明りの消えた暗き館。
幾許かの過去を遡れば、何処もかしこも笑顔と温もりに満ち溢れ、妖怪の棲まう塒などと誰もが信じ難くなるような
光景が広がっていたその場所は、今は最早見る影も無く。妖と人と、誰をも受け入れる優しい世界は既に終焉を迎えてしまっている。
紅に染まる、光を失った館、紅魔館。終わりに向かい、朽ちつつあるそんな館の中に揺れ動く影が一つ。
誰もいない館、その地下深くに広がる広大な書室…地下図書館。その一角に存在する机にて只管にペンを走らせる少女が一人。
相当の分厚さを誇る書物を幾段にも机の上に積み重ね、少女は視線を紙と書上だけ往復させて、一心に自身の思考を紙上にて展開していく。
他者には聞こえぬ程の小さい声量かつ他者には聞き取れぬ程の高速で、少女は只管言葉を紡ぎながら一心不乱に考えを紙にまとめていく。
この作業を少女が始めたのは、昨日今日のことではない。少女はこの館に独りになって四ヶ月、只管こうして時間を過ごしてきた。彼女の
足元に散らばっている無数の紙の山がその事実を物語っている。飲食も、眠ることも一切を止め、少女はこうして時間を過ごしてきたのだ。
彼女は生まれながらの魔法使い。それも世界で五指…否、三指に入ろうかという力と智慧を併せ持つ相応の実力者。当然、捨食等の魔法も
習得しており、飲食も睡眠も彼女は必要としないが、それでも疲労は溜まる。四ヶ月という時間、少女は一切の休養と取らずに集中し続けていた。
いくら魔法使いとして上等な彼女とはいえ、そんな負荷をかけ続けていれば、限界は必ず訪れる。けれど、少女は止まらない。止まれない。
限界などとうに迎えている。それでも少女は止まることなど無い。少女は頑なに倒れることを拒む。たった一つの目的の為に、限界など
既に超越した。心が折れぬならば、諦めてしまわなければいつまでも戦える。大切な親友と悪友を救う為に、そして何より全ては自分の為に、少女は走り続ける。
今日に入って通算三十四枚目の紙に手を伸ばし、幾らかペンを走らせ終え、少女はその手を止めて小さく呟く。
「…駄目ね。この方法は理に適っているけれど、実現出来る訳が無い。これでは唯の絵空事に終わるだけ。
私達が欲しいのは机上の空論ではなく、実際に結果を残せる方法だもの…もう一度最初から考え直しね」
理論の壁に立ち塞がれ、少女は少しも迷うことなく自身の導いた考えを投げ捨て、新たに一から思考を作り直す。
この少女の恐ろしく優秀なところは、自身の考えを悩むことなく切り捨てられることにある。少女はどれだけ時間をかけた自分の
考えにも決して縛られない。不要だと断じたならば、即座に切り捨てることが出来る。無論、後に使えそうな部分は頭に残しておいて、だ。
常人なら気を狂わせてしまう程の作業量、それ程の時間と手間をかけたモノを即断で采配を下せること。それが彼女を優秀たらしめている。
トライ&エラーの作業の中で一切の無駄を省き、効率的に情報を抽出し、サイクルを繰り返す。これ程のことを少女はいとも簡単に行うのだ。
けれど、そのことを今、少女に賞賛の声をあげたなら、きっと少女は呆れるような目を向け、こういうだろう。『下らない』と。
今の少女が求めているのは結果。そこに自身の能力の優劣など不要、彼女はただ我武者羅に結果だけを求めている。
その結果を…己が求める結果を生み出せなければ、自分はここに居る意味がないと理解しているから。今この瞬間こそが、自分がこの世に生を
為した理由なのだろうと、少女は考えているから。大切な二人を助ける為に、自分は生を受けたのだと決めたのだから。
新たな理論を打ち立て、少女は二枚目、三枚目と再び紙に思考を綴っていく。
そんな最中、時計の針が一つの数字を真っ直ぐに貫く。それに呼応するように、少女は無言で立ちあがって机から離れ、図書館を後にする。
部屋を出て、少女が足を進める先はこの場所より更に闇が支配する地の底。幾重にも立ち塞がる扉を潜り抜け、幾段もの階段を降り、少女は
目的の場所に辿り着く。その室内には、足を踏み入れた彼女の他に、ベッドの上で眠る少女が独り。
ただただ眠り続ける少女に、魔法使いの少女は何も声をかけることなく瞳を閉じ、呪文の詠唱を行う。それは強制催眠の魔法。通常ならば
現在眠っている少女の抗魔力から、魔法使いの少女の催眠魔法は通用などしない。けれど、今の少女は余りに無防備で、完全に衰弱しきっていて。
そして何より、眠り続ける少女には意志が存在しなかった。最早その少女には、何かに抗う程の心の強さなど、何処にも。
少女は何も考えない。考えることすら許されない。考えればきっと少女は終わってしまうから。理解すれば心が壊れてしまうから。
諦め、放棄し、投げ出し、目と耳を塞ぎ。そんな少女を果たして人は生きていると、存在していると言えるのだろうか。故に紅魔館に
棲まう者は最早唯一人、魔法使いの少女をおいて、他に誰も存在しない。何故なら地下に眠る少女は生きるというには酷過ぎるから。
魔法の行使を終え、魔法使いの少女は眠る少女の髪をそっと一撫でし、言葉を発さぬままにこの場を後にする。
再び彼女の戻る先は図書館。椅子に腰を下ろし、少女は再び己の戦場を駆け抜けるのだ。全てを救う為に、自分にしか出来ない自分の為すべきことを為す為に。
月明かりと僅かな星光が照らす闇夜の海から抜け出し、少女はゆっくりと大地に両足を下ろす。
場所は博麗神社、彼女の友人の住まう建物。まだ完全に冬を脱しきれていない寒空の中、少女は軽く息を吐いて建物の中へと足を踏み入れる。
敷居を越え、短い廊下を抜け、居間への襖を開き。寒さの支配する外の世界から温かさが保たれている世界へ舞い戻った少女に投げつけられるは歓迎の言葉。
「寒い。折角部屋を暖めてるのに襖開けないでよ。さっさと閉めて」
「…帰ってくるなりその言われよう。そりゃないぜ、霊夢」
「はあ…ほら、魔理沙。貴女もさっさと入りなさい。食事の準備がもうすぐ終わるから」
入室するなり冷たい言葉を投げつけられた少女――霧雨魔理沙は、言われるままに襖を締め直し、室内に用意された炬燵へと潜り込む。
そんな彼女に、炬燵の中の先住人である博麗霊夢は寝転んだまま反応せず、台所で夕食の準備をしているアリスは魔理沙の為に
遠隔操作にて炬燵の温度の出力を上げる。魔理沙とアリス、そしてパチュリーによる合作の魔法炬燵はまだまだ引退するまで遠そうだ。
炬燵に潜り込み、身体の芯から暖を集めながら、魔理沙はアリスに何を思うでもなく言葉をかける。
「今日の晩御飯は?」
「シチューをメインにサラダも用意して、後は昨日の出来合いよ」
「シチューか。アリスの洋食は美味いから楽しみだな」
「はあ…いつも言ってるけど、私は貴女達の料理人でもましてや母親でもないんだからね。
それより魔理沙、今日は結構足を遠くまで延ばしてたみたいだけど」
アリスの問いかけに、魔理沙は被っていた帽子を脱ぎながらふるふると首を横に振る。
それは彼女に釣果が得られなかったという意志表示。それを見て、アリスは小さく肩を落としてみせる。
「竹林の方まで足を運んだんだが、駄目だな。永琳も鈴仙もレミリアと会って無いそうだ」
「そう…病気か何かに罹って向こうに厄介になってる可能性も考えたんだけど、ね」
「吸血鬼が病気ねえ…他の誰でも無いレミリアならありそうで困る。インフルエンザとかに滅茶苦茶弱そうだし」
「あのねえ…あまり冗談にならないようなことで笑いを取ろうとしない。万が一、億が一ってこともあるのよ?
紅魔館の状況から見て、他の連中もレミリアと一緒にいることは間違いないでしょうけれど、音信不通の今、絶対に無事だとは…」
アリスが口に出来たのはそこまでだった。彼女達の会話に割り込むように、室内に響き渡る鈍い衝突音。
その音の発生源に、アリスも魔理沙も口を噤む。その衝撃音を生じさせたのは、他の誰でも無い霊夢その人で。彼女はいつのまにか
上半身を炬燵から起こし、拳を握りしめて炬燵台へと振り下ろしたのだ。隠そうともせず、苛立ちを表面に出して。
「勝手にいなくなった奴の話なんかどうでもいいのよ。気分悪くなるから止めて」
「…本当、分かりやすい奴だよな霊夢って。そんなに心配なら害の無い異変なんて放置してお前も…」
「ああ゛?」
「…ナンデモナイデス、ゴメンナサイ」
あまりの霊夢の怒気をはらんだ言葉に、魔理沙は反論することも出来ずスゴスゴと退散する。
そんないつもの光景に、アリスは割り込むことも止めることもせず、淡々と料理をこなしていく。現状の霊夢に何を言っても
無駄なことは、この数カ月でとうに分かり切ってることだからだ。
――レミリアが、突如として消えた。それは本当に突然の出来事だった。
レミリアが霊夢に悩み相談を行い、翌日、翌々日と経ってもレミリアは一向に博麗神社に姿を見せようとしなかった。
彼女だけではなく、日々共に修行を重ねていた咲夜すらも姿を見せない。そのことに霊夢、アリス、魔理沙、妖夢が完全におかしいと
気付いたのは五日ほど経過してのことだった。痺れを切らした魔理沙が紅魔館に遊びに出かけたとき、紅魔館を包む異様な雰囲気に気付いたのだ。
紅魔館は結界によって閉ざされ、入ることも出ることも叶わない状態に封鎖され。それどころか、紅魔館からは人が棲んでいる気配すら
完全に失われていて。ようやく状況の異変を知った四人は、すぐさま幻想郷中を駆け回った。
彼女達が思いつく、レミリアに関する場所を駆け回ったが、何処へ行ってもレミリアは見つからなかった。白玉楼も、紫の家も、永遠亭も、人里も。
何処を探してもレミリアの影すら掴めない状況に陥り、それから四ヶ月。月日は経てど、状況は一向に変化しなかった。
時間が流れ、彼女達の取り巻く状況もまた刻一刻と変化していく。レミリアを探し始めて二月が経ち、妖夢があまり博麗神社に来れなくなった。
彼女曰く、冥界にて少しばかり仕事が忙しくなり、幽々子の手伝いをしなければいけなくなったとのこと。最後まで後ろ髪引かれてはいたが、
後のことを皆に託して妖夢は冥界へと戻っていった。それから二ヶ月が経つが、妖夢は多忙を極めるのか、未だに神社に顔を見せていない。
時間の流れがゆっくりと、しかし着実に彼女達の世界を蝕んでいった。やがて霊夢はレミリアを心配する気持ちから、どうして会いに来ないのかと
責める気持ちにシフトしてしまう。それは彼女が誰より強くレミリアを想うが故に取ってしまった自衛の心。きっとそう思わなければ、
彼女は不安に押し潰されて日々を送ることが出来なかっただろうから。大切な親友が何の音沙汰もなく消えてしまった現実に、心が乱され続けただろうから。
そんな霊夢の気持ちを理解しているからこそ、魔理沙もアリスも霊夢を強く責めるようなことはしない。
博麗霊夢がレミリアのことを大切に思う心、心配する気持ちを理解していたからこそ、二人は霊夢の不器用な姿を受け入れている。
この幻想郷で誰より気が強い少女が、歯を食いしばって自分を保とうとどれだけ必死なのかを、二人は知っているのだから。
そんな最中、幻想郷に舞い降りた小さな異変に霊夢は止むを得ず対応しなくてはならなくなった。博麗の巫女の仕事は異変解決、例え
どんな事情があってもそれだけは必ず遂行しなくてはならない。それが彼女を博麗の巫女たらしめているレゾンデートルなのだ。
よって、現在この三人は役割を分担して行動を起こしている。霊夢は異変解決に奔走し、魔理沙はレミリア捜索に。そしてアリスは二人のフォロー。
突然消えてしまった友人を探し、三人はなんとも不可思議な共同生活を送っていた。博麗神社に厄介になるのは、魔理沙は三日に一度程度なのだが
アリスはほぼ毎日である。その理由は勿論、アリスの呆れる程のお人好しと苦労性によるものなのだが。
不機嫌極まりない霊夢の様子に、魔理沙もアリスもレミリアの話題を続けることを諦める。
そして閑話休題とばかりに、アリスが気を利かせて話題を霊夢に振る。それはレミリア捜索と同様に大切な話。
「霊夢の方はどうなの?異変の元凶に関するヒントは何か見つかったの?」
「ヒントなんて断言していいのかどうかは分からないけれど、少しだけ方向性は見えたわ」
「方向性?」
「そう…私は季節外れに咲き乱れる花や溢れかえる妖精ばかりに目がいってたけれど、重要なのはそっちじゃなかった。
この異変はそれらの他に、見過ごすことの出来ない程の大きな変化が存在してる。明日はそっちを当たるつもりよ」
「他の大きな変化?それは一体…」
訊ねかけるアリスに、霊夢は一旦言葉を切って、再び炬燵に横になる。
それは、彼女にとって躊躇の時間。はたして口にすべきかどうかを迷っている仕草だ。
その様子にアリスは首を傾げるものの、急がせるような真似はしない。霊夢が話してくれるなら聞く、そういう
スタンスで向き合っている。それは魔理沙も同様で、異変に関しては霊夢に投げているので彼女もまた霊夢の言葉を待つだけだ。
そして、ゆっくりと放たれた霊夢の言葉に、彼女が言い淀んでいた理由を悟る。彼女はあまり疑いたくなかったのだ。彼女達の良く知る人物を――
「…霊の数よ。どこもかしこも、以前では考えられないくらいに幽霊が多過ぎるのよ。
だから明日、私は冥界に向かうわ。霊のことなら連中が詳しいだろうし…元凶なら、まとめてぶっ飛ばすだけだから」
――魂魄妖夢、そして彼女の主、西行寺幽々子。
博麗の巫女が犯人だと疑ったのは、冥界の管理人を務めている前科者。そして、霊夢達にとって大切な友人。
無論、霊夢とて彼女達が犯人だとは思ってはいない…いないが、万が一という可能性を捨てきれない。だから霊夢は口にしたのだ。
アリスの口からも魔理沙の口からも決して言わせない為に、誰より先に口にし難いことを、博麗の巫女の責任として。
そんな決意を霊夢が心の中で固めている同時刻より更に夜が深まった時間。
人里の中でもあまり人の来ない外れに位置する家屋に、来客が一人。
それを出迎えた紅髪の女性は、すやすやと眠る少女のことを銀髪の女性に任せ、少女を起こさないようにゆっくりと外へと足を運ぶ。
入口の扉を閉め、紅髪の女性は無言のまま家屋から離れる。来客の女性もまた、同様に家屋からゆっくりと離れていく。
そして十分に距離を取った後に、来客の女性は静かにその口を開く。
「すまないな、夜遅くに」
「構わないわ。この時間じゃないと、お嬢様が起きているものね。
むしろ謝るのは私の方じゃない。こっちの都合で慧音にこんな時間に付き合って貰ってる」
「それこそ気にするな。私は自分が知りたいから、状況を耳にしたいからこそ、こうして行動してるだけなのだから。
言わば自分勝手な興味本位だ。そこに美鈴の謝罪など挟む余地などないさ」
「興味本位じゃなくて過分なお人好しの間違いでしょ。…でも、ありがと。慧音の存在は、本当に助かってるから」
礼を告げる紅髪の女性――美鈴に、来客の女性――慧音はそれ以上は不要と首を小さく振って笑ってみせる。
そして、足を進めながら、慧音は美鈴に対し、いつものように様々な情報を提供して貰う。…否、情報とは少しばかり異なるかもしれない。
美鈴が慧音に提供して貰っているのは、単純な情報ではなく『人里の歴史』だ。人里内の歴史というモノから、溢れる人から妖怪まで
今日存在した全ての人物の気質を美鈴は一つ一つ漏らさずに記憶していく。その人物の気の在り方、空気を覚え、人里内に
存在しているかどうかを幻想郷のどの位置からでも把握できるように。情報の積算を終え、美鈴は軽く息をつく。その間十数秒、相変わらずの
手際に慧音は呆れるような賞賛するようなどちらともとれるような声を漏らし、美鈴に言葉を贈る。
「いつ見ても見事だな。普通、これだけの情報など簡単に処理しきれないものだが」
「気に関してだけよ、別段胸を張れることでもないわ。それにこれくらいは出来ないと、パチュリー様に顔向け出来ないから…ね」
「…確か、一人館に残って探しているんだったか」
「…そうよ。月の頭脳すら越えられなかった壁を、パチュリー様は乗り越えようとしているの。
私達が無力なばかりに…パチュリー様だけに、負担を背負わせるような真似をして」
「言うな。パチュリーとて、お前と咲夜を信じたからこそ彼女を任せたのだろう?
下を向くなよ――紅美鈴。お前が暗い顔をすると、咲夜も彼女も不安に思うだろう。特に咲夜は不安定なんだ、支えてやらないでどうする」
「そうね…一番つらいのは咲夜だものね。本当、泣きたいのを我慢してよく頑張ってるわ、あの娘は」
「母親から娘と見て貰えなくなった…泣きたいだろうな、本当は」
「…泣かないわよ、咲夜だもの」
「…泣かないだろうな、咲夜だから」
お互いに同じ言葉を返し、二人は人の気配が完全に消えた人里の通りを歩いていく。
人里内は既に暗く、月明かりだけが頼りと言った状況だが、二人は決して道に迷うことは無い。互いに人里の地に
慣れた者同士というのもあるだろうが、何より彼女は両者ともに半妖なのだ。夜目など効いて当然なのだから。
そんな暗き道を歩みながら、慧音は再び美鈴に訊ねかける。
「昨日、魔理沙が家を訪れてな。彼女の居場所を探していた」
「…そう。魔法使いちゃんが」
「魔理沙だけじゃない。霊夢もアリスも妖夢も彼女の居場所を探しているそうだ」
「それで、慧音は喋っちゃった訳だ。あ~あ、残念…漏れちゃった」
「とんだ濡れ衣を着せてくれるな…無論、何も言わなかったさ。
だが、彼女が帰ったあとで…な。果たして本当にこれでいいのか…魔理沙の必死な顔を思うと、断言出来なくなってしまう」
「…霊夢も魔理沙も、沢山沢山心配してるでしょうね」
「なあ…やはり、彼女が無事であることだけでも告げておくべきではないのか?
魔理沙達は心から彼女のことを心配しているんだ。せめて、それくらいは…」
「そうね…そう出来たらいいって、私も思うよ。だけど…ね」
理由は分かっているだろう、そんな視線に慧音は言葉を返せない。
分かっている。美鈴とて魔理沙達に告げるべきだと考えていることくらい、慧音はとうに理解していた。
けれど、最後の一歩を美鈴達は越えられない。どうしても八意永琳の診断結果、その言葉が重く心にのしかかる。
彼女達は現在、ギリギリの線上に乗っている。こういう言い方は酷かもしれないが、彼女達が『二つ』を失う訳には
いかないのだ。迷い、選ぶ。最悪の場合を考慮に入れて動く、それが今の美鈴達の為すべきことだと知っている。
だから彼女達は万が一の選択も出来ない。他者の心配を解消する為だけに、一か八かを打つことなど出来ないのだ。
故に慧音は反論を続けない。駄目もとだと分かっていた、だが、美鈴の重く悲しそうな表情に言うべきではなかったと後悔の念を抱く。
彼女とて好きでこのような判断を下している訳ではない。美鈴とて大切な人との絆を捨てて、無かったものにされてもなお
必死で支えようとしている。そんな彼女の、彼女達に自分がどうこう言えることなどありはしない。それが慧音の考えだった。
自分に出来るのは協力と傍観――この過酷な運命を偶然知ってしまった者としての出来ること、それはきっとそれだけなのだから。
軽く頭を振り、慧音は軽く呼吸をつき直して、明るく振舞って美鈴に言葉を紡ぐ。
「どうだ、久々に一杯やらないか?家に幾つか貰いモノがあるんだ」
「遠慮しておくわ…と、言いたいところだけど、気分だけ貰っておくわね」
「気分だけ?」
「ええ、酒を飲むのは貴女『達』だけ。私は横で明るい気持ちを分けて貰うことにする。
私が次に酒を口にするのはみんなが…紅魔館のみんなが、また一緒に笑いあえるその時だって、決めてるから」
そう言って言葉を一度きり、慧音の家の前で美鈴は背後を振り返る。
そこには誰もいない大通りが広がっているだけだが、そんな虚空に美鈴は当然のように言葉を紡ぐ。
「…そういう訳よ。私の分は貴女が飲んで頂戴」
「そういう提案なら大歓迎さ。喜んで受けさせて貰うよ。でも本当にいいのかい?」
「いいのよ。それに貴女にはあの人の身辺警護役として日頃世話になってるもの。十分に相応の対価だわ」
「対価ねえ。別に私はそんなモノの為にやってるつもりはないけど…まっ、貰えるタダ酒は遠慮なく貰うけどね」
何も無い夜道に何処からとなく集まる白い霧に、美鈴と慧音は共に頷き合って室内へと入っていく。
そして、彼女達を追うように、その場に姿を現した小さな少女もまた同様に。
美鈴達が言葉を交わし合う同時刻。
妖怪の山のある集落、その一家屋内にて頭を悩ませる少女が一人。
彼女はこれまで自分がまとめた聞き込みの内容をまとめる作業に従事していたものの、
先ほどペンを投げ捨て作業を放棄してしまった。その理由は言わずもがな、情報に何一つ統一性が無いからだ。
例えばレミリア・スカーレットに関する情報の中で容姿の一つをとっても、ある人物はスカーレットの名の通り、紅髪を持つ少女と
言うし、かたや別の者は淡い紫色の髪の少女とも証言し、また別の人物はブロンドだと言っていた。それが髪型、顔の造形、服装ともなると
組み合わせるだけで万を軽く越える程のパターンが出来てしまう。ここに加えて彼女に付き従う従者の情報も曖昧だ。種族から性別、外見まで恐ろしくバラバラだ。
もっと言うなら、それぞれの情報量がほぼ均等の人数から聞こえたのも痛い。情報に偏りが無ければ、何に準拠して判断していいのかという
筋道すら立てられない。このあまりに悲惨な状況に、文は誰にでもなく一人愚痴を零す。
「ここまでくると、何者かが意図的にレミリア・スカーレットに関する虚偽情報を流しているとしか思えないわね…」
そんな勝手な意見を思うものの、文は即座に自分の考えを否定する。
そもそも誰がどうしてレミリアに関する虚偽情報を流す必要があるのか。誰が流して誰にそんなメリットが存在するのか。
レミリア側が流した…なんてまず何より考えられない。妖怪とは人々にどれだけ恐れられるか、その点で優劣が決定づけられる部分が
少なからず存在している。それなのに、わざわざ自分の姿を偽って流す必要など何処にあるのか。何処の誰が聞いても『あれがレミリアだ』と
恐れてくれる方が都合が良いに決まってる。なればこそ、レミリア側が虚偽情報を流すとは微塵も考えられないのだ。
では、他の第三者がと考えると、それはもっと怪しい。何故ならそんなことをして一体何の得があるのか。もしそのことを
レミリア・スカーレットが耳にすれば怒りを買って情報の出元を探るに決まってる。彼女はこの幻想郷で伊吹萃香をも
打倒した最強の一角に位置する妖怪なのだ。メリットどころか、デメリットしか考えられないのに、そんなことをする必要が何処にあるのか。
考えれば考える程堂々巡りな展開に、文は軽く溜息をついて再び言葉を零す。
「せめてレミリア・スカーレットの容貌だけでも知っていれば、直接聞き込みで『こんな人見ませんでした?』って
人里で訊けるのに…そうすれば、少しはマシな情報が整理できるのに…」
しかし、そこで文の無い物ねだりは終わってしまう。人里ですらこんな有様だというのに、一体どうやってレミリアの容貌を知ることが出来るのか。
人里での訊き込みはハッキリ言って無駄だろう。それが駄目だから、こんな方法を考えているのだから。では、実際のレミリアを知る人物に
直接訊くのはどうか。それも正直なかなかに難しい。文の知る限り、レミリア・スカーレットと面識が確実にあるのは、紅魔館の住人達、
八雲の妖怪、西行寺の亡霊、伊吹萃香、そして博麗の巫女だ。まず順に考えていくとすると、紅魔館の住人達は却下。そもそも紅魔館に
誰がいるのかすら知らないし、結局それはレミリアと直接接触したことと何ら相違ない。それでは上の連中にお咎めを喰らってしまう。
次に八雲の妖怪と西行寺の亡霊だが、こちらは面識もなければ一介の天狗如きに情報をくれるような者達とは到底思えない。そして
伊吹萃香だが、これこそ大却下。現在、彼女はレミリア・スカーレットと共に在ることは有名で、下手を打てば最強の二者の
反感を買ってしまいかねない。何より文は鬼が苦手であり、自分から接触するなど以ての外なのだ。残るは博麗の巫女だが、
これまた分が悪い。なんでも彼女は今、頗る機嫌が悪くて、しかも妖怪相手だと非常に拙いらしい。とても自分に情報をくれるとは思えない。
そのことを考え、文は大きく息を吐く。博麗の巫女が一番可能性が高かっただけに、文の落胆は大きく。
「もう…機嫌悪くなるなら、私が聞き込みしたいとき以外にしなさいよ…面倒な。
でも、博麗の巫女の機嫌が悪いことは確定だし、どうしたものか…他の誰でもない、いつも博麗霊夢と一緒にいるっぽい
アリス・マーガトロイドやや霧雨魔理沙の情報だもの。その信頼度は…アリスに、魔理沙?――そうよ!あの二人がいたじゃない!」
そこまで考え、文はレミリアの情報を聞くに値する二人の人物が幻想郷に存在していたことを思い出す。
先日出会った二人の魔法使い、霧雨魔理沙にアリス・マーガトロイド。どちらも文と友好的に会話を行ってくれ、情報を得るには
適した人物であった。だが、彼女達はレミリアに関する話題には決して触れようとも深く探らせようともしなかった。
その理由は分からないが、二人からレミリアの情報を聞き出すのは中々に難しいことは文も理解している。それでも…
「…他の連中に比べれば何倍もマシ、か。それに私が聞くのは外見だけだし、それくらいなら話してくれるかもしれないし。
とりあえず、明日のやるべき方向が固まったわね。博麗霊夢のいない隙をついて、アリスとまた話をすること…これが一番手っ取り早いわ」
行動の詳細を手帳にまとめ、文はくるんとペンを回しながら楽しそうに笑みを浮かべる。
一歩ずつ、少しずつではあるが確実に。ゆっくりとにじり寄るように、文は己の望みへと近づいていく。
「――期待してなさい、レミリア・スカーレット。この私、射命丸文が貴女と対面する日はそう遠くない筈だから」
文の呟きは同じ夜空の下に存在するであろう吸血鬼のもとへ。
彼女から贈られる言葉は、少女がしばしの休息を取る前の世界との別れの言葉代わりに。
まあ、闇夜の覇者たる吸血鬼は深夜こそ活動の時間であって、こんな時間に眠ることなんてまず有り得ないでしょうけれど。
そんなことを他人事のように考えながら笑い、文は遅くなってしまった休息の時間にただただ身を委ねるのだった。
闇。
一面の闇が支配する漆黒の世界。
月の光も、星の光も差し込まない、全ての生者から隔離された世界で女は嗤う。
それは愉悦。それは悦楽。
自身の欲望のままに、自身の愉しみこそ世界の全てと知る女性は、訪れる未来を想像して嗤う。
一つ。また一つと異界に蠢くそれらを放ち続け、女性は嗤い続ける。
舞台の仕込みは上々。既に開幕のファンファーレは世界に響き渡っている。
あとは役者を舞台に上げるだけ、それだけで彼女の望む劇は舞い踊り始めてくれる。
暗闇だけが支配する呪われた泥の中で、女性は笑みを浮かべて独り言葉を紡ぐ。
「…始めましょう、お遊びの時間を。始めましょう、終焉の時を。始めましょう、忘れ物を取り戻す我らが旅路へ」
嗤う。嗤う。身を暗き泥に委ね、女性は嗤う。
一つ、また一つと相反する世界に蟲毒を送り続け、ただ独り。