――あなたは、だれですか。
幾度も幾度も華奢な肩を揺すって、馴れ親しんだその名を喉が枯れるまで必死に呼び続けて、漸く返って来たのは――路傍の石を観るかのように無感動な視線と、残酷なまでに温度の欠落した声音の羅列。その瞬間、自分の中の“何か”が致命的なまでに崩壊する音を、聴いた。
千々に切り裂かれ、粉々に砕け散って、跡形も残さず虚空へと消え去ってしまった、何か。
それは、例えば……そう、精神の平穏。魂の安息。そんな風に呼ばれている諸々を、人生の過程、或いは結末において手中に収めるために、絶対的な条件として挙げられる類のものだったに違いあるまい。真っ当な人間として生まれ損なってしまった異形の怪物が、それでも一縷の希望に縋るようにして、無自覚の内に儚く護り通してきた最終防衛ライン。そういったモノが、悲しい程の呆気なさで終わりを告げたあの時の事を、覚えている。
斯くして獣は眠りから覚め、鎖から解き放たれた。それ以来、避けるべくもない必然として、この胸中には決して絶える事の無い巨大な嵐が吹き荒れている。眼前に立つ全てを根こそぎ破壊し尽くし、行く手に広がる大地を悉く平らげてしまおうという、凶猛な意志に満ちた力のうねり。押し留める術は手中になく、またその理由もない。その焦熱地獄にも似た心象風景こそ、己の在るべき姿だと心の底より確信しているが故に。
終わりがあれば、始まりがある。喪失の先に掲げた決意は、今もこの胸を焦がしている。己が意志を貫き通せと、餓狼の如く吼え叫び続けている。
故に、立ち止まらない。僕/俺は、織田信長は、歩き続けなければならない。光灯る街へと背を向け、暗闇の荒野を踏み越えて――いつか、夢の果てへと辿り着くために。何を犠牲にしてでも、冷酷に切り捨ててでも、全てを振り払って前へと進まなければならない。
だから。
だから俺は、お前を――
源忠勝の知る限り、織田信長という様々な意味で風変わりな幼馴染は、恐ろしいほどに屈折した性格の持ち主だった。この世のあらゆる物事を醒めた眼差しで見下し、鼻で嗤い、その口元はいつでもシニカルに歪んでいる。無意味に気取り屋で、斜に構えていて、僅かでも取り乱している所を他人に見せるのはプライドが許さないのか、余程の事が起きない限りは自分の感情を露にしようとしない。子供らしい可愛げを母胎に置き忘れてきたとしか思えない程に捻くれ切った性格には、幾度となく辟易とさせられたものだが、そのどうしようもなさがこいつの個性なのだ、と忠勝は半ば諦めながら受け入れていたのだ。
だからこそ、今この瞬間。
自分の眼前に居るのが、己の良く見知った幼馴染と同一人物だと、容易に信じる事は出来なかった。
「――――――!!!」
正しく、獣の咆哮であった。他に、形容の術がない。それは言語という手段を以って外面を装飾し、取り繕う事を完全に放棄した、どこまでも単純明快な内面の発露だ。人間の発するものとは到底思えないような、原始的で野生的な声音。血走った眼は溢れる涙を通して虚空を睨み据え、既に赤く染まった爪でがりがりと頭皮を掻き毟り、食い縛った歯の狭間から血を垂れ流しながら、少年は言葉にならない絶叫を発していた。理性を排した叫びに込められているのは、憎悪と悲哀と憤怒と絶望とが渾然一体となった、黒々とした粘性の、泥塊にも似た感情の奔流――あまりにも膨大過ぎる“感情”の波は、もはや一種の暴力と化して忠勝の身に叩き付けられた。圧倒的な情念に呑み込まれ、無意識の内に身体が強張る。精神とは無関係な所で肉体が怯え竦んでしまったかのように、僅かな身動きすらままならない。現実感の欠如した、異様と形容する他ない未知の感覚。
……いや、違う。
正確に言えば、源忠勝は“この感覚”を知っている。既知のものとして、記憶している。堀之外の街中で初めて出逢ったその時に織田信長という少年から感じた強烈な圧迫感と、今この瞬間に忠勝を襲う感覚は似通っている。しかしその規模が、桁違いに凶悪だった。多くの時間を共に過ごし、その内面をより深く知るにつれて、もはや意識する事も稀となっていた正体不明の圧力。それが現在、恐ろしい程の勢力を以って空間を蹂躙していた。その発生源たる幼馴染の姿は、あたかも絶大な力を振り翳して荒れ狂う巨獣のように映る。矮小な人の身では近寄るだけで踏み潰されてしまうだろう――意志とは無関係に、肉体が畏怖にも似た恐怖感を抱いている様だった。だからこそ、狂気に駆られたかのような痛々しい様子を目の前にしても、暫くの間、忠勝には信長の傍へと駆け寄る事すら適わなかったのだ。
「……っ!!」
だが、唸り声と共に固めた拳を振り上げ、骨ごと砕けてしまえとばかりに眼前の石壁へ向けて躊躇無く叩き付け始めた姿を前にした瞬間、忠勝を戒めていた見えない鎖は驚くほど容易く解けた。身を縛っていた畏怖も恐怖もいずこかへと霧散し、忠勝はただただ無我夢中で信長へと飛び掛り、言葉にならない怒声を上げながら、渾身の力で両の手首を掴んで拘束する。
「――タツ、か」
予想に反して、抵抗は無かった。両者共に体勢を動かさないまま沈黙の数秒が流れ、痛々しく破れた手の甲の傷口から、ぽたりぽたりとアスファルトの床へ血の滴が垂れ落ちる。あたかもその血が己の頭へと逆流したかのように、忠勝の胸中にはやり切れない怒りが込み上げていた。
「なに、やってんだ、ボケがッ!」
「……」
「お前の、お前の気持ちが分かる、なんて、オレは言わねえよッ! だけどな、」
「――自分で自分を痛め付けても仕方が無い。ああ、分かってるさ」
先程まで見境なく撒き散らしていた激情が嘘であったかの様に、平坦な声音だった。そのままの調子で、「もう大丈夫だ。離してくれ」と告げる。こちらを見遣る黒の双眸に間違いなく理性の色が戻っている事を確かめてから、忠勝はゆっくりと手首の拘束を解いた。再び自傷に走らないか注意深く見張りを続ける中、信長は傷だらけの両手へと視線を落としながら、呟くように口を開いた。
「だが、こうやって吐き出していないと、すぐにでも気が狂いそうなんだよ、タツ。いや、あるいは、気が狂った結果がこのザマなのかもしれないな」
酷く自嘲的な声音だった。誰の眼にも明らかな侮蔑の念に唇を歪めて、信長は静かに言葉を続ける。
「僕は、自分の事を理性的な人間だと思っていた。この世の何もかもに対して殆ど心が動かないのは、感受性とやらが乏しいからなんだと信じていた。――だが、そうじゃなかったんだな。僕はただ、我慢していただけだったんだ。意識の根底にまで染み付いた負け犬根性に従って、自分でも気付かない内に、ひたすら諦め続けていただけだったのさ。自分の意志を無理矢理に押し殺し、抑え付けて、それでクールなニヒリストを気取っていた。全く、笑える程に無様な話だ。なぁ、お前もそうは思わないか、タツ」
「……」
「それで、それでだ。救い難い大馬鹿野郎がようやっと覚悟を決めて、我慢を止めて、自分の感情を解放してみた結果、どうなったと思う? 答えは一目瞭然――抑えられないんだ。感情をコントロールできない。処理が間に合わない。完全に持て余して、消化不良を起こしている。だから、どうにかして発散する必要があった。つまるところさっきのは、僕の中で最も持て余していて、最も手軽に表現し易い種類の感情を思うさまぶち撒けている最中だった訳だ」
周囲に飛び散った赤黒い痕跡と、暴力性に満ちた先程の狂態。それらを見れば、信長の言わんとする感情の正体は明らかだった。
「――憎い」
ぽつり、と、血の滲む唇から零れ落ちた一言には、怖気の走る程の情念が込められていた。聴いているだけで肌が粟立つような、深く、昏く、重苦しい感情の発露。自分に向けられている訳ではないと知っていても尚、忠勝の身体には抑え切れない震えが走った。
「憎いんだよ、タツ。あいつをあんな風に仕立て上げた全てが憎くて憎くて堪らない。他人を散々苦しめた挙句に自分は苦しむ間もなくバラバラになった畜生も、ふざけた置き土産を残して勝手に逝ったイカレ親も、今もこの街に我が物顔でのさばっている屑共も。そして何より、何よりだ――僕自身の存在そのものこそ、殺してやりたい程に憎い。その衝動にだけは、どう足掻いても耐えられそうになかった。それで、気が付いたらこの有様だ」
事もなさげな調子で血塗れの両手をひらひらと翳して見せながら、信長は痛みを――恐らくは肉体とは全く無関係なところに走った痛みを堪えるように、表情を歪めた。
「勿論、僕一人の責任だなんて自惚れる気はないし、そもそも僕一人の力で何が出来た訳でもないかもしれない。だが、だとしてもそれは、“何もしようとしなかった”事への言い訳にはならないんだ。僕は、闘うべきだった。もっと早く、自分の意志で理不尽に立ち向かうべきだった。そうしていれば――僕は、こうも惨めな想いをせずに済んだ筈なのに」
「……今は、余計なことは考えるな」
喉奥から無理矢理に絞り出すような言葉しか、掛ける事が出来なかった。いかなる慰めも叱責も、今の信長の心に届くとは思えなかった。その程度の機微を悟れないほど、源忠勝は鈍感な少年ではない。それが幸であるか不幸であるかは、誰にも判らない事だろうが。
「ほら、手ぇ出せ。手当てしてやるから、じっとしてろ」
食料品と同時に簡易ながら応急セットを持ち込んでいたのは不幸中の幸いだった。背負ったサックを埃塗れの床に下ろし、中身を取り出しながら、こうも早く活躍の場が来るとは思ってなかった、と忠勝はやり切れない感情を苦味と共に噛み締めた。ボトルの飲料水を傾けて傷口を洗浄し、消毒を済ませてから清潔な包帯を巻き付ける。代行業に必要な基礎技能の一つとして養父に手習いを受けていた事もあって、年齢とは不釣合いに見事な手際だった。黙々と処置を終えると、次いでサックの中から200mlペットボトルを二つ取り出し、片方を信長に向けて放り投げる。
「これは?」
「飲めよ。ノド、乾いてんだろ。ほぼ丸一日、何も飲んじゃいねえだろうしな」
信長は無表情で手元の清涼飲料水を数秒ほど見つめてから、ゆっくりとキャップを外し、そして一気に臓腑へと流し込んだ。それは喉の乾きを潤すためと言うよりは、今も身体を焦がし続けている激情を、ほんの僅かでも冷まそうと足掻いているように思える飲み方だった。そんな信長の行動については敢えて触れることなく、忠勝は無言のままサックを漁って、目当てのものを引っ張り出す。
「メシも調達してきた。つっても主にオヤジが放置して賞味期限切らしかけてたコンビニ弁当だがな」
「ああ、それは結構。願ってもないご馳走じゃないか。いつぞやの殺人鍋に比べれば天上の美味もいいところだ」
「……アレか。これからメシってタイミングで嫌なもん思い出させてんじゃねえよボケが」
川神周辺域に自生する謎の野草(名称不明)のごった煮。サバイバル生活の初期、三人で囲んだ鍋の壮絶な味を忘れない。文字通りの意味で苦い思い出を揃って回想しつつ、黙々と眼前の弁当を平らげる。凡そのコンビニ弁当の例に漏れず、品質はともかくボリュームだけはそこそこ保障されているものだったが、しかし完食には数分と要さなかった。なるほど、人間の適応能力とは大したものだ、と忠勝は皮肉気味に思う。胃袋の中身を洗い浚い大地へと還元せしめる、あの紅い紅い地獄絵図を目の当たりにしてから、未だ一日程度の時間しか経っていない筈であるにも関わらず、我が食欲のなんと旺盛な事か。二度と見たくないとすら感じた肉片という物体をこうして噛み締めていても特に吐き気を催さない辺り、自分達は常人よりも神経が図太く出来ているのかもしれない。
或いは――既に感覚というものが麻痺して、機能不全を起こしてしまっているのか。きっと、そうなのだろう。
「タツ。外の様子は、どうだった?」
短い食事を終えてから数分が経った頃、おもむろに沈黙を破った信長の問いに対し、忠勝は反射的に窓の方を見遣っていた。つられるようにして、信長もまたそちらへと視線を向ける。朽ち果てた窓枠の向こう側に一望出来るのは、血のように禍々しい夕焼けが紅く照らし出す、堀之外の猥雑な街並み。一様に面相を険しくし、鬼気迫る雰囲気すら漂わせて薄汚い街路を駆け回っていた男達の姿を瞼の裏側に浮かべながら、忠勝は問いに答えた。
「大方、お前の予想通りだ。あいつら、お前らのことを血眼になって探し回ってやがる。もちろん、封鎖も同時進行で、だ。この街からはアリ一匹逃がさねえ、って勢いだな」
「……ふん。まあ、そうだろうさ。あの“精肉工場”で細切れに加工された組員の一人、新田利臣という男は朝比奈組の若頭だ。あんな屑でも、あんな屑だからこそか? 組の中では相応の声望もあった。連中にしてみれば、何としても下手人を探し出して復讐を果たさない事には、“メンツ”が立たない。他勢力に舐められない為にも、速やかな“落とし前”が必要になる訳だ」
直後、ギリギリと、烈しい歯軋りの音が響く。表向きは冷静な分析を口にしながらも、信長の内心は凄まじいまでの憤怒にて煮え滾っている様だった。壮絶な激情を両目に宿しつつ、信長は力尽くで押し殺したような声音で現状を整理している。
「そして追われる側の僕達には、逃げ場が存在しない。川神からの脱出を画策しようにも、行く宛てが無い。そもそも“ここから移動できない”以上、まず堀之外からの脱出すら不可能だ。この風光明媚で快適至極な素晴らしき隠れ家に引き篭もっていたところで、稼げる時間は高が知れているだろう。連中が易々と報復を諦めでもしない限り、遠からずここに調査の手が伸びるのは間違いない。更に言えば、僕達の側には武力抵抗の手段無し。そうなれば、どうなる? ――悪名高い“森谷”とやらの娘で、生贄として格好の対象であるところのあいつは、一体全体どんな目に遭わされると言うんだ? ああ畜生、想像するだけで楽しくなってくるじゃないか」
愉快げな笑顔とは徹底的に程遠い、溢れ出す淀んだ憎悪で歪み切った顔を窓の外へと向けて、信長は唸るような語調で言葉を続けた。
「欲求に忠実なだけの畜生共が寄り集まって組織を名乗り、厚かましくも仁義を語り、あまつさえ人間がましく体面を取り繕う――そんな馬鹿馬鹿しい茶番劇のために、あいつはまだこれ以上、追い立てられなければならないのか? あれほど多くのモノを搾り取って奪い尽くしてもまだ、飽き足らないとでも? ふざけるな。ふざけるなよ。そんな糞以下の理不尽に、今のあいつを晒させてたまるか」
「……信長。あいつの様子は、どうなんだ」
思わず口にしてから、訊くべきではなかったのかもしれない、と忠勝は咄嗟に思った。相当に情緒が不安定になっているらしい信長の口から“それ”を答えさせるのは、誰にとっても不幸な事態を招くのではないか、と。だが、そうした忠勝の危惧は特に必要のないものだったらしく、信長はぴくりと眉を動かす以上の目立った反応は見せなかった。
「相変わらずだ。相変わらず――いや、或いは、より悪化したと言うべきかもしれないな。最初は、本当に最初だけは、少なくとも“会話”が成立していた事を思えば」
「そう、か」
「暴れ出したり逃げ出したり、そういう不愉快なトラブルと無縁でいられるのが唯一の救いだ。何せあれから一歩たりとも動いていないんだから間違いない。あの調子じゃあ数日としない内に、身体に積もり積もった埃を払う作業に追われる羽目になりそうだな。思うに、電池切れのラジコンを擬人化すればあんな感じになるんだろうよ、きっと」
冗談めかした口調で言って、普段同様に皮肉げな笑みを浮かべようとして、そしてそれがなかなか上手くいかない様子だった。既に恐ろしい苦痛に充たされている顔面に笑みを湛えるのは並大抵の努力では不可能だろう。結局、信長は唇を真一文字に結んで、埃舞う廊下の隅に位置する扉へと視線を向けた。信長の言葉通りならば、その先の一室に彼女は今も居るのだろう。三人組の欠かさざるべき一人、誰よりも無邪気で感情豊かな幼馴染。
誰よりも無邪気で感情豊か“だった”、幼馴染。
「……あいつはきっと、強い人間じゃなかった。少なくとも、僕が確たる根拠もなく信じ込んでいた程には。そういう事なんだろうな」
呟くような信長の言葉に、忠勝は答えなかった。答えを求められていない事が分かっていて、そして何を言うべきかも分からない以上、口を噤む他に道はない。重苦しい数分の沈黙が過ぎた後、忠勝は壁に預けていた上体を起こして、シャツの背中に付いた埃と汚れを払いながら、信長へと向き直った。
「もう一度、周囲の様子を窺ってくる。お前は、あいつを見ていてやれ」
「……タツ」
「なんだよ」
「朝比奈の連中が鼻息荒げて追っているのは、僕とあいつだけだ。お前の顔は割れていないし、存在そのものに気付いてもいないだろう。だから、お前は――」
「オイ、信長。念の為に言っとくがな、もしくだらねぇ事を抜かしやがったら、真剣で容赦しねえぞ」
「……」
「ケガ人だろうが関係ねぇ、顔面を全力でぶん殴ってやる。自分を痛め付けるのが楽しいってんなら、さぞかし本望だろうよ。……で、なんだ? 何か言いてえんじゃなかったのか?」
「――、なに、折角顔が割れてないのだから、不審な動きをして連中に怪しまれるな、という旨の忠告をしようと思っただけだ。生憎と僕はマゾヒストじゃあないんだ、いくらストレス発散の為だとしても、これ以上の負傷は御免被るさ」
「はっ、信じといてやるよ。今度バカな真似をやらかしやがったら手当てなんざしてやらねえからな。せいぜい自愛しやがれよ、ボケが」
ぶっきらぼうに言い放つと、返事を待たずに背を向ける。
「 」
ともすれば聞き取り損なっても何ら不思議のない、辛うじて喉奥から絞り出したように微かな声が耳を打ったのは、廊下の突き当たりを曲がり終えた時だった。忠勝は一瞬だけ足を止め、小さく口元を緩ませて、そのまま振り返ることなく歩を進めた。
あの天邪鬼がどんな顔でその台詞を口にしたのか、この目で見られなかったのは残念だ、と少しばかりの口惜しさを抱えながら。
いつの間にか、雨が降り始めていたらしい。ついでに強風も伴っているらしく、横合いから吹き付けられた雨粒が弾丸と化して、皹割れた窓ガラスを叩き砕かんとばかりに乱打している。絶え間なく響き渡るその騒音が切っ掛けになったのかは分からないが、とにかく僕はふと眼を覚ました。未だ茫漠とした意識の中、今の今まで自分が軽い睡眠状態に在ったことを自覚する。僕の意志としては、少なくとも忠勝が戻ってくるまでの間は睡魔に意識を委ねるつもりなどなかったのだが、どうやら先に肉体が限界を迎えたらしかった。まぁあれから一睡もせずに過ごしていたのだから、当然の結果と言うべきなのかもしれない。生憎の悪天候のお陰で時間経過の認識が難しいが、おそらく意識を飛ばしてからまだ一時間と経ってはいないだろう。僕はコンクリートの固く冷たい壁に寄り掛かっていた上体を、勢いを付けて起こした。途端、強烈な激痛が稲妻の如く身体の各所を巡り、脳の神経が灼ける。
よし。これで、目が覚めた。
適度な休憩と、未だ鋭く走り続ける程好い痛み。実に良い塩梅だ。これであと数時間ほどは睡眠を取らずに活動を維持できる事だろう。尚も物欲しげに休息を訴える自らの肉体に喝を入れ終えると、僕は立ち上がって、明かり一つ無い陰気な室内を見渡した。不覚にも気を失う前と何ら変わらない、牢獄じみた殺風景な部屋。薄暗い室内には調度など何一つとして見当たらず、ただ無骨なコンクリートの床と壁と天井が剥き出しになった灰一色の空間が広がっている。元々は何の用途に使われていた部屋であったのか、それを窺い知るに足る手掛かりすらどこにも存在しない。
数年以上も昔に廃棄されたとあるビルディングの、五階部分に位置する一室だった。住宅街の南西部、僕達が前々からいわゆる“秘密基地”なるものを設置しようと企んでいたロケーションだ。九割九分の稚気と一分の浪漫に従って立案されたその計画が実行に移される事はついになかったが、しかし僕達がこの廃ビルの存在に前もって着目していたのは幸いだった。お陰で現在、こうしてなかなか優れた隠れ家として利用する事が出来ている。例によって無駄な行動力に溢れた幼馴染が言い出した、いかにもお子様っぽい幼稚な思い付きも、たまには物の役に立つようだ。
「…………起きてるか?」
対面の壁に向かって声を投げ掛けるも、返事は無かった。まさかと慌てて視線を巡らせたところ、焦るまでもなく、目的の人物は同じ部屋の中に居た。先程までの僕と同じ様に両脚を床に投げ出して座り込み、壁に凭れ掛かって、じっと宙を見つめている。石膏像の如き不動の姿を確認して、僕はほっと安堵の息を吐いた。万が一にでも、意識を失っている内に何処かへ行かれでもしたら大事だ。
――何処かへ行かれでもしたら、か。
失笑する。それは、我ながら随分と馬鹿げた思考だった。馬鹿馬鹿し過ぎて面白くもない。
僕はしつこく痛みを訴える身体を引き摺って、向かい側に居る“彼女”へと歩み寄った。薄闇に浮かび上がる少女の容貌を数秒ほど眺めてから、傍に腰を下ろす。二人並んで、壁に背を預ける形となった。沈黙が流れ、単調な雨音だけが飽きる事無く響き続ける。僕は何も言わなかったし、彼女も何も言わなかった。いや、その表現は正確ではない。それではあたかも僕達が自由意志に従って沈黙を選択しているかのような誤解を招いてしまいかねない。全く以ってそうではなく――そもそも、僕達の間に会話というコミュニケーションが成立し得る道理が、ここには存在しないのだった。
例え僕が何を話そうとも、
蘭がそれに応える事はないのだから。
「覚えてるか? 夏休みが始まる前、お前がいきなり言い出した、秘密基地の計画」
「………………」
「案の定、論外だったな。こんな酷い環境じゃとても寝泊まりできたものじゃあない。僕は居心地の悪い住居ってものには慣れてるが、それでも御免被るね。普通の人間なら三日で気が狂うだろうよ。ふん、だから僕は最初から反対だったんだ。妄想逞しいのは結構な事だがな、現実的な想像力が伴わなければただの夢見がちな阿呆と何も変わらないだろう。あくまでも自分が馬鹿じゃないと言い張るんだったら、いい加減に学習したらどうなんだ」
「………………」
僕の言葉に対して、蘭は一切の反応を示さない。間抜けに頬を膨らませて立腹する事も、弾ける様な笑顔を零す事もない。曇ったガラスの瞳は眼前の僕を映さず、ひたすらに遠い何処かを見つめている。今の僕には見えない何かを、僕には共有できない灰色の世界を、飽きもせずに延々と。
「…………何だよ」
蘭の癖に、生意気だな。乾き切った喉から無理矢理に絞り出した呟きにも、答えは返ってこない。だが、落胆は無用というもの。最初から、判り切っていた事なのだから。
ここにいる森谷蘭は、抜け殻だ。
空虚。空っぽで、虚ろ。
本来そこに在るべきものが見当たらない、ということ。
「…………………………………………………………」
人形のように白く細い躯体と、黒耀の双眸はそのままだと言うのに、あれほどまでに眩かった生命力の輝きも、“意志”の煌きも、もはや何処にも窺えない。己の知る誰よりも感情豊かだった幼馴染の、痛々しく変わり果てた姿は、悲愴を通り越して無惨ですらあった。
時が経つにつれて心の奥底へと浸透してくる、現実感。その無慈悲な冷ややかさに、身震いする。
「蘭」
名を呼んでも、応えてはくれない。どれほど小粋なジョークを飛ばしても、蘭は笑わない。どれほど意地の悪い皮肉を飛ばしても、蘭は怒らない。
森谷蘭の世界に、僕はもう居ない。
「……」
あの殺戮現場で意識を失い、そして数時間の時を経て、この隠れ家の一室で再び瞼を上げた時――既に蘭の心は、壊れていた。
喪ったものは、殆どの記憶と感情。僕の知る森谷蘭の人格を構成していた要素は、まるで最初から無かったかのように、酷くあっさりと、蘭の中から消え去っていた。後に残されたのは、肉体と、言語等を含む最低限の記憶と、極限まで希薄化した感情の残骸だ。
一体何が蘭の心をここまで破壊してしまったのか、僕には判らない。両親の死か、自身が行った殺戮か、或いは――心当たりは幾らでもあるにせよ、僕が蘭の精神構造を完璧に理解してでもいない限り、明確な原因を断ずる事は不可能だ。そもそも、原因などというものを躍起になって追及したところで、大した意義が有るとは思えなかった。ただ一つ言える事があるとすれば、稀有な程に心根が真っ直ぐであるという事はつまり、破壊的な衝撃に際して柔軟に曲がる事もまた適わないという事。故に、脆い。そしてひとたび折れてしまえば――元の形を取り戻す事は、二度と。
『わたし、なんのために、うまれたんですか?』
断末魔のように残した言葉と、現在の無気力な様子から判断すれば、蘭は恐らく、全てに絶望している。己の生に対して何一つ意義を見出していない。だからこそ、肉体面に何らダメージを負っていないにも関わらず、彫像の如く不動を保っているのだ。食物や飲料水の類にも全くの無反応だった。或いは空腹が限界に達すれば何かしらの反応を見せるかもしれないが、望みは薄いだろう。最終的には無理矢理にでも摂取させるしかないのかもしれない。緩やかな自殺を黙って看過するのは御免だ。
「何の為に生まれたのか、か。はっ、まさかお前の口から、そんな台詞を聞く羽目になるとはな」
それは、かつての僕が絶えず自身に向かって問い掛けていた命題だった。終わる事の無い理不尽に晒され続けた子供が絶望の末に抱え込んだ、独り善がりな思い込み。それが下らない勘違いの産物に過ぎないのだと、弾ける様な笑顔と活力とを以って強引に気付かせてみせた、そのお前が――今や僕以下の“死に様”を晒しているなんて、随分と笑えない話じゃないか。なあ、蘭。
「僕はお前を、助けられないのか? お前は僕を、助けてくれたのに」
無様な問い掛けに対しても、返って来るのは冷ややかな沈黙のみ。当然だ、僕は蘭の眼中に無い。昏く濁った絶望の底へと深く深く沈んだ精神を、無理矢理に、問答無用に光差す地上へと引っ張り上げられるような“力”。それがかつての蘭にあって、今の僕に無いものだった。
「――畜生ッ」
僕は、弱い。あまりにも今更な、自覚だった。
そして自覚がもたらしたものは、自身の不甲斐なさに対する巨大な怒り。否、今までの感覚からすれば、巨大過ぎる怒り。瞬間的に湧き上がる激昂を、理性を総動員する事で咄嗟に抑え付ける。代償は、口の中に広がった鉄錆の不快な味だった。
「……ふぅ」
内に篭った熱を排出するように、深く息を吐き出す。まあ、この程度で済んだならば問題はない。もし外傷が増えていたら忠勝の鉄拳が飛んできそうなので、負傷を口内に留めたのは我ながら良い判断だった。だが、次こそは理性的な判断を下せる自信が無い。包帯の巻かれた両手に走る、疼きと痛みとを強く意識する。
場所を、移そう。この部屋にいる限り、何が切っ掛けで感情が暴走するか判ったものではない。
重い腰を起こし、出口へと向かう。辛うじて原型を保っているドアを開いた所で、振り返った。蘭の視線は欠片も動く事無く、相も変わらず空疎に虚空を射抜いている。その青褪めた横顔を数秒ほど眺めて、不意に湧き起こり掛けた感傷を強いて抑え込みながら、僕は廊下へと出た。
足の向いた先は、屋上だった。ここならば、埃塗れのビル屋内よりは幾分かマシな空気を吸える。とは言え、しばらくは乾燥機という文明の利器の世話になる事も出来ないと思えば、替えもない服を雨に濡らすのは避けたい。いや、忠勝に頼んで着替えを持ち込んで貰えばいいのか、と思考しながら、適当に屋根のある場所を選んで腰掛けた。何をするでもなく、ぼんやりと、曇天を見上げる。
「…………これから、どうしよう」
無意識の内に口を衝いて出たのは、途方に暮れた迷子のような言葉。それは随分と幼稚なものとして響いた。自分が一気に馬鹿になったように思えてくる。しかし、今後の展望が見えないという意味で、間違いなく僕の心情を最も的確に表現している台詞だった。
数千にも及ぶという朝比奈組の構成員達がこの場所を嗅ぎ付ける時は、そう遠くないだろう。或いは今この瞬間に踏み込んできたとしても何ら不思議はない。そして、その現実性を伴った未来に対して、僕達には備えが存在しないのだ。刻一刻と迫り来る危機に相対する手段を、今の僕達は有さない。
蘭が健在なら、何も恐れる必要は無かった。あの常識外れとしか言い様の無い武力を以ってすれば、数ばかりの有象無象など鎧袖一触――とはいかないにせよ、抗戦する事は十分に可能だった筈だ。しかし現実として、今の蘭は生への執着を完全に失った、人形と大差ない状態であり、戦力として数える事は出来ない。むしろ僕達がその無防備な体を守らなければならないという意味で、戦力的にはマイナス要因ですらある。
ならば、僕と忠勝の二人で、戦いを挑むか?
論外だ。新田利臣という頭の一つを潰したとは言え、相手は暴力を生業としてきた裏の住人で、大人で、銃器を所持している、数千規模の人員を投入可能な犯罪組織。戦力比がいかほどのものか、試算するのも馬鹿馬鹿しい。例え命を犠牲にしてでも一矢報いてやりたいという衝動が無いでもないが、それはあくまでも事が僕一人で済む場合なら、の話だ。そんな自殺同然の暴挙に蘭と忠勝を巻き込む訳にはいかない。
ならば、逃げるか? この腐った街を離れて、朝比奈の連中の眼が届かない、どこか遠くへ。
……所詮、儚い夢想だろう。忠勝に語ったように、そもそもこのビルからの脱出すら現実的ではない。そして、幸運の上に幸運が積み重なって川神からの脱出が成功したと仮定しても、“その先”のビジョンが存在しない。見知らぬ土地で一人生きていくだけでも見通しが立たないと言うのに、死人同然の蘭をどうにかして養わなければならないとなれば、先には絶望しか見出せなかった。それに、例え何処へ逃れたとしても、僕は常に朝比奈組の目に怯え続ける羽目になるだろう。あの忌々しい“躾”のお陰で、僕の面貌は組員達に知れ渡っている。連中の規模を考えれば、僕に安息の地など存在しないも同然だった。
ならばどうする。これ以上の理不尽を、蹂躙を許さない為には、どうすればいい。
「力が、あれば」
詮の無い事だと理解していても、思わずにはいられなかった。蘭のような、かの高名な川神院に属する武人のような、個を以って郡を圧倒する突き抜けた武力。それが僕に備わっていれば、立ち塞がる全てを蹴散らして己の意志を貫き通してみせるものを。しかし生憎と、現実として僕の持ち得る武力は、あの殺戮現場から拾ってきたサバイバルナイフ一本のみだ。朝比奈の組員からの鹵獲品でお仲間の喉首を掻き切ってやるという思い付きには少し心が惹かれるが、実際のところ、僕のような素人が振り回したところで満足に闘えるものではないだろう。
力、力、力。所詮この世は弱肉強食。力が無ければ、生き抜けない。ああ、それは、なんて下らない――
「……?」
不意に屋上に響き渡った、雨音以外の物音に、僕は苦々しい自嘲に塗れた思考を打ち切った。
「……猫か」
一体どこから這入り込んだものか、全身の毛を濡らした、大柄な野良猫が近くに居た。僕の存在を気に留めた様子もなく、僕と同じ屋根の下にどっかりと座り込んでいる。やたら堂々とした物腰から判断して、元々、この廃ビルをねぐらとしていたボス猫の類なのかもしれない。恐れるものなど何一つないとばかりに傲然と坐し、僕の事を無視したまま我が物顔で空を仰いでいるその姿が、無性に腹立たしかった。被害妄想にも程があると頭では判っていても、その一挙一動が、何も為せない僕の無力さを嘲笑っているように思えてならなかった。
「おい、こっちを見ろよ。畜生の分際で、人間様を舐め腐ってるんじゃあない」
毒づいてみたところで、素知らぬ顔。追い討ちを掛けるかのように大欠伸まで漏らす始末だ。自業自得とは言え、屈辱だった。今度は言葉ではなく、心中に募る苛立ち――半ば以上は自分に対してのものだったが――を込めて、尊大不遜な猫の姿を睨み付ける。
「――――!?」
その瞬間、だった。
自分の中で、何かしらの“力”の流れが働いたのを、自覚する。同時に、これまで泰然たる態度を保っていた猫が、劇的な反応を示していた。切羽詰った甲高い悲鳴を上げて、尻尾の毛を驚くほどに逆立てながら、雨に濡れる事も厭わず屋根の下から飛び出すと、脇目も振らず凄まじい速度で遁走していく。その姿を呆然と見送りながら、僕は今しがた自分の内側で起きた出来事を反芻していた。
「今のは、あの時と同じ……?」
『――蘭から、離れろォッ!!!』
あの時はひたすらに無我夢中だったので、周辺の記憶が酷く曖昧だが――そうだ、確かに、“こういう事”があった。先程と同じ様な感覚、“力”の作用が間違いなく在った。心を焼き尽くさんばかりに昂ぶった己の感情を、肉体の内側を循環する“熱”、何かしらのエネルギーに載せて外界へと吐き出す――そんな具体的な行程までも、今の僕は頭の中で明確に再現出来る。
「…………」
発現のタイミングから考えても、この正体不明の能力らしきものは、僕を苛んでいる、“感情を持て余している状態”と何かしらの関係性があるのだろう。しかしまあ、今はその辺りはどうでもいい。重要な事は能力の由来ではなく、それを運用する事で実際に何を為せるのか、その一点に尽きる。
まず、先程のケースを参考にしてみよう。あの無駄に態度の大きい野良猫に対し、僕は“力”を行使した。結果、猫は疑いなく恐怖に駆られた様子で逃げ去っていった。そしてもう一つのケースでは、僕は周囲を取り巻く朝比奈組の構成員に対して“力”を行使し、そして……記憶が確かではないが、新田以外の連中の身動きを封じたように思う。この二つの事例から読み取れる“力”の性質とは、何だ?
「……“威圧”、か」
蛇に睨まれた蛙の如く。鷹の前の雀の如く。相対する者を萎縮させ、時に逃散せしめ、時に身体機能を凍らせる。どういう訳か僕に備わっているのは、そうした性質の“力”なのではないか。はっきりとした判断を下すにはあまりにもサンプルケースが不足しているが――僕には、それこそが唯一無二の正解だという確信があった。由来が分からずとも、自分の“力”だ。いかなるものなのかは、理論を超えたところで感覚的に理解出来る。そして、同時に悟った。これまでの人生の中で、僕が理由も無く周囲に忌まれ続けていたのは、僅かに顕在化していたこの力の片鱗が原因だったのだ、と。
「……く、くくく、何だ、それ。くくく、はははははっ」
理解が及んだ瞬間、狂ったように笑いが込み上げてきて、止まらなかった。なんだ、こんなもののために、僕は苦しみ続けてきたのか。母親に憎まれ、クラスメートに疎まれ、畜生共に目を付けられ、その引き換えに得た“力”が――威圧、ときたものだ。凄んで脅して、それでお終い。実質的には何の力も与えてはくれていないのだから、僕自身は無力で脆弱な子供のままだ。そんな人間の“威圧”が、一体何の役に立つというのか? せいぜい、ハッタリでもかまして自分を本来より大きく演出してみせるといった詐術くらいしか、使い道が見当たらない。それすらも、僕の事を知らない人間にしか通用しないのだから、朝比奈組の連中に対しては殆ど無力で、
――あなたは、だれですか。
「…………待て、よ」
それは、つまり。逆に言えば、僕の事を知らない人間なら。織田信長という一個存在のパーソナリティを未だ記憶していない人間であるなら。僕は――自分を偽る事が出来る。脆弱で無力な僕以外の存在を、演じる事が出来る。そういう事では、ないのか?
『わたしのりそうはずばり、“織田信長公”なのですっ!』
いつしか、喉がカラカラに渇いていた。脳裡に浮かんだ閃きを切っ掛けに、凄まじい勢いでロジックが組み立てられていく。パズルのピースを一つ一つ嵌め込んでいくように、思考の全体像を徐々に浮かび上がらせていく。
『だれかにおつかえするなら、わたし、そういう人がいいなって』
加速していく思考に伴って、記憶の欠片が次々と再生される。森谷蘭と交わしてきた幾千幾万もの言ノ葉が、凄まじい勢いで通り過ぎてゆく。あの公園で、二人。飽きもせずに語り合った無数の物事が、情景すらも鮮やかに伴いながら蘇る。
『わたしですか? わたしは――りっぱな“武士”にならなくちゃ』
そうだ。あの日、茜色の空の下で、僕達は“夢”を語った。夢を見れない少年と、夢見がちな少女が交わした、どこかちぐはぐで滑稽な対話。夢を見る為にはエネルギーが必要だ――そんな風に、かつて僕は思った。ならば、逆説的に考えれば……夢を見ている限り、そこにはエネルギーが存在する。そういう事には、ならないだろうか?
「……………」
動悸が、速まる。呼吸すらもが、侭ならず。それでも頭脳だけは、かつてない程に冴え渡っていた。
“それ”を成し得る為に必要な事項を、冷徹に演算する。
“それ”を成し得る為に必要な犠牲を、冷徹に演算する。
“それ”を成し得た暁に掴み取る成果を、果てしない昂揚と共に、演算する。
「そうだ。……このまま、何もしない事を。流されるままに畜生どもの贄になる道を選ぶくらいなら」
この身を襲う理不尽に抗い、己の意志を貫き通す。それこそが、ヒトがヒトとして生きている証。そうではないか?
だとすれば――何を迷う。何を躊躇う。いかなる苦難も試練も、この足を留め得るものではないだろうに。
命を賭して、駆け抜けろ。“何の為に生まれたのか”、その答えを、既に僕は知っているのだから。
「――闘ってやる。勝ち取ってやる。敗者で在り続けるのは、これまでだ」
一つの決意を己に固く誓ったその夜、僕は夢を見た。
夢の内容は、蘭と出逢い、忠勝と出逢い、三人で共に過ごした、騒がしくも輝きに満ちた日々の記憶。奇跡のように温かく、揺り篭のように心地良い思い出の中を、僕は揺蕩っていた。それは、織田信長という少年が生まれて初めて得た日溜まり。シャボン玉のように儚く、それ故に美しい一瞬のメモリア。
何故そんな夢を見たのか、僕には考えるまでもなく明晰に理解できた。それは一種の暗示であり、同時に決意の顕れでもある。理解が及んだからこそ、僕は迷う事無く瞼を上げる事を選んだ。鮮やかで優しい夢の風景は瞬く間に溶け去って、代わりに視界に映るのは、冷酷非情な現実の景色。しかし、もはや胸中に名残惜しさは無かった。訣別の時は既に越え、立ち向かうべきは眼前の試練だ。
周辺の視察と物資補給の任を終えて廃ビルに戻ってきた忠勝に、僕は声を掛けた。
「忠勝。僕は、決めたよ」
これより先の未来、僕が世界の何もかもに嘘を吐いて生きるとしても、この得難い幼馴染に対してだけは、真実を告げておかなければならないと思った。
僕の決意、僕の選択、僕の“夢”。例え全てを包み隠さず話す事は出来ずとも、それでも互いを無二の友だと心の底から信じられるように。決意を込めて、己の選択を告げる。
「僕は――“魔王”に、なろうと思う」
僕は昔から、自分の名前というものが大嫌いだった。織田信長。真っ当に義務教育を受けた日本人なら誰もが知っている、戦国時代の雄。血の繋がりがある訳でもなく、単に同姓だからという悪ふざけのような理由で名前を付けた両親の浅薄さからして、名に対する嫌悪感を掻き立てた。定期的に強要される自己紹介というイベントの度に、反吐の出るような思いを幾度も味わってきたものだ。
だが、吐き気を催す嫌悪の念が本格的に身を焦がす憎悪へと移り変わったのは、初めての友人と夢について語り合ったあの日だったのだろう。胸中に芽生えたのは、森谷蘭の理想の主君足り得る織田信長という“英雄”に対する、狂おしい程の劣等感。それほど烈しい感情が自分の中に存在していた事実に、僕は驚いた。
つまるところ、僕は蘭という初の友人に、認められたかったのだ。誰にも見下され、蔑まれ、虐げられて生きてきた少年のちっぽけなプライドとささやかな願いは、しかし欠片の悪意も含まれない蘭の言葉によって踏み躙られた。何せ、相手はかの名高き織田信長だ。押しも押されぬ日本史上有数の英雄だ。救いの手を差し伸べられる側の、惨めで無力な餓鬼なぞとは比較するのもおこがましい。恥を知るがいい、同姓同名を名乗る価値がお前なぞにあるものかよ。そんな、諦観と歪んだ嫉妬心に満ちた絶望的な感情が憎悪へと転じるまでに、さしたる時間は要さなかった。
――ああ、僕はお前が嫌いだよ、“織田信長”。本当に、本当に嫌いだ。そして同時に……心の底より、感謝の念を捧げよう。
もしも僕が畏れ多くもその名を戴いていなければ、こんな発想は最初から浮かびすらしなかっただろう。
――僕では蘭を救えない。誰かを絶望の底から掬い上げるような“力”は、僕には無い。
だから、必要とされているのは、“英雄”だ。
天下国家を語るに相応しい大器。天魔の如き威厳に満ちた、強烈な統率力の所有者。その生き様を以って人々を惹き付け、付き従う者達に壮大な夢を見せる――英雄。
――故に僕は、英雄を騙り、天下を語ろう。
「ふん……、酷い顔だな。見るに堪えぬ。意思も無く、意志も無い。まさしく、死人も同然よ。そのまま朽ち果てるも、お前の自由ではあるが――些か、惜しい」
冷酷非情の仮面を被り、威厳の衣を身に纏い、大志を抱いて覇道を歩む、“魔王”で在ろう。
「どの道捨てる命であれば、寄越せ。無為に消えゆくその命、有為に使ってやろう。生きる意味が判らぬならば、手ずから与えてやる」
例え下らない模倣に過ぎずとも、浅はかな詐術に過ぎずとも、夢の欠片を束ね合わせ、砕けた心を繋ぎ止めるには足りるはず。
「“忠”を、尽くせ。この身に付き従い、我が覇道を見届けるがいい。其れこそは、現世のいかなる名誉も遠く及ばぬ、最上の誉れと心得よ」
気が狂わんばかりの屈辱を堪え、借り物の威風に甘んじて――僕は、“織田信長”を演じてみせる。
その果てに、“僕”の存在が塗り潰されて、あいつの中から永久に消え失せてしまったとしても。僕は、躊躇う事無く歩み続ける。
それが僕の選んだ道で、僕の見出した夢のカタチなのだから。
「ふん。知らぬと云うならば、頭蓋にでも刻んで記憶するがいい。永劫、史上に残る名よ」
そうして僕は、一つの嘘を吐く。
もう一度、二人の出逢いを始めるために。
もう一度、共に未来へと走り出すために。
それが心咎めても――本気の嘘なら、後悔はしない。
「“俺”の名は、織田信長――いずれ、天下布武を成す男だ」
※※※※※
斯くして。様々な思慮と衝動と覚悟の末に“僕”が“俺”へと一人称を改め、織田信長の仮面を被って以降の足取りついては――まあ、あまり詳らかに語る気はない。潤いもなくさしたるドラマ性もない、どこまでも殺伐とした闘争の記憶を片っ端から掘り起こしたところで、改めて得られる物は特に無いだろう。正直に言って、回想に楽しみを見出せる種類の記憶でもない。煤けたコンクリートジャングルを舞台に、果てのないゲリラ戦を繰り広げた……端的に言ってしまえば、ただそれだけで済む話だ。
森谷蘭という強大な戦力が手札に存在していると云っても、さすがに川神の闇に巣食う大規模暴力団を真正面から相手取るのは不可能だった。依然として戦力差は絶望的。だが、ひとたび“織田信長”を名乗った以上、敗北は決して許されなかった。故に、当時の俺は死に物狂いで戦略を練り、戦術を駆使し、戦闘に臨んだ。複数の隠れ家を転々としながら、ありとあらゆる策謀を巡らせて朝比奈組の裏を掻き、不意を衝き、喉首を掻き切った。我ながら口にするのも憚られるような残虐極まりない策も、それが有効と判断すれば躊躇わず実行に移した。今日、堀之外の住人達が抱く“織田信長”への恐怖心の大半は、恐らくあの時期の俺の行いに根ざしているだろう。余裕の無さはそのまま、容赦の無さに直結した。生き残る為に、勝ち残る為に、当時の俺は冗談抜きで必死だったのだ。同年代の子供達が鉛筆を手に計算問題へと向かっている時、俺はサバイバルナイフを手に刺客へと立ち向かっていた。彼らが友人達との鬼ごっこに夢中で興じている時、俺は黒服達とのリアル鬼ごっこに無我夢中で狂奔していた。潜り抜けた死線はおよそ数え切れず、身体に新たな傷跡を刻まない日は殆ど無く。それでも、ひたすら終わりの見えない闘争に身を投じ続けた。絶望的な戦局を前に、俺が心を折る事なく気力を保ち続けられた背景には、我らがタッちゃんこと源忠勝のサポートが存在していた事は言うまでもない。
闘って、闘って、闘って――数年間もの間、日の差さない暗闇の中で血みどろの生存競争に明け暮れた果てに、いずれが勝利を掴んだのか。それは、現在の堀之外の風景が証明している。俺達は、勝利した。肉体に無数の傷を負い、精神の限界まで追い詰められながらも、辛うじて己の居場所を勝ち取ったのだ。
俺が例のボロアパートを根城に据えたのも、その頃の事だった。数年に及ぶゲリラ戦の所為で一箇所に留まって滞在するという習慣がすっかり抜け落ちていたので、最初は何かと戸惑ったものだ。自分に帰るべき“家”があるという違和感は、今でも時折、ふと脳裡に浮かび上がる。まあ、それでも人は環境に適応する生き物で、四六時中襲撃を警戒せずに済むという奇跡的に平穏な生活を過ごしていく内に、俺も蘭も徐々に在り方を変えていった。当時の自分は尖り過ぎたナイフを通り越して狂犬じみていた、と回想するところの俺は言うまでもなくノーベル平和賞候補筆頭の聖人レベルまで丸くなったし、“主”の命令に対して殆ど機械的に従う忠誠心の権化でしかなかった蘭は、蕾が花開くように、少しずつ人間らしい感情を取り戻していった。共に暮らす中で蘭が初めて笑顔を見せた瞬間には、暴走し掛けた感情を抑えるのに大変難儀した事を覚えている。勿論、織田信長の威信に懸けて無様な醜態を晒すようなマネはしなかったと断言しておくが。
そうして――十年。あの忘れ難い喪失の日から、いつしか十年が経っていた。
幾多の闘いを乗り越え、幾多の出逢いを経て、俺は此処に立っている。昔日の誓いに違う事無く、織田信長は未だ敗北を知らず、万人を見下ろす絶対強者で在り続けている。
脇目も振らず、前だけを見据えて駆け抜けてきた。遥か彼方の夢を目指して、あらゆる研鑽を積み重ね、数え切れない程の死線を潜り抜けてきた。
そして、今。
「…………」
「…………」
俺の目の前には、蘭が居る。十年前に喪った筈の全てを取り戻し、“織田信長”の真実を知った森谷蘭が、静謐な微笑みを湛えてそこに居る。古錆びたブランコに腰掛けて、黒の瞳をこちらに向ける姿は、まさしく昔日の情景を現在に再現しているかのようだった。だからだろうか、気付けば俺は、すぐ傍のジャングルジムに背中を預けた体勢で、蘭を見返していた。背中に感じる冷え切った金属の感触すらもが懐古の情を誘う。そう、あの頃は良く、こうやって二人、日の暮れた公園にて語り合っていたものだ。
沈黙が、続く。轟々と風の吹き荒ぶ音響を間に挟んで、俺と蘭は向かい合う。
――何て、遠い。
十年前と何一つ変わらない筈の二人の距離が、今は。あたかも彼岸と此岸に別たれてしまったかのように、果てしなく遠いものに思える。
この瞬間に備えて予め用意していた幾千幾万の言葉も、全てが荒れ狂う嵐の中に虚しく消え失せて、蘭の下には決して届かない――内に渦巻く無数の言霊を実際に声に出して解き放つまでもなく、俺にはそれが分かる。分かってしまうからこそ、俺に選び得るのは沈黙だけだった。語らなければならない事は幾らでもある筈だと云うのに、あらゆる声音は喉下にて堰き止められてしまう。故に――必然として、静寂を破ったのは俺ではなく、蘭の声だった。
「幸福な夢を、見ていました」
今にも雨中に溶け消えてしまいそうな、儚い微笑みを口元に湛えたまま、蘭は謳うように言葉を紡いだ。
「何も見ず、何も聞かず、何も知らず――私一人だけが、幸福だったんです」
「……蘭」
「ですが、もう夢はおしまい。私は、思い出してしまったから」
夢はいつか終わるもの。目覚めてしまったなら、現実に追い付かれてしまったなら、もはや続きを見る事は叶わない。
「シンちゃんの手で、終わらせて下さい。それだけが、私の願いです」
淡い微笑みを湛えて俺の目をじっと見つめたまま、蘭はゆっくりと立ち上がった。乗り手を喪ったブランコが静かに揺れて、キィキィと悲しげな金属音を響かせる。蘭は俺から数歩と離れていない所まで歩み寄り、そして――表情を改めると同時に、その場に坐した。誰しもが見惚れずにはいられないであろう、完璧な挙措で組まれた正座。ぬかるんだ泥土に汚れる不快感も、膝下に小石が突き刺さる痛みも、何一つとして他者には窺わせない凛たる顔付きで、蘭は双眸を炯炯と光らせながら俺を見上げる。
「もしもこの私に、未だ武士を名乗る事が赦されるのであれば。どうか、最期の情けをお与えください」
「……」
「そう、代々我が家系に伝わるその太刀こそ、呪わしき因果を断ち切るに相応しい。態々のご配慮、誠にありがたく存じます」
蘭の真っ直ぐな視線が向かう先には、俺が腰に提げている無銘の太刀。斬り捨てた者達の血を啜り続けた果てに朱に染まった鞘と、幾千の骨肉を断って尚、刃毀れ一つ見当たらない銀色の刃――破局の日、廃工場に広がる血の海に打ち棄てた筈の太刀は、朝比奈組との死闘の最中、当然のように蘭の手元へと戻ってきた。世に妖刀と云うものが実在するのであれば、この太刀こそがそれなのだろう。血を吸う為に、舞い戻ったのだ。必ずやそれを為してくれるであろう、己に相応しき持ち主の下へと。
「蘭」
見下ろす白の制服は、死に装束とも見紛うばかり。血の気が失せて青褪めた容貌と、透けるように白い肌は――無惨に散った少女の母と、恐ろしい程に似通っていた。
「俺のこの手に、何を望む」
愚問と知りつつも、問い掛ける。
そも、刃とは、何の為に在るか? 斬り裂き、断ち切り、殺す為。それ以上でも、以下でもない。
故に。誰よりも強く“武士”で在る事を切望した森谷蘭という少女が、非情の刃に掛ける願いとは、即ち。
「不肖、森谷蘭。――介錯の儀、願い奉ります」
はい。男鴉天狗、申し開きは致しません。大変更新が遅れたこと、伏してお詫び致します。
と言う訳で、果たして何ヶ月ぶりやら、続きを投下させて頂きました。そして編集前に感想板を覗いたところ、何やら書き込んだ覚えのない削除予告がありまして仰天した次第です。ええ、なにぶんこうした事態に遭遇したのは初めてなのでいまいち勝手が分かりませんが、取り敢えずこうして更新可能な時点で当然ながら管理パスは把握している訳で、まあいわゆる成り済ましといふものですね。作者としましては、例え更新が遅れたとしても作品を削除する気は更々ありませんので、その辺りはどうかご安心を。
さて、長々と続いたこの章もそろそろクライマックス。何はともあれ織田主従の一件に決着を付けない事には作者的にもえらく収まりが悪いので、最低限そこまでは漕ぎ付けられるよう鋭意努力させて頂きます。原作キャラの出番が回を追う毎に減っているのが何ともアレですが、こんな作品で宜しければ最後までお付き合い頂ければ幸いです。それでは、次回の更新で。