気付いた時、少女は暗闇の中に居た。
華奢で小柄な身体を覆うように取り囲むのは、一片の光も差し込まない暗黒。ひたすらに暗く、冷たい、深海の如き静寂の世界に、少女は独りで座り込んでいた。時間の感覚など最初から意識の内には存在せず、一体どれほどの時をそうして過ごしているのかも、判然としない。
しかしそんな死の世界に在って、少女の心には悲哀の念も寂寞感も無かった。怒りも憎しみも喜びも、何一つとして感じてはいなかった。膝を抱えて座る少女の内面を埋め尽くしていたのは、虚無。そして、“己の存在には価値が無い”という、圧倒的なまでの諦念に充ちた確信のみ。理由すらも思い出せないままに、少女は自身の生そのものに対して絶望していた。誰の声も耳に届かず、誰の姿も瞳に映らない暗闇に深く沈み、このまま溶け消えていく事こそが自分に相応しい運命なのだと、明確な要因も無く信じ切っていた。
そう、だからこそ――
「ふん……、酷い顔だな。見るに堪えぬ。意思も無く、意志も無い。まさしく、死人も同然よ」
もはや己へと届く筈の無い“他者の声”を耳にした時、少女の心は純真無垢な愕きで充たされた。
「そのまま朽ち果てるも、お前の自由ではあるが――些か、惜しい』
響くその声音はどこまでも力強く、滾る様な“熱”を帯びたもの。ただ耳を傾けているだけで、少女は己の冷え切った肉体に温もりが通っていくのを感じた。絶対的な“力”に自身の心身が包み込まれる、どこか怖気にも似た安心感。
「どの道捨てる命であれば、寄越せ。無為に消えゆくその命、有為に使ってやろう」
そして、気付けば――少女の眼前には、一人の少年が立っていた。一度でも視界に入ればもはや二度と目を離せないような、圧倒的と云う他無い存在感を身に纏い、傲然たる態度で少女の世界に踏み入ってきたのは、少女とさして齢の変わらぬであろう黒髪の少年。何処かで遭ったような気もすれば、全くの初対面であるような気もする。灼熱地獄の如く轟々と燃え盛る情念を内に宿した黒の双眸は、ただそれだけで周囲を埋め尽くす闇を払う程の煌きを放ちながら、真っ直ぐに少女の姿を射抜いていた。
――ああ、このひとは、わたしにはないものを、もっている。
それは一体、何だっただろうか。そう、それは確か、“意志”と呼ばれる類のもの。ヒトがヒトとして生きる為に必要な“熱”であり、前へと進む為に不可欠のエネルギー。いつかどこかで少女が喪ってしまった、掛け替えのないもの。だからこそなのか、少女は目の前の異質な少年に対して、魅入られるような心地を覚えた。あたかも昏い海底から見上げた遥かな海面に踊る陽光のように――その存在のなんと眩しく、なんと遠い事か。その時、既に限りなく薄れ果てていた少女の感情が、形を曖昧なままに蘇りつつあった。
「生きる意味が判らぬならば、手ずから与えてやる。――“忠”を、尽くせ」
――“忠”。わたしの、いきる、いみ?
『君に忠、親に孝、自らを節すること厳しく、下位の者に仁慈を以てし、敵には憐みをかけ、私欲を忌み、公正を尊び、富貴よりも名誉を以て貴しとなす』
喪われた記憶の一欠片が、少女の胸に正体の知れぬ想念を喚起する。
――そう、わたしは、りっぱな“ぶし”に、ならなくちゃ。
而して武士に在るべき“仁”も“義”も“考”も、あたかも泡沫の夢の如くして、儚く失せて消え果てた。もはや二度とは取り戻せないと、何故か自分は知っている。ならば……せめて、未だ残された“忠”の一字を貫く事で、夢の残骸をこの手に掴もう。それが、それだけが、この胸の空虚を埋め得る唯一の――
少女の瞳に、微かな意志の火が灯る。深淵の闇に閉されていた世界が、光芒を帯びて広がっていく。
「この身に付き従い、我が覇道を見届けるがいい。其れこそは、現世のいかなる名誉も遠く及ばぬ、最上の誉れと心得よ」
――忠を、尽くす。とてもまぶしい、このひとに。
少女にとって、それは至極自然な事に思えた。何の忌避感も抵抗感もなく、唯一の正解として受け入れられる。無価値な自分に生まれてきた意味があるとすれば、それは価値ある者に忠誠を尽くし、“夢”を支える事で初めて達せられるのだと、少女の胸には一つの確信が宿った。故に少女は、自らの意志で口を開き、少年へと問いを発する。何よりも先んじて己が知るべき事を、知る為に。
「ふん。知らぬと云うならば、頭蓋にでも刻んで記憶するがいい。永劫、史上に残る名よ」
己への自負と絶対の自信を漲らせた表情が、ほんの一瞬だけ、痛々しく歪んだように見えた。が、所詮は自分の気の所為だと、少女は断ずる。自分とは違い、輝くような未来への意志に充ちた眼前の少年が、“泣きそうな顔”を浮かべる道理など何処にも無いのだから。その事実の証明の如く、少年は弱さなど欠片も窺えぬ傲岸不遜さを以って、あたかも世界へと宣告するかのように――朗々と、己が名を告げる。
「俺の名は、織田信長――いずれ、天下布武を成す男だ」
それが、森谷蘭の始まりの記憶。
魔王・織田信長が一の臣にして懐刀、並ぶ者なき“忠臣”たる少女の、誕生の瞬間だった。
暴嵐を引き連れて堀之外の街を覆い尽くす、時ならぬ戦乱に臨むに際して、男には二つの誤算があった。
「ヒャッハー! スーパー☆懺悔ターイムだぜぇッ!」
一つ、図抜けた実力と好戦的且つ残虐な性格を以って裏の住人に恐れられる板垣一家の末娘、板垣天使が敵に回るという事態。決して味方と恃める相手だと思っていた訳ではないが、冷酷なる魔王・織田信長という共通の大敵が居る以上、よもや自分の前に障害として立ち塞がる事はないだろう――と男は想定していたのだ。しかし現実は、今まさに男が直面している事態が、嘲笑うような無情さを以って知らしめてくれる。
「地獄の底で閻魔サマに土下座してきやがれぇッ!」
そして二つ目の誤算――それは即ち、板垣天使の実力だ。無論、侮っていた訳ではない。相手は若干十五歳程度の小娘とは言え、数年以上も前から数々の悪評と共に武名を鳴り響かせている常識外れの存在である。“殺し”のプロフェッショナルを自認する男の胸中に無用の油断はなく、紛れも無い全身全霊を以って相手を討ち滅ぼす心算で居た。
「う、ぐ、馬鹿なっ! この私が、こうも一方的に……っ!」
だが、いざ戦闘が始まってみれば、天使の発揮する戦闘能力は男の想定を軽々と超えており――互いの得物を数合と打ち合わせない内から、男は防戦一方に追い遣られていた。怒涛の如く繰り出される連撃の一撃一撃が、想像よりも疾く、鋭く、重い。僅かな継ぎ目も見当たらない猛攻を前にして、反撃に転じるどころか満足な防御行動すらも侭ならない。噂に伝え聞くよりも数段上の、まさしく圧倒的と形容する他ない“暴力”を前に、男の心は殆ど折れ掛けていた。
「けっけっけ。貧弱貧弱ゥ、カルシウム足りてねぇんじゃねーの? 」
一撃の下にへし折られた片腕を庇いながら辛うじて立っている男を見遣って、天使は愉しげに笑う。野生の猛獣の如く犬歯を剥き出しにした獰猛窮まる笑顔こそ、絶対強者の証明であった。対峙する男の心を埋め尽くすのは、どうしようもない絶望感。いずれが捕食者であるのか、明晰に理解してしまったが故の耐え難い恐怖。顔面を蒼白に染め上げる男を見据えながら、天使はケタケタと陽気な笑い声を漏らした。
「ざーんねんでした。ラスボスんとこに着く前に、てめーはここでゲームオーバーだ。そんじょそこらのヌルゲーと一緒にすんなよ? ウチとの死合いに負けたヤローはアレだ、コンテ不可、リトライ不可、そんでもってセーブデータまで強制リセット。ってかぶっちゃけソフトごとオシャカ? ま、そういうコトで一つよろしくぅ」
「ひ、た、助け――」
「また遊ぼうぜーオニィサン。つっても来世でまた会えたらのハナシだけどな、ギャハハハッ!!」
――魔王と忌まれる男に付き従うは、やはり、非道の悪魔に他ならなかったか。
恐慌に陥った男が最後に目にしたものは、誰もが怖気を覚えずにはいられないであろう、世にも恐ろしい悪意の哄笑を放つ少女の姿。絶望に暮れる暇すら与えられないままに、破壊的な衝撃が頭蓋ごと脳髄を揺るがし――魔王・織田信長への叛逆を夢見た一人の男の意識を、無慈悲に暗闇へと葬り去った。
「YABEEE、ウチTUEEEE! 無双シリーズ出演待ったなしじゃねーかコレ」
今しがた自らが打倒した武道家の後頭部を容赦なく踏み付け、更に踵へと力を込めて顔面をアスファルトの路面へと徐々にめり込ませながら、板垣天使は晴れ晴れとした快心の笑顔を浮かべていた。頬に跳ねた返り血を拭こうともせず、満足気に上気した顔でぐるりと周囲を見渡す。
「ノーコンで四連勝、すっげークールな戦績じゃん。クッソ気難しいシンの奴もコイツを見りゃーウチを認めんじゃね? うけけ、こりゃイイ点数稼ぎのミッションだぜぇ」
上機嫌に独り言を漏らす天使の周囲には、既に四名もの武人が血塗れの姿で倒れ伏している。情報に無関心な天使は与り知らない事だったが、彼ら全員が裏社会では相当に名の売れた実力者であった。ある者は織田信長への復讐心に駆られ、ある者は魔王打倒の名誉を欲し。各々の覚悟と野心を胸に嵐へと自ら踏み入った猛者達は――その全てが、天使の名を冠する悪魔の如き少女の凶悪な爪牙に掛かり、等しく報われない末路を辿る事となった。凶暴性に満ちた天使の猛撃を受けて斃れ、更に敗北後の安息すら許さない無慈悲な追撃を受けた彼らは、武人としては既に再起不能と断じられる状態にまで壊されていた。
「~♪♪」
自らの振るう暴力によって血の海を作り上げ、自ら破壊した人体に囲まれながら鼻唄を歌っている少女は、しかしその行為に対して僅かな疑問も、罪悪感すらも抱いてはいない。天使にしてみればただ単純に、己へと降り掛かる火の粉を払い、後の禍根を絶っただけの話だ。そしてそんな思考の在り方こそが、裏社会を棲家とする人間としては一般的なものだった。
「しっかし真剣でメチャクチャ絶好調だなー、ウチ。クスリも使ってねーのに。これはアレか、シンが口酸っぱくして言ってた“意志”ってヤツのおかげなんか?」
ヘッド部分が赤黒く染め上げられたクラブを無造作に振り回しながら、天使は自身の好調に対して首を捻る。板垣天使は怪物揃いと評される板垣一家の例に漏れず、図抜けた素養と戦闘能力の持ち主ではあるが――“どうもムラっ気があり過ぎてお話にならねぇ”、と師である釈迦堂刑部に評されているように、実戦においては安定性に欠けるところが多分にあった。気分が乗りさえすれば無類の爆発力を発揮するが、反面、気分次第では絶好調時の半分程度の力しか振るえない。その弱点を克服するために、天使は強敵を相手取る際には“クスリ”こと向精神薬の類を服用するという手段を用いてきた。興奮剤の効力によって強制的に己の精神を昂揚させ、半ば無理矢理に自身のポテンシャルを引き出すスタイルを取ってきたのだ。
「むー……」
しかし、先程繰り広げた四連戦では勝手が違った。その過程で天使は手持ちのクスリを一錠たりとも使っていないにも関わらず、服用時と同等か、或いはそれ以上の実力を遺憾なく発揮して対戦相手を叩き潰したのだ。明晰に思考が働き、肉体には力が漲り、武技はかつてないほどに冴え渡り――そして何より天使を驚かせたのは、戦闘行動を終えた後に胸の中に残る、充足感。自分が確かに為すべき事を為したのだという実感。小遣い目当ての通り魔的な暴行や、鬱憤晴らしのストリートファイトでは決して得られなかった満足感が、確かに心を充たしている。
「……うん、やっぱそうだ。ウチがやりたいコトってのは、コイツで間違いねーってワケだ。へへっ」
自分がこうして体得した武を揮い、織田信長の配下として功績を積み上げる事が、自身への評価に、延いては家族の命を救う事に繋がる。そこに空虚さや不愉快な後ろめたさが忍び込む事はない。信長の為に力を尽して闘っていれば、あの自他共に厳しい偏屈な兄貴分の隣を、何ら気後れする事無く胸を張って歩く事ができるのだ。川神重工業地帯を覆うスモッグの如く絶えず眼前に漂っていた靄が晴れ渡り、一気に明るい世界が広がってゆくような気分に、天使は一種の感動を覚えながら浮かれていた。
――体が軽い……、こんな幸せな気持ちで戦うなんて初めてだ。もう何も恐くねぇ――!
「よーし、殺ぁってやるぜぇ! ここで大量にスコア稼いで、シンの奴を驚かせてやろっと。 虐殺王に、ウチはなる! ――っと、さっそく次の挑戦者かよ。おいおいしかも団体サマじゃねーか、シンの奴どんだけ恨み買ってんだってハナシだぜ……ま、いっか。うけけ、んな事より入れ食い入れ食い~♪」
舌舐めずりして次なる獲物を待ち構える天使の前に現れたのは、中華風の衣裳を身に纏った三人組の男達だった。体格も得物も見事なまでにバラバラだったが、全員が赤い布を頭に被っているという一点で共通している。男達は道路の中央に立ち塞がる天使の姿に気付くと、戸惑ったように足を止めて、一様に怪訝な表情を作りながら顔を見合わせた。結局、悪名高い板垣一家の末娘が血塗れの凶器を携えて自分達の眼前に陣取っている理由を判じかねたのか、中央のリーダーと思しき髭面の男が三人を代表して歩み出る。クラブヘッドでコツコツと路面を軽く叩きながら、天使は自分に向けて近付いてくる男へと陽気な笑顔で声を掛けた。
「や、ウチ的にゃこれっぽっちも興味ねーんだけど、有名なヤツならスコアの足しになるし、いちおー聞いといてやんぜ。てめーら、どちらさんデスカー?」
「オウ、良くぞ聞いてくれたな! 神州紅巾党が首領三兄弟、人呼んで“流し一飜★ぶらざぁず”たぁ俺達の事よ!」
「あっそ、知らねーや。んじゃー死んどけ」
「――ぬおおっ!?」
男が自己紹介を終えるや否や、何の前置きもなく無造作に繰り出された殺人スイングが、男の顔面スレスレを掠り、無駄に豊かな髭の一部を力尽くでもぎ取って雨中に散らす。男は泡を食った様子で仰け反り、盛大に足を滑らせて地面を転がっていた。
「へー、やるじゃん。ウチ的にゃ開幕デストローイ狙ってたのにスカッちまったぜ。ゲージ勿体ねー」
が、いかに無様に見えたとしても、天使という人外級の武人が放った不意打ち気味の一撃を躱してみせたのは大したものだった。しかし、それも考えてみれば当然の事なのかもしれない、と天使は思う。最凶の魔王と名高い織田信長に自らの意思で挑まんとしている時点で、少なからず腕に自信を持つ実力者である事は疑いないのだから。こりゃふざけたノリに油断してると足元すくわれっかもしんねーぞ――と、珍しく天使は自分を戒めた。断じて失敗は許されないという使命感が、自分でも気付かないところで天使の意識を引き締め、以前には望むべくもなかった慎重さ、冷静な判断力といった恩恵をもたらしていた。
「だ、大丈夫っすか、タンヤオの兄貴!」
「あ、あたりめぇよ。俺っちならあんなモン、目ぇ瞑ってでも避けれらぁ。だが不意打ちたぁ卑劣なマネをしやがる、一体全体何の手違いだか知らねぇが、もう許さねえ! ピンフー、イーペイ、やっちめえな!」
鋼鉄製の大槌を携えた巨漢と、鋭利に光る抜き身の倭刀を提げた隻眼の男が、髭面の男の号令を受けて動き出す。息の合ったコンビネーションを発揮して迫る二人の男を前に、天使は動じる事無くクラブを身体の前で構えた。肉食科の猛獣じみてギラギラと光る双眸は一層の輝きを放ち、瞬きもせず二人組の動きを視界の内に捉え続けている。そして、緊迫の一瞬が過ぎ去り――大気を引き裂く唸りと共に三つの得物が交錯し、直後、爆発にも似た衝撃の嵐が巻き起こった。それは、常人の域から外れた武人同士の衝突が引き起こす現象。その意味するところは、すなわち実力の拮抗だ。天使と二人組は得物の交錯点より生じた衝撃の煽りを受け、全くの同時に後方と吹き飛ばされていた。
「か~、手ぇ痺れるぅ~! ってーなチクショー。ちぇ、いかにもザコっぽいキャラデザのクセしやがって、リュウよかヨユーでつえーぞこいつら」
身軽な体捌きで雨に塗れた路面へと美しい着地を決めながら、天使はぶつくさと悪態を吐く。
しかし、この場において真に戦慄を覚えていたのが誰かと言うならば、それは間違いなく神州紅巾党を名乗る男達の方だった。内功を習得した腕利きの武人が二人同時に掛かって、それで漸く互角の力。しかも二人組の片割れは膂力に特化したパワーファイターなのだ。噂に名高い板垣一家の実力、侮るべからず――そう認識を新たにしたのか、髭面の男は背中に負っていた得物、重さ八十二斤にも及ぼうかという長大な青龍偃月刀を手に取った。ぎょろりと眼球を動かし、着地失敗して地面に転がっている二人組を怒鳴り付ける。
「オイ何モタモタしてんだ、さっさと立ちやがれ! いいかおめぇーら、フォーメーション天・地・人だ!」
「あーん? なんでウチが混じってんだ? 言っとくけどウチはやらねーぞオッサン」
「誰も頼んじゃいねぇぇよ! ただ食らってぶったまげな、かつて梁山泊で紅い三連星とも呼ばれた俺達の必倒必殺コンビネーション、名付けて――噴射噴流撃ッ! いくぜぇ、ピンフー! イーペイ!」
「応よっ!」
「了解なんだな!」
威勢の良い号令を受けて、二人組が猛然と動き出す。大槌と倭刀、各々の得物を構えたまま、天使へと再度の突貫を試みる。油断なくクラブを構えて迎撃の態勢を取る天使に向かって、まずはピンフーと呼ばれた巨漢が大槌を振り被り――荒々しく叩き付けた。ただし標的は天使本人ではなく、その数歩手前の路面だ。激しい轟音と共に大地が揺れ、砕け散った路面の残骸である無数の石片が礫となって天使を襲う。
「ち、うっぜえな!」
礫そのものには殺傷力は欠片もないが、目晦ましとしての役割を果たすには十分だった。天使が腕を翳して両目をカバーしている隙を衝き、イーペイと呼ばれた隻眼の男が倭刀を鋭く閃かせつつ肉薄する。腰を低く構えた独特の姿勢から流れるように繰り出された胴薙ぎの斬撃を、しかし天使はクラブのシャフト部分で見事に受け止めてみせた。眼を礫より庇う左腕はそのままに、咄嗟に自由の利く右腕のみを振るう事で迫り来る白刃を迎え撃ったのだ。驚異的な反射神経と動体視力、何より動物的直感を持ち合わせる天使だからこそ可能な、芸術的とも言える護身だった。
「な、何っ!?」
「うけけ、ざ~んねん! 今のウチに不可能はねーんだよッ!」
驚愕と動揺、そして武人としての畏敬の念を露に目を見開いた隻眼の男を突き放すべく、そのまま腹部を狙って前蹴りを叩き込もうと踵に力を込めた時――つい数瞬前に発動したばかりの直感が、更なる鮮烈さを伴って再び働いた。一瞬にも満たない時間の中で、天使の鋭い視線が素早く地上を走る。そして、自分の眼前に“不自然な影”が存在している事実を気取ると同時に、弾かれたように視線を上げ――上空数メートルの地点を飛翔する、一つの人影を視界に捉えた。長大な青龍偃月刀を振り上げ、不吉に煌く刃を以って一刀の下に両断するべく、今まさに眼下の天使へと向けて己が得物を振り下ろさんとしている、三人目。その正体は言うまでもなく、三人組のリーダーである髭面の男だった。
「ヤベッ――」
巨漢の目潰しも、隻眼の一閃も、全てはこの状況を作り出すための布石。髭面の男は二人組に突撃の指令を下した後、自らもまた駆け出していた。但し、天使から見て死角となる、巨漢の背後に身を潜めつつ。そして天使が隻眼の男の繰り出した一閃へと対処している隙を衝き、巨漢の身体を踏み台に利用する事で跳躍。斯くして男は、三人が鍛錬の果てに練り上げたコンビネーションを活用し、本来ならば地上戦には有り得ない筈の、“上空からの奇襲攻撃”というシチュエーションを成立させてみせたのだ。
――という旨の戦闘理論を、当然ながら天使は欠片も理解してはいない。どのような駆け引きを経て現在の状況が形成されたのかなど、全く以って把握していない。ただ、今この瞬間、自分が相当な窮地に立たされている事実だけは、瞬間的に察知した。自身の上空から襲い来る刃は即ち、重力を味方とし、男の全重量を余す所無く載せた渾身の斬撃。全力を振り絞って受け止めれば一撃を防ぐ事自体は可能かもしれないが、そうなれば眼前の隻眼がすかさず倭刀を振るい、上空への対処に追われて無防備になった天使の身体を、あたかも据え物斬りの如き容易さで斬り裂くだろう。ならばと防御を捨てて回避行動を選択しようにも、青龍偃月刀という得物が有する圧倒的なリーチがそれを許さない。長大な刃の攻撃範囲から離脱するには、既に時間が足りなかった。
「天・誅ゥゥゥゥ!!」
勝利の確信を込めた雄叫びと同時、龍紋の刻まれた巨大な刃が濃密な殺意を載せて打ち下ろされる。
ああ、こりゃ腕の一本は捨てなきゃ死ぬな、と天使が醒めた諦観と共に血生臭い覚悟を決めた――その瞬間だった。
「――まったく。暴れ回るだけが取り得の脳筋のクセして、“戦闘”で遅れ取ってどうすんのさ」
「ぬぁにっ!?」
睨むように上空を見据えていた天使の瞳に、四人目のシルエットが映り込む。羽が生えているかのような軽やかさで宙を踊る小柄な影が、髭面の男の真横に突如として出現し――躍動。唸りを上げて伸びる脚が鞭の様にしなり、仰天の只中にある男の横っ面をまともに捉え――欠片の容赦も無い威力を以って蹴り飛ばした。
「ぐぼぁぁぁああっ!?」
「「あ、アニキィィィッ!!」」
鈍い打撃音と同時に白い歯と赤い血とを空中へと盛大に撒き散らしながら、見事な錐揉み回転を披露しつつ、男は街路の右手に位置する民家の生垣へと頭から突っ込んだ。その下手人たる人影は、愛用の青龍偃月刀と共に生垣の茂みに突き刺さって前衛的なオブジェと化した男に一瞥も呉れる事無く、軽やかに身体を捻りつつ地面へと降り立つ。丈の合わないロングコートをヒーローマントの如く強風に靡かせ、鮮血にも似て紅い両の鉤爪を稲光に照らしながら、少女は嘲弄じみた笑みを湛えて其処に立っていた。
「あーあ、キミ達の粗野で野蛮なお楽しみの邪魔をしないように、わざわざ気配を殺して丁重にスルーして差し上げようと人知れず頑張ってたのにさぁ。あんまりにも危なっかしくて見てらんないものだからついつい手を――おっとこの場合は脚を、かな?――出しちゃったよ。私としては翼をもがれて地に堕ちた天使ちゃんっていうのも中々愉快痛快な見世物になるかと思ったんだけど、まあそこはホラ、私ってば劉玄徳も真っ青なレベルで柔和温順且つ仁の心に溢れた女の子だしね。まあ何はともあれそんなこんなで、やあまた会ったね板垣天使。くふふ、近頃ご機嫌いかがかな?」
「な、てめ、ネコ娘っ!? なんでこんなトコに――!」
旧知の間柄であり、同時に犬猿の仲でもある少女――ネコ娘こと明智音子の唐突極まりない出現を受けて、天使は驚愕に数秒ほど硬直した。そうして生じた隙を活かして、ピンフー・イーペイの二人組は哀れなほどに顔を青褪めさせながら“アニキ”の元へと駆け寄っていく。そのいずれに対しても蔑むような冷たい目線を向けて、ねねは呆れ返った表情で肩を竦めた。
「やれやれ、こんな状況で呑気に醜い仲間割れなんて起こしちゃってまあ。キミ達堀之外の住人ってのはどこまで民度と程度が低いのかなぁ。せっかく知能レベルが近しい野蛮人同士なんだから、素直に手と手を繋いで仲良くしてたらどうなのさ? ま、そういう文明人らしい発想が出来ないからこその蛮人なんだろうから、言うだけ無駄だとは思うけどね~」
「出てきていきなり何だオマエ喧嘩売ってんのかゴラァ! よーしテメーここで会ったが百年目だ、今日という今日こそブッ殺――ってああダメだダメだ」
相変わらずの厭味ったらしい態度に堪らず頭が瞬間沸騰しそうになるが、天使はかつてない自制心を発揮する事で辛うじて理性を保つ事に成功した。そう、ねねという少女がいかに腹立たしく鬱陶しく自身と断じて相容れない存在であったとしても、それでも彼女は織田信長の配下であり直臣である。怒りに任せて手を出してしまっては、自分が何の為にこの場に留まっているのかすら分からなくなってしまう――そう自分へと必死に言い聞かせると、天使は敵愾心に満ちた目をギロリと動かして、涼しい顔で佇んでいるねねを睨んだ。さてコイツにどうやって事情を説明したものか、と頭を振り絞って思い悩んでいると、ねねはいかにも気だるそうな半眼で天使を見て、溜息混じりの声を発した。
「あーあー、別に説明してくれなくても結構だよ。生憎とキミとは悲しいくらいに頭の出来が違うからさ、状況判断くらい自力で行えるんだ。って言うかキミの貧弱な語彙力で情報を伝えられた日には却って混乱を来しそうだしね。私の要求としては、うん、三秒ほど黙っててくれたらそれでいいよ」
投げ遣りな調子で言い放つや否や、ねねは思考の海に潜るように目を瞑る。そして宣言通り、きっかり三秒後に瞼を上げた。焦茶色の瞳を鋭く光らせながら、口を開く。
「えーっと。要点だけ整理すると、こうだね。この先にご主人が居て、キミはその防衛役を任じられてて、このヒト達みたいな有象無象をご主人の下まで到達させないように此処を守っている。という事で、不本意ながらキミは私の味方にカウントされるってワケだ。うん、となるとやっぱり見捨てちゃわないで正解だったね。さすがは私、実にナイスでクールな判断能力。それでいて楊貴妃も敗北感のあまりついつい首を括っちゃうレベルの美少女だって言うんだから、私ってばホント罪な女だよね。――まあ一番罪深いのは言うまでもなくご主人なワケだけど。私と蘭を両手に花、っていう世の男性諸君が血涙流して羨む贅沢でも満足しないで、挙句の果てにこんな未開の地の蛮族みたいな暴力娘まで節操無く家臣団に引き入れようって言うんだからさ」
「……な、なんでそこまで色々分かんだよ……? エスパーかよオマエ」
感心すると言うよりは殆ど呆れ返ったような眼差しで、天使はねねを見遣った。彼女は間違いなく今此処に辿り着いたばかりの筈であるにも関わらず、瞬く間に天使の置かれた立場を洞察してみせたのだ。頭脳労働を全力で苦手とするタイプの天使にしてみれば、それはもはや超能力の類としか思えなかった。
「ま、そこはほら、脳味噌の容積とその稼働率、後はご主人への理解度の差ってところだね。……はぁあ、そうだよ、どぉぉぉぉぉぉせ“こういう事”になってるだろうと思ってたさ。あのヒトってばホントにもう、女の敵にも程があるね。まさしく鬼畜外道の人非人、地獄の底から来た奴輩! って感じだよ、何せ主人公に必須の鈍感スキルも突発性難聴スキルも持ち合わせちゃいないクセに、何食わぬ顔でえげつない真似をやらかしちゃうんだから」
現状の何かが気に入らないのか、ねねは傍目にも不機嫌そうな顔でぶつくさと呟いている。愚痴めいた言葉を聞かされている側である天使の心中にもまた、苛立ちが募っていた。眼前の少女の、いかにも自分はお前よりも信長の事を分かっているのだと言わんばかりの態度が、天使にとっては大いに気に入らなかったのだ。なるほど“家臣”としては少しばかり先輩に当たるのかもしれないが、兄妹同然の間柄として共に過ごしてきた時間で言えば自分の方が圧倒的に上だ――そんな嫉妬とも独占欲ともつかない感情が沸々と湧き上がり、天使の心許ない理性を危うく焦がし始めた時だった。
「うぉおおお、紅天まさに立つべし! 俺っちは死なねぇ! 全世界を俺達“流し一飜★ぶらざぁず”のファンで埋め尽くすまではッ!」
「「あ、アニキィィィッ!!」」
「つまりは不死ってコトだよね。なんという無駄な厄介さ」
二人組の必死の救助活動によって生垣から引っこ抜かれた髭面の男は、鼻血をだらだらと垂らした酷い有様ながらも、未だ闘志を喪ってはいないらしかった。意気軒昂と咆え猛る男を醒めた目で見遣って、ねねは重苦しい溜息を零す。
「首の骨をへし折るつもりで蹴ったのに、頑丈なヒトだなぁ。……いや、あのドS女の言う通り、単に私が中途半端なだけか。あーあ、我ながらなっさけないよ、ホント」
自嘲的な調子で呟きを漏らしてから、ねねは雑念を振り払おうとするかのように首を振った。各々の得物を構えて用心深く天使達の様子を窺っている三人組に鋭い視線を走らせつつ、再び口を開く。
「さーて。こうなっちゃ仕方がない、共同戦線と行こうじゃないか。異論はないよね、天使ちゃん?」
「あーん? なんでウチがテメーなんかとコンビ組まなきゃいけねーんだよ。冗談じゃねー」
「その台詞、そっくりそのままお返しするよ。私だってキミなんかと一緒に野蛮な闘争に臨むくらいなら、一刻も早くご主人のところに駆け付けたいさ。けど、ここでキミが倒れでもしたらその時点で守りが崩れて、ご主人の下までお客さんが直通で次々にやってきちゃうでしょ? だからこの場所は、私達が最優先で死守しなきゃいけない最終防衛ラインなのさ。キミはそれを、キミの個人的な感情ごときで危うくするつもりなの? 言っておくけど、ケダモノみたく好き放題に暴れ回ってるだけじゃご主人の従者は務まらないよ。――で、それを踏まえた上で訊かせて貰うけど。キミはどうするつもりなのかな、板垣天使」
淡々と告げるねねの口元からは、もはや先程までの嘲笑は拭い去られていた。唇を結び、冷徹でありながら同時に真摯な眼光を双眸に宿して、じっと天使を見つめている。彼女は今、織田信長の臣下たる自覚と資格とを問おうとしているのだと、天使は悟る。ならば、返すべき答は初めから一つしかなかった。
「……けっ、足引っ張んじゃねーぞネコ娘。何つっても今のウチは絶好調だかんな、置いてけぼりを食らっても文句は受け付けねーぜぇ?」
「ハァ、危機一髪の所を私に助けて貰っておいて良くそこまで格好付けられるもんだね。ひょっとして一種の自虐系ギャグ? それともアレかな、キミの鳥頭じゃ三十秒以上前のエピソード記憶は保てないのかな? その全力で刹那に生きてるライフスタイル、私には真似できないなぁ。くふふ、ある意味羨ましいよ」
「あ゛ぁぁぁあ゛、なんだコイツ真剣UZEEEE! いちいちイヤミ言わねーと死ぬ病気なんかオマエはよっ! グダグダ言ってねーで素直に手ぇ貸しやがれってんだボキャー!」
「そう怒鳴らないでよ、キミってばいちいち煩いなぁ。やれやれ、呉越同舟ってまさしくこういう時に使うべき言葉なんだろうね。せめて合肥三将に肖りたいところだけど、相方がコレじゃ儚い望みだよねー」
「あ? ナニ意味ワカンネーこと言ってんだ? 日本人なら日本語で喋りやがれってーの!」
「ああもうこれだよ、知的水準が違い過ぎて意思疎通からして無理難題さ!西施レベルでか弱い私にこんな負担を押し付けるなんて、やっぱりご主人は真性の鬼畜に違いないね!」
「……おいてめぇら、さっきから俺達を無視して盛り上がってんじゃ――」
「うるっせえ黙ってろ!」「うるさいな黙っててよ!」
「お、おう……」
口を挟もうとした髭面の男が、鬼気すら漂わせた二人の迫力に押されて仰け反る。が、すぐに気後れよりも屈辱の感情の方が勝ったのか、男は髭から覗く赤ら顔をますます真っ赤に染め上げながら、青龍偃月刀の石突で路面を叩き付け、猛々しい怒声を放った。
「おうおうおう、ケツの青い小娘どもに舐められて黙ってられっかよ! おめーら、気合入れやがれ! さっさとこのガキどもをぶッ倒して先に進むぜ。魔王なんぞと呼ばれて図に乗った若造のそッ首落として、そいつを肴に桃園で酒宴でも開こうじゃねーか、ええ!?」
得物を宙に翳して気勢を上げている三人組は、髭面の男の言葉に反応して二人の少女が同時にピクリと眉を上げ、爛々と光る目を自分達へと向けている事に気付かなかった。目だけが欠片も笑っていない、どこまでも寒々しい笑顔を湛えながら、ねねが奇妙に陽気な声音を発する。
「ねえ天使ちゃん。私さ、感情に行動を左右されてちゃ従者失格、って言ったよね。アレ、取り消すよ。やっぱさ、時と場合によるよね、そういうのって。私とした事がちょっと視野狭窄に陥ってたかも。こういうお馬鹿さん達にご主人を舐められないためにも、やるべき時はやっちゃわないとねー」
「おーよネコ娘。ウチ的にゃさっきまでてめーをブン殴りたくて仕方なかったけどよ、気ィ変わったぜ。あんな感じでクソ調子乗ったコト抜かしてる連中は、ウチらできっちりブッ潰してやんねーとなぁ?」
募り募った苛立ちを叩き付ける対象を改めて見出した事で、天使の声はいっそ明るく弾んでいた。ニタリと残虐に歪んだ口元で三日月を描きながら、滾る様な闘志と敵意に充ちた瞳にて“敵”を見据える。天使とねねの両者はそれぞれの得物を携え、もはや合違う事無く、二人並んで男達と向かい合った。
「ヒャハッ、こっから先の土は踏ませねー、つーかむしろ土に還らせてやんよっ! ウチの新生・北都神拳で昇天しやがれぇ!」
「さあ、速攻で片付けてご主人と合流だ。今の私は割とヒートアップしてるからさ、馬に蹴られて轢死したくなかったらさっさと退いた方が身の為だよ!」
「粋がるんじゃねぇぇよ小娘どもが! 紅天の世を築くため、俺達は負けられねぇ! 行くぞおめーらァ!」
怒号と同時に五つの氣が渦を巻き、小規模な嵐を引き起こす。吹き荒れる戦乱の最中にて、激しく鳴り渡る剣戟の音と共に、新たな闘争の幕が上がる。
第九死合・板垣天使&明智音子 対 反織田信長勢力。
堀之外合戦――尚も続幕。
駆ける。駆ける。放たれた一条の嚆矢の如く風雨を切り裂き、毒々しいネオンの色彩を抱いた灰色の街並みを疾駆する。流麗に煌く金髪を吹き付ける逆風に靡かせ、湖水の碧眼に烈しい炎を燃やしながら、クリスティアーネ・フリードリヒは脇目も振らず真っ直ぐに、堀之外の歓楽街を駆け抜ける。
『頼るべきKAWAKAMIが対処に動かないと決した以上、私が動くのは当然だろう。これはお前を守るための措置なのだ、クリス』
今も尚、胸の内を反響するのは、自身が誰よりも敬愛する父、フランク・フリードリヒの言葉。電話越しに耳にした父の声音は、かつてクリスが一度として聞いた事が無い程に冷たく、そして乾いていた。
『私がマルギッテ少尉と狩猟部隊に与えた極秘任務について何故知っているのか、それは問うまい。だが、これは既に決定事項だ。いかに愛する娘の頼みであっても、撤回する訳にはいかないな』
自分との決闘の最中に突如として豹変し、そしてそのまま川神学園から姿を消した刀遣いの少女、森谷蘭。彼女の存在を排除するべく、マルギッテ・エーベルバッハ率いる狩猟部隊が川神の地に展開しつつある――その情報がもはや疑い様もない事実であると確認し、激昂と共に命令を取り下げるよう訴え掛けるクリスに対して、フランクの見せた対応はにべもないものだった。どんな我侭でも笑顔で聞き入れてくれる筈の父が見せた、思いがけない強硬な態度。受話器を手に狼狽するクリスへと、フランクは強いて感情を殺した声音で、淡々と言葉を続けた。
『――人は死ぬのだ、クリス。“死”という名の見えない怪物は、何処にでも潜んでいる。四十七年の人生の中で、私はそれを嫌と言うほどに思い知らされてきた。ならば私は、目に見える危険全てを徹底的に刈り取ることで、大切な者を少しでも死の恐怖から遠ざけるまでだよ。クリス……一度でも命の危機に晒されたのなら、お前にも分かる筈だ。“死”がいかに無慈悲で、理不尽なものなのか。そこには物語に描かれるように劇的なドラマは存在しない。善きも悪しきも、老いも若きも、強きも弱きも、美しきも醜きも。死は等しく万人に降り掛かり、いとも呆気なく人生を終わらせてしまう。メメント・モリ――私はそれを絶えずこの胸へ刻んできた』
二十年を越える年月を戦場にて過ごした男の言葉には、特別な話術を弄するまでもなく反駁の声を封じ得る、“重さ”が伴っていた。何を言えばいいのか分からず、俯いて黙り込んだクリスに対し、フランクはその声音に初めて感情を滲ませた。
『これはエゴだ。軍の英雄ではなく、娘を愛する一人の父親の、どうしようもないエゴなのだよ、クリス。喪ってから悔やむ事の虚しさに、私はもう疲れてしまった。故に、私はいかなる手段を用いてでも、お前を守ろう。もはや一欠片の悪意も、敵意も、そして“殺意”も、大切なお前の身に届かせるつもりはない。……馬鹿な男だと蔑んでくれても構わんよ、それでお前を守れるならば安いものだ。だから、どうか聞き分けてくれないか、クリス。私はただ――お前を、私が手にした掛け替えの無い宝を、喪いたくないだけなのだ』
ひたすらに娘を想い、どこまでも強くその身を案じて止まない、哀切の念すら込められた父の訴えは、未だに頭の中で鳴り響いているように感じる。結局、クリスには父を説得するという当初の目的を果たす事は適わなかった。むしろ結果としては、熱く燃え盛っていた心情に思わぬ形で水を差された事になる。クリスにとってフランク・フリードリヒは尊敬すべき軍人であり、心の底から愛する父親だ。その言葉を無碍に扱うには、クリスは些か純粋過ぎた。
――それでも。それでも、自分は!
クリスは今、こうして駆けている。敬愛する父の懇願を悉く無視し、その言い付けに真っ向から背いて、嵐吹き荒ぶ川神の暗部を疾走している。
懊悩が無かった訳ではない。心身を刻むような葛藤は当然のように付き纏った。クリスティアーネ・フリードリヒという少女は、父の意に背いた事など、かつて一度として無かったのだ。何せ父の言は全てが正しく、従っていれば何も問題は生じない。少なくともクリス自身には、一切の苦しみは降り掛からない。クリスが送ってきた人生とは、常にそういうものだった。そこに僅かな疑問すらも差し挟む事無く、およそ十七年の歳月を思うがままに過ごしてきた。父の敷いたレールが己の価値観と相反する事は、一度として無かったが故に。
だが。自身の信条と、父の心情――両者が相容れる事の無い場面が訪れてしまった時、クリスは初めて一つの重大な選択を迫られる事になる。すなわち、自らの信じる道を歩むか……或いは、父の敷いたレールの上を歩むか。実に分かり易く、同時に酷く決断の難しい二択の間で、クリスは揺れ動き――そして、選んだ。選んだ結果として、クリスは嵐の街を独り駆けている。譲れない信念の灯火に導かれ、行動の先に己の掲げる“義”を貫き徹す為に。
――それでも自分は、騎士なんだ!
軍事力という反則的な“力”を行使してでも守りたいと願う程に、己の事を大切に想っていてくれる父には、幾ら感謝しても足りない。だが、だからと言ってその行為を賞賛する事も、看過する事も到底出来はしなかった。自身の意に沿わぬ者を力によって排除するという振舞いは、クリスの信ずる“義”の道から大きく外れている。それではあの魔王と称され生徒達に恐れられる邪悪な男と――クリスが刃を手に真っ向から否定した“悪”と、何も変わらない。むしろ、独軍特殊部隊という“群”の暴力を以って“個”を追い立て狩ろうと言うならば、その行為が含む卑劣さの分だけ、より性質が悪い所業だとすら言えるだろう。騎士道の何たるかを教えてくれた姉代わりの女性が然様な任務で血を浴びる事は、クリスにとって耐え難い。ましてや、それが他ならぬ自分のために流される血となれば尚更だった。そして、父もまた同様だ。我が身の安全を保障するため……然様に勝手な理由で敬愛する父の手と誇りを汚させてはならない。言葉で止められないならば、身を以って止めるしかない――!
斯くしてクリスは一つの決意の下に行動を起こした。父の想いを裏切ってでも、己の信念を貫く道を選んだ。そしてひとたび選択を済ませたならば、もはや迷いも躊躇いも心を曇らせる事は無い。それがクリスティアーネ・フリードリヒという少女の、誇り高い独逸騎士の在り方だった。
――彼女には、感謝しないといけないな。
いまいち考えの読めない不可思議なクラスメートの怜悧な横顔が、ふと脳裡を過ぎる。彼女がマルギッテと狩猟部隊の動きについて情報を与えてくれなければ、事態の全てはクリスの関知しないところで推移し、そのまま終わっていただろう。自分は何一つ知らないままにお膳立てされた“平穏”を甘受し、礎とされたものを土足で踏み付けて立っている事実に気付かないまま、今までと同様に“正義を行ってやる”と無邪気に息巻いていただろう。それは想像するだけでも寒々しく、そして十二分に有り得たであろう未来図だった。
『ソウルシスターを助けるのに、理由はいらないワケで』
どうして自分に“それ”を教えてくれたのか、というクリスの問いに対する、少女の答えであった。言葉の意味が分からず首を傾げるクリスに向けて、少女は淡々とした調子で続けた。
『まあ、敵に塩を贈ってみるのもアリかな、と。……でも考えてみれば、体良く利用されたような気がしないでもないね。あの魔王サマ、あれで結構な策士タイプみたいだし』
智慧を持つ怪物は怖いね、とまたしてもいまいち意味の分からない呟きを漏らす。そして疑問符を浮かべるクリスの物問いたげな視線をクールに流して、少女はマイペースに場を立ち去ってしまうのであった。最後まで何を考えているのか判然としなかったが、何にせよ助けられた事は間違いない。この一件が終わったら改めて礼を言おう、とクリスは心に決めていた。
「……“見つけた”。間違いない、これは――マルさんの氣だ!」
今に至るまで一時も休む事無く駆け続けてきたクリスは、歓楽街南西部の一画にておもむろに足を止め、林立する雑居ビルの向かい側へと鋭い視線を向けた。此処は既に戦場だ。街の各所であまりにも数多くの人間が入り乱れて闘争を繰り広げている為か、風雨と共に“氣”すらもが混沌の嵐と化して竜巻のように渦巻き、特定個人の座標を突き止める事を酷く困難なものとしていた。元より氣を用いた精密な位置調査の類を苦手とするクリスにとっては尚更である。だがそれでも、ある程度の距離まで近付きさえすれば、慣れ親しんだマルギッテの氣を探り当てる事は不可能ではない。耳を澄ましてみれば、雨粒の乱舞と唸る暴風、稲妻の轟く音に入り混じって、銃声と爆音、喚声と怒声の織り成す暴力的な音響が、さほど遠くない通りから絶え間なく聴こえてきていた。猟犬の呼び名を持つ生粋の戦闘者たる彼女は間違いなく、その渦の中心に居るのだろう。
「……しかし、なんという壮絶な戦いだ。こうして空気に触れるだけで肌が粟立つなど、初めての経験だな。流石はサムライの国の合戦……街中が武士達の発する鬼気で充ちているようだ」
闘争は既に幕を開け、戦火は拡大の一途を辿るばかり。これほどまでに大規模な戦闘が繰り広げられているという事は、もはや森谷蘭という少女を巡る問題は単に狩猟部隊だけが関わるような種類のものではなくなっているのだろう。確かな実力者であるクリスを超え、世界レベルの強者であるマルギッテをも凌駕する、まさしく規格外と云うべき“氣”が幾つも同時に存在し、各所で烈しく衝突を続けている事実こそ、この戦場の内包する計り知れない異常性を証明していた。今もまた自身を襲い続けている、全身を取り巻く空気が無数の針と化して肌へと突き刺さるような感覚は、クラスメートより受けた冷静沈着な忠告を脳裏に蘇らせる。
『きっと、魔王サマ――ノブナガが、動くよ。学園の外じゃ、校則も校長も守ってくれない。もし首を突っ込む気なら、覚悟はしておいた方がいいと思う』
「……ああ、危険は承知の上だとも。自分はそれでも、立ち止まらない。真に恐れるべきは傷を負う事ではなく、“義”を損なう事だ。胸に掲げた信念の剣が、折れる事なんだ」
身を灼く混沌の坩堝に飛び込む覚悟など、ひとたび駆け出したその瞬間から既に決めている。
クリスの煌く碧眼が、精神の在り方をそのまま体現したかのように真っ直ぐな双眸が、渦巻く闇を射抜いて彼方を見通す。手に携えたレイピアを強く握り締め、大きく息を吸い込んで――クリスは再び、走り始めた。
駆ける。駆ける。放たれた一条の嚆矢の如く風雨を切り裂き、毒々しいネオンの色彩を抱いた灰色の街並みを疾駆する。流麗に煌く金髪を吹き付ける逆風に靡かせ、湖水の碧眼に烈しい炎を燃やしながら、クリスティアーネ・フリードリヒは脇目も振らず真っ直ぐに、堀之外の歓楽街を駆け抜ける。
――白騎士参上まで、あと僅か。
「……シンちゃん。わたし、嬉しいです。ホントに、ホントに、嬉しいんです」
零れ落ちる言葉は紛れもなく、歓喜の念を告げるもの。
だが、白皙の顔が笑みを湛える事はない。戦慄く唇から紡ぎ出される声音は喜びではなく、哀しみに打ち震えていた。
「……蘭?」
その事実を悟った瞬間、胸を充たしていた昂揚の念が一気に抜け落ち、上昇していた体温が冷えていく。激しく脈打っていた心臓は、冷えた手で鷲掴みにされたかの様な強引さを以って、普段の調子にまで引き戻されていた。
「シンちゃんはイジワルで、嘘吐きですけど――さっき私に言ってくれた言葉は、ぜんぶホントの事だって、伝わりました。意地っ張りで素直じゃないシンちゃんが、真正面から私に向き合ってくれてるんだ、って。それがとても、言葉で言い表せないくらい、嬉しい。嬉しい、のに」
蘭は、泣いていた。途方に暮れた迷子のような表情で、弱々しく肩を震わせながら、途切れ途切れに言葉を紡ぐ。
「それなのに私は、シンちゃんに応えられない。私の心が、私の想いが――私には、分からないから」
「……どういう、意味だ?」
「――“忠義”」
蘭が力なく呟いた一言。ただそれだけで、俺は全てを悟った。鉄槌で頭を殴打されたような衝撃と共に、言葉を失う。
「全てが、その一念に呑み込まれているんです。胸に在るこの想いが、何処に属しているものなのか、私には判別が付かない。死ぬなと、生きろと言われれば、それがどれほど罪深い事なのか分かっていても、私は無条件で頷いてしまいそうになる。でも、それが何故なのか……私には、答えられません。“主”の命だからなのか、シンちゃんが心の底から紡ぎ出してくれた大切な言葉だからなのか――そんな事さえ、私には判断できない。私にはもう、自分の心が、分からない」
それは事前に可能性の一つとして想定され、強く懸念されていた事態。
そう、森谷蘭を縛る呪いとは、先天的な“殺意”だけではない。継承された殺意と共にその心を縛り付ける、忌まわしき呪いの名は――“忠義”。他ならぬ俺が、過去に俺自身の手で施した、後天的な呪いだ。白紙の心を染め上げて、魂の根幹に刻み込まれた、一心不乱の忠誠心。例え昔日の記憶が蘇ったとしても、現在に至るまでに積み重ねられた記憶が、培われてきた人格が、その心の在り方が過去のそれに上書きされる訳ではない。一度心中に生じた歪み“だけ”が都合よくリセットされるような事は、有り得ない。
十年。十年、だ。思えば気の遠くなるような年月を、森谷蘭は織田信長の忠実な従者で在り続けてきた。その価値観の根底には常に主君への絶対的な忠義があり、判断基準はいつでも主君の存在を中心に据えたものだった。ならば……その胸に宿る“感情”ですらも、或いは。
「私には分からないんです。本当に、分からないんです」
「……」
「主の為ならば私は幾らでも己が身を捨てられます。主の為ならば私は穢され命を奪われても本望です。主の為ならば私は幾らでも他者を害せます。主の為ならば私は幾千でも幾万でも幾億でも斬り捨ててみせましょう。主の為ならば私は幾らでも悪を為し、善を殺します。主の為ならば私は心すら捨てられます。刃を突き立てろと命じられれば、私は主ですら迷わず手に掛けられるでしょう。……主の為ならば、私は全てを捧げられます」
泣き笑いのような顔で、彼女は言った。
「――ならば。ならば私は――主を、愛しているのでしょうか?」
心の在り処を捜すように自身の胸を抑え、救いを求めるように問い掛ける表情は、まさしく悲痛そのもの。
「……」
自分の心が、分からない。自身の拠って立つべき“意志”が、紛う事なき自分の心から生じたものなのか、由来の判別が付かない。それは――果たしてどれほどの不安と恐怖を伴う事実だろうか。俺には、もはや想像が及ばない。植え付けられた忠誠心は心の中枢に根を張り、歳月を経るにつれて肥大化し、あらゆる感情を内包する程の妄念へと変化を遂げた。ならば、それは既に、森谷の“殺意”とすら比肩し得る怪物だ。
「私はもう、昔のように純粋じゃありません。心も身体も、歪みに歪んで正常な在り方から掛け離れてしまった。ヒトとして、どうしようもなく壊れ果てているんです、私は。そんな存在は――シンちゃんの傍には、相応しくない。シンちゃんの傍には、居られない」
かつて、森谷蘭の精神が死の瀬戸際に在った時。俺は砕けた心を繋ぎ止める為の楔として、“忠”の一字を利用した。武士で在りたいという蘭の願いを忘却の底から呼び起こし、生への意志をその器に宿す為には、どうしても必要な事だった。だが、その楔が今、巨大な縛鎖へと変じて蘭の心を縛り付けているのだ。精神と肉体の両者を拘束する、二重の呪縛。それはまるで、“森谷”と俺の共同作業だ。皮肉としか言い様のない、無情な現実だった。
「蘭……、」
乾いた喉から声を絞り出し、言葉を投げ掛けようとして、躓く。
――俺は一体、何を言えばいい?
蘭の精神に忠誠の種を撒き、育て上げる事で自由意志を奪ったのは、他ならぬ俺自身の咎だ。その俺が、“お前の心はお前だけのものだ”なぞという戯言を、どの面下げて口に出来ると言うのだ? 所詮は論理的根拠も存在しない定型文的な激励が、蘭の何を救済する? 否、いかに弁舌を尽して巧妙な説得を行ったとしても――それが俺の口から発される限り、ただその一点のみの理由で、受け手である蘭は素直に受け止められないだろう。完全な当事者であり、女心を深く解する術もない俺が何を言った所で、蘭の心を打つような説得力など生じようもない。あらゆる説得は虚しく空回りするだけの結果に終わるだろう。故に、俺には眼前の少女へと掛けるべき言葉を、何一つとして見出す事が出来ない。
「…………」
「…………」
酷く重苦しい静寂が、場に沈滞する。
あと一歩。ここまで辿り着いていながら、残るほんの僅かな距離を埋める事能わず、俺の伸ばした手は蘭を捉え損なったのだろうか。尚も全霊で頭脳を回転させながらも、具体的な方策が浮かぶ事はなく、心には焼け付くような焦燥だけが募り続ける。
――言葉での説得が不可能なら……行動に、移すか?
不意に脳裡で囁かれた言葉に、心臓が跳ねる。一度は冷えた身体に血が巡り、体温が再び急上昇を開始する。
そういう強引なやり口は全く以ってスマートではないし、俺の趣味とは掛け離れている。だが、蘭のようなタイプには時として非常に有効な手段である事は間違いないだろう。そして、それを実行する為の心得は、備えている。
「……」
例えその先に、十年前の焼き直しのような結果が待っていようとも……俺がその手段を選択する事で、不安定に揺れ動く蘭の心を定める事が出来るなら。今にも消え失せそうに儚い姿を、或いは永久に俺の傍に留め置く事が適うのなら。それならば、俺はいかなる非道も躊躇う事無く――
「――や、まったく。私ってば毎度毎度登場タイミングが神懸かり過ぎて、何やら出待ちを疑われちゃいそうな予感すらするよ。いやぁ天に愛されてる少女ってのはまさしく私のコトだよね~。あ、天とは言ってもあの蛮族天使とは全く以って無関係だからそこんところ勘違いしないようによろしく!」
陰鬱な空気を無理矢理に払い退けるような、場違いに陽気な声音が公園に響き渡る。それは聴き間違える筈も無い、織田信長が第二の側近……明智ねねの声。俺と蘭は弾かれたように首を巡らせ、声の発生源へと同時に視線を向け――そして同時に、絶句した。
「やあ、我ながらお見苦しい姿で失礼するよ、二人とも。でもまあコレはいわゆる奮闘の末の名誉の負傷ってヤツだからさ、寛大な心で見逃してくれると嬉しいかも」
公園の入口に佇んで雨に打たれる小柄な姿は――誰の目にも明らかな程に、ズタボロだった。
師から貰った大事な贈り物だというロングコートは各所が無惨に裂け、もはや元の色を判別出来ない程に汚れ果てている。両手を覆う武装である自慢の鉤爪は一本も残らず根元からへし折れて、不恰好な篭手に成り果てていた。そしてねね自身の肉体もまた、相当なダメージを負っている事が一目で分かった。額の傷から未だ溢れ出る血によって、片目は既に閉されている。裂けた衣服の隙間から覗く肌には、生々しい打撲痕と裂傷。泥と血と細かな傷に塗れた肢体は、幾度も幾度も固い地面を転がった証左だろう。
「……」
身体に残る死闘の痕跡を隠そうともしないままに、ねねはじっと俺達を見ている。吹き付ける強風に今にも飛ばされそうな儚さを総身に湛えながら、それでも双眸に強烈な意志を宿して、倒れる事無く立ち続けている。未だ自分には成し遂げるべき使命があるのだと、その壮絶な立ち姿は雄弁に語っていた。
「ねね、さん……?」
「ん、数時間ぶりだね、ラン。また会えて、嬉しいよ」
透明な笑みで応えるねねに対し、蘭は感情の堤防が決壊したかのように、くしゃりと顔を歪めた。
「――っ! ねねさん、ひどいケガをッ! それに、わたし、私は、ねねさんに――」
「はーいミニストップ。別に謝られる筋合いはないし謝って欲しい訳でもないから、そういう面倒なのはオールカットで。どーしても謝りたくて仕方が無いって言うなら後で幾らでも土下座してくれていいし、このケガについても今すぐ死んじゃったりはしないからさ、今は落ち着いて私の話を聞いてくれないかな? もうあんまり、時間も残されちゃいないと思うしね」
ねねは謳うような調子で言葉を重ねて、蘭の感情的な叫びを封じた。そして、俺と蘭の顔を交互に見遣る。俺は、声を上げる事はしなかった。気を抜けば胸の奥から溢れ出てしまいそうな幾多の言葉を強いて押し留め、ただ強い意志の込められた焦げ茶の瞳をじっと見詰める。ねねは微かな笑みを口元に浮かべながら、俺へと頷いてみせた。
――合点承知。私にお任せだよ、ご主人。
声には出さないそんな言葉を、俺は確かに聴いた。
――ああ、お前はいつでも有能で頼れる従者だったさ。任せたぞ、ネコ。
俺の無言のメッセージは、視線を介して我が従者第二号に届いただろうか? ……ニィッと満足げに吊り上った小生意気な口元が、きっとどうやらその答えなのだろう。ねねは俺から視線を切ると、真っ直ぐに蘭を見つめ、語り掛けるように口を開いた。
「ねぇ、ラン。いきなり自分語りなんて始めちゃうとすごく痛い系女子みたいでアレなんだけど、その辺はもう覚悟を決めた上で言うよ。ん、コホン。……私さ、ずっと“家族”ってヤツが欲しかったんだよね」
「家族……」
「そ、ファミリー。血の繋がりなんて関係ない。ただありのままの私を受け入れてくれて、一緒にゴハン食べて、笑い合ってケンカして。みんなが当たり前に持ち合わせてるっていう家族が、欲しくて欲しくてたまらなかった。だからさ、ご主人とランに出会って、一緒に暮らして……それがホントに嬉しかったんだ。ランにとっては何でもない日常だったのかもしれないけど、私にとっては毎日が宝物みたいだった。過ごした時間は短くても、ぜんぶがぜんぶ、大切な思い出なんだ。何一つ、私は忘れない。何億円積まれたところで、この記憶を売り払う気は更々ないね」
まぁそれって明智家の資産的には大した額じゃないんだけどねー、と照れ隠しのように言い繕いながら、ねねは笑う。日頃から良く見せるシニカルな笑みとは、明白に種類の異なるものだった。何一つとして棘の見当たらない、綿花のように柔らかな微笑に載せて、ねねは言葉を紡いだ。
「何たって大切な“家族”のコトなんだ。たぶんキミが思ってるよりも遥かに、私はランのコトを知ってるつもりだよ。だからこそ言わせて貰うけど――いつだって笑ったり泣いたりで騒がしいキミは、どうしようもなく“人間”だったさ。そりゃ変なところもあったのは認めるよ? 何かにつけて主がどうの主がこうのと喧しかったのは事実だね。だけど、絶対に“それだけ”がランの全てじゃなかったよ。私は知ってる。ちゃーんと、憶えてる。絶対に、主君に忠誠を尽くすだけのお人形さんなんかじゃなかった。所々でエキセントリックなだけで、基本的には至ってフツーの女の子。じっちゃんの名に懸けて断言するね。キミは、壊れてなんかいないって」
神妙な声音から一転、悪戯っぽい笑みを浮かべて、ねねはからかうような調子で弁舌を振るう。
「……とまあ色々恥ずかしいコトをシリアスに語っておいて何だけど、ランにとっちゃそんなことは割とどうだっていいんだろうね? いやいや隠さなくてもいいさ。気持ちは分かるというか何というか、私だって恋に恋する女の子なんだから、ホントに重要なコトが何なのかはちゃーんと理解してるってば。要はまあ、ランは自分の気持ちに自信が持てないって話でしょ? 自分では忠誠心と恋愛感情の区別が付かなくて、それが苦しくて苦しくて仕方が無い。いやあお察しするよ、さぞかし大変だろうね。そしてそんなキミにはこの言葉を贈ろう。――“鏡見て出直せ。話はそれからだ”」
「……え?」
想定外の毒舌が飛んできた事で目を見開いている蘭に対し、ねねはやれやれと首を振り、溜息を吐き出して呆れの念を盛大にアピールしてみせる。
「ぶっちゃけこんなの真面目に解説するのも馬鹿馬鹿しくてやってらんないんだけど、まあ致し方なし、だよね。ランったらホント律儀って言うか融通が利かないって言うかむしろもうただの馬鹿って言うか、放置してたらいつまで経っても自己解決しそうにないし。……えっとねぇ、これは第三者としての至極客観的な意見なんだけど。キミはアレなんだよ。二十四時間年中無休、三百六十度全方位死角なしに――どう見ても恋する女の子です、本当にありがとうございました。QED」
怒涛の如く叩き付けられる言葉のラッシュに、蘭は言い返す事も忘れてポカンとしている。ニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべるねねの姿は、どこかネズミを甚振るネコを連想させた。
「否定したいならさ、ご主人と話す度にいちいち頬を染めるな目を潤ませるなー! ってなもんだよ全くさ。はっきり言ってこの期に及んでキミの感情を分かってないのなんて、他ならぬキミ自身だけなんだよ? ご主人だってズバリ自分に関わる事だから言葉に困ってただけで、ランの気持ち自体は把握してるに決まってるじゃん。キミはそれくらい分かり易い人間なんだって自覚しなよ。周りから見ればホンッッットに議論の余地なく一目瞭然なの。……そうだね、それで納得出来ないって言うなら、具体的なエピソードを挙げてみようか? ホラ、つい昨日の事なんだけどさ。私と半裸のご主人がベッドの上で絡まり合ってる時――」
「……」
「そんな目で見ないでよご主人。少なくともランの視点では“そういう風”に見えたんじゃないかなって話さ。うん、角度の問題でご主人は気付かなかったみたいだけど、実を言うとあの現場、ランがドアの外から目撃してたんだよ。ご丁寧に気配まで消してね。勿論、実際のところ、私とご主人はちょっとばかりマジメなお話をしてただけなんだけど……、その時のランの顔たるやどう見てもアレだね、男を寝取られた女って言うか、まさしく旦那の浮気現場を押さえた女房。忠誠心? いやぁないない。あれは見間違えようもなく、嫉妬に燃える女の目だったね。正直言っていつ闇討ちされるかと気が気じゃなかったよ」
おおこわいこわい、と大袈裟に身体を震わせて見せると、ねねは蘭に何を言わせる隙も与えまいとばかりに、早口で言葉を継いだ。
「それにさ、聞いた話だと、今までランが面接で容赦なくお祈りしてきた“手足”候補――みんな、女のヒトだったみたいじゃないか。あのサギとかいうトチ狂ったセンパイもそうだし、後はお鶴さん? っていう私の知らないヒトだとか。なんだかんだ理由はあるんだろうけど、結局のトコロ、本音はご主人を取られたくなかったんじゃないの~? モチのロン、“従者”じゃなくて“女”として、ね」
ちなみに捕捉を入れると、ねねが言及した“お鶴さん”とは即ち、滝川鶴羽――以前に織田信長の従者らしき役職を務めたような気がしないでもない、今頃はオホーツク海辺りを流氷に混じって漂流していそうなナマモノである。何処からどう考えても恋愛という概念とは全く縁の無い輩なのだが……その辺りを指摘して話の流れを阻害するのも何なので、大人しく口を噤んでおく。
「もちろん、“それは違うよ”って頑なに言い張られちゃったらそれでおしまいなんだけど。私はランとは別の人間だから、理詰めでキミの感情を特定する事は不可能だ。そういう意味では、突き詰めて言えばこの議論自体が無駄なのかもしれない」
そう、結局の所、証明など出来る筈がないのだ。人間の心理とは、万事がロジックで説明出来るほど単純明快なものではない。例えどれほど高尚で真っ当な理屈を用意し、幾千の言葉を費やしたところで、それだけでは決して蘭を納得させられはしないだろう。だからこそ、俺は殊勝に口を閉ざし――明智ねねは、尚も口を開くのだ。
どこか切なげな色を瞳に宿しながら、それでも陽気な笑顔を絶やすことなく、自身の想いを森谷蘭の心へと届けるべく言を重ねる。
「だけどさ。理屈じゃなく、私には分かる。分かっちゃうんだよ。ご主人の事を想う気持ちが……ホント、イヤになっちゃうくらいに、ね」
「ねね、さん」
「――大丈夫、胸を張っていいんだよ。ランは、ちゃーんと恋をしてる。ご主人の事を、歪みなくまっすぐに、愛してるんだ」
それはねね本人の口にした言葉通り、“理屈”ではなかった。ただ、圧倒的な“実感”と、それに伴う巨大な説得力だけが、その言葉には込められていた。話し手が俺ではどう足掻いても得られなかったであろう説得力を見事に補って、ねねの言葉は雨中に響き渡る。聞き手たる蘭がどのように受け取り、噛み締めたのか、それは分からない。俯き隠れた顔から表情を窺う事は不可能だ。
「……もう、これ以上は何も言わないよ。私がキミの背中を押してあげられる言葉は、ホントにこれで打ち止めだから。主に私の心情的に、ちょーっとばかり限界だしね。あと体力的に、それとたぶん時間的にも、そろそろマズイ。天使ちゃんは予想以上に頑張ってくれてるみたいだけど、さすがに相手が悪過ぎるしね」
飄々と言い放つと、未だ沈黙を保っている蘭から視線を逸らして、ねねは俺を見た。血と泥に塗れた顔面には、嫌と言う程に見慣れたニヤリ笑いが張り付いている。
「さーてさてさて、ランと違ってご主人には言うべき事は特に……あ、そうだ、自分を正当化しつつオオカミになる好機を邪魔しちゃってごめんね~。悪気はあったけど謝ったから許してくれるよね?」
「おい。おい」
「くふふ、お小言なら後で聞くよ。うん、今はちょっと……、休みたい、かな」
弱々しい呟きを漏らすや否や、あたかも頭上から身体を操っていた糸が切れたかのように、ねねはガクリと膝を着いた。傍目にも必死の力で上半身を支えながら、真っ直ぐな視線を俺へと向ける。胸中を駆け巡る想念を押し殺して、俺は静かに声を掛けた。
「ああ、今の内にゆっくり休んでおけ。お前にはまた後で、大事な仕事をして貰わなきゃならないからな」
「……うん」
頷く。そして、数秒ほど、真摯な色を宿した瞳が俺の姿を見据え……不意に、ニコリと笑った。
「信じてるよ、ご主人」
心の底から絞り出したような、全幅の信頼を最後に示して――小柄な身体が、崩れ落ちる。これまで辛うじて心身を支えていた力の全てが抜け落ちたような風情で、前のめりに倒れ伏す。そしてそのまま、ピクリとも動かなくなった。温度を喪って青褪めた肌を泥土と血に塗れさせながら雨の中に横たわる姿は、遠目には戦場に斃れた死体のようにも映るだろう。今にも死神が降り立ち、少女の魂をヴァルハラへと連れ去ってしまいそうな。そんな不吉な予感が、否応無く脳裡を過ぎる。
だが。俺も、蘭も、ねねの傍へと駆け寄る事は出来なかった。それどころか――不可視の針で影を縫い止められたかの如く、その場から一歩たりとも動く事が出来ずにいた。怪物の腹に呑み込まれてしまったかのような凄まじい圧迫感に中てられて、身体の自由すらもが侭ならない。降り頻る雨粒とは別に、冷え切った汗が戦慄に粟立つ肌を流れ落ちていくのを自覚する。
怪物的な圧力。度外れた危険。災厄じみた、存在感。
凶悪な獣性と暴力性に充ちた“この気配”を、俺は知っている。
「――また後で、ねえ。ヒヒ、“後”なんて贅沢なモンが果たしてお前にあるのか、そこはちょっとばっかし疑問だよなぁ」
自身を取り巻く風雨すらをも怯え竦ませる様な、禍々しい“氣”の渦を身に纏った男が一人――今、嵐の街を踏み越えて、公園の敷地へと。俺達の眼前へと、その姿を現す。
「そこの嬢ちゃんも天の奴もよーく頑張ったけどよ。ま、“壁”を越えられねぇ限りは時間稼ぎが関の山、だわな。そもそも最初から無理ゲーな訳で、あんま責めてやるんじゃねえぞ? ヒヒ、さーて、それじゃ――」
此度の戦乱における、最大にして最凶のジョーカー。その名は――川神院元師範代・釈迦堂刑部。
俺が全霊を以って乗り越えねばならない最後の“壁”が、絶望的な暴威と共に立ち塞がる。
「約束を、果たしてもらいに来たぜ――信長」
ネコのフラグが立っていなければ本作はR-18板に移動していた可能性が微レ存……?
という訳で、長かった第二部もようやく最終局面突入です。盛り上げていけたらいいなあ(願望)
原作だと父親に反抗するまでの間に段階を踏んで成長していったクリスですが、今作では中将がいきなり暴挙に出たので彼女の方も色々とすっ飛ばして突っ走っている感じですね。走れクリス。
前回は多くの感想を頂きありがとうございます。充填された燃料を活用して馬車馬の如く続きを書き上げたいと思いますので、宜しければ引き続き燃料を補給してやってください。それでは、次回の更新で。