張り詰めた空気、静かに滾る興奮。そして今、決闘が始まる。
勝負内容は第一グラウンドの一周をコースとして設定した、妨害有りの徒競走。川神学園の並外れた敷地面積に比例するように、そのグラウンドの規模は他校と比較しても相当に大きいが、しかしたかだか一周を走破する為に必要な時間はそう長いものではない。よって走者はスタミナ切れの問題を気にすることなく、全力疾走で約三百メートルを駆け抜ける事になる。言うまでもなく短期決戦だ。
故に当然、二人の走者は共に時間を惜しみ、勝負開始の合図と同時、スタンディングスタートを切る―――などという事はなかった。
「せやぁぁっ!」
「フゥッ!!」
川神鉄心の音声が鳴り響いた瞬間、事前に示し合わせたかのようなタイミングで、川神一子と明智ねねは互いの対戦相手に向かって拳を繰り出していた。打撃音が重なって響き、俺の周囲の観衆達が動揺にざわめきを生じさせる。彼らはねね達がゴール目指して一目散に疾駆する姿を予想していたのだろう。
俺にしてみれば、この程度の展開は予想出来て然るべきだと思うのだが。わざわざ妨害行為を認める旨のルールを宣言している以上、武力行使は当然の選択だろうに。
「ふん。先ず敵の武力を見極め、力及ばねば得意の足で決着を。力で勝ると判断すればそのまま押し潰す。意図としてはそんな所か。くく、弱者に相応しき小賢しい策よ。そうは思わんか、直江大和」
前方で始まった決闘風景を眺めながら、自分の背後へ向けて嘲笑うような声を投げ掛ける。
「生憎だけど、軍師に対して小賢しいってのは褒め言葉にしか聞こえないな。場合によっては最初の一撃で不意を討って勝負が決まるのを期待してたけど、まあアンタの“手足”がそこまで甘い訳もないか」
風間ファミリー及び2-Fの軍師・直江大和は俺の横に並んで立ちながら、飄々と肩を竦めた。その表情はあくまで不敵で、動揺の色は見受けられない。
まあ、それも当然。彼が張ったのは見抜いたところで手の打ち様がないタイプの策だ。単純な話、明智ねねの能力が、武力及び走力という川神一子の得意分野を凌駕できなければ、ただそれだけで勝敗は決するだろう。シンプル故に対処の難しい作戦である。
「傍目には不公平な勝負かもしれないけど。ルールの決定権をくれたのはそちらさんだし、文句は言いっこなしで」
「……今更、俺が不平不満を零すと?下らんな。如何なる窮地であれ、悉く覆してこその俺の臣下。貴様が然様な余裕風を吹かせられるのも今の内よ」
「ま、こちらとしても一筋縄でいくとは思ってないさ。勝負は始まったばかりだ」
大和は言葉を終えると、真剣な表情で戦闘の様子に目を凝らし始めた。
ねねと一子の両者は依然としてスタートラインからは一歩たりとも前進することなく、むしろコースから離れながらの乱打戦に移行していた。二人の間で巻き起こる拳と脚の嵐。武道を修めたものでなければ視界に捉える事すら難しい速度の打撃が惜しげもなく飛び交っている。
川神一子は武の総本山・川神院の養女。当然、修めている武術が薙刀術のみに留まる訳もない。例え得物を持たず素手で戦う状況であっても、彼女が一般人を遥かに超えた実力を発揮することは事前の下調べで分かっていた。誰よりもそれを知っているからこそ、直江大和はこの作戦を起用したのだろう。
この策の有益な点としては、何よりも対戦相手次第では“得物”という重大な戦力を奪う事ができる事が挙げられる。言うまでもなく、その結果がもたらすアドバンテージは計り知れない。今回に関しては格闘主体のねねだから助かったが、もし剣術主体の蘭が出ていたなら面倒な事になっていたのは間違いなかった。ねねという“手足”の正体を伏せておいた事がプラスに働いた訳だ。
「互角……か?」
二人の戦闘を観察しながら、大和は誰に言うでもなく呟いた。残念ハズレ、と俺は心中で返す。
恐らくは完全な素人であろう大和に比べれば、多少武道を齧った俺は両者の力量差がそれなりに分かる。彼女達は間違っても互角などではない――明智ねねは、川神一子の猛攻を前に、明らかに押されていた。
そもそもにして生まれ持った体躯が小柄なねねは、純粋な格闘戦には向いていない。対戦相手の川神一子もそれほど身長に恵まれている訳ではないが、それでもねねより十センチは高いだろう。身長は手足の長さに、即ちリーチに直結する重要な要素だ。その差を補う為の得物を用いず、近接距離・真っ向からの乱打戦を挑むとなれば、どうしてもねねの不利は否めない。彼女が有利に立ち回ろうと思うならば、その小柄さを逆手に取ったアクロバットで相手を翻弄する他ないだろう。
しかし―――明智ねねは、カポエィラを使わない。
両者共に四肢を余さず用いた打撃戦、当然ながら蹴り自体は用いているが、しかしそれはあの廃工場で見せた軽やかな動きとは程遠いものだ。重点的に鍛えている分だけ拳に比べれば威力は高いが、言い換えればそれだけの事でしかない。カポエィラの足技のような、持ち味のスピードをフルに乗せた“重さ”がまるで足りていなかった。
「どーしたどーしたっ!そんな攻撃じゃアタシには通じないわよっ!」
「くっ……、言ってくれますわねっ」
結果として、戦闘開始から時を経るにつれ、ねねと一子の受けるダメージ量には明確な差が表れ始める。互いに繰り出す打撃の数はさほど変わらないので一見して互角に映るが、実際に形勢がどちらに傾いているか、武に通じる者の眼には一目瞭然だった。
二人の蹴りが空中で交差し、拮抗し、一瞬後には同時に飛び退る。そうして生れた乱打戦の僅かな空白に、一子が余裕の表情で威勢よく声を上げた。
「ふー……、一年生にしてはなかなかやるけど、アタシに挑むには早かったようね!」
「ハァ、うふふ、それはあまりにも早計ですわよ、先輩。わたくしはまだまだ健在です。未だ両の脚で立つ敵を目の前に油断するなど、闘士にあるまじき心構えと言わざるを得ませんわ」
「確かにね。戦士に対して失礼な態度だったわ、それは謝る。……遠慮はナシ、全力で行くわよ」
「うふふ。どうぞご随意に。わたくしは、手加減など望みません」
強がりである事は傍目にも明らかだった。やはり明智家の英才教育の一環として習ってきた護身術では、川神一子には及ばない。現実としてねねの身体にはダメージが蓄積し、今も足元がふらつき掛けている。表情は苦しげで、歯を食い縛りながらどうにか立っているのが分かる。
しかし、ねねはあくまで自分の本来の戦闘スタイルを表に出そうとしなかった。自分達を見守る観客達の数百の視線を前に、数百の監視の目を前にして、学園外に居る時のような自由奔放な動きを晒す事が出来ずにいた。
『ボクはね、皆の前ではお嬢様でいないとダメなんだ。周囲の人たちの理想になれる、高貴で慎ましやかな、ロシアンブルーみたいなお嬢様。その言いつけを破ったら、ボクはあの家に連れ戻されるかもしれない。退屈で押し潰されるような狭い狭い箱庭に。ボクは……それが怖くて仕方がない』
昨晩の語らいの中で彼女が零した言葉を、俺は思い出していた。また、そんな彼女に対して、俺が掛けた言葉も。
やはり言葉は無力だったのだろうか。所詮は仮初めの主人に過ぎない俺の声では、抑圧への恐怖に震える彼女の心には届かなかったのか。
そんな俺の諦念を後押しするように、事態は更に悪い方向へと動く。
「貰った!」
左ストレートに合わせた一子の蹴りが、ねねの脇腹を強烈に打ち抜いた。あの打撃の貰い方は不味いな、と嫌な汗を流しながら分析する。位置を考えれば、恐らくレバーにかなりのダメージが入っただろう。
実際、相当に効いたのか、声にならない呻きを上げて、小柄な身体がぐらりと傾く。それは素人目にも分かる、あまりにも大き過ぎる隙だった。
そして、武神の妹・川神一子は、その決定的な隙を見逃すほど甘くはない。
「今っ!川神流奥義―――“蠍撃ち”っ!」
超高速の正拳がねねの腹部に容赦なく突き刺さり―――その身体を吹き飛ばした。
「家柄、血筋の呪縛、か。……見ての通り、俺の出自はロクなもんじゃない。それこそ明智家の人間から見ればゴミみたいなものだろうな。それも飛び切り臭う生ゴミの類だ。だから、俺はお前の気持ちが分かるなんて言う気はない。だから同情も出来ないし、具体的な解決策を提示する事も出来ない」
私が漏らした弱音のような言葉に、彼は至って真面目な顔で返す。
共感をバッサリと切り捨てるような彼の態度に、私はむしろ安心していた。
「それでいいよ、同情なんてこっちから真っ平さ。それと何処ぞの大佐じゃあるまいし、ボクは人の事をゴミのようだとか言わないよ。全く失礼しちゃうな」
「ああ、別にお前の事は言ってないさ。最近お近付きになった不死川家のご令嬢がいつもそんな調子だからな、思い出しただけだ。……それはともかく、一つ気になっていた事がある。俺の気の所為かもしれないが、お前――嘘を吐いてないか?俺にはお前が、姿を偽っているような気がしてならない」
彼の発した疑惑の言葉に、私は心臓が跳ねるのを自覚した。そこまで気付いているのか。込み上げる当惑と焦りを無理矢理に押し殺して、私は平静を装って言葉を紡ぐ。
「キミの言いたい事が分からないね。ボクの猫被りの事なら、それは明智家の目の届くところ、学校の中だけの話だよ」
「―――猫被り、か。猫被りね。実を言うと、俺には良く分からないんだよ。お前の被っている“猫”の正体が。どうにも曖昧で、捉えられない」
「……」
「さて。本当のお前は果たして何処に居るんだろうな、明智ねね」
胸の内を見透かしたかのようなその言葉に、“私”は答を返す事が出来なかった。
そんな私を意に介さず、彼は淡々と言葉を連ねる。
「学園の中で演じているお嬢様。今こうして俺と話しているお前。俺には判断が付きかねているんだ。どちらと話している時も、俺はお前の本心と向き合っている気がしない。“それ”は本当に、お前なのか?」
「……」
わたくし。ボク。私。
“わたくし”は、明智家の令嬢としての明智ねねの姿。抑圧を象徴する仮面。
“ボク”は、憧れの人、師匠を模倣した明智ねねの姿。自由を象徴する仮面。
そして“私”は――そうだ、私は未だ何も決めていないのだ。何一つ決断せず、中途半端なままで日々を過ごしている。学園の中では明智家の顔色を窺って自分を抑圧し、一度外に出れば“自由”とやらを謳歌する。そして、その何れもが本当の私ではない。どっちつかずに二つの猫を使い分けて、その間に挟まれて無様に苦悩している。
そう、私が本当に心の底から自由を願い、気侭に生きたいと思うなら、話は単純。明智の家を捨てればいいのだ。そうするだけで私を縛るものは消失し、師匠のように心の赴くままに日々を過ごせるだろう。当然ながら明智家の令嬢という身分を捨てた私は財政的なバックアップを同時に失い、川神学園の学費も支払えず、入学直後に退学となるのだろう。明智家が全国各地に手を回して、私から就職の機会を奪う事も考えなければならない。しかし、あれほど憧れた自由が、求め続けた“夢”が手に入るのだ。その程度の代償が何だと言うのだろうか。
―――分かっている。それでも私が現在の半端な立ち位置を続けているのは、私がそれらを手放す決心が付かないからなのだと。
私はきっと、不安なのだ。明智家の潤沢な財力に頼って育てられ、経済的に何一つ不自由なく十五年の人生を歩んできた私が、広い世界に一人放り出されて生きていけるのか。常に家の監督下に置かれて両親の言うがままに生き方を決めてきた私が、手に入れた大き過ぎる自由を持て余さずにいられるのか。
首輪を嵌められ、鎖で繋がれて。思えば幼少の頃から、私は誰かに飼われていた。
それは、他ならぬ私が、心のどこかで望んでいた事ではなかったか。自由を知らない私は、誰かに鎖で引っ張って貰わなければ、進む事すら出来ないのではないか。
だからこそ、“私”は“ボク”で“わたくし”なのだろう。自身の在り方すらも定められない私の脆弱さを、彼は見抜いてみせたのだ。
「まあ、答えたくないなら別に構わないさ。所詮は俺が同類だからこそ感じた、些細な違和感だ。答を知らなくても大した問題にはならないだろうからな」
沈み込んでいた私を気遣うように、彼は殊更軽い調子で言った。
「……話を変えようか。構えなくてもいい、ちょっとしたセールストークだ。俺に飼われる事で得られるメリット諸々について語らせて欲しいんだが、お時間を頂けますかね?」
「ごめんなさい、急いでるんで」
「第一の利点だが、まずは食だな。我が織田家の誇る鉄人・森谷蘭が腕を振るった絶品料理の数々を、何と毎日!それも三食!味わえる。週に一回、景気の良い時には週に二回、蘭お手製の和菓子も付いてくるという豪華なおまけ付きだ。いやこれがまた絶品でね」
私の言葉を全く気に留めず、彼はぺらぺらと言葉を連ねた。止めたところで無駄なんだろうな、と私は早々に諦めて大人しく聞きに回る事にする。
そろそろ彼の素の性格は掴めてきた。呆れるほどにマイペースで自己主張が激しい。そして無駄に饒舌だった。普段、被っている猫のお陰で満足に喋ることが出来ない分、こうして舌を動かす事で取り戻そうとしているのだろうか。抑圧と反動。まるで自分を見ているみたいだ、と私は内心でクスリと笑った。
「第二に家事だ。我が織田家の誇る家政婦・森谷蘭がおはようからおやすみまで、お前の生活をサポートしてくれるぞ。朝起こしに来るのは勿論、部屋の掃除に洗濯、破れた服の修繕から膝枕で耳掃除まで何でもござれだ。それはもう、自分がどんどん駄目人間になっていく気分を味わえる事請け合いですよ」
「ダメじゃん」
「それと、第三の利点だ」
不意に、真摯な眼差しが私を見据えた。ふざけていたかと思えば、すぐに態度が一変する。あたかも秋の天気の如く様相を変える彼の真意は、なかなか捉えられそうになかった。
「織田信長の臣下になると言う事は、織田家の一員に加わる事と同義。つまり、俺にとって家族同然の存在になる事を意味している。俺は両親がご覧の有様で、生まれた時から独りだった。傍目には想像し難いが、蘭の奴もあれで天涯孤独の身だ。そんな訳で俺達は、血縁に頼らない家族として共に生きてきた。雨にも負けず風にも負けず、病める時も健やかなる時も、ってね。―――だから、俺は家族を何よりも大事に思っている」
「……家族」
「そう、家族だ。話は戻るが、さっきお前が言っていた“明智家の呪縛”。俺は同情しないし、具体的な解決策は無い、と他人事の如く切り捨てたが。仮にそれが明智ねね個人ではなく、俺の家族が抱える問題だと言うなら……俺は全力を以ってその悩みを排除するつもりでいる。だから、ねね。色々な思惑やら利害やら本音やら建前やら全部ひっくるめて、単刀直入に訊くが――俺の家族にならないか?」
彼の目に冗談の色はなく、彼の言葉に欺瞞の影はなかった。
家族ってなんだろう、と。随分と幼い頃に考えた事があったのを、思い出す。
私の両親は“私”を愛してはくれなかった。彼らが愛していたのは“わたくし”という仮面で、明智家の名を穢す事無く立派に継いでくれる誰か。怠惰でその割に退屈を嫌う“私”という人間を、むしろ彼らは憎んですらいた。親子なのに。同じ血を引いた家族なのに。
そうだ、私はずっと家族が欲しかった。
悩みを何でも相談できて、解決出来ないときは一緒に悩んでくれて、賑やかにお喋りしながらテーブルを囲んで、時には本音をぶつけ合って喧嘩して、互いに許し合って距離を縮めて。そんな、皆が当たり前のように持っているという普通の家族を、心の中ではずっと欲していた。
かつて多くのものを私に与えてくれた師匠の事を、私は心の中では血の繋がらない姉だと思っていた。だから、彼女が手の届かない何処かへ去っていった時、私が抱いた喪失感は計り知れないものだったのだ。
そして、あの時から私の胸中には罪悪感が常に居座っていた。私と出会わなければ師匠はあの街を追い出される事もなく、気侭な生活を続けていられたのに、と。
明智家の権威は、まさしく呪いだ。関わった人間の人生を狂わせて、結果として私の周囲から近しい人間は消え失せる。私は取り残されて、独りになる。
だけど、ひょっとすると、もしかしたら。
「――キミ達は」
「ん?」
「キミ達は、“私”の前から居なくならない?」
それは、咄嗟に口をついて出た言葉だった。いつものように打算を巡らせた、理性でコントロールされたものではなく、込み上げる感情と感傷に任せて吐き出した生身の言葉。私は慌てて口を噤んだが、しかし一度発してしまった声を取り消す事は出来ない。私は縮こまるようにして、彼の答えを待った。
「何を言っているのやら。家族を置いて蒸発なんてクソッタレな真似、俺の親父だけで十分だ。立派な反面教師がいるってのに、他ならぬ俺が同じ過ちを犯すとでも思うか?そんな風に思われてるというだけで心外だよ、俺は」
「でも!明智家に関われば、きっとキミ達は今のままじゃあ――」
「明智家だと?ふん、生憎と、高貴なる家柄だの高貴なる血筋だの、そんなものは心の戯言で聞き飽きてるんだよ。俺の抱える“夢”を聞いただろうが、ねね。俺が明智家なんてお山の大将に阻まれて立ち往生するなどと思ってたら大間違いだ。俺の目指す先はチンケな地方の有力者なんて歯牙にも掛けない、遥か頂にある。ここまで言っても分からないなら、もっと簡単明瞭に断言してやる――明智家如き、織田信長の敵じゃあない」
不遜とも言える程の自信に満ち溢れた彼の言葉は、紛れもない本心だと私には分かった。もし嘘を吐いていれば、同類の私にはすぐにそれと知れる。故に彼の自信に虚飾はないのだろう。自分の実力を過信して思い上がるようなタイプでもない。となれば、彼は至って客観的に状況を把握した上で、先程の言葉を口にしたのか。明智家など敵ではない、と。私を置いていく事はない、と。
その事実を悟った瞬間、私は自身の中で熱が生じるのを感じた。その温かい熱は胸の辺りからどんどん上昇して、目頭に達して溢れ出しそうになる。私は慌てて彼に背中を向けた。ダメだ、こんなのは私のキャラとは違う。私はもっとクールで、何事も茶化すように見守る傍観者こそが似合うのだから。そんな風に思いながらも、私は自分の口から言葉が勝手に飛び出すのを止める事が出来なかった。
「わ、私の呪いを、解いてくれるの?」
「無論。造作もないな」
「ほ、ホントに、私を――自由に、してくれるの?」
「お前も疑り深い奴だな。俺を信用しろよ、明智ねね。俺は確かに嘘吐きで下種な悪党かもしれないが、そんな奴でも家族は大事にするんだ。いや、そんな奴だからこそ、と言うべきかね。……とにかく、俺から言える事は一つだけだ」
一旦言葉を切ると、私の肩を掴んで、正面から向き合えるように身体を回転させる。
そうして彼は、互いの吐息が掛かるような至近距離から私の目を覗き込んだ。
「―――俺を信じろ。頼って、任せてみろ。そうしてくれなけりゃ、俺はお前を家族とも呼べやしないんだからな」
目と鼻の先の場所から真っ直ぐに向けられた、揺るぎない瞳と声に対して、私は、
「ええっと、確か軍師曰く、“キューソネコカミ、ある程度追い詰めたら下手に追い討ちを掛けずにさっさと走り始めるように”だっけ。このまま置いてくのはちょっと気が引けるけど、勝負は非情なモノ。アタシは手加減せずにゴールまで一直線に駆け抜けるのみ!」
足音が聞こえる。砂を蹴り上げる音。
ああそうか、川神一子がようやく徒競走を始めたのか。と言っても現状だと競走ですらないんだけどね――そんな風に自分がまだ思考を巡らせられる事をしっかりと確認してから、私は勢い良く跳ね起きた。どうやら一瞬だけ意識が飛んでいたらしい。全く、余計なタイムロスをしてしまった。
「うぐっ……!」
立ち上がった瞬間、様々な苦痛がごちゃまぜになって脳を突き刺す。痛い。苦しい。痛い。吐きそうだ。真正面から正拳を叩き込まれた事で、特に臓器へのダメージが洒落にならない。
敢えて決定的な隙を晒して大技を誘い、インパクトの瞬間に合わせた完璧なタイミングで自ら後方に跳んだにも関わらず、この威力。川神一子、想像以上の力量の持ち主だ。武神の妹という肩書きは伊達ではない、か。
まあしかし――それも想定の範囲外と云うほどでは、ない。私が今こうして立ち上がっている時点で、私の計算は何一つとして狂っていない。
先ほどの乱打戦で無数の打撃を浴びた身体は、あちこちが節操無く痛みを訴えている。元々が回避に特化した身体で真正面からやり合うという無茶をやらかしたのだ、当然の結果。
だが、鍛え上げた自慢の両脚は健在だ。何の問題もなく地を蹴り飛ばして、真っ直ぐ駆け出す事が出来る。ならば、大丈夫だ。何も心配はない。
グラウンドの一周は約三百メートル。たかだか三百メートルだ。五十メートル走を六回繰り返せば終わってしまう、笑えるほどの短距離。ならば、多少身体にガタが来ている程度の事では勝負に支障を来すまい。
全力で駆けて、駆け抜ける。それだけだ。
「フゥー……」
一度だけその場で深呼吸をして、見る見る内に遠ざかっていく対戦相手の背中を見据え、私は地面を蹴った。
空気を切り裂き砂を巻き上げて、前へ。観客達が何やら歓声を上げているようだが、まるで耳に入ってこなかった。まあ周囲の雑音など、聞こえても仕方ないので構わない。どうでもいい。風切り音だけを引き連れて、駆ける。アドレナリンが分泌されてでもいるのか、全身を苛んでいた痛みはどこかへ消え失せていた。
嘘のように身体が軽い。風そのものと同化したように、次々と目に映る風景が流れ去っていく。余計なものを全て虚空へ捨て去ってしまったかの如く、足が軽い。走って走って走って、やがて川神一子の背中を視界に捉える。
彼女も確かに速いが、私はもっと迅い。先程の戦闘で、彼女は有無を言わさず私にトドメを刺しておくべきだったのだ。よりにもよって脚を使った純粋な走力勝負を私に挑むなんて愚かしい。身長差がある分だけ、歩幅の関係で有利だと踏んだのかもしれないが、そんなもの、所詮は誤差の範疇だ。
「っ!」
私が背後に迫っているのを感じ取ったのだろう、彼女の雰囲気に緊迫感が増し、元々速かった足が更に加速した。
なんだ、手加減無しとか言っておきながら今までは全力で走っていなかったのか、この嘘吐きめ。嘘吐きは泥棒猫の始まりだって言うのに酷い奴だ。
川神一子。川神院の師範代を目指して愚直な努力を続ける少女だと、彼は教えてくれた。
なるほど、幼少の頃から地獄のような鍛錬を自らに課していただけのことはある。凡才などとは到底信じられない実力の持ち主だった。先程の近接戦闘然り、現在の徒競走然りだ。
加えて、元が天才肌の人間でないだけに自分の力を過信してもいない。少しばかり油断が目立つ部分もあるようだが、それとて全力中の全力を出していないと言うだけで、決して手を抜いている訳でもない。敵に回すとなるとなかなか厄介なタイプの少女のようだ。
現に私は、全力で走り続けているにも関わらず、彼女との距離を埋められずにいる。かと言って離される事もない、という事は私達の全力は拮抗しているのだろう。
もはや彼女には僅かな油断もない。振り返って私の姿を確認するようなタイムロスに繋がる真似はせず、ひたすらに前だけを真っ直ぐに見つめて、ゴールテープを目指して駆けている。
素晴らしい集中力だ――実に素晴らしい。あまりにも好都合で、笑ってしまいそうになる。
私は地面を蹴り上げながら、不意に空を見上げた。青くて、広い。どこまでも果てしなく続く空。
『ネネ。カポエィラの起源をキミは知ってるかナ?』
脳裏を過ぎるのは師匠が残してくれた言葉の数々。私に自由の意味を教えてくれた彼女は、この空を何処かで見ているのだろうか。
私の夢は、自由を手に入れる事だった。両親の監督から逃れて、気侭に振舞う事だった。
だけど。今は、もう少し欲を出していいんじゃないかな、と、そう思っている。
彼と出逢って、私が新しく抱いた夢。それは今も世界を渡り歩いているであろう彼女といつかどこかで再会して、本当の自由を手に入れた私の姿を、胸を張って披露すること。
その夢を叶える為にも――私は、“私”である事を決めた。十六年もの間、逃げ続けてきた選択と向き合い、決断を下した。
夢は見るものではなく、叶えるもの。自分の手で、掴み取るもの。彼も彼女も、私の問いに対する答えは示し合わせたように同じだった。それならば、そういうものならば、立ち止まってはいられない。
踏み出す事を恐れるな、心配はいらない。不安はない。私は、もう独りではないのだから。
答を出そう。
私は、彼を信じる。
明智家の呪縛から解き放つと約束してくれた彼を。私を置いていかないと約束してくれた彼を、私は信じる。そう決めた。
だから―――こんなモノは、もう要らない。邪魔なだけだ。
私は風を受けて靡くウィッグを無造作に掴んで、勢い良く放り捨てた。バサバサと紛い物の髪が広がって、呆気なく風に流されて飛んでいく。
これで、私は解放された。ありとあらゆる束縛から、重力から。
身も心も軽い。今ならきっと、私はどこまでも飛べる。確信を胸に、私は大地を蹴った。
跳躍。高々と、羽が生えたように高々と、私は果てしない青空へ向けて飛翔する。
『わすれないで、キミのあしは、いつでもとびたてる。りっぱな、じゆうのツバサだよ』
「私の脚は―――自由の翼!誰にも縛られず、私が私らしく、自由気侭に生きるためにある!」
それはまさしくカポエィラの本領にして真骨頂。跳躍を起点に宙より繰り出される、アクロバティックな蹴撃。
そのジャンプの瞬発力は地を駆ける速度を凌駕し、どうしても埋まらなかった私と川神一子の距離を、一瞬だけ詰めた。私の脚は、彼女を射程に捉えていた。
「なぁ――っ!?」
前だけを見て真っ直ぐに駆けていた彼女は、後背の後輩の動向に注意を向けるのが遅れた。
今回ばかりは勝負に対する高い集中力が仇になったと言える。決闘開始時の接近戦にて、敢えてあの未熟な護身術が全てだと見せかけた事で、私が隠し持つ切り札への警戒が薄れていた事もあるだろう。それでこそ、わざわざ奥義の直撃を受けるフリをしてまで彼女の後ろを取った甲斐があるというものだ。
背後より急速に迫る気配に、咄嗟に振り返って防御の姿勢を取るが、間に合わない。
万全の迎撃態勢を整えるよりも先に、私の最高速度と全体重を乗せた脚が彼女の首筋――を僅かに逸れ、その肩口を薙ぎ払った。
「ぐぅっ!」
地面に踏ん張ろうと堪えたのは一瞬、不安定な姿勢では横合いからの強烈な衝撃を受け止め切れず、彼女は派手に砂埃を巻き上げながらグラウンドを転がる。一回転、二回転、三回転してようやく止まり、苦痛の呻き声を漏らしながら、よろよろと覚束ない足取りで立ち上がる。
「へっへーんだっ」
手応えはあった。あの様子ではもはや満足には動けないだろう、どうだ見たか私を散々痛めつけてくれた礼はしてやったぞ、と心の中で舌を出しながら、私は足を止める事なく駆け続ける。
例え決定打を与えたからといって、その場に立ち止まって勝ち誇るほど、私は呑気な性格はしていない。この決闘は“私”の晴れ舞台。そして新たな飼い主、新たな家族に勝利を捧げる為の大事な戦いだ。負けられない理由がある。下らない油断などで足元を掬われるのはゴメンだ。
鬱陶しいロングヘアが彼方へ消えた事で、身体はますます軽くなった気がする。いよいよ調子を増しながら四つ目のコーナーを曲がり、そして私は最後の直線に差し掛かった。白いゴールテープが前方に見える。目指す勝利まで、あと僅か。
「よーっし!」
そして、ラストスパートの為に最後の力を振り絞る。
そんな私の足元から、何の前触れも無く唐突に―――地面が、消失した。
「ふん。落とし穴、か」
「ふぅ、無事に引っ掛かってくれたか。ワン子が逆転された時はどうなる事かと思ったけど、これで一安心って所かな」
第四コーナーを曲がり終えた直後の地点、地面に腰まで埋まったねねが脱出に四苦八苦している様子を眺めながら、俺は苦虫を噛み潰すような内心を表に出さないよう注意して言葉を紡ぐ。
「成程。事前に第一グラウンドを決闘のフィールドとして指定していた以上、仕掛けを施すは当然、と云う訳か」
「まあね。とは言ってもそう簡単な話じゃなかったけど。無闇やたらと数を設置し過ぎてワン子が引っ掛かったら本末転倒だし、だからと言って少な過ぎても今度は効果を発揮せずに終わる可能性が高い。設置に際しては場所選びも考えなくちゃならなかった。最初から相手にトラップの存在を疑ってこられたら、幾ら巧妙に偽装した落とし穴でも見破られる危険があったからね。だからこその第四コーナー地点だ。勝負の最終盤、ラストの直線まで状況が進めば、周囲をじっくり観察してる余裕も無くなるだろう、と思った訳で。だから正直、明智って子が独走状態で来た時は作戦失敗かと思ってヒヤリとしたんだけど、どうにか思惑通り引っ掛かってくれて助かった」
満足気な様子で額の汗を拭っている直江大和を、卑怯だの姑息だのと罵る事は出来ない。あくまで勝利を得る為に最善を尽くし、合理的に策を巡らせる。彼はただ、軍師として求められる役割を果たしただけだ。見事にねねを罠に嵌めた手並みは賞賛すべきであっても、間違っても責めるべきものではない。些かイラッと来るのは確かだが。
「ついでに言うとあの落とし穴は特別製で、一度落ちたら復帰のために最低でも一分は掛かる。それだけの時間があれば、今の消耗したワン子でもゴールテープを切るには十分だ」
落とし穴に嵌ったねねの背後から、川神一子は着実に距離を詰めている。あと十秒もあればねねを追い越して、そして更に十秒あればゴールまで辿り着くだろう。ねねに残された時間はあまりにも短い。
しかし、俺の胸に焦りは無かった。何せここから見える彼女の顔には、邪悪と形容するのが相応しい、不敵なニヤリ笑いが浮かんでいるのだから。
「くく、やはり貴様等の認識は甘い。その程度の策とも呼べぬ小細工で、俺の“手足”を止められる心算でいるとはな。実に笑える話だ」
「……あの状況じゃ、俺には詰んでるとしか思えないけどね」
「それは貴様が明智ねねを知らぬが故の錯覚よ。武術の特性上、奴の鍛え方は下半身に集中している。それは即ち、本来上半身にも均等に割くべき鍛錬の比重を一方に傾けている事を意味する。言うに及ばず、その錬度は尋常なものではない――貴様が何を以って一分と云う数字を算出したのかは関知する所ではないが。それを奴に当て嵌めるのは、見当違いの的外れであると知るがいい」
俺の言葉を裏付けるかのような絶妙のタイミングで、ねねの埋まっていた下半身が勢い良く地中から飛び出した。引き抜かれた腰から下の部分は隈なく、砂と何かしらの粘液に塗れている。
「フゥッ!」
落とし穴から飛び出した勢いをそのままに逆立ちのようなポーズを取ると、ねねは地面に付けた両腕に力を込めて、おもむろに回し蹴りを放った。
その爪先が狙う先には対戦相手・川神一子。追い抜かされる直前で復帰して不意を討とうとねねは考えたのだろう。しかし、一度目の奇襲で大ダメージを被った事で懲りたのか、一子はねねの一撃を抜かりなく回避し、数間の距離を取って用心深く対峙する。
「はーっ、はーっ……やっと追いついたわ、大和の落とし穴が無かったらアタシの負けだった。でも、こうして捉えたからにはもう逃がさない!覚悟しなさい、一年生!」
「そんな風に右肩庇いながらじゃ説得力がないよ、先輩。もうボロボロでしょ、大人しく寝てればいいのにムリしちゃってさ」
ねねは一子を嘲笑う様に言い放つ。対する一子は怪訝そうに眉根を寄せて、首を捻った。
「……んん?何だか雰囲気変わったわねアンタ。髪も短くなってるし、どーいうワケなのかしら?」
「まー猫被りはもうおしまいって所かな。私は私、やっとそういう風に決められたからね」
「むむむ、いまいち良く分からないけど……ようやく本気を出す気になったってコトは間違いなさそうね。さっきまでとは気迫が違うわ」
感心したような一子の言葉に、俺は心中で深く頷いていた。
人の事を言えないほどに満身創痍でボロボロな姿のねねは、しかし全てを余さず吹っ切ったような晴れやかな表情で悠然と佇んでいる。ウィッグを取り去った彼女のボーイッシュな容姿は、その身に纏う気侭な雰囲気と良く調和していた。しなやかで強靭な四肢は、今までよりも伸びやかな印象を見る者に与える。その脚が繰り出したアクロバティックな跳び蹴りは、俺の目には素晴らしく優雅で奔放なものとして映った。
こうして彼女が本来の自分を観衆の目に晒す、という事はつまり、明智家の目を恐れるのを止めた――即ち俺を信じて頼ってくれた、と受け取っていいのだろう。ならば主としてその期待と信頼には応えなければなるまい。
その辺りは兎も角として、十年ほど空白だった織田信長の第二の従者が、そして新しい家族が正式に誕生した訳だ。今夜は蘭に命じて普段よりも豪勢な食事を作らせよう、歓迎パーティーの一つも開いてやらないと――などと思考を巡らせる俺を余所に、彼女達の決闘は続いていた。
「さっきの跳び蹴りは効いたわ……この調子じゃしばらくは肩が上がりそうもないわね。やけに脚を鍛えてるな、とは思ったけど、ここまで強烈だなんて」
「降参宣言なら大歓迎だよ。私も弱ってる相手をいたぶるのは趣味じゃないしね」
「じょーだん!大体アンタだってフラフラじゃないの。何だかんだ言っても、どーせそのコンディションでアタシと戦いたくないだけでしょ」
ビシィッ、と指を差しながら言う一子に、ねねはいかにも面倒臭そうに溜息を吐いた。
「はぁ、流石にバレバレかぁ。まあ仕方ないか、幾ら私の猫被りが巧くても、到底隠し通せるようなダメージじゃないしね。やれやれ、互いに崖っぷちって訳だ。笑えないね全く。――その辺を踏まえた上で、一つ提案があるんだけど、どうかな」
「まあ聞くだけは聞いてあげるわ。提案って?」
「単純な話さ。互いに余力なんてもう残ってないだろうし、次の一撃で決着を付けよう、って話。このまま泥仕合を繰り広げても観客達を退屈させるだけだし、消耗戦の末にダブルノックダウンで勝者なし、なんてお寒い結末を迎えるのはイヤでしょ?だから、次で最後。泣いても笑っても勝敗の決まる、一発勝負。断るなら、別にそれはそれで構わないけどね」
「――いいわ、乗った。上等よ。アタシも正直そろそろ限界だし、全力でぶつかれる内に終わらせたいしね」
「決まりだね。勝負が決まる頃にはキミは無様に這い蹲って気絶してるだろうから、先に言っておこうかな。いい戦いだった、私もそれなりに楽しかったよ」
「何から何までこっちのセリフね。後輩の癖にナマイキな態度がちょっとアレだけど、アンタは間違いなく強敵(とも)だったわ」
あまり友好的とは言えない言葉を不敵に笑いながら投げ合うと、両者は構えを取った。
「ふっふ、宣言しよう。キミに私の足技は見切れないね。今度こそ二度と起き上がらないように沈めてあげる」
「お姉さまじゃないけど、ナマイキな後輩にはキョーイクテキシドーって奴が必要よね。覚悟するといいわ!」
ねねの構えはカポエィラ独特のジンガと呼ばれるステップ。一子の構えは最初と同様、川神流拳法の型。
二人の間に漂う空気が瞬く間に研ぎ澄まされ、緊張を増していく。観客達の誰もが息を呑み、固唾を呑んで勝負の行く末を見守っている。ざわめきすらも消え失せ、痛いほどの静寂がグラウンドを支配していた。
そして――合図も何もなく、両者は同時に動いた。
「川神流奥義っ!」
一子は膝を落とし、重心を低く沈めて、真っ直ぐに迫るねねをギロリと睨み据える。
そして、ねねが己に向けて突っ込んでくるタイミングに合わせて溜め込んだ力を開放し、必殺の一撃を放った。
「“鳥落とし”ィッ!」
―――そして、一瞬の交錯の後。
両者のうち片方は地に足を着けて確りと立ち、片方は地に身体を転がして仰向けに倒れていた。
その構図はそのまま、この場における勝者と敗者を表している。
すなわち、無い胸を張って仁王立ちしている明智ねねが勝者。何が起きたのか理解できなかったのだろう、地面に倒れ込んで目を白黒させている川神一子が、敗者。
経緯はどうあれ、結果は誰の目にも明らかだった。
「え、え?あれ、な、何で?」
「必殺ネコパーンチ、なんてね!アハハハ、いやーものの見事に騙されてくれたねぇ。世間にはあんまり知られてないけどさ、カポエィラにも手技ってあるんだよ。ガロ・パンチって言うんだけど、それじゃ分からないよね。足技ばっかり警戒してるからパンチへの注意が疎かになるんだ。色々あって私が足技で勝負を決しに掛かると考えちゃうのは分かるけど、思い込みは良くないねぇ。反省して次の機会に活かすようにした方がいいかな、先輩。あ、ちなみに綺麗に顎に入ったからしばらくは動けないよ。そういう訳で、それじゃーおっ先にぃ~失ぅ~礼ぃ~」
「ちょ、アンタ、え、まっ!」
物凄く納得いかなさそうな表情で言葉にならない叫びを上げる一子を放置して、ねねはさっさと駆け出した。
最後の直線、彼女の走力を考えれば踏破するのに十数秒と掛からない道程だ。罠が仕掛けられていないか入念にチェックしながら進んでいるのでその二倍は時間が掛かっていたが、結局あの落とし穴が唯一のトラップだったようで、ねねは何のアクシデントに見舞われる事もなく悠々とゴールテープまで辿り着いて、そして。
「それまで!勝者、明智音子!!」
空気をビリビリと震わせる川神鉄心の大音声が、勝負の帰結を観客達に改めて知らしめた。
その意味が浸透するのに数秒を必要として、それから爆発的な歓声がグラウンドを埋め尽くす。
「うおおおお!いい勝負だったぞぉーっ!!」
ここに集ったギャラリーの多くは一子を応援していたが、しかし逆転に次ぐ逆転劇を繰り広げて辿り着いた決着の瞬間に、誰もが沸き立っていた。例え勝者が知名度の無い一年生であったとしても、彼らの送る歓声がその数を減らす事はない。
「良くやったぞ一年坊ーっ!オレは、オレは今!猛烈に感動している!」
「いやあいいモン見せてもらったよ、気紛れで見に来てホントに良かったなぁ」
「まさか二年生の、それも川神一子に勝つなんて……ああもう!ねねーっ!私のプッレ~ミアムな学園制覇計画に、抜け駆けは許されないんだから!覚えときなさいよーっ!」
次々と歓声が飛び交う。勝負方法が単なる徒競走ならばこれほどまでに盛り上がる事はなかっただろう。身体が限界を迎えるまで互いの闘志を燃やし、火花を散らして激烈に衝突する。そんなデッドヒートを目の当たりにして、観衆達の興奮と熱狂は留まる事を知らなかった。
「うぬぬぬ、アタシは納得いかないわ……あの状況で騙し討ちとかやらないでしょ、フツー!なーにが“私の足技は見切れないね”よ!」
やや時間を空けて、よろよろとゴール地点に辿り着いた一子が噛み付く。彼女の至極もっともな文句に、ねねは見ているこちらが腹立たしくなるようなウザい笑みを浮かべた。
「おやおや、負け犬の遠吠えが聴こえるよ?どうせ見切れないと分かってる足技を出すのは可哀相かなーと思ってわざわざ手技に切り替えたのに、まさかこんな風に怒られるなんて……私、悲しくて泣いちゃいそうだにゃー」
「うぬぬ、にゃろー、こぉんの腹黒ネコ娘!よーし、今度は武器アリで勝負するわよ!その犯罪レベルに腹立つ口が利けなくなるまでぶっ倒すわ!」
「可愛い後輩を脊椎動物亜門哺乳綱ネコ目扱いとはヒドい先輩もいたもんだね全く。それがキミなりのフレンドリーさの表れだって言うなら、そうだな、私はキミを脊椎動物亜門哺乳綱イヌ目扱いする事でそれに応えようと思う。ワン子、ほれほれワン子、ここ掘れワン子」
「ぐるるるっ!」
「フゥゥゥっ!」
放置しておくと何やらドッグファイトだかキャットファイトだか良く分からない二次的な争いが勃発しそうだったので、俺は早々に止めに入る事にした。
未だ興奮冷めやらぬギャラリーから抜け出して、ゴール地点で火花を散らして睨み合う二人の下に歩み寄る。
「勝敗は既に決した。ネコ。俺の臣下たる者、大衆の前に恥を晒す真似は慎め」
「あ、ご主人……うん、ゴメン。気を付けるよ」
憎まれ口の一つでも叩くかと思ったが、ねねはやけに素直に引き下がった。その後も無駄口を叩くことなく、神妙に控えて俺が口を開くのを待っている。その様子に違和感を覚えながらも、俺はねねの向かい側に佇む一子に声を掛けた。
「くく。悔しいか?川神一子。己に圧倒的に有利な舞台をお膳立てされていたにも関わらず、この有様。この結果が雄弁に物語っている――俺と貴様等2-Fを隔ち別つ、絶対的な格の差を、な」
「うぅぅ、確かに今回は負けたけど……純粋な実力勝負ならアタシだって」
「ならばその“純粋な実力勝負”とやらをセッティングしなかった時点で、貴様等は既に失敗している。軍師、直江大和と言ったか。恨むなら奴の無能を恨む事だな」
「なっ!ちょっとアンタ、大和を悪く言うのはやめなさいよね。大和はアタシのために策を練ってくれたんだから!」
「ふん。結果が全てだ。勝利を得られぬ軍師に果たして如何ほどの価値があるか、考え物だがな。まあ良かろう」
憤慨する一子に冷たく言い捨てて、俺は無言で控えているねねに声を掛けた。
「課題点は残るが、不利な形勢を己が才覚で乗り切った事は賞賛に値する。大儀であった」
「うん。ありがとう、ご主人」
やはり妙だ。どうにも反応がこいつらしくない。一子との決闘で頭でも打ったのではなかろうな、と割と真剣に考えていると、ねねは唐突にニコリと笑った。それは口元を歪めたニヒルで邪悪な笑いではなく、心の底から自然と浮かんできたような綺麗な微笑みだった。
不意打ちのような笑顔に俺が思わず言葉を失っている内に、ねねはすばしっこい動作でくるりと俺に背を向けて、観客達の方を向いた。
すぅぅ、と大きく息を吸い込み、そして小柄な体躯に不釣合いなボリュームの大声を張り上げる。
「―――私、明智ねねは、今ここに宣言するっ!織田信長が“手足”として、私は川神学園・第一学年の全てを掌握し、傘下に収め、主の前に献上してご覧に入れるとっ!異議のある者は私に挑み、力尽くで止めてみせるがいいっ!……私はあらゆる決闘を拒まず、受け入れる――川神学園の生徒諸君の挑戦を、心待ちにしているよ!」
観衆が静まり返ったのは一瞬で、「調子乗んなよ一年生!」「オレら舐めてんじゃねーぞチビ女!」「いいぞやれやれぇっ」「いやー気骨のある新入生がいて楽しいねぇ」「ねねっ!抜け駆け!禁止!この武蔵小杉を差し置いて目立つなんて許せないわっ」などと怒声やら罵声やら囃し立てる声やら良く分からない声やら、様々な感情が野次に乗って殺到する。
ねねは涼しい顔で平然とそれらを受け止めて、再びこちらに向き直った。ニヤニヤと笑いながら俺の顔を見て、悪戯っぽく言う。
「ご主人はホントに良い買い物をしたよ。自分でも知らなかったけど、私って、飼い主に対してはそれなりに献身的なタイプだったみたいだ。今ここに明かされる衝撃の事実!だね」
「……」
「ま、こういうのはランの役回りだろうから、今後は適当にやらせて貰うけどねー」
気恥ずかしかったのか、ねねは少し頬を赤くして、俺から視線を逸らした。
「然様か。答は、見付けられた様だな」
「おかげさまで。猫被りは本日を以って卒業だね。うーん、何ていうか、その、我ながら他のセリフを思いつかないのが恥ずかしいくらいに月並みだけどさ。えっと」
饒舌で口の軽い彼女にしては珍しく、まごつきながら言葉を紡ぐ。
新たな従者、新たな手足、新たな家族。暗闇の旅路を共に歩む、新たな同志。
怠惰で我侭、気紛れで自分勝手で、そして誰よりも自由奔放な嘘吐きの少女。
「これからよろしくね、ご主人」
しかしその時、彼女が浮かべた眩しい笑顔には、嘘や偽りの気配は少しも無かった。
かくして。明智ねねはこの日を境に、晴れて我が織田家の一員として迎え入れられた。
織田信長、森谷蘭、そして明智ねね。
後に思い返せば、俺の“夢”に至る果てしない道行は――――この瞬間にこそ、真の始まりを告げたと言えるのかもしれなかった。
~おまけの2-F~
「ワン子、お疲れ。残念だったね」
「あうぅ、負けちゃったぁ、Fのみんなに合わせる顔がないわ……。せっかくアタシが有利に戦えるステージを用意してくれたのに」
「何もワン子だけの責任じゃないさ。俺の策が甘かったんだ。相手が悪かったし、運も悪かった。まさかワン子と張り合えるレベルのスピードタイプが出てくるとは想定してなかった……どんな相手にも柔軟に対応出来てこその“策”なのに情けない。要反省だなこれは」
「ワン子も大和も、落ち込むのはまだ早いよ。“先鋒”が負けただけじゃ勝負は決まらないでしょ?」
「モロの言う通り。反省するのはいいけど、後悔してても始まらない。大事なのは次だよ」
「となりゃ、また例の特別対策ミーティングって奴の出番だな、ゲン。……ゲン?おーい、どうしたよ、んな所でボーっと突っ立って」
「あ、あぁ……島津か。いや、何でもねぇ……。ところで一子、身体は大丈夫なのか?あの明智って一年に貰った肩狙いの蹴り、かなり効いてたハズだ」
「う~ん、大丈夫!じゃ、ない、かも……たぶん、今日明日はちょっと使い物にならないと思う。むー、すぐにでもリベンジを申し込みたいのに、もどかしいわ」
「そうなると必然的に次に出る候補からワン子は外れるな。その辺りも含めて色々と考えないと。確かに、落ち込んでる暇は無さそうだ」
「(信長。お前は本当に……、―――ちっ、悪い癖だ。つい余計な事まで考えちまう)」
という訳で、今回でねねのターンは終了です。
サブタイトルの割にはネコが主役を張った割りを食ってワン子がいまいち活躍していない気はしますが、彼女の出番はまだまだありますのでここは今後に期待という事でひとつ。
そろそろ愉快な一年生勢を動かしていけたらいいなぁと願いつつ、それでは次回の更新で。