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No.13860の一覧
[0] 俺と彼女の天下布武 (真剣で私に恋しなさい!+オリ主)[鴉天狗](2011/04/15 22:35)
[1] オープニング[鴉天狗](2011/04/17 01:05)
[2] 一日目の邂逅[鴉天狗](2012/05/06 02:33)
[3] 二日目の決闘、前編[鴉天狗](2011/02/10 17:41)
[4] 二日目の決闘、後編[鴉天狗](2009/11/19 02:43)
[5] 二日目の決闘、そして[鴉天狗](2011/02/10 15:51)
[6] 三日目のS組[鴉天狗](2011/02/10 15:59)
[7] 四日目の騒乱、前編[鴉天狗](2011/04/17 01:17)
[8] 四日目の騒乱、中編[鴉天狗](2012/08/23 22:51)
[9] 四日目の騒乱、後編[鴉天狗](2010/08/10 10:34)
[10] 四・五日目の死線、前編[鴉天狗](2012/05/06 02:42)
[11] 四・五日目の死線、後編[鴉天狗](2013/02/17 20:24)
[12] 五日目の終宴[鴉天狗](2011/02/06 01:47)
[13] 祭りの後の日曜日[鴉天狗](2011/02/07 03:16)
[14] 折れない心、前編[鴉天狗](2011/02/10 15:15)
[15] 折れない心、後編[鴉天狗](2011/02/13 09:49)
[16] SFシンフォニー、前編[鴉天狗](2011/02/17 22:10)
[17] SFシンフォニー、中編[鴉天狗](2011/02/19 06:30)
[18] SFシンフォニー、後編[鴉天狗](2011/03/03 14:00)
[19] 犬猫ラプソディー、前編[鴉天狗](2011/04/06 14:50)
[20] 犬猫ラプソディー、中編[鴉天狗](2012/05/06 02:44)
[21] 犬猫ラプソディー、後編[鴉天狗](2012/05/06 02:48)
[22] 嘘真インタールード[鴉天狗](2011/10/10 23:28)
[23] 忠愛セレナーデ、前編[鴉天狗](2011/04/06 14:48)
[24] 忠愛セレナーデ、中編[鴉天狗](2011/03/30 09:38)
[25] 忠愛セレナーデ、後編[鴉天狗](2011/04/06 15:11)
[26] 殺風コンチェルト、前編[鴉天狗](2011/04/15 17:34)
[27] 殺風コンチェルト、中編[鴉天狗](2011/08/04 10:22)
[28] 殺風コンチェルト、後編[鴉天狗](2012/12/16 13:08)
[29] 覚醒ヒロイズム[鴉天狗](2011/08/13 03:55)
[30] 終戦アルフィーネ[鴉天狗](2011/08/19 08:45)
[31] 夢幻フィナーレ[鴉天狗](2011/08/28 23:23)
[32] 幕間・私立川神学園第一学年平常運行中、前編[鴉天狗](2011/08/31 17:39)
[33] 幕間・私立川神学園第一学年平常運行中、中編[鴉天狗](2011/09/03 13:40)
[34] 幕間・私立川神学園第一学年平常運行中、後編[鴉天狗](2011/09/04 21:22)
[35] 開幕・風雲クリス嬢、前編[鴉天狗](2011/09/18 01:12)
[36] 開幕・風雲クリス嬢、中編[鴉天狗](2011/10/06 19:43)
[37] 開幕・風雲クリス嬢、後編 Aパート[鴉天狗](2011/10/10 23:17)
[38] 開幕・風雲クリス嬢、後編 Bパート[鴉天狗](2012/02/09 19:48)
[39] 天使の土曜日、前編[鴉天狗](2011/10/22 23:53)
[40] 天使の土曜日、中編[鴉天狗](2013/11/30 23:55)
[41] 天使の土曜日、後編[鴉天狗](2011/11/26 12:44)
[42] ターニング・ポイント[鴉天狗](2011/12/03 09:56)
[43] Mr.ブシドー×Ms.キシドー、前編[鴉天狗](2012/01/16 20:45)
[44] Mr.ブシドー×Ms.キシドー、中編[鴉天狗](2012/02/08 00:53)
[45] Mr.ブシドー×Ms.キシドー、後編[鴉天狗](2012/02/10 19:28)
[46] 鬼哭の剣、前編[鴉天狗](2012/02/15 01:46)
[47] 鬼哭の剣、後編[鴉天狗](2012/02/26 21:38)
[48] 愚者と魔物と狩人と、前編[鴉天狗](2012/03/04 12:02)
[49] 愚者と魔物と狩人と、中編[鴉天狗](2013/10/20 01:32)
[50] 愚者と魔物と狩人と、後編[鴉天狗](2012/08/19 23:17)
[51] 堀之外合戦、前編[鴉天狗](2012/08/23 23:19)
[52] 堀之外合戦、中編[鴉天狗](2012/08/26 18:10)
[53] 堀之外合戦、後編[鴉天狗](2012/11/13 21:13)
[54] バーニング・ラヴ、前編[鴉天狗](2012/12/16 22:17)
[55] バーニング・ラヴ、後編[鴉天狗](2012/12/16 22:10)
[56] 黒刃のキセキ、前編[鴉天狗](2013/02/17 20:21)
[57] 黒刃のキセキ、中編[鴉天狗](2013/02/22 00:54)
[58] 黒刃のキセキ、後編[鴉天狗](2013/03/04 21:37)
[59] いつか終わる夢、前編[鴉天狗](2013/10/24 00:30)
[60] いつか終わる夢、後編[鴉天狗](2013/10/22 21:13)
[61] 俺と彼女の天下布武、前編[鴉天狗](2013/11/22 13:18)
[62] 俺と彼女の天下布武、中編[鴉天狗](2013/11/02 06:07)
[63] 俺と彼女の天下布武、後編[鴉天狗](2013/11/09 22:51)
[64] アフター・ザ・フェスティバル、前編[鴉天狗](2013/11/23 15:59)
[65] アフター・ザ・フェスティバル、後編[鴉天狗](2013/11/26 00:50)
[66] 川神の空に[鴉天狗](2013/11/30 20:23)
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[13860] 黒刃のキセキ、中編
Name: 鴉天狗◆4cd74e5d ID:62b53581 前を表示する / 次を表示する
Date: 2013/02/22 00:54
――醒めない夢など、何処にも無い。










 

 蘭の様子がおかしい。僕と忠勝が本格的にその認識を共有し始めたのは、夏休みも中盤に差し掛かろうかという頃だった。

「信長。お前は、どう思う?」

「……」

 場所は例によっていつもの公園、時はそろそろ太陽の昇り切ろうかという頃合。地上の穢れを焼き尽くさんとばかりに容赦なく照り付ける日光の猛威から逃れるべく、僕と忠勝は外周に植えられた公園樹の木陰に避難して、根元に座り込み幹に背中を預けながら、この場には居ないもう一人の幼馴染について話し合っていた。ここ最近――特に学校が夏休みに入ってから、蘭の立ち振る舞いから覚える違和感は見逃しようがないほど明確なものとなってきている。断じて、坐して捨て置ける問題ではなかった。

『ほら。わたしたち、お揃いですよね。えへへっ』
『ふんふふ~ん、やくそくやくそく♪』

 僕の知る限りにおいて、森谷蘭ほど笑顔の多い人間はいない。欺瞞に満ちた作り笑顔などではなく、心の底から生じた純粋な感情を表情に載せて、蘭は天真爛漫に笑顔を振り撒く。僕のように思慮深く沈着な性質の持ち主にとって、その眩いばかりの明るさは時に鬱陶しさを覚えるほどだ。

 しかし――近頃、蘭の笑顔は、“翳り”を含み始めた。これまでに一度も見た事の無いような、暗く沈み込んだ表情を見せるようになった。本人は必死に隠し通そうと普段通りの態度を装ったが、壊滅的に嘘偽りの類が不得手な蘭如きに、僕と忠勝の観察眼を誤魔化せる道理はない。当然のように僕達は追及したが、蘭は『なんでもありませんっ』の一点張りで頑として認めようとしなかった。そうして日が過ぎていくにつれて、蘭の纏う雰囲気はますます暗くなり、この前に集合した時に至っては殆ど笑顔を見せていない有様だ。僕達の知らない何かが蘭を追い詰めているのは、もはや間違いなかった。

「単なる修行疲れ、ってセンは考えられねぇか?」

「……どうだろうな。僕にはあの自己研鑽マニアの体力馬鹿が、肉体的な疲労やダメージを苦にしてあんな風になるとは思えない。しかし……夏休みに入ってからのあいつのトチ狂ったスケジュールを考えれば、可能性はあるかもしれないが」

 小学生の夏休みという膨大な時間のほぼ総てを、蘭は武術の修練に費やしている。真の武士たるもの、武芸十八般が悉くを修得すべし――それが森谷という武家における指導方針の一環らしく、その所為か蘭が修行に充てる時間は常日頃から異常なものがあったが、しかしこの夏休みの蘭の生活はそれに輪を掛けて常軌を逸している。休暇中であるにも関わらず、蘭が待ち合わせ場所の公園に顔を出すのは週に一度か二度で、それも大抵は日が地平線の彼方に沈み終えた後だ。蘭曰く、『森谷の娘として非常に重要な段階の鍛錬に入った』らしい。僕と忠勝は蘭が夢に向ける情熱の強さと信念の固さを知っていたし、本人が望んでいる以上は余計な口を挟むまい、と決めてはいたのだが――こうも露骨な形で蘭に異変が生じてくると、流石に手を拱いて放置している訳にはいかない。

「学校での心当たりはねえのか? そっちで起きた事に関しちゃオレには知りようがねぇからな」

「生憎、思い当たる節は何一つとして無い。あいつに関して言えばイジメなどそもそも不可能だし、成績にも交友関係にも何ら問題は見当たらない。それに、あいつの調子が狂い始めたのは夏休みに入ってからだ。学校は関係ないだろう」

「と、なると……やっぱり“家”絡みってセンが強いか。信長、……たしか前に言ってたよな? あいつのオヤジは――」

「そう、か。数年前から重病に冒されている――だったな」

 かつて一度だけ訪れた、廃屋と見紛うばかりの粗末な住居を思い出す。大黒柱たる父親が病に倒れた事で収入を失い、貧窮した生活を送る事になったのだ、と確か蘭は言っていた筈だ。

 蘭は心の底から両親を尊敬していた。こちらが辟易とするくらいの頻度で両親の話をしたがったし、武士道とやらについて語る際には必ずと言っていいほど引き合いに出した。孤児の忠勝や、崩壊した家庭に生まれ育った僕にはいまいち理解の及ばない感情ではあるが、蘭が自分の両親を愛している事は傍目にも疑い様がなかった。

 だとすれば。仮に、敬愛する父親の容態が悪化し、命を脅かすような状態にまで症状が進行しつつあるのだとしたら、どうだ? 目の前で敬愛する父親の命の灯が燃え尽きようとしている時、果たして蘭はどのような態度を示すだろうか。取り乱し、沈み込み、少しずつ笑顔を失っていったとしても何ら不思議ではない――そうは考えられないだろうか。沈痛な表情で忠勝が口にした推測は、相当に説得力のある考えのように思えた。

「たとえそれが正解だとしても、オレたちには何もできねぇ」

 自分の無力さを叱責するように、忠勝は苦々しげな顔で吐き捨てた。その言葉を否定する術は、僕には無い。僕も忠勝も、実質的には何の力も持たない小学生だ。いかに頭脳が優れていても腕っ節に自信があっても、そんなものが役に立つ領域の話ではない。重病の患者を癒せるような医療スキルなどないし、経済的には世の平均値にすらまるで届かず、僕に至っては自身の面倒を見るだけで精一杯だ。そんな有様で友人の家族を救済し得ると思い上がるほど、僕も忠勝もお目出たい考えの持ち主ではなかった。生憎と僕達は夢想家からは程遠いリアリストだ。そうでなければ、蘭の甘ったるい理想主義とはバランスが取れやしない。

「……何にせよ、憶測で物事を語っていても仕方がない。まずは事実を確かめる。話はそれからだろう」

「どうする気だ? 蘭はいつ顔を出すかも分からねぇぞ。訊いたところで、素直に答えるかどうか」

「だろうな。だからただ坐して待つんじゃなく、こちらから動くべきだと僕は思う」

 忠勝に言葉を返しながら、僕は蘭の顔を思い浮かべた。あの感情と行動が直結した単純馬鹿なら、こういう時は絶対に黙って待っているような事はしない。無思慮に無計画に無鉄砲に飛び出し、大騒動の末に何やかんやで最上の成果を掴み取って、零れ落ちるような会心の笑顔を僕達に見せるのだ。

「ふん。あいつの無茶無謀に付き合っている内に、いつのまにか毒されていたのかもしれないな」

 忠勝の訝しげな眼差しを受け止めつつ、僕はおもむろに腰を上げて木陰から出る。

 降り注ぐ日差しと蝉の大合唱を全身に浴びながら、透き通るような蒼天を見上げて、僕は言葉を続けた。

「いいか、タツ。僕達はこれから――あいつの家に行って、直接。僕達自身の目で、事実を確かめるんだ」










 僕が最後に森谷家を見たのは一年近く前の事で、訪れたのもその時の一度きりだったが、別段道に迷うような事はなかった。記憶力と空間認識能力には自信がある。炎天下、忠勝と共に堀之外の煤けた住宅街を歩くこと十数分、僕達は何の問題もなく目的地へと辿り着いた。幽霊屋敷を連想せずにはいられない、朽ち果てた木造の一軒家。その有様は、以前見た時と変わらず、いや、以前にも増して建築物としての劣化が進んでいるように見受けられた。僕と忠勝は無言でアイコンタクトを交わしてから、慎重な足取りで玄関へと歩み寄ろうとして――扉の向こう側で動く人影に気付いて咄嗟に足を止め、近くの電柱の陰に素早く身を隠した。

「……」

 息を殺して待つ内に戸口から現れたのは、一人の少女。日光に映える白のワンピースに、律儀に切り揃えられた黒髪。見飽きるほどに見慣れた姿であるにも関わらず、それが僕達の良く知る幼馴染と同一人物だと気付くまでには、数瞬の時間が必要となった。

 それほどまでに、蘭の様子は異様だった。奇妙に血の気が失せた顔にはいかなる表情も浮かんでおらず、茫洋とした瞳はこの世の何も映し出してはいないように見えた。小柄な身体に背負っているのは、パトロールの際に持ち歩いている無骨な木刀ではなく、細身で流麗な輪郭を有する朱鞘。僕は未だ真剣というものをこの目で見た事は無いが、それが模造刀の類でない事は直感的に理解できた。血で染め上げたような鮮やかな色彩の中に、言葉に形容できない不吉さ、禍々しさを感じ取っていた。

「………………」

 蘭は僕達の存在に気付いた様子はなく、どこか覚束ない足取りで、僕達が隠れている電柱とは逆の方向へと歩き始めた。そんな蘭の背中を電柱の陰から見送った後、僕と忠勝はもう一度、無言のままに目配せを交し合い、そして互いの考えが一致している事を確認する。すなわち、あのような状態の蘭をこのまま放っておく訳にはいかない、という事だ。その気にさえなればいつでも可能な森谷家の調査を優先して、心神を喪失している可能性のある蘭から眼を離す気にはなれない。

 僕達は一言の相談すら必要とせず、全くの同時に蘭の後を追うべく動き始めた。幼くして武の鍛錬を積んでいる蘭は気配に敏感であり、気付かれずに一定の距離を保つのは難しいのではないかと懸念したが、先ほど垣間見た異様な状態に救われたか、後を尾けるのは驚くほど容易かった。やがて住宅街を南西方面に抜けると、目の前には鬱蒼と生い茂る雑木林が広がっていた。蘭は一瞬たりとも足を止める事無く、ゆらゆらと頼りない足取りで木立の中へと踏み入っていった。数十メートルほど後方からその様子を窺いつつ、忠勝が僕に声を掛ける。

「信長……、あいつがどこに行こうとしてるか、心当たりはあるか?」

「……いや。ただ、真剣あんなものを持ち出してる以上、修行とやらの一環だと考えるのが自然だとは思う」

 こんな場所で人目を避けるようにして、しかも正真正銘の日本刀と思しき得物を用いて臨む修行――然様に得体の知れない行為を“自然”と形容してもいいのなら、ではあるが。僕と疑念を同じくしていたのか、忠勝は険しい表情で前方の木立を睨み付けながら、低い声でぽつりと呟いた。

「それはそうかもしれねぇが――オレはなにか、イヤな予感がする。あいつをこのまま放っておくのはマズイような……そんな気がして仕方ねぇ」

「それは、同感だ。だったらどうする、タツ?」

「はっ、言うまでもねえ。分かりきったことをいちいち聞いてんじゃねえぞボケが」

「ふん、全くその通りだな。――じゃあ、行くか」

「ああ。行くぞ」

 短い遣り取りを交わし、蘭の姿が消えていった雑木林へと踏み入る。整備された林道は見当たらなかったが、不自然に折れた草花や土に残る足跡など、痕跡を辿る事は難しくなかった。夏の盛りを迎えたこの時期、繁茂した緑林が天上から降り注ぐ日光のほとんどを遮っており、真昼間であるにも関わらず林の中は薄暗かった。外側から見た限りさほど規模の大きな林でもなかったので、まさか遭難の危険は無いだろうが――そうした具体的な危機感を抜きにしても、僕は言い知れない焦燥を抱かずにはいられなかった。林に踏み入ったその瞬間から、何処か背筋が粟立つような感覚が絶えず付き纏っていた。理由は分からないが、この先に進んではいけない、と自分の中の何かが訴え掛けているようだった。

 だが、そんな根拠の無い曖昧模糊な感覚に囚われて引き返す訳にもいかない。僕と忠勝は押し潰されるような沈黙に耐えながら、蘭の足跡を追う。林の中は奇妙な静寂に包まれており、不自然な程に鳥獣の鳴き声が聴こえず、外ではあれほど煩かった蝉の合唱も、一切が途絶えている。僕達の足音だけが嫌に大きく響き渡り、薄暗い木立の中に吸い込まれるようにして消えていく。何とも言えず不気味だった。

「…………?」

 その時、ふと、足音以外の物音が前方から聴こえた。思わず二人して足を止め、耳を澄まし――そして再び響き渡った“その音”に、戦慄と共に硬直する。一瞬にして心臓が氷結するような感覚に襲われながら、僕は隣の忠勝を見た。忠勝もまた、緊迫した面持ちで僕を見ていた。互いに隠し切れない動揺を視線に載せながら、身動ぎも適わず見詰め合う。数秒の後、恐る恐るといった風情で、忠勝が口を開いた。

「……信長。今のは」

「ああ。僕の耳が正常に機能しているなら――」

 “悲鳴”、だった。

 ただし、人間の、ではない。声質から判断すれば、恐らくは動物のものだろう、が――そんな事実は何の慰めにもならなかった。

 先程の悲鳴は、僕達の心身を凍て付かせた声音は……紛れもなく、命が途絶える瞬間のそれ。

 断末魔だった。

 あまりにも生々しく鼓膜を打ち震わせた肉声に、本能的な恐怖を呼び起こされずにはいられない。自然と足が震え出し、歯が打ち鳴らされるのを、自らの意思で止める事は出来なかった。

 しかし、逃げ出す訳にはいかない。僕は唇を噛み締めて、睨み付ける様に前方を見据えた。この先で忌まわしい何かが起きている。それはきっと間違いない。そして、だからこそ●●●●●、僕は進まなければならない。何事が起きているのか確かめなければならない。何故なら――そこには、蘭がいるからだ。あのどうしようもなく危なっかしい幼馴染がもしも、肌を粟立たせるような忌むべき“何か”に巻き込まれているのだとしたら、それを放って逃げ出すことは、僕には出来ない。

『えへへ、シンちゃんはやっぱり優しいですね!』

 僕は、あいつに救われた。自分でも救い様が無いと信じていた僕の事を、あいつは底知れない善意を以って救い上げて見せた。だから、僕は己の全霊を注ぎ込んで、あいつを救わなければならない。こんな所で恐怖に怯え竦んで立ち止まっている場合では――ない!

 震える体を無理矢理に動かして、僕は前へと一歩を踏み出した。ほんの僅かな間を置いて、隣の忠勝もまた決然と動き始めた。激しく動悸を弾ませながら、慎重な足取りで足跡を辿り続ける。やがて、前方の木立の隙間から明るい光が見えた。林を抜けた……訳ではなく、どうやら林の中に開けた場所が存在しているらしい。奇妙な閉塞感に精神を圧迫されていた僕と忠勝は、ほっと安堵の吐息をつきながら、木立の合間を縫って陽光の下へと身を晒す。

 そして、

 僕達は――“それ”を見た。
 


 視界を埋め尽くす血と肉。広場を埋め尽くす血と肉。

 見渡す限りに敷き詰められた赤黒い絨毯に、肉塊の置物。

 首、首、首。生首。

 どんよりと濁った無数の眼。ばらばらに散らばった手脚。壊れた玩具。

 死。

 噎せ返るような、死の香り。



「…………………………………………………ぁ………………?」
 


 絶叫の代わりに喉下から漏れ出たのは、無様に引き攣った、声とも呼べない掠れた音。

 これは、なんだ? 僕が見ているこの光景は、本当に現実なのか?

 悪趣味なスプラッター映画を鑑賞しているかのような感覚だった。リアリティがまるで感じられない。だって、こんなのは、おかしい。こんなコトが現実であるハズがない。僕はきっと悪夢に魘されているだけで、目が醒めれば全ては綺麗さっぱり消え去ってしまうのだろう。そうでなければならない。そうでなければ――蘭は。蘭は。……蘭は?

 蘭は、広場の中心に居た。

 清純な白のワンピースを真っ赤に染めて、うつ伏せの姿勢で倒れている。すぐ傍には、禍々しい朱色に塗れた銀の刃と――解体された無数の肉塊。かつては生物だったモノの成れの果て。肉体を構成するあらゆるパーツを斬り刻まれた、屍とすら形容しがたい何か。それはかつて犬であった何か。それはかつて猫であった何か。それはかつて鳥であった何か。数え切れないほどの“何か”に囲まれて、冗談のような死臭に包まれて、森谷蘭は眠り姫の如く其処に居た。

「ら、ん」

 そう、だ。

 安否を、確かめなければならない。あんなに血塗れになって倒れている以上、少なからぬ怪我を負っているに違いない。駆け寄って無事を確かめなければ。縮こまっている場合じゃない。大丈夫、僕に危害を加えるものなど何もない。所詮、死んだ畜生に何が出来ると言うんだ。まさか首だけで噛み付いてくるとでも言うのか、馬鹿馬鹿しい。そう、怯える必要なんて何もない。僕は、行かなければ。あいつの下へ。

 ……だと、云うのに。足が、動かない。地面に縫い付けられたかの如く、固まって微動だにしない。

 いや。むしろ、僕は、今。

 少しずつ後ろへ下がっているんじゃあ、ないのか。

 これは、気の所為か? ああ、気の所為に違いない。僕がこの場から逃げ出す道理など、森谷蘭から逃げ出す道理などありはしないのだから。

――本当に、そうか?

 囁き声が聞こえる。

――誤魔化すなよ。理由なら、目の前にあるじゃないか。そうだろう?

 言われるがままに、僕は、前を見た。目の前を見た。理由を探した。

 そして、撒き散らされた血肉の中に、僕は見出した。もはやこれ以上、眼を逸らす事は不可能だった。

 それは、蘭への。

 僕の知らない“森谷蘭”と云う存在への、恐怖。理解を超えた殺戮者に対する、抑え様の無い恐怖の感情に他ならないのだと。

 己の身を竦ませ、或いは逃走へと駆り立てているモノの正体を、認識し、咀嚼し、苦味と共に噛み締めた――その瞬間だった。
 

「君達は、蘭のお友達かい?」


 声は、背後から。

 心臓を鷲掴みにされるような心地で、僕は硬直した。


「やれやれ、相変わらず基本的な注意力に欠けた子だ。あれほど気を付けるようにと言い含めたのに」


 声の主は、身動きも出来ずにいた僕の傍を通り過ぎ、そのまま死臭に充ちた広場へと足を踏み入れた。何の躊躇いも戸惑いも見受けられない、無造作な足取り。

 そうして陽光の下に姿を晒したのは、黒の和服を纏った痩身の男だった。異様に青白い肌、痩せ細った四肢、そして落ち窪んだ頬。不吉な黒装束と相俟って、その姿は死神のそれを思わせる。男は周囲一帯に散乱した肉片と血痕に怯えるでもなく、むしろ興味深げな様子でそれらを眺め回していた。あたかも美術館にて名画を鑑賞しているかのような目付きで、おぞましい情景を織り成す全てに一通り視線を巡らせてから、最後に広場の中心へと視線を移す。

 夥しい量の“返り血”に塗れて地に倒れ伏す少女――蘭を一瞥し、男は静かに口を開いた。

「椿。蘭を家まで運んであげてくれないか」

 誰に向かって言っているのか、と訝る間もなく、瞬きの合間に新たな人影が広場に現れていた。男とは対照的に華やかな朱色の和服を身に着けた、艶やかな黒髪の女性。その肌色は隣に立つ男と負けず劣らず青白かったが、男とは違い、それが逆に女の儚げな美貌を引き立てる役割を果たしていた。

「はっ。承りました」

 椿、と呼ばれた女は粛々とした語調で男に答えると、美麗な着物が汚れる事に僅かな躊躇いの色も見せる事無く、血で汚れた蘭の肢体を抱き上げた。蘭は完全に意識を失っている様で、堅く瞼を閉したまま動く気配が無かった。

 触れれば折れてしまいそうな、白樺の枝の如く華奢な腕からは到底想像の及ばない、力強い膂力で蘭の身体を抱き上げたまま、女は目を細めて、慈しむような優しい眼差しをその顔へと向けている。

 母性を感じさせる振舞いと、蘭との一致を所々に感じさせる容姿、そして現在の状況を併せて考えれば、その正体は自ずと予想が付いた。

「……」

 女の視線が不意に上がり、切れ長の怜悧な双眸がこちらを見据える。感情の窺えない静かな目は、何かを見定めようとするように僕を見つめていたが――数秒と経たない内に視線は外され、女は無言のままに背を向けた。意識の無い蘭を優しく腕に抱いて、薄暗い木立の中へと消えていく。

 追わなければならない、という焦りは不思議と湧いて来なかった。少なくとも今は、彼女に蘭を預けておくのが最善であるような、そんな予感があった。

「さてと。君達の事は、蘭から聞いているよ。どうやら、蘭は良い友を得る事が出来たようだね。とても喜ばしい事だ」

 女の姿が完全に見えなくなった後、不吉な面貌の男はこちらに向き直ると、和やかな調子で口を開いた。敵意も悪意も含まれない、春風を思わせるような穏やかさ。しかし、広場に漂う強烈な死臭の中に在っては、男の語調はどう考えても場違いで、むしろ不気味さを助長するものでしかなかった。

「……アンタが、蘭のオヤジさんか?」

 この広場に辿り着いて以来、初めて声を発したのは、忠勝だった。眼前に広がる光景の悲惨さに顔色を真っ青に染め上げながらも、忠勝は鋭い目で真っ直ぐに男を見据えていた。どんな事態に遭っても己を見失わず、自分の為すべき事を為す――そういう金剛不壊の胆力が、源忠勝には備わっている。混乱、動揺、恐怖。一切の感情を押し込めて自己を律してみせた幼馴染の姿は、僕を奮い立たせるには十分だった。

 そうだ、いつまでも戸惑っていてどうする? 知らなければならない事が、僕にはある筈だ。或いは今こそ、知るべき事を知る為の最高の好機かもしれないと言うのに、間抜けに呆然と佇んでいる場合か。

「そうだよ、私の名は森谷成定。蘭は私の自慢の娘さ」

 不健康な顔色とは裏腹に朗らかな調子で答えて、男――成定はにこやかに言葉を続けた。

「君達は普段から蘭と仲良くしてくれているそうで、感謝しているよ。既に聞いているかもしれないけれど、妻は生まれつき身体が弱いし、私も何年か前から患ってしまっている。鍛錬の時間くらいしか、蘭に構ってあげる余裕がなくてね。寂しい思いをさせてはいないか、と常々心配していたんだ。だから、君達が蘭の傍にいてくれて本当に良かった。蘭はね、家ではいつも君達の話をしているんだよ」

「……」

「椿――ああ、妻の事だけど、妻もああ見えて君達には深く感謝しているんだ。昔から愛想のない奴でね、誤解され易いけれど、実はあれで誰よりも子煩悩なのさ。まあそういう私も、あまり人の事は言えないんだけどね」

 照れ臭そうに頭を掻きながら、成定は微笑んだ。語る言葉の内容に嘘偽りの気配はなく、娘の事を心から大切に思っている事が分かる。その姿から垣間見える人物像は、どこにでもいるような、娘に甘い父親のそれだった。平凡で、普通で、ありふれていて――だからこそ、屍の山の中で平然と紡がれる言葉は、語り手の底知れない異常さを浮き彫りにする。

 何かがおかしい。何処かが、狂っている。

 僕はその事実をはっきりと頭に刻み込んだ上で、いつしかカラカラに乾き切っていた口内を唾で潤してから、舌を動かした。

「だったら、その子煩悩な父親とやらに訊きたい」

「ん? 構わないよ、何でも訊くといい」

「こんな風に動物を虐殺して解体するという、自慢の娘の“趣味”について……アンタは父親として、どう思ってるんだ?」

「いやいや。何か勘違いしているようだけど、“これ”は別に蘭の趣味じゃないよ。親として、私は娘をそんな風には思って欲しくないな。私の愛娘は断じて、命を弄ぶ行為に喜びを見出すような“邪悪”じゃない。今時珍しいくらいに優しい子だからね、むしろそれで難儀しているくらいさ。夏休みが始まった頃は特に酷かった。何せ一匹も“殺す”事が出来ずに、せっかく捕まえてきた贄を逃がしてしまう始末だったんだ。最近は慣れのお陰かだいぶマシになってはきたけれど、それでも一度に続けて殺せる数には限界があるみたいで、そのラインを踏み超えるとあんな風に倒れてしまうのさ。まったく、困ったものだよ」

「…………」

「…………」

 僕と忠勝は目配せを交し合って、同時に頷いた。

 間違いない。これで完全に確信が持てた。蘭の様子がおかしくなった原因は――間違いなく、この男だ。蘭の変調に父親が関わっているかもしれない、という予測は的中していたが、しかしよりにもよってこのような形で。あまりにも不愉快な真実を前にして、腰の横で握った拳に力が入るのを自覚した。

 つまり、蘭に“これ”をやらせたのは――この胸が悪くなる狂気的な地獄絵図を描かせたのは、他ならぬ眼前の男。

 ……そうだ、冷静に考えてみれば当たり前だ。あの蘭が自分の意志でかくも残酷な所業を実行するとは思えない。夏休みが始まってからこの方、日に日に蘭の顔から朗らかな笑顔が消え失せていったのは、惨たらしい虐殺を実の父親に強要され続けてきた事が原因だったのだ。僕と思いを同じくしていたのか、忠勝は理解と怒りの色を同時に宿した双眸で、眼光鋭く成定を睨み付けた。

「『森谷の娘として非常に重要な段階の鍛錬に入った』。これが、そうだってのか……?」

「おや、蘭から聞いたのかい? ああ、その通りだよ。だからこれは趣味などではなく、暦とした修行さ。我々森谷の一族にとっては大変重要な、避けては通れない試練の一つなんだ。本来ならばもっと心身が成熟してから進むべき段階なんだけれど、なにぶん、私はこの有様だろう? あまり悠長にしていると、師として伝えるべき事を伝え終える前に迎えが来てしまう。それにだね、またしても子煩悩と笑われてしまいそうだけれど――はっきり言って、蘭は天才だ。我々森谷の歴史の中でも類を見ない、素晴らしき天稟の持ち主なんだ。志もとても強い。例え辛い想いをしても、蘭なら十分に乗り越えられると私は判断したんだよ」

 訊いてもいない事を饒舌に語る男だった。だが、情報を引き出し易いのはありがたい事だ。何を聞いたところで、僕達の気分が良くなるような種類の答えは返って来ないのだろうが――それでも、耳を塞ぐ事は許されない。僕達は、今こそ知らなければならないのだろう。絶えず頭の何処かで疑惑を感じながらも、意識してこれまで踏み込まないように努めてきた、“森谷”という武家の闇に覆われた内情を。

『……ちっ。胸糞悪ぃ、が、仕方ねぇな。いくらなんでも森谷はヤベェ』

 裏社会にて絶大な権勢を誇る朝比奈組という組織の一員が、森谷の名を聞いただけで狼狽し引き下がった、その理由。或いはそれは、僕が漠然と脳裡に描いていた空想などよりも、遥かに凄絶で狂気に満ちたものなのかもしれない。背筋に走る冷たい戦慄を堪えながら、僕は再び口を開いた。

「“これ”が修行だと言うなら、そこに何の意味があるんだ? 野生動物を一方的に惨殺する事で、蘭は自分の何を鍛えられるんだ」

「無論、“心”さ。ふむ、どうやら君は、自分で答が分かっている事を問う癖がある様だね」

「……」

「生あるものを殺すという事。刃を以って命を斬るという事。その意味を、その重さを知らぬままに、武士を名乗る事など決して許されぬ。血潮を浴び、屍肉に塗れずして真剣を佩くなど笑止千万。武士道を往く者こそ、死に最も近き修羅であると心得よ」

 これまでの穏やかさなど欠片も窺えない、圧倒的な厳粛さに満ちた声音。言葉を終えると共に、成定は鋭い眼光で周囲を見渡した。ばらばらに引き裂かれた死体の山と、その周囲を流れる血の河。立ち昇る死の匂いに包まれながら、成定は僕と忠勝の顔を見遣って、静かに声を発した。

「君達は――“悪”とは何だと思う?」

 何の脈絡もない、唐突な問いだった。少なくとも、僕にはそうとしか思えない。元より回答を求めてはいなかったらしく、成定は押し黙る僕達に向けて言葉を続けた。

「この世に明確な善悪の線引きは無い――世界の何もかも見透かしたような顔で、そんな戯言を堂々と嘯く輩は幾らでも居る。しかし私はそうは思わない。確かに悪は存在する。邪悪と断ずべき概念が、人の世には間違いなく在る。私は、森谷は、それを知っている」

 噛み締めるように言い終えると同時に、成定の纏う雰囲気が明らかな変貌を遂げるのが分かった。好人物然とした和やかさは表情から掻き消え、口元からは笑みが抜け落ちた。衰え痩せ細った顔の中で、虚空を睨む双眸だけが恐ろしいまでの精気を帯びていた。

「悪とは即ち、人の内に棲む獣。心の中に巣食う獣性を律する事能わず、己の良心すらも食い尽くされてしまった時、その者は人面獣心の鬼畜に成り果てる。自己の為に他者を喰い物にする事を躊躇わず、己の欲望のままに盗み、奪い、犯し、壊し、殺す。その醜悪なる有様を悪と呼ばずして何と呼ぼうか。――戦乱の時代が終わり、泰平の世が訪れても、それは“悪”の根絶を意味してはいない。乱世においては獣の本性を晒し堂々と人を喰らっていた輩が、図々しくも人の皮を被り直して社会に這入り込んだだけだ。時が現代に至っても、その在り方は何一つとして変わってはいない。平穏無事と信じられている現代社会の裏側で、悪に虐げられ、悲憤の血涙を流している善人のなんと多き事か。法の網の届かない暗闇に隠れ潜み、誰にも裁かれる事無く悠々と跳梁跋扈する悪党の、なんと多き事か!」

 血を吐くような叫びだった。あたかも踏み躙られる人々の悲嘆と憤慨と憎悪を一身にて代弁しているかのような、呪詛にも似た慟哭と共に、成定は天を仰ぐ。激情のあまりに湧き出でた一筋の涙が、痛々しく痩せこけた頬を伝い、血と肉片に塗れた土へと零れ落ちた。そのままの体勢で、成定はぽつりと呟くように言葉を続ける。

「……悪の存在を赦してはならない。悪は根絶やしにせねばならない。その根源を断ち切らねばならない。だが――その為にはどうすればいい? 眼前に現れた邪悪を幾人斬り捨てた所で、新たな悪は際限なく生まれ落ちる。人の心に獣が棲まい続ける限り、この世の悪が絶える事は決して無い。ならばどうする? ――こうするのだ●●●●●●ッ!」

 僕も、忠勝も、反応すら出来なかった。気付いた時には、地面に転がっていた筈の白銀の刃の切っ先が、僕の眼前へと移動していた。

 それを認識した瞬間――全身が総毛立ち、呼吸が止まった。或いは、心臓すらも停まっていたかもしれない。そう錯覚するほどに凄まじい冷気が、脳天から爪先に至るまでを一挙に駆け巡り、凍て付かせた。氷の彫像と化したように、身体が動かない。思考すらも、一切が凍り付いていた。何も判らない。ただ――怖い。怖くて怖くて堪らない。心中を充たすのは、ひたすらに圧倒的で絶対的な、凄まじいまでの恐怖感。猛り狂う本能の叫び。生殺与奪の権利を他者に掌握されている事実を全身の細胞が理解する。視線は眼前に擬された白刃へと吸い寄せられる。無情な刃の先端が、ほんの僅かに動かされただけで、僕は死ぬ。何の猶予もなく、情緒もなく、余韻もなく、ただただ滑稽なほどの呆気なさで――生命が、終わる。

「判るかい? 今、君の目の前にあるもの。それが、“死”というものだ。そして、君が感じている恐怖こそが、鍵だ。人心に棲まう獣を縛る鎖。遍く悪を断ち切る救世の刃に他ならないんだよ」

 授業中の教師のような調子で言って、成定は腕を下ろした。血塗れの凶刃が地面に向けられ、切っ先から朱の滴が垂れ落ちる。冷気からの解放。込み上げる安堵感と同時に一気に全身から力が抜けて、気付けば僕は地面に膝を着いていた。未だ残る強烈な悪寒に、身体は小刻みに震えている。そんな僕の様子を満足気に眺めながら、成定は再び口を開いた。

「生物にとっての最大の恐怖とは、即ち生命活動の停止に他ならない。それは遺伝子に刻み込まれた本能だ。正常な人間にはどう足掻いても克服し得ない、絶対のルールなんだよ。だからこそ、純粋さを窮めた究極の“死の恐怖”だけが、心に巣食う獣を律する手綱と成り得る。あらゆる欲望を――人の心に渦巻くあらゆる混沌を凍て付かせ、静止させる事を可能とする。……森谷の剣は、遥かな戦国の世にて、殺意を以って善を護り、殺意を以って悪を制す為に創始された。いつの日か、ありとあらゆる獣を斬り伏せ、この世の悪を根本より滅し得る、絶対的な“殺意”を完成へと至らしめる為に、森谷の血族はその理念と術理を継承してきた。屍山血河を踏み越え、代を重ねる度に殺法を昇華させてきた。その末にいるのが私達で、そしてその果てに辿り着くであろう最初の“森谷”こそが、私の娘なんだ」

「……」

「私達は、殺す。善良なる人々を護る為に殺す。救いの無い悪党に正義を知らしめる為に殺す。人々の意識に死の恐怖を刻み付ける為に殺す。人の心から獣が消え去るまで、あらゆる悪に死の報いを与え続ける。それが武士の生き様を受け継ぐ私達の使命であり、誇るべき志なのだから!」

 天へと宣言するように、森谷成定は空を仰いで吼え立てる。落ち窪んだ眼窩の奥に暗く燃えるのは、亡者の怨念にも似た執念の炎。

 異様な気迫に呑み込まれ、一言たりとも発せずにいた僕と忠勝へと、成定は緩慢な動作で向き直った。

「……狂っている、とでも言いたげな顔だね。隠す事は無いさ、そういう反応には慣れているよ。けれど、考えてみて欲しい。君達は本当に、一度として疑問に思った事はないのか? 偉大な先達が苦心と研鑽を積み重ね、人々を護る剣たらんという願いの下に創始した数多の武術が、単なる護身術や、果ては観衆を沸かせる見世物にまで成り下がったこの時代を。世の為人の為に振るうべき刃を茶間に飾って手に取ろうともしない、武士の本分を忘れ去った不甲斐なき末裔達の姿を。黛大成、という男を知っているかな? 私に言わせれば、あのどうしようもない馬鹿者はその筆頭だよ。……何が剣聖、何が人間国宝だ! そも、刀剣とは何の為にある。武とは何の為にある。――決まっている、殺す為だ。力なき民に代わり、暴虐を振り翳す邪悪の命脈を一刀にて断ち切る為だ。その本質を見失い、見せ掛けだけの安寧に身を浸し、邪悪よりの救済を乞う民草の悲痛なる叫びに耳を塞ぐような輩に、武士を名乗る資格などあるものかッ! ――ぐ、かはっ」

 激昂の怒声を轟かせた直後、成定は不意に咳き込みながら手で口を押さえた。赤黒い血が指の隙間から溢れ出て、黒縮緬の和服に無数の斑点を描き出す。突然の吐血に驚き固まる僕達とは対照的に、成定は苦しげながらも焦った様子を見せず、慣れた手付きで懐から手拭いを取り出し、口の周りの血を拭き取った。手拭いを丁寧に折り畳んで懐に戻すと、再び僕達へと視線を向ける。気付けば先程までの鬼気迫るような雰囲気は霧消し、表情は凪いだ海面のような静穏さを取り戻していた。

「ああ、見苦しいところを見せてしまったね。驚かせて済まない。だいぶガタが来ているようでね、近頃では珍しくもない。本来なら絶対安静、起き上がる事すらアウトだと医師には言われているんだけれど、養生したところでどのみち長くは保たないだろうし、だったら蘭の修行を優先すべきだと思ってね。残された僅かな時間くらい、可愛い娘と少しでも一緒に居たいと考えても仕方ないだろう?」

「……治らない、のか」

 顔面に浮かぶ死相から予め想像は付いていた事だが、本人の口から語られるその事実は、想像を絶する程に重かった。僕はまだ、人の死に触れた事がない。苦痛や絶望には慣れ切っているが、死という事象がもたらす諸々を僕は体験していない。思わず口を衝いて出た問い掛けに、成定は穏やかに答える。

「残念ながらね、見込みはないそうだ。この夏が終わるまで命を繋ぐことが出来れば奇跡だと、そう宣告されてしまったよ」

「蘭は、それを知っているのか?」

「いや、蘭にはまだ伝えていない。優しい子だ、知れば必ずや心を乱すだろう。最も大事な修練に臨んでいるこの時期に、それは望ましくない。蘭には私などに気を取られる事無く、眼前の修行にこそ集中して欲しい。……私は、不甲斐ない親だ。地位も財産も、形あるものは何一つ、愛する娘に遺してやる事が出来なかった。だからこそ、私に遺せるものは余す所なく全てを遺してやりたいんだ。貧しい食事にも文句一つ言わず、“立派な武士になりたい”と、“父上や母上のようになりたい”と笑顔で言ってくれたあの子のために、私は、森谷成定という武人が生涯にて培ってきた総てを伝えてやりたいんだよ」

「…………」

 森谷成定が培ってきた、総て。それが――“これ”だと言うのか。

 僕は、足元へと視線を落とした。積み重ねられ、撒き散らされた無数の死体。吐き気を催さずにはいられない眼前の光景こそが、蘭の残した殺意の軌跡。“森谷”の血族が伝えてきた妄執の具現。殺戮の果てに正義を為さんと云う、独善に満ちた狂気の理想。おぞましく、禍々しく、忌まわしい。

 だが、それでも。

『はいっ! 父上も母上も、とぉーってもりっぱなお方ですから』

 きっと、森谷蘭の家庭には、“愛”がある。蘭は両親を敬愛し、両親もまた、蘭に偽りのない愛情を注いでいる。僕と同様、暴力によって理不尽に虐げられ、意に沿わない行為を強制させられていた訳ではない。思えば、空腹に耐えながら厳しい鍛錬に明け暮れる過酷な生活の中にあって、蘭はいつでも幸せそうだった。それは、何物にも侵されない本当の愛が傍にあったから。家族の想いが日々を逞しく生きる活力を与えていたから。

――だとすれば。“これ”が蘭にとっての不幸だと断言する権利が、僕にはあるのか? 家族の愛情というものを欠片も知らず生まれ育った僕のような人間に、正真正銘の愛情で結び付いた家族の何を推し量り、何を判断できると言うんだ?

 僕には、分からない。何が正しいのか。僕が今、蘭のために為すべきことが何なのか。

『武士で在ること。それを証立てるものは身分や血筋じゃなくて、生き様そのものなんです』

 目を輝かせて語る蘭の言葉が、脳裡に蘇った。

――蘭。お前が本当に目指していたのは、こういうもの●●●●●●だったのか?

「さて。君達が知りたいと思うであろう事は、これで全て話したつもりだよ」

 成定は穏やかな微笑みを湛えたまま、優しげな目で僕と忠勝を見遣っていた。

「さあ、早く家へと戻りなさい。今更ではあるけれど、この死臭に充ちた光景は、とてもじゃないが精神衛生に良い影響を与えるとは言えないからね。血の匂いが染み付かない内に平穏無事な日常へと戻るべきだ。蘭もきっと、そう望む事だろう」

 静かに言い終えると、成定は足元の血溜まりに沈んでいた朱鞘を拾い上げ、抜き身の刃をその中へと納めた。僕達に背中を向けて、小さな咳を繰り返しながら広場の外へ向けて歩き去っていく。

 幽鬼を思わせるその背中が木立の中に消え去ろうかという時、不意に成定は足を止めて、そのまま振り返らずにこちらへと言葉を投げ掛けた。

「……無理強いは、しないけれど。森谷という武家の在り方を知った以上、平穏の中に暮らす人々がそれを忌避するのは当然の事かもしれないけれど。叶うならば、君達にはこれからも、蘭の友達でいてあげて欲しい。私の代わりに、あの子の心を支え、行く末を見守ってあげて欲しい。理解者になれとは言わない、ただ傍にいてくれるだけでいい。そうすればきっと――あの子は折れることなく、己の道を歩いていける筈だ」

 自身の死を見据えながら紡がれた、痛切な想念を最後に言い残して、今度こそ成定の姿は見えなくなった。

 影も形も、足音も、気配すらもが一瞬で掻き消え、後には僕達だけが残される。

「……」

「……」

 しばらく、僕も忠勝も口を開かなかった。先程までの出来事が、どこか現実のものとは信じられないような、そんな感覚があった。

 だが――視界を埋め尽くす数え切れない程の死骸と、空気に充満した噎せ返る様な血臭が、嫌という程のリアリティを伴って僕達に現実を知らしめてくる。

 そう、これが現実だ。

 僕達が向き合わなければならない、

 森谷蘭の――真実。

 

 








 



 それから。“修行場”を後にした僕達は、住宅街の入口まで戻ってくると、そこで一旦別れた。僕は川神駅付近の市立図書館へ、忠勝は親不孝通りの宇佐美代行センターへと個別に向かう。取り敢えずはそれぞれの取れる手段で“森谷”についてより情報を得るべきだ、との判断だった。

 忠勝の養父、宇佐美巨人は裏社会の事情に通じており、森谷の家についても何かを知っている可能性がある、と忠勝は語ったが、少なくとも僕に関して言えば、本気で調査に臨むつもりで図書館を訪れた訳ではなかった。森谷の家について僕達が知るべき事柄の多くは、棟梁たる森谷成定の口から語られており、それ以上に詳細な情報が書物から得られるとは思えない。ただ僕は、独りで思考を整理する時間が欲しかった。

 或いは忠勝はそれを見越した上で別行動を提案したのかもしれないな――と、書棚の狭間で武家に関する文献を流し読みしながら、ふと思い至る。態度や言葉遣いの悪さとは裏腹に、忠勝はそうした他者への気遣いの仕方が上手い人間だ。世話を焼きながらも相手に押し付けがましさを感じさせない忠勝の振舞いには、僕も常々感心させられるところだった。とにかく何が何でも真っ向勝負でなければ気が済まず、他人の心情などお構いなしに全力で善意を押し付けてくるどこぞのお人好しにも少しは見習って欲しいものだ。

『わたしですか? わたしは――りっぱな“武士”にならなくちゃ』

 蘭。森谷蘭。織田信長の初めての友人。

 この夏休みが始まってから、蘭は確実に追い詰められていた。原因は言うまでもなく、つい先刻に目撃した地獄絵図。目的が修行であれ何であれ、蘭の行為が一方的な虐殺である事は誤魔化しようのない事実だ。つまり蘭は、己が最も嫌うところの、“力を以って弱者を虐げる”という行為の極地を、毎日の如く実行していた事になる。笑顔が曇り、消え失せるのは当然の帰結だろう。例え蘭のように強い正義感の持ち主でなくとも、尋常な神経の持ち主なら、あんな惨たらしい殺戮を続けていれば心を病むのが自然だ。蘭は文字通り、心を切り刻むような想いで“修行”に臨んでいたに違いない。それも、恐らくは――自らの意志で。

 ……。

 僕は、どうすればいいのか。いや、そもそもこれは、“どうにかしなければならない”類の問題なのか? 確かに森谷という一族の信条は、理念は、社会的に認められるものではないだろう。殺人という手段で世の悪を根絶する――狂気的としか言い様が無い発想だ。それは理想ではなく、妄想の類でしかない。未来永劫、世間に受け入れられる可能性など皆無。それは間違いないと断言できる。

 しかし、だからなんだ●●●●●●

 倫理観に則って、或いは法に照らし合わせて、その罪を見咎める事に何の意味があるというのか。僕は、森谷の定義する所の“悪”とやらに散々虐げられている立場の人間だ。強きを挫き弱きを助く正義の味方の実態が、血に塗れた殺人者であったところで、殊更にそれを弾劾する必要を感じない。僕は博愛主義者でもないし、万人の命が等しく貴いものだとは欠片も思っていない。“死ぬべき人間”というものは確実に存在するのだと、僕はこれまでの人生の中で嫌というほど思い知らされてきた。臆面も無く人間社会に寄生し、法の光の届かない闇の中で醜く蠢く連中――徒党を組んで強者を気取り、弱者から搾取する事で生命を謳歌する、人間の屑。朝比奈組という忌まわしい悪党どもを一人残らず根絶やしにしてくれるというなら、いっそ頓首再拝して崇め奉っても一向に構わない。

 もしも蘭が森谷の業を継いで、血塗れの士道を往くと決めたならば、僕は強いてそれを止めようとは思わないだろう。僕は、蘭が己の“夢”に対していかに真剣であったか十分に承知している。例えその夢がどれほど荒唐無稽で、狂い果てた妄念の残骸に過ぎないのだとしても。蘭が自らの意志でその道を貫き通すと決めたのならば、僕はそれを否定しない。否定する理由が、僕の中には存在しない。

――あいつと、話をしないと。

 今の僕に為すべき事があるとすれば、それは蘭の意志を確かめる事だろう。もしも蘭の本心が、死に魅入られた森谷の業を拒絶しているのならば、僕達の手で何としても解放してやらなければならない。蘭の心が押し潰される前に、救い出してやらなければならない。

 しかし、もしも。蘭が確固たる意志の下、“森谷”の使命を継ぐと心に決めていたなら――その時は、僕達の出る幕ではない。余計な口を挟まず、ただ黙って傷付いた精神を支えよう。それでいいではないか。そう、どれほど血に汚れていても、罪に塗れていても、蘭は蘭だ。五月蝿いくらいに賑やかな、お節介焼きの単純馬鹿だ。だから、例え蘭が何者であったとしても、何者に成ったとしても、僕達の関係は変わらない。織田信長と、森谷蘭と、源忠勝と。今まで通り、三人で騒がしい日常を過ごす事が出来る。いつまでも変わる事無く、共に未来へと歩いていく事が出来る。僕は、それを疑ってはいなかった。

――本当に?

 何処からともなく、囁き声が聴こえる。

 頭の中で耳障りに反響するその声を――僕は、黙殺した。

「……」

 何にせよ、まずは蘭の本心を訊き出さない限りは話にならない。僕は手元の資料をさっさと元の書棚へと返却して、図書館を出た。冷房の効いた館内から足を踏み出した途端、容赦の無い熱気が身体を包み込む。西空では既に紅い夕日が沈もうとしていた。太陽の熱の名残を帯びたアスファルトを踏みしめて、堀之外の住宅街を歩く。向かう先はいつもの公園だ。特に時間を指定した待ち合わせはしていないが、忠勝が新たな情報を伝えるために待機しているかもしれないし――数日振りに、蘭が顔を出しているかもしれない。

 そう言えば、僕達が後を尾けていた事を蘭は知っているのだろうか。おそらく尾行自体は最後まで気取られていなかっただろうが、意識を失った後の顛末を両親の口から聞かされている可能性は十分に考えられる。そうなると、蘭が僕達に対してどういう態度に出るか些か予想が付かない。その辺りの対応策も事前に考慮しておくべきだな、と様々な事柄に思考を巡らせながら歩いていると、気付いた時には目的地に辿り着いていた。

 黄昏色に染まる公園の周囲は、静寂に包まれている。話し声や遊具の物音が聞こえてこないという事は、どうやら先客はいないらしい。少し拍子抜けしながら、外周に植えられた樹を迂回し、通い慣れた公園の敷地に足を踏み入れ。

――驚愕と共に、立ち尽くした。

「お、ようやく本日のゲストのおでましかい。きひひっ、待ってたぜ、ノブナガよぉ」

「…………っ!?」

 粘り付く様な悪意に満ちた声。それは、僕がこの世で最も嫌いな声だった。

 声の主は――鍛え上げられた屈強な体躯を悪趣味な白スーツで包み、白髪混じりの灰髪をオールバックに撫で付けた、中年の男。危険と暴力の匂いを身に纏わせ、悠々と煙草を吹かしながらブランコに腰掛けているのは、その度外れた残虐さと有能さを何者よりも恐れられ、若干三十代の半ばにして朝比奈組の若頭を張る男――新田利臣だった。織田信長にとっての絶望を象徴する最悪の存在が、ニタリと不吉な笑みを口元に湛えながら、僕を見据えている。

「おーおー、その顔。驚きのあまり言葉も出ねぇってなァ感じだな。なかなかいい具合にサプライズを提供してやれたようで俺としても嬉しいぜ。何つっても人生にゃぁ刺激が必要だからな、退屈と馴れ合いを始めちまったら人間腐ってくばかりってなもんよ。ってな訳で、俺はいつでも刺激を探し求めてんのよ。刺激的な不幸、刺激的な絶望ってヤツをな。きひひっ」

 言葉が、何一つとして耳に入ってこなかった。僕の心は、嵐のような混乱と動揺に見舞われていた。

 何故だ。

 何故、この男がここにいる。よりにもよってこの場所に、どうして当たり前のような顔をして居座っているんだ。意味が分からない。理解が及ばない。ここは、僕の居場所だ。僕達の場所だ。絶対に、お前のような輩が居るべき場所じゃない。居てならない場所なんだ。なのに、なのに、何故。

「ったく、とびっきりの“お楽しみ”が待ってんだから、あんま焦らしてくれんなよノブナガぁ。もうちょいで諦めて帰っちまうとこだったじゃねぇか。ま、結果的にゃ、ちゃーんとこうやってお越し頂けたワケだ、グチグチ言うのはやめとくかね。そんなコトよりもよ、ノブナガぁ」

 馴れ馴れしい調子で僕の名を呼ぶと、新田は不意に立ち上がった。大股でこちらへと歩み寄り、乱暴な手付きで僕の右腕を掴む。万力のような握力にて情け容赦なく手首を締め上げられる激痛に、思わず苦悶の呻き声が漏れた。絶望的な膂力にひとたび捕われては、振り解こうと足掻く事すら許されない。

「……っ!」

 ……いや、それ以前の問題、だ。依然として僕の手首を鷲掴みにしたまま、新田は満足気に口元を歪めた。

「よーしよし良い子だぁ。ここで聞き分けなしに暴れられでもした日にゃ、お前アレだ、また一から教育課程をやり直しだぜ。ま、そうなったらそうなったで俺としちゃあ楽しみが増えるんで全然構やしねえんだが、取り敢えず今はダメだ。生憎、今は“躾”に時間使ってる場合じゃねえんだよなぁ」

「……」

 この身は最初から、あらゆる抵抗を放棄していた。逆らえば逆らうほどに肉体を襲う苦痛は膨れ上がるのだという、骨髄に至るまで深く深く刻み込まれた教訓が、抵抗の無意味さを頭脳へと訴え掛けていた。心を殺して屈辱に耐え、歯を食い縛って激痛を堪え、ひたすらに耐え忍ぶ――ヘドロの如く意識の根幹に染み付いた無力感が、それ以外の選択を僕に許そうとしなかった。

 諦観。

 それこそが、織田信長に掛けられた呪いの名だ。蘭と出会い、忠勝と出会い、世界に希望を見る事が出来るようになった今でも、僕はその呪縛から逃れられてはいない。解決の術を見出せない困難に直面した時、決まって僕は囁き声を耳にする。仕方が無い。どうにもならない。だから諦めてしまえ――と。その醒めた声音を聴く度に、僕の心からは急速に“熱”が失われ、昏い世界へと引き摺り戻される。絶望に浸り、悲観に沈むだけの生ける屍でしかなかった頃の僕へと、立ち戻されてしまう。

「さーて、そいじゃ行こうぜノブナガぁ。きひ、そう固くなんじゃねえよ。ただ、そうさな――ちょいとイイとこに連れてやってやるだけだって」

 親しげに僕の肩を抱きながら、新田は告げる。その歪な喜悦に満ちた表情を目の当たりにした瞬間、恐ろしい勢いで心が冷えていくのが分かった。織田信長の不幸はいつでも、新田利臣の幸福に比例している。この先にどのような展開があるにせよ、新田がこういう顔を覗かせた以上、僕に待ち受けている運命は暗黒に彩られているのだろう。瞬く間に心中を覆い尽くす絶望的な心地に処する手段は、ただ一つ。いつものように精神を外界と切り離して、僕は新田の剛力に引かれるがままに、歩き始め――

「おい。そこで、何してやがる」

 切り付けるような鋭さを伴って響き渡る、聞き慣れた“現実”の声音に、はっと顔を上げる。

「誘拐にしちゃ堂々としすぎだな。嫌でも目に付いちまう」

 世界に意識を引き戻せば、源忠勝がそこに居た。公園の出口を塞ぐように立ち尽くしている。鷹を思わせる目が炯々と光を放ち、僕と、その腕を掴む新田を見据えていた。

 恐らくは事務所での所用を済ませた後、僕と同様にこの公園へと向かったのだろう。しかし何もこのタイミングで――と、僕は改めて己の不幸を呪わずにはいられなかった。助けが来た、などと無邪気に喜ぶ事が出来るほど、僕は呑気でも楽観的でもなかった。この場合、事態はより悪い方向へと転がったとしか言い様が無い。

「誘拐たぁ人聞きが悪いねぇ。いいかぁ坊主、血は繋がっちゃいないがな、俺は“こいつ”のオヤジ代わりみてぇなもんだ。だからよ、ちょいと親子の絆を深めようと一緒に遊んでたワケよ。親子水入らずに水を差しちゃあお前、そりゃやっちゃいけねえ無粋ってなもんだろ。その辺の空気読めねえとよ、真剣で大人になってから苦労するぞ? なぁノブナガよ、お前もそう思うだろぉ?」

 欠片の動揺もなく、新田は気の良さそうな笑顔で悠々と忠勝を見返しながら、僕の腕を掴む指に力を込めた。苦痛による催促、無言の脅迫。だが、そんなものが無かったとしても、最初から僕の取るべき行動は変わらなかった。

「……タツ、大丈夫だ。別に危険や問題がある訳じゃない。お前が気にする必要はないんだ」

 これから僕がどれほど無慈悲で過酷な仕打ちを受けるのだとしても、それは僕一人の問題だ。いつものように耐えてやり過ごせばそれで済む。だが――僕の不幸に忠勝を巻き込む事だけは、絶対に許されない。絶望の末にようやく見出した希望が、僕に付き纏う汚濁によって穢されるのは、耐えられない。そんな事になれば、僕達はきっと、今までと同じ●●●●●●では居られなくなる。それは僕にとって、いかなる苦痛よりも耐え難い恐怖だった。

「ざけんな。信長、てめえ……オレが、何も気付いてねえとでも思ってたのか」

 しかし、忠勝は僕の言葉を一刀の下に斬り捨てた。双眸には見紛い様もない怒りの炎が宿っている。ただし、その激情が向かう先は僕ではなく。

「お前は平気な顔で嘘を吐きやがるし、オレも信じたくはなかったがな。一年近くも付き合ってりゃ、嫌でも分かっちまうんだよ。お前がどっかの誰かに、それこそ毎日のように――胸糞悪ぃ仕打ちを受けてるって事はな」

「……っ!!」

 やはり、隠し通せては、いなかったのか。

 僅かに残った理性がそうさせるのか、虐待の露見を避けるため、あの女はいつでも衣服に隠されて見えない箇所を集中的に痛め付けてきた。故に、人目を惹き易い火傷痕や青痣、切創の類は、殆どが胴体に集中している。だからこそ、僕は曲がりなりにも虐待の事実を蘭や忠勝に隠し遂せてきたつもりだったのだが……人の言う事を疑おうともしない蘭はともかく、人並み以上に勘の鋭い忠勝を欺き続けるのは不可能だったらしい。

「勘付いたのは最近だが――確信を持ったのは、今だ。お前に“そんな顔”をさせてる奴が、まともな訳がねえ。……黙って見すごせってのは無理な相談だろう、がっ!」

 制止する暇すら無かった。胸中を充たす憤りを吐き出すように怒声を轟かせて、弾丸の如く忠勝は動いた。固く、固く握り締められた拳を振り翳しながら、荒々しく地面を蹴り出す。これまでに一度も見た事がないような激しい怒りを面に表して、猛烈な勢いで新田へと躍り掛かった。

「タツ、やめ――」

 必死の叫びを絞り出すよりも先に、鈍い殴打の音が響き、苦悶の呻きが場を充たす。

「ったく、最近のガキは喧嘩っ早いねぇ。きひひ、親に碌な“躾”を受けてこなかったのが丸分かりだぜ」

 一瞬の交錯を終えた時、地に崩れ落ちていたのは、忠勝だった。恐らくは、自分が何をされたのかすらも分からなかっただろう。少なくとも僕の眼には、新田の動きを捉える事は適わなかった。腕が僅かにブレたと見えた瞬間には、忠勝の腹部へと固められた拳がめり込んでいた。

「か、は、――」

 新田の足元に力無く膝を着いた忠勝は、顔を歪め、ひゅーひゅーと苦しげな呼吸を繰り返している。意識を失っていた方が遥かに楽であろう苦しみの中で、しかし忠勝の目は依然として光を失わず、眦に湛えた怒りをそのままに、強く眼前の男を睨み付けていた。不屈の意志を滾らせる忠勝の姿を見下ろして、新田はニタリと笑う。獲物を前に舌舐めずりする肉食獣を思わせる、不吉な笑みだった。

「いやぁノブナガよ、いいオトモダチ持ってんなぁお前。感動したぜ真剣で、涙がちょちょ切れそうだぜ。美しき友情って素晴らしいと俺はつくづく思う訳よ。今日という日は特にだな、そう思うぜ。そんでもって、俺はそのついでに思っちまう訳だ。そういうもんが修復不可能な感じで派手にぶっ壊れちまった時……一体全体俺は、どんな絶望を拝めるのか、ってな」

「……っ!」

 歪んだ愉悦を露にした声音に、慄然とする。このままでは、忠勝が――僕の、所為で。

「まあ焦んなよノブナガぁ。この肝っ玉の据わった坊主には何もしやしねぇさ。俺はこの世のお楽しみを一度に食い潰しちまうほど我慢弱くねぇよ。こんな美味そうなご馳走を、パーティーの添え物にしちまうのは勿体ねえからなぁ。きひ、きひひっ」

 不愉快な笑い声をひとしきり上げると、新田は何事も無かったかのような調子で歩き始めた。烈火の眼差しを向ける忠勝を捨て置いて、僕の腕を掴んだまま傍若無人に足を進める。未だ地獄の苦しみの中にある忠勝に、それを制止する手段はない。立ち上がる事も、声を上げる事すらも出来ず、ただ怒りと焦燥に駆られた表情をこちらへと向けている。

 しかし――必死の形相を作る忠勝とは逆に、僕の胸には安堵感があった。

 少なくともこの場において、忠勝がこれ以上の暴虐に晒される事はない。新田利臣という凶悪な獣に対する反抗の代償が、あの程度の苦痛で済んだのは望外の幸運と言うべきだった。

 ……源忠勝は織田信長の為に、あれ程までに激しく怒りを露にして、強大な敵へと果敢に挑み掛かってくれた。僕にとっては、その事実だけで十分だ。それだけで僕は、どれほど理不尽な暴虐であろうと乗り越えられる。だから――心配するな、タツ。

「……」

 僕が連行されていった先は、公園のすぐ外側を通る街路脇に予め停車されていた、黒塗りの高級セダン。低所得の世帯が密集しているこの地区においては、その威圧的な存在感は酷く浮いていた。状況を整理する暇すらなく、後部座席へと有無を言わさず押し込まれる。

「おうお前ら、待たせてすまねぇなぁ。やっと待ち人が来やがったぜ」

 新田が僕の隣に続けて乗り込んだ時、車内には既に二名の人間が居た。運転席に一人、助手席に一人。いずれもアルマーニの黒スーツにサングラス、という如何にも威圧的な風体をしており、その素性は一目で知れる。スキンヘッドの運転手がルームミラー越しに新田と僕を見遣って、やや困惑気味に口を開いた。

「こんな場所で待ち人たぁ誰かと思いやしたが、そのガキですかい若頭。連れて行くんで?」

「そりゃそうだろお前、でなきゃ何のためにいい歳こいてブランコ漕ぎながら待ってたんだっつの。言っとくが童心に帰りてぇとかそんな理由じゃねえぞオイ」

「はぁ、あっしもそいつは承知してますがねぇ。しかしまぁ、何でまた」

「そりゃあアレだ、こいつにゃ立ち会いの権利ってモンがあるからなぁ。いや、権利っつーかむしろ義務かねぇ? きひひっ、ま、んなこたぁどうだっていいんだがよ。とにかくさっさと出せや、ウダウダ喋っててパーティーに間に合わなくなった日にゃ、お前アレだ、東京湾へご招待だぜ?」

 ニヤニヤと不真面目に笑ってこそいるが、新田にしてみれば単なる脅しや冗談で済ませる気はないのだろう。それが分かっているのか、運転手は心持ち青褪めた顔でアクセルを踏み込んだ。スモークガラス越しに褪せた色彩の街並みが流れ始める。新田は座席に悠然と背を預けながら、上機嫌な調子で口を開いた。

「なぁ、ノブナガよ。こいつはさっきの話の続きなんだがな」

「……」

「アレだ、人生にゃ刺激が必要って話だよ。で、俺の場合、そいつは他人の不幸やら絶望やらってな訳だ。クソみてえな人生のどん底で這いずり回ってる連中を眺めてねえと、どうにも落ち着かねえんだよなぁ。きひひ、そういう意味じゃノブナガ、お前は本当に最高だったぜ? お前ほどイイ目をした奴は他にゃいなかった。運命の出逢いに感謝ってなもんだ。つーかぶっちゃけるとよ、俺ぁあの馬鹿女よりはよっぽど、お前の方が気に入ってたくらいなんだぜ」

「……」

 窓の外を、紅い風景が流れていく。車は住宅街を抜けて、南へ向かおうとしているらしかった。

「でもよぉ、どうにも最近は駄目なんだよな。お前の目、死に切れてねえんだよ。生きてるってほど輝いちゃいねえ癖に、みっともなく何かにしがみついて息を保ってやがる。それじゃ駄目だ、そんな中途半端に浮き上がってこられちゃ見てて面白くねぇ。――っつー訳で、だ。お前にはもっかいどん底まで落ちてもらおうかと、まあそう思い立った訳だ」

 ガタン、と車体が跳ねた。石か何かを踏んだのかもしれない。運転手の男が叱責を恐れる目でルームミラー越しの視線を新田に向けたが、新田は取り合う様子もなく、僕を見ていた。怖気の走るような満面の笑みを浮かべて――僕を、見ていた。

「楽しみだなぁノブナガ。ああ、楽しみで仕方ねえよ。これからお前がどんな顔を見せてくれるのかと思うと、俺は笑いが止まらねえよぉっ! きひひ、きひひひひっ!」

 おぞましい悪意の哄笑が、車内に満ちる。

 不意に僕は、自分の身体が震えている事に気付いた。これまでどれ程の暴力を受けても反応一つ示さずにいられた肉体が、怯えている。――いや、身体ではない。迫り来る絶望の巨大さを感じ取り、正体の判らない恐怖に震えているのは……僕の、心。

 なんだ? 僕は、何を予感している?

 一体何を思い浮かべた? 此処に至るまでの新田の言動から、いかなる未来図を思い描いた?

「……着きやしたぜ、若頭」

「おう、ご苦労さん。場所間違ってねぇだろうな? もしミスってやがったら、どっかその辺で消波ブロック背負ってダイビングさせちまうぜ、ん? おう、大丈夫みてえだな。んじゃ……さぁーて坊主、いよいよお待ちかね、楽しい楽しいパーティーの会場にご到着だ」

 無理矢理に押し出されるようにして車外へ降り立つと、生温い潮風が肌を撫でた。濛々と立ち込める薄灰色のスモッグに視界が限定されているが、恐らくは近場に海があるのだろう。眼前の光景から推測すれば、現在地は川神市南端に位置する重工業地帯の何処かで――新田達の目的地は、僕の目の前に佇む、打ち棄てられ錆付いた廃工場。紅く夕日に染め上げられた外観が、嫌でも不吉な予感を誘った。入口付近には、僕達が乗ってきたセダンの他にも数台の車が駐車されている。

 新田は再び僕の腕を掴むと、眼前の工場へ向けて歩き始めた。入口の傍には組の構成員と思しき黒服が二人立っており、新田の姿を視界に収めると、同時に顔を強張らせて深々と頭を下げた。新田は鷹揚な態度でそれに応えると、二人の横を通り過ぎ、無造作な足取りで先へと進む。僕もまた新田の腕に引き摺られるようにして、工場へと足を踏み入れた。

「……」

 廃棄されてから相当の年数が経過しているらしく、工場の内部はかつての面影を何処にも見出せない程に荒れ果てていた。撤去されないままの瓦礫や廃材が床に散乱し、天井の所々で錆びた鉄骨が剥き出しになっている。作業用のテーブルの上には原型を留めていない工具が転がり、降り積もった埃が層を成している。

 そして――そして、そして――、

 そして……それだけだ。此処には、空々しい荒廃だけがある。他のものは何も無い。

 注視に値するような何物も、この場には存在しない。


――本当に?


 またしても、声が聴こえる。

 恐ろしいほどに醒め切った囁き声が、頭の中で反響する。


――嘘を吐くな。本当は、気付いているんだろう?


 淡々とした疑惑の声は、何時まで経っても鳴り止まず。


――いい加減に認めろよ。今更、誤魔化せるとでも思ってるのか?
 

 追及の声は幾重にも折り重なって、脳内を掻き回す。


――お前は最初から、“それ”しか見ていない癖に。


 吐き捨てるように言い残して、正体不明の声は消えた。

 
 途端、頭痛にも似た奇妙な感覚が同時に消えて、視界がクリアになる。

 靄の掛かっていた様な曖昧な思考が晴れ渡る。頭脳が常の如く明晰に働き始める。


 そうして、僕は。

 
 眼前の現実と、向かい合う。



「ら、ん」



 意識を失い、手錠に戒められ、柱に括り付けられた、掛け替えの無い親友の姿を。

 
 いかに眼を逸らしても、決して逃がしてはくれない無慈悲な現実として、認識する。

 
 そして、僕は悟った。

 
 今まさにこの瞬間、幸福な夢が終わりを告げて――最悪の悪夢が、幕を開けた事を。











 




 次話にて過去編は完結。
 過去編、特に次話は原作の雰囲気とは掛け離れた陰惨な話で、読者の皆様が求めている内容とは食い違っているかもしれませんが……この章は物語の根幹を担う重要な部分でもありますので、宜しければ最後までお付き合い頂ければ幸いです。それでは次回の更新で。


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