夕方、堀之外町辺りで起きてたとんでもない“氣”の嵐、あれお前が一枚咬んでる……っていうかぶっちゃけ中心だろ? それにホラ、いわゆる客観的な証拠ってヤツもあるぞ」
百代はニヤニヤと愉快げに笑いながら手元の携帯電話を数秒ほど弄った後、それをこちらへと無造作に放って寄越した。
空中でキャッチして液晶画面に目を向けると、そこには一つの画像が映し出されている。
「……」
無惨に破壊され尽くした街並みの一画。見る影も無く瓦礫の山と化した無数の建造物と、見渡す限りが抉られ砕かれ隆起し陥没した路面。血色の夕日が禍々しい色彩にて染め上げる風景は、何処までも凄絶な闘争の跡地だ。
そして――絶大なる存在感を伴いながら破壊の中心に立つ、黒尽くめの男が一人。罅割れた路面を無慈悲に踏み躙るような傲然たる立ち姿で、全くの無感動な氷の面持ちとガラスの瞳を以って暴虐の爪痕を睥睨している。
例え画質の荒い画像の中であっても、その総身に纏わり付く邪悪且つ不吉な気配は隠しようもないもの。そして俺は、この悪魔とも見紛う相貌の男を知っている――!
そう、それは……つい今朝方、自宅にて鏡の世界の内に見出した、忘れ得ぬ顔であった。
というかどう見ても俺だった。
「いわゆる学園の裏サイトってヤツをファミリーのモロロがチェックしててな、どうも誰かがこの“戦場跡”を激写した画像を上げたらしいぞ。で、そいつが結構な勢いで拡散して、ウチの学園生どもの間じゃただいまちょっとしたお祭り騒ぎになってるワケだ」
無言で液晶に視線を向けている俺を流し目で見遣りながら、百代は何やら得意気に解説する。
匿名掲示板のスレッドに貼られた先の画像はどうやら相当に反響を呼んだらしく、表示された書き込みの時間から判断して、それに対する住人達のレスポンスが凄まじい勢いで行われていた模様。
時刻表示は深夜だと言うのに揃いも揃って御苦労な事だ、と内心で呟きながら適当に画面をスクロールさせ、掲示板上で沸き立つ反応の一部分を抜粋してざっと眺める。
―――――――――――――――――――――――――――――――――
109:是非も名無し
なんだNOBUNAGAか……
110:是非も名無し
ちょwww魔王様はっちゃけすぎですよwwwwww
え コラだよな……?
111:是非も名無し
ところがどっこい……コラじゃありません……! 現実です……! これが現実……!
112:是非も名無し
これマジだよ 駅側から親不孝通り覗いたら一発で分かる
とりあえず神奈川県警仕事しろ
113:是非も名無し
あれ分類的に人間じゃなくてもう災害なんで……災害への対処は自衛隊の管轄なんで……(震え声)
114:是非も名無し
つかスペツナズ的なドイツ軍の特殊部隊が一蹴されてる時点でもうね
出張ったところで国家権力(笑)な結果にしかならないだろjk
115:是非も名無し
こうなったら我らが人型汎用決戦兵器・MOMOYOにご登場願うしかないな
116:是非も名無し
おいやめろ武神v.s.魔王とか周囲の被害がシャレにならん
リアルに川神市が地図から消えるぞ……
117:是非も名無し
もうだめだぁ……おしまいだぁ……
118:是非も名無し
まーあのお二方は今んとこ停戦協定結んでるんですけどね
むしろスケール的に安保理条約? 誰か例のコピペはよ
119:是非も名無し
>>118
どうせならと思って新しく追加してみた
~全盛期のNOBUNAGA伝説~
・3戦につき5勝は当たり前、3戦につき8勝も
・決闘場に立つだけで対戦相手が泣いて謝った、心臓発作を起こす相手も
・完封勝利でも納得いかなければ勝利宣言せずに帰った
・あまりにヤバすぎるから牽制でも死亡フラグ扱い
・その牽制もすぐさまサーチ&デストロイ
・対戦相手を一睨みしただけで武器がひとりでに場外まで飛んでいく
・決闘しない休日でも2勝
・自分の撃った気功弾を自分でキャッチしてレーザービームで投げ返す
・自己紹介でブリザードが起きたことは有名
・決闘開始1秒で決着なんてザラ、0秒を切ることも
・侵攻ストップしようとしたEクラスの勇者とそれを観客席で応援しようとしたクラスメート数名を立ち合った歴史教師ともども失禁させた
・グッとガッツポーズしただけで5人くらい昏倒した
・NOBUNAGAがストリートを歩くと周囲の建物が自然倒壊した←NEW!
なお現在進行形で全盛期のもよう
120:是非も名無し
ネタに見えるだろ? 結構な割合で実話なんだぜ……これ……
121:是非も名無し
しかしまさかMOMOYO武勇伝に次ぐ新たな伝説コピペが作られる日が来ようとは
つくづくとんでもない時代に生まれちまったもんだ
122:是非も名無し
まさに世紀末
いやむしろ戦国時代か? なんつってな
123:是非も名無し
>>122
無茶しやがって……
124:完全で瀟洒なミラクル娘娘
>>122
|Д゚)<…このスレは織田家随一のプリチィーガールに監視されていますにゃん
125:是非も名無し
まーたお前か猫娘
126:是非も名無し
さっさと寝ろ猫娘
127:是非も名無し
夜更かしすんなや猫娘
128:是非も名無し
朝寝坊に気を付けろよ猫娘
129:完全で瀟洒なミラクル娘娘
>>125
>>126
>>127
>>128
我輩はネコではない
タチである
130:是非も名無し
ちょwwwシャレのつもりだろうがシャレになってねえww
131:是非も名無し
唐突なカミングアウトキマシタワー
132:是非も名無し
チクショウ名家のお嬢様なるものに抱いてた美しき幻想を返せ猫被り娘!
……さらば俺の淡い初恋よorz
133:是非も名無し
幻想も何もアレだ
去年の時点で某三大名家の某御息女とかいう色々残念な前例があっただろ……
134:是非も名無し
>>133
だがあれはあれで微笑ましいと言うか可愛いと思えるようになってきた今日この頃
ふとした仕草がいちいち幼くてイイよな……なんかこう父性愛を刺激する感じが
135:是非も名無し
>>134
同志よ
136:是非も名無し
>>134
特定した
137:是非も名無し
>>134
ハゲ乙
138:完全で瀟洒なミラクル娘娘
>>132
げにwwwwげきをこなんめりwwwいとわろしwwww( ´∀`)つ□まあ涙拭けにゃん
>>134
>>135
このロリコンどもめ!
――――――――――――――――――――――――――
……以下も延々とカオスに賑わいながらレスが伸びているが、最後まで目を通そうとすると気力が保ちそうにないので早々に切り上げた。
「……………」
何がと言わず全体的に酷いが、うむ、取り敢えず、従者第二号は後で確実にシメる。なに堂々と固定ハンドルで出没してやがんだあの莫迦は――と頭痛を堪えて必死の無表情を作りながら、俺は携帯電話をMOMOYO、いや百代へと投げ返した。
「成程、な。嗤える程に呑気極まる学園生共が、今朝に至って斯様なまでに畏れを顕にする理由……得心がいった」
「ま、そういう訳だ。アレが本当は爆発事故とやらじゃないコトは大体の奴らが了解してるんだよなぁ。当然、私も例外じゃないぞ」
「然様か。くく、まぁ、想像は各人の自由だ」
嘲るような笑いにいかにもな含みを持たせつつ、鷹揚に頷いてみせる。
改めて言うまでもない事だが、画像に映る例の惨状は俺の仕業ではない。自力であんな特撮映画じみた真似事が出来るようなら苦労はしない。全ては板垣辰子と柴田鷺風、二人の度外れた狂戦士が枷を取り払って衝突を続けた結果である。
対戦の組み合わせといい、非常識な破壊の規模といい、それに対する外野のリアクションといい、まさしく二年前の焼き直しだった。そう、焼き直しだからこそ――其処から得られるものが似通うのは必然だ。
つまるところ、“織田信長”の威信を補強する為の材料としては大変都合が宜しい。こうして望んだ結果が得られたならば、所用も無いのにわざわざ戦場跡に留まって闘争の当事者を装うという、些かセコい振舞いに及んだ甲斐もあったというものだ。
「で、で、肝心のお相手は誰だったんだ? エベレスト級にプライド高いお前がここまで出し惜しみせずに闘ったって事は、少なくとも壁越えクラスは確定だろ」
ほくそ笑む俺の内心を余所に、百代は傍目にもワクワクした様子で、期待に満ちた眼差しをこちらに向けている。
「ふん、問うまでもなく見当は付いているだろう。ならば無用に言葉を費やす気は無い。お前の思う其れこそが正解だ、とだけ言ってやる」
「ははっ、なるほどな。何せ物凄い数量の氣がぐちゃぐちゃに混ざり合ってたモンだから、流石の私でもいまいち確信が持てなかったが……そのリアクションでいよいよ分かったぞ。信長お前――釈迦堂さんと闘り合ってたな?」
百代の口からその名が出る事に驚きは無い。そして別段、否定する理由も無かった。淡々と頷きを返す。
「然様」
「あーやっぱりかぁ。勝敗は……、まあ言うに及ばず、なんだろうな。しかも見た感じほぼ無傷ときたもんだ。何と言うか、お前はホンット、いちいち私を滾らせるヤツだな。ははっ」
物騒に哂いながら闘気を放出するのはやめてください死んでしまいます。
百代の闘争本能を必要以上に煽るのは控えようと、俺は心に刻んだ。
「思えばもう十年ほど会ってないのか……懐かしいなぁ。おーい後輩、釈迦堂さんまだ生きてるのか? 普通ならあの人がそうそう簡単にくたばるとは思わないが、対戦相手がお前じゃちょっとなあ」
「ふん、さてな。首を獲っておらぬ以上は与り知らぬ事だ。負け犬風情の生死になぞ、元より興味も無い」
「んー、じゃーまあ生きてるか、釈迦堂さんだし。……しかしアレだ、とっくに追放されてるとは言え、ウチで師範代やってた武人がそんな風に言われちゃ黙ってられないな。いくらお前でも楽に勝てる相手じゃなかっただろ? 例えばホラ、釈迦堂さんオリジナルの“リング”とか、アレかなり厄介で強力な技だぞ」
「下らんな――いかな凶弾であれ、当たらなければ如何という事もあるまい。ひとたび読み切られれば、無用の隙を晒すのみよ」
「うーん、そういうやり方もあるのか……。私の場合はとにかく真正面から突っ切って攻略したっけなぁ。ガードした両腕が付け根から吹っ飛びかけたのを覚えてるぞ。はは、あれは愉しい闘いだった」
なにそれこわい。俺が綿密な計算と多大な幸運の上にようやく攻略した奥義を、清々しい程の脳筋戦法で普通に突破してしまえる辺り、つくづく瞬間回復という技能は反則的だ。まあスキル云々以前に単純な肉体のスペックの時点で雲泥どころではない差がある訳だが。
それから暫し、噛み合っているようで実際はまるで噛み合っていない、本来ならば武界の頂点に立つ最強格同士が繰り広げるような異次元な話題で盛り上がって――尤もやたらとテンションを上げているのは百代一人だが――いると、不意に背後から視線を感じた。
「……」
蘭である。八の字に眉を下げ、切なげな眼差しをじっとこちらへ注いでいる。
自己を強く主張して訴え掛けるような種類の視線ではなくとも、その内心を窺い知るには十分な想いが双眸に溢れ出ていた。
まず間違いなく本人は意識していないのだろうが、傍から見れば到底平静を保っているようには見えない。
その証拠に、百代はおもむろに蘭へと視線を向けて、肉食獣よろしくギラリと目を輝かせた。
「うぅむ……イイなぁ。その慎ましく健気なジェラシー、やはり燃えてくるものがあるぞ。略奪愛は後味悪くて趣味じゃないが、ついつい一夜の過ちを犯したくなってしまう」
いつぞやの如く邪念に満ちた視線を向けられても、蘭は動じなかった。
涙目で震えながら俺の制服の裾を摘んでいた以前の対応が嘘だったかのように、平静な態度で百代を見返している。
「お、逃げないイコールOKサインと受け取ったッ! じゃあさっそくお姫様抱っこで学園まで――おお?」
目で追い切れぬ、恐ろしいまでの迅速さで実行された武神の抱擁を、しかし蘭は回避していた。色々な意味で意外だったのか、驚いたように固まっている百代に向けて、蘭は静かに口を開く。
「申し訳ありません、川神先輩。蘭がこの身を抱いて欲しいと願うお方は天上天下にただ一人。心魂に誓って定めた以上、もはや何人の指先であれ、徒に触れさせる訳には参りません」
穏やかに微笑みながらも、紡ぐ言葉には断固たる意志が込められている。
ぱちくりと呆然たる瞬き一つ落として、それから百代はニヤニヤといかにも愉快そうな笑顔を湛えつつ俺へと向き直った。
「おいおい信長、かるーいスキンシップもお断りなレベルで操立てるってどんだけ想われてるんだお前。つーか何やらかしたんだお前」
「……」
どうコメントしろと言うのか。
鉄壁の無表情で徹底無視を貫き通していると、百代は不意に鋭く細めた目付きで蘭の全身を眺め回して、先程までとは明らかに種類を異にする獰猛な笑みを浮かべた。
「それにだ――今、避けたな? 全力ではないにしても、私の動きを確実に見切って反応出来たって事は……そうか、やっと宝の持ち腐れをやめたってワケだ。ホントにお前ら主従は私を退屈させないな。今から将来が楽しみでならないぞ、はははははっ!」
両腕を組んで傲然と仁王立ちし、マントの如く羽織った制服を吹き上がる闘気に靡かせ、天を仰ぎつつ高らかな哄笑を響かせる百代の姿は、何と言うか普通に魔王じみていた。
ラスボス系女子、という一つの単語が脳裡に浮かぶ。見事なまでに何の違和感も無い響きであった。実際問題、少なくとも俺にとってはラスボス同然の存在である事は間違いない。
「ま、そういうワケで。“これからよろしく”だな、蘭」
「はい、お世話になります。不束者ではありますが、どうぞ宜しくお願い致します、先輩」
蘭は挙措を正して深々と頭を下げる。対する百代は何やらオヤジ臭い表情で感じ入っていた。
「おおう……いちいち私のツボを突いてくるとは侮れんオナゴだ。ふふふ、そうだ焦る事はない、ゆっくりじっくりねっとり親交を深めような~」
結局最後は邪念塗れの締まらない台詞で締めると、百代はふらりと俺達から離れ、後方の幼馴染集団へと合流する。
会話のキャッチボールだけで甚大な精神的疲労をもたらしてくれるとは、何とも傍迷惑な先輩が身近に居たものだ――やれやれと心中で溜息を零しながら、背後の騒がしさを尻目に悠然と橋を渡る。
誰のものか一瞬で判る程に快活な声音が橋上一帯に響き渡ったのは、その時であった。
「みーんなーっ! おっはよーっ!」
天真爛漫、元気溌剌。聴く側にまでもれなく活力を分け与えるような明るい挨拶を大声で叫びながら、風間ファミリーの一員にして川神学園のマスコットこと川神一子が橋の後方より急速接近中である。
例によってブルマで、例によってタイヤを引いていた。そろそろ見慣れてきた姿なので特に驚きはないが――いや、それは単に異常を異常と判ずる大切な感覚が麻痺しただけなのではなかろうか、と深刻な疑義を自らに呈している内に、彼女はファミリーの面子と何やら一言二言交わして、そして何故かそのままこちらへ駆け寄ってきた。重量感のあるタイヤをずるずると引き摺りながら、小走りで俺の横に並ぶ。
「おはよっ、ノブナガ!」
「何用だ。川神一子」
「あうぅ。びっくりするくらいフツーに挨拶ガン無視されたわ……」
当然である。その際限なくシャイニングなテンションに合わせて爽やかな挨拶など返そうものならキャラ崩壊もいいところだ。そもそも互いに挨拶を交わすほど友好的な間柄ではなかった筈だが。
一子は何やら微妙に凹んでいたが、「ま、いっか!」とすぐさま立ち直る。まさに万人が見習うべき切り替えの早さだった。
「それで、えっと……ありがとね、ノブナガ!」
「ああ――精々感謝する事だ。さて、所用が済んだなら失せろ」
「理由すら訊いてくれないっ!?」
全力で出鼻を挫かれた様子で、ガーン、と硬直している。こちらとしても予想外の台詞を受けてつい反射的に普段通りの憎まれ口を叩いてしまった結果なのだが、その事を俺が後悔する暇もなく、「ま、いっか!」と再度の復活を果たしていた。何だコイツは精神的に不死身か、と人知れず戦慄している俺の顔を横合いから覗き込んで、一子は屈託なく言葉を続けた。
「最近ね、お姉さまが辛そうな顔をしなくなったの。だからちゃんとお礼言っておかなきゃ、って思って」
「――其れは、彼奴に巣食う“獣”の話か」
「え、え? け、ケモノ?」
どうやら簡単な比喩表現の読解ですら彼女にとっては些か難易度が高かったらしい。うむ、どうも天を相手にしているつもりで話すべきだったようだ。目を白黒させてうろたえている一子へと、言葉を改めて問い掛ける。
「川神百代の気質、闘争本能についての話かと訊いている」
「あ、そうそれだわ! お姉さま、最近はずっと活き活きしてるの。ジィちゃんの言いつけで誰とも闘えずにいるのに、ぜんぜん辛そうな顔をしないのよー」
「ふん。それにしては、随分な頻度で愚痴と文句を零している様に見えたがな」
「あはは、それはまぁお姉さまだから。でもそれだって、前みたいに本気で言ってるワケじゃなくて……ちゃんと割り切って、冗談で言ってる。ホントに辛かったら、きっとそんな風には言えないわ」
「以前と比して、闘争との縁は尚も遠ざかった。彼奴は其れを、真に耐え難き苦痛とは感じていないと?」
「うん――きっとね、自分で選んだ道だからなんだと思う。誰かに無理強いされたワケじゃなくて、自分が納得して決めた事だから、どんなに辛くても苦しくても、笑って受け入れられるの」
アタシがそうだから分かるんだ――明るい口調で言って、遥かな彼方の夢へと一途に向かい続ける少女は、朗らかに顔を綻ばせる。現実の過酷さと向き合う中で噛み締めてきたであろう幾多の想念を内に宿した言葉は、確かな想いを伝えて俺の胸に沁みた。ついつい、俺もそうだ、と心からの相槌を打ちたい衝動に駆られる。
だが、俺は“織田信長”だ。然様な感傷に浸って弱みを曝け出すような無様は許されない。感情の宿らない氷の瞳を欠片も揺るがせないままに、冷徹な無言を保ちつつ眼前の少女を見詰める。
「だからね、お礼なの。お姉さまの“希望”になってくれてありがとうって!」
一切の隔意を取り払った純粋な笑顔を満面に浮かべて、一子は嘘偽りなき感謝の言葉を繰り返した。
……なるほど、源忠勝が、九鬼英雄が惹かれた理由が良く分かった。この裏表のない無垢な明るさ、汚泥の如き感情の楔に囚われない、どこまでも真っ直ぐな精神の在り方こそが、川神一子という少女の備える真の魅力なのだろう。この世界に存在する薄汚く醜悪な闇を良く知る人間であればあるほど、彼女の日溜まりの様な笑顔には救いの光を見出すに違いない。ちょうど昔日の俺が、何処かの誰かに対して同様のものを感じたように。
「――でもねノブナガ、これだけはハッキリさせとくわ!」
ビシッ、と無礼にもこちらを指差しながら薄い胸を反らす一子。どうやら飼い主の躾がなっていない様である。遺憾の意を表明したい。
「お姉さまの“一番”の座は、今のところは預けておくだけなんだから! もっともっと強くなって、いつか必ずアタシがその座を奪ってみせる! 今のうちに覚悟しておくことね!」
「くく、然様か。吼えるだけであれば犬にも出来る――精々、負け犬の遠吠えで終わらぬよう努める事だ」
「モチロンそのつもり! よーし、さっそくトレーニング再開よっ!」
言うや否や、ユー・オー・マイ・シン、と元気な掛け声を張り上げながら前方へと駆け去っていく。
ズルズルと地を這いながら後を追うタイヤがどことなくシュールではあったが、総じて心地良い夏風のような爽快さを胸へ残していく、そんな川神一子の後ろ姿だった。
「よう、ノブナガ! ウチのワン子となに話してたんだ?」
どうやら今朝の俺は風間ファミリーの人気者らしい。
瞬く間に遠ざかるマスコットと入れ替わりに寄って来たのは、キャップこと風間翔一である。学生鞄を誰かに押し付けてきたのか、両手を首の後ろで組んだ気侭な体勢で俺の横を歩いていた。
春の陽気に脳髄まで冒されたが如く気楽千万な横顔を冷たく見遣って、無感動な声を投げ掛ける。
「お前には何ら関わりのない事だ、風間翔一」
「えーいいんじゃんか教えてくれよぅ。つれないコト言うなよなー、拳を交えた相手は強敵と書いて友と呼ぶ! それが男同士の繋がりってヤツだ!」
自由と言うか無邪気と言うか、とにかく全体的にノリが子供っぽい。実に鬱陶しいテンションであった。殺気で追い払えれば楽なのだが、生憎と無駄に抵抗力が高い輩なのでそれも不可能ときたものだ。
こうなれば口舌で言い包めて早々にご退散願おう、と方針を固めつつ、口元に嘲笑を貼り付ける。
「くく、笑わせる。狭間に天地の距離を隔てた者同士、友誼が成立すると思うか? 群衆がいかに讃えようと、お前の無力は何ら変わらぬ。健常なる生と勝者たる道を欲するならば、絶えず己を戒め――同時に研鑽を怠らぬ事だ。万日を超えて積み上げれば、或いは真に俺の影を踏む事も叶うであろうよ」
「うへぇ、そりゃー気の長い話だ。でもま、ワン子とか見てっと、やっぱ武道ってのは、そーゆー地道な努力を続けるのが大事なんだってことは分かるぜ」
「ふん、当然だ。生まれ持った素養のみで高みに立つ者も稀に居るが、お前や川神一子は違う。才無き輩が確たる目的も意志も伴わず、漫然と鍛錬を重ねた所で何処にも辿り着けぬ。武を志すならば、強く期すものを己が方寸に備える事だな」
「んー、けど俺の夢は冒険家一択なんだよなー。……お、そうだ! ヤバい秘境とか冒険する時に備えて本格的に鍛えとくのもアリかっ!? いよーし俄然燃えてきたぜ! 格闘王に俺はなるっ!」
「喧しい。疾く山奥にでも篭ってから喚け莫迦めが」
奔放に話し掛けてくる風間翔一を適当にあしらうという面倒極まりない作業に俺が追われている間にも、後ろを歩く風間ファミリーの面々は賑やかに言葉を交わしている。そして、いつの間にやら従者第一号がその中に混じり、件の椎名京と何やら談笑していた。
もはや俺にとっては嫌な予感しか覚えない魔の組み合わせだが、だからと言ってわざわざ声を掛けて止める訳にもいかないというジレンマ。果たして俺の心労はどこまで積み重なるのだろうか。
「しっかしよー、良くあの暗黒大魔王に自分から話し掛けようって気になるよな。毎度のことだが、俺様にゃキャップの頭ん中がこれっぽっちも理解できねーぜ」
「あはは、確かに。……でもガクト、信長だって、まるっきり話が通じない相手ってワケでもないんじゃないかな」
「ああ? そりゃどういう事だよモロ」
「自分が認めた相手には敬意を払う……かどうかは微妙だけど、少なくとも無下に扱ったりはしないタイプなんだと思う。この前の決闘でキャップの事は認めてるみたいだし、ヘンに刺激したりしない限りは大丈夫だと思うよ」
「認めた相手、ねえ……どーも無茶苦茶ハードル高そうだが、だからこそ燃えるのが男ってモンだよな。いよし、キャップのヤローに負けてられねぇ、俺様だっていつか認めさせてやるぜ! この鍛え上げられた素晴らしき肉体美をな!」
「アピールポイントそこなの!? ……うん、でも、僕も何か頑張ろうかな。褒められるの、何だか嬉しかったし……」
「仄かなBLオーラを感知したんだッ! モロ×ノブ……いや性格的にノブ×モロが鉄板だね。悪くない」
「悪いよ! 唐突になに言ってんのさ! 京の腐り切ったフィルター通して僕を見るのやめてよね!」
「モロノブ……菱川師宣? 江戸時代の浮世絵師……でも、なぜここでその名前が出るんでしょう。あ、そうだ! 直江さん、皆さんに“軍師”と呼ばれる直江さんならきっとご存知ですよね?」
「!? また急に難易度の高いフリを……ここは軍師らしい柔軟さで適材適所、と。京、任せた」
「任された。私のソウルシスターたる者、そろそろ“この道”も知っていかなきゃ、だね。ククク、まずはオーソドックスな友情モノから徐々に慣らして―――」
「おいおい京、せっかくのめんこいオナゴを腐界に引き摺り込むのはやめろよなー。同性愛なんて生産性皆無で不毛なだけだぞ」
「日常的に女の子漁りしてる姉さんが言うかな……最近は特に、戦闘禁止令の関係で見境無くなってきてるし」
何やら背後で邪な企みが着々と進行している気がしてならなかったが、しつこく絡んでくる風間翔一への対処に追われてそちらには干渉出来ず。ようやく無事に追い払った頃には既に多馬大橋も渡り終え、通学路も大詰め。我らが学び舎・私立川神学園の厳しい正門が前方に姿を見せていた。
「……あれは」
そして、同時に視界に映り込むのは――金と赤の、嫌でも目を惹く鮮やかなコントラスト。
俺の背後に控えていた蘭が、小さく息を呑む音が聴こえた。相手側でもこちらの存在に気付いたらしく、面に抑え切れない動揺が表れている。
両者の心中を窺い知る機会を得ないまま、彼我の距離は徐々に詰められていき――必然として、俺達は学園の正門前にて対峙する事となる。
クリスティアーネ・フリードリヒと、マルギッテ・エーベルバッハ。
俺達の学園生活を再開するに際し、然るべき決着を避けては通れない二人の異邦人が、眼前に立っていた。
~おまけの板垣一家~
「さーて。首尾よく逃げてきたはいいが――今頃、天のヤツはどうしてるんだかねェ。どうも不安だよ」
「まあアイツ、というか俺達全員、家事はからっきしだからな……料理も掃除も洗濯もタツ姉ぇ頼りだ」
「ZZZ」
「ヒヒ、別に心配いらねぇだろ。お前ら一家はムダに生命力強いからな、いざとなりゃ野草でも食ってサバイバル生活でやっていけるんじゃねえか?」
「……ま、師匠の言う通り、どうにでもなるか。最悪シンのところに転がり込むって手もある訳だしねェ」
「で、肝心の俺たちはどうすんだよアミ姉ぇ。目的地決めずに延々ブラつくのもダルいぞ」
「ああ、川神市からは脱出したし、この辺で師匠の療養先を見つけて腰を落ち着けないとねェ」
「ん~、のんびりするんだったら湘南の湾岸地域がいいなぁ。潮の匂いを嗅ぎながらお昼寝するんだ~」
「コイツ休む話になったら急に起きやがったな……。湘南ねぇ、んじゃいっちょ江ノ島の辺りで隠れ家作ってみっか? へへ、悪ぃなお前ら、俺のヘマに付き合わせちまってよ」
「いえ、師匠にはここまで強くして頂いた大恩がありますから。放っぽり出して消えるほどアタシ達は恩知らずじゃありませんよ」
「……そうだよな、“弟子”ってフツーそういうモンだよなぁ。 アイツにも少しはお前さんの謙虚さを見習って欲しいぜ、ったく」
雰囲気も改め新章スタート、と見せかけて、実のところまだ第二部はしつこく続行中だったり。
ひたすら重い展開が続いて胃もたれした方も多いと思いますので、今回は極力ライトな内容を心掛けて話を作りました。シリアス? ストーリー進行? 全て次回以降に丸投げでいいんじゃないですかね(ゲス顔) ……とは言っても、地味に話の中で後の展開への布石は打っていたりするのですが。
何はともあれ、様々なご指摘・ご感想、誠にありがとうございます。しっかりと目を通して活動の糧にさせて頂いておりますので、気が向けば今後も書き込んでやってください。それでは、次回の更新で。