「ぐううう!!!!」
萃香に拳を突き出すも、その腕を簡単に掴まれ、私は今日何度目となるか分からない衝撃を背中に食らう。
固い地面を味わいながらも、私の身体は止まらない。私の身体は止まれない。その場を立ちあがり、再び萃香に対峙する。
睨む私に、萃香は呆れる様に笑いながら言葉をかける。
「これで本日三十二回目の飛翔だ。少しは学習しないのかい?アンタの喧嘩慣れしていない拳じゃ、私を一発殴るのは夢また夢だって」
「うるさいっ!!そんなの勝手に決めつけるな!!」
「フフッ…怯えるだけだったレミリアが、よくもまあ吠えたもんだ。いいよ、実に良い。今のアンタの目は最高だ。
恐怖を押し殺し、娘の為に無理だと理解してもなお諦めずに戦う姿、まさしく私の求めていたものだよ」
「ごちゃごちゃうるさいっ!!いいからさっさと咲夜を返せっ!!」
「ならアンタのその拳で黙らせてみなよっ!!この理不尽な現実をお前の拳で押し通してみなっ!!」
萃香の言葉を皮切りに、私は再び一直線に萃香の方へと全力で駆ける。
喧嘩や殺し合いなんてした事の無い私に出来るのは、これしかない。全力で萃香に近づき、全力でぶん殴る。
これで萃香に一発入れることが出来るなんて思っていない。だけど、私にはこれしか出来ない。だからこそ何度でも繰り返す。
一発で駄目なら二発撃てば良い。二発で駄目なら三発撃てば良い。何度も何度も諦めずに愚直に打ち続ける、転がされたら立ち上がれば良い。
今の私に出来る、精一杯をやるんだ。そして、絶対に咲夜を私が助けるんだ。
「甘いっ!!」
「あうっ!!!」
真直ぐに突き出した拳を難なく止められ、再び私の視界は上下見事に逆転する。あっけなく投げ飛ばされたんだ。
身体を襲う衝撃なんか関係ない。手足はある、なら立ち上がれ。どんなにつらくても、どんなに怖くても、そんなの関係無い。
咲夜は私が助けるんだ。咲夜を助けて、一緒に紅魔館に帰るんだ。咲夜と一緒に、私達の家へ絶対に帰るんだ。
口の中に入った土埃を吐き、口元を拭って私は立ちあがる。そして再び萃香に対し、真直ぐ駆ける。
再び萃香に対し、拳を突き出そうとした刹那、これまでと萃香の対応が異なる事に気づく。だけど、気付く頃にはもう遅くて。
萃香は私を大きく蹴り上げ、宙に浮かせる。激しい衝撃に襲われ、私は息を肺から吐きだすので精一杯で。だからこそ、萃香の追撃に
気付けなかった。萃香は周囲の岩石をどういう手法か宙に浮かせ、それを私めがけて文字通り叩きつけた。
サッカーボール大の大きさがある岩石が私の身体を粉砕していく。直撃した岩石のうち、左腕と肋にぶつかった分が痛手だった。
ごきり。そう鈍い骨の軋む音を生じさせ、私は他人事のように自分の左腕と肋骨が数本折れるのを感じていた。
そして私は捨てられた人形のように、地面へと投げ出される。骨の折れた痛みが全身を焼くが、そんなことはどうでもいい。
私は右手で身体を支え、両の足で体勢を立て直す。立ちあがるのに問題無いことを理解し、私は再び身体を起きあがらせる。
「無理しない方がいいよ。左腕と肋の三番と四番、持って行かれたでしょう」
「ハッ…それが、なんだって言うのよ…骨が折れたから、なんだって言うのよ…」
「…正直驚いてるよ。こういう流れに持ちこんでおいてなんだが、アンタがここまでするとは正直思っていなかった。
だからこそ謝る。私はアンタのことをみくびっていた、軽んじていた。レミリアは、私の想像を遥かに上回ってた」
ゴチャゴチャと言葉を並べたてる萃香を無視し、私は真直ぐ萃香の方へ走り出す。
足を地面につける度に、骨折した箇所の痛みが全身を駆け抜けていく。だけど、止まらない。絶対に止まってなんかやるもんか。
必死に足を前に出し、私は萃香の下へと駆け、残る右手を必死に突き出した。けれど、その拳は当たらない。届かない。
私の拳を避け、萃香は軽く私の身体を押した。触れる程度、ただそれくらいで押しただけなのに、私は背後の壁まで吹き飛んで行く。
理不尽だ。ああ、実に理不尽だ。私があれだけ必死に詰めた距離を、萃香は一触でここまで突き放す力がある。本当に世界は理不尽だ。
だけど、止まれない。私はこんなことで心を折ったりしない。助けるんだ。私が咲夜を助けるんだ。どんなに痛くても、どんなにつらくても、そんなの
気にするもんか。私が絶対に、絶対に咲夜を助けるんだ。だから待ってて、咲夜。貴女は私が助けてあげるから、だからもう少しだけ。
「…どうして立ちあがろうとするんだ。アンタはとうの昔に理解してる筈だろう。
レミリアの拳は何日、何年かけたって私には届かないって。それなのにどうして立ちあがろうとするんだ」
「うるさい…勝手に決めつけるなって…言ったでしょう…」
「立ちあがったところで、レミリアに待つのは痛い目にあうことだけだ。それは左腕と肋骨が証明してる筈だ。
痛いだろう?苦しいだろう?アンタは『参った』と言うだけでそれらの苦痛から解放されるんだ。いや、痛みだけじゃない。
アンタを縛る全ての鎖からだって解放されるんだ。アンタの願う平穏が、心を折るだけで手に入れることが出来るんだよ?」
「うるさい…うるさいうるさいうるさいっ!!そんなことなんかどうでもいい!
私は…私は咲夜を助けるんだ!私は咲夜と一緒に家に帰るんだ!絶対に、絶対に咲夜を助けるんだ!!」
拳を握りしめ、私は必死にその場に立ちあがる。震える足を抑える為に、何度も何度も地面を踏みしめ直して。
大丈夫、心は絶対に折れたりしない。折れたりなんかするもんか。咲夜を助け出すまで、私は絶対に負けたりなんかしない。
「そんなに…そんなに十六夜咲夜が大事なのかい?苦しい目にあっても、つらい目にあっても、それでもなおお前は…」
萃香の問いかけに私は思わず笑ってしまう。咲夜が大事か。なんて下らない質問なんだろう。
萃香、貴女は知らないでしょう。萃香、貴女には分からないでしょう。咲夜がどれだけ私にとって大切な存在なのかを。咲夜がどれだけ
私にとって可愛い娘なのかを。咲夜が居るからこそ、私は何度だって立ちあがれるんだ。咲夜が居るからこそ、私は今を頑張れるんだ。
咲夜との出会い…それは本当に偶然としか言えないもので。紅魔館の近くに捨てられていた赤子を偶然私が見つけ、気紛れに紅魔館へ連れて帰っただけ。
そして、咲夜を自身の娘として育てた理由は実に情けない理由で。人間の娘なら、私より弱く育つだろうと。館の中で自分以下の存在を作れるだろうと。当時の
私はその程度にしか咲夜の事を考えていなかった。だけど、そんな気持ちはものの三日で消えてしまった。
咲夜を育てることは本当に大変で、今までの私の堕落に満ちた毎日からは考えられないモノで。
泣き喚く咲夜を沢山あやした。お腹が空いたと泣く咲夜に幾度となくミルクを与えた。安らかに眠る咲夜を数えきれない程にこの腕に抱いた。
咲夜の面倒を一つ見る度に、私の中で咲夜の存在は大きく変わっていった。自分より弱い人間という存在から、咲夜は私が護らなきゃいけない
大切な娘へと私の中で変わってしまった。そして、咲夜が私の事を初めて『ママ』と呼んでくれた時、私は目から零れる涙を止めることなど出来なかった。
咲夜と出会うまでの私は、自分自身の存在価値なんて一つも見いだせない無価値な存在だった。
お父様が生きていた頃は、戦う力も魔力も持たない私なんて存在する意味など無かった。ただ、お父様の娘だという理由だけで、私には
形こそ贅沢な部屋が与えられていたけれど、ただそれだけ。戦闘するだけの力が無いから、お父様の手伝いも出来ず、私はただただ毎日を
自室という檻で過ごしてきた。自身が無力なことを誰にも話していなかったから、その無力さは何倍も私の心を責め立てた。
お父様の部下達に自分は本当は強いんだ、そう嘘をつく度に心が何かを失った気がした。本当の自分を見失っていくような気がした。
何一つ力を持たない自分が情けなく、無様で。そして、お父様やみんなに失望される未来が怖くて、私はまた一つ嘘で未来を塗り固めていった。
私にはフランが羨ましかった。吸血鬼としての力を持ち、自由気ままに振舞うフランが心から羨ましかった。姉のくせに、いつもフランに嫉妬ばかりしていた。
だけど、そんな姿をフランに見せるのが嫌で、私は心を嘘で幾重にも塗り重ねてフランに接した。自分は強いんだ、だからフランには
より強い姉として優しく接するんだ。お姉ちゃんなんだから、フランに嫉妬なんかするもんか。そう何度も自己暗示するようにし、フランと接した。
何度も何度も嘘で自分を塗り重ねたとき、それは気付けば何時の間にか本当の自分になっていて。
紅魔館の人々の中で自分は『強い吸血鬼』となっていた。それが本当のレミリア・スカーレットなんだと。そのことに気付いたとき、私は心から哂った。
これでいいんだと。弱い自分なんかに存在価値なんてないんだと知っていたから。嘘でも、こうして振舞っていれば、何の問題もないんだと。
つよいわたし。それが本当の私。
よわいわたし。それは不必要な私。
そんな嘘を続けてしまえば、いつかは破綻が訪れるもので。お父様が死に、私は何故か紅魔館の主となってしまっていた。
紅魔館の主となり、私は今まで以上の嘘を求められた。強い私、うそっこな私を沢山の人が必要とした。だから私は応えてみせた。
それでみんなが笑っていられるのなら、今までと変わりなく過ごせるのなら、私には十分過ぎる理由だった。
紅魔館に存在するのは、強い強いレミリア・スカーレット。誰より強く誰より格好良い世界で一番のお姫様。それがみんなの求めるレミリア。
だから、弱い情けないレミリアなんて要らない。誰も求めない、欲さない。誰からも求められないなら、そんなもの要らない。
世界で誰からも認められないレミリアなんか要らないんだ。だから私は強いレミリアで良い。そうすれば良いんだと、私は知っているから。
だから私は強いレミリアで在り続けた。うそっこで塗り固められた今を、真実に置き換えて歩き続けた。そうしないといけないから。
そんな私の絶対を、咲夜はいとも簡単に壊してしまった。
赤子である咲夜は、強いレミリアなんて何一つ求めなかった。みんなの求めるレミリアなんて、何一つ求めなかった。
咲夜が求めたのは、純然たる私の温もり。力の無い赤子である咲夜は、母を、ただ一人の私を求めたんだ。
強くない私でも、咲夜は笑ってくれた。強くない私でも、咲夜は喜んでくれた。それが私には何よりも嬉しくて、言葉に出来ない程で。
無力な私を咲夜は求めてくれた。情けない吸血鬼を、咲夜は母と呼んでくれた。私の居場所を、咲夜は許してくれた。
咲夜が私を母と認めてくれた時、私は一生分の涙を使い果たしてしまったかと思う程に泣き喚いた。無様で、格好悪くて、そんなことも気にせずに。
ひとしきり泣いた後、私は咲夜を抱きしめて誓ったんだ。この娘と生きていこうと。この娘に私の全てを与えていこうと。
咲夜が居る限り、私は負けたりなんかしない。咲夜の為なら、私は紅魔館の主として頑張れる。その考えに至った時、私の世界が初めて色を持った気がした。
咲夜の温もりを知って、私は初めて紅魔館の温もりを知った。紅魔館には美鈴が居る、パチェが居る、そしてフランが居る。
それはどんなにも幸せなことで、それは何よりも大切な場所で。この館の本当の意味での温かさを、咲夜は私に教えてくれた。
咲夜。私の咲夜。私に生きる意味を与えてくれた、可愛い大切な私の娘。
咲夜の為なら、私はなんだって頑張れる。どんなに痛いことや苦しいことだって関係無い。咲夜の為なら、私はどんなことだって耐えられる。
こんなにちっぽけで弱い自分に、咲夜は全てを教えてくれた。ならば、今度は私の番だ。
いつだって私の為に生き、私の為に頑張ってくれた咲夜。だから、今度はお母さんの番。今度はお母さんが咲夜を護る番だ。
可愛い愛娘を助ける。その為なら、私はどんなことにだって負けない。どんな恐怖にだって屈さない。負けてなんかやるもんか。
「…問答は無用、そんな目をしてるね。本当、読み違えたよ…今のアンタに対して、私は本当に肌の震えが止まらない。興奮が抑えられない。
レミリア・スカーレット、私は数多の人妖と対峙し殺し合いをしてきたが、ここまで良い目をしている奴を見たことが無い。ここまで
澄んだ愚直な心を持つ奴と出会ったことが無い。レミリア、アンタはやっぱり私の想像通り…いや、想像以上に凄い奴だよ。
逃げ道を選ばず、アンタは選ぶんだね…これから先に待つ、理不尽な未来を、自身の意志で選ぶのか」
「私の選ぶ未来なんて最初から唯一つよ…私の選ぶ未来は、咲夜と一緒に生きる未来。
咲夜が居て、美鈴が居て、パチェが居て、フランが居る…そんな未来以外選んでなんかやるもんか…」
「例えその先にどんな苦難が待ち受けているとしても、かい?」
「そんなこと…知るもんか…私はみんなと一緒じゃないと嫌だから…だから必死で足掻くのよ。
無様でしょう?滑稽でしょう?最強の吸血鬼なんて謳われている私が何の力も持たないなんて哀れ過ぎるでしょう?
笑いたいなら好きなだけ笑いなさいよ…馬鹿だって、愚かだって、好きなだけ笑いなさいよ…あーはっはっはっはって笑えばいいじゃない…」
――だけど、そう付け加えて、私は拳を握り直して萃香の方へ疾走する。
笑いたければ笑えば良い。滑稽だと、道化だと嘲りたいのなら好きなだけそうすれば良い。けれど、それでも――
「…たけど、本当に大切なモノは何一つだって譲ってなんかやるもんかっ!
どんなに怖くても、どんなに泣きたくても、私の大切な家族(モノ)は誰一人として他人に譲ってなんかやるもんかっ!!」
どんなに笑われたって、今はこの足を絶対に止めたりなんかしない。
私の本当に大切な咲夜を…いいえ、咲夜だけじゃない。私を取り囲む大切な日常を護る為にも、私は絶対に負けたりなんかしてあげない。
~side 萃香~
止まらない。肌の震えが、全身から押し寄せる感情の昂りが、この衝動が抑えられない。
恐怖を押し殺し、自分の大切なモノを護る為に、今レミリアは私に向って疾走している。その握り締めた拳を私にぶつけんと駆けだしている。
力も無いのに、レミリアは決して可能性を諦めない。私相手にも、絶対に心を折る事は無い。ただただ真直ぐに、レミリアは私に想いをぶつけてくれている。
――これだ。これこそが私達鬼が求めてやまなかった鬼退治だ。力無く、けれど勇ある者が我ら鬼に対峙する。
そのレミリアの姿、心、そのどれもが私の心を虜にして止まない。少しでも油断をすれば、忽ち達してしまいそうな程の愉悦。私の脳を
支配する悦楽と快楽、まともな思考を今自分が出来ているのかすら分からない程の恍惚感。その感情に、思わず泣いてしまいそうになる。
勇儀、他の皆、見ているだろうか。地上には、幻想郷には私達の求めていたモノがあるんだよ。
私達が人間に絶望し、諦めていたモノがこんなところにあったんだよ。諦め絶望した私達の希望が、ここには在るんだ。
レミリアは自分の意志で決断し、行動に移した。そしてレミリアの強さは十二分に見せて貰った。本来なら、ここで手打ちにするべきなんだろう。
だけど、レミリアに完全に心奪われた私は止まらない、止まれない。鬼として、一人の伊吹萃香として完全にレミリアに惚れてしまった。愛してしまったんだ。
だからこそ、この鬼退治は最後まで続ける。レミリアが倒れるか、私が倒れるか、そのどちらかでしか決着はつけられない、つけたくない。
さあ、レミリア。私にお前の全てを見せてくれ、与えてくれ。私の心の渇望を満たしておくれ。この蕩けてしまいそうな身体の昂ぶりをぶつけさせておくれ。
真直ぐ私に向ってくるレミリアに、私は今まで仁王立ちで受け止めていた姿勢を止め、本当の戦闘態勢を取る。
それは私が紫を初めとした強者達と殺し合う時に見せる本当の構え。私が真に認めた相手にのみ見せる本当のフォーム。
最早私に手を抜くことなど頭に無い。もしかしたら、全力で殴ってしまえばレミリアは死んでしまうかもしれない。だけど、熱に浮かされた
私は止まれない。この時間を手抜きなどで仕舞いになんか出来ない。本当、私の頭は完全に駄目になってしまったみたいだ。
それもこれもレミリア、全部アンタが悪いんだ。レミリアがこんなにも私を惹きつけるから、私は頭がおかしくなってしまったんだ。
だから、責任を持って全て受け入れておくれよ。この伊吹萃香の本気、そのか細い身で受け止められるか。さあ、勝負しようじゃないか。
レミリアが私の射程距離に入るまで、後三歩。飛び道具は無い、この最高の勝負は私の拳一発で終わらせる。
レミリアが私の射程距離に入るまで、後二歩。私に最高の時間を、生涯で最高の時を与えてくれた吸血鬼に、最高の形で礼を為す。
レミリアが私の射程距離に入るまで、後一歩。さあ、勝負だレミリア。私の拳が勝つか、お前の意志が勝つか――勝負!!
「――っ!!」
レミリアに対し、拳を振り上げた刹那、私の右肩に激しい痛みが生じる。何かに身体を貫かれた、そんな忘れて久しい痛みだ。
私は痛みの発生源である右肩に視線を向ける。そこに刺さっていたのは紅いナイフ。それもただのナイフでは無い、
己が血液を魔力で固めた、それこそ出鱈目にも程があるナイフ。私の皮膚は生半可な魔力では貫けない。その身体を簡単に
貫いて見せたのだ、一体どれだけの力がそのナイフには込められているのか。私はそのナイフを投擲した方向に視線を滑らせる。
そこに居たのは、私が白霧で捕えていた十六夜咲夜だ。身体こそ霧に捕らわれたままだが、腕一本を拘束から脱し、このナイフを投擲したのだろう。
その姿に、私は驚きに声を発することが出来なかった。馬鹿な、人間なら三日は眠り続ける程のダメージを負わせた筈。そして、あの霧は
脆弱な人間には脱出することは出来ない筈。それなのに何故――そこまで考え、私は十六夜咲夜の身に生じている異変に気づくことが出来た。
十六夜咲夜の身体からは、以前戦ったときとは全く異なるモノが発せられていた。それは人間ではなく、妖怪と同じ類の力。
そして何より十六夜咲夜の瞳の色が変わっているではないか。今の彼女の瞳の色は、それこそ真紅、滴る血液のような紅。
そこまで観察し、私はようやく一つの答えに辿り着く事が出来た。成程――そういうことか。今まで十六夜咲夜から感じられていた
奇妙な混ざりの正体は、これだったのかと。十六夜咲夜、彼女は確かに人間だ。だが、人間であると同時にコイツは――そこまで考えたとき、
私はレミリアの拳が眼前まで迫っていることにようやく気付く。しまった、メイドはフェイクで、こいつらの本当の狙いはレミリアの一発か。
見事だと賞賛したい。この土壇場で最高のコンビネーションだと拍手を送りたい。だけど、それでも私の勝利は揺るがない。
レミリアの拳が届く前に、私にはまだ回避するだけの猶予が残されている。レミリアの攻撃を避けて、カウンターを入れて終わりだ。
私の頭を狙わんとするレミリアの拳を避ける為、私は回避行動に移る。これを避けて全て終わりだよ、レミリア。
レミリアから放たれる拳を見届けようとした刹那、突如として私の体は強烈な重圧に襲われた。
それは私の脳からの必死の警告。私の長年の経験によって培われた危険察知力が、私の全てに警告を発していた。
拙い、と。逃げるだけでは余波に巻き込まれると。首から上が完全に吹き飛ぶぞ、と。避けては拙い、と。
馬鹿な。レミリアの拳の何処に危険がある。そう身体が反抗の意志をみせるものの、私の脳は決して言う事を訊いてくれない。
危険、危険、キケン、キケン――そう何度も何度も繰り返し声が鳴り響き、やがて私はレミリアの拳にその正体を見る。
レミリアの拳には、真紅の槍が握られていた。それは何時の間に手にしていたのか、私には全く察知する事が出来なかった。
その槍の威力が天蓋のモノであることは、一目見ただけで十分だった。あれは拙過ぎる、あれは全てを破壊するだけの力を持つ、と。
真紅の槍がレミリアの掌から私に向けて真直ぐ奔る。拙い――拙い拙い拙い拙い拙い拙い!このままでは私は確実に死ぬ。
その答えに辿り着いた時、私は両の腕を必死に顔の前でクロスさせた。魔槍が私の首まで届かぬよう、それは命あるモノが取る純粋なまでの防衛反応。
必死なまでに防御を固め、私は襲い来る牙を待ちうける。まだか。まだか。まだなのか。その感情を恐怖だと知ったのは、全てが終わった後。
未だ襲い来ない魔槍に、私はゆっくりと閉じていた瞳を開けていく。開いた瞳に映し出された光景には、魔槍の存在など何処にもなくて。
そう、槍の代わりにあったのは、小さな少女の見事な英雄譚のワンシーンだけだった。
レミリアの真直ぐ伸ばした拳が、私の腹部にぴたりと触れていたのだ。
――レミリアは見事に成し遂げたのだ。この私、伊吹萃香に一発を入れるという勝利条件を。
「あ…」
「…これで、私の、勝ちよ…」
この馬鹿萃香、そう最後に言い残し、レミリアはゆっくりとその場に倒れていく。恐らく、気力も体力も共に限界だったんだろう。
レミリアの勝利宣言に、私はようやく自分の負けを理解した。私はレミリアに負けたのだ。レミリアは見事に鬼退治をやってのけたんだ。
どんなにボロボロになっても、どんなにつらい目にあっても、レミリアは決して諦めずに、こうして私から勝利をもぎ取ったんだ。
その事実に、私は気付けば笑っていた。腹の底から全力で大笑いしていた。ああ、可笑しい、こんなに大笑いしたのは一体何百年振りだろう。
レミリアは私に勝ったんだ。この本気を出した伊吹萃香を相手に、勝利を得てみせたんだ。ああ、こんなに面白ことが他にあるだろうか。
「…驚いたわね。まさか貴女相手に勝利を収めてみせるなんて、本当に予想外よ」
大笑いしてる私のもとに突如として現れたのは、他ならぬ私の共犯者、紫。
その登場に、私は大笑いを止め、口元をニヤケさせながらも言葉を紡ぐ。この嬉しさを紫に伝えんが為に。
「紫、レミリアは本当に凄い奴だよ。この私、伊吹萃香を相手に真正面から勝利を勝ち取ってみせたんだ。
こんな偉業、一体他の誰が成し遂げられるっていうんだい。私は認めるよ、レミリアはこの世で最も強き者だってね」
「はいはい、そんな子供のように瞳を輝かせて語らないの。
しかし萃香、最後は結局貴女がワザと敗北を受け入れたように見えたんだけど…どうやらその様子だと違うようね」
「…は?紫、アンタ何言ってるのさ。最後の劇的な瞬間を見ただろう?」
「劇的…だったかしら?十六夜咲夜にナイフを刺されて、動じている萃香に、レミリアが拳を当てたようにしか見えなかったけれど。
そういえば貴女、最後はどうして頭を防御したりしたの?レミリアの拳は腹部を狙っていたことなんて最初から見え見えだったのに」
紫の言葉に、私は言葉を返す事を忘れてしまう。紫にはレミリアの紅槍が見えなかったのか?
それとも、あれは私の見間違い――否、断じて否。あれは確かにレミリアが生みだしたモノで、その強さは私にも感じ取れた。
だったらどうして紫が認知していないのか。否、もしかしたら本当にレミリアはそんな槍を出していないのかもしれない。
だとしたらあの槍はどうして…そこまで考え、私は一つの心当たりに辿り着く。まさか、そういうことか。だとしたらレミリアは――
「…どうしたのよ、萃香。珍しく考えるような仕草見せちゃって」
「くふふっ、何でもないよ。そうかそうか、そういうことか。
紫、どうやら私はもう駄目みたいだ。完全にレミリアに惚れちゃった。もうレミリア無しでは生きていけないかもしれない」
「あら、そう。お願いだからそれは言葉だけに終わらせて頂戴ね。
さて、と…左腕に肋、それに両足も無理した皺寄せが来てるか。さっさとレミリアを紅魔館に連れ帰って治癒してあげないとね」
「ああ、その事なんだけどさ、レミリアと十六夜咲夜の身体の傷、全部私に移しちゃってよ。
私とレミリア達の身体の傷を入れ替えるくらい、紫ならちゃちゃっと出来るだろ?」
そう言いながら、気絶している十六夜咲夜をレミリアの方に連れてくる私に、紫は言葉を失して目を丸くする。
それは私の言葉に『何を馬鹿な』とでも言いたげな感じだ。何よ、人が良い気分だっていうのに、そんな白けさせる様な真似は。
「…貴女、解かって言っているの?レミリア達の負荷と貴女の肉体の負荷では言葉の意味合いが違うのよ?
レミリア達の肉体の傷を、強靭な身体を持つ貴女の肉体に転移する、それは同等の怪我を得るだけじゃ済まないわ。
何倍も増幅されたレミリア達の傷…そうね、例えばレミリアの左腕の骨折なら、下手をすると貴女の左腕は当分使い物にならなくなるくらいに…」
「良いよ。それで二人の身体を即座に治せるなら安いもんだ。必要なら、私の左腕を斬り落としたって良い。
左腕で足りないなら右腕だってくれてやるよ」
私の言葉に、紫は少し驚きを見せた後、呆れる様に大きな溜息をついて軽く指を鳴らす。
その刹那、レミリア達の身体の傷は全て完治し、代わりに私の体に言葉に出来ない程の苦痛が襲いかかる。成程、つらいねこれは。
こんなものにレミリアは耐えて私に向ってきてたのか、そう思うと身体が更に熱くなる。本当にレミリアは大した奴だよ。
「…本当、不器用な責任の取り方ね」
「言うなよ。それにこれは責任を取るとか取らないとかそういうのじゃない。ただのケジメって奴さ。
それに私のつけなきゃいけないケジメは他にも残されているだろう?ほらほら、紫はこの二人を連れて後始末に向いなよ。
私は残るお客さんのお持て成しをしなきゃいけないんだから。連れて来てるんだろう?」
本当に馬鹿ね。そう言葉を残し、紫は二人を抱きかかえ、その場に隙間を生じさせる。転移先は間違いなく紅魔館だろうね。
その隙間の中に足を進め、紫は一言だけ告げて去って行った。『ご武運を』、か。にゃはは、良いね、実に良い。レミリアのときほどではないけれど、
私の心の高鳴りは激しく鼓動を刻んで止まない。私が視線を向け直したその先には、何時の間に現れたのか、戦闘態勢を整えている四人の人間の姿が在る。
「さて…この長くも短い喜劇もとうとう終焉か。最後の幕は激しく楽しく綺麗に締めさせて貰おうか。
さぁ、幻想郷から失われた鬼の力、萃める力――その体に沁み込ませて、人間にこびり付いた太古の記憶から思い出すがいい!」
今度は最初から余力なんて残さない、全力を持ってこの異変の最後を飾ってみせる。
さあ、お前達も胸に持ちうる全ての勇を私に見せてみなよ!私の認めた最高の勇者、レミリア・スカーレットのようにね!!
~side 紫~
紅魔館の地下室、腕に抱く少女の妹の部屋に転移すると、そこには予想通り三人が勢揃いしていて。
まあ、それも当然と言えば当然かしら。何せレミリアの闘いがよく見えるよう、隙間をこの部屋に展開していたのだから。
「これはこれは皆様お揃いで。私をこのように盛大に出迎えて下さったことを心より感謝申し上げますわ」
私の言葉に、その場の誰もが言葉を返さない。否、返せないのか。
首を傾げる私に、最初に近づいてきたのはこの館の門番。確か紅美鈴と言ったかしら。
私の腕の中から奪い取る様にレミリアと咲夜を抱き、この室内に用意されているベッドの方へと連れていく。
ああ、成程。確かに私の腕の中に二人が居ては何も出来ない、か。それは人質を取られているも同義なのだから。
二人をベッドに寝かせた後、再び紅美鈴が私の傍へと歩み寄ってくる。さてはて、一体どんな行動に出てくれるのやら。
そう楽しみに心委ねていた私に、紅美鈴が取った行動はただの一発。その拳で私の顔を殴っただけ。
「…これで今回の件は許してやる、それがフランお嬢様を含めた私達の結論です、八雲紫」
「へえ…それは実に以外ね。傷を癒したとはいえ、レミリアをあんな目にあわせたんだもの。
てっきり殺されるかはたまたその前後までは追いやられるモノだと期待していましたわ」
「アンタがそう願うならそうしてあげるよ。そうされたいの?」
「冗談ですわ。しかし、『そういう選択』を取るということは、どうやらレミリアの言葉に何か感じ取るモノがあった御様子ね」
私の言葉に、誰も言葉を返さない。ただ黙して私を睨みつけるだけ。
成程、それならば話は早い。最早この場に私は必要ない。あとは予定通り、小さな種を蒔いておくだけでいい。
「それでは私は失礼しますが…フフッ、今回は本当に失敗しましたわ。レミリアを想って行動したつもりが、とんだ空回りでしたもの。
萃香はレミリアを想って、皆にレミリアの本当の強さを教えようとした。私はレミリアを想って、全ての縛りから解放しようとした。
けれど、そんなことに何の意味もありませんでした。何故ならそこにはレミリアの意志が存在しないから。レミリアの想いが存在しないから。
人の想いとは難しいモノですわね。善意と、これで良いと決めつけて取った行動が、こんな風に空回りすることだってある」
「…何が言いたい、八雲紫」
「いえいえ、別に何も。それでは私はこれにて失礼させて頂くとしましょう」
そう言い残し、私は隙間に消えてこの場を後にする。
種は蒔いた、後は発芽の時を待てば良い。これで流れは私の望む方へ動いてくれる筈。
今回の件、本当に素晴らしい成果を得ることが出来たわ。萃香には本当に感謝しなければならない。
レミリアの言葉、想い、誓い、その全てを見届けることが出来た。レミリアの選ぶ道は決まった。それは厳しくも険しい茨の道。
なればこそ私は力になってあげるとしましょう。レミリア・スカーレット…私の大切なお友達が路傍の石に躓かぬように。