「ちっ……、覚悟してたコトとは言え、キッツいなこりゃ」
九鬼従者部隊序列一位にして九鬼家嫡男専属の万能メイド・忍足あずみは焦っていた。じりじりと迫る火炎の包囲網に追い立てられるような焦燥に胸中を焦がしながら、己の在るべき戦場を舞い踊る。
死線を渡る事は即ち、綱渡りの連続と同義。闘争の渦中に在って心の均衡を喪えば、眼下に広がる死と云う名の奈落に呑み込まれるのみ。幾多の戦地を生き抜いてきた熟練の武人たるあずみがその真理を心得ていない筈もなく、心中の焦りは面には顕れない。仮に心理状態が戦闘行動に直接的な影響を及ぼすとしても、それはあくまでごく僅かなものに留まる。観察者が並の武人であれば、例え目を皿にして全身を余す所なく眺めたところで、あずみの立ち回りに何ら変化を見出す事は適わないだろう。一分の隙すら窺わせない冷然たる立ち姿を前に、絶望と共に己が未熟を噛み締めるだけの話だ。
だが――あずみにとっての不幸は、眼前の敵手が凡百の武人とは比較にならない本物の強者であるという事実。獰猛に輝く紅の双眸は“獲物”の晒す僅かな隙をも見逃さず、そうして見出した一瞬を衝いて喉首を噛み千切りに来る。躊躇いも戸惑いも無く、慈悲も容赦も無い、勇猛果敢でありながら何処か機械じみた冷徹さに充ちた狩猟行為。
紅の長髪を嵐の中に翻し、女豹にも似た強靭な肢体を躍らせて、独軍が世界に誇る“猟犬”が、今この瞬間にも狙い定めた首筋へ牙を突き立てんと襲来する。
「Hasen――Jagd!」
獰猛な跳躍から繰り出されるのは、破壊的な闘気を纏ったトンファーの一撃。パンツァーファウストより撃ち放たれる成形炸薬弾頭の炸裂にも匹敵するであろう暴力の猛追から、あずみは危ういタイミングで身を躱した。
後一歩のところで獲物を捉え損なった緋色の“砲撃”は、代わりに直線上に存在していた民家の石壁へと着弾し、一瞬の内にそれらを悉く瓦礫へと変じせしめる。恐るべき破壊と同時に生じた巨大な轟音と震動がビリビリと空気を伝播し、吹き付ける雨粒と共に身体の表面を激しく叩いた。
「――っ!」
まさに間一髪。ぞわりと戦慄に皮膚が粟立つ不愉快な感覚を些かの安堵と共に噛み締めながら、あずみは攻撃後に生じた数瞬の猶予を最大限に活かすべく、メイド衣装の内側に常備した小道具の一つを引っ張り出していた。立ち昇る粉塵の中から猛々しい紅の眼光が自身を射抜くと同時、迅速な手並みにて球状の弾を足元の路面へと叩き付ける。
「煙幕か……小賢しい。そんな小細工で、私の目から逃れられるとでも?」
当然、思っちゃいねえさ――胸中で苦々しく呟きを返しながら、あずみは足元から湧き起る煙に姿を隠しつつ駆け出し、そのまま最寄りの電柱を垂直に駆け上がる。数秒を要さず天辺に辿り着くと、即座に視覚・聴覚を主とする五感を最大限に研ぎ澄まし、眼下の風景から次々と情報を読み取り始める。その為の煙幕であり目晦まし……戦況を正しく把握する為の僅かな時間さえ稼げればそれで良かった。
無論、確かめるべきは“自分の戦況”などではなく――己の周囲で今この瞬間にも繰り広げられている、幾多の闘争の行方。即ち九鬼従者部隊と狩猟部隊、二つの勢力が堀之外の市街地に描く戦場を俯瞰する事こそ、あずみの狙いだった。爆音と銃声、怒声と喚声が絶えず飛び交う中から、あずみの鋭敏な聴覚は集音マイクの如き精度を発揮し、雑音を省いた戦場の声音を拾い集める。
「突破だ! 九鬼の連中に構うな、突破にさえ成功すればそれでいい! 我々の任務は“標的”を仕留める事だ、サバイバルゲームよろしく連中と戯れる事ではないぞ!」
「そうは言っても、コイツら揃いも揃って相当に練度が高い……簡単には抜けないってば。くっそぅ、お姉さま――じゃない、隊長さえ加わって下さればこんな布陣、すぐにでも食い破って見せるのに!」
「ええい、泣き言を漏らすな鬱陶しい! 我らが隊長はあの忌々しい“女王蜂”の駆除作業にご多忙だ! くそ、麗しき御姉様のダンスパートナーを独占とは相変わらず目障りな輩め、薹が立った年増の分際でッ」
びきり、と音を立てて額に青筋が浮き上がるが、プロ意識やら何やらを総動員して黙殺。かなり危ういところで冷静さを保ちながら情報収集を続行する。
「ファーック! あずみのヤロー、たった一人を相手にいつまでチンタラやってんだ! 序列一位サマサマが聞いて呆れるってなもんだぜ、なぁ李?」
「ステイシー、相手はあの“猟犬”です。いくらあずみでも易々と墜とせる敵手ではないでしょう。……あ、それと本人が盗み聞きしてますよ、この会話」
「うへぇ、ジャパニーズNINJAってヤツは相変わらずヘンタイ的に地獄耳だぜ……。おーいあずみィ、そっちはまだ片付かねぇのかよ? いい加減このファッキンゲルマンどもにヘッドショット決めたくて指先がウズウズしてきたんだけどよー」
『んなマネしやがったら後で秘孔突いて支部の屋上から落下死させてやるからな。オイ李、そのバカちゃんと抑えとけよ』
「うお、こいつ脳内に直接……!? じゃねえ、つ、通信機で返事しやがった……」
手元の通信機と地上の両方から響く泡を食ったような声に、憤懣と憂鬱の念を込めた溜息を盛大に吐き出してから、あずみは鋭く目を細めた。
「ちっ、ヤベェな……このままじゃ」
常人を遥かに超えた鷹の視力で地上を見下ろし、忌々しげな舌打ちを一つ。別段、戦況として従者部隊が劣勢だと判断した訳ではない。確かに、今回の緊急召集に応えられたのは川神南部・大扇島の極東支部に詰めていた面子に限られており、零から十番までの怪物じみた老執事達は軒並み不在、加えて二桁台の上位ナンバーの殆どは世界各地に散っているとは云え……それでも、九鬼財閥の誇る従者部隊千名の中に弱卒は居ない。序列一位たるあずみが最大の脅威であるマルギッテ・エーバルバッハを抑えている限り、独軍の特務精鋭部隊が相手であれ、互角に渡り合う事は十分に可能であろう。
そんなあずみの予測を裏切らず、眼下に映る両勢力の実力は概ね拮抗し、結果として互いに一歩も退かない激戦が尚も続いている。こうして戦場の様相を見渡す限り、決着は未だ遠いだろう。
それは不味い。それは――甚だ、不味いのだ。
「この調子で泥沼の戦いに縺れ込んじまったら、死人が出ちまう。さて、どうすっかな……」
あずみの懸念、焦燥の因は其処にあった。自身の、或いは味方の、戦友の死を恐れている――訳ではない。従者部隊の戦闘班に属する者であるならば一人の例外もなく、主の為、九鬼の為、戦場に散る覚悟は済ませている。胸中に感傷はあれど、降り掛かる死を恐れて戦場での立ち回りを左右する事など有り得ない。故に、現筆頭従者を任ぜられる忍足あずみにとって、恐怖とは死ではなく、“主命に背く事”に他ならなかった。
『よいなあずみ。くれぐれも、一人たりとも死なせるでないぞ。敵も味方も、誰一人として、だ。……我とて、これが酷な命である事は分かっている。だが、我が最も信頼するお前ならば必ずや我の期待に応え、過たず任を果たせると見込んでの事。頼んだぞ、あずみよ!』
敬愛する主君から全幅の信頼を示され、自身では果たせぬ役割を代わりにと託されたのだ。ならば己の全霊を以って主命を果たすべく努めるのが当然であろう。それに……そうした心情的な面を除いて考えたとしても、だ。此処で自分がしくじれば一体どうなるか、想像が及ばない程に愚鈍ではない。
あずみの主君たる九鬼英雄は、今や全世界の中心に坐す帝王とすら畏れられる“怪物”・九鬼帝の後継者であり、疑いなく次の時代を担うであろう王者。そのような立場にある人物が、単なる温情のみを以って、“戦場での殺生を禁ずる”などと云う一種ナンセンスな命令を下す道理は無かった。
つまりは……“政治的配慮”。酷く億劫な響きを伴う五文字は、王者の道に絶えず付き纏う命題だ。
死とは虚無の広がる奈落にも似て、絶望的な断絶を以って人々の意を隔てながら、関係を凍て付かせる。九鬼従者部隊と狩猟部隊との抗争が、大なり小なり九鬼財閥と独国の関係を冷え込ませる事は疑いないが――そこに死という要素が這入り込んでしまえば、もはや両者の間に走る亀裂は決定的なものとなるだろう。一国家との関係悪化は、九鬼財閥の推し進める世界戦略に少なからぬ影響を及ぼす。言うまでもなく、悪い方向へ、だ。財閥の発展に何ら寄与しない、云わば英雄個人の“我侭”によって九鬼の保有戦力たる従者部隊が動く以上、犠牲者をゼロに抑える事は最低条件と言っても良かった。
最悪の場合は所謂“緊急措置”によって無理矢理に全てを揉み消す事も不可能ではないだろうが……どう転んだところで、この件における失態が英雄の立場に陰を落とす結果へ繋がる事は間違いない。そして骨の髄まで九鬼英雄の従者で在る事を望む忍足あずみは、己の失敗が主君の輝かしい王道を穢すような事態など、断じて認める訳にはいかないのだ。
無論、己を除く従者部隊の面々もその程度の背景は承知しており、敵手たる狩猟部隊にしても無闇に死者を出すまいという思惑はこちらと同じだろうが――しかし互いの目的を懸けて全力で衝突する以上、戦場に絶対的な安全の保障など有り得ない。互いが互いの殲滅ではなく制圧を目標に置き、致命傷を避けるよう努めながら闘っているとしても、戦闘が激化し長引けば長引く程に、疲労とダメージが蓄積し集中力が鈍りゆく程に、“不慮の事故”が発生する可能性は高まっていく。
何の偶然か、両勢力のパワーバランスが絶妙に均衡している事が災いしていた。こうなれば、序列上位ナンバーの召集が適わなかった事がつくづく悔やまれる。未だ例のプランが本格始動してもいないこの時期に、貴重な人材を極東支部に固める必要性など無いとは言え……もし壁越えクラスの老執事達の一人でも参戦していれば、自分がこうも苦労を背負い込む必要は無かっただろうに。普段はネチネチあれこれと苛めやがるクセしやがって肝心な時に役に立たねえ、とあずみは心中で盛大に毒づいた。
「ああクソ、織田の野郎もだ。少しくらい手ぇ貸しやがれってんだ、誰のせいであたいが汗水垂らして走り回る羽目になってると思ってんだタコスが」
ステイシーと李から受けた呆れ混じりの報告によれば、あの可愛げの欠片も無いクラスメートはこの激戦区を文字通りに素通りしていったらしい。自分以外の者達がどれほどの死闘を繰り広げていようが、信長にしてみれば本気で関心が無いのだろう。
信長の行動は戦略的に考えれば全く以って正しい判断に沿ってはいるのだが、しかし多少なりとも狩猟部隊の戦力を削りつつ突破する位の親切心を期待――する方が間違っているんだろうな畜生、とあずみは思考の半ばで苦々しく唇を歪めた。思えば自分本位という概念が衣を纏って歩いているようなあの男に、然様な甘ったるいものを期待する事こそ愚かしさの極みであった。
「ったく、あたいも本当疲れてんな。……っと、時間切れ、か!」
電柱の天辺部分、あずみの足裏を載せるだけで精一杯の狭い足場が、激しい震動を引き連れて大きく揺れる。眼下に視線を遣れば、鋼鉄の破壊槌と化して叩き付けられたアーミーブーツが足場の根元部分を粉砕し、健気に天へと伸びる石柱を無慈悲にへし折っていく最中であった。
あずみは一瞬後にも訪れるであろう足場の倒壊と崩落を待たず、僅かな躊躇もなく濡れたアスファルトの路面へと飛び降りると、重力を嘲笑うような軽快さで難無く着地。数間の距離を保ちつつ、再び地上にてマルギッテと対峙する。
「……」
「……」
路上を埋めていた煙幕は風雨によって既に吹き払われ、二人の視線を遮るものは何も無い。
あずみは皮肉げに口元を吊り上げ、全身に弾けんばかりの闘志を滾らせた眼前の好敵手へと声を投げ掛けた。
「相変わらずいちいち荒っぽいやり方だな、猟犬。他人様の国なんだ、ちっとは市街の景観に配慮しようって気はねぇのかよ」
「無い。私は軍人だ。軍と云うユーザーが目的に沿って運用する銃であり砲、それ以上でも以下でもない。――破壊を厭う“兵器”が何処に在る、女王蜂」
「はん、そいつは何ともご立派な心構えで。って事は当然、森谷蘭の首を諦める気は更々ねぇってワケだ」
「無論。回答の必要すら感じません」
「ま、確かにこいつは愚問だろうな。……けどよ、お前なら分かるだろ、猟犬? このままあたいらが退かずにやり合い続けりゃ、どう考えても碌な事にならねぇって事は」
マルギッテ・エーベルバッハは闘争に悦びを見出す戦闘狂の気があり、少なからず激し易い性格の持ち主ではあるが、かと言って眼前の戦闘のみに囚われるほどその視野は狭くない。
士官学校を主席で卒業後、若干二十歳にして将校位に就き、国内最精鋭の呼び名高い特務部隊の隊長に抜擢される程の、生粋のエリート軍人にして卓抜した実力者。図抜けた戦闘能力のみならず、頭脳面に於いても一流以上の能力を有している事は言うまでもない。そして然様なプロフィールの持ち主が、九鬼財閥の私兵と独軍特務部隊、両者の軍事衝突が招き寄せる事態の深刻さを理解出来ない筈が無かった。
「…………」
しかし――そうした諸々を訴え掛けるあずみの言葉を受けて、マルギッテが揺らぐ様子は欠片も無かった。先刻までと何ら変わらず、紅蓮の双眸に宿る焔は凍えるような冷たさで燃え盛っている。氷塊の中に猛る激昂を封じ込めた鋭利な眼差しにてあずみを射抜きながら、マルギッテは静かに言葉を紡いだ。
「この期に及んでの問答は、無用でしょう。私は栄えあるドイツ軍人の誇りに懸けて、己に課せられた任務を完遂するのみです。いかに口舌を振るい言葉を尽そうと、私の意志を曲げる事は不可能と知りなさい」
厳粛に吐かれた言葉から窺える想念は鋼鉄じみて冷たく、固い。号令さえ下れば直ちに砲火を吐き出す兵器の趣だ。
つまるところ、止まる心算は欠片も無いという明白な意思表示であった。
「ったく……仕方ねぇな」
元よりあずみとしても、さほどの期待を抱きながら制止を呼び掛けた訳でもない。一日二日の付き合いならばともかく、出会いからの数年間を通じてマルギッテの人間性は概ね把握済みだ。結局のところ眼前の戦闘機械をこの手で停止させようと望むのであれば、その手段は元より一つ。即ち、力尽くで捻じ伏せるしか方法は無いのだと、あずみは良く良く承知していた。
ちゃりん、という軽快な金属音と同時、あずみの十指の狭間に八本のクナイが姿を現す。鈍く光る黒塗りの刃が僅かでも皮膚を裂けば、麻痺性の毒が速やかに神経を侵し肉体を彫像へと変えるだろう。“女王蜂”の忌み名の由来ともなった非情の凶器を携え、忍足あずみは冷徹に敵手を屠る一個の戦闘者へと立ち戻った。対するマルギッテもまた、体内における氣の循環と同時に得物のトンファーを構え、必要が予期される部位の筋肉を張り詰めさせる事で、次なる衝突の準備を終える。
両者の闘気が鋭利な視線を介して虚空で鍔迫り合いを続け、周辺一体の空気がひりつくような緊張感で充たされてゆく。急激に膨張していく闘争の気配が臨界点に達し、二人の武人が今まさに再度の衝突を迎えようとした――その時だった。
「な……、そ、そんな馬鹿なッ!?」
緊迫した空気を無視して響き渡るのは、誰の目にも明らかな狼狽に彩られた叫び声。
発したのは誰あろう、マルギッテ・エーベルバッハその人であった。紅の双眸を驚愕に見開き、眼前の敵手に致命的な隙を晒している自覚も無い様子で、ただ呆然と立ち尽くしている。
あずみの策謀によるものではない――むしろ、あまりにも唐突に生じた巨大過ぎる隙を前に却って呼吸を外され、あずみには咄嗟の身動きが適わなかった。
「いや、しかし、私が間違える筈が無い。この“氣”は確実にお嬢様の……だが、何故だ、何故」
心中を駆け巡る動揺を隠そうともしない様子で、マルギッテは濃厚な戸惑いの色を表情全体に浮かべながらぶつぶつと呟いている。世界各地で“猟犬”と恐れられる鉄血の狩猟者がこれほどまでにうろたえている場面を、かつてあずみは一度たりとも目にした経験が無かった。
誘い……、にしてはあからさまに過ぎ、真に迫り過ぎている。そもそも、マルギッテはその手の腹芸を用いた搦め手をこなせるタイプの武人ではない。
――どうなってやがんだ?
兎にも角にも迅速に事態を把握するべく、あずみはこれまで以上の精度で神経を研ぎ澄まし……そして猛烈な速度で此方へと接近してくる、見知った気配の存在を察知する事で、マルギッテが漏らした驚愕の呟きの意味を悟った。
なるほど――本来ならば居る筈の無い自身の“護衛対象”が銃火飛び交う激戦地に紛れ込んでいるとなれば、その動揺は当然だ。
だがしかし、その到来を先んじて察したところで、何らかの具体的なアクションを起こす暇は与えられなかった。件の気配は見る見る内に距離を縮め、数秒の時を経ずして、一人の少女がまさに弾丸の如く風雨を裂きつつ戦場の只中に飛び込んでくる。白地の学生服に映える絢爛な金髪を踊らせ、美しい碧眼を己が熱情に眩く輝かせながら、少女は紅潮した頬を窄めて大きく息を吸い込み、
「――クリスティアーネ・フリードリヒ、推参ッ!!」
一人の少女が腹の底から放った清澄にして明朗な声音が、戦場を飛び交うあらゆる音響を貫き徹して、嵐の街へと響き渡る。
その一瞬――誰もが、身動きを止めた。九鬼従者部隊も狩猟部隊も、等しく総員が闘争の手を休め、堂々たる名乗りを聞き届けていた。それは恐らく少女の有する一つの資質、ある種のカリスマの発露だったのだろう。煌くような存在感の出現に、戦場に在る数十の耳目は瞬く間に一人の少女へと惹き寄せられ、自然の内に戦いが一時停止していた。
そして、少女……クリスは名乗りを終えた後も疾駆を続け、対峙するあずみとマルギッテの間に猛然と割り込み、そこで漸く足を止める。信念を宿した湖水の双眸が向けられる先は――顔面に驚愕を貼り付けて硬直している独軍少尉、マルギッテ・エーベルバッハ。
「お……、お嬢様っ!? このような場所に何故、ここは危険です、どうか今すぐに退避を――」
「マルさん」
先の名乗りとは一転して、静かな声音だった。だがその静けさに込められた計り知れぬ想念の重さは、慌しく言葉を継ごうとしたマルギッテの口を噤ませるには十分なもの。
未だ戸惑いが消えないままに黙り込んだマルギッテを真摯な面持ちで真っ直ぐに見据えながら、クリスはゆっくりと唇を動かした。
「自分は、マルさんが大好きだ」
「……クリス、お嬢様?」
「マルさんは、自分の知っている誰よりも強くて頼りになって、どんな時でも我が身を顧みずに自分を護ってくれた。運動も勉強も料理も掃除も何だってできるし、自分がどんな質問をしたってすぐに答えられるくらい色んな事を知っている。自分はそんなマルさんを、心から尊敬しているんだ。例え血は繋がっていなくとも、世界中に誇れる自慢の姉だと思っている」
「……」
「――だが、それでも。それでも、自分は決めたんだ」
片手に携えるレイピアの刃が静かに持ち上げられ、白銀に輝く切っ先が一点を指す。曇りの無い刃が向けられた先は、マルギッテの心臓であった。大きく見開かれた紅の双眸を、決然たる碧の眼差しで射抜いて、クリスは一片の惑いも窺えない明朗さで言葉を続ける。
「いかなる時も“義”の一字を貫いてこその騎士。そして――今回の父様の行いに、そしてマルさん達の行いに、自分は義を見出せない! “強きを挫き弱きを助ける”、それが自分の掲げる騎士道で、自分の信じる武士道なんだ。だから、例え大好きなマルさんと闘う事になっても、自分はこの暴挙を止めてみせる!」
凛として響き渡る宣戦の言葉は、何処までも明瞭に少女の意志を周囲へと知らしめる。自らの身命を賭して護るべき少女に他ならぬ自分が剣を向けられているという事実を前にして、マルギッテはこれまで以上に狼狽し、喉より発するべき声すら見失っているかのような状態だった。そんな彼女の有様にも頓着する事無く、クリスは相貌に不惑の信念を宿したまま、尚も口を動かす。
「ディートリンデ曹長」
その唇が静かに紡いだのは、一つの人名。狩猟部隊の構成員の一人を呼んだと思しきクリスの声に、しかし応える者は居ない。ただ誰もが口を閉ざし、息を殺して少女を見詰め、結果として奇妙な静寂が場を支配する。
クリスは数秒ほど目を瞑ったまま返答を待っていた様子だったが、遂に己の望むものが得られないと悟ったのか、不機嫌そうに眉を顰め――不意にその双眸をかっと見開いた。
「ディートリンデ・ハーケンベルグ曹長ッ!!」
未だ成人を迎えない少女の声音とは到底思えない程の気迫に満ちた、それはまさに雷喝であった。百戦錬磨の猛者達が揃ってビクリと身を竦ませ、そして遅れること一拍、「は、はいぃっ!!」と軍服を纏った金髪の女性が素っ頓狂な声を上げて点呼に応える。クリスは燃え滾るような熱を宿した瞳を彼女へと向け、そしてまたしても峻烈な声を張り上げた。
「ドロテア軍曹ッ!」
「ハッ!!」
殆ど反射的にであろう、名を呼ばれた長身の隊員は命じられるでもなく、返事と共に敬礼の姿勢を取っていた。
「ガブリエーレ軍曹ッ! ヘルルーガ軍曹ッ!」
「「はっ!」」
二人からの返事を受け取った後、尚もクリスは凛々しい声音を響かせ、場に居合わせた部隊員一人一人の名を次々と呼ばわっていく。直属の上司たる独軍中将ことフランク・フリードリヒの愛娘とは言え、軍に籍を置いている訳でもなく、従って何の強制力も有さない筈である小娘の呼び掛けに、しかし背筋を張って応えない者は誰一人として居なかった。身分や階級といった権威などとは無関係に、聴く者を否応無しに従わせる絶対的な何かが、少女の声には備わっていた。
やがて全部隊員の名を呼び終え、総員の視線が自身へと向けられた事を確かめるように周囲を見渡すと、クリスは白銀に煌くレイピアを高々と天へ掲げ、朗々と叫んだ。
「皆、心して聞け! ここから先へと進まんと欲する者は、正々堂々、自分を……クリスティアーネ・フリードリヒを踏み越えて往くといい! 自分の掲げる義の剣、折れるものならば折ってみろッ! さあどうした、掛かってこい――自分は逃げも隠れもしないぞ!」
誇り高き白騎士の宣戦が、一直線に聴く者全ての胸を貫きながら市街地を奔り抜ける。清々しくも苛烈な闘志を真正面から叩き付けられた狩猟部隊の面々は、隊長のマルギッテを筆頭に、揃いも揃って天空から降り注ぐ稲妻にでも打たれたかのような風情でうろたえるばかりだった。
相対する九鬼従者部隊の存在そのものを忘れ去っているのか、二人のメイドが堂々と眼前を横切ってあずみの傍まで歩み寄っても、それを敢えて阻害しようとする者も居ない。二人組の片割れこと序列十五位、ステイシー・コナーは感心顔でクリスの後ろ姿を見遣って、高らかに口笛を吹いてみせる。
「ヒュー、こりゃまた随分なロックンロール・ガールじゃねーか。見ろよ、あの猟犬がタジタジだぜ」
「あずみ、どうしますか? この隙を衝いて速やかに動けば、制圧は比較的容易かと思いますが」
「……いや。正直、もうその必要もねぇだろうよ」
序列十六位、李静初のあくまで冷静な提案に対し、あずみは首を横に振った。想像もしなかったであろう少女の登場と予想を超えた行動を前にして、狩猟部隊全体が完全に浮き足立っている。もはや先程まで場を充たしていた、所謂“戦気”とでも形容すべきものは見事なまでに途絶え果てていた。そして、一旦こうなってしまえば、事態はなし崩し的に収束へと向かうものなのだと、長年の経験からあずみは悟っていた。
「やれやれ。無闇やたらにしんどいミッションだったが……これでどうにか、胸張って英雄様と顔を会わせられそうだ」
双肩に重苦しく伸し掛かっていた甚大なプレッシャーが漸く取り除かれた事を実感しつつ、あずみは疲労感に満ちた盛大な溜息を吐き出す。
兎にも角にも、これで九鬼従者部隊は課せられた役割を全うした事になる。後はあの怪物じみたクラスメートが上手く事を運んでいるかどうかだが――まあ其処をわざわざ心配する必要は無いだろう、とあずみは投げ遣りに判断を下した。底知れぬ戦闘能力と狡猾な智恵、そして何より呆れるほどに頑強な鋼の心魂を備えた織田信長と云う男のこと、普段通りの平然たる表情で無造作に万難を排し、傍若無人に己の意図を遂げてみせるに違いない。
友好感情の度合いは別としても、それは紛れもなく、忍足あずみが織田信長というクラスメートに向ける、一種の信頼ではあった。
「それにしても……“クリスお嬢様”、ね。単なる箱入りだと思ってたが、やるもんだ」
親馬鹿中将殿の大袈裟な娘自慢は、あながち全てが事実無根という訳でもなかったらしい。
その温室育ちらしからぬ烈しい立ち振舞いから窺えるのは、一挙一動を以って人心を掌握し、一声の下に一軍を手足の如く使いこなす、並外れた統率者としての才。芯を通した様に真っ直ぐ伸びた少女の背中を見遣って、少なからぬ感嘆と共に彼女への評価を改めながら――あずみはふと、空を仰いだ。
「……雨、上がったな」
吹き荒れる風が止み、轟き唸る雷が去り。黒々とした暗雲の切れ間から、柔らかな光明が降り注ぐ。
あずみは目を細めて天を見上げ、遠からず訪れるであろう波乱の決着を予感した。
斯くして此処に、一つの戦線が終結へ向かう。
九鬼従者部隊 対 狩猟部隊――クリスティアーネ・フリードリヒの介入により、決着付かず。
「…………」
雲間から射し込む紅い光芒が、薄闇に順応した瞳孔に眩しく映る。
川神を見舞った時ならぬ悪天の所為でいまいち時間感覚が曖昧だったが、いつの間にか黄昏時が訪れていたらしい。荒々しい嵐を孕んだ暗雲が流れ去った後の空には、穏やかな色彩の夕日が静かに佇み、手の届かぬ遥か彼方から自分を見下ろしている。
「俺ァ――敗けたのか」
仰向けの姿勢で泥土の上に倒れ込んだまま、釈迦堂刑部は茫然たる調子で呟いた。
「ああ。アンタは敗けた。俺が、勝ったんだ」
紅い日差しを遮って、一人の少年が釈迦堂の視界に映り込む。地に斃れ伏した自分のすぐ傍に立ち、冷気と熱気とが不可思議に同居した漆黒の瞳でこちらを見下ろしているのは、最弱であり最強である己が弟子――織田信長。
一人は倒れ、一人は尚も立っている。それは勝者と敗者の然るべき在り方を明瞭に示す、あまりにも分かり易い構図だった。逃れ様の無い巨大な実感が、瞬く間に心中を覆い尽くしていく。己の敗北という信じ難い現実を、釈迦堂は今この瞬間にこそ明晰に認識した。殆ど自分でも意識しない内に、引き攣れたような笑い声が喉奥から漏れる。
「ヒヒッ、……オイオイ、真剣かよ」
「真剣だ。俺お得意の嘘偽りが欠片も含まれない、徹頭徹尾が本物極まりないリアル。誰もが嗤う夢物語は、目出度く現実と相成った。……五年越しの“約束”はようやく、果たされた訳だ」
「……三人がかりで、だけどな。ついノリと勢いで誤魔化されちまってたが、今になって冷静に考えてみればありゃヒデェ話じゃねぇか? 若者が数の暴力でオヤジ狩りたぁ日曜朝の戦隊連中もびっくりだぜ」
「ふん。ネコと蘭は直臣で、直臣は俺の“手足”。つまりは紛う事無き俺が保有する“力”の一種だ。俺は文字通りの全力を費やしてアンタに挑み、そうしてこの結果を掴み取った訳で、的外れな文句を受け付ける気はないな」
「ヒヒ、モノは言いようだよなぁ、ホントによ。つっても……ま、今回に限っちゃ、あながち詭弁ってワケでもねぇか」
一片の気後れもなく言い切ってみせた堂々たる信長の態度に、釈迦堂は苦笑する。『どんだけ汚い手を使おうが構やしねえ、とにかく俺を愉しませてみせろ』――なるほど確かに、かつて然様な言質を与えたのは他ならぬ自分自身だ。信長はその言に則って、“約束”を果たす為に全霊を尽くしたに過ぎない。
釈迦堂としても、本気で闘争の顛末に不平不満を抱き、文句を吐き掛けている訳ではなかった。素直に認めてやるのが癪だという、詰まらない意地の産物。
本心では既に、認めているのだ。師としての己は既に、信長という弟子に越えられたのだという事実を。
「……蘭。ねねの奴を介抱してやってくれ。何処かその辺で伸びているだろうからな」
「……」
おもむろに投げ掛けられた言葉を受けて、しかし名を呼ばれた少女はすぐには動かなかった。凪いだ海原のように深く穏やかな色合いを湛えた眼差しが、数秒の時間を掛けて信長と釈迦堂の姿を交互に見遣り――そして、ニコリと微笑んだ。そのままの笑顔で了承の頷きを落とすと、二人に背を向け、公園の敷地外へと小走りで去っていく。
首を曲げてその背中を見送りながら、釈迦堂は皮肉げに口元を歪めた。
「ヒヒ。良いのかよ、信長」
「何がだ?」
「いくら何でも無防備過ぎやしねぇか、って言ってんだよ。確かに、お前のトンデモ奥義のせいで氣の大部分が持っていかれちまったし、蘭のヤツに遠慮なくぶった斬られた傷は正直かなり痛ェけどな、それでも俺ァ天下の川神院元師範代――手負いだろうが何だろうが、お前一人を捻るくらいは造作も無いんだぜ」
「……ふん。何を言うかと思えば、下らないな。俺は自分が用心深い人種だと自負しているが、そこまで病的に心配性でも神経質でもないんだよ。杞憂に囚われて大山鳴動、なんてしょーもない事にはならないさ。どう足掻いた所で、アンタにはそんな事は出来ないんだからな」
「へへ、そいつはまた……、らしくもなく随分と自信満々じゃねえかよ、信長。言っとくがな、もしこの一勝で図に乗ってやがんなら――」
「釈迦堂刑部は血も涙も無い残虐非道の悪党だが、誇りある武人だ。それくらいの事は、俺にも分かるさ」
「―――」
「勝負は終わった。決着は付いた。闘争の結末は、既に示されたんだ。だったら――無粋な一幕を付け足してその闘いを自ら穢すような真似、アンタには出来やしない。……俺の言は的を外しているか? “師匠”」
問い掛けの態を取りつつも、その言には間違いなく、揺るがぬ確信が込められていた。僅かな疑義すら差し挟まない、心底からの信を載せて、織田信長はどこまでも傲然と釈迦堂刑部の性情を断定する。
――ああ、畜生。ぐうの音も出やしねぇ。
まさしく、完敗であった。言葉の駆け引きや心理戦といった分野では遠く及ばない事などとうに知っていたが、こうも見事にやり込められてしまえば、もはや悪足掻こうと云う気力も失せる。
釈迦堂はただ頭上の茜空を仰ぎ、くつくつと喉を鳴らして笑った。
湿り気の名残を帯びた緩やかな風と共に、暫しの沈黙が流れる。不意に込み上げた笑いの発作が収まった後、釈迦堂は再び皮肉っぽい笑みを顔に貼り付けながら、見慣れた仏頂面で自身を見下ろしている信長の顔を仰ぎ見た。
「……で。どうすんだ、信長」
「相手とまともな意思疎通をしようと云う気があるのなら、最低限、主語と述語と目的語とを明確に示した上で喋って欲しいもんだ。生憎な話、俺とアンタはツーカーの間柄でも何でもないんだからな。むしろ常時ATフィールド全開だ」
いかに逞しく成長を遂げたところで、やはり可愛げという要素は行方不明であった。むしろどう考えても悪化の一途を辿っていた。
釈迦堂は黙殺という賢明なる手段を以って棘だらけの皮肉をやり過ごし、何事も無かったかのような口調で言葉を継ぐ。
「トドメを刺さねぇのかっつー話よ。念の為に言っとくが、今ここで俺を見逃した所で、週刊バトル漫画よろしく改心して後の仲間フラグが立ったりはしねぇぞ。俺は俺、悪党は悪党。お前の大嫌いな“獣”とやら――それもとびっきり危険な獣を一匹、むざむざ野放しにするだけだ。お前的にゃ、それで構わねぇのか?」
「……ああ、“それ”か」
己の獣性を剥き出しにした表情で邪悪に哂ってみせる釈迦堂に対し、信長はどこか醒めた、酷くつまらなさそうな調子で相槌を打った。
「俺は無駄って奴がどうにも嫌いで、可能な限り人生から排除したいと常々思っている。だとすれば、そもそもの選択権が手元に無い事項についてあれこれと思い悩むのは馬鹿らしい、そうじゃないか? 何と言っても……“それ”を決めるのは俺じゃなく、アンタなんだからな」
「……」
「経験上、手負いの獣の怖さと厄介さは良く知ってる。必要以上に欲を出した挙句に相討ち覚悟の反撃喰らってダブルK.O、なんてお寒い展開は勘弁願いたいからな。まあ勿論、敗北の屈辱に耐えられないからきっちり息の根止めて欲しい、とアンタが仰せなら希望を叶えるに吝かじゃないが。俺は謙虚で礼節を知る理想的な弟子だから、師匠の意志は尊重させて貰うさ」
「……へへ、そうだな……死にたくは、ねぇな。死んでやる訳にゃ、いかねぇな」
何を考えるまでもなく、自然の内に湧き出てきた言葉だった。
そう、未だ自分は、死の終焉を望まない。
自身の望んだ闘争の末に果てるのであれば満足だと、常日頃からそんな風に思っていた。或いは万一、不肖の弟子が見事己を打倒してみせた暁には、この首を挙げさせる事で武勇に報いてやろうと考えた事もある。だが、実際にこうして“その時”を迎えてしまえば――心中に在るのは、未練の二字。敗れて尚燃え盛る、闘争への飽くなき欲求だ。
織田信長。何かに付けて奇怪千万なこの弟子は、語るにも足りぬ至弱より始まり、研鑽の果てに壁越えと云う一つの高みへと到達し、己が宣言に違う事無くこの身を地に這い蹲らせた。自身とは決して相容れぬであろう価値観を胸に抱き、凍て付いた氷の眼差しで闇の世界を睥睨する“天敵”は――而して未だ、完成には到っていないのだ。成長過程であり、発展途上。故にこそ、胸に新たな夢想を宿さずには居られない。故にこそ、釈迦堂刑部は己のサガに従って、生を渇望せずには居られない。
「あー、やっぱダメだわ。俺ァどうも自分で思ってたよか、生き意地が汚ぇらしいぜ」
「……ふん。だったら、さっさと尻尾を巻いて逃げればいいだろう。年中暇人・住所不定無職ことフーテンの釈迦さんと違って、俺は人生の大体の局面において色々と忙しいんだ。いつまでもアンタ一人の相手はしてられないんだよ」
「冷ッてぇなあオイ、お前はドライアイスかっつの。オッサンに優しくしねぇ若者はロクな目に遭わねぇんだぞ、ったくよ」
相変わらず冷淡極まりない弟子の態度にぶつくさと文句を垂れながら、釈迦堂はむくりと身体を起こした。
森谷蘭の渾身の一刀がこの身に刻んだ傷は、並大抵の武人ならば確実に致命傷となるであろう深さだが――世界に一握りの壁越えの武人であれば、内気功で傷口を塞ぎつつ体細胞を活性化させるという力業で命を繋ぐ事は不可能ではない。かつての弟子たる百代の“瞬間回復”には練度に於いて遠く及ばないにせよ、釈迦堂とて同系統の技術は習得している。
無論のこと、これ以上の戦闘を行おうものなら落命は免れないだろうが、ひとまず立って歩く分には不自由しない。釈迦堂は背中に張り付いた泥土の感触に辟易としつつ、傍に立つ少年へと声を掛ける。
「なぁ、信長」
「まだ何かあるのか?」
露骨に面倒そうな調子で相槌を打つ信長に対し、釈迦堂は低めた声音で、静かな問い掛けを発した。
「お前は、強くなるんだよな? こんな所で満足して立ち止まらずに、まだまだ先の領域を求めるんだよなぁ?」
「無論だ。アンタとの“約束”は所詮、一つのチェックポイントに過ぎない。足を止めるには些かばかり、早過ぎるだろうよ」
「だったら――さしあたって次は、正真正銘の一対一で俺に勝つ事でも目標にしときな。俺はそのつもりで“錆”を落としてくるからよ……お前が今この瞬間に噛み締めてる勝利の味を忘れたくなけりゃ、これまで以上に気張って自分磨きを続けるこったな」
「……」
努力だの、修行だの。そうした泥臭い類のものは全く以って、天才武術家たる釈迦堂刑部の柄ではないが……しかし己が求める闘争に臨む為には、きっとそういうものが必要なのだと、今はそう思う。
無慈悲にして過酷なる武界に於いては、天性の才凛こそが万事に優越し圧倒する――釈迦堂の掲げてきた信条は既に、眼前の弟子の存在によって打ち砕かれた。弱者の足掻きが強者を脅かし得る事実を、織田信長は実例を以って証明してみせた。
だとすれば、だ。己が絶対強者足り得ない現実を思い知らされてしまったからには、これまでの如く自身の武才に胡坐を掻き続けている訳にはいかないだろう。信長がこの先も不断の歩みと共に力を積み上げるならば、己もまた茫然と座り込んでは居られない。
立つのだ。立って、歩くのだ。釈迦堂は一つの敗北を契機とし、一つの決心を胸に掲げる。
そして信長は、感情の取捨選択に失敗した様に至極微妙な表情を浮かべて、師の宣言に応えた。
「……それはまた、何とも。将来的にアンタがこれ以上強くなって立ち塞がると来れば、生半可な気合の入れ方じゃあ簡単に詰みそうだな。と言うか幾ら何でもハードモードが過ぎるんじゃないか、オッサン? むしろハードを通り越して狂気の域だぞそれは」
「ヒヒ、マゾゲー大好きなお前にしてみりゃ、気分が引き締まって丁度イイだろ? 身体を張って弟子の燃え尽き症候群を予防しつつ将来に向けてモチベーションを維持させる――我ながらナイスなアイディアだぜ。やっぱ俺って理想の師匠だよなぁ」
「何と言うか、溜息しか出ないな……。全く――」
そんなアンタの無茶苦茶に付き合い切れるのは、世界広しと云えど俺くらいのもんだろうよ。
実に仕方が無さそうな苦笑を唇の端に浮かべて、信長は言った。
そうかよ――と釈迦堂もまた小さく笑って返し、その遣り取りを最後に背を向ける。
心胆の深奥までをも射抜かんとする強烈な視線を尚も背中に感じながら、悠々たる歩調で公園から出て街路を歩く。
「……さーて、と」
身体を前方へと運ぶ足は止めないままに、くたびれたズボンのポケットから携帯電話を取り出した。
釈迦堂にはいまいち使い道の見出せない機能を大量に搭載した最新機種は、“雇い主”から預かった代物だ。電話帳に登録された数少ない名前の一つを選択し、発信。ニコールと待たない内に、目当ての相手に繋がった。
「――よぉ、マロードの大将」
実態はどうあれ一応は雇い主と被雇用者の間柄だ、報告義務を放棄するのは宜しくない。
のんびりと街路を進みながら、電話の向こうに居る相手へと陽気な調子で言葉を続ける。
「わりぃ、敗けちまったわ。元・師匠としちゃ勝てると踏んでたんだけどよ……いやぁ、信長の野郎、俺の想像以上にアレな感じになってやがった。蘭の方も、組し易いかと思えばどん底から一気に復活、挙句に何やら見てるこっちが恥ずかしい感じに覚醒しちまうわで、ホント散々だぜ」
『―――――。―――――?』
「あー、どうにかな。何とか離脱には成功したっちゃしたが、戦力には数えねぇでくれよ? こちとらヘタに運動すりゃ、速攻でモツが零れ落ちちまう程度にはステキなコンディションだからよ」
『――。―――、―――――』
「オウ。済まねぇな大将、地獄の底まで付き合ってやれなくてよ。お互い命があったらまた雇ってくれよ、大将なら格安で手ェ貸してやるぜ。……まあ尤も、お前さんにその気があれば、だけどな」
『――――、―――』
「……ヒヒ。じゃあな、大将。短ぇ付き合いだったが、楽しかったぜ」
飄々と、あくまで陽気な調子で別れを告げて、通話を終了。次いで掌の中の携帯電話を、そのままぐしゃりと握り潰す。ブラックホールにも喩えられそうな人外の握力によって圧縮され、もはやスクラップとも呼べない不可解な物体と化した鉄塊を道端の側溝に放り捨てて、釈迦堂は一顧すらせず歩を進めた。
そして直後、折り良いタイミングで、眼前に“目当て”の光景が現れる。
「……あー」
その場に立ち止まり、微妙な表情で数秒ほど逡巡してから、釈迦堂は行動を起こした。周辺の路面に血溜まりを形成しつつ転がっているのは、多種多様な武器の残骸、そして惨たらしく破壊された無数の人体。織田信長の首級を狙った腕利きの武術家だったものが沢山と、“それ以外”が一体だ。
その例外的な一体を探し当てると、立てた中指を腹部の一点へと無造作に突き込む。忽ち、「うぎゃあっ!?」と色気の欠片も感じられない叫びを上げながら、目当ての人物は気絶状態からの覚醒を果たした。
「あ、あれ? ウチは、あれ?」
「よう、天。んなズブ濡れの格好のまま外で寝てると風邪引くぜ? ん、いや、考えてみりゃバカだから問題ねえのか。しまった、こりゃ我ながら余計な世話だったな」
「し、シショーッ!?」
目を真ん丸にして仰天の声を上げているのは、釈迦堂の弟子が一人、板垣一家の末娘こと板垣天使である。
釈迦堂は仰向けに倒れ込んでいる少女の顔を覗き込み、真上から意地悪い笑みを降らした。
「オウ。ちなみに暴れてもムダだぜ、ツボ突いたからしばらくは指一本動かせやしねぇ。普段ならともかく、今の俺じゃお前の相手するだけでも割としんどいからよ……ま、ちょっとの間は大人しくしてな」
迎撃体勢を取る為か、咄嗟に跳ね起きようと四苦八苦している様子の天使に声を掛ける。
結局、どう足掻いても肉体の自由は得られないと判断したのか、天使は不満げな表情で釈迦堂を見上げ――そしてまじまじとその全身を見渡して、両の瞳に理解の色を宿した。次いで口元がニタリと邪悪な弧を描き、目元が傍目にも楽しげな笑いを湛える。
「うけけ、師匠、シンにやられっちまったんだろ。そのケガ、かなーりヤベーんじゃねーの? へへ、ウチをぶっ倒してラスボス突入した結果がそれだぜ、ザマーみやがれってんだ!」
「お前な、そのリアクションは薄情過ぎんだろ……。少しは心配しろよ、割と真剣で生死の境を彷徨ってんだぞ俺」
状況を解するにつれて見る見る内に上機嫌になっていく弟子の顔に、師弟の絆とは一体何だったのかと思わざるを得ない釈迦堂である。
「えー。だってどーせくたばんねーだろ、師匠だし。テキトーにメシ食って寝てりゃ治ってそうじゃん。……え、師匠、ひょっとしてホントに死ぬんか?」
ガーン、と今更ながらに衝撃を受けている様子の天使に、釈迦堂は苦笑しつつ首を左右に振った。
「いやまあ無茶しなけりゃ死にゃしねぇよ、俺もこの若さでお陀仏する気はねぇからな。……あー、ま、それはともかく、わざわざお前を叩き起こしたのはアレだ、一応挨拶しとこうと思ったワケよ」
「んー? アイサツ? ……おはようございマース?」
「律儀に挨拶返してる辺りは褒めてやりてぇが、違ぇよ馬鹿。ほら、お前アレだろ、こっから先は信長の下で扱き使われる予定なんだろ? んでもって俺の方は川神からさっさと脱出しねぇと色々マズイ訳で、要するに当分の間はお別れって事だ。まあ一応は師匠やってんだ、挨拶も無しに消えちまうのもどうかと思ってよ」
「あー……、そっかぁ。ウチ、アミ姉ぇともタツ姉ぇともリュウとも、それに師匠とも、当分は会えねーんだな……」
織田家に付くと云う自分の選択が招いた現実に改めて思いを馳せたのか、しゅん、と元気を失くしている。
悄然と視線を伏せた弟子に対し、何か励ましの言葉を掛けてやろうかと思ったものの、不慣れが災いしてなかなか気の利いた台詞が思い浮かばず、釈迦堂はただ要領を得ない唸り声と共にがりがりと頭を掻くだけであった。
そうこうしている内に、不意に天使は明るい両目を輝かせ、活力に溢れた声音を響かせる。
「あーやめだやめ、ウダウダ考えてても仕方ねー! ウチが気合入れりゃー済むハナシだっての! うっしゃ、こうなりゃバリバリ活躍してソッコーでみんなこの街に戻って来れるようにしてやんぜぇ! 師匠、またこっちに戻って来れたらそん時ゃウチのおかげだから、豚丼百杯くらい奢ってくれよな!」
「……オウ。存分にサービスしてやろうじゃねぇか。ヒヒ、梅屋のとろろ付き豚丼大盛り、ついで豚汁もセットで付けてやるぜ」
「おお、流石はシショー、太っ腹だぜぇ! よーし、メシのためならウチ死ぬ気で頑張っちゃうもんね!」
「へへへ。ま、頑張れよ、天。――んじゃ、達者でな」
「師匠もくたばんじゃねーぞ! 奢りの約束破ったら地獄まで追い掛けてサーチ&デストローイしてやっからな!」
最後まで湿り気の感じられないハイテンションな弟子の台詞を背中に受け、釈迦堂は笑みを噛み殺しながら歩き出す。
――ったく。俺の弟子ってヤツはどいつもこいつも、どうしてこうも無駄に逞しいのかねぇ。
全く以って、心配の甲斐も有りはしない。いやそもそも心配など欠片もしてはいないがまあ何にせよ弟子の成長は歓迎すべき事だろう、と些か投げ遣りに自己完結つつ、ズボンのポケットに両手を突っ込んで、嵐の去った灰色の街並みを闊歩する。
「さーて、残りの弟子どもと合流するとしますか。……あいつら、まさかくたばっちゃいねぇだろうな」
決定的な敗北を味わい屈辱と共に泥土に塗れ、命に関わる重傷すら負わされた上での不本意な撤退。であるにも関わらず――去り行く孤影に敗者特有の悲壮な陰は付き纏わない。むしろ豪雨に濡れた路面を踏みしめる足取りは弾む様に軽く、万人を強烈に圧する凶相は常日頃よりも上機嫌な形で歪んでいる。
「おもしろきこともなき世をおもしろく――ヒヒ、悪くねえ。クソ生意気な若人どものおかげで、俺の人生、まだまだ愉しめそうじゃねぇかよ」
愉快げな呟き一つ落として、鼻唄交じりにまた一歩。
稀代の武人にして野に棲む気侭な獣、釈迦堂刑部の道行きは、あくまで飄然たるものであった。
本来なら後編と合わせて一話構成の予定だったのですが、そうすると四万字を突破しそうな勢いなのでやむなく分割。次回に続きます。見立ての倍にまで文量が膨れ上がる悪癖はどうにかならないものか……
と言う訳で、今回はサブタイ通りの後始末回でした。身体張って助けたヒロインと愛を語らずオッサンと武を語る主人公、たまげたなぁ……二人は同類、はっきりわかんだね。いまいちマロードの影が薄いのは仕様というか何というか、彼の出番はむしろこれからですので、どうか今後の活躍に御期待下さい。
毎度ながら有り難い感想を下さった皆様に感謝を。寄せられた疑問点等については、出来る限り今後の話の中で解消していけるよう努めたいと思います。それでは、次回の更新で。