『全校生徒の皆さんにお知らせです。只今より第一グラウンドにて決闘が行われます。内容は武器有りの戦闘―――』
現在時刻は八時二十五分。2-S教室のスピーカーより響いたアナウンスを受けて、生徒達の視線が一斉に俺と蘭の方を向いた。誰も口には出さないが、その呆れと感心の入り混じった目は「またお前らか」と雄弁に語っている。
まあ実際、ここ最近に俺達が原因となって巻き起こった闘争の数々を思い返してみれば、そのように思われても致し方の無い事ではあった。例え俺自身が動かずとも、第一学年征圧を命じてあるねねの奴は常に活発に行動を続けているので、結局のところ学園で繰り広げられている決闘の大半は織田主従絡みであるのが現実だ。今しがたのアナウンスにしても、心当たりはないがどうせまたねねが暴れているのだろう――と俺自身が納得していた位である。
『――対戦者は2-F所属、川神一子と。えー、同じく2-F所属、クリスティアーネ・フリードリヒ。見学希望者は第一グラウンドに集合して下さい』
しかし、意外にも俺を含む2-S総員の予想は外れて、挙げられた名前は隣のクラスの二人であった。思いがけない対戦カードを提示され、生徒達は顔を突き合わせてざわめき声を上げる。元より有名人の川神一子の名もさることながら、大多数の生徒達の関心はその対戦相手の方に向けられていた。
クリスティアーネ・フリードリヒ――ドイツから転入してきたらしい彼女が無駄にインパクトの強い登場を果たしたのは、つい数分前の出来事である。その印象は2-S生徒の頭に否応無く強烈に焼き付いている。そんな彼女が決闘に臨むとなれば、嫌でも興味を抱かざるを得ない。
「おやおや、転入早々に決闘とは穏やかではありませんね。また随分と好戦的な」
「トーマ、きっとヨソの星からやってきた戦闘民族なんだよ。金髪ってことは~、スーパーサヤイ人だね!僕ワクワクしてきたぞ!ねー天さん」
「天さんをハゲの代名詞っぽく扱っちゃいけません!ユキよ、あんまり人様の外見的特徴をネタにしてるとだな、全国の同志諸君から太陽拳を食らう羽目になるぞ。俺含め」
「おー。光が互いのハゲ頭に反射し合ってパワーアップするのか、見たい見たい!あはは、ハ元気玉だね~」
「ハゲのみんな!俺に元気を分けてくれ!って何言わせてんだよチクショウ」
今日も今日とてこの三人組は仲睦まじい様子だった。中に混じりたいとはどう頑張っても思えないが。
「つーかいくら何でも決闘は早すぎだろオイ。なんだってんだ、あの転入生……挨拶と同時にいきなり喧嘩でも売ったのか?信長でもそこまではしなかったってのに。うん、多分、そうだった、よな……?」
「何を惑っている、準。転入の際、俺は然様に喧嘩を売った記憶は無い。常と変わらず振舞ったのみよ。……出逢って僅か数分では、決闘にまで至る因縁を築くは不可解であろう。対戦相手が川神一子である事を考慮すれば――奴の側からフリードリヒへ仕合を申し込んだと考えるが道理。くく、恐らくは“転入生歓迎の可愛がり”と云った処か」
武神・川神百代の妹、川神一子。彼女が学園内において姉に負けず劣らずの有名人である理由は、周囲の誰からも好かれる性格と容姿だけではなく、目を付けた相手に片っ端から勝負を挑むという彼女の習慣が大半を占めている。思えば2-Fと織田主従の激突の直接的な切っ掛けとなったのも、そうした彼女の武人としての在り方であった。
「フン、野蛮な犬っコロの考えそうな事じゃな。所詮、気品に欠ける庶民は新入りを遇する礼も知らぬらしい。全く、ああはなりたくないものじゃ」
侮蔑の念をありありと表情に浮かべながら高慢に吐き捨てた心に対し、2-Sクラス委員長、九鬼英雄は腕を組んで目を瞑ったまま、静かな凄みを込めた声音を発した。
「おい庶民。王者の慈悲にて今回だけは見逃すが、それ以上は口にせぬ方が身の為であるぞ。天上天下の何者であろうが、一子殿を侮辱する事はこの我が許さん。平穏無事な日常においても己を磨く事を怠らず、敗北にも挫けず立合いを積み重ねて経験を糧と成す。その真っ直ぐでひたむきな在り方、まさに万人が範とすべき尊さではないか!」
「生憎、此方に理解できるのはお前の趣味が悪いという事だけじゃな。何を好き好んであのような犬を――ぐえっ!?」
「は~い、次に余計なこと言ったらもれなく首の骨がバッキバキですよ~。くれぐれも気を付けて下さいね☆」
音も気配も無く背後に立ち、万力の如き握力で首を締め上げている忍足あずみ(職業・冥途)のにこやかな警告に、心は涙目でコクコクと何度も頷いた。アレは怖かろう。幾度も抜き身の鋭利な殺気を叩き付けられた身の俺としては、同情を覚えざるを得ない。これに懲りて心が「口は災いの元」という至言を学習することを願っておくとしよう。日本三大名家とのコネクションとクラスメートを同時に喪うのは非常に哀しむべき事なのだから。
「さて、こうしてはおれん。愛しの一子殿が闘いに臨むならば、我は迸る想いを声援に乗せてお届けせねばなるまい!フハハハ、全速力で決闘場へと赴くぞあずみ!」
「了解いたしました英雄さまぁぁっ!私は先行して特等席をご用意しておきます☆」
キャピキャピと英雄以外の誰が見ても作った口調で言い終えた途端に、あずみは一瞬にして影も形も残さず教室から姿を消した。いやはや、この川神学園には常識を嘲笑う人外が溢れているが、あのメイドはそんな人外連中の中でも群を抜いて人間離れしている。流石に他の面子より十年ほど歳を食っ――いや余計な事は考えるまい。言うまでもなく口は災いの元だが、この学園では単純に口を閉ざしただけでは安心出来ない。密かな思考すらも時には災いの元となるのだ。改めて考えてみれば実に恐ろしい話である。
「ふふ、相変わらず英雄は川神さん一筋ですね。障害は数多いでしょうが、友人としては是非とも成就させて欲しい恋です」
「くく、彼奴に望みが在る様には思えんがな。意を遂げる未来など、現状では夢物語の如しであろうに」
通学路にて幾度となく繰り広げられる猛アタックの光景を傍観していれば一目瞭然である。九鬼英雄は川神一子に惹かれているが、同時に九鬼英雄は川神一子に引かれている。端的に言えばそういう事だった。ただでさえ個性が強烈過ぎて傍に近寄らせたくないタイプだというのに、英雄は引く事を知らず常に押しに押しまくっているのだから、距離を置かれても無理もない。押して駄目なら引いてみろ――そんな恋愛通たる冬馬の忠言にも、「王者たる我に後退の二文字は無い!我が恋にあるのはただ前進征圧のみ!」などとネジの外れた戯言をほざいている始末だ。
いつまでもあの調子が続くならば、残念ながら我が自慢の幼馴染たるタツこと源忠勝には勝てないだろう。何せ同じ孤児院の出身という事で距離の近さは十分、もはや語るまでもなく当人の魅力も十分、まず間違いなく甲斐性も十分。家族同然の関係から脱却し、異性として意識させる事さえ成功すれば、後は自然と仲が発展していく事に疑いはない。
というか正直に言えば、そうなって欲しいというのが俺の秘かな願いである。英雄は決して悪人ではないし、我が王なりと豪語するだけあって器の大きさと能力の優秀さは本物だ。キャラの濃さにさえ目を瞑れば美点も数多く見えてくるのだが、しかしやはり十年来の親友の恋を応援したくなるのが人情というものであろう。
昔から、俺はどれほど、忠勝の存在に救われてきたことか。もう一人の幼馴染が“死んだ”時、忠勝が傍に居なければ、織田信長は終わっていたかもしれなかった。俺を現世に繋ぎ止めてくれた恩人でもある親友には、是非とも幸せを掴んで欲しい。
「オイオイ信長、やっぱオジサンのありがたーい話ちゃんと聴いてなかっただろお前。いいか、大事なのは諦めずにアタックを繰り返す事なんだよ。何回飲みの誘いを断られようがな、諦めたらそこで試合終了なんだよ!……あー梅子先生と飲みに行きてぇー。酔っ払って前後不覚になった梅子先生を介抱しながら家まで送りてぇー」
「最悪じゃなこのヒゲ!全く、このような欲望ダダ漏れのケダモノを教師に、しかも選ばれしクラスたる2-Sの担任として据えるとは、学長はどういう了見なのやら。理解に苦しむのじゃ」
教卓にだらしなくもたれ掛かりながら不純なぼやきを漏らす担任教師・宇佐美巨人に、心は大仰に溜息を吐いて見せた。
「そりゃーアレだ、俺の内に秘められた銀八先生ばりの名教師オーラを見出したんだろうよ。つーか花の女子高生が欲望なんて生々しい言葉使うんじゃねーよ。お前、好きな相手とデートしたいとか思わねーの?手ェ繋いだり一緒に弁当食べたりしていちゃつきたいとか、綺麗な夜景を見下ろしながらキスしたいとか、そーいうピュアピュアな純情も欲望って言っちまうワケ?その辺どうなのよ」
完全に論点をすり替えた詭弁だったが、心はやはりと言うべきかその辺りには気付いていない様子で、見事に言葉に詰まっていた。
「う、こ、高貴なる此方に釣り合いの取れる男なぞおらぬ故、そんなモノは此方には関係の無い話なのじゃ!」
「へぇ。釣り合いの取れる男、ねぇ。オジサンの老眼でもウチのクラスにいるように見えるんだがな。日頃の態度を見てる限り、それはお前自身も認めてるんじゃねーの?」
巨人はいかにも意味ありげな笑みを浮かべ、こちらを見遣りながら飄々と言う。心も同様にチラリと俺の方へ視線を寄越したかと思うと、何やら慌てた調子で目を逸らし、キッと眦を吊り上げて巨人を睨み付けた。
「そ、それとこれとは話が別であろう!朋友は朋友、それ以上でも以下でもないのじゃ。無粋な勘繰りをするでないわ!」
「あ~、男女間の友情とか信じちゃうタイプね。ま、そんくらいの年にはありがちな勘違いってヤツだな。ああ若い、若いねぇ」
大袈裟に溜息を吐いて見せる巨人に心は顔を赤くし、尚も反論の声を上げようとしたが、依然として口元から消えないニヤリ笑いに怯んだかの様に口を噤んだ。そのまま何やら居心地が悪そうに縮こまっている心の姿に、巨人は笑みを益々広げて、半笑いの表情のまま言葉を続ける。
「コイツは余計なお世話かもしれないがな、人生の先輩としてアドバイスするとだ――」
「そろそろ口を閉ざすがいい。これ以上、貴様の下らぬ言に耳を傾ける気にはなれん故」
いい加減に色々と鬱陶しくなってきたので、ドスを利かせた声音を教壇へと放つ。
全く、黙って聞いていれば、当人を目の前にして好き放題言ってくれるものだ。織田信長としては無関心に無視の姿勢を貫いても良かったのが、他ならぬ俺自身の感情として、他者との関係性を面白可笑しく話題に挙げられるのは御免だった。少しばかり真剣な殺意を込めた眼光を以って、その意を知らしめる。突如として真冬の如く冷え込んだであろう空気に、巨人は表情を引き攣らせながら口を開いた。
「おー怖っ、……オイオイ、これは生徒とのちょっとしたコミュニケーションだぜ?別に喧嘩売ってる訳じゃねぇんだ、平和な教室に“そっち”の空気を持ち込むのは勘弁してくれよ。ったく、言論の自由はどこにいっちまったんだか」
「ふん。然様なものは、何処にでも在る。但し、自由には常に責任が伴うが、な。己が命を以って代償と為す覚悟が在るならば、“自由”に舌を動かせば良かろう。くくっ」
「はぁやれやれ、生徒が担任を恐喝するとか世も末だぜ……どんな学級崩壊クラスだっつの。学長のスカウトのセリフ曰く、俺の担当するクラスは“曲がりなりにも優等生揃いで手は掛からない”ハズなんだがな。どいつもこいつも曲がり過ぎで原型留めてない上に、トドメによりにもよってお前が転入と来たもんだ。本当に誤算もいいところだぜ、ったく」
巨人は頭痛を堪えるようにこめかみを抑えながら愚痴る。俺としても共感出来なくはない嘆きだったが、しかし同情する気になれないのは単に人徳の為せる業だろう。忠勝には養父を反面教師として本物のナイスミドルを目指して欲しいものだ。
「ま、とにかく、別にオジサンは生徒の人間関係に口出しする気はないんで安心しろ。お前らは若者同士で存分に青春を謳歌しときゃいいだろうさ。俺には難攻不落の鉄壁要塞を攻略するという重大な使命があるからな、ガキの恋愛ごっこに付き合ってる暇はないの。ってなワケで見てろよお前ら、今日こそ俺の口説きテクを披露してやるから」
「宇佐美さん、どうかご無理だけはなさらないようにして下さいね。宇佐美さんの心が傷付くと、私もタッ……、忠勝さんも悲しいですから」
他意など欠片も無いであろう、百パーセントの善意と慈愛に満ちた蘭の言葉に、巨人は思わずと言った調子で目頭を押さえた。
「ああ、蘭ちゃんはイイ娘だよホント。でもその優しさが傷口に沁みるんだよなコレが……。それと蘭ちゃん、宇佐美先生、な。ここ学校だから」
まあヒゲ呼ばわりよか万倍マシだけどな、とやるせなさそうに呟く巨人の背中には中年の悲哀が漂っていた。将来的にこうはなりたくない、という具体的な危機感を教え子たちに抱かせるその姿は、教師としては模範的と言うべきなのかもしれなかった。無論、“ある意味”という前置きが付くのは言うまでもない。
その時、ふと後方からの視線を感じた。すわ曲者か、とばかりに、軽く首を捻って振り向くと、最後列の席からじぃっとこちらを見つめていた人物の正体は、不死川心であった。俺が気付くという事は当然ながら向こうも気付くという事で、幾つもの席を挟んで目と目が合い、視線が重なり合う。心は何やら気難しげな顔を数秒ほど見せた後、ぷいっ、と俺の目から逃れるように顔を背けた。
「……?」
理解の及ばない不可解な振舞いに心中で首を捻るものの、答えは杳として知れない。女心と秋の空、とは世間の常識らしいが、まさにその通りであると実感する瞬間だ。
しかし、“ガキの恋愛ごっこ”、か。恋愛。恋に、愛。
それは、真剣に考えてみた事すら無い概念だ。他者の事ならばともかく――自身の問題となれば、俺には些かばかり、荷が重い。余計な荷物を背負い込める程の余裕は、今までの俺にはなかった。
幾ら考えても判然としない事物に時間を費やすのは無益――冬馬がにこやかに話し掛けてきたのを契機に、俺は不毛な思考を打ち切った。
「さて。川神さんと転入生との決闘の件、私たちはどうしたものやら。英雄は今頃、観客席の最前列を陣取っている頃でしょうが……あなたはどうするつもりですか、信長?」
冬馬の問い掛けを受けて、俺は無表情の内側で思考を巡らせる。とは言っても、その問いに対する回答は、校内アナウンスにて対戦カードを告げられた時点で、既に九割方は決まっていた。
数瞬を待たず脳内にて最終決定を下すと、俺は悠然と席を立ち、傲然と口を開く。
「些か、興が乗った。いずれ俺の征するFクラスの新顔――どの程度の者か見定めるのも、退屈凌ぎにはなろう」
「それまで!!――勝者、クリス!!」
観戦に来ておいて、良かった。
このような闘いを見せられては……心の底から、そう思わざるを得ない。
「うおぉぉぉ、凄ぇっ!スゲー試合だった!」
「ぶっちゃけ何が起こったのか分からなかったけど、レベル高いバトルだったぜ!」
決着に湧くギャラリーの最前列にて、俺は数分前における自身の判断を称えていた。
俺が2-Fの外国人転入生へと注意を向けていた事に確たる根拠はなく、言うなれば単なる直感に従った判断だったが……勘というものも存外頼りになる。クリスティアーネ・フリードリヒは俺の想像を超えて警戒に値し、注意を払うべき実力者であった。その戦闘スタイルを先んじて観察出来た事は疑いなく貴重な収穫であると言えよう。
薙刀という得物を携え、ほぼ十全の実力を発揮した川神一子を、彼女は真正面から破った。それも――僅か、二撃の下で。
牽制に、一撃。決着に、一撃。川神一子の読み違いによる自滅という側面は少なからずあるが、しかしそれにしても、養子とは云え“川神”の娘を下すに、只の二撃を以ってするなど、論じるまでもなく並大抵の武人には不可能な真似事である。
観衆から投げ掛けられる勝者を称える歓声に驕るでもなく、生真面目な表情で凛と背筋を張って佇むクリスティアーネの手元では、細身の刀身と尖った先端を特徴とする片手剣の刃が、降り注ぐ陽光を反射して煌いている。レイピア――主に中世ヨーロッパにおいて決闘や護身に用いられた刺突剣で、その機能・用途は“突く”という一点に集約されている。そのような武器の在り方からも想像出来るように、彼女が決闘の中で放った二撃は、何の小細工も含まれない、ひたすらに真っ直ぐな突きであった。
「蘭」
「はっ」
「如何見る?」
「只一度の立ち合いを観ただけでは、未だ全貌を推し量るには到りませんが……目を見張るべき手練ですね。まず間違いなく、ここ川神学園の中でも屈指の実力者――討ち斃すのは容易ではないと愚考する所存です」
武人としての真剣な表情を覗かせながら、蘭は鋭い眼差しを転入生へと向けている。百戦錬磨の戦士たる我が懐刀の観察眼は、俺よりも遥かに多くの情報をこの一戦から読み取った事だろう。故に、その口から語られる言葉は決して無視出来ない重みを伴っている。
「まさに疾風迅雷、或いは電光石火。彼女の剣閃は、生半可な守勢など一瞬を待たずして貫き通すでしょう」
蘭の評価を大袈裟だと笑い飛ばす事は、俺には出来ない。
そう、“突き”だ。決闘において転入生が披露し、俺達の胸に警戒心を植え付けたものは――あくまで、只の刺突だった。目を見張るような巧みさは特になく、工夫を凝らした派手さもない。だが、その常軌を逸した“迅さ”は、ただそれだけで凡百の奥義を凌駕する脅威を彼女の一撃に付与していた。
氣による恩恵こそ得られずとも、釈迦堂刑部の下で過酷な修行を積み、まず間違いなく人並み以上の回避能力を会得した俺ですらも……初見では彼女の刺突を捉える事は出来なかった。勝負を決めた二撃目ではどうにか捕捉出来たとはいえ、それも所詮は微かに視えただけの事だ。いざ回避、となればどう足掻いても身体の反応が追いつかないだろう。躱し切れず、白銀の刃に串刺しにされる無残にして無様な未来がはっきりと見える。
「……」
あくまで単純な“突き”の速力に話を限定すればの話ではあるが、恐らくはあの怪物一家の長女たる板垣亜巳の棒術をも超えている、か。森谷蘭を唸らせる、圧倒的な攻撃能力。何ともまあ、途方もない人材が現れたものだ。川神学園という人外の巣窟にまたしても新たな人外が加わってしまった。それも有難くない事に、将来的に再び激突する事が決定している2-Fクラスの一員として、である。
「やるわね……アタシ達はアンタを歓迎するわ!」
一子が敗北の悔しさを吹っ切った清々しい表情で、屈託を窺わせない朗らかな調子の声を掛けると、その一言を皮切りにして、周囲を取り巻く2-Fメンバーからクリスティアーネに対する賞賛の声が次々と上がった。
「強かったんだね!すごいすごい!」
「骨のあるヤツだ」
「カッコ良かったぞー!」
「健闘を称えて拍手ですー。ぱちぱち」
「というワケで、改めてよろしくね!」
2-Fの面々より投げ掛けられる温かい歓声と、屈託のない一子の言葉を受けて、クリスティアーネは嬉しそうに顔を綻ばせた。
「ああ!こちらこそ、よろしく頼む!」
思えば彼女は海を隔てた遠い異国から訪れた転入生の身、人種という壁を超えて周囲に溶け込めるだろうか――と不安を覚えていない筈も無かったのだ。クラスメート達の歓迎の言葉に対して、心の奥底から湧き出たような綺麗な笑顔が何よりの証拠である。かくして少女は2-Fクラスの一員として、希望に満ちた新たな学園生活をスタートさせるのであった……と言ったところか。爽やかな青春風景を冷徹な無表情で眺めながら、俺は醒めた思考を巡らせていた。
2-Fクラスは、織田信長の眼前に立ち塞がる障害物。故に、彼女が2-Fと親しみ、集団の一人として馴染んでいくと言う事はつまり、イコールで織田信長と敵対する道を選択する事に他ならない。このまま色々な物事が順当に推移すれば、将来的には必ず衝突する事になるだろう。
否、そうでなくとも、だ。
そのように細々とした理由付けなど無関係に――恐らく、俺達は拳を交え、刃を交わす。
何故と問われれば、答えに窮する。万人に筋道立てて説明出来るような明確な根拠も理由も不在なのだから。しかし、それは既に確実な未来図として俺の脳裏に描かれていた。
そして。
あたかもその予感を裏付けるかの如く――今まさにクリスティアーネの碧眼が、射抜くような鋭さを以ってこちらへと向けられていた。果たしてどのタイミングで俺の存在を認識したのかは定かではないが……まあそれはどうでもいい。武に通ずる者であれば、遅かれ早かれ織田信長という異常な氣の保有者を意識するのは道理なのだから。
肝心な事は唯一つ――彼女の、目だ。透き通る湖水を思わせる、西洋人特有の碧眼。
恐れも畏れもなく、只真っ直ぐに俺を見据える双眸に宿された“色”。それは俺にとって、随分と懐かしいと形容すべきものだった。埋もれた記憶を強烈に刺激せずにはいられない、純粋で清廉な色彩。
だからこそ、俺は確信を持って断言できる――其処に内包された気質は、織田信長とは相容れない。昔日ならばいざ知らず、今となっては、絶対に。
「くくっ」
視線が交錯していた時間は僅か数瞬。
俺は口元を歪めつつ、すぐさま踵を返し、騎士の如き凛々しい立ち姿に背中を向ける。
今はまだ時期ではないが、来るべき闘争は避けられまい。その事実を明確に認識出来ただけでも、決闘の見物に足を運んだ意義は在った。織田信長にとって最も必要なものは、何時でも事前の準備……即ち情報と覚悟、である。
「所用は充分に果たした。もはや此処に留まるは無意味。往くぞ、蘭」
「ははーっ!信長様の御心のままに!」
尚も背後から突き刺さる鋭い視線を感じながら、俺は熱気冷めやらぬグラウンドを立ち去った。
「では、案内をよろしく頼む」
「ああ。俺は直江大和、同じ寮の一階。よろしく。責任持って案内するんで、任せてくれていいよ」
放課後、それもホームルームを終えた直後の廊下は今まさに帰宅ラッシュの真っ最中で、多くの生徒達が賑やかに喋りながら下駄箱へと向かっている。そして今、2-F教室から二人の生徒が並んで姿を現し、その流れへと合流した。一人は特筆するほどの個性はなく、強いて言えば小賢しいと評される事の多い目付きが特徴的な男子生徒。そしてもう一人は、日本人がしばしば憧れの的として神聖視する金髪碧眼の女子生徒。国際化の進む現代、単に外国人と言うだけならばさほど周囲の注目を集める事は無かっただろうが、生憎と少女は只の外国人ではなかった――2-Fの誰もが一目で認める程の美少女である。ファッション雑誌でモデルを務められる容姿の持ち主たる小笠原千花すらも例外ではないのだから、そのレベルの高さは推して知るべしだ。転入生・外国人・美少女、とこれだけの要素が揃ってしまえば、好奇心旺盛な年頃の学園生達から興味と関心が向けられるのは当然だった。
そんな少女の名はクリス。本名はクリスティアーネだが、当人がそう呼んで欲しいと希望しているとの事で、2-Fの皆の間での呼び名はクリスで定着していた。そして今現在その隣を歩いている少年は直江大和、彼女と同じく2-Fの所属である。
「大和、か。日本国の異称、“大和”の字……とても良い名だ。それに、大和丸夢日記の主人公と同じ名前だな」
「ああ、俺もそれ見てたよ。面白い時代劇だよね」
「――っ!自分はあのシリーズのDVDを全部持っている!」
大和の何気ない相槌に対し、クリスは想像以上の食い付きを見せた。よほどこの話題を共有できる相手を望んでいたのか、活き活きと弾むように言葉を連ねる。
「強く、義理堅い。自分はあの時代劇を通じてサムライの素晴らしさを学んだ――武士道の掲げる“義”に自分は憧れたんだ」
どのような種類の人間を相手にしても円滑に会話を進められるよう、大和は趣味に関して基本的に浅く広く、を心掛けている。本当の意味で拘りを持っていると断言出来るのは、ライフワークたるヤドカリ飼育だけである。故に、大和丸夢日記に関しても熱心なファンと言う訳ではなく、あくまで複数存在するシリーズの一つを見ただけなのだが、それでも振られた話題を拾うには十分だ。まさかドイツ人との交流に役立つとは想定していなかったが、何が幸いするか分からない――と大和が日頃の成果を再確認していると、クリスは不意に心底から嬉しそうな笑顔で言い放った。
「――と言う訳で、自分は大和が大好きなんだ!」
「え!?あ、じ、時代劇のキャラクターの話か」
「――あ!も、もちろんそうだ。ご、誤解を招いてしまった。すまない事をした」
カァァ、と顔を紅く染めて慌てながら恥らう様子は、普段の凛とした雰囲気とのギャップも相まって、何とも言えず可愛らしかった。廊下を歩く男子生徒達が揃って羨望と怨嗟の視線を送ってくるのも道理である。
京が近くにいなくて良かった、と大和は秘かに胸を撫で下ろしていた。クリスの不意打ち気味な仕草に思わず心臓が跳ねた事など、あの幼馴染の鋭過ぎる観察眼に掛かれば一瞬で看破されていた事だろう。……まあ、それはともかく。
「そんな事ないよ。むしろ同じ名前で得したな」
実際、それは嘘偽りない本心だった。おどけるような調子で言う大和に、クリスは朱色の余韻を残した頬を緩めて、穏やかに微笑む。しかしこれは役得だな、と大和は改めて案内役に抜擢された自身の幸運を噛み締める。学園の誰よりも早く美少女転校生とお近付きになれる機会を得られたのだ、ここは健全な男子高校生として喜ばなければむしろ奇妙と言うべきだろう。
――発端は、HRにて放たれた担任の鬼小島こと梅子先生の一言だった。
『あぁちなみに、クリスは島津寮へ入寮する事になっている。お前たちで面倒を見てやれ』
島津寮は風間ファミリーの一員たるガクトの母親、島津麗子が経営している学生寮で、大和もまた入寮者の一人だった。他の面子としては同じくファミリーの風間翔一、椎名京。次いでクラスメートのゲンさんこと源忠勝。そして最後の一人は一年生の黛由紀江という挙動不審な少女。
要はこの中の誰かがクリスと一緒に下校し、彼女を寮まで案内する必要があったのだが、翔一と忠勝は折悪くバイトのシフトが入っており、京は近頃になって本格的に部員として復帰を果たした弓道部の活動で時間が取れない。学級どころか学年の異なる一年生に案内させるのも理に適っていないだろう、という事で、放課後は毎日がフリータイムな帰宅部所属・直江大和にお鉢が回ってきた訳だ。
そのような経緯を経て現在、大和は周囲の様々な念の込められた視線に晒される中、クリスを伴って校内を歩いている。美少女転入生を紹介して欲しいという下心に駆られて親しげに話しかけてくる、知り合いの男子生徒の群れを適当にあしらっていると、クリスは感心顔で口を開いた。
「しかし、大和は友達が多いな。先ほどから何度呼び止められたか……お陰で、転入初日でずいぶんと知人が増えた。ありがとう」
「俺はあんまり関係ないって。クリスが凄く綺麗だから皆お話したいのさ」
「ふふ。大和は父様のようなお世辞を言う」
互いに話題を切らす事もなく、良い雰囲気で会話を交わしながら校内を一通り案内すると、いよいよ帰宅部の本格的な活動を開始すべく下駄箱に向かう。
数分を待たずして辿り着いた学園の玄関口にて、大和は思いがけないサプライズに遭遇した。
「あれは、父様?噂をすれば、とは言うが……なぜ」
首を傾げるクリスの視線の先には、一人の男性の姿があった。学園内において何故か軍の将校服を身に纏い、傍目にも物騒な雰囲気を周囲に発している初老の男――わざわざ言うまでもなく不審者である。下駄箱を利用する生徒達は何事かと目を見張り、得体の知れない男を刺激しないよう息を潜めて靴を交換している。
そんな扱いもまるで気に留めず、と言うよりもそもそも気付いていない様子でひとり眉間に皺を寄せて佇み、思考に沈んでいた男は、しかしクリスを視界に収めた途端に顔を輝かせた。先程までと比較するといっそ不気味な程に口元が緩み、目尻が垂れ下がっている。そのままの笑顔を保ったまま、男はクリスへと歩み寄った。
「おお、クリス!今日もバルト海のように美しい。どうやら今日の授業は終わった様だね。川神学園の初日はどうだった?」
「はい、父様。クラスの皆も良くしてくれていますし、何も問題はありません!」
クリスが裏表のない笑顔で朗々と報告すると、不審者改めクリス父は眦を下げて、「それは何よりだ」とにこやかに頷きを返した。
「あの、父様――今日は軍務で忙しいとの事でしたが、何故ここに?」
「ああ……実はこの学園の事で少しばかり気掛かりな件があったのでな、改めて学長と話をしたかったのだよ。軍務の方はスケジュールを前倒しして急ぎ片付けてきた。全力を使ったのは久しぶりだ、お陰で少し疲れてしまったよ」
「くれぐれも無理はしないで下さい、父様。多くの人の上に立つ父様が倒れでもしたら、皆は道を見失って惑ってしまいます。それに、何よりも自分は、父様のお身体が心配なのです……」
「ふふ、天使のように心優しい娘を得た私は、世界の誰も及ばぬ幸せ者だな。なに、心配する事はない。私にはマルギッテ少尉を筆頭に優秀な部下も数多く付いているし、そして私自身もまだまだ現役だ。クリスが立派な将校となるまでは意地でも降りる気は無いよ」
「ならば自分も、父様の期待に応えられるよう精一杯励みます。その為にも日本にいる間に、サムライの誉れ高い武士道精神を学び取ろうかと」
「うむ、流石はクリス、良い心がけだ。これは一年後の成長ぶりが今から楽しみだな、ふふ」
親子の交わす会話は温かく、終始和やかなものだった。傍で聞いている大和にも二人の仲の良さが存分に伝わってくる。親馬鹿な父親と、親孝行な娘。一歩引いて見れば、実に微笑ましい光景に映るだろう。
……本当に、親馬鹿、で済まされるレベルならば、何も問題はなかったのだが。
実のところ大和は、このクリス父とは朝の通学路、そしてHR中の教室、と既に二度も接触している。故に、彼の性格も、彼の思考回路もある程度は推察出来るようになっていた。そこから予測される今後の展開はと言えば、間違っても歓迎できるものではない。
その予想を裏付けるかの如く、ふとクリス父の視線と注意の両者が娘から逸らされる。
「ところで、――君は何故、クリスと一緒に下校しようとしていたのかね?娘に近寄る“悪い虫”は軍の総力を挙げて殲滅すると、私は確かに通達した筈だが。何か釈明があるならば急いで言った方が良い……私の引き金は軽いぞ」
潜り抜けてきた死線の数を伺わせる強烈な眼光が、クリスの隣に立つ大和へと注がれた。
同時に、否応無く背筋が凍える感覚が身体を襲う。織田信長という悪魔じみた男を相手に交渉に務めた経験を有する大和には、その感覚が何に因るものなのか明晰に理解する事が出来た。どうやらドイツ軍中将殿は今現在、ごく平凡な一般生徒に冗談抜きの殺気を向けているようである。軍人が重度の親馬鹿をこじらせるとこうなる、という貴重なサンプルが目の前にあった。
……不条理過ぎるだろ、と大和は心中で盛大に溜息を吐かずにはいられなかった。
「父様。大和は、彼は勝手の分からない自分の為に案内を買って出てくれたのです」
「こちらに越してきたばかりでは色々と戸惑う事もあるかな、と思って親切心で申し出たんですが、う~ん、誤解されちゃったかな……大体、仰る通り、俺は自分から軍を敵に回すほどバカじゃありませんので」
幸いにして、“こういう人種”との接し方については、信長との対話を通じてある程度のコツは掴んだ。威圧的な相手と言葉を交わす際は、間違ってもその圧力に呑まれてはならない。勿論、怖れずに正面から喧嘩を買えばいい、と言う単純な話ではなく、あくまで心意気の問題だ。精神面において一度でも相手の存在に呑まれてしまった時点で、もはや対等な対話は成立しなくなるのだから。
大和は丹田に力を入れて、怯みそうになる心を押さえ付けながら、動揺を押し殺した真摯な表情で相手を見返す。そんな大和の態度が意外だったのか、クリス父は興味深げな色を瞳に宿していた。
「ふむ、確かに君は己を弁えているタイプの人間の様だ。それでいて軟弱ではなく、芯も通っている、か。針金を思わせる在り方――将校向きの気質だな。そういった柔軟な要領の良さは嫌いではない」
「高名な中将殿にそう言って頂けるとは、光栄ですね」
「世辞は結構だ。……まあ君ならば、少しばかり娘を預けても問題はないだろう。ただし、クリスがいかに麗しく魅惑的でも、くれぐれも妙な気を起こさないようにしたまえ。君にも家族や友人がいるだろう?」
「ええ、それは勿論。自分で言うのも何ですが、理性には自信があります」
何せ長年に渡って、毎朝毎夕を問わず、京の過激な色仕掛けに耐え続けてきたのだ。ちょっとやそっとの事では崩れない鉄壁の牙城を築き上げた自負はある。
「ふふ。成程、どうも君とはなかなか有意義な話が出来そうだな。だが、それはまた今度の機会にしよう。今日は少し急ぎなのでね、これで失礼させて貰う。……ああ、折角の機会だ、名前だけでも聞いておこうか」
「直江大和。姓が直江、名が大和です。日本通のあなたに解説は不要でしょうけど」
「大和、か。日本国の異称とは良い名だ。覚えておこう。クリス、くれぐれも気を付けて下校するのだよ。何事かあればすぐに私を呼ぶといい、一個中隊を連れて戦闘機で駆け付けよう」
「ふふ、ありがとうございます。やはり父様は心配性ですね。私とて一人の騎士、我が身を護る程度ならば問題はありません。悪漢や辻斬りが現れれば、大和丸の如く義の下に成敗してくれます!」
相変わらずの古ぼけた日本観を嬉々として披露しているクリスを愛おしげな眼差しで見遣ってから、クリス父は校舎の中へと去っていった。
「……何というか、凄い人だね」
色々な意味で。という裏側の意までは汲み取れなかったらしく、大和の感想にクリスはまたしても明るく表情を輝かせた。
「ああ、父様は本当に凄いんだ!軍人としても個人としても目標にするべき人だ。大和は知らないかもしれないが、父様はドイツでは英雄と呼ばれる程の将校で、例えば昔年にはこんな逸話が――」
クリスは我が事のように胸を張って父親の武勇伝を語り始める。純粋な尊敬の念を感じさせる熱心な語り口には、わざわざ水を差すのも無粋だろう。大和は話半分に聞き流しながら、如才なく適度に相槌を打ってやり過ごした。人間関係を構築するに際して、ある程度のスルースキルは必須である。
クリスの語りが一旦途切れたタイミングを見計らって、大和は何げない調子で口を挟んだ。
「あ、そういえば。このまま寮まで案内するのもいいけど、折角の機会だから街も案内しようか?新しい友達と遊びに行くにしても、今の内に地理を知っておくと何かと便利だろうし」
「いいのか?それは嬉しい。では遠慮なく、よろしくお願いしよう」
無事、違和感の無い話題の切り替えに成功。
運動靴に履き替えて、並んで校舎の外へ。グラウンドにて部活動に励む生徒達の姿を横目に川神学園の正門を潜る。
その時、クリスはふと眉根を寄せて、何事か考え込むような様子を見せた。
「ん、どうかした?ひょっとして忘れ物とか」
「ああいや、そうじゃないんだ。ただ、父様の言っていた事が引っ掛かってな」
「言っていた事……確か学園内の“気掛かり”について学長と話がある、だったっけ」
「そう。それを聞いて、自分も思い出したんだ。今朝方からずっと気になっていた事を」
クリスはおもむろに後方を振り返り、校門の向こう側に広がる第一グラウンド――半日前にワン子との決闘を繰り広げた舞台へと鋭い目を向けながら、真剣な調子で言葉を続けた。
「犬との決闘の際に、ギャラリーの最前列にいた男……修羅を思わせる、尋常ならざる鬼気の持ち主だった。なあ大和――アレは、一体、何者なんだ?」
「さて、無用に時間を費やした。このままではスケジュールに支障を来す。疾く帰宅するぞ、蘭」
「はっ。ねねさんは今頃、1-S教室で待機しているかと存じます。合流しましょう」
現在地はB棟二階、2-G教室前。現在時刻は放課後。余所のクラスにて本日の所用を果たし終えた俺と蘭は、ようやっと帰宅の途に着こうとしているところであった。
耳を澄ましてみれば、引き戸の向こう側の2-G教室内は未だに凍り付いたような静寂に包まれており、喧騒の一つも耳には入ってこない。俺は僅かに口元を歪ませて、足早に廊下を歩き始めた。
「くくっ」
既に仕込みは十分、後は土日明けの月曜日にて収穫を得るだけだ。実りを刈り取るその瞬間が、今から楽しみである。2-Gの生徒には少しばかり気の毒な事になるかもしれないが、もはや織田信長の目を以って生贄として選出されてしまった以上は、大人しく諦めて貰わなければならない。これもまた必要不可欠な犠牲という奴だ。
2-S内での地盤固めはほぼ万全、2-Fとはひとまずの決着を付けた。ねねに任じた第一学年掌握もいよいよ本格的に始動するとの事で、俺の方も新たな動きを起こす必要があるだろう。現在の平和を甘受し、安穏と過ごし続ける様であれば川神学園に籍を置いた意味がないのだから。絶えず能動的に周囲を圧していかなければ付け上がる連中も出てくる――目標は全学年の掌握、その為にも二年生の十クラスを早々に屈服させねば。全てのクラスが2-Fや2-Sの如き人外魔境ではないのだろうが、それでも先は長い。例の転入生のようなイレギュラーも視野に入れていく事を考えると、容易い道程ではないだろう。
自らに気合を入れ直しながら、下駄箱を目指して歩を進める。大多数の生徒達は既に帰宅の途に着いたか、或いは各々の部活動に励んでいるかのいずれかで、廊下には人気が殆ど無い。
威圧すべき相手が居ないのは寂しい事だな、などと頭の片隅で戯れに考えていた丁度その時、下階から靴音が響き、数秒を経て階段から一つの人影が姿を現した。
「……ふむ。これはまた、運が良いのか悪いのか、判じかねる偶然だ」
その人影は俺と蘭の通行を阻むように廊下の中央に立ち止まり、静かに呟く。
「――何用だ。俺は急いでいる。道を遮るならば、排除するのみだが?」
普段同様の冷徹な声音を上げながらも、俺は内心の戸惑いを抑えられなかった。
突如として眼前に出現したのは、黒を基調とする軍服を身に纏った男だった。服の意匠を見る限りにおいては、ドイツ連邦軍の――それも将校のものだ。顔立ちから推察できる齢の頃は恐らく初老の域だが、全身に漲る精悍さと、猛禽の如き鋭さの目付きが“老い”の印象を見事に打ち消している。
と、こうして挙げた要素だけでも学園内で浮くには十分過ぎるが、しかし……俺を戸惑わせたのは、そのように些細な事ではない。
「成程。学園の何処かから随分と嗅ぎ慣れた“匂い”がしたと感じたのは、気の所為ではなかったようだな。確認のために顔を出したのは正解だったよ」
流暢な日本語で語り掛けてくるこの男、何故――俺に“殺気”を向けているのだろうか。
今まで一度も面識すら無いにも関わらず、常人ならば誰しも竦み上がるような正真正銘の殺意を、出会い頭に叩き付けてくる。どう考えても普通ではないシチュエーションだ。
流石に困惑を抑えきれず、どう対処すべきか判断に迷っている内に、事態は一気に動いた。馬鹿馬鹿しいほど急激に、唐突に。
「良く聞きたまえ。君には、二つの選択肢がある」
男が軍服の吊紐の先へと手を伸ばすのと、蘭が俺を庇うように前方へと踏み出したのは、同時。
そして――男が禍々しく黒光りする“銃口”をこちらへ向けるのと、蘭が腰に佩いている模造刀を抜き放つのもまた、全くの同時であった。
俄かに戦場の如き死地へと変じ果てた廊下に、男の淡々とした言葉が、不気味な鮮明さを伴って反響する。
「このまま校長室へと退学届を提出しに行くか、ドイツ軍の誇る特殊部隊に殲滅されるか。――望む方を選ぶといい」
まじこいSの体験版が公開されたり、いよいよアニメがスタートしたりと、何かと創作意欲を掻き立てられる今日この頃です。特に武士道プランの面々や紋様など、主にS組絡みの新面子は書きたくて仕方がないのですが……残念ながら今作には出せそうにないですね。というのも、武士道プランの開始に際して“街の闇”を一掃する、となると間違いなく信長も対象になる訳で、現時点の彼が九鬼財閥の総戦力と張り合うのは流石に無理ゲー過ぎますので。よって新面子が何かしらの形で登場するにしても、恐らくは今作でメインを張る事はないかと思われます。ご了承下さい。
原作未プレイの方は是非ともアニメを視ましょう!と宣伝しつつ、それでは次回の更新で。