「2-F所属、風間翔一!クラス代表としてお前に決闘を申し込むぜ、信長っ!!」
恐れも迷いも躊躇いも感じさせない、明朗な宣戦の言葉が、教室をしばし反響する。
その内容を、風間翔一の言葉の指し示す意味を理解し損ねたのか、2-Fの生徒達は誰もが黙り込んだ。が、それも数秒のこと。我に返ったように、彼らは一斉に沈黙を破った。
「おいおい何考えてんだよ風間!おまえアイツのヤバさ分かってねーだろ!せっかく本人が出てこないって言ってんだ、余計なこと言うなって」
「う~ん、いくら風間クンでもアレはちょっと……ねぇ。わざわざ自分から危ない橋を渡らなくてもいいのに。男の子の意地ってヤツ?そういうのアタシには理解できないわ~」
「ぐ、スイーツに同調するのは実に不本意だが……正論だ。ヒーロー気取りで勝ちを棒に振られてはたまらん。いいか、これはクラス全体の問題だと自覚しろよ風間」
「…………」
クラスメートから次々と投げ掛けられる疑問と非難の声に対し、翔一は何か言い返すでもなく、ただケロリとした涼しい顔で受け止めている。
その悠々たる立ち姿を冷然と見遣りながら、俺は心中にて盛大な舌打ちを一つ落とした。
――やはり楽には勝たせてくれないか、風間ファミリー。否、直江大和、と言うべきか?
風間翔一がこの状況下で対戦相手として俺を指名してくるという事はつまり、2-Fお抱えの軍師は気付いたのだろう。俺達の繰り広げる三本勝負の裏側に隠された、真の勝利条件……すなわち、“織田信長本人を勝負の場に引っ張り出す”という大前提に。単純な目先の勝敗に捉われることなく、風評、という戦略的要素を視野に入れて思考することが出来れば、自ずと分かる事だ。それ以外の方法で2-F側が本当の意味での勝利を掴む事は、実質的に不可能に近いのだと。俺の“手足を相手に”“一方的に有利なルールで”戦いに臨む以上、よほどの圧倒的大勝を収めない限り、ギャラリーは2-Fの勝利を正当なものとして認めはしないだろう。
それは威圧による思考誘導を利用して作り上げた、最初にして最大の罠。2-Fが勝ちを焦るあまり風評に目を向けず、そのまま突撃してくるようならば、問答無用で奈落へと誘う陥穽だ。一度発動すれば、何をせずとも勝利の栄光は勝手に俺の下へと転がり込んで来ていた。だがしかし――直江大和は見抜いた。切っ掛けは恐らく、昨日の次鋒戦。椎名京の勝利に対する観衆の冷めた反応から、彼は罠の存在に思い至ったのだろう。そして、その罠を無効化し得る唯一の手段を見事、突き止めてみせた。明敏な観察力と柔軟な発想力があって初めて可能な芸当と言えよう。……最初から無能ではないと思ってはいたが、出来るならその厄介な有能さは最後まで発揮せずにいて欲しかったものだ。
こうして看破されてしまった以上は、もはや罠は機能しない。これは、見抜かれてしまった時点で効力を失う類のトラップなのだから。
「ふん」
仕方が無い――あまり望ましい展開とは言えないが、だからと言って事前に想定していなかった事態ではない。何と言っても、織田信長は能天気な楽天家からは程遠い存在である。最悪の事態を含めた、ありとあらゆるパターンを常に計算に入れた上で策謀を巡らせるのが俺の主義だ。当然、罠に気付かれた場合の対応策くらいは用意している。
という訳で、俺は周囲に悟られないよう自然さを装いつつ、傍に控える従者へと目配せを送った。それを受けて、明智ねねはニヤリと邪悪に口元を吊り上げる。そして、事前に打ち合わせた通り――相手を限界まで小馬鹿にし切った、絶妙に腹立たしい表情を作りながら、口を開いた。
「んん~?私の聞き違いかなぁ、何やら身の程知らず過ぎて現実と思うのも馬鹿らしいような戯言が聞こえたような気がしたんだけど。……ご主人に挑む?キミが?あははは、やめてよもう!爆笑モノのジョークで私たちの腹筋を破壊しようって作戦なのかな?くふふ、随分と愉快な策を思いつくもんだね、軍師さん」
「生憎と、冗談で言ってるつもりはないよ。俺達は、真剣で信長に挑む気だ」
「ふぅん。へぇ。じゃあ……本気で、言ってるんだ?」
ねねの口元からヘラヘラした笑みが消え失せ、スゥッ、と特徴的な猫目が酷薄に細められた。怖気が走るほどに冷酷な雰囲気を醸し出しているその表情が、只の“演技”に過ぎないなどとは誰も思うまい。相変わらずの役者っぷりだ。
「場所の指定で地の利を得て、決闘方法を自在に定めて。そんな途方も無いハンディキャップを与えられておきながら、所詮はご主人の数ある“手足”に過ぎない私たち如きを相手に、一進一退の攻防を繰り広げる。そんな語るも無残な無様を晒したキミたちが、おこがましくも直接ご主人に挑もうだなんて妄言を――キミは、本気で、言ってるんだ?」
「ああ、本気も本気だぜ!俺は信長に挑み、そして勝つ!そのために俺はここに帰ってきたんだからな」
氷のように冷たいねねの言葉に怯んだ様子もなく、翔一は意気軒昂と言い返す。
「ハァ。所詮は単細胞の熱血馬鹿に、これ以上言葉を重ねても無駄かもしれないけどさ――」
「ネコ。もはや、口出しは無用。控えろ」
「…………うん。了解だよ、ご主人」
静かながらも有無を言わさぬ俺の一言を受けて、ねねは大人しく口を噤んで引き下がった。どれほど巧みに言葉を操ったとしても、風間翔一の意志を曲げる事は不可能だろう。その事実をはっきりと確認できた時点で、従者として明智ねねが果たすべき役割は終了している。ここからは主君であるところの、俺の仕事だ。
「さて、先程より黙して聴いていたが。風間翔一、貴様はどうやら戯れではなく、心底より俺との仕合を望んでいる様だな」
「おうよ、その通り!大将同士、男と男の真剣勝負だ。当然、受けて立つんだよな?」
「ふん。英雄気取りの愚者、か。その思い上がりの滑稽さには敢えて言及する価値もない。そもそもにして、俺は最初に宣言した筈だが?この勝負、俺は動かぬと。である以上、其れは即ち原則。故に貴様らは元より、俺に挑む権利を保有していないと知るがいい」
あくまで気合に満ちた態度の翔一に対して、俺は醒め切った語調で淡々と言い放つ。この言い分で引き下がってくれれば御の字だが、まあそう事が上手く運ぶ筈もないだろう。諦観半分の気分で相手方の反応を待っていたところ、その予感を後押しするように口を挟んできたのは直江大和である。
「ん~、確かにアンタは三日前にそう言ってたし、確かにそれはみんな聞いていた。ただ俺は思うんだけど、それって別に正式なルールとして明文化されてる訳でもないし、融通は幾らでも効くんじゃないかな?」
「……」
「実際、当事者の2-Fと2-S以外の生徒は、その宣言自体を知らない奴も多いと思う。となると、だ。一勝一敗で迎えるクライマックス、大将戦となれば、みんな期待してるんじゃないかな――織田信長という男が直接出てくるのを。あくまで万が一の仮定なんだけど、こうやって俺達が真正面から挑戦状を叩き付けたにも関わらず、それでもアンタが勝負に出てこなかったとしたら?そうだな、全校生徒は例えばこんな風に思うかもしれない」
流れるように弁舌を振るう眼前の男に向けて、舌打ちを飛ばしたくなる衝動を堪える。
やはりそう来るか、直江大和。俺という人間を勝負の舞台に引き摺り出す為には、どういった手段が最も有効なのか。彼は既に、正答に辿り着いていた。それ故に、その舌先から続けて放たれる言葉は、俺にとってはまさしく不可避にして必殺の一撃だった。
「――織田信長は、風間翔一との勝負から“逃げた”んだってね」
ざわり。大胆不敵な大和の台詞に、どよめきが生じる。
……やれやれ。そいつは文句なしに、最高の殺し文句だな、軍師。
これで、俺の退路は今度こそ、完全に断たれてしまった。本当に……やってくれる。
あくまで格下の相手として、傲然と見下した態度を取り続けてきた2-Fから、これほどあからさまな挑発を受けたのだ。俺自身の心中は兎も角として、生徒達の間では既に傲岸不遜の代名詞として認識されている“織田信長”が何のリアクションも起こさないのはあまりにも不自然が過ぎるだろう。周囲のイメージするキャラを俺が演じ続ける限り、この手の挑発に乗らない訳にはいかなかった。例え相手の意図がどんなに見え透いたものであっても、俺に選択肢は存在しない。
…………。
だが、それがどうしたと言うのだ?
事前に予測し得る中においての最悪の可能性。それを常に計算に入れているという事は、つまりこの事態すらも俺にとっては想定の範疇でしかない事実を意味している。
いいだろう。ならば俺は、風間ファミリーが期待しているであろう“織田信長”としての振る舞いを、全霊を以って演じさせて貰うだけの話だ。俺の思い描くシナリオを現実のものとする為に、用意された台本に沿って役柄を演じるとしよう。
「くく、くくく―――良くぞほざいたものだ、下郎」
「……っ!!」
底冷えするような重々しい声音と、凶悪な殺意の放出を以って、2-Fの叩き付けた挑戦状に対する雄弁な返答とする。凄惨な笑みに口元を歪ませ、禍々しい黒色の“気”を全身より立ち昇らせる俺の姿は、生徒達の目にはあたかも悪鬼羅刹の如く映っただろう。ヒッ、と恐怖のあまり引き攣った声にならない悲鳴が教室の各所から上がった。
「漸く興が乗った。救い難い貴様らの思い上がりを悉く滅殺するには、俺自らが腰を上げねばならん様だな」
「おお?って事はつまり、俺の挑戦を受けるって事だな!」
「ふん、然様。風間翔一……貴様の挑戦、確かに受け取った。無論、もはや撤回は効かん。しかと覚悟を決める事よ」
冷気に満ちた瞳で睨み付けると、翔一は満足気なニヤリ笑いを返してきた。
そして、ワッペンを最前列の机に勢い良く叩き付ける。俺もまた、酷薄な笑みを湛えながら、自身のワッペンを其処に重ねて置いた。
かくして、織田信長と風間翔一、両者の決闘が正式な形で成立する。
「ただし。貴様らの挑戦を理由に筋を曲げる以上、俺の提示する条件を呑んで貰おうか」
「……条件、って言うのは?」
大和は俺の顔を窺いながら、警戒するような慎重な語調で問い掛ける。
「簡単な話だ――これより行われる大将戦。そのルールの決定権を、俺に寄越せ」
「っ!それは……、うん……まあ、仕方がないかな。確かに、俺達の希望に沿ってアンタに出てきて貰う訳だし、妥当な条件だろうね。ただやっぱり、決定権がこっちにないってのは不安だな……相手がアンタってだけでも充分キツイのに、こっちに不利な対戦ルールまで設定されたら手の打ち様がなくなりそうだ」
「…………」
何とも白々しい。相手を持ち上げてプライドをくすぐり、己の意図する方向へと思考を誘導しながら、情けないぼやきを装ってさりげなく言質を取ろうと試みる、か。流石は直江大和、なかなかに小賢しい真似をしてくれる。まあ、ここは乗ってやらなければならないか。
「くく、よくぞそこまで思い上がった勘違いが出来たものだ。羽虫風情を相手にこの俺がハンデを望むとでも?俺がルールの決定権を欲するは、より相応しい舞台を用意する為よ。以前にも云ったが、天秤の揺れぬ仕合ほど興醒めなものは無い。――雑魚が身の程を知らず俺と一騎討ちを望むなら、相応の手心を加えてやらねば話になるまい。不服があるか?」
「いんや、特にないぜ」
傲然たる俺の態度に少しは激昂するかと思いきや、翔一は特に気にした様子も無く、至ってあっけからんとした調子で答えた。むしろ他の面子と共に後ろに控える川神一子の方が今にも噛み付いてきそうな顔で、ぐるる、とこちらに向けて唸っている。そんな彼女の様子には気付かずに、翔一は快活な語調で言葉を続けた。
「だってアレだ、自信満々な相手ほど、負かした時にスカッとするからな!」
「……然様、であるか。くくっ、再確認した。貴様の不遜極まる心根を無惨に叩き折るのは実に愉しそうだ、とな。――さて、折り良く道理に適う案も浮かんだ事だ。疾く仕合に臨み、この取るに足らん諍いに終止符を打つとしよう」
「道理に適う、案?」
「三日前、俺は自身に代わる“手足”を用いて貴様ら2-Fを屈服させると言った。俺の参戦を求めたのは貴様らの方ではあるが、しかし俺は必要を超えて自らの言を違える事は好かん。故に、これこそが大将戦にて加える手心の形式として、最も相応しいと言えよう」
悠然と言葉を紡ぎながら、俺は翔一の横隣に控える少年――大和に視線を向けた。意図的に表情を隠したポーカーフェイスからは、彼の意図を読み取る事は出来ない。
さて、どうだ、直江大和。この展開は、果たしてお前の“策”に内包されているのか?
こちらは次善の策とは云えど、ここに至るまでの全てが計算通りに進行している。であるならば、お前は俺の描いた筋書きに逆らえず、成す術もなく引き込まれてしまったのか?それとも――俺とお前の描いた未来図が、奇しくも綺麗に重なり合ったのか?
気に掛かる点は幾つもあるが、今はひとまず脇に置こう。集中すべきは、これより対峙する事になる男の存在だ。
風間翔一の燃え盛る火焔のような双眸に氷の眼差しを重ねて、俺は淡々と宣言した。
「―――此度の決闘、俺は貴様に“手も足も出さない”。其れを以って、勝負の原則とする」
「では最後に、改めて決闘内容の確認を行おうかの。この勝負、風間翔一の攻撃が一度でも織田信長の身体に命中した時点、或いは開始より十五分の制限時間が経過した時点を以って決着とする。更に特殊ルールとして、織田には己が手足を用いた一切の攻撃行為を禁ずる。文字通り手も足も出せぬ、という事じゃ。……つまり勝負の概要としては、制限時間の中で一撃を当てられれば風間の勝ち、最後まで無傷で逃げ切れば織田の勝ち、と云う事じゃな」
決闘の時を前に、学長・川神鉄心が観衆への説明を兼ねたルール確認を行うと、途端にグラウンドのあちこちでざわめきが生じた。校内放送にて決闘の告知が為された時点で、生徒達に大まかな決闘内容は伝えられていたが、しかし主審の口から告げられたそのルールは、やはり彼らの動揺を改めて誘わずにはいられないものだったのだろう。
無理もない話だ。“自ら攻撃をしてこない相手に、一撃当てるだけ”。こうして並び立ててみると、有利不利の天秤がどちらに傾くかは自明に思える。
だが、ギャラリーの抱いている感想はどうあれ、少なくとも決闘の当事者たる少年――風間翔一は、自分が相手に対して優位に立っているとは欠片も考えていない。これだけのハンディキャップを得て尚、容易く勝利を得られるなどとは全く思わない。むしろ逆。かぐや姫の難題に喩えても大袈裟ではないほど、困難極まる闘いになりそうだと。そんな風に予想していた。
来るべき仕合開始の瞬間を目の前に控え、自然と沸き立つ心を落ち着けようと、大きく深呼吸を一つ。
翔一は決意と覚悟を込めた双眸を以って、眼前に立つ男を見据える。
織田信長。何の前触れもなく川神学園に現れた冷酷非道の暴君は、自身が全霊を込めて乗り越えるべき壁だ。三日前に初めてその暴威と対峙した時、翔一は同じ土俵に立つ事すら叶わなかった。風間ファミリーのボスとして相応しい働きを何一つ許されなかった悔しさは、翔一の心をリベンジに駆り立てる理由として十分過ぎる。
「それでは、両者とも名乗りを上げるが良い!!」
「おうよっ!2-F所属、風間翔一だぜ!」
「2-S所属。織田、信長」
二人が名乗りを上げると、待ちかねたとばかりの熱烈な歓声が湧き起こる。勝負の内容が如何なるものであれ、最終決戦にて両陣営のトップが演じる直接対決となれば、生徒達の熱狂ぶりも無理のない話ではあった。
歓声が飛び交う中、幾百もの期待と興奮の視線を全身に感じながら、翔一は気付けば笑みを浮かべていた。その不敵とも言うべき表情を、尖刃を思わせる信長の鋭利な視線が射抜く。途端、凄まじいまでの重圧が翔一に伸し掛かるが、それでも依然として口元の笑みは消えない。信長は感情の窺えない無表情で、淡々と口を開いた。
「何が可笑しい」
「ノンノン。可笑しいんじゃないぜ、楽しいんだ。最っ高に楽しくて楽しくて、笑いが止まらねぇな」
「楽しい、だと?」
「ああ楽しいぜ。周りを見てみな、学園全体が観客の一大ステージだ。勇者が魔王に挑むのに、これ以上のシチュエーションがあるか?いいや無い!これで燃えないヤツは男じゃないぜ!」
「……己の器を知らぬ愚者の分際が、勇者を名乗るか。くく、滑稽極まるな」
「お前がどう思おうと勝手だけどな、俺は真剣だぜ。ヒーローは、何があっても負けねぇんだ」
「ふん、下らんな。哂うべき幻想だ。永久に然様な妄言を吐けぬよう、その心身に現実を刻み込んでやろう。忘れ得ぬ恐怖と共に、な」
冷然たる語調で吐き捨てると、もはや今度こそ語る言葉は尽きたとばかりに踵を返し、信長は所定の位置に向かって悠然と歩を進めた。決闘開始時の両者の距離は、今回の場合は約五メートルと定められている。信長の背中を見遣りながら、翔一は力強く拳を握り締めた。
戦いを前にして脳裏に蘇るのは、昨夜、電話越しに交わされた会話の一幕。
『いいかキャップ、これまでの言動・行動から分析した信長の性格から考えて、奴は絶対に俺達を舐めて掛かってくる。俺はその余裕を利用しようと思ってるんだ』
『もしルールの決定権を譲れば、信長はまず間違いなく“自分が”不利になる勝負方法を持ち掛けてくると俺は踏んでる。強者の余裕を見せ付けるために、敢えて手を抜く……不死川との決闘を観てればそういう奴だってのは明らかだ。だから、俺は会話の流れを上手く操作して、信長本人を勝負に引き摺りだし、そしてあくまで自然を装いつつ、ルールを奴自身の手で決めさせる。何せ信長の方が自分の意志でわざわざ自分を不利にしてるんだ、俺達2-F側に対するギャラリーの不満も最小限で済むだろう。上手く運べば、風評に関わる問題は一気に解決される――と、これが俺の“策”の全貌な訳だ』
『ただし、問題が一つ。信長の余裕がただの油断や慢心じゃなくて、紛れもない怪物級の実力に裏打ちされてるって点だ。どれだけ不利な条件で枷を付けたところで、そう簡単に勝てるような相手だとは思えない。……だから、結局のところ、俺の策の成否は大将戦の出場者次第なんだ。無責任な話で軍師として申し訳ないけど、現状これ以上の策は無い。それを踏まえた上で俺達は“誰が出場するべきか”話し合って、既に満場一致で結論を出した。あとはキャップの意見を聞くだけだ』
『さて――それじゃ訊くが。2-Fを代表して織田信長を打倒するって大仕事』
『任せても良いか、リーダー?』
その問いに対する回答は、わざわざ述べるまでもない。
頭脳役にして軍師・大和は見事に策の下準備を完遂させ、望み得る最上の戦場を整えてくれた。そしてファミリーの皆は風間翔一を信じ、少しも迷わずに勝負の行く末を託してくれた。ならば、その信頼と期待に最高の形で応えるのはリーダーとして当然の務めだろう。
「へへっ、やってやるさ。俺はキャップだからな!」
勝算はある。覚悟と決意を胸に宿したなら、後はいつも通り。熱く滾る心の命ずるがままに、今という時をひたすらに楽しむだけだ。
数間の距離を挟んで二人が対峙し、数秒。川神鉄心の齢を思わせぬ大音声が響き渡った。
「いざ尋常に―――」
勇者の挑戦が、今ここに幕を開ける。
「―――はじめぃっ!!!」
合図と同時に、翔一の健脚がグラウンドの砂を盛大に蹴り上げた。
俺は風間翔一という男を決して甘く見ていた訳ではない。
確かに戦闘能力という点においては、川神百代は言うに及ばず、川神一子や椎名京、或いは島津岳人といった面々にも及ばないだろう。そういう風に調べが上がっていた。
しかしそれはつまり、武力以外の何かが彼を“ヒーロー”たらしめているという事を意味しているのだ。他ならぬ俺自身が、武力以外の能力を駆使して“魔王”に至ったのと同様に。まさか俺のような種類の人間がそうそう居るとは思わないが、念の為にと警戒を払うのは当然だった。
故に、対外的には余裕に満ち溢れた態度を取りながらも、油断はしていなかった。そんな自分を、俺は褒め称えてやりたい。
何故ならば、仮に俺が心底から油断していたとしたら――――
織田信長は今頃、見るも無様な敗北を喫していただろうから。
「――はじめぃっ!!!」
決闘開始を告げる鉄心の声と同時に、俺は動いた。まずは制限時間の十五分を正確に測るため、あらかじめポケットに突っ込んでおいた手の中で人知れず携帯を操作し、タイマーを設定。その動作と並行して、五メートル先の決闘相手が動きを見せる前に速やかに拘束すべく、戦闘用レベルの殺気を放出する。三日前に通学路にて顔を合わせた際、完全に彼の身動きを封じた威圧だ――まず間違いなく効果は表れるであろう。
筈だった。
「よーし、いっくぜぇぇっ!!」
「っ!?」
そんな俺の予測を笑い飛ばすように、風間翔一は“動いた”。周囲五メートルに張り巡らせた殺意の糸をことごとく引き千切りながら、障害物の存在しない平野を駆けるかの如く真っ直ぐに進み――跳躍。全体重を乗せた強烈な跳び膝蹴りが、俺の顔面へと放たれた。
「……っ!」
間一髪、と形容するのが最も相応しいだろう。予期せぬ攻撃に意表を突かれ、僅かに反応が遅れた。ほとんど反射神経だけで咄嗟に身体を捻り、軸を逸らし――これ以上なくギリギリのタイミングで回避に成功する。結果、翔一は俺のすぐ傍を勢い良く通過して、数メートル先の地面へと砂埃を立てながら着地した。
「くっそ、外しちまったか。あーあ惜しかったぜ、初撃で決めたら最高にクールだと思ったんだけどな~」
俺の方を振り返りながら、悔しげながらもどこか楽しげな色を湛えた表情で翔一は言う。
「しっかし腹立つ野郎だなお前、わざと紙一重で避けるとか余裕見せつけやがって。俺の蹴りなんていつでも避けられるってワケか?憎い演出してくれるぜ、お陰でますます俺のハートに火が点いちまった。これはもはや誰にも消火できねぇぜ!」
「……貴様」
心中に渦巻く困惑と動揺が表情に漏れ出ないように振舞うのは、思いの他難しいものだった。何せ、織田信長の誇る唯一無二の武器、“威圧”がまるで通用していないのだ。今現在も一般人が意識を保てないレベルの殺意を場に満たしていると言うのに、眼前の男は身動きを封じる事はおろか、ほとんど動じた様子すら見受けられない。この異様な光景を前にして、普段通りの冷静さを保てというのは無茶な注文だ。
「何故。膝を屈せず、あまつさえ闘える?何故、俺を畏れ、跪かない」
「そりゃ勿論、俺がヒーローだからに決まってんじゃねぇか!さーて十五分しかない時間をムダにはできねぇし……もう一発、いくぜっ!!」
烈昂の気合を上げて、翔一は再び地を蹴った。
いつまでも動揺している訳にはいかない。相手に呑まれるな、あくまで揺るがぬ冷徹な思考回路を以って現状を分析しろ。相手の仕草や言動、一挙一動を余す事無く観察し、この不可解な事態に対する解答を導き出せ。
そうしなければ、俺は敗者に成り下がる。
「強風暴風台風突風旋風烈風疾風怒涛っ!“風”を捉えられるモノなど、この世にありはしないっ!!」
そうかそうかお前は風だったのか、だったら俺の殺気が通じないのも道理だな――とついつい思考停止したくなる欲求を抑え付けながら、空気を唸らせるローリングソバットを素早いスウェーバックで空振らせる。すかさず焦りを周囲に窺わせないよう悠々たる動作で間合いを取り、俺は限界まで研ぎ澄ませた観察眼を以って翔一を注視した。
織田信長の殺気は何の理由も無く破られるような代物ではない。どのような状況でも活路を切り開いてきた、蘭と並ぶ俺の刃だ。それが通用しないとなれば、其処には必ず何かしらの論理的根拠が存在している筈。むしろそうでなければならない。
冷静になれ。俺の殺気がどういうものだったか、改めて整理しろ。鍵は必ず、其処にある筈だ。
殺気による拘束には、二つのファクターがある。圧倒的な重圧により対象の恐怖心を煽り、敵愾心や反抗心を氷結させる事による精神の拘束。脳に死を強制的に認識させ、対象の肉体に拒絶反応を生じさせる事による肉体の拘束。これらを同時に作用させて初めて、俺の十八番である“威圧”は成立する。つまり、それが通用しないという事は、風間翔一は二方向からのアプローチを何らかの形で撥ね退けている――そういう事だ。
精神面の拘束に対する抵抗の手段は、まだ予想が付く。こちらは元より、相手の精神状態に大きく左右される不安定なものだ。織田信長に恐れを抱く人間……俺を格上だと認め、畏れている人間に対しては無類の効果を発揮するが、川神百代の如く自身の実力を疑ってもいない者や、板垣竜兵の如く恐怖という感情が麻痺している戦闘狂には殆ど作用しない。故に、風間翔一の精神力を考慮すれば、殺気の影響が小さい事は不思議ではないと言える。
問題は、肉体面の拘束だ。精神面とは異なり、こちらには個人の性格や意志の力といった計算の難しい要素が関わる余地は無い。徹頭徹尾、全ては理屈で説明付けられる。要は、何らかの形で俺の殺気を中和できる能力を有しているか否か、だ。人外の域に踏み込んだ武人ならば、無意識の内に“氣”を全身に巡らせて拘束に抵抗するだろう。まあ、それも余程のレベルに達していなければ完全に影響を撥ね退けるのは不可能な話で、とにかく容易く為せる事ではない。
しかし――現在の状況を見る限り、風間翔一はそれを紛れもなく為している、という事になる。いくらメンタルが解放されていても、フィジカルが支配されていては身動きが取れる筈もないのだから。精神と肉体の両者を、殺気の支配から解放しているのだ。
あまりに不可解。歴然たる事実として、三日前の時点ではただ彫像と化すだけだった一般人の少年に、何故そんな芸当が可能になる?
「……風間翔一、貴様。力を偽っていたか」
「ん?何の話だ?」
思わず口を衝いて出た俺の問いに、翔一は爪先でトントンと地面を叩きながら首を傾げた。
その立ち姿を真正面から注視して――そこで俺はようやく気付いた。決闘開始前、2-F教室でこの男が現れた際にも頭の何処かで感じた引っ掛かり。その違和感の、正体。
風間翔一、この男……本当に。
「惚けるな――以前の邂逅の際とは、まるで別人。今まさに眼前に居ながらにして、背景に溶け込むが如き様相。即ち、身に纏う気配が稀薄に過ぎる」
「おお、さすがにあのモモ先輩が認めた男となりゃ、やっぱ気付くモンなんだな。キャップたるこの俺が三日間も県外で遊んでたと思ったら大間違いだぜ?いいか良く聞け、こいつはお前にリベンジするために積んだ、武者修行の成果ってヤツだ!」
「ふん。“内気功”、か」
「分かってるなら隠したって仕方ねぇな。あの爺さん、なんて言ってたっけ……『死を恐れ、厭うは矮小なる生者の性。樹は恐れず、風は厭わぬ。己が氣を大自然と一体と為せば、自ずと俗世の軛より解き放たれるは必定よ』――とか何とか」
「…………」
「いや~真剣で大変だったな、あの爺さん結構な無茶させるからよ~。ま、おかげでこうしてお前に挑戦できてる訳で、文句なんて言ったらバチが当たっちまうな。って事だ、ヒーローは一度やられてもパワーアップして立ち上がる。そいつを頭に刻み込んで、潔く俺にリベンジされときなっ!
この男、本当に――“風”になったとでも言うのか。
殺気による拘束をことごとく撥ね退けながら、疾風の如く俺へと向かってくるその姿に、俺は人知れず呆れ混じりの溜息を吐いた。
内気功、とはその名の通り、氣を己の内面に作用させる技術全般を指す。体内の氣を操る事で細胞の働きを活性化させ、あらゆる身体機能の強化を行うのが主な運用法だ。川神百代を最強たらしめている技能の一つ、“瞬間回復”などは内気功の一種の究極系と言うべきものである。
そして、風間翔一が今現在用いている内気功は、恐らくは“己を常に自然体に保つ”という類のもの。外界からの影響を遮断し、自然に溶け込み、常に在るべき姿を維持する。極一部の武人が晩年に至って辿り着く境地だった。それを、この男は――僅か三日間の修行で。いかに優れた師を仰ぎ、過酷な鍛錬を行ったとしても、非常識と言う他無い。
…………。
認めなければならないだろう。常識の秤で測れぬ者をして、世の人々は天才と呼ぶのだ。
織田信長の生まれ持った才能を“誰もを支配する才”だとするならば、すなわち風間翔一は“誰にも支配されない才”の持ち主だった。それだけの話だ。
正しく、相反する才の在り方。
互いの矛と盾が拮抗し、力を失うとなれば――勝敗を別つのは、才を排した両者の地力に他ならない。
……そうか。成程、そういうことか。
「くくっ」
中空から繰り出される直線的な跳び蹴り、いわゆるライダーキックから身を躱しつつ、俺は思わず口元を歪めて笑う。
「……分かんねぇな。何が可笑しいんだ?」
「可笑しい?違うな――愉しい、と云うべきか」
ああ全く、誰かさんの言葉を借りるなら、最っ高に楽しくて楽しくて笑いが止まらない。
よりによってこのようなシチュエーションで、このような相手と対峙する事になろうとは。
相手は俺の最大の武器たる威圧を半ば無効化する異能の持ち主。加えて決闘ルールにて自身に課した制限のお陰で、俺自身は手足を用いて反撃することは愚か、防御すらも決して許されない。相手の攻撃をガードした時点で、“一撃”を受けたと判定されるからだ。更に、織田信長の風評を考えれば完全な逃げに徹する事すらも許されない――考えれば考える程、冗談としか思えないような悪条件だ。
昔の俺ならば、絶対に笑えはしなかっただろう。そう思うと、益々笑みは深くなる。
想起するのは、懐かしい記憶。
“才能”という二文字の呪縛に雁字搦めにされていた頃の、青さと苦さに満ちた青汁のような思い出だ。
俺は余裕と自信を漲らせた悠然たる態度で、不敵に言い放つ。
「――来るがいい、風間翔一。俺と貴様を隔つ壁の高さ……今一度、思い知らせてやろう」
織田信長を、舐めるな。
『あームダムダ、お前さんの才能じゃどう足掻いてもこの先には往けねぇよ』
俺が無慈悲な宣告を受けたのは、元川神院師範代・釈迦堂刑部に師事し始めてから、二年が経とうかという頃だった。
あのオッサンと俺が出会ったのは、太師中学校への入学を目前に控えた春休み。年齢を重ねる毎に少しずつ世界の広さを知り、威圧の才と口先の詐術だけで万事を乗り越えることは不可能だと悟り始めていた当時の俺は、激しく力に餓えていた。ハリボテのハッタリなどではない、確実に自分自身のものだと自信を持って断言できるような、本物の力に。その頃には既に森谷蘭は壊れ、俺は“夢”を追い求め始めていた。
そんな折に、釈迦堂は堀之外に――俺の前に現れた。出会いそのものはどこまでいっても偶然の産物でしかなかったが、俺は其処に何らかの運命を見出さずにはいられなかった。思想の危険性故に武道の総本山・川神院を破門された、元師範代。織田信長のような掃き溜め出身者が、師匠として仰ぐにこれ以上の人材がいるだろうか。俺は常人には理解出来ない情熱を以って頼み込み、一言では語り尽くせない壮絶な顛末を経た末に、俺は何とかあの男への弟子入りに成功した。
とは言っても、初めから川神流の奥義の数々を伝授されるような事には勿論ならない。所詮は武術に殆ど縁の無い人生を送ってきた、発育すらも微妙な十歳そこらの子供だ。技を教わる以前の問題として、まず武術の習得に耐え得るような身体を作り上げる必要があった。故に、それからの俺は――寝食を除く時間のほぼ全てを鍛錬に費やした。鍛錬の時間をまるで苦痛に感じない程の価値を、武術が己に与えてくれるであろう力の中に見出していた。今にして思えば、それは幼稚なコンプレックスの発露だったのだろう。言ってしまえば所詮は張子の虎でしかない“威圧の才”を、当時の俺は恥とすら考えている節があった。俺は偽物の力を本物へと昇華させるべく、地獄の如きトレーニングを自らに課した。
その成果が表れたのが、約二年後の話。釈迦堂の指示の下、生体力学の理論を基盤に据えて将来の設計図を引いた俺の肉体は、果てしない鍛錬漬けの日々の末に、遂に完成に至った。必要な部位に必要な分だけの良質な筋肉を身に付け、全身の肉体から一切の無駄を省き極限まで力を凝縮した、まさしく戦闘者の見本とでも言うべき身体だ。因縁を吹っ掛けてきた不良達を、紛い物の威圧に頼る事なく己の拳の力のみで軽々と全滅させた時、俺は自分が望み得る最高のコンディションにまで自らを高めたと確信した。そして俺は釈迦堂に“そこから先”の教えを乞おうと願い――残酷な現実を思い知った。
生まれつき、動体視力も反射神経もそれなり以上のものを持っていた。瞬発力も持続力も同様だ。身体能力に関わる才能という意味では、全ての項目で常人以上のポテンシャルを所持していたと言っていいだろう。そんな人間が死に物狂いで鍛錬を積めば、最強とはいかずとも努力相応の実力を得られる事は間違いないと思われた。だが、生憎と現実はそうならなかった。何故ならば織田信長という人間には、一つ。たった一つだけ、欠落していた才能があったから。
それは、“氣”の扱いに関する才能。
武の道を志す人種にとっては、決定的に致命的な欠陥だった。
織田信長が有するポテンシャルの限界まで鍛え上げた腕力や脚力は、確かに常人の中では頭一つ突き抜けたモノだったが、しかしそれとて数十メートルもの跳躍を成し遂げたり、コンクリートの壁を粉砕するような非常識な芸当は不可能だ。そういった非常識を常識とし、不可能を可能とする者達こそが、釈迦堂刑部を初めとする川神院の武術家達であり、世界各地にちらほらと点在する人外どもである。そして、常人と人外を隔てる絶対的な壁の正体こそが、“氣による身体能力強化”の有無だった。
氣――それはこの世に存在するあらゆる生命体が内包する、生命エネルギーの総称だ。地域によってはチャクラ、マナ、プラーナ、コスモ、等の様々な呼ばれ方をしているが、それらの全てはほぼ同一の概念を指している。世界に生れ落ちる全ての人間達が何らかの形で自らの内側に秘めておきながら、大多数の者は開花させる機会を得ることなく枯れさせていく神秘の力。人外の域に達した者達の殆どは、意識的に、或いは無意識的に体内の“氣”を活用し、全身に巡らせる事で己の力を高めている。その恩恵は凄まじいもので、有ると無しではそれこそ大人と赤子ほどの差が開きかねない。
故に。俺がいかに血反吐を吐いて基礎体力を鍛えようが、理想的な形で筋肉を付けようが、武術の技術に関わるセンスを磨こうが……常人を超えたレベルの戦いにおいて大前提となる“氣”を満足に扱えない時点で、武術家として大成する道は閉されたに等しい。その事実を俺にこれ以上なく明晰に理解させたのは、俺よりやや遅れて弟子入りすることになった板垣三姉妹の面々だった。長女の亜巳はまだ良い。自分よりも数歳も年上で、武術の鍛錬に対して真剣に取り組んでいた彼女が自分を超えていくのは、どうにかまだ受け入れられた。だが――それまでの人生において一秒たりとも武道に触れた事のない、何かしらの形で自分を鍛えた訳でもない、俺と同い年の少女である辰子が、いとも容易く自身の背丈を越える大岩を粉砕する様子を目の当たりにして、俺は世界の理不尽さを許容する事が出来なかった。呆然とする俺へと更に追い討ちを掛けたのは、三姉妹の末女、天が発揮した常識外れの武才だった。週に一度の、鼻歌交じりの娯楽のような“修行”をこなすだけで、天は瞬く間に俺の居る場所を抜き去っていった。俺がいかに足掻こうとも決して超えられない、高い高い壁の向こう側へと。自分にとって庇護すべき妹分だと思っていた天が、その実俺如きを歯牙にも掛けない“天才”だと知った時――俺は自身に絶望し、大いに荒れた。現在でも未だに至らない部分だらけの身ではあるが、当時の俺はその精神面において語るも恥と言わざるを得ない未熟さだった。堀之外の街を歩いては、絡んで来る鬱陶しい有象無象にやり場の無い怒りを叩き付けて病院送りにし、自宅ではみっともなく従者に向かって当り散らした。こんな自分では目指す“夢”には届かない、と悲観的に自己完結して、勝手に自暴自棄に陥っていた姿は、さぞかし醜悪な有様だっただろう。改めて思えば、当時の俺は自惚れたガキ以外の何者でもない。
そんな暗君・織田信長の目を覚まさせたのは、今と変わらず忠臣たる従者・森谷蘭の諫言だった。自身の非才に失望し、暗く濁った目で全てを呪っていた俺に、蘭は似合いもしない凛々しい顔で言ったのだ。
『主の拳に貫けぬものは私が余さず打ち貫きます。主の足に砕けぬものは私が残さず蹴り砕きます。蘭が、信長さまの“手足”となりましょう。ですから――主は、どうか見失わないで下さい。御自身の誇りを。御自身の強さを。蘭は良く知っています。信長さまは、私如きが傍に在る事すら勿体無き程に、素晴らしい才をお持ちなのですから』
全てを包み込むような穏やかな微笑みと共に言われてしまっては、幾ら未熟なお子様と言えどもウジウジと腑抜けている訳にはいかなかった。俺は躊躇わずにアパートを飛び出して、師匠の下へと真っ直ぐに走った。蘭の言葉で、ようやく気付いたのだ。否、思い出したというべきか。俺という人間がどのような種類の才能の持ち主であったか、改めて自覚した。大岩を砕く?トラックに撥ねられても無傷?そんな世界ビックリ人間じみた技能は、俺には不要だ、と。この時、俺は人外連中への仲間入りをすっぱりと諦めて、心意気を新たに再出発した。
俺は“氣”の扱いが致命的に苦手だ。恐らくは全ての才能が“殺気”をコントロールする方向に振り分けられているのが原因なのだろう、と釈迦堂のオッサンは分析していた。織田信長の得意とする“威圧”は、恐らくではあるが攻撃的な外気功の一種で、それ故に内気功の領分に属する身体能力の強化や、氣を身体の各部に纏う事で局所的に強度を高める硬気功との相性が悪い。属性としてあまりにも“放出”の系統に特化し過ぎていて、一般的な武術家の如き小器用な使い方が不可能なのだ。それ故に、俺はどう頑張ってもパンチで地面にクレーターを作る事は出来ないし、片手でバズーカの砲弾を受け止める事も出来ない。人外連中の、氣をフル活用した一撃をまともに受ければ即死確定だろう。
だが――そんな事は別にどうでもいいではないか。無いものねだりは不毛だ、隣の芝はいつだって青く見えるのだから。俺には俺の、俺だけに与えられた天賦の“才能”があるのだ。何をこれ以上求めるというのか?その旨を釈迦堂に述べると、あのオッサンは愉快そうにニヤリと笑ったものだ。
『あぁ、やっとこさそいつに気付きやがったか。“競うな、持ち味を活かせ”、ってなぁイイ言葉だよなぁホント。力だけが闘争の全てじゃねえんだ。仮にも武人が、たかだか攻撃と防御が満足に出来ねぇくらいのことで泣き言言ってちゃ始まらねぇよ。なに、そもそも“攻撃なんざ全部避けちまえば”絶対に負けやしねぇんだ。ま、普通なら逃げてるだけじゃ勝てもしないんだが……小僧の場合、そこはお得意のインチキハッタリ術でカバーできるだろ?何せ俺が認めた“天才”なんだからな。ってなワケで、こっからがお前さんにとっての本当の修行だぜ。覚悟しろよ、小僧。ヒヒ、なんせ川神院で師範代やってた頃から、俺のシゴキは死ぬほどキツイって評判だったからよ。……折角見つけた面白ぇオモチャなんだ、簡単にぶっ壊れてくれんじゃねぇぞ?』
かくして、それからの一年間、俺は今度こそ真の地獄を味わう事になる。思い出すも恐ろしいあの期間に比べれば、身体作りの為の二年間の修行など、まさしくぬるま湯同然だったとすら言えよう。俺が師匠に頼み込んで付き合って貰った修行は、人外の領域に踏み込んだ派手な大技を教わる事ではなく――釈迦堂刑部という怪物の繰り出す遠慮容赦の無い攻撃の数々をひたすら見切って回避する、そんなシンプルなものだった。勿論、修行内容の地味さと容易さが比例する事はない。釈迦堂は弟子を傷付ける事を躊躇うような生温い武術家ではなかった。結果、何度も何度も直撃を貰って生死の境を彷徨ったし、例えそこまでは行かずとも、一年の間に生傷が絶える事はなかった。あの時期は蘭や忠勝に随分と心配を掛けたものだ。しかし、それだけの苦痛を背負いこむだけの成果は確かにあった。限界まで身体能力を鍛えていた事もあって、俺の成長は目ざましいものがあった。無意味に費やしたと嘆いていた二年間の鍛錬は、疑いなく自身の血肉となっていたのだ。釈迦堂ほどの使い手であれば、織田信長に武才が欠けている事などすぐに分かっただろう。つまり、あの喰えないオッサンは最初から“最も効率的に強くなれる方向”へと俺を正しく導いてくれていた訳だ。師匠としての釈迦堂刑部を俺が心の底から尊敬している理由はそこにある。
やがて一年近くが経ち、釈迦堂の繰り出す世界屈指の暴力が骨の髄に至るまで徹底的に刻み込まれた時、俺は確実に、格段に強くなっていた。常人の振るう拳を回避する事は、もはや俺にとって呼吸同然に容易いものだった。
それは生まれ持った才能ではなく、血反吐を吐いて手に入れた俺自身の力。
未だ人外の壁を超えない者達を相手に上位者の余裕を見せ付けられる程の、自慢の回避能力だ。
結局のところ、半ば自分の中で黒歴史に認定している、色んな意味で痛い過去を引き合いに出してまで俺が何が言いたいかというと、つまり。
天性のセンスで“氣”を扱っているだけの、鍛錬も碌にしていない一般人高校生の攻撃など―――
「ハァ、ハァ、くそっ、またハズレか。何度目だよ、ったく」
「ふん。この程度の攻勢を以って疾風怒濤、とはな。哂わせてくれる」
―――鋼鉄をも砕く釈迦堂刑部の殺人拳に較べれば、止まって見えるという事である。
「転入生なんかに負けないでぇ!頑張ってーっ、風間くーん!!」
「いけぇ、そこだぁっ!……あ~くそ惜しい、あと少しだってのに!」
湧き上がるギャラリー達の最前列にて決闘の様子を眺めながら、直江大和は焦りを滲ませた呟きを漏らす。
「マズいな。キャップの攻撃……まるで当たる気配がない」
視線の先には、今まさに決闘を繰り広げている二人の男の姿。キャップ、風間翔一が突風を思わせる奔放な跳び蹴りを放ち、そして織田信長が余裕綽々とそれを躱す。おまけとばかりに口元には嘲るような笑みを貼り付けて、だ。そんな光景が、先程から幾度も繰り返されている。
一撃でいい。たったの一撃を当てればそれで決着が付くと言うのに、それが叶わない。翔一の蹴撃は確かに信長を捉えているように映っても、あたかも幻影を打ち抜いているかの如くすり抜ける。健脚を活かしたスピードを自慢とする翔一の俊敏な動きに較べて、信長自身の動きはむしろ緩慢にすら映ると言うのに、まるで初めから運命で定められているかのように、翔一の攻撃が命中する事は無い。
「悪い夢でも見てるみたいな気分だな……川神院の師範代レベルになると、あんな魔法じみた芸当も可能なのか。まあ姉さんなら余裕で再現できるんだろうけど」
「ん?私か?あ~いや、ぶっちゃけ私に織田の真似は無理だと思うぞ」
「え、真剣で?姉さんにも無理って、そんな事があるんだ」
武の道においては文句なしに世界最強の姉貴分に、まさか不可能があろうとは。まあ確かに考えてみれば、世界最強とは言っても流石に剣術や弓術まで扱える訳ではないし、最強は最強なりに、分野による得手不得手はあるのだろう――と納得しかけた所に、百代のジト目が突き刺さった。
「おい何か失礼な勘違いしてないか舎弟。私が無理だって言ったのはな、織田の動きがあまりにも“普通”だからだ」
「普通、って。俺にはアレが普通だとは全然思えないんだけどね」
「ん~、普通ってのは少し言い方が悪かったか。アイツはな、さっきから“氣”を一切使っていないんだ。使い方を自覚していない人間でも、大抵の奴らは無意識の内に氣を運用してるもんなんだが……織田は今、ほぼ完全に氣を絶っている。まさしく見た目通りの力であの場に立ってる、って事だな。しかしまあ、手足を使わない上に自分から氣まで封じるとは、どんだけプライドが高いんだアイツは」
「んー、じゃあ姉さんが無理って言うのは、氣を完全に消すのがって事?」
「いや、それくらいなら私でも余裕だ。ちょっとは集中しなきゃいけないが、無理って程じゃない。ただ、織田の身体捌きを真似するのは――骨が折れるってレベルじゃないな。アレは、私にも無理だ。いや、私だからこそ、と言うべきなのかもしれないな。ワン子ならそれが分かるんじゃないか?」
「……うん。何となくだけど分かるわ、お姉さま。ノブナガの動き、少しだけアタシに似てる気がする」
神妙な表情で答えるワン子に、百代は頷いてみせる。
「そうだなワン子、それは勘違いじゃない。お前がそう思ったのは、織田の身体捌きが才能に依るものじゃなく、途轍もない努力と鍛錬の末に磨き上げたであろう、“理”に依るものだからだ。ワザと隙を作って相手の意識を誘導し、自分の意図した箇所へと打ち込ませる技術。相手の技の軌道や速度を読み切る観察眼に、最低限の動作で自らを安全圏に運ぶ足運び。どれもこれもが尋常じゃない練度で極められているからこそ、織田は“氣”を使わずにキャップの攻撃をああも容易く避けることが出来るワケだ」
「努力と、鍛錬かぁ。ってコトは、アタシも頑張ればあれくらいは出来るようになるのね、お姉さま!」
「ああ、その通りだ。たぶん一年か二年、それこそ攻撃や防御を捨てて、ひたすら回避だけを集中して鍛え続ければ、ワン子にも習得できるんじゃないか?まあ他の鍛錬が疎かになるのは間違いないし、バランスを考えれば現実味は薄いけどな。そもそも、何で私に織田の真似が出来ないかと言うと、さっきも言った様に、アレが一切“氣”を使っていないからだ。勿論、私が氣を用いればキャップの攻撃を避けるのは朝飯前だが、それはあくまで強化した身体能力に頼った結果であって、織田のように純粋な技術で躱すのとは意味合いが違う。私は昔からそりゃもう強かったが、だからこそ精密な技術ってものは特に必要なかったからなぁ。あんな器用な真似は専門外なんだ」
百代の解説を最後まで聞き終えて、大和は納得と共に心中で頷いた。緩慢とすら映る信長の動きを翔一が一向に捉えられないのは、その緩慢さが、あらゆる無駄を削ぎ落とした身体捌きに由来しているからなのだろう。摩訶不思議な魔法などではなく、種も仕掛けもある武術だった訳だ。
「……って呑気に話してる場合かよ!キャップの野郎がこのまま一発も当てられなかったら、いずれはタイムアップで負けちまうじゃねーか!」
「まあ落ち着け武力95。姉さんの話を聞いて焦る気持ちも分かるが、たぶん大丈夫だ。……姉さん、さっきの話を聞く限りにおいて、信長の回避の大枠は計算で成り立ってると解釈できると思うんだけど。どう?」
「ん~、その解釈で正しいんじゃないか?“理”ってのは、簡潔に言うとそういうもんだしな」
「よし、だったら心配無用だ。何せ――」
軍師・直江大和は不敵な笑みを浮かべながら、決闘の舞台へと視線を戻した。
「――キャップほど計算の通用しない奴を、俺は他に知らないからな」
風間翔一の速さが、増している。
俺がそんな洒落にならない事実に気付いたのは、制限時間の十五分も半ばを切ろうかという頃だった。ここに至るまでありとあらゆる攻め手を余裕で躱してきた以上、このままタイムアップまで粘るのはさほど難しい事ではないだろう、と安堵していたタイミングで、翔一のスピードは一ランク上のものへと変化した。
「よーし、やっと身体が慣れてきたぜ。こっからが本番だな!」
などという何とも素敵な台詞を添えて、だ。
難しく考えるまでもなく、言葉の意味は明白。つまり、翔一はこれまで俺の殺気による影響を完全に無効化していた訳ではなく、あくまで緩和していたに過ぎなかった。しかし、決闘を通じて俺の殺気をより効率良く拒絶する要領を掴み、それを実践した結果が――“慣れてきた”という事なのだろう。戦闘中に進化を遂げるなどとお前はどこの週刊漫画の主人公だと言いたくなるが、考えてみれば三日間の修行で内気功を習得してしまうようなトンデモ人間だ。それくらいの無茶を可能にしても何も不思議はない。
「そろそろ当てないと絵的にカッコ悪いからな。決めさせて貰うぜ、ノブナガッ!!」
加速に加速を重ね、疾風へと至りながら俺へと迫る。
右脚か、左脚か。―――右!
ブォン、と耳元で唸りを上げて風が吹き抜けた。繰り出された右ハイキックは虚空を打ち抜き、通り過ぎる。
回避、成功。
「んー、またダメか。だがヒーローは諦めねぇ!俺の勘では次辺りでイケそうな感じはするしな!」
不味い。確かに成功はしたが、内心冷や汗ものだった。それこそ、勘の通りに次で当てられてもおかしくはない。それほどに切羽詰った状況だ。
風間翔一の速さが人外の域に踏み込んでいる訳ではない。確かに本来のキレを取り戻したそのスピードには目を見張るものがあるが、あくまで氣を運用していない常人の範疇だ。足捌き、重心の移動、目線の動き、性格に言動までを緻密に分析し、動きを事前に計算して先読みする俺の回避能力を以ってすれば、不可避というほどの速さではない。
だが――この男、そもそもにして動きが読めなかった。俺の計算が、まるで通じない。
何せ、あらゆる面で型に嵌らないのだ。コンビネーションの定石も何もかも無視して、ひたすら破天荒な立ち回りで地を駆ける。武術を習っていないという点では街に屯するチンピラ共と大差ないのだが、そこに人並み外れた健脚の生み出す速度が加わると、こうも厄介なモノに変貌するのか。
更にルール上、俺の方から攻撃を加える事が出来ないため、相手は後の心配をすることなく一撃一撃を全力で繰り出す事が出来る。スピード自慢の男が繰り出す、最速の攻撃。しかも軌道を読むのは非常に困難。そんなモノを、このままタイムアップまで躱し続けるのは、恐らく不可能に近いだろう。
…………。
……何も行動を起こさなければ、負けるか。
「ふん。是非も、なし」
繰り返して言うが、俺は風間翔一という男を決して甘く見ていた訳ではない。
だが、心の何処かに慢心があったのは間違いないだだろう――“切り札を伏せたままでも勝利を収められる”などと、あまりにも傲慢な思い上がりだった。
慢心は詫びねばなるまい。武人の端くれとしてあるまじき心掛けで決闘に臨んでしまった。
だが……侮っているのはお前も同じだ、風間翔一。その楽天的な顔を見れば分かる。このまま勝てると、そう思っているだろう?
お前は確かに天才なのだろうが――この俺が、元川神院師範代を驚嘆せしめた“天才”が、血反吐の海に積み上げてきた十余年の研鑽を、甘く見て貰っては困る。俺が潜り続けてきた数多の死線を、苦難に充ちた地獄の如き歳月を。平穏の内にその天賦の才を埋もれさせてきたお前のような人間に、否定させてたまるものか。
その存在が織田信長の障害足るものである以上、無用な手加減はしない。俺は、この状況で自身が発揮し得る全力を以って、お前を潰す。
「ふん。詰まらぬ前座は此処までとしよう。所詮は小手調べとは云え、貴様の“力”は確かに見定めた。薫風の如き生温い殺意では、貴様を地に這い蹲らせるには足りぬ様だな」
「おっ、なんだなんだ、やっと本気を出す気になったのか?よーしいいぜ、そうでなくちゃ始まらないよな!」
殺気による重圧で満ちた空間の中で全力の攻撃を繰り返してきた以上、体力・精神力ともに大きく疲弊しているのは間違いないだろう。にも関わらず、あくまで能天気な態度を崩さない眼前の決闘相手に、俺は演技を排した、心底からの酷薄な笑みを向ける。
「……くくっ。然様に呑気な面を衆目に晒せるのも今が最期となろう。――風間翔一。貴様は事ある毎に自身を、風、と喩えていたな」
悠々と嘯きながら、俺は準備を開始した。決して悟られぬよう慎重に外面を取り繕いつつ、自らの内へと深く深く沈み込む。
己が内面より引き出すものは、純粋な殺気。一切の不純物が含まれない、只管に相手を死に至らしめんとする絶対的に凶悪な意志。先程まで周囲に張り巡らせていたものとは密度も質量も比較にならない規模で、強靭極まりない殺意の網を編み上げる。
『アンタさえ生れて来なけりゃアタシらは幸せに暮らせたんだ!死ね、ほら、さっさと死んじまえよ悪魔!……これでもまだくたばらねぇのかい、だったら――』
脳裏に蘇る忌むべき記憶の数々は、即ち現在に殺意を育む糧だ。
心に巣食った憎悪と絶望を縫い針に、恐怖と悲哀を糸と成す。
だが、足りない。非力にも程がある。この程度では何もかも足りない。
良く思い出せ。もっと鮮明にイメージしろ。要求されるのは、当時の感情がそのまま蘇る程の綿密さだ。
『けっ、生ゴミ同然の薄汚ぇガキが、人様のモン盗ってまで生きてぇとは厚かましいにも程があるぜ。なぁ?てめぇみてぇな糞はここでゴミと一緒にカラスのエサになってるのがお似合いなんだよ。ああ全く、無力ってのはつくづく悲劇だよなぁ!』
……この程度か?織田信長が腐臭の染み付いた生涯の中に絶えず抱え込んできた憎悪は。絶望は、悲哀は、恐怖は、赫怒は、失意は、諦念は、嫌悪は、怨恨は。俺の心の内に黒々と蠢く闇色の“殺意”は、この程度のものだったか?
――そんな筈はない。目を逸らさずに、直視しろ。織田信長という男が最も強く忌み嫌い、心の底より忘却を願った血塗れの記憶を。俺の“力”の全てを呼び覚ます為のトリガーは、疑いなくそこに在るのだから。
引き金を引くのは、実に容易い。その気になれば、ビデオテープを再生するような手軽さで、何時でも何処でも思い出せるだろう。
何せ、“忘れる”事など絶対に有り得ないのだから。あれから十年近くの年月を経ても、脳裏に焼き付いた記憶は嫌気が差すほどに鮮明で、吐き気を催すほどに生々しいままだ。風化して欲しいと願っても決して叶わず、飽きる事無く俺の脳内を浸食し続けて、いつまでも止まらない。
逃げるな。厭うな。恐れるな。過去と向き合い続けろ。それが、あいつを救えなかったお前に課せられた義務だろう?織田信長。
ああ、全く以ってその通り。そんな事はわざわざ言われるまでもないし、逃げるつもりなど端から無い。
利用出来るものは全て利用すると、そう決めた筈だ。精神的外傷ですら例外なく、俺の力へと転じるべき対象に過ぎない。
俺は奥歯を強烈に食い縛って、そして――記憶の扉を一気に開け放つ。
押し込められていたモノが一斉に、堰を切ったように溢れ出した。
バラバラに引き裂かれた、断片的な記憶の欠片が、蛍の如く乱れ舞う。
『もう、そんなこわい顔しちゃダメです』 『ほらほら、とってもおいしいですよ?食べずギライは悪い子のはじまり、なのです』
『だいじょうぶですよ。わたし、強いですから』
『知らないんですか?正義はぜったいに勝つんですよ!』 『助けてあげたいっておもっちゃ、ダメですか?』
『ほら。わたしたち、お揃いですよね。えへへ』
『二人とも、わたしがゼッタイにまもってみせます!』 『もう、イジワルいわないでくださいよぅ』
『ケンカりょうせーばい、なのです』 『誰かにおつかえするなら、わたし、』
『じゃあ、シンちゃんと、タッちゃん!』 『えへへ、はじめましてっ』
『ふんふふ~ん、やくそくやくそく♪』
『わたしですか?えっと、わたしは……りっぱな“武士”にならなくちゃ』
『ええとええと、まだまだしょーらいにぜつぼーするには早いのです!』
『だったら、わたしが手伝いますっ』 『おとこのこは分からないのです。みすてりーですね』
『えへへ、シンちゃんはやっぱり優しいですね!』
『ねえ』
『シンちゃん』
『おしえてください』
『わたし、なんのために、うまれたんですか?』
「…………ッ!」
割れる様な痛みに苛まれる頭の何処かで、カチリ、と硬質な音が響いた。それは記憶のパズルを埋める最後のピースが嵌った音であり、同時に決定的なトリガーが引かれた音でもある。
日常生活に支障を来さぬ様に施した、殺意のリミッターが外れる。
己の内へと厳重に封じ込めた“本物の殺気”が、深淵の眠りから目覚める。
それは俺の体内にてとぐろを巻き、鎌首を擡げて、早く解放しろと耳障りな吼え声を絶えず木霊させていた。
ああ、何とも、最悪の気分だ。
「…………」
さて、トラウマを無理矢理に穿り返した影響で頭がズキズキ痛む上、死ぬほど胸糞悪い感情の洪水が現在進行形で心中を渦巻いているが。
何はともあれ――全ての準備はここに整った。
残された行程は、未だ俺の内に押し留められ、行き場を求めて荒れ狂う凶獣を、外界へと解き放つのみ。
――――俺は、織田信長は、勝ち続けなければならない。
「何だ、この嫌な感じ……とんでもなく、不吉な予感がする」
決闘の最中、突如として足を止めた信長の立ち姿を見遣りながら、大和はぽつりと呟いた。
常にその身体より溢れ出し、周囲を侵し続けていた漆黒の邪気は、今では何故か見る影も無く消失している。
その得体の知れない静けさが、大和には嵐の前触れのように感じられた。あたかも底の見えない落とし穴を覗き込んだ時のような、不気味な戦慄が肌を粟立てる。観客達も同じ感覚を覚えたのか、歓声は止み、代わりに不安げな囁き声がグラウンドに充ちている。
「何だ?織田の奴の氣が、一点に集中している……、まさか」
大和の鼓膜が百代の呟きを拾った、次の瞬間だった。
「―――気の弱い者は今すぐ下がれぃっ!!!」
学長、川神鉄心の語気鋭い大喝がビリビリと空気を震わせ、観客達の心胆にまで響き渡る。
そしてほぼ同時、警告の意味を生徒達が理解するよりも早く―――
今こそ衆目に晒すとしよう。世界に無二の威圧の天才・織田信長が弛まぬ鍛錬の末に辿り着いた、一つの到達点。
世界でただ俺一人が扱えるオリジナルにして、最大規模を誇る“威圧”の奥義を。
「貴様が己を風と謳うならば、俺は其れすらも諸共に滅して魅せよう」
術者を中心として嵐の如く荒れ狂う恐慌を前に、総ての草花は朽ち、大地は震え、大海は凪ぎ、大気はその息吹を止める。
その様はまさしく、現世に渦巻くあらゆる混沌を静寂に還す一陣の死に風。
故に、冠せられた名は―――
「跪け。下郎」
織田流威圧術奥義――――“殺風”。
そして、万人に恐慌をもたらす禍々しき闇色の旋風が、吹き荒れた。
もうちょっとだけ続くんじゃよ。という事で、決着は次回に持ち越しです。
ここに来てようやく主人公のスペックが大体は公開されましたが、改めて書いていると普通に超人ですねコレ。しかしそれでもまじこい世界では一般人に分類されてしまうという現実。ちなみに“氣”に関しての設定は独自解釈が多分に含まれていますので、あまり突っ込んでやらないで下さい。それでは、次回の更新で。