カイザー大通りの大広場近くに位置するボーデ商会は、ゲルマニアでも有数の豪商である。
主に穀物の取引を中心に堅実な取引を行なう事から、顧客の信頼も高く取引先はゲルマニア全土に及んでいる。
両替商ではないが、諸侯の要望に応じて次年度の収穫を担保に資金の融通も行なっている。
ただ堅実が旨のボーデの場合、貸付額も限度があり、その為の査定も厳密である。
これに対して、通りを挟んで本店を構えるランマース商会は逆である。
同じ穀物を扱いながらも、投機的な買い占め、リスクを超えた貸付等も平気で行なう。
諸侯の家令達にすれば、通常の資金ショートが見込まれるならボーデ、出兵等どうしてもある程度大量の資金が必要な場合はランマースと言うような住み分けが出来ていた。
ちなみに、金融業としての銀行はあちらの世界と違いハルケギニアには存在しない。
バンカーとは、投資者を募り資金を集め、特定事業に投資する商会である。
決して、諸侯が金を借りる機関ではないのである。
両替商は、各種ギルドを通じて融資は行なうが、貴族が金を借りる機関では無いと言うのが建前である。
まあ、両替商から金を借りるとなると、収穫を担保に融資を受けるのとは比べものにならない程利息が高いのが一番の理由なのだが。
とにかく、堅実なボーデ、ハイリスクのランマースと言う形である意味バランスの取れていたのがこれまでのゲルマニアであった。
ところが、ここ数年この体制が崩れ出していた。
ランマース商会の躍進である。
これまでは、どの諸侯でも価格さえ折り合いがつけばボーデ商会も穀物を買い取る事が出来た。
ところがここ数年、取引が出来ない諸侯が出てきているのである。
そう、ブッフバルド公爵の息の掛かった諸侯である。
それら諸侯の家令達の多くは、申し訳なさそうに頭を下げながらボーデとの取引を断って来る。
そして、ランマース商会が専任になった事を告げるのだ。
勿論これまでも、この様な例がない訳ではない。
逆にボーデが専任を取ることもあった。
諸侯の中には収穫の一切の処理を商会に丸投げする者すらいるのだ。
しかしながら、その様なケースは何年間もの実績に基づいて行なわれるものであり、近年の事態は明らかに異常だった。
裏で何か行なわれている。
ボーデ商会もそれに気付かない筈もない。
ランマース商会とブッフバルド公爵の異様な程の親密さ。
ランマース商会の強引過ぎる穀物市場への介入。
アルトシュタット領、オッフェンバッハ領の二つの選帝公領で穀物が異常な程高騰する。
通常ならば、他の地域から安い穀物が流入する事で鎮静化する筈の高騰が、ランマース商会の独占の為継続する。
逆に暴落する時は他地域よりも遥かに極端に下落する価格。
どう考えてもおかしいのだが、ブッフバルド公爵に逆らってまでそれを正そうとするものはいない。
ボーデ商会を筆頭に、他の穀物商達は政商の誕生を苦々しく見守るしか手はなかった。
「やっぱりそんな事ですか」
目の前に腰掛ける大馬鹿者がうんうん頷いている。
ボーデ商会会頭ディートヘルム・ボーデは呆れたように男を見つめるのだった。
最近は、月に一二回は泊まり掛けで遊びに行く程親しくなった男だが、まだ付き合いは一年も経っていない。
ただ最初から、面白い男だと思っていた。
真剣にハーレムを作るつもりだと聞かされた時は、どれ程馬鹿者か顔を見てやる程度の興味だけだった。
ところが、大馬鹿者の持ち込んだ小麦を見て驚かされた。
有り得ない。
あんな小麦は見た事は無かった。
一つ一つの粒が信じられない程詰まっており、大きい。
精製してしまえば、ただの小麦粉だが、同じ分量でも既存の小麦とは上質の小麦粉が採れる量が明らかに違うのだ。
直ぐに判る、これはゲルマニア、いや、ハルケギニアで採れた小麦では無いと。
こんな小麦が栽培出来れば、ゲルマニアの穀物市場は全く違うものになる。
いや、ハルケギニアの穀物市場そのものを席巻出来るであろう。
それ程の小麦を大馬鹿者はこのボーデの前に持ち込んだのだ。
上手く扱えば一財産、いや巨額の利益を得る事も可能である。
持ち込んだ小麦を種に新たな小麦を栽培すれば、何倍もの利益が得られるであろう。
それにも関わらずこの大馬鹿者は、宝の山を普通の小麦の販売価格で売ると言う。
本当に何も知らない愚か者なのか、それともそれが判っていて行なっているのか。
不思議に思いそれとなく確認した所、判っていてやっている事を知り更に驚かされた。
本人曰く、多分まともには育たないのではないかとの事である。
余りにもゲルマニアが寒すぎ、この小麦の栽培には向いていないのと事。
土地が痩せていて、ここまでのものはまず出来ないと言うのだ。
それが判っていてこの小麦を売りに来たのだ。
どこからこの小麦を手に入れたのか。
本人は東方の産だと言う。
それならば、どうやって運んできたのか?
北方のルートを開発し、運んできたとの事だった。
もし、万が一それが事実ならば、ゲルマニアの歴史を変える一大快挙である。
東方に国がある事は、知られていたが間にエルフの住むサハラがある以上、殆ど交易は行なわれていない。
それが、可能となればそれだけでも更に大きな利益が発生する。
そして、それらの全ての可能性があるにも関わらずこの大馬鹿者は、そのような可能性に見向きもしない。
そう、単に、本当に単に、自分の小さな世界、ハーレムを作る為だけに資金集めをしようとしている。
どれ程馬鹿なのか。
ディートヘルムは呆れるしかなかった。
しかし同時に、更に大馬鹿者に対して興味が湧いて来た。
大馬鹿者の屋敷に直接乗り込んだ。
大馬鹿者は、本当にハーレムを作ろうとしていた。
ああ、ディートヘルム自身も面白がって、候補者を山ほど送り込んだのも事実だ。
それでも送り込んだ娘達も含め、全てが明るい目をして迎えてくれると言う更に信じられない目にもあった。
そして、ディートヘルムは気が付いた。
屋敷の調度品、様々な機器、これがハルケギニアのものではないと言う事実に。
魔道具と説明されたが、客室に置かれたポットと言う機器一つとっても、途轍もない代物である。
水洗トイレ、浴室、厨房の各種機器。
食事にて出される、聞いた事も見たこともないような食材。
そう、全てが規格外、そしてそれら全てが自らが快適に過す為だけに存在している。
これらの幾つかを外に広めるだけでも、更に大金持ちになる事は容易いだろう。
だけど、この大馬鹿者にはそんな気は無い。
落ち着いて話をすれば、遥かに自分の方が年上であるにも関わらず、まるで数百年も生きているかのように豊富な知識。
平民のディートヘルムには良く判らないが、メイジとしての実力はどうやら桁外れらしい。
実際に不可思議な魔法も使えると言うのも、段々判ってきた。
例えるなら、それは満腹の猛獣の檻の中にいるようなものなのだ。
満腹である限り、襲われる心配は無い。
だけど、猛獣が襲う気になれば、自分では太刀打ち出来ないのは自明の事だった。
しかし、この大馬鹿者は決して襲う気にならないのだ。
そう、自分のテリトリーにあえて踏み込まない限りは。
そこまで納得出来るのに、ほぼ一年の月日が流れている。
だが、それでもまだまだ興味は尽きない大馬鹿者である。
そして今日、アルバート・バルクフォン卿は、ボーデ商会の事務所まで態々面会に来て言ったのだった。
「ランマース商会を潰しますので、手を貸して下さい」
ディートヘルム・ボーデは、呆れながら大馬鹿者に現在の状況を説明したのだった。
「それじゃ、ランマースを潰すのに協力をお願いできますね」
大馬鹿者が説明を聞いた後で、そう言ってくる。
「ああ、もしそれが実現可能であればだな」
ディートヘルムが条件を告げると、今度はアルバートが説明を始めた。
やる事はランマースが、アルトシュタット領とオッフェンバッハ領で行なっている事と一緒である。
それを、他の穀物商も巻き込み、ゲルマニア全土で実施してくれと言うのだ。
ただ一つ違う事は、ランマースが行なう事の反対の事を全土で実施する点である。
すなわち、アルトシュタット、オッフェンバッハで小麦が高騰すれば、他地域では供給を増やして価格を暴落させる。
逆に、二領での小麦の価格が低ければ他地域での小麦の供給を減らし価格を上昇させる。
これを二三回繰り返せば、ランマースは潰れると言うのである。
「そんなに簡単に潰れるかね?」
ボーデは懐疑的に聞き返す。
「普通ならそう簡単には潰れんでしょう。
しかしながら、ランマースが押えていると思っている領内の小麦が他の商会、例えばボーデ商会に買い取られればどうなりますか」
アルバートはにやりと笑いながらそう言ってくる。
アルバート曰く、ブッフバルト公爵に恨みを抱くものはかの領内でも多数いるのだ。
表上は、公爵の目があるのでランマース商会にしか小麦は売れない。
だけど、それがばれなければ他の商会に売りたいと考えている諸侯はある程度いるのだ。
「あー、少なくともアルトシュタットの某バラ系統の侯爵家の一族、それとは別の伯爵家が一件は確実に裏取引に応じます」
それに、いざとなればランマース商会のふりをして、小麦を買い取っちゃいますからね。
中々大胆な発言をする大馬鹿者だ。
だが、彼がすると言えば十中八九出来るのであろう。
成程、ゲルマニア全土での小麦の価格がランマース商会の思惑とは反対の方向に動けば、商会の利益は少ない。
そんな状況の中、手に入る予定の小麦がランマースに届かなかったら…
うん、確かにボーデでも潰れかねない。
「ところで、アルバート、どうしてランマース商会を潰したいのだね?」
大馬鹿者が潰すと言う以上、ディートヘルムに異存は無い。
むしろ、積極的に潰すのに賛同する立場である。
「いやあ、ボーデさんもご存知でしょう、家のマスターメイドのゼルマの事」
大馬鹿者の返事は、そうではないかと期待した内容だった。
曰く、ゼルマの親爺さんはブッフバルト公爵に嵌められて獄死したのだ。
それは、ディートヘルムも承知している。
アルバートには悪いが、彼の処にいる女性に悪い虫がついていないかの確認は当の昔に終わっていた。
その中で、ゼルマの件は直ぐにあたりが付いていた。
大馬鹿者は、ゼルマが可哀相だと言うのだ。
何とか復讐を果たしてやりたいと言う事だ。
うん、やはりこいつは大馬鹿者だ。
自分のハーレムの構成要員の一人の復讐のためだけに、ゲルマニアの最有力者の一人に喧嘩を売ろうとしているのだ。
だけどそれを、わしは決して嫌いではない。
「で、全体ではこう言うような計画を考えています」
アルバートが計画の概略を語ってくれた。
まあ良く考えたものだと感心する程の計画が出来上がっている。
所々穴があるが、それはわし等が補ってやれば良い。
ボーデの役回りは、ランマース商会の壊滅。
それと、エアフルト侯、ヴュルテンベルグ侯、メクレンブルグ侯の三選帝侯の取り込みである。
アルバート自ら味方に付けたニーダザクセン侯であるホルシュタイン公爵。
ポモージュ北方辺境伯よりの伝で既に取り込み済みの、アンハルト侯。
そして、東方辺境伯よりの働きかけでこれから取り込む予定のマルコマーニ侯、シュタイアーマルク侯。
十二選帝侯の内、七公爵までもを取り込んで、事を成そうとしている。
ザールラント侯はこれまでの確執があるのて、間違い無くアルトシュタット侯であるブッフバルト公爵とは敵対関係である。
ニーダザクセン領とザールラント領に挟まれ、アルトシュタットに正対しているヴェストファーレン侯は、悪くても中立。
皇帝は、選帝侯の力が弱まる事は全面的に賛成。
これだけの状況を作り出せば、事が公になっても、ブッフバルト公爵がその権力で叩き潰そうにも身動きは取れまい。
「アルバート、お主は本当に大馬鹿者だな」
ディートヘルムはアルバートに告げる。
「へっ?」と言う顔でこちらを見つめる大馬鹿者。
「わしがそれを誰かに漏らさないと言う保障はどこにあるんだ」
大馬鹿者は、苦笑を浮かべながら言い返してきた。
第一に、この内容を他人に話して、ボーデ商会に何のメリットも無い。
商売敵のランマース商会の利益になるような行動をボーデ商会が取る理由があり得ない。。
第二にアルバートは、ディートヘルムとは短い付き合いだが、人となりを信じられる程は付き合っている積りだ。
そして第三に、この計画に乗ることによるボーデ商会の利益は計り知れない。
「まあ、少なくとも利益が十分に見込める間は、人はそう簡単には裏切りませんよ」
だから、最終局面ではどうなるかは判りませんけどね。
最後は独り言のようだが、ディートヘルムにもはっきりと聞こえた。
「それに、ある程度計画が漏れた場合、ブッフバルト公爵はどうすると思います?」
「うん、まあその裏を欠こうとするだろうな」
ディートヘルムは答える。
そう単純に潰すと言う選択肢よりも、計画に乗じてブッフバルト卿の利益になるように対応するであろう。
「ですよねー、それがみそなんですよ」
何が言いたいのか良く判らない。
「ブッフバルド公爵が、万が一でもそう動いた場合、それがこちらに筒抜けになるように仕込んであるのですよ」
アルバートは得意そうに言ってくる。
そこまで計画に組み込んでいるとは、大したものだと思う。
どう考えても、その目的が自分の愛妾の復讐の為だけだと言うのが、他人には信じられないだろう。
まあ良い、大馬鹿者の計画に乗るのは何の問題も無い。
「ところで、一つ質問して良いか?」
ディートヘルムは一つ気になった事を聞いてみる。
「この計画は、お主が一人で考えたのか?」
「いや、ゼルマも含めマスターメイド全員も協力していますが」
やはりそうか。
「そうか、そうするとアンジェリカの意見がその中心だな」
アルバートの顔が、ギクリとしたように歪む。
ふむ、あたりじゃな。
大馬鹿者の愛妾の一人のアンジェリカ。
ディートヘルムも彼の屋敷に行く度に、一番良く話し込んでいるメイドである。
ふむ、彼女に商売と言うものを教えるのも面白そうじゃのう。
ディートヘルム・ボーデ、ゲルマニアの四大商人の一人と言われる男である。
ただ、彼の唯一の悩みはボーデ商会の今後を任せられる跡継ぎに恵まれていない点にあった。
これは、もう少し長生きしてみるのも面白そうじゃわい…