~side 早苗~
薄ぼんやりとした意識が初めに捉えた光景は、不思議な光で部屋を照らしているシャンデリア。
電気によって光り輝いていないことを知り、私はここが私の生まれた世界でないことを知る。
蝋の炎によって照らしていないことを知り、私はここが私の見知らぬ場所であることを知る。
電気でもない、炎の力でもない、けれどシャンデリアは室内を明るく照らしあげている。その光景が、私には何故かとても綺麗に思えた。
どうして私が見知らぬ部屋、そのベッドの上に横になっているのか。どうして私は今まで気を失っていたのか。本来ならば
いの一番に状況把握に努めなければいけなかったのだと思う。だけど、私の意識は空に浮かぶ『幻想』の方に囚われてしまって。
「一体どんな原理で光り輝いているのか…本当に不思議です。でも、とても綺麗…」
「目覚めて一言目がそれとはね。普通は驚いたり困惑したり、場合によっては怯えたりするものよ?
やはり巫女という存在は、私達の常識とは離れたところに位置する人間しかなれないのかしらね」
「貴女は…咲夜さん?」
私の独り言に対し、どこか驚くような呆れるような声が紡がれ、私はその方向へ視線を向ける。
そこには、レミリアさんの娘である咲夜さんが微笑みながら私の方を見つめていた。
私が寝ているベッドの横に椅子を置き、その上に腰を下ろしている姿を見ると、もしかしてずっと私の傍にいてくれたんだろうか。
「あの…もしかして、私が寝ている間、ずっと傍に?」
「ええ、そうね。どこぞの巫女とは違って、実に穏やかで可愛らしい寝顔だったわね」
「っ、そ、そういうところはあまり見ないで下さいっ!というか、言わなくていいですから!」
咲夜さんの言葉に、私は上半身をベッドから起こしながら抗議する。
同世代の女の子にそういうことを言われたことが無いので、あまりの恥ずかしさに少し声が大きくなってしまったけれど
咲夜さんは微塵も気にしていないらしく、手に持つ懐中時計で時間を確認しながら私に話しかける。
「貴女が気を失ってから一時間と十五分。正直予想以上にお早い目覚めだったわよ。
早苗、貴女はどうして気を失ったのかは覚えていて?」
「どうして気を失ったか、ですか?それは――」
そこまで言葉を紡ぎ、私は脳裏に最後の映像を甦らせてしまう。
それは何処までも巨大な死の塊。紅の竜が無力な私を食い千切らんと口を開く姿。
目前に迫った己の死をようやく身体が認識したのか、全身が恐怖で震えて己が意思で上手く動かせなくなる。
そんな私の状況を理解したのか、咲夜さんは何の感情の変化も見せることもなく淡々と私に言葉を紡ぐ。
「そうなるのも無理はないわ。貴女は一度、殺されたのだから」
「ころ、された…?」
「ええ、間違いなく。貴女は一度、この幻想郷で確実に死を迎えているわ」
「そ、そんな…でも、わたし、生きて…」
「里の人間から幻想郷最強の一角を担う妖怪の噂を聞き、悪名高き彼女を退治しようと策も練らずに館に向かい、
貴女はその館の門番に無謀にも殺し合いを選択し、そして手も足も出せずに負け、その命を無駄に散らした。
…どう?もしも、この幻想郷を構成するピースが一つでも狂っていれば、早苗は『本当に』そうなっていた筈よ。何か否定出来て?」
咲夜さんの言葉に、私は何一つ反論できない。できる筈がない。
そう、結果を見れば全ては咲夜さんの言う通りで。私は彼女を退治しようと挑み、そして彼女に会うことも出来ずに終わった。
レミリアさんの心配する言葉に耳も貸さず、どんなに大変でも自分なら出来ると増長し、幻想郷で一人二人の妖怪を退治しただけで調子に乗って。
その結果が今の私だ。咲夜さんの言う通り、調子に乗った代償は私の命で支払われなければいけなかった。それが私の末路だった筈だ。
だけど、私は今生きている。その理由は…そう問いかけるように、私は咲夜さんへと視線を向ける。
「どうしてだと思う?」
「…咲夜さんが、助けてくれたから。あの竜から私を助けてくれたから、ではないのですか」
「助ける?どうして私が貴女を助ける必要があるの?貴女はあの館の主の命を狙っていたのでしょう?
貴女と紅竜がもし再び敵対して対峙したのなら、私は少しも迷わずに紅竜の方に加勢するわよ?」
「ど、どうして…」
「何故かと問われれば理由は簡単。あの竜は、紅美鈴は私の大切な姉だから。
貴女の攻め込んだ『この家』は私の育った大切な場所だから。そして、貴女の狙うこの館の主は――私の何より大切な人だから」
咲夜さんが語る言葉に、私は次の言葉が出てこない。
何故なら、咲夜さんの語る言葉の意味が何一つ理解できていないから。
姉?大切な場所?大切な人?分からない。咲夜さんの語る言葉の意味が全く分からない。
この場所は、とても悪い妖怪の家で。人に迷惑をかける妖怪の住まう地で、咲夜さんには全然関係のない場所で。
そんな私に咲夜さんは軽く息をつき、私が理解出来るようにと改めて話を続ける。
「――紅の館、紅魔館には決して近づくな。何故ならそこには恐ろしき悪鬼達が集っているから。
その悪鬼達を束ねる主、彼女を見て生きて帰った者はいない。その妖怪は鬼も天狗も竜すらも従える恐ろしき化け物」
「そ、それは里の人達が話していた…」
「そう、この館、紅魔館を人里の人々が話している内容よね。恐らく貴女はここまでしか聞いていないのでしょう?
聞いていれば、今回のような過ちは絶対に起こさなかった筈だもの。その噂を最後まで耳にしていれば、貴女はこの館で命を落とすこともなかった」
そこまで告げ、咲夜さんは再び先ほどまで語っていた人里の話を語りだす。
それは、私が知らなかった続きのお話。最強の妖怪と幻想郷で恐れ謳われる恐ろしき妖怪の――
「その化け物が指を鳴らせば、世界は紅色に包まれる。その化け物が天を睨めば、世界から春は奪われる。
その化け物が気分を害せば、新円を描く月は破砕され。その化け物が邪魔と決めれば、どんな強き妖怪ですら圧倒する。
近づくな。紅悪魔に近づくな。紅き館の吸血鬼、幻想郷の誰よりも強く恐ろしき天蓋の化け物――レミリア・スカーレットには近づくな」
「…れ、みり、あ、さん?」
咲夜さんから告げられた、その最強の妖怪の名を耳にしたとき、私はハンマーで頭を強く殴られたような衝撃に襲われる。
何故。どうしてそこでレミリアさんの名前が上がるの。レミリアさんは何も関係がない。レミリアさんはそんな存在じゃない。
だって、レミリアさんは心優しい妖怪で。この幻想郷で右も左も知らない、困り果てていた私に手を差し伸べてくれて。
そればかりか、一緒に信仰を集める手伝いをしてくれたり、同世代の女の子を友達として紹介してくれたり。
嘘だ。レミリアさんがそんな存在だなんて絶対に嘘だ。あのレミリアさんが、人里の人達にあんな風に悪く言われる筈がない。
レミリアさんは誰かに迷惑なんてかける人じゃない。レミリアさんは他者を害したことが無いって私に誓ってくれた。どうして、どうして、どうして。
――嘘?すべて嘘だった?レミリアさんは、私に嘘をついていた?騙した?騙された?欺かれた?掌で踊る私を滑稽だと笑っていた?
本当は、レミリアさんは人里のみんなが語るような悪い妖怪で。私の心すらも玩具にするような存在で。レミリアさんは、レミリアさんは――
『いいよ、時間なら腐るほどあるし、探し人も見つからないし。何より話を聞きたいっていったのは私だしね。
さあ、遠慮なく私に愚痴を零しなさい。どんな話も受け止めてあげるわよ?』
「…違う。レミリアさんは、レミリアさんはそんな人じゃない」
レミリアさんは、私を心配してくれた。
見知らぬ相手にも関わらず、何のメリットもないのに、私が心配だと言ってくれた。
レミリアさんは笑ってくれた。
自分には何の関係もない信仰集めなのに、それが上手くいくとまるで自分のことのように笑ってくれた。
レミリアさんは止めろと言ってくれた。
強い妖怪と対峙するのは危険だと、逃げろと必死に私に話してくれた。どれだけ格好悪い姿を見せても、構わないというように。
レミリアさんが、悪い妖怪だなんて絶対に無い。レミリアさんが酷い妖怪だなんて絶対に嘘だ。
もし、人里の人達が真実だと言うのなら、誰が何と言おうと私は否定する。世界中の誰が認めても、私は決して認めたりなんかしない。
あんな風に優しい人が、誰かを傷つけたりするものか。だから私は信じない。絶対に信じない。たとえ娘である咲夜さんの話でも、私は絶対に。
それ以上レミリアさんを悪く言うなら許さない。そう意思を込めて私は咲夜さんを睨む。その私の反応を咲夜さんは無言のままにじっと見つめ――そして笑った。
「な、なんで笑うんですか!?あれ、私の意思が全然通じてない…わ、私は怒ってるんですよ!?
いくら咲夜さんでも、それ以上レミリアさんのことを悪く言うのは許さ…」
「伝わってるわよ。これ以上無いほどに、十分にね」
「…そ、そうですか。それならいいんですが」
「第三者の真偽も分からぬ噂に流されず、自分の接し感じた母様(レミリア・スカーレット)の姿を信じるその想い、しっかり伝わっているわ。
…ありがとう、早苗。母様を噂に惑わされず、疑わずに信じてくれたこと、心から感謝してる」
「感謝されるようなことではありません。私はただ…そんな風に悪く言われるレミリアさんは見たくないというだけですから」
「それでも、よ。人里の件は私達の罪…母様を守る為に間違った行動をとったとは思わないけれど、それによって失われたものも沢山ある。
だから、貴女自身が噂に惑わされず、母様を信じると言ってくれたこと…それが何より嬉しかったわ。本当にありがとう、早苗」
そう言って微笑む咲夜さんに思わず見惚れてしまう。
――なんて、綺麗に笑うんだろう。自分と同世代だと言うのに、まるで別世界の女性のように思える程に綺麗で。
私は生まれて初めて同性の女の子に魅入ってしまった。そして、そんな自分がとても恥ずかしくて、首をぶんぶんと横に振って誤魔化すように話を紡ぐ。
「と、とにかく詳しい話を聞かせてください!この場所は紅魔館で、ここにレミリアさんや咲夜さんは住んでて!
そして人里で噂されている妖怪はレミリアさんのことで、レミリアさんは悪い妖怪なんかじゃない、これはOKですよね!?」
「ええ、そうよ。噂される通り、ここには鬼も天狗も竜も住んでいるけれどね。
この館の主である母様がもし悪い妖怪にカテゴリーされるなら、是非とも善い妖怪というものを見てみたいわ」
「そうですか…って、紅魔館の主がレミリアさんだって知ってたならどうして人里で教えてくれないんですか!?
おかげで私、咲夜さんの家族の方に思いっきり喧嘩売っちゃったじゃないですか!?というか退治しようとしてしまったじゃないですか!?」
「それが必要だと思ったからよ?ちなみに貴女に対してこれ以上ないくらい実力差を見せるようにと
美鈴にお願いしたのは私。あ、美鈴というのは貴女の対峙した門番のことね?」
「ど、どうして!?」
「貴女は一度転ぶ必要があると思ったから――ここで転ばせなければ、貴女は遅かれ早かれこの幻想郷で殺されると思ったからよ」
「っ」
咲夜さんの迷いない言葉が私の心に突き刺さる。
その言葉の意味を問う前に、咲夜さんはまるで私の心を見透かしているかのように説明を始めた。
「貴女のことは母様に聞いているわ。以前までは外の世界にいたこと、幻想郷へやってきた理由。
そして、貴女が信仰を集める為に人里の人々の力となっていることは、貴女から直接聞いたことだったわね。
その手段の一つに、人々に迷惑をかけている妖怪退治を行っていること…それが『弾幕勝負』ではなく『真剣勝負』であることも」
「…そうです。人々に迷惑をかける妖怪を懲らしめること、神様の力を持って行うこと。
それを積み重ねれば、人里の皆さんは悩みが解決し、神様の力の大きさを知ってくれます。実際に人里で…」
「上手くいっていたわね。貴女がどんな妖怪を退治してきたかは知らないけれど、その方法は確かに上手くいっていた。
本来、貴女の行っていた役割を為すべき筈のウチの巫女は『その気』にならないと行動を起こさない。加えて、彼女は母様とつながりがある。
人里の人々にとって、貴女の存在は非常に頼りになったでしょうね。なんせ何の文句も言わず面倒事を解決してくれるのだから」
「…何か問題がありますか。人々の悩みは解決し、私は信仰を手に入れることが出来るんですよ」
「ええ、あるわね。問題があるのは早苗、貴女自身よ。東風谷早苗――貴女は全てを何一つ理解していない」
そう言葉を告げ、咲夜さんは椅子から立ち上がって私を見下ろす。
咲夜さんの瞳、そこには一色が塗りこまれていた。その色は怒り。冷静な咲夜さんが、私に対して静かに怒っていることは
今日出会ったばかりの私にも感じることが出来た。少し怯む私に、咲夜さんはそのまま言葉を紡いでいく。
「早苗、貴女は確かに強い。外の世界から訪れたばかり、それも人間の身でありながら強力な力を宿し、妖怪を退治する姿は称賛に値するわ。
並みの妖怪では貴女を止められないでしょうね。それほどに優れた力を貴女は持ち、研鑽を積んでいる。だけど、それ故に貴女は危うい。
――早苗、貴女は今まで誰かに負けたことがないでしょう?自分を容易に打倒する存在を、玩具のように弄ぶ程の存在と対峙したことがないでしょう?
だから貴女は分からないのよ。挑むか、逃げるか、立ち回るか…相手に対する自分が定まらないから、貴女は打倒することでしか勝ちを拾えない」
「そんな…ことは…」
「美鈴が言わなかった?貴女は敗北…いいえ、挫折を知らないのが敗因だって。
信仰が貴女の武器であり強さ、信じる心が貴女の力であることは理解してる。けれど、そこに貴女の心の落とし穴は存在する。
神の力が最も優れていると、神の力は誰にも負けないと信じるが故に、貴女は自分の力は誰にも負けてはいけないという想いに捕らわれる。
神の力の前に負けは許されない、その力を授かった自分が負けてしまえば、信仰は失われてしまう…そういう想いが貴女をそうさせてしまったのではなくて?」
まるで心の中を覗きながら会話でもしているかのように、咲夜さんは私のことを的確に話していく。
その言葉のどれもが真実で、私は何も反論出来ない。負けないと思っていた。神様の、神奈子様の力は誰にも負ける筈がないと思っていた。
神奈子様の力を授かった私が負けてしまえば、神奈子様の名に傷がつくから。だから負けられない。絶対に私は妖怪に負けられないんだ、そう思って。
だけど、私はその思考故に負けてしまった。咲夜さんの言う通り、もっと冷静になれば幾らでも考えることができた筈なのに。
門番の妖怪も、最初は弾幕勝負をするのかと提示してきた。弾幕勝負なら私にも勝機があった。だけど、私は神奈子様の力が負ける筈なんて
絶対に無い。自分は絶対に負けないと決めつけ、提案を一蹴して、退治を試みて…結果は笑えるくらいの大敗。
「今回はただの負けで済んだ。それはあくまで貴女の運が良かったからよ。
貴女が攻めた場所が、この紅魔館だったから貴女は気絶程度で済んだ。けれど、これがもし別の妖怪だったら?
言っておくけれど、美鈴は確かに強い妖怪だけれど、最強と謳われる妖怪達には届かない。現にこの館には、美鈴より強い者が確実に二人は存在するのだから。
そんな美鈴と同格…いいえ、それ以上の存在に貴女が出会っていたならば、貴女の命はこの世には既に存在しないのよ」
「そう…ですね」
分かる。分かっている。咲夜さんが言っていることは痛いほどに理解してる。
そう、咲夜さんは私の慢心を指摘してくれた。だからこそ、今回の件は私の為に行動してくれたんだ。
私が命を失う前に、下らぬ勘違いによって幻想郷で死んでしまう前に、咲夜さんは自ら悪役を買って出たんだ。
門番にも勝てない私が何を勘違いしているのか、と。お前はそれほど強くないのだから無理はするな、と。
救われた。この命は咲夜さんに救われた。だから、感謝してるし、お礼の言葉を言わないといけない。
頭では分かっている。ここで咲夜さんに微笑んで『ありがとうございます』と言うのが正しいんだって分かっている筈なのに。
でも、でも、私は本当にどうしようもない程に意地っ張りで負けず嫌いで。
「早苗…」
気づけば私は涙を零していた。
一つ、また一つと感情の雫を零してしまう。どれだけ我慢しようとしても、壊れてしまった堤防では心の波は抑えきれなくて。
こんなこと、咲夜さんに言うべきじゃないのに。それでも、それでも私は気持ちを抑えきれずに、とうとう言葉を零してしまう。
「悔しいです…私、本当に悔しいんです…
私、沢山沢山修業したんです…みんなに忌み嫌われたこの力でも、神奈子様の力になれると知ってから、沢山沢山修業したんです…
神奈子様の力は無敵の力で、困っている人達を助ける為の力で、その力で私は沢山の人を幸せにするんだって、そう誓ったのに…
私、全然強くないです…負けられないのに、私は誰にも負けられないのに、私は神奈子様の力になりたかったのに…」
嗚咽を零しながら、私は咲夜さんに只管心の叫びを紡いでいく。
情けないと思う。格好悪いと思う。だけど、どうしても抑えきれなくて。どうしても耐えられなくて。
嫌だな。折角できたばかりの友達に、こんな格好悪い姿を見せるのは、本当に嫌だな。嫌われちゃうかな。呆れられちゃうかな。
もしかしたら笑われてしまうかもしれない。そんな不安に押し潰されそうになる私に、咲夜さんは何も言わず私の傍に寄り、そっと私の手を握ってくれた。
「さ…くや、さん…」
「…早苗にひとつ、お話をしてあげる。それは貴女にとてもよく似たある一人の従者の話」
そう話を切り出して、咲夜さんはゆっくりと私に話を始めてくれた。
とある館に一人の従者がいて、その人物は大切なご主人様の為に強くなる為の研鑽を積み重ねていた。
そのご主人様を護る為に、誰よりも強くなる努力を重ね、そしてその従者は確かに強くなっていった。
少なくともその辺の妖怪には負けたりしない力があり、従者も自身を過信していた。自分は誰が相手だろうと、簡単に負けたりしない力を手に入れたと。
だけど、その従者は現実を知ることになる。
その調子に乗った従者の前に、一匹の妖怪が現れた。その妖怪は太古から『鬼』と呼ばれ恐れられる存在で、彼女の前に対峙した。
従者には幾つかの手段を選べた。この場を逃げて誰かに助けを求めることも出来た。
けれど、従者は自身の力を過信して戦いを挑んだ。この鬼は大切なご主人様の害になる、自分が排除する、自分ならやれる、と。
その結果は笑える程の敗北。その負けが、従者の大切なご主人様を傷つけた。
従者が人質として利用され、ご主人様はボロボロにされ。従者の慢心が、油断が、全てを台無しにするところだったのだ。
「…ある意味、貴女よりも悲惨よね。世界を知らなかった従者は、己を過信して大切な人を失うところだったのだから。
もし、その果てに大切な人を失っていたら…そう考えるだけで従者は夜も一人で眠れなくなってしまった」
「…その従者の方は、その後どうされたんですか?」
「落ち込んだわ。心折れて、二度と立ち直れないのではないかって程に。一時はナイフを再び手に持つことすら出来なかった。
…でも、立ち直れた。自分一人では立ち上がれなくても…大切な人達が、従者を支えてくれたから」
「大切な人達、ですか?」
「護れなかったご主人様は、その従者を笑って抱きしめてくれた。そんなことは気にしなくていいと、貴女が無事で本当に良かったと従者を許してくれた。
大切な友人は、その従者に怒ってくれた。『無意味な自責をするくらいなら、無理してでも主人の前で笑ってやれ』と叱咤してくれた。
…気づけば、その従者はもう一度立ち上がっていたわ。悔やむより、下を向くよりも大切なことをみんなに教えてもらえたから」
そう告げ、咲夜さんは私の涙を優しく指で拭い、私からそっと離れる。
そして、優しく微笑んだまま、身体に『力』を収束させた。それが一体何の力なのかを感じた時には、すでに咲夜さんの姿は変貌して。
――どこまでも美しい緋色に染まった紅の翼。それを見て、私は全てを理解した。これが、きっとその従者が手に入れた翼なのだと。
どんなに負けても、どんなに転んでも、何度でも立ち上がる者だけが手に入れることが出来る。本当の強さなのだと。
「――悔しいという気持ち、大切な人を護りたいという気持ち。
それがあれば、何度転んだって貴女は立ち上がれるわ、早苗。どんな絶望にも、強者にも決して心折れない貴女の在り方はとても綺麗だった。
今回の経験が貴女の力になる…私はそう信じているわ。誰よりも泣き虫で寂しがりだった従者なんかよりも、貴女はきっと強くなれるだろうから」
そう告げて笑う咲夜さんは何処までも綺麗で格好良くて――こんな風に私もなりたいと、強く願ってしまう。
今は距離が遠くとも、いつかはきっと私もその従者の…咲夜さんのように、大切なものを押し通せるだけの強さを、きっと。
~side レミリア~
「うううう…さくや、あんなに立派になっちゃって…パチェ!?ちゃんと録画した!?」
咲夜と早苗がいる部屋の中を遠見の水晶(パチェの私物レンタルなう)で覗きながら、
私はパチェにちゃんと記録できたのかを確認する。私の問いに、パチェは呆れるように息をつきながら返答する。
「はいはい、水晶にはばっちり記録したから安心して。
しかし、娘の友人同士の語り合いを保存するのも一体どうなのかしらね」
「ばかっ!大切な娘があんな素敵に育ったのよ!?これを記録せずして一体何を記録すると言うの!そうよね、フラン!?」
「そう…かなあ。でも、とりあえず咲夜が立派になって嬉しいというのには同意かな」
「そうですね…咲夜も少し前までは家族以外の人には興味ゼロだったのに、本当に素敵な成長です」
「そうよね!?みんなそう思うわよね!?ううー!この高鳴る気持ちをみんなに伝えたい気分よ!
霊夢とかに『ひゃっほー!!咲夜最高!!』って笑顔で手を振りながら浜辺を走り回ってこの想いを伝えたいわ!」
「…お姉様、お願いだから止めて。それだけは本当に止めて」
「そう?それは残念…って、美鈴、さっきから気になっていたんだけど、何でずっと土下座してるの?」
私の指摘に、美鈴はぴくりと身体を跳ねさせる。え、もしかして触れちゃいけないことだった?何かの罰ゲームか何かだったりするの?
少し困ったような表情をしつつ、美鈴はゆっくりと私に説明を始める。
「それは…ほら、お嬢様の友人である彼女をあのような目に合わせたのは、他ならぬ私自身な訳でして…」
「?美鈴が早苗を倒しちゃったのよね?でも、それは咲夜からお願いされたからでしょう?どうして貴女が謝るの?しかも私に」
「へ?あ、あれ…その、怒ったりしないんですか?」
「だからどうして私が貴女を怒るのよ?」
「~~!!だ、騙しましたねパチュリー様フラン様!!」
「あら、人聞きの悪いことを言わないでくれるかしら。私はあくまで可能性の話をしただけよ、美鈴?そうよね、パチュリー」
「そうね、私はかもしれないとしか言ってないし。というか、レミィに怒られるかもって最初に言ったのは貴女自身でしょう?」
「うう~!!うがーーーー!!」
わっ!?美鈴が壊れた!?ううん、やっぱり門番ってストレス溜まる仕事なのかしら。
今度美鈴を沢山労ってあげよう。うん、マッサージとか喜ぶかもしれない。ただ美鈴相手にマッサージすると、そのむちむちぼでーに
私の嫉妬の炎が燃え上がって恐ろしいことになるかもしれない。私だって、私だって千年後には…って、それはともかくとして。
「美鈴は悪くないけれど、早苗に対して手を出したこと。こればかりは大問題よ」
「…まあ、そうよね。幾らあの娘の為とはいえ、気絶させたことに変わりはないし」
「う…こ、後遺症とか痕になるような傷とかはありませんよ!?絶対絶対絶対にです!」
「だから美鈴は悪くないの!悪いのは他の誰でもなく私でしょう?」
「「「え…」」」
いや、そんな『何言ってるんだこいつ』みたいな目で見られても…だってそうでしょう?今回の件は紅魔館内で起こったことだもの。
ましてや早苗のためとはいえ、美鈴は早苗に手を出してしまった。どんな事情があっても、それだけは変わらない。
家族の責任は長の責任、たとえこんなへっぽこぷーな私でも、この館の主は私だもん。だったら、早苗に対する罪は私の罪よ。
「貴女達の罪は長である私の罪、そんなのは当たり前でしょう。
この館の主として、まずは私が早苗に謝罪するのは至極当然のこと。そして、次の行動も責任もって私はする必要があるのよ」
「次の行動…ですか?」
美鈴が私の言葉の意味を図りかねてるのか首を傾げる。
フランとパチェは引き攣った表情してる…というかパチェは『おいバカ止めろ』って言葉が顔に書いてる。なんでさ。
まあ、私は立派な社会人だからね。また、娘を持つ立場の人間としてこういう場合の為すべきことは理解してるのよ。
私は自信満々に胸を張り、三人に対して次にとるべき行動を明言する。
「早苗に謝ったら次は早苗の親御さんにごめんなさいしないといけないのよ。
という訳で、明日私は早苗の両親に菓子折りを持って謝罪しに行くわよ!娘さんを怪我させて済みませんでしたって謝りにね!」
私の発言に、三人の表情が思いっきり硬直したような気がした。えっと…だから、なんでよ?
~side パチュリー~
厄介なことになった。本当に厄介なことになったわ、あのお人好しレミィ。
『明日の菓子折りの準備をしてくる』と部屋をレミィが飛び出した刹那、私は大きなため息をつく。つかなきゃやってられないわ。
どうしてあの娘はこうも自分から危険地帯(トラブル)の方へと…そんな私に、美鈴が苦笑しながら言葉を紡ぐ。
「気苦労が多いですね、パチュリー様は。ストレス対策とかちゃんとしてます?」
「八意永琳に厄介になろうか考え中よ。本当にもう…あれは一体どこの誰のお姉様よ」
「言わないでよ…うう…お姉様あ…」
珍しくフランドールも困り果てた表情をしてる。それも当然のこと。
レミィが言った言葉、それはすなわち『妖怪の山』へ向かうということ。妖怪の山…よりにもよってあの厄介な場所に。
以前までの私達がレミィの為に多くの強者達と関係を結んでいた大きな理由、それがその場所に在る。
妖怪の山は最強の群集団。もし、この幻想郷の地が戦場となれば、覇者となる可能性が一番高い妖怪達の集う聖地。
連中は輪の中の存在以外を決して己が領地に入れようとせず、排他的なことでも有名だ。そんな連中に押し切られない
為にも、私達は他の連中とレミィとの交友を深めていったのだけれど…まさか、全てが終わった後で、あの場所の名前が上がるなんてね。
そして、あのアホレミィはそんな場所へ向かうなどと言ってる訳で。決心は固そうで、ああなったレミィが自分の意見を下げる筈もない。
ましてや、フランドールと美鈴、そして私は誓っている。レミィの望む道を必ず支えると。だから私たちが考えるべきはレミィの邪魔ではなく――
「――どうすればレミィに一切の危害が加わらないか、ね。
東風谷早苗の信じる神に会いに行く、このこと自体に危険は?」
「ないでしょ。神と言うくらいだもの、こちらがどれだけの『益』を東風谷早苗に提供したかは理解できる筈。
それが分からないような存在に仕えているほど、東風谷早苗は安くはないよ。あれは霊夢と近いうちに肩を並べる逸材でしょ」
「私も同意見です。問題があるとすれば、そちらよりも妖怪の山の連中でしょう。
『レミリア・スカーレットの利用価値』を一番理解しているのは間違いなく連中でしょうし。私が向こうなら、間違いなく押さえに来るかと」
「だったらいっそのこと全員で妖怪の山に向かう?」
「それは悪手ね。紅魔館全員だと向こうには戦争売りに来たようにしか思われないでしょ?
むしろ向こうにお姉様の来訪を知られないように進めるべきよ。最小限の人数で、妖気をゼロに抑える」
「となると、レミリアお嬢様ともう一人…ですね。例えどんなことがあろうと、お嬢様を護れる実力が在るものが望ましい。
そう、例えば天狗が十匹二十匹集まろうと、物の数でない程に圧倒的な…ね」
「フフッ、役目を譲ってあげるなんて優しいのね美鈴は。さて、そういう訳だけど、貴女の実力は如何程かしら、フランドール・スカーレット?」
「それを私に問うの?愚問だよ、パチュリー」
そう告げて、フランドールは愉しげに笑う。
その姿に、私と美鈴は目を合わせて笑うだけ。そう、この館には二人の最強が存在している。
一人は我らが愛しきご主人様であるレミリア・スカーレット。あの娘は誰よりも眩く輝いて、その在り方は幻想郷最強であると断言できる。
そして、もう一人――その妹であるフランドール・スカーレット。この娘には何の言葉遊びも必要ない。
「――お姉様を護る為ならば、誰が相手であろうと壊してあげる。
私達の最愛のお姉様を穢そうとする愚昧な輩に、明日の命なんて無駄なものは必要ないでしょう?」
この娘は、最愛の姉の為ならば、どこまでも冷酷に、無慈悲に――そしてこの世の誰よりも強くなれるのだから。