「主、主主主主主主あるじあるじあるじあ~る~じぃ~!!」
俺に四月十一日の朝の到来を告げたのは、我が従者のパニクりにパニクった叫び声であった。
次いで襲い掛かってきたのは、脳味噌を前後左右にシェイクされる極悪な感覚。普段ならばゆさゆさと優しいリズムで身体を揺らし、快適な目覚めを提供してくれる蘭の起こし方であるが、仮にその速度が通常の三倍を超えていればどうなるか――答えは明瞭。
このままでは殺される。今すぐ起きるべきだ。かつて多くの修羅場を掻い潜る中で身に付けた直感に従い、俺は一瞬で意識を覚醒させ、瞼をこじ開ける。
「……っ!?」
近い。近過ぎる。蘭の見慣れ過ぎて今更なんの感想も湧いてこない顔が、しかしドアップで目の前に迫っていた。常日頃より平常心を保つよう心掛けている俺だが、さすがにこの瞬間はハートのビートが止まらない。
お互いの吐息がダイレクトに伝わる距離。互いの唇はなんと数センチほどしか離れていないのだ。もしも今この瞬間に地震でも起きようものなら、ズキュゥゥゥゥン、とかいうなんだか良く分からない効果音が盛大に鳴り響くのは疑いなかった。
「あ、お、お早う御座います!信長さま、本日はお日柄も良く!ええと、今すぐ朝餉をご用意―――って、そうじゃありませんっ!」
「!!」
そんな危機的状況から更に、ズズイ、と顔を前に突き出すというまさしく戦慄の所業をやらかす我が従者に対して、俺は反射的にベッド上にて全力のサイドローリングを敢行していた。
結果として俺と蘭は互いに色々なものを失わずに済んだ。その代償に俺は布団の簀巻きになりながらアパートのボロ壁に顔面を強打し、無表情で悶える羽目になったのだが。
「あああぁあ、主、主、主!ご無事ですか、信長さまぁ!」
「くく……、我が生涯に一片の悔いなし――」
「信長さま?信長さまああああっ!!」
「……朝っぱらからテンション高いなぁ」
近所迷惑な悲鳴が木霊する中、至極ごもっともなツッコミが入った。これまでの俺と蘭の主従生活に、絶対的に不足していたもの――常識的なツッコミ。
いつの間にやら寝巻き姿の小柄な少女、ねねが呆れた顔で部屋の入口に立っていた。朝にはそれほど強くないらしく、薄茶色の目は半ば閉じられ、眠たげに垂れ下がっている。寝起きは全力でテンションが下がるタイプなのだろう、ねねは恐ろしいほど醒めた目で蘭を見遣りながら口を開く。
「あのさ。この辻斬り娘、いつもこんな調子なの?ご主人」
「つ、辻斬ッ!?」
「生憎と、な」
「何ともそれは残念だね。腹心の部下がこんなのじゃあさぞかし苦労したんだろうな……お労わしやマイマスター。でもこれからは頭脳明晰にして容姿端麗、品行方正且つ質実剛健な非の打ち所の無いパーフェクト従者のボクが抜かりなく支えてあげるから安心してね」
「なっ!なっ!なっ!なにを言ってるんですかあなたはっ!そもそも主と私だけのこの住まいに何の権利があって」
「ああキミはもうクビでいいよ、今までご苦労様。短い付き合いだったけど元気でね」
「なっ、なななななななぁ!?主、あるじぃ~!愚かな従者をお助けください主ぃ」
俺は未来からきた便利すぎるネコ型ロボットか、立場が逆だろ常識的に考えて、などと心中で冴えないツッコミを入れながら、のっそりと布団から身体を起こす。全く、こうも騒がしくては睡眠どころではない。二人して主の安眠を妨げるとは、こいつらには正しい従者としての自覚が足りていないのではなかろうか。
まあ取り敢えずこの騒ぎのおかげで、寝起きでボケた頭でも大体の状況は理解できた。
ぎゃあぎゃあと無意味にやかましい蘭はひとまず放置して、俺は洗面所へ向かう。意識がはっきりするまで冷水でじっくり顔を洗い、安さの一点を以ってセレクトした低脂肪牛乳で喉を潤し、無駄に綺麗なトイレで用を足してから再び居間に戻る。
「……」
するとそこには、磨き上げられたフローリングの隅っこにて体育座りでいじけている我が従者第一号の姿があった。下手人と思われる従者第二号は犯行を隠す気もないのか、無い胸を堂々と張って虚しい勝利に酔っている。
「うぅ、主。蘭は用済みの役立たずで、もはや犬に食わせる価値もない産業廃棄物なのでしょうか」
上目遣いで哀れっぽく訴えかけてくる蘭は既に涙目であった。完全に心を折られた負け犬の目である。俺が居間から離れた僅か数分の間で、果たしてどれほどの毒舌を浴びせ掛けられたのか。戦慄しながら、仁王立ち+ドヤ顔で勝ち誇るちみっこい少女に視線を移す。
「ネコ。この莫迦を虐めるのは構わんが、俺の眠りを妨げる事は何人たりとも許さん」
「ボクだってご主人に迷惑掛けるつもりなんてなかったよ。そろそろそこのダメ従者が目を覚ますかな、と思ってわざわざ部屋まで挨拶に行っただけなのに、ボクの顔を見るなりいきなり騒ぎ出すんだもん。困っちゃうよ」
「うう。だって、だってぇ」
心に負ったダメージは想像以上に深刻らしく、蘭には些か幼児退行の症状までもが見受けられた。明智ねね……恐ろしい子!
「ふん。俺の従者を名乗る以上、一を聞いて十を悟る程度の聡明さが欲しいところだがな」
「ううううう、蘭は不甲斐ない従者です……ずびびー」
「元よりお前に然様なものは期待しておらん。俺が求めるのは朝餉の用意である。己が至らなさを嘆く前に為すべき事を為せ。それこそ、俺が一の従者たる者の務めよ」
「……っ!は、ははーっ!」
“一の従者”を強調して言ってやると、蘭は見る見る内に表情を輝かせた。先程までの陰鬱なオーラは地平線の彼方へと吹き飛び、にへら、と締りのない笑顔が浮かぶ。
目論見通りの効果とは言え、こうも単純で大丈夫なのだろうかコイツは。色々と心配になってきた。
「蘭は了解致しました!主には最高の朝餉を献上させて頂きますので暫しのご猶予を!」
「うむ」
「……」
暑苦しく叫びながら勢い良く立ち上がり、疾風の如き俊敏さでキッチンへと駆け込んで行く蘭の姿を、ねねは呆然とした様子で見送っていた。まあ見慣れていない人間ならば当然の反応だろう。何度でも繰り返すが、森谷蘭は紛うことなき真性の変人である。
「ネコ」
今まさに地球外生命体を目撃した瞬間のように、ポカンと口を開けて突っ立っているねねに、俺は無表情で淡々と声を掛けた。
「従者同士。仲良くせよ」
「どうしてこのタイミングで言うかな!はぁぁ、何だか勢いでブラック企業に入社しちゃった新入社員の気分だよ……」
「くく、なに、ならばまだ遅くはない。四肢を縛って板垣一家に贈呈してやれば、天と亜巳はさぞかし喜ぶだろう」
「アッハハハハやだなぁボクはご主人の忠実な臣下だよ!武蔵坊弁慶も関雲長もボクの純粋無垢な忠義心の前には霞んじゃうと断言しちゃうね。具体的に数値化すると赤穂浪士全員の合計値分くらいにはなるんじゃないかなぁうん」
空々しく目を泳がせるねねの言葉には、説得力という要素が絶望的に足りていなかった。俺が黙したまま醒めた視線を送ると、額に冷や汗を浮かべて露骨に話題の転換を図る。なんとも小賢しい奴である。
「ところでご主人。昨夜は聞きそびれたんだけど、このアパートって他に誰か住んでないの?朝っぱらからこれだけ騒いでたら文句の一つも来そうなものだけど」
「ふん。入居した頃には結構な数が住んでいたな……数ヶ月と経たぬ内に全員が消えたが。今にして思えば、何とも摩訶不思議よ」
文句を付けてくる輩が現れる度に殺気を放って黙らせたり、夜討ち朝駆けを仕掛けてくる敵対勢力を殺気全開で追い払ったりしながら平穏無事に暮らしていただけなのだが。
「それを不思議と言い張るのは、世の中の不思議に対して失礼だと思うんだよボクは。まあご主人の存在を抜いたとしても、ボクは出来ればこんなボロアパートで寝起きしたくないけどね。掃除が行き届いてて汚くはないだけマシだけどさ」
蜘蛛の巣状にヒビの入ったリビングの壁面を嫌そうに見遣りながら、ねねはぼやく。
昨晩の尋問で聞き出したところによると、意外なことに我が従者二号は結構な名家の出身で、正真正銘のお嬢様らしい。どう考えても不良グループのリーダーとは結び付かない経歴だが、それに関しては実際に裏も取ってあるので、疑う余地の無い事実だ。
そんな訳で、貧乏暮らしに慣れ切った俺や蘭にとってはまるで気にならないこの老朽化具合も、ねねの肥えた目からしてみれば耐え難いものがあるのだろう。
「が、しかし。分かっているな?」
「はいはい、拒否権やら選択肢なんて上等なモノ、ボクにはございませんよねー。どうせ三月から借りてたマンションはもう割れちゃってるし、あっちじゃ今はまだ物騒でおちおち寝てられやしないよ。少なくとも当分の間は、我慢してここでお世話になるしかないね。う~ん、そうなると身支度品だけでも早いとこ持ち込まないと……他にも小説とか漫画とか……そうなると本棚も……クローゼット……部屋に合わせて小さいサイズのやつを……ホームセンターは……」
俯いて何やらぶつぶつと呟きながら、ねねは覚束ない足取りで俺の部屋から去っていった。自室(蘭の隣の部屋を無断借用中)へと着替えに戻ったのだろうが、あの様子だとそのまま二度寝へと移行しかねない。
どうもこれからは蘭の朝の仕事は二倍に増えそうである。主に目覚まし的な意味で。
「主!不肖森谷蘭、全身全霊を込めて朝餉をご用意致しました!どうぞご賞味下さいませ!」
「うむ。苦しゅうない」
現在時刻は午前十時。朝食の時間としては早いとは言えないが、俺も蘭もねねも揃って昨晩のあれこれで大いに消耗していたのだから仕方が無い。普段ならば日も昇らない内に活動を始める蘭ですら、目を覚ましたのは九時過ぎだったとの事。やはり昨晩の戦闘で“気”を使い過ぎたのが原因だろう。
それにしても、今日が日曜日で良かった。もしこれが平日なら、織田信長は転入一週間目にして授業をサボった不良学生のレッテルを貼られる所だ。俺の評判が少しばかり悪くなったところで今更ではあるが、しかしだからと言って無駄に“S落ち”の危険性を高める必要もあるまい。
「えーと、ねねさん、でしたっけ。その……どうぞ」
「うん?なんだ、ボクの分も作ってくれたの?」
「私はまだ事情を良く分かっていませんけど。この“家”の食事当番は私ですから。主に認められてここにいる人なら、それが誰であれ、おもてなしするのが私の役目です」
「ふぅん。まあちょうどお腹は減ってたし、食べさせてくれるのは素直にありがたいね」
クールな口調で返しながらも、ねねはテーブルの上に並べられた品々の観察に余念がない。俺の勘が正しければ、彼女の注意を惹き付けて止まないのは、小皿に鎮座するサバの味噌煮ではなかろうか。いや、我ながら偏見だとは思うが、何と言うかキャラクター的に。
そして、朝食の時間が始まる。
「ハムッ、ハフハフ――ハフッ!!」
「……」
「……」
食事が始まって数秒が経過した時点で、俺も蘭も思わず箸を止めて沈黙を選択していた。明智ねねという少女の食べっぷりの豪快さには、俺達を否応なく黙らせる何かがあった。
取り敢えず間違いなく言えるのは、そこにはお嬢様としての品性など欠片も感じられない、と言う事だ。味噌サバにかぶりつき、白米を掻き込み、漬物を噛み砕く。経歴詐称を改めて疑いたくなる姿である。ナイフとフォークは上手に扱えても箸は使えないとでも言い出すのだろうか、この小娘は。
「ぱくぱく、ふーん。むしゃむしゃ、へー。ごっくん、ほー」
「あ、あの……お味はどうですか?タッちゃ……主のご友人と、主には恐れ多くもご好評を頂いていますけど、それ以外の方にはほとんどお出しした事がありませんから、もしお口に合わなかったなら、その」
「素晴らしい。これぞまさしく、ボクの求めていたプリ旨だよ」
「え、プリ……え?」
「サバの味噌煮がプリップリで、箸で持つとトゥルン!と震えて味噌が滴る。それにかぶりついてウマッ!!そんな幸せが―――プリ旨」
「は、はぁ。ありがとうございます」
箸を置き、神妙な顔で謎の語りを始めたねねに、蘭はかなり微妙な表情で言葉を返した。なんだろうこの人が言ってる意味はぜんぜん分からないけどたぶん褒められているみたいから取り敢えずお礼は言っておこう、という内心がとても良く伝わってくる態度だった。
「うんうん、ご飯はふっくら柔らかホカホカで抜群の炊き上がりだし、この漬物も絶妙に味が染みてて、これだけでご飯三杯はいけるね。いやホントもうウチの料理人に欲しいくらいだよ」
「満足頂けたようで、嬉しいです」
今度は分かりやすい褒め言葉で安心したのか、蘭はホッとしたように笑顔を浮かべる。
建前ではなく、本当に嬉しそうな表情だった。昔も今も変わらず交友範囲がとんでもなく狭い蘭は、何と言っても他人に褒められる事に慣れていないのだ。俺にしてみればこいつの家事スキルは誰からも評価されて然るべきものだと思うのだが、当人はいまいち自信を持てないでいるらしい。
その後もねねは良家の子女にあるまじき健啖家っぷりを存分に発揮し、宣言通りご飯のお代わりを三回要求した上でそれら全てをあっさりと平らげてみせた。俺としては食事中の時間をねねについての説明にあてるつもりでいたのだが、目の前で前触れなく繰り広げられた衝撃映像のお陰でそんな思惑も気付けば忘れ去っていた。
「……ん?」
そうこうしている内に俺の携帯電話が着信を告げる。
相手を確認して、数秒ほど通話ボタンを押すべきかどうか真剣に逡巡して、そして結局は電話越しに少しばかり大人気ない罵声を飛ばし合ってから、俺は席を立った。
意図しない呼び出しにしては良いタイミングだ。所詮は偶然以外の何でもないだろうが、奴にしては珍しく空気を読んだ行動である。
その意図はいまいち、計りかねているのだが。
「主、どちらへ?」
「誘いがあった。それと……宇佐美巨人に、先の一件の報酬について釘を差しに行く必要があろう」
「ならば私も供を――」
「不要だ。一日の暇を与える。“気”を休めるがいい」
「……ははっ、確かに承りました。明日よりの務めに障らぬよう、蘭は全霊を持って休養を取らせて頂きます!」
「全霊て。気を休めろって聞こえたんだけど、ボクの気の所為なのかなぁ」
「夜には戻る。夕餉の支度をしておけ」
「ははー!行ってらっしゃいませ、蘭は主の御武運をお祈り申し上げております!」
ねねの醒めたツッコミと蘭の暑苦しい叫びによる見送りを背中に受けながら、クローゼット内の適当なコートを引っ掛けて、俺はさっさとアパートを出立した。
川神駅へと続く通りを悠然と歩きながら、俺は残してきた二人の従者について思案する。
昨晩の内に消費した“気”及び精神力の量が相当なもので、回復のためには丸一日の休養を要する――別に嘘ではない。紛れもない事実だ。少なくとも蘭を置いてきた理由の一つは、間違いなくそれだった。
しかし、この場合においてより優先度、重要度の高い理由があるとすれば、それは。
「まあ、本人の前では話しにくい事もある……か。さて、どう転ぶかね」
周囲の誰にも聞こえないように口の中で呟いて、俺は待ち合わせ場所へと足を速めた。
「ふう、ご馳走様。期待してたより遥かに美味しかったよ。やるじゃん」
「お粗末様でした。我が主にご満足頂けるよう毎日研鑽を積んでいますから、その成果が顕れてくれたのかもしれないですね」
「あーはいはい、ご馳走様」
「?どうして二回も……」
「気にしない気にしない。細かい事を気にするのは悪い事じゃあないけどさ、それはあくまで自分の理解が及ぶ範疇に限られるよね、うん。どうせ幾ら考えたって分からないものは永久に分からないんだから、限りある時間をドブに捨てるようなものだよ」
「…??」
「あはは、今まさにキミは時間をドブに捨ててるね。―――まぁそんなことはともかくさ、そろそろボク達は互いに自己紹介の一つくらいしておくべきだと思うんだけど、どうかな」
そんな遣り取りが最初にあってから――まずは森谷蘭と明智音子が改めて名乗りを交わす。
そして織田信長がねねを直属の臣下として迎え入れるに到った経緯と、その背景に存在する色々な事情をねねが語った。
マロードとの因縁。これからの身の振り方。そういった諸々の説明に対し、蘭は一切口を挟まず、ただ静かに耳を傾ける。その間、朝食前の騒ぎ方が嘘だったかのように落ち着いた、しかし何処かしら冷たさを宿した瞳がねねを射抜いていた。
まるでこれまでの態度こそが演技だったとでも言わんばかりの、雰囲気の変貌。
やがてねねが全てを語り終えると、蘭は姿勢を正して真っ直ぐに彼女の目を見つめ、淡々とした調子で問い掛ける。
「ねねさん。貴女には、大切なものがありますか?」
「おっせーぞ!待ちくたびれたじゃねーか」
付近に位置する駅の中でも特に図抜けた敷地面積を有する川神駅、その駅前広場の一角。電話で指定された待ち合わせ場所には既に先客がいた。
小さな時計塔に背中を預けてこちらを睨んでいるのは、鮮やかな橙色のツインテールが目を惹く少女。やや幼いながらも整った顔立ちとスリムな肢体はどうしても異性を惹き付けるのか、時計塔の傍を通り過ぎる男連中の何割かを振り返らせている。
やはり外面からは性格の悪さまでは分からないもんだな、と痛いほど実感する瞬間である。
「よっ!半日ぶりってトコか?へへっ」
先程の不機嫌さはポーズだったのか、俺が歩み寄るとニカッと笑って、屈託ない調子で声を掛けてくる。
「ふん。昨日の今日で俺を呼び出すとは。お前がそこまで度胸のある人間だとは思っていなかったがな、天」
「いやいや、それはウチを甘く見てるぜーシン。クリハンのデータ見てみりゃ分かるぞ、勇気の証が個数カンストしてるもんね」
俺の殺気混じりの挨拶を軽く受け流してニヤニヤ笑う。そんな少女がまともな感性を持った一般人である訳もなく、板垣一家の末の妹、悪名高き板垣天使とはこいつの事である。
直接的にやり合った訳ではないとは言え、半日前に殺し合いを演じた相手を平然とデートに誘えるあたり、その精神構造はもはや俺のような凡人が理解できる範囲を超えている。改めて言うまでもなく、異常だ。
「なあ、最初はどこ行く?実はまだ決めてねーんだよなー、ウチとしちゃゲーファンかGAPSの二択なんだけどさ――」
……全く以って本当に、理解に苦しむ。幾ら何でも、許容し難い。
「良くも俺の眼前に顔を出せたな、天。それも独り、か」
「……え?」
俺の発する声音は意図せずとも自然に暗く、冷たくなっていた。街中の明るい賑やかさが瞬く間に遠のいていく。
天は戸惑ったように人懐っこい笑顔を消して、俺の顔を見つめた。
「単刀直入に訊くが――この俺を、舐めているのか?」
苦々しく吐き捨てると同時に、日常生活用にセーブしていた殺気を、開放する。ギシリ、と音を立てて空気が歪んだ。本能的に危険を察知しているのか、通行人は悠長に見た目麗しい少女を振り返る事などせず、俺と天の周りを避けるようにして足早に歩き去っていく。駅前公園の巨大な雑踏の中に、ぽっかりと異質な空白地帯が出来上がっていた。
そんな中で、俺は冷徹な殺気を込めた視線を眼前の相手に浴びせ掛ける。
対する天は凍えたように身体を震わせながら、どこか怒ったような顔で口を開いた。
「んだよ、ウチはただ……いつもみてーにシンと遊びたかっただけで……、別に舐めるとか舐めねーとか、関係ねーじゃんか」
「関係が無い?ふん、莫迦を言うな。お前は自分の意思で俺に敵対した。生憎、俺は“敵”に容赦するような甘さは持ち合わせていない。昨晩は互いに退いたとは言え、俺と板垣が敵対している事実は消えん。……天。俺が呑気にも集団を離れ、一人現れた“敵”を見逃すと本気で思うなら、それこそが。お前が、俺を舐めている証拠」
「あーもうウゼェな!敵敵敵敵敵って、ウチは別にそんなつもりじゃねーっての!久々にシンと戦ってみたかったから!いつまでも昔みてーに弱っちいウチじゃないって、シンに思い知らせてやりたかっただけで……だから、そんなつもりじゃ」
言葉の勢いは徐々に萎んでいき、ついには俯いて黙り込んだ。顔色はショックを受けたように青白く、両手をきつく握り込んでいる。
普段は絶対に見せることのない、まるで傷付いた乙女のような天の姿を見て、俺は唐突に理解した。
ああ、こいつは本当に分かっていなかったのだ、と。
俺と、織田信長と敵対する。その行為が保有する意味を正しく知る事なく、故に覚悟を固める事もなく、ただ単純に竜兵やマロードに同調して、普段と同じように気侭に動いただけなのだ。俺に喧嘩を吹っ掛けたのも、天にしてみればいつかのじゃれ合いの延長のようなもの、程度に思っていたのかもしれない。敵対しているという意識が皆無だからこそ、俺の怒りの理由を理解することが出来なかった。
そして今、俺との関係を自らの手で修復不可能な形まで壊してしまった事に気付いて――その現実にショックを受けている。
俺から向けられる殺意に傷付き怯え、震えている。
その事実を悟った瞬間、猛烈な自己嫌悪が俺を襲った。
俺は何をしている?ただいつも通りに二人で遊びに繰り出す休日を楽しみに、それこそ待ち合わせ時間よりも早く着いて相手を待ってしまうくらい楽しみにしていた、そんなどこにでもいるような少女の在り方を……異常だと、理解できないと切り捨てて、寄せられる好意に対してはあろうことか殺意を向けた。天には恐らく敵意も悪意も、勿論殺意もなかったと言うのに。
そんな俺の姿こそが、異常者そのものでなくて何だと言うのだろう。先程からの態度は虚像などではなく、俺は本心から言葉を連ねていた。
あまりにも裏の社会・暴力の世界に染まり過ぎて、俺自身が獣に堕ちようとしていたのか。長年を掛けて創り上げた“織田信長”という強大過ぎる仮面に、本来の俺が乗っ取られる所だった。
冷酷非道、傲岸不遜、唯我独尊……そんなご大層な属性は、本当の俺には分不相応な代物の筈なのに、何を取り違えていた?
「……」
戦慄に背筋が凍るような感覚を味わいながら、俺は目の前の少女を見つめた。
殺気は既に収めているにも関わらず、天は俯いたまま、込み上げてくる何かに耐えるように唇を噛み締めている。
こういう状況は正直に言って苦手も苦手なのだが、文句を言える立場でもない。無駄にややこしくなってしまった事態を収拾すべく、俺は行動を開始した。
「ふん。泣き虫は何時までも治らんな、天」
「うっせー……誰が泣いてんだ、適当言ってんじゃねー。ウチが泣くのは深夜にホラーゲーやる時とタマネギぶった切る時だけなんだよ」
「くく、初めて会った時の記憶は都合よく抹消されていると見える。亜巳の背後に隠れてベソを掻いていた分際で」
「別に、忘れた訳じゃねーんだけどな……大体よー、ガキの頃なんざ誰でも泣くもんだろ、ノーカンだノーカン」
「全く、現世は惰弱な連中で溢れている。俺は涙を流した記憶など、一つとして無いがな」
「そりゃシンは例外だろーよ。ってかてめーが泣いてるとこ想像したらなんか怖くなってきやがったぜおい。それなんてホラーゲー?」
「ふん。心配するまでもなく、生涯目にする機会はないと断言してやろう」
「………」
何かを疑うような表情でこちらを窺いながら、天はついに黙り込んだ。俺の態度が示す意味を図りかねているのだろう。先程まで殺気立っていた相手が、何事も無かったかの如く普通に接してきたのだ。当惑は当然か。
「さて、斯様な場所で時間を浪費するは愚行の極み。……往くぞ、天」
感情を排した声音でさらりと言い放ち、さっさと背中を向けて悠然と歩き出す。
一歩、二歩、三歩。一秒、二秒、三秒。返事はない。
肩越しに振り返ってみれば、驚いたように目を丸くしている天の姿が視界に映る。俺と目が合うと、慌ててそっぽを向きながら、拗ねたような調子で口を開いた。
「んだよ、ウチは敵なんだろ。フツー敵とはゲーセンなんて行かないんじゃねーのかよ」
「然り。だが、問題は何も無かろう」
普段以上に子供っぽく見える天の態度に、内心で笑みを漏らす。
考えてみれば、この意地っ張りな妹分を相手にこういう甘っちょろい遣り取りを交わすのも、随分と久し振りな気がする。
不意に脳裏に蘇る子供の頃の情景を懐かしみながら、俺は到って平然とした調子で言葉を投げ返した。
「くく。俺にとっては―――所詮。お前など、敵ではないが故」
「大切なもの?」
「ええ、そう……大切なものです。自らの身を投げ打ってでも守りたいものが。或いはそれ以外の全てを失ってでも捨てたくないものが、何か一つでもありますか?」
「いきなりヘヴィな質問が来るんだね。ほぼ初対面の相手にするような質問じゃないとは思うけど、まあいいや。ボクの一番大切なものは、ボク自身だよ。こればかりは確信を持って言えるね」
「そうですか。素直な方なんですね、貴女は。でも、そんな貴女だからこそ、言わなければなりません」
「やれやれ、一体全体何を言われるのやら。こわいこわい」
「……主の往くは修羅の道。行く先に光明など何一つ見えない、暗闇の旅路です。付き従えば、それはそのまま地獄への道行きとなりましょう」
「……」
「私はそれを恐れません。私の全ては主の為に捧げています。主と共に歩み、主と共に闇へ沈むならば、それは本望。ですが、貴女は違う。……いえ、貴女が何を言おうとも、私と貴女は違います。少なくとも今の時点では、私は貴女を本当の意味での同志と認める訳にはいきません」
「ちょぉーっとあんまりな言い草じゃないかな、それは。ボクの何処に不満があるってのさ」
「あ、いえ、ねねさんに問題があるんじゃなくて、むしろ問題があるとすれば私の方ですね――だからこれは、私の自分勝手な、一方的な通告です」
「通告ね」
「警告、と呼ぶべきかもしれませんね。明智ねねさん。私、森谷蘭は、織田信長が唯一にして忠実なる刃。主の障害を悉く斬り捨て排除するのが、私の使命です。もしも貴女が主の障害となるようであれば、その時は私が貴女を斬り捨てます。此処に到るまで、多くのモノをそうしてきたように。容赦なく、情けもなく」
「昨日までボクの部下だった人たちのように?」
「あの方達は脅威としては力不足。所詮、主の“敵”ではありませんでした。だからこそ、ちょっとした痛みと怪我を負うだけで済んだのです」
「……」
「どうかそれを忘れないで下さい。どうか主の“敵”にならないで下さい。どうか私に貴女を――斬らせないで下さい」
日曜の午後、その貴重な数時間を二人でゲーセンを巡って存分に浪費したあと、俺は天と別れて一人堀之外の通りを歩いていた。
夕日が地平線の彼方へと沈み、夜の闇が訪れるまでもう少し。通りの左右の薄汚い建物の群れに、ちらほらとネオンの毒々しい光が灯り始めている。
堀之外のメイン産業はクスリと風俗だ。そのどちらもこれからの時間帯に盛んな客引きが行われる。俺を煩わせるような命知らずがいるとは思えないが、騒がしいのはあまり好きではない。日が完全に落ちる前に目的地に到着すべく、俺は足を速めた。
「……なるほどな。話を聞く限り、全てはそのマロードって野郎の仕組んだ罠だった訳か」
「“黒い稲妻”を餌にお前らを引きずり出して、板垣の奴らと戦わせる、ね。はぁ、また回りくどいことをしたもんだぜ、ご丁寧に依頼料まで振り込んでよ」
場所は宇佐美代行センター、事務所。所長用の椅子を限界まで後ろに倒しながら、巨人は呆れたような声を上げた。
俺はその対面に座り、忠勝はすぐ横の壁に腕を組んでもたれ掛かっている。
幸い両者ともに大きな怪我やダメージはなかったらしく、今朝には既に復活を果たしていたとの事。極悪無比な釈迦堂のオッサンの事だ、一見して分からないようなえげつない内傷を負わせていたりしていないか心配だったが、この分だと大丈夫だろう。
「しかし分からねぇな。何の為にわざわざそんな真似を?もっと他にやり様はあるだろ」
難しい表情で忠勝が疑問を呈する。俺は昨晩から思考していた回答を言葉に換えた。
「ふん。状況を指定する為、だろう。常に監視が行き届き、己が望むタイミングでの介入を可能とする戦場。己に都合の良いステージを、奴は作り上げた」
「で、俺達はそこにホイホイ誘い込まれちまった訳かよ。どうにもイヤンな話だなぁオイ」
こめかみに手を当てながら、疲れたように巨人がぼやいた。普段はしてやられたとしても飄々と流すのがこのオッサンのスタイルだが、しかし今回は結構、参っているらしい。
それは養子の忠勝も同様で、話している間も終始表情が険しかった。だからこそ、次にこの親子が切り出す内容についても何となく予想はついていた。
「報酬の件だが……折半、と言いたいのは山々なんだが、どうにも今回、俺達は何も出来なかったからな。黒い稲妻の相手も板垣の連中の相手もお前さんと蘭ちゃんに押し付けた挙句、人質なんざになって足を引っ張っちまった。ったく、我ながら情けねぇ限りだぜ」
「こっちにも代行人としてのプライドがあるんだ、こんなザマで金なんて受け取れねえ。代行人が誰かに仕事を丸ごと代行させる、なんて真似が許されるハズがねえ……だから信長、報酬はお前らで受け取れ」
「ふん。殊勝な事だな」
揃って気難しい顔で言い募る親子を眺めながら、思考する。仮にここで俺が拒否してみたところで、この二人が報酬を懐に入れるようなことは無いだろう。何だかんだで長年の付き合いだ、彼らが自分の仕事に対して誇りを持っている事は知っている。
結果として俺の懐が潤うならば、無理を言って断る理由もない。故に俺はこの件に関しては口を挟まず、黙って全額を受け取ることにした。
考えてみれば、そもそもの依頼人の正体がマロードだった以上、この報酬金もまた奴によって振り込まれたものなのだろうが――まあ俺にとってそんな事情はどうでもいい。金は何処から湧こうが金であることに変わりはない。汚かろうが血塗れだろうが関係なく、せいぜい有効に活用させてもらうだけだ。
それに残念ながら、金の出所などに拘りを持てるほど、俺と蘭の経済事情に余裕はなかった。
私立川神学園。有名校。当然ながら、学費が安い訳もない。二人分の家賃食費生活費その他諸々。基本的に家計は火の車である。
「しかし、マロードか……どうにもキナくさいな。板垣の連中が絡んでるとなりゃ、単なるクスリの密売人で片付けていい相手じゃねえ」
「ま、お前さんはお前さんで動くだろうが、俺らの方でも調べてみるわ。俺みたいにいい年したオジサンでもよ、やっぱやられっぱなしってのは悔しいもんだぜ」
珍しくやる気を見せる巨人と、依然として不機嫌そうに眉間に皺を寄せた忠勝。
両者に見送られて、俺は薄闇色に染まった通りを歩き、帰途に就いた。
さて、果たして今日の夕餉は何人で囲む事になるだろうな――と残してきた従者共に思いを馳せながら。
「ふふん。ふふふん」
「?どうしたんですか?」
「一つ言わせて貰うけれど、少しキミは調子に乗り易い性格をしてるみたいだね。“斬らせないで下さい”なんてわざわざお願いされるまでもなく、ボクがキミに斬られる事なんて有り得ないさ。例えキミが辻斬り中毒を発症してボクを斬りたくて斬りたくて仕方なくなっても、ボクは余裕で全部避けちゃうもんね」
「……」
「ボクを心配してくれるのはありがたいよ。でもボクを舐めるのは頂けないかな」
「……強い人ですね、貴女は。主がお気に召したのも理解できる気がします。正直に言わせて貰うと、ちょっと、妬けちゃいます」
「ボクとしては割と不本意な立場なんだけどなぁ。――ん?おーい?聞いてる?」
「……?あ、ご、ごめんなさい!私、色々とナマイキな事を!うぅ、いつもそうなんです、主の事になると頭に血が昇っちゃって、自分が自分じゃなくなるみたいで。こんなのっておかしいですよね。気味が悪いですよね。ごめんなさい……」
「確かにね。可笑しいし気味も悪い」
「う、うぅう」
「大いに結構な事だよ。キミみたいな同僚がいると、退屈はしなさそうだし。ボクは何がキライって、退屈よりもキライなものはないね。あれはこの世の害悪だよ」
「え、え?あ、ありがとう……ございます?あ、済みません、そんな風に言って下さった人は初めてで混乱しちゃって」
「そんな訳でさ、キミが何と言おうとボクはここに居座るつもりだから、そのつもりで。キミが刀を振り回してでも泥棒猫を追い払おうってつもりなら、大人しく尻尾を巻いて逃げるけどね」
「いえいえいえ!私はそんなつもりは全然!」
「そうなの?いや~、ボクのキミに対するイメージは辻斬りで定着しちゃってるからさ」
「うぅ……本当の蘭はこれから知ってもらうとして。よろしくお願いしますね、ねねさん。一緒に頑張りましょう!」
「ま、ボクは頑張らないし適当に手を抜くけどねー。これからよろしく、ラン」
夕日がその姿を隠し、夜の帳がすっかり下りた頃。
ボロいアパートのボロい自室に戻ってきた俺が目にしたのは、狭っ苦しいキッチンで肩を寄せ合って、ぎゃあぎゃあと喧しく騒ぎ立てながら夕食を用意する二人の姿であった。
それが良い事か悪い事かの判断は、また後日に先送りするとして。
取り敢えず、どうやらこれまで以上に賑やかな生活になりそうだ、と俺は思った。
~おまけの織田家~
「あの、主。僭越ながら、お伺いしたき儀が」
「許す。申すが良い」
「ねねさんをネコと呼ぶのは何故の事でしょうか?」
「ふん。何を申すかと思えば。俺の従者でありながら、然様な事も判らぬか」
「も、申し訳ありません信長さま……うぅ、蘭は無知で愚かな臣でございます」
「致し方ない、教えてやるとしよう。蘭、奴の名を正しく思い浮かべてみるがいい」
「?明智音子、です」
「音(ね)+子(こ)ではないか。自明の理よ。得心したか」
「ははー!さすがは我が主、常と変わらず聡明であらせられます!蘭は、蘭は感服致しました!」
「はぁ~。ボク、いつまでここにいればいいんだろう……」
この度チラシの裏からこちらに引っ越させて頂きました。初見の方は初めまして。
今回は日常回と言う事で、会話文の割合がかなり多くなりました。後から見直して地の文の少なさに大丈夫かこれ、と不安になったりしましたが、まあこれはこれで雰囲気的に重苦しくせずに済んで悪くない気もします。うーん客観的に自作品を見るのは難しい。
次回から舞台が学園に戻るという訳で、色々と書きたいキャラを登場させられるのは嬉しいですね。それでは次回の更新で。