世界を包むは静寂。大地を覆う夜闇は、昨日とも一昨日とも何一つ変わることは無い。
暗色に塗りつぶされた世界を照らすは空に輝く幾許ばかり欠けた月。見る者全てを魅了するような眩き光を放ち、暗き闇夜で己が存在を静かに示す。
月が輝き、過ぎた熱気が少しばかり混じる風が草花を揺らすいつもの秋の夜。恐らくは、幻想郷に住まう殆どの人間達がそう思っているだろう。
そんな夜の下、空に浮かぶ月を一人の少女が目を逸らすことなく見つめ続ける。欠けた月を見つめ、彼女が零すは歪んだ微笑。
彼女が月を見つめ、何を考えているのかは分からない。けれど、その表情はどこまでも愉悦が込められていて。笑みを浮かべる少女、その
人物の傍に、何時の間に現れたのか、別の少女が佇んでいた。それはまるで、最初からその場に居たかのように。
「遅いよ咲夜。折角こんなにも愉しい夜に誘って貰えたというのに、遅れてしまっては元も子も無くなってしまう」
「お待たせして申し訳ありません。少しばかり不安になったもので」
「心配しなくてもフランなら今頃夢の中の住人だよ。少なくとも明日の朝まで起きる事はないでしょう。
目が覚めたところで、一応の保険もかけてある。今宵、フランが館の外に外出する事は許さない、それが紅魔館の主の命令だもの」
「そのお言葉を聞いて胸の閊えが取れましたわ。それでは参りましょうか――レミリアお嬢様」
遅れて現れた少女、十六夜咲夜の言葉に、彼女の主――レミリア・スカーレットは口元を歪めながら背の歪な両羽を力強く広げる。
空に跳躍しながらも、彼女は決して笑みを絶やす事は無い。何故なら、レミリアが待ち望んでいた愚劇の開幕、その日がとうとう訪れたのだから。
「紛いモノに彩られた喜劇で踊るなら、主役とて贋作でも文句は言うまいよ。フフッ、このラストダンス、実に私に相応しい舞台を用意してくれたものね。
さて…どこぞの巫女の言葉じゃないけれど――こんなにも月が歪だから、今夜は永い夜になりそうね」
あんたさ、自分がこの幻想郷でどれだけちっぽけな存在なのか自覚したことある?
私はある。忘れもしない。それは吸血鬼なのにミジンコ並の戦闘力しか(以下略)。そんなちっぽけな私…ごめん、なんか泣きたくなってきたわ。
とにかく、私は弱い。吸血鬼なのに本当に弱い。だけど、そんな私とは対照的に、実妹であるフランは本当に才能に溢れていて…昔はそんなフランが羨ましかった。
強くて、格好良くて…正直、何度も嫉妬したりした。…え?全部過去形だって?当り前じゃない、今じゃ全然羨ましくもなんともないんだから。
いや、だって、フランレベルの強さになっちゃうと何か無駄な死亡フラグがバキバキ立ちそうじゃない。バトルジャンキーに絡まれたりとか幻想郷の
危機とかに戦闘要員として呼び出されたりとか…確かに蟻以下の実力である私は問題だけど、今の私は流石にフランになりたいとは思わない。まあ、
少しくらい身を守れる強さ(人間レベル)を持ちたいとか、空を五分以上飛べるようになりたいとか願望はあるけれど、それはいつか七龍玉でも集めたときにお願いするわ。
結局、私が何を言いたいのかと言うと…昔はフランになりたいと思ってた。でも、今は少しも、微塵も、一ミクロンたりとも思っていないってこと。
フランはフラン、私は私。私は他の誰でも無い、レミリア・スカーレット。レミリアは静かに暮したいで有名なレミリアなのよ。
…そう、私はフランになりたいなんて微塵も思ってない。願望だって無い。無いと胸を張って言える…筈なのに…
「何で私がフランになっちゃってるのよおおおおおおお!!!!!もうこんな意味不明な人生嫌ああああああああ!!!!!!!!」
何度瞬きをしても、何度目をこすっても、鏡の中に映し出されているのは私ではなく話が妹、フランの姿で。
鏡の前でベソベソと落涙しながら現実を受け入れる私。あ、この鏡は吸血鬼でも姿が映る様に魔法がかけられてるパチェ作。どうでもいーですね。
しかし、パチェって本と魔法以外に興味無いと思ったら、時々女の子してるところがあるのよね。話題も合うし、私的にはそういう
パチェも全然好ましいっていうか…って、現実を受け入れた傍から現実逃避してる場合じゃない!頑張れ私!こんな理不尽、今更じゃないのよ!落ち着くのよ!
とりあえず大きく深呼吸。せーの、一回、二回、三回。オーケイ、落ち着いたわ。このあとしっぽリムフフといけるレベルの冷静さだわ。
まず、これまでのことを振り返る事にする。といっても、夜起きて顔洗って鏡を覗いたら私がフランになってただけなんだけど…だ、だけってレベルじゃねえぞ!?
一体いつから私はフランに…思いだぜ、思い出すのよレミリア。えっと、確か晩御飯を食べたのが夜の七時くらい。そのときは、珍しくパチェや咲夜や美鈴が
食事中にお酒を勧めてきたのよね、赤ワイン。まあ、私もお酒は嫌いじゃないから遠慮なく飲んだんだけど…で、ご飯食べた後、なんか急に凄く眠くなっちゃって…うん、確か部屋に帰って寝たのよ。
眠るときに萃香にお休みって言った時、萃香は普通に返してくれたから、そのときはまだ私はレミリアだった筈。で、起きたら…コレでした、と。
…駄目、全然分かんない。そもそも、私がフランになってる意味が分からない。フランになってるというか、正確に言うと髪の色が金髪になってるのと、
着てる服がフランのモノになってるってだけなんだけど。羽はフランの七色の羽じゃなく、いつもの私の蝙蝠羽だし…そうなると、身体が入れ換わったとかそういうのじゃない。
もし私の身体とフランの身体が入れ換わっていたら、それこそこれからの私の人生はレミリア・スカーレット(チート最強モノ)って但し書きが
付属される人生になってしまう。…嫌過ぎる、私の夢はあくまでケーキ屋さん&幸せな家庭を築くことであって、間違っても紫や幽々子や萃香と幻想郷まるごと超決戦したい訳じゃない。
むしろ私の身体何かに入ってしまったらフランは鬱のあまり自害しかねない。ふ…並の妖怪に私のボディは使いこなせないのよ、いわば
牛乳特選隊のボディチェンジの逆バージョンね。…ヤバい、言っててまた本気で泣きたくなってきた。泣かない、レミリアは強い女の子だから泣かないのよ。
うん、落ち着いてみると、そこまで慌てる必要無かったのかもしれない。結局、私は寝ている間に髪を染められて服を着替えさせられた、ただそれだけのこと。
つまり、誰かの悪戯…って、服!?ちょ、ちょっと待って、服を着替えさせられたってことは、まままままさか誰かが私の服を脱がせたの!?いや、それだけ
ならまだ良いわ!さ、最悪下着まで交換されたとか…ひぎぃ!!私は恐怖を覚え、慌ててスカートをたくしあげて自分の下着を確認する。
「…うん、良かった。流石に下着まではノータッチだったみたいね。今夜の私も実にアダルティック」
真っ白なおぱんてぃ(後ろにクマさんプリント)を確認し、私は安堵の息をつく。下着まで手をつけられてたら、
セイントの宿命に従い相手を殺すか愛するかを選ばなきゃいけなかったところよ。とにかく私の大切な何かは守られたので安心した。
下着はさておき、誰かの悪戯となると…ここまで手の込んだことをする奴、しかも私の驚く姿が見たいが為だけに。
私をからかう為に労力を惜しまない、そんな奴ねえ…あれ、紫なんかドンピシャじゃない。いや、でも紫がなんで私にフランの格好なんか…
そもそも紫ってフランと面識あったっけ?う~ん…なんか紫じゃない気がしてきた。となると、犯人は…そんなことをうんうんと唸りながら
思考していると、洗面所に私以外の人物が入室してくる。それは私の親友であるパチェ。
「変な叫び声が聞こえてきたんだけど、一体何が…って」
「へ、変な叫び声とか言うなっ!というかパチェ、驚かないで欲しいんだけど、私にも何がなんだか…」
室内に現れたパチェは、目を丸くして私の方を見つめている。完全にびっくりしてるわね…そりゃそうよね、私がフランの格好してるんだもの。
しかもご丁寧に髪まで染めて。…あれ、何かこれ結構勘違いされる状態じゃない?いや、だって実の妹になりきって鏡の前でアレコレ考えてるって…な、何か嫌過ぎる!
慌ててパチェに弁解をしようとして口を開こうとした刹那、私より早くパチェの口から言葉が紡がれる。
「…フランドール、貴女が地上に居るなんて珍しいわね。いつもは地下室から一歩も出たがらないというのに」
「…は?え、あ、ちょ、ちょっと待って。パチェ、貴女もしかして私をフランだと…」
「それと、さっきから私の呼び名が変よ?私の事をパチェだなんて、レミィみたい」
「み、みたいじゃなくて本人だああああ!!!!!絶望した!!親友が私の事を認識してくれない百年の絆の薄さに絶望した!!」
あり得ない。確かに髪の色やら服装やらは変わってるけど、それでも私に気付けないなんてあり得ない。初対面でも無いのに。
声も違うし顔つきだって微妙に違うし、背中の羽何か全然違うでしょ!貴女はこの百年間私の何を見てきたのよ!ばかばかばか!パチェの馬鹿!魔法馬鹿!
思わず本気で泣きそうになっている私に、パチェは軽く溜息をつきながら、追い打ちとばかりに言葉をぶつけてくる。
「どうでも良いけれど、今夜はおとなしくしてて頂戴ね。貴女のお姉様から貴女が好き勝手して暴れないように厳しく言われてるから」
「…は?いや、私に姉なんていないわ…って、違う!私の姉ってことはフランの姉ってことで、フランの姉ってことは、つまり私のことじゃない!」
「…フランドール、貴女頭大丈夫?もしかして強く打ったりしたとか?」
「毒舌っ!?いやいやいや!だから私はレミリア!こんな恰好してるけれどレミリア・スカーレットなの!貴女の親友でしょ!?心の友でしょ!?
映画版になると途端に良い奴になる剛田ニズム宣言なお友達でしょ!?何で間違えるの!?」
「はあ…分かった、貴女がレミィごっこしたいのは十二分に分かったから、話を真面目に聞いて頂戴。
今レミィは咲夜と一緒に外出していて、この館に居ないのよ。だから、貴女が好き勝手しないように私達が厳しく言われてるのよ」
「いや外出して無いから!私はここに居るから!五百年と幾年前から此処に居るから!八千年過ぎた頃には幽々子のところに居るかもしれないけど!」
「それじゃ、大人しくしてて頂戴ね。遊び相手が欲しいなら、美鈴にでも言って頂戴」
私の話にまともに取り合おうとはせず、パチェはさっさと地下の方へと戻って行った。あ、あんの紫もやし雪国まいたけがああ!!!(※レミリアはもっともやしっ娘です)
知らない間にフランになってるどころか、親友にも気付かれないなんて…顔立ちが似てる姉妹という点がここまで…くうう、きっと私はエクスタシーでヒロイン昇格なのね…
とりあえずパチェには後でキッツイ復讐をするとして(レミィ愛用人間枕の刑)、問題はパチェ達に指示を飛ばしたという『レミリア』の存在。パチェの話で、
私は今回の事件の犯人も大まかな流れも大体掴めたわ。犯人は十中八九…いいえ、百パーセント中の百パーセントで馬鹿妹、フランだわ。
しかもフランの奴、私に自分の格好をさせてるのと同様に、自分も私の格好をしてる。そして私を装ってパチェに命令したんだわ。き、気付きなさいよ馬鹿パチェ!
フランがパチェに命じたのは、『私を館の外に出さない事』。そして自分は外出してる、しかも私の格好で。そこまで考えがまとまったとき、
私は全身から滝のように冷たい汗が噴き出してきた。拙い。拙い拙い拙い拙いマズイマズイマズイマズイマズイ!!このままだと非常に拙い!
私の脳裏にフラッシュバックされた一つの光景。それは、過去にフランのお馬鹿が原因で引き起こされた災厄にして、全ての始まりである紅霧異変。
あのときも、フランは博麗の巫女と遊びたいが為に、紅霧を幻想郷中に散布させ、それを私がやったことにし、あまつさえ、私の振りをして霊夢とバトってる。
あの異変が私の全て(平穏クラッシュ)の始まりであり、今回の件はあのときと状況が酷く酷似しちゃってる。今、フランは外出中、それも私の振りをして。つまり…
幻想郷で何か問題を起こす→それはレミリアのせい→私フルボッコ→\(^o^)/。下手をすれば異変解決の巫女として霊夢降臨なんてことも…フォォォ!?
「だ、駄目駄目駄目駄目!!霊夢を敵に回すのは駄目!本当に殺される!今度こそ殺される!」
既に私には紅霧異変というイエローカードが一枚出ちゃってる。それなのに、再び問題起こしてしまえば…じ、人生からの卒業じゃない!
いいえ、霊夢だけじゃない。下手に紫や幽々子にでも喧嘩を売ろうものなら…あばばばばばば、ふ、フランと私の命が危ない!
その答えに辿り着いた時、私は慌てて館の外へと駆けだした。とにかくこのままじゃ拙過ぎる!何とか問題を起こす前にフランのお馬鹿を
捕まえないと私が確実に死ぬ!かといって私一人で捕まえられる訳が無い、そして咲夜も館にはいない…って、咲夜も普通にフランが私じゃないって
気付かなかったのね…な、泣いてない、泣いてないもんね!愛娘に妹と勘違いされても私は絶対に挫けないんだから!
とにかく、咲夜が居ない今、フランを止めるのに用意できるカードなんて一枚しか持ち得ない。それは美鈴、紅魔館の誇り高き守護者、紅美鈴。
美鈴に事情を説明して、私を抱きかかえて飛んで貰えればまだフランに追いつける筈。そして、抵抗するであろうフランを美鈴と咲夜の
夢の最強タッグになんとか取り押さえて貰う。それが今の私に出来る唯一の方法だと思う。早く、早く美鈴を説得してフランのお馬鹿を…
「駄目ですよ、フランお嬢様。レミリアお嬢様から貴女を決して外に出さないように仰せつかっているんですから」
「ぶ、ブルータスなんか嫌いだあああ!!!なんでどいつもこいつも私がレミリアだって分からないのよ!?」
はい、駄目でした。美鈴の奴、私の事を完全にフランだと思ってる。説明しても微塵も信じてくれやしない。
咲夜はまだ仕方無い。パチェもまあギリギリ許せる。だけど美鈴、貴女一体何百年私の顔を見てきてるのよ…それで間違えるって…おおもう、この門番は…
めっ、と子供を叱るような仕草をする美鈴に怒りを感じつつも、私は必死に何とか策を練る。ここで美鈴を説得出来ないと私は完全にアウト。
フランが人里でやりたい放題してしまい、その結果に一人ベッドの中で震えるしか出来なくなっちゃう。なんでよ、なんでこうなるのよ。最近は平和で
私のふわふわ時間な毎日だったと言うのに…時折魔理沙が騒動を持ち込むくらいで、私の望む日常だったというのに、なんでこんな…あ、諦めるな!ガッツと、勇気と!そして、友情!
なんとか美鈴を私だって認識させないと…なんとか…なんとか…うううう…
「そ、そう言えば美鈴!昨日貸した漫画読み終わったかしら!?」
「漫画ですか?はあ…確かに私はレミリアお嬢様に漫画をお借りしましたが、フランお嬢様って確か漫画御嫌いじゃありませんでしたっけ?」
「だ、だから私はレミリアなのよ!レミリアだから漫画好きなの!その本読んでるの!
良い!?今からその漫画の内容言うから、もし当たってたら私がレミリアだって信じなさいよ!?えっと、それは199×年に地球が核の炎に…」
「残念、私がレミリアお嬢様にお借りしたのは少女漫画ですよ。女の子が十二支の呪いをかけられた男の子達と…」
「嘘つけ!それは随分前に貸したヤツじゃない!私が昨日貸したのはモヒカン達がヒャッハーする話よ!愛で空が落ちてくるヤツよ!」
「とにかくフランお嬢様が間違えたのは事実ですからね。ほら、あんまり我が侭言ってお姉様に迷惑かけるような事しちゃ駄目ですよ。
館の外に出るのはいけませんが、この紅魔館内でなら私が幾らでも御遊びに付き合ってさしあげますから」
うがー!!美鈴のあほ、全然人の話を聞こうともして無いじゃない!しかも何で嘘つくのよ!私が貸したのはケンジロウが主役の漫画だったでしょ!
うう…私の命令(実際はフランの命令だけど)だから、美鈴ったら少しも譲歩してくれない…ご主人様としては誇らしいことなんでしょうけど…
だったらご主人様を見間違えるとかありえないって話なのよ…馬鹿美鈴、明日から仕事中のクッキーの差し入れは二度としてあげないんだから。
こうなってしまっては、最早美鈴をこちらに引き込む事は無理。パチェの奴なんかもっと無理。でも、このままじゃフランが…あああ!なんで自分の家で
私は孤立しなきゃならないのよおお!!早く、早くフランを止めないと取り返しのつかないことになるというのに!具体的に言うと私の命とか命とかイノキとか!イノキは関係無いけど!
とにかく何とかしないと…誰か、誰でも良いから協力者を探さないと…私に力を貸してくれて、なおかつ偽レミリアの命令に縛られてなくて、更にフランと渡り合える実力者…
…駄目だ、条件を並べるだけで絶望してきた。私は紅魔館から出られないのに、そんな都合の良い存在が、そうホイホイ…
「…あ」
…いた。一人、居た。条件に当てはまる人物が一人、この紅魔館に。
そのことに気付き、私は慌てて館へと戻り、館内の階段を駆け上がっていく。そう、私には最高に頼れる人が居たんじゃない。
この紅魔館に住んでいて、私の力になってくれて、なおかつ紅魔館という所属に縛られない、フランと対等に渡り合える最高の友達が。
私は祈るような気持ちで自分の部屋の扉を力強く開く。その人物は、どうやら私が戻ってくるのを待っていたのか、楽しそうに笑みを浮かべてベッドの上に腰を下ろしていた。
その姿に私は心から安堵する。ああ、どうやらこの娘だけは私がレミリア・スカーレットだとちゃんと認識してくれている。そして恐らくは私の用件も。
そんな頼れる最高の友人に対し、私は縋りつくように言葉を紡ぐ。この幻想郷での私の平穏を護る為に、お馬鹿な妹が先走った行動を取らない為に。
「――お願い、萃香、貴女の力を貸して頂戴!!」
~side リグル~
獲物が来た。それが私の最初に考えたこと。そして私の何よりの間違い。
人間の匂いにつられ、私は夜空を飛行していた人間の前に姿を現した。良い獲物がやってきた、と。
けれど、その人間の横に居た妖怪――そいつを見た刹那、私の心に獲物を見つけた浮つきの一切は消え去っていた。
その妖怪を見たとき、私の体中から警報が恐怖という形で鳴り響いた。アレはヤバいと。アレは私の手に負えるヤツじゃない、と。
身体が震える、声が発せない。それだけの異形なまでの威圧感を、目の前のアレは放っていた。
「どうした、妖怪。わざわざこの私の道を邪魔したんだ。それ相応の覚悟があってのことなんだろう?」
「あ…ああ…」
「レミリアお嬢様、その言葉はあまりに酷というモノですわ。私を餌にして釣りあげたのは他ならぬお嬢様だというのに」
「フフッ、咲夜、やっぱりお前を連れてきて正解だったよ。お前という生き餌に釣られる妖怪が向こうから勝手に現れてくれるわ」
「お戯れも程程に。時間は有限、私達の本来の目的は妖怪をいじめることではありません故」
「言われなくとも分かってる。だが、これはその道程に必要な作業だよ。私の名を幻想郷中に響かせる為には、ね」
人間に笑って告げ、妖怪は私の方へ向き直る。楽しそうに零す愉悦、それは獲物を前にした獰猛な獣の表情。
私はこれまで幾人もの人間を襲ってきた。だけど、こうして狩られる側に回ってみて初めて分かることがある。
命を狩られる、弄ばれるというモノは実に自然の摂理に叶っていて、そしてそれ以上に理不尽であるということ。
怖い。ああ、心から怖い。蟲使いとしての私の能力も、目の前の強大な暴風相手には何の役にも立たないだろう。抵抗に一体何の意味があるだろう。
恐怖に震える事しか出来ない私に、目の前の妖怪はただただ笑みを零しながら言葉を紡ぐ。
「何、そう震える事は無い、殺す事はしないさ。これはただの弾幕ごっこ、他愛のないお遊びさ。
ただ、そのお遊びの中でお前には心に刻んで貰うだけだよ――レミリア・スカーレットという吸血鬼の強大さ、そして恐ろしさを。
私という恐怖を知り、そして幻想郷中の塵芥共に伝えるが良い。紅魔館の紅悪魔には決して近づくな、とね」
そこから先の記憶は覚えていない。残されたのは唯一つの事実だけ。
私が――リグル・ナイトバグが一人の妖怪、レミリア・スカーレットに弄ばれ、彼女の気紛れという名の匙加減一つで命を見逃して貰えたということ。
失神から目覚めた私の身体から恐怖の震えが収まったのは、永い永い夜が明けてからのことだった。