『全校生徒の皆さんにお知らせです。只今より第一体育館で決闘が行われます。対戦者は2-S所属、織田信長と、同じく2-S所属、不死川心。内容は特殊ルールを採用した直接戦闘。見学希望者は第一体育館に集合しましょう。繰り返します……』
――――B棟・2-Fクラス。
「決闘……また例の転入生か。この短期間で二回目とは、よほど血の気が多いのかね」
全校に鳴り響く校内放送の声にイベントの発生を知り、俄かに浮き足立った空気に包まれる教室の中、直江大和は呟きながら静かに思考を巡らせる。
様々な場所に張り巡らせた人脈を活用して、例の二人組についてのある程度の情報は掴んだ。もっとも、深入りするのは危ない、と知人の情報屋にストップを掛けられてしまったので、それほど有益な情報は得られなかったが……それでも彼らが川神のアンダーグラウンドにおいて恐ろしい程の勢力を有している事は十二分に把握できた。
「うーん。あの転入生、いかにも危ない感じだったし、やっぱり2-Sでも周りと上手くいってないのかも」
「俺様的にはSの連中に原因がある気がするけどな。あの連中、いつもいつも人を見下しててムカツクからよ。あの転校生にはギャフンと言わせて欲しいもんだぜ」
「ホントホント。特にあの不死川って奴マジ調子乗ってるし、ここらでお灸を据えてもらった方がいいよね~」
「お、お灸……なんかエロいぜ。ハァハァ、オレ見学の前にトイレ行って来る!」
大和は改めて騒がしい教室の様子を見渡す。
よりにもよってそんな連中が川神学園に現れ、隣のS組で暴れ始めているのだ。生徒達は彼らを“怖い”“ヤバい”などと評価し、遠巻きながら好奇の目で見ているが、果たしてその認識にはどれほどの危機感が伴っているのだろうか。あの二人組が以前の学び舎をどれほど容易く征服し、恐怖を振りかざして支配下に置いていたか知っても、こんな風に能天気な調子で浮かれていられるのだろうか。
彼らについて少しでも知ってしまった以上は、考えずにはいられなかった。どうしても募る不安は拭えない。
「難しい顔してるね、大和。例の転入生のこと考えてる?」
決闘の告知に湧くクラスの中で、普段と変わらない冷静さを保った声。気付けば幼馴染の椎名京が大和の顔を覗き込んでいた。
「ちょっとね。情報を持ってる身としては素直に騒げない感じ」
「周囲に流されないクールなところも素敵。抱いて!」
「お友達で。しかし、九鬼に続いて不死川か。これはどう見てもS組の有力者を狙ってるな……まずは2-Sを掌握して基盤を築いた上で、それから外部に手を伸ばす気かね」
大和は思索を続ける。皆の危機感が不足しているなら尚更、自分がその分まで彼らの動きに目を配っておかなければならない。それが“軍師”を自認する直江大和の役目だ。
場合によってはこちらから対処に動く必要もあるかもしれない――具体的な方策を脳内に描こうとした大和の思考を、不機嫌そうな声音が遮った。
「オイ直江。念の為に言っとくが、あいつらに関わるのはやめとけ」
「ゲンさん?」
孤高の一匹狼、源忠勝。学年一の不良として恐れられる男(ツンデレ)が鋭い目付きで大和を見据えて、苦々しげに言葉を続ける。
「あの二人への余計な手出しは控えろ。信長は狡猾で用心深い奴だ。何者かに策を仕掛けられたと気付けば、その裏側で誰が糸を引いてるのか必ず探り出す。手段を選ばず、だ。軍師だか何だか知らねぇが、住んでる世界が違う。お前らの手に負える相手じゃねぇ」
「集めた情報から考えれば、それは何となく理解できるけど……それにしてもゲンさん、例の転入生についてよく知ってるみたいな口振りだね」
「昔馴染みなんでな。だからこそアイツのヤバさは骨身に染みてる」
「なるほど」
大和は納得と共に頷いた。忠勝の勤め先、宇佐美代行センターの事務所は堀之外に位置している。川神周辺では間違いなく最も治安の悪い区域で、転入生の活動圏と見事に合致していた。忠勝自身、昔から代行人として危ない仕事にも手を出しているらしいので、例の二人とも接点があったのだろう。
「わざわざ自分から喧嘩売らねぇ限り、あの野郎に目を付けられる事もないだろ。もう一回言っとくが、あいつに関わるのはやめとけ。それがお前の為だ」
「あ、やっぱり俺のこと心配してくれたんだ。やっぱりゲンさんは優しいなぁ」
「ちっ、同じ寮に住んでる同級生が行方不明になったりしたら俺の寝覚めが悪いからだ。勘違いしてんじゃねぇ」
お約束の返事を受けて何となくほっこりした気分になりながら、大和は一旦思索を打ち切った。
警告の言葉を告げる忠勝の表情はかつてない程に真剣なものだった。つまるところ、それほどまでに危険な相手と言う事なのだろう。武力においては世界最強の姉を唸らせるレベルで、しかも単純な強さのみならず知略も相応に備えている――それが真実とするならば、正しく反則級だ。軽々しく考えるべきではない。
やはりしばらくは慎重に様子を窺って、情報を集めよう。何かしら策を練るにしてもそれからだ。風間ファミリーの軍師として、軽挙妄動で皆を危険に晒すような真似をしてはならない。あくまでクールにクレバーに行動しなければ。
「大和~!何ボーッとしてんの、置いてくわよ!」
「ワン子。マテ」
「うっ、なぜだか逆らえないこの感じ……でも待たないわ!こんな面白そうな決闘、見逃したらコトよ!」
まあ今は取りあえず目前の決闘だ。転入生の視察も兼ねて、不死川心の泣き顔でも拝みにいきますか――と鬼畜軍師・直江大和はズレた方向に思考を切り替えた。
―――C棟・女子トイレ前廊下。
「うふふ、タイミング悪く校内放送を聞き逃してしまいましたわ。武蔵さん、どのような内容だったか教えて頂けますこと?」
「決闘よ決闘、それも例の転入生と不死川家のご息女の戦闘形式!織田信長……早くも学年制覇に向けて動いているわね。燃えてきたわ、この超新星・武蔵小杉も負けていられないってもんよ」
「あらあら。暴力はいけませんわ、話し合いで平和に解決するのが一番でしょう?」
「そんな温い考え方じゃこの学園でやっていけないわよ。勝って勝って勝って勝ちまくって、プッレ~ミアムな伝説を築く!くらいの気持ちでいないとね。競争も何もない平凡な三年間なんて、つまらないじゃない」
「うふふ。そうですわね、わたくしも退屈な学園生活は送りたくありませんわ。退屈は心を腐らせる毒ですもの」
「なかなか分かってるじゃない。さーて、センパイ方の戦いを見学に行くわよ。今のうちに視察しておけば、私が二年生を制圧する時に役立ちそうだし」
「取らぬ狸の皮算用」
「え?何か言った?」
「うふふ。いいえ、気のせいでございますよ。さぁ……参りましょう、武蔵さん。少し、楽しくなってきましたわ」
不死川心が第一体育館に足を踏み入れた時、館内には既に相当な人数の生徒達が集まっていた。決闘スペースを確保するためだろう、四方の壁に沿うようにして人垣を作っている。心が体育館の中央へと歩を進めると、数多の視線が自分に集まるのを感じた。
「けっ、見ろよ。やっと来やがった」「おせーんだよ、悠長に構えやがって」「まぁいーんじゃないのぉ?着付けとか時間掛かりそうだしぃー」「てか決闘でもあの服かよ、戦いを舐めてんじゃね?」「さっすがお金持ちは違うねー」「ボコボコにされちゃえばいいのにねー」「あの転入生なら期待できちゃう感じじゃん?」「アハハ楽しくなりそうな予感」
ただし、そこに好意的な感情はない。良くて好奇心、それを除いたほぼ全てが嫌悪と侮蔑に満ちた悪意の視線。
不死川心は、学園中の嫌われ者だった。
(ふん。野蛮な山猿どもめ)
無遠慮にジロジロと自分を見つめる群衆の目を、心は傲然と睨み返す。2-Sクラスにいる時は多少はマシだが、一歩でも教室を出て校内を歩けば、現在と似たような感情に晒されるのは日常茶飯事だった。今更この程度の悪意に怯むようなことはない。
ニタニタと不愉快な笑みを浮かべてこちらを見ていた男子生徒と目が合う。慌てたように視線を逸らし、笑みを引っ込めた。
馬鹿馬鹿しい。大衆に紛れなければ悪口の一つも言えない、下賎極まりない連中。あんな低俗な人間が同級生だと思うと吐き気がする。
(まあよい。猿に構っている暇はないわ)
湧き上がる胸のむかつきを抑えながら、中央スペースに歩み出る。決闘の相手は既に到着していた。
2-Sの新顔、織田信長。周囲から向けられる様々な視線などまるで意に介した様子もなく、無表情のまま悠然と佇んでいる。有象無象の矮小な意思などその存在だけで呑み込んでしまいそうな、絶対的な存在感。その姿は見る者の心に否応なく畏怖の念を植え付ける。
それが何故か今は、腹立たしかった。
「高貴な此方がわざわざ足を運んでやったのじゃ、用意は出来ているのであろうな?」
「ふん。貴様こそ心の準備は出来ているのか?くく、決闘に家柄の貴賎は持ち込めんぞ」
信長が嘲るように口元を歪めて言い放つ。どこまでも自身を見下したその態度が、本当に腹立たしい。この場所に到着するまでの時間でどうにか抑え込んだ怒りの炎が、再びメラメラと燃え上がり始める。
『一瞬で終わっても余興になるまい。手心を加えてやろう』
脳裏にリフレインするのは、決闘場所に向かう前に2-S教室で彼女に向けて放たれた、相手への侮りに満ちた余裕の言葉。その言葉の証明として――現在、信長の周囲の床にはカラーテープを用いて小規模な円が描かれていた。半径一メートルほどの狭いサークル。その中心点に立って、信長は心と対峙している。
「両者揃ったの。それでは改めてルール確認じゃが、内容は武器を用いぬ純粋な格闘戦。常と同様、わしが戦闘不能と判断した時点で勝敗を決する。ただし特殊条件として、織田ノブ「織田でいい」……織田は床に描いた円の中から一歩でも出た時点で敗北とみなす。……今更じゃがこのルールで本当に良いのかの?移動を制限される、というのは相当な枷になるのじゃぞ?」
川神鉄心の念を押すような問いに、心と信長は同時に頷いた。
「当人達の合意があれば、いかなるルールであれ採用する。決闘システムに則れば何ら問題はあるまい?」
「調子に乗って手心を加え、無残に敗れる。これほどの恥はあるまい。確かに腸は煮えくり返るようじゃが、こやつの思い上がりをへし折ってやれば気も晴れようぞ。ほほほ、恥辱と悔しさに歪む表情が今から目に浮かぶようじゃ」
まあ実際のところ、このルールを提示された時は怒りのあまり頭が真っ白になって、「後悔させてくれるわ!」と売り言葉に買い言葉で条件を呑んだのだが。
しかし冷静さを取り戻した頭で改めて考えてみても、この展開は心にとって悪いものではない。一時的にプライドを傷つけられる事を我慢さえすれば、何のデメリットもリスクも負うことなくアドバンテージを得られるのだから。
彼女は織田信長という男を決して甘く見ている訳ではなかった。不死川の名に相応しい実力を身に付ける為、幼少の頃より武道に触れてきたのだ。眼前の男がどれほど危険な“気”を纏っているか、感じ取れないような雑魚ではない。
しかし、正直な所を言えば、心には信長の実力の底をまるで見通す事が出来なかった。彼女のように武の実力がある程度以上のレベルに達すると、相手がどういったタイプの武道を修めているか、その立ち振る舞いから推測できるものだが―――信長の戦闘スタイルは、まるで予測が付かない。どう頑張ってみてもイメージが浮かばないのだ。
普段の足運びも重心の移りも全てが不規則で、頭の中で己の知る特定の型に当て嵌めようとする度、呆気なく変動してしまう。もしそれが手の内を隠す目的で意図的に行われているなら、恐ろしく巧妙な手口と言えた。
相手の実力は未知数。だが、少しでも制限を掛けておけば勝率が上がるのは間違いない。
「まあ本人が納得した上なら良いんじゃがのぉ。ふむ、ギャラリーも集まった頃じゃし、そろそろ仕合を始めようかの」
鉄心の言葉に頷きを返し、念の為に心は信長から四メートルほど離れた地点まで移動した。
信長の行動範囲は実質的に周辺一メートル。それ以上動けば即座に問答無用の反則負けである。当然ながら攻撃範囲も相当に狭いものになるだろうが、何せ相手が相手だ。どのような手札を用意しているか判ったものではない。警戒しておいて損は無いだろう。
彼女が開始時の立ち位置を定めた事を確認してから、鉄心は建物を震わせる大音声を張り上げた。
「―――これより川神学園伝統、決闘の儀を執り行う!!」
一瞬の静けさを経て、大いに湧き上がるギャラリーの歓声。
「両者とも、名乗りを上げるが良い!」
「2-S所属。織田………(溜め)………信長」
「信長さまー!蘭は、蘭は最前列にて主のご武運をお祈り申し上げております!」
「同じく2-S、高貴なる不死川心じゃ。ほほ、此方のように己が名を誇れぬとは哀れなものじゃな?」
「あはは、なんだか地元なのに超アウェーで可哀相だから僕が応援してあげるー」
「うっさいわ!余計なお世話なのじゃ!」
榊原小雪の悪意があるのかないのか良く分からない声援に怒鳴り返しながら、心は己が対戦相手へと視線を移す。
決闘直前の緊迫した空気に昂ぶるでも緊張するでもなく、織田信長はあくまで冷然と構えている。
一目見た時から、その余裕に満ちた態度が気に入らなかった。自らの手でその自信をへし折ってやりたかった。クラスメート達に恐れられながらも、いとも容易く自分の居場所を掴み取った生意気な庶民を、見返してやりたかった。庶民の癖に不死川家の息女を路傍の石のように扱う傍若無人さを、叩き潰してやりたかった。
何より、庶民の癖にSクラスの誰からも認められるこの男に、自分自身を――認めさせてやりたかった。
(我ながら理解に苦しむのじゃ。だが)
そうする事で何かが変わると思った。故に、不死川心はここに立っている。
「さて、これが最後の機会じゃ。今すぐ地面に這い蹲って泣いて謝れば許してやっても良いぞ?此方の心は海空の如く寛大じゃからな」
「まさしくその通りだな。くくっ」
「な、何を笑って――」
「今すぐ地面に這い蹲って泣いて謝った程度で許してやれるとは、その寛大さには頭が下がる。俺は然様に寛大にはなれそうもない。故に、貴様に逃亡の機会はもはや無いと知れ」
ゾクリ、と背筋に氷柱を突っ込まれたような寒気が走った。次いで全身を襲う苛烈な重圧に、一瞬で膝が折れそうになる。肺に取り込む空気にまるで酸素という成分が含まれていないかのように、呼吸が苦しくなる。
これは、そう、“殺気”だ。レベルが数段違うとは言え、一週間前に信長が転入してきた際にも同じような感覚を味わった覚えがある。故に殺気については武道の師に話を聞き、対処の方法もアドバイスされていた。曰く、「気を強く保つ事、そして決して心を折らない事」。心は信長への敵愾心と怒り、そしてプライドを糧として、自身を縛る肉体を叱咤する。
(高貴なる此方が卑しい貧民風情に膝を屈するなど、有り得んのじゃ!)
無意識の内に震え出す身体を必死に制御しながら、心は目の前の男を睨みつけた。信長は相変わらず嘲笑うような冷たい表情で、悠然と彼女の様子を眺めている。
ただし、先程までと決定的に異なる点は……目視を可能とする程のドス黒い“気”が、全身から立ち昇っている所だ。触れるだけで生ける者全てを死に至らしめてしまいそうな、本来ならば生命エネルギーである筈の“気”とは対極に位置する性質を感じさせる、異常なまでの負のオーラ。
(な、なんじゃこれは……)
これほど禍々しい気を発する者を、心は知らない。彼女が師と仰ぐ武人の全力ですら、この異形にはまるで届かないだろう。粟立つ肌が、速まる鼓動がその事実を教えてくれる。
怖い。目の前の男の存在が、怖かった。
(今までこやつからこれほどの“気”は感じられなかった――擬態だったか?決闘が始まるまでは隠していた、とでも?此方が闘いから逃げぬように?)
たらり、と冷や汗が額を伝うのが分かった。
最初から危険な相手だとは判っていた。判っていたが、その認識は滑稽な程に甘かったのではないか。
怒りに目が曇り、相手を見誤っていたのではないか。
この男は本当に、自分の手に負えるような存在なのか。
彼女の本来の気質、弱気で臆病な部分が、怒りと誇りで押さえつけて来た脆弱さが、ここに来て顔を覗かせる。先程まで全身に滾っていた戦意と自信を、奪い去っていく。
(此方はこやつに、勝てるのか?)
その弱さを心中から払拭する事も、心中にて消化する事も出来ないまま。
「いざ尋常に―――」
鉄心による決闘開始の合図が、無慈悲に響き渡る。
「―――はじめぃっ!!」
そして、決闘の開始から十分が経過した。
心は動かない。信長は動かない。
心は動けない。信長は動けない。
―――戦闘は、紛れもなく膠着していた。
「何やってんだ、さっさと始めろよ!」
「なにあれー、あんだけ偉そうなこと言ってビビッちゃってるの?ダッサー」
全く動きの無い戦闘内容に痺れを切らした観衆が、心に向けて次々と野次を飛ばし始めたのも、既に数分前の出来事。
しかし、今の彼女には周囲の心無い罵言に反応する余裕など無い。唇をきつく噛み締め、目を見開いて、前方に佇む男――信長の姿を凝視する。
『この線を、死線と思え。此岸と彼岸の境界。徒に踏み入れば、最期よ』
決闘開始の寸前に信長はそう嘯き、そしてそれ以来、一歩たりともその場を動いていない。特に構えを取るでもなく警戒心を見せるでもなく、ただ普段通りの自然体で円の中心に陣取っている。自ら課した制限によって、彼はこの狭いサークルを踏み出して攻める事は出来ない。故に、相手から攻めて来ない限りは動けない。
(どうすればよいのじゃ……!)
そして、心もまた、その場を一歩も動かなかった。動けなかった。動いた所で無意味だと言うなら、止まっている他に選択肢などないではないか。
不死川心は柔道家である。幼少の頃より優秀な師の下で鍛え上げた腕前は、非公式ながらも全国大会で覇を競えるレベルだ、と師に太鼓判を押されている。全体的に武力の高い人材で溢れたこの川神学園でも、武器を用いない純粋な接近戦で心に敵う相手はそう何人も居ないだろう。誰が相手であれ、懐に入り込めさえすれば、十八番の飛び関節で一撃必殺を狙える。
――そう。懐に入り込めさえすれば、だ。織田信長の懐まで接近するには、必然的に彼の用意した“死線”を越えなければならない。
(ダメじゃ。どう足掻いても、あの線を越えた瞬間、此方は……)
何度も何度も頭の中で試行錯誤を繰り返した。三百六十度、あらゆる角度からあらゆる方法で奴に肉薄する方法をシミュレートした。
が、その全ての試みはあの“死線”によって阻まれ、無駄な努力に終わっていた。想像の中の自身はあの線を踏み越えた瞬間、何が起きたかも理解できない内に悉く絶命しているのだ。ある者は首をへし折られ、ある者は腸をぶち抜かれ、ある者は脳天をかち割られて。実際にそれらの事象を成し得るような信長の技を見た訳でもないのに、“殺される”という強迫観念だけが肉体と精神を強固に支配している。
チープなテープで描かれた小さな円が、あたかも絶対不可侵の領域を生み出しているような感覚。仮に現実でシミュレーションと同じ行動を取れば――イメージの己と同じ末路を辿るに違いない、と。そんな錯覚が、彼女の身動きを完全に封じていた。
「ふざけんじゃねーぞお嬢様よぉ、こっちは昼休みを削って見学に来てんだぞ?」
「名家だの何だのって散々威張り倒しといてそのザマなの~?マジ有り得ないんですけど」
攻め手を見つけられない心に対して、野次が殺到する。殺気の届かない安全圏から見物に興じる生徒達には、心の葛藤も理解できない。ハンデの所為で信長が動けないのを良い事に、戦いを放棄しているようにしか映っていない。
そしてそれは――普段から彼女を嫌っている生徒達にとって、恰好の攻撃材料であった。
「ま、結局は口だけの雑魚だったってことでFAっしょ。完全にビビっちまってるし」
「あの転入生が怖いのは判るけどさー、だったら最初から決闘なんかすんなって感じ?肩透かし食らっちまったよ」
(静かにするのじゃ山猿どもめ!)
耳を傾ける価値も必要も無い。雑音を意識から締め出しながら、心は実を結ばない試行錯誤を続ける。
右から左から上から後ろから正面から、走って歩いて跳んで円の中に入り――即座に全てが殺された。
どうすればいい、どうすれば。きつく握り締めた掌はもはや感覚を失っている。歯を食い縛って、消え失せてしまいそうな闘志を繋ぎ止める。
あの男を倒さないと。庶民の分際で高貴な自分を見下したあの男に思い知らせてやらないと。
「なあアレ、転入生の方も動かないけどさー、なんでわざわざそんなルールにしたんだ?ハンデにしても変じゃね?もしかして……買収とかじゃねーの?」
その時、不意に頭に入り込んだ声に。
心は一切の思考を放棄して、呆然と立ち尽くした。
――それは正しく、全てを崩壊させてしまう言葉だった。
「うわ、ありえるかも。不死川家の財力使えばそれくらい余裕そうだしねー。汚いなぁ」
「伝統ある決闘で八百長使うとか最悪だろ、これだから金持ちのお嬢さまは嫌だぜ」
ふっ、と。今まで己の中に必死で保ってきたモノが、急速に失われていくのを感じる。
(此方は、何をしておるのじゃろう)
ここで信長に勝って、それでどうなる?どうなると思っていた?
無知で愚昧で下賎な庶民共が自分の高貴さを、実力を認めて、恭しく頭を下げると思っていたのか?
「なぁそういえばさ、聞いたことあるかよ?不死川が親の七光りでS組に入ったってウワサ」
「あ~知ってる知ってる~。不死川家の権力で学校と取引して成績を捏造したって奴でしょ?セコイよねー」
「おいおいマジかよ、真面目にやってS落ちした奴らは浮かばれねぇな。ちょっと許せないぜ」
「あんな馬鹿っぽい奴がなんでSにいるのかずっと疑問だったんだけど、納得したわ。あーあー、そりゃ家柄にもこだわるわな、それがなきゃ何もできねーんだからよ」
ただその場に立ち尽くす心の胸に、言葉の槍が突き刺さる。
気にするな。無視しろ。あの連中は人間じゃない。野蛮な猿だ。所詮は下賎な存在、自分よりも遥かに下等な生物だ。だから気に留める価値もない。全然痛くない。
不死川心の崇高な努力はあんな猿共には汚せない。
毎日の予習復習も道場での厳しい稽古も礼儀作法の練習も独りで作る影絵も全てが比類なく高貴なもので、低俗な庶民とは何の関係もない所にあるのだ。
だから痛くない。少しも痛くない。
「ギャハハハ、プルプル震えてやがるぜあいつ、ダッセー!」
「ちょっとーやめなよー、あの子泣いちゃいそうじゃん!アハハ、泣いたらアンタのせいだかんねー」
「ちょ、マジかよ屈強なニイチャンに連行されちまうのかよ。下手な事は言えねぇなあ、おー怖い怖い」
「お金持ちって良いよなぁ、困ったらちょっと泣いてみせるだけでSPが飛んできて守ってくれるんだからよ。ホント羨ましいわー」
怒り、憎しみ、妬み、侮蔑。ありとあらゆる負の感情が四方八方から降り注ぎ、心に突き刺さる。
不死川心は、学園中の嫌われ者だった。
それでも、普段の心なら気にも留めなかった。山猿に品性は期待しておらぬ、それに引き替え此方は……と自身の磨き上げた典雅さを再認識して悦に浸るだけの事であった。
だが、今の自分は間違いなく高貴でも典雅でもない。自ら庶民に喧嘩を吹っ掛けて、屈辱的な手加減をされて、それでも何も、何一つ出来ずに立ち尽くしている。
あまりにも無様。不死川の名に泥を塗るような姿を庶民の前に晒している自分が、情けなくて仕方が無かった。
自身を守る誇りの鎧は砕け、怒りの盾は割れた。故に、言葉の矢は深く深く心に突き刺さる。
「どうせ戦えないんならよー、さっさと失せろよなぁ。時間が勿体ねぇわマジで」
痛い。
「引っ込みつかなくなってるのかもしれないけどさ、自業自得よねー。同情とかムリムリ」
それは、思わず泣きたくなるような、容赦なく鋭い痛みだった。
耳を塞ぎたいのに、もはや耳を塞ぐ気力も湧かない。どこかへ逃げ出したいのに、どこにも逃げ場所はない。
鼻の奥がツンと熱くなる。
観客達の飛ばす野次がますます激しくなった。
視界がぼんやり滲んだ。
心が――折れそうだった。
「黙れ」
それは、この決闘で初めて、織田信長が口を開いた瞬間だった。
さほど大きく声を張り上げた訳でもないのに、その簡潔な言葉はありとあらゆる野次と罵倒を掻き消して、異様なほど明確な意思を伴って体育館に響き渡る。
ほんの一瞬の出来事。つい数秒前まで口汚い罵言が飛び交っていた体育館に、痛いほどの静寂が訪れた。
「これは俺と、不死川心の決闘。余人に口を挟む許可を出した覚えはない――控えろ」
言葉一つ一つに込められた圧倒的な殺意の奔流が観客達を貫き、即座にその顔色を失わせしめる。周囲を睥睨する信長の氷のような目に見据えられた者は、声にならない悲鳴を上げてその場にへたり込んだ。
「……ふん」
決闘場に完全な静けさが戻った事を確認すると、信長は心に向き直り、冷め切った目を向ける。その瞳のあまりの温度の無さに、心は思わずびくりと肩を震わせた。
観客達を黙らせた理由は心に対する気遣いや優しさなどではない、と彼の目はこれ以上なく雄弁に語っている。
「貴様は何をしている。俺に勝つのではなかったのか?不死川心の実力を思い知らせる、と吹いたのは虚言か」
「う、じゃが、此方は」
もはや決闘を仕掛けた時に胸中に滾っていた自信など、全て失っていた。この底の知れない信長という男を相手に勝利を得る術など何一つ思い浮かばない。ここに到るまでの十数分間、己の持てる全てを絞り尽くしても“死線”を突破する方法を見つけられなかったのだ。今の自分では、織田信長には及ばない。それが揺るがぬ現実なのだろう。
敗北。
ハンディキャップを背負った相手に手も足も出ず、全校生徒の悪意ある言葉の前に心を折りそうになり、それをあまつさえ敵である男に救われた形となった。貧民と見下し、軽侮していた相手に。誰の目から見てもこれ以上ないと断言出来るほどに明確な、敗北だった。他ならぬ不死川心自身が、誰よりもそれを痛感していた。
「柔道、か」
悄然と俯いて敗北の味を噛み締める彼女を見遣りながら、信長は唐突に声を上げる。
「は?」
「立ち居振る舞いを見れば瞭然よ。貴様、柔道の心得があろう」
「う、うむ。確かにそうじゃが……」
ここで誤魔化しても意味はないだろう、と心は素直に頷いた。手の内を一切見せていないこの段階で見破られるとは意外だったが、しかし武道に通じているならば有り得ないという程の話ではない。
それよりも心は、唐突に話を振られた事に戸惑っていた。相変わらずの無表情を貫くこの男が何を考えているのかまるで分からない。そんな彼女の反応を意に介せず、信長はあくまで淡々と言葉を続ける。
「錬度も相当に高い。一年二年で身に付く物腰ではないな。身体が出来上がる前から、鍛錬を欠かさずに続けたか」
「お、おお。良く分かるものじゃの。高貴なる此方の幼き頃よりの嗜みじゃ」
「ふん、判らぬ道理はない。身体に刻んだ歴史を読み取るだけの話。成程。これだけ鍛錬を積んだなら、相応の実力を有していても不思議はない、か」
「ほほほ、もっと褒めても良いのじゃぞ。此方を讃える権利をくれてやろうっ」
つい声が弾んでしまった事に気付き、心は慌てて自制した。しかし、胸の奥から込み上げてくる面映ゆい感情に、表情がニヤニヤと綻ぶのを止められない。
嬉しかったのだ。プライドも意地も軽く凌駕してしまうくらいに、嬉しかった。
眼前の庶民は猿共とは違う。
心が日の当たらないところで確かに積み重ねてきた努力と、それによって得た実力を確かに認めてくれた。
心を全く寄せ付けないほどに圧倒的な力を持っていながら――それでいて彼女の事を無能だと、家柄だけの詰まらない人間だと思っている訳ではないのだ。
その事実は、先程までの陰鬱な気分を払って余りあるものだった。
信長が自分に無礼千万な口を利いた事を忘れた訳ではないが、そんな事はもはや気にならない。いつの間にやら怒りもどこかへ消え失せている。まあ別に許してやっても構うまい、と上から目線で考えてしまう程度には、彼女は浮かれていた。
「師は?誰に指導を受けた」
「聞いて驚くがよい、かの高名な“跳関十一段”、青木シンジじゃ!」
「成程。ならば弟子の貴様も当然、飛び関節の使い手と言う訳か」
「にょほほ、その通りよ。此方の高貴なる飛び関節は師にも認められたのじゃ、称えるがよいぞ」
「ふん。対戦相手に自ら手の内を晒す貴様の浅慮さを称えておくとしよう」
「んな、なんじゃとっ!お前、誘導尋問とは卑怯じゃぞ!」
「……」
こいつは果たしてどこまで本気で言っているのだろうか――信長は露骨な疑惑と不信の目を向けるが、しかし残念ながら百パーセント天然の産物だった。
心は卑劣な手段で自らの切り札を暴かれた(主観)事に憤慨しながら、キッと信長を睨みつける。
「ふん。少しは見れた顔になったか」
「うむ?」
「今一度、“死線”を見極めてみるがいい。心が死んでいれば、瞼に浮かぶ幻像も自ずから死に向かうものよ」
信長の言葉の意味はいまいち理解出来ていなかったが、しかしどうせ決闘の最中である。他に為すべき事がある訳でもない。既に敗北を認めていた事もあり、心はいつになく素直に従った。
改めて精神を集中し、悠然と構える信長の姿を凝視する。
「む、むむ?」
違う。心は、感じ取った“手応え”の差の大きさに思わず戸惑いの声を上げた。
何故かは判らないが、妙に身体が軽かった。先程までの如く、気を抜けば即座に押し潰されてしまうような馬鹿げた重圧を今は感じない。明るい未来図が何一つ思い浮かばなかった先刻とは異なり、幾つもの道筋が鮮明なイメージを伴って脳裏に浮かび上がる。
何故こうも感触が変わったのか、正直その理由は見当もつかないが――
(これならば、行ける!)
確信を胸に、動き出す。イメージの彼女は信長へと真っ直ぐに疾駆し、正面から“死線”を踏み越え――そのまま足元から掬い上げる様な軌道を描いて信長の懐まで迫る。そして右腕で相手の右袖を、左腕で襟首を捉え、刹那の内に両脚を跳ね上げて首を刈る。一瞬の後には相手の身体を勢い良く体育館の床に叩きつけ、同時に関節を極めていた。
何度も何度も繰り返した十八番の早業、その様はまさしく一撃必殺。
「決まった――!どうじゃ、華麗なる此方の飛び関節は!」
「幻影だ」
冷めたツッコミに我に返ると、信長は呆れ返ったような無表情で心を見下ろしていた。
気付けば一人で床に倒れ込み、空気以外には何もない場所に向かって関節を極めている自分がそこにいた。
「…………おほん」
まずは咳払い一つ。ゆっくり身を起こし、着物の裾を払い、冷や汗を垂らしながら周囲の様子を窺う。
審判の鉄心はそっと目を逸らした。忌々しき2-Fの連中は爆笑している。
「きまった!どうじゃ~カレーなるこなたの飛び関節は~」
モノマネのつもりなのか、榊原小雪が床に転がってジタバタすると、2-Sの面々からも盛大な笑い声が上がった。
心の顔が恥辱と怒りとその他諸々の要因で真っ赤に染まっていく。
「うぬぬぬ、待つのじゃ庶民共、何か勘違いしておらぬか!?今さっきのアレは此方のシミュレーションがパーフェクト過ぎた結果であってじゃな―――」
心の必死の釈明は誰の胸にも響かず、代わりとばかりに生徒達の笑い声が体育館に響く。
しばらく恥辱に打ち震えていた心だったが、やがてギラリと目を光らせて信長を睨み据えた。
「良かろう!先程の動きを実演してみせれば、無知な山猿どもとて此方を賞賛せざるを得まい!覚悟するのじゃっ!!」
顔を真っ赤にして喚くと、心は迷いも躊躇いもなく即座に床を蹴り飛ばした。その無鉄砲なまでの思い切りの良さは、十数分間も逡巡して動けずにいた少女と同一人物とは到底思えないものだ。
しかし、実際はその考え無しっぷりこそが不死川心の本来の姿である。先程までの弱気な態度は、慣れない殺気が彼女を狂わせていたに過ぎない。
真正面から自分へ向けて突撃してくる少女を見遣りながら、信長は人知れず、疲れたような溜息を吐く。
「ふん。何とも、締まらん結末だ」
駆ける駆ける。身を縛る殺気の恐怖も薄れ、枷から解放された心は自身の思い描く最高の動きで“死線”へと迫る。
切っ掛けこそは馬鹿馬鹿しいものだったが、余計な雑念の消え失せた彼女は間違いなく自身のポテンシャルを最大まで引き出していた。
“気を強く保つ事、そして決して心を折らない事”。
皮肉にもその言葉がすっかり脳裏から抜け落ちた今になって、心は師の教えを正しく実践出来ていた。信長の放つ殺気にさして身動きを鈍らせる事も無く、最大速度で突進する。
そのまま何の妨害もなければ、先のシミュレーション同様、本物の信長に高貴なる飛び関節が炸裂していた事は疑いない。しかし、何事も理想と現実は異なるものだ。“待ち”に徹するに際して、織田信長という男が自身の領域内に罠を用意していない筈もなかった。
(な、身体が動かぬ!?)
身を低く沈めた姿勢で“死線”を踏み越えた瞬間に心を襲ったのは、凄まじいまでの威圧感。これまで浴びてきた殺気をあたかも凝縮して一点に集中させたかのような、途方も無い密度を有する殺気の渦であった。
氷の嵐に巻き込まれる感覚。瞬く間に気が遠くなり、冷や汗が噴き出る。それでもどうにか意識だけは繋ぎ止めたが……それ以上の抵抗は不可能だった。
気の持ちよう、などといった精神論でどうにかなるレベルではない。心には、殺気という概念に対する経験値そのものがまるで足りていなかった。
完全に想定外の威圧に精神面での対応が間に合わず、指先の一本に到るまで身動きを封じられ、それでも突撃してきた勢いと慣性に任せて、ぐらり、と身体だけが前方へと流れる。
(あ)
これは終わった、とやけに冷静な気分で状況を分析している自分に気付く。
そして、カウンター狙いで繰り出された信長の膝蹴りが、無防備な心の額に突き刺さり―――暗転。
「無様な。タックルに膝を合わせられるなぞ。入る時最も留意すべき事を怠るとは……」
薄れゆく意識の中、最後に認識できた言葉は、織田信長の淡々とした批評であった。
――今回の決闘は……色々と、失敗したな。
蘭を三歩後ろに引き連れて、目的地へと続く廊下を歩きながら、俺は心中にてひとり反省会を行っていた。議題は言うまでもなく、俺が先刻不死川家の御息女と繰り広げた、実にグダグダな決闘である。
基本的には計算通りに進んだのだ。不死川心が殺気に慣れていない事を見越して、視覚的に分かり易い“境界線”を用意することで、まずは心理的な拘束を加える。ここでそのまま無謀に突撃してきたならそれでよし、境界線の内部、ごく狭い範囲にのみレベルの違う殺気の渦を張り巡らせておけば、敵の懐まで接近する以外に攻撃手段を持たない柔道家を相手にカウンターを狙うのは容易である。板垣一家のように殺気慣れしている相手にはリスクが大きすぎて使う気にはなれないが、今回のように一般人が相手のケースでは非常に有効な手だ。
更に、あくまで自分に有利な状況を作るために用意した境界線を、あくまで移動を自ら制限するハンディキャップと見せかける事で余裕を見せ付け挑発とし、相手の怒りを煽り冷静さを奪う。実際、積極的な攻めを何よりも苦手とする俺にとっては、境界線の存在はハンデでも何でもないのだ。むしろ、自ら動かない理由に正当性を持たせられるという意味ではメリットでしかない。
そして、想定していたもう一つのパターン。不死川心が殺気の影響を強く受けて、“境界線”を越えられず、身動きが取れなくなった場合。こうなれば、時間が俺の味方をしてくれる。俺が動かない理由は特殊ルールによって正当化出来るので、必然的に批判は不死川の方に集中するだろう。そこで、何も出来ない無力感に打ちひしがれている彼女に舌鋒による追撃を掛け、高慢な心を完全に叩き折った上で敗北を認めさせる――それが本来の俺のプランだった。
しかし。最大の誤算は、不死川心という少女の嫌われっぷりの凄まじさだった。まさか観客達からあそこまで容赦のない精神攻撃が加えられるとは想定もしていなかったため、当初の予定とは逆に俺が火消し役に回る羽目になってしまったのだ。確かに心を折るのが目的ではあったが、それは織田信長に対する反抗心という意味であって、それ以外の大事な部分まで一緒にへし折ってしまいかねない観客達の罵倒を見過ごす訳にもいかなかった。御息女が精神に傷を負った原因、として不死川家に恨みを買うのは絶対に御免である。
そんな訳で、心を折る事を目的としていた筈の俺がなぜか彼女を罵倒から守り、あまつさえフォローとしてメンタルケアのような真似をする羽目になるという、何とも喜劇じみた顛末を経た後、取り敢えず当初の予定に従いカウンター攻撃を叩き込んで勝利を掴んだ訳だが……何だろう、まるで勝った気がしない。いや、確かに勝利は勝利なのだが、この勝利が俺に対してどういう風に作用するのか予想が付かなかった。計算で動く俺のような人間にとって、こういった状況は落ち着かないものがある。
まあ、そういった理由もあって――俺は今、保健室を目指している。
額にカウンターで膝蹴りを叩き込まれてダウンした少女は、担架で保健室に運び込まれていった。俺程度が繰り出す一般人レベルの攻撃に大袈裟だとは思うが、俺の実力を過大評価している周囲の人間からしてみれば、頭蓋骨粉砕の危機にでも見えたのだろう。
ひとまず決闘を終えた後、俺は教室に戻り、五・六・七時間目の授業を普通に受けて、そして現在の放課後に至る。その間、不死川心が午後の授業に復帰することはなかった――という事で、俺はお見舞いのような真似をする事にした訳だ。本来の織田信長ならば打ち負かした相手など捨て置くのだが、今回は少しばかり計算違いがあった。誤差は修正しておかなければどうしても気に掛かってしまうだろう。
「入るぞ」
ノックなどというせせこましい真似は織田信長のキャラに似合わない。そんな判断の結果として、俺は前触れも無く保健室の扉をガラリと開いた。
結論から言うならば、間違いなく失敗だった。
「んな、ななな」
数時間ぶりに顔を合わせる不死川心は、今まさに着替えの真っ最中であった。
肝心な部分こそ隠れているが、普段は着物に覆われて見えない肌、シミ一つ無い白磁のような絹肌が大胆に露出している。
心は固まったまま呆然とこちらを見つめて、そして瞬く間に涙目になっていく。
ああ畜生こんな漫画みたいなベタベタなシーンによりよってこの織田信長が遭遇するとはやはり計算を違えたのが原因なのだろうか――俺の現実逃避気味な思考は、当然来るべき少女の反応によって断ち切られた。
「にょわぁぁぁ~っ!?」
その悲鳴はあられもない姿を見られた少女のそれとしてはどうなのだろうか、と思わずツッコミを入れたくなるような間の抜けた声を上げながら、心は見蕩れるほど素早い動きで備品のベッドに逃げ込んで布団の中に潜り込んだ。
「……」
素早く周囲の様子を窺う。校医は席を外しているのか、保健室内に他の人間の姿はない。四時間目にここに運び込まれた歴史教師はもう復帰したか。
危なかった。過失とは言え、織田信長が覗きのレッテルを貼られるなどあってはならない。後はどうにか本人を納得させられれば問題は何も――そんな風に打算を巡らせる俺だったが、不意に背筋を走るゾクリとした感覚に思わず振り返る。
「どうなさいましたか?主。主に他意のない事、蘭は承知しております。今回の件は紛れも無く不幸な事故でございました。ですが」
何やら怖いくらい清清しい笑顔で、蘭はニコリと笑った。
「謝るべきかと。乙女の肌は、安いものではありませんよ?主」
言葉遣いこそは丁寧だったが、蘭の口調には有無を言わせない何かがあった。
まあ今回に関しては全面的に俺が悪いだろう。認める他ない。
俺は心中で溜息一つ落とすと、物言わぬ布団の膨らみに声を掛けた。
「不注意を詫びよう。俺は一旦外に出る故、着替え終えたら呼ぶがいい」
ぶっきらぼうな調子で言葉を投げると、俺はさっさと廊下に出て扉を後ろ手に閉めた。
誰がどう見ても謝っているような態度には見えないだろうが、しかし織田信長としてはこれが限界だ。実際、謝罪の言葉など口にするのも久々だった。
キャラ作りというのもなかなか難儀なものだ、としみじみ思う。
「は、入ってもよいぞ」
たっぷり五分ほど待ったところでお許しが出る。
という訳で再び部屋に足を踏み入れると、不死川心はトレードマークの着物姿でベッドに腰掛けていた。なるほど、やけに時間が掛かったのはこの衣装が原因なのだろう――そんな事を考えながら歩み寄る。やはり先程の件が尾を引いているのか、心はその間、少し頬を赤くしながらチラチラと視線を彷徨わせていた。
どうにも気まずい雰囲気が漂う中、俺は普段の調子を取り戻すべく、意図して冷たい声音を上げる。
「ふん。惨めな敗者の顔を拝みに来てやったぞ。下賎な貧民風情に敗れた気分はどうだ?」
嘲笑うような語調で、あくまで意地悪く。どことなく緩んでいた場の空気を引き締める。心は開口一番に皮肉を飛ばした俺に、怒るよりもむしろ呆れているようだった。
「……見舞いに来るような殊勝な奴ではないと分かっておったが、腹立たしい奴じゃの。全く、礼儀を知らぬ輩はこれじゃからイヤなのじゃ」
「よりによって貴様が礼儀を語るとは笑止だな、不死川心。貴様の態度の何処を見れば礼儀を感じられる?」
「此方は選民ぞ、高貴なる此方から見れば庶民など猿同然よ。野卑で粗暴で品が無い。猿に礼を尽くす人間はおるまい」
心は表情を歪め、苦々しい口調で吐き捨てた。単なる嫌悪だけではなく、相当に根深く絡まり合った感情を感じさせる声音。彼女が選民思想に染まり切っているのは不死川家の教育もあるのだろうが、それ以外にも何か原因がありそうだった。
何にせよ、一回の決闘で惨敗した程度の事では彼女の価値観を変えるには到らなかったようだ。まあ当然と言えば当然、人はそう簡単には変えられない。十数年の長きに渡って培ってきた価値観を崩すのは、並大抵の事では不可能だろう。
仕方が無い。今回は失敗だが、チャンスは何度でも存在するのだ。彼女の反抗心を折るのはまた次の機会に回すとしよう。俺は気分を切り替えて、普段通り意地の悪い皮肉を飛ばしてやることにした。
「くく。その猿同然の庶民に敗れた以上、即ち貴様は猿以下の存在と言う事か。確かに記憶しておくとしよう、不死川家の息女は猿にも劣るとな」
「馬鹿を言え、何故にそうなるのじゃ?此方がいつ庶民などに敗れたというのじゃ」
俺の皮肉に怒りで顔を赤くするかと思いきや、心底不思議そうな様子で首を捻る。
どうにも話の流れが妙だった。状況を整理するため、俺は思考に沈んだ。
「……記憶に障害が出たか?頭部を強打したゆえ、可能性としては有り得るが……」
「うむ?何を訳のわからん事を」
心はますます首を捻った。訳が分からんのはこっちだ、と怒鳴りたくなる衝動を抑えて、俺は大人しく彼女の言葉の続きを待つ。
「簡単な事よ、此方はお前を選民と認めたのじゃ。故に猿ではない。人間同士で競えば優劣が生じても不思議はあるまい?此方より勝利を得た栄誉、誇るが良いぞ」
心は偉そうに胸を張りながら、あたかも当然の事を述べているかの如き調子で言い切った。
これはつまりどういう状況だ?あまりにも展開が唐突で理解が追いつかないが……要するに、彼女個人の価値観自体は何も変わっていないが、決闘を通じて織田信長という人間を認めさせる事には成功した――のか?
しかしそれにしても、家柄がどうのこうのとあれだけ高らかに言い張っていた彼女が、一体どういう風の吹き回しなのだろうか。そんな疑問が表情に出た訳でもないだろうが、心がやけに神妙な調子で口を開いた。
「猿に人間が理解できぬのと同様、庶民如きには高貴なる此方を理解する事はできぬ。しかし、お前ならば此方と同じ所に立ち、此方と同じモノを見られると思ったのじゃ。家柄はどうにもならぬが、お前ならば気にならぬ。――此方の友となるのじゃ、織田よ」
「断る」
「にょわっ!?な、何故なのじゃ!」
間髪入れない俺の返答に、ショックを受けたように涙目になる心。まさか断られるなどとは全く想像もしていなかった人間の反応だった。
正直に言うとノリで断ってみただけなのだが、まあそれだけでは何なので、無駄に偉そうな態度が気に障ったと言う事にしておこう。
それにしても、友と来たか。反抗心を叩き折って余計な文句を言えなくするのが当初の目的だったのだが、何とも妙なところに着地したものだ。やはり計算が狂うと着地点もズレてしまう。
――今回に関しては、なかなか悪くない所に辿り着いた訳だが。
「俺に友は居ない。不要よ」
「う、むぅ……そうか……」
よほど落胆したのか、肩を落として沈み込む。想像以上に深刻なダメージを受けている心の様子に和みながら、俺は淡々と言葉を続けた。
「だが、勝手に俺を友と呼ぶお節介ならば、既に幾人か心当たりがある。一人や二人、増えたところで――今更よ」
「うむ?それは……」
何も無駄に敵対して刺激する必要などない。不死川家の息女と友誼らしきものを結べたならば、それはそのまま日本三大名家とのコネクションとなる。将来を見据えれば間違いなく、より価値のある結果と言えるだろう。
そんな打算を胸に秘めながら、俺は不安げな顔でこちらを窺う心に、無愛想に言い放つ。
「ふん。好きにするがいい」
言葉の意味を悟った瞬間、見る見るうちに心は顔を明るくした。
まるで友達と呼べる存在が初めて出来たかのように表情を輝かせ、心の底から嬉しそうな満面の笑顔を浮かべる少女の姿に―――普段からそういう顔をしていればあそこまで嫌われる事も無いだろうに勿体ない、と。俺は嘘偽りなく、そう思った。
「と、取り敢えずメアドを交換するのじゃ!こういう時は、えーと、赤外線?を使うのじゃろ?なんじゃその目は、勿論知っておったわ!」
こうして、計算違いの決闘から始まった織田信長と不死川心の奇妙な付き合いは、当初の予想を遥かに超えて長いものになるのだが――
取り敢えず、彼女に本当に友達が一人も居なかったという事実を俺が知るのは、そう遠い先の話ではなかったとだけ言っておこう。
ココロ100%。今回の話を端的に表現するとそうなりますね。他キャラは添え物。
心の価値観やら行動原理やらに関しては、原作をプレイした限りではいまいち不透明な部分があったので、割と独自に捏造していたりします。ですので、自分の知ってる心と違う!という方には、まあ解釈の違いと思って頂ければ幸いです。
まじこいSが出ると、彼女に関しても色々と根幹に関わる新設定が明かされそうで怖い今日この頃。それでは、次回の更新で。