「ここなのですか?」
「ああ、間違いない」
足元まで覆う赤みがかった濃紺のロングドレス。
色はゼルマが無理を言って、この色にして貰った。
長い髪は纏めてアップにし、襟元からうなじにかけては輝くばかりの若い肌が顕になっている。
上から羽織ったロングコートのせいで、その抜群のプロポーションを見ることは出来ない。
それでも、その整った顔立ちと強い意志を秘めた鋭い視線がすれ違う男達に強烈な印象を与えずにはいられない。
世の中には、あんな美人がいるんだ。
そう思わすような、輝くような気品と美貌を身に纏った女性が今のゼルマだった。
しかしながら、当のゼルマは居心地の悪さを感じるばかりだった。
朝何時もより早く起き、お風呂に入る。
それも、自室のバスルームではなく、屋敷の大浴場の方だ。
一人で出来ると言うのに、アマンダとヴィオラが一緒にだ。
「ダメですよ、ゼルマさん。」
「今日は磨き上げるんですから!」
気合いの籠もった二人の言葉に、ゼルマは頷くしか出来なかった。
髪の毛も入念に二度洗い。
そんなに大量に使う意味があるのかと言う位リンスをつけられ洗い流される。
身体は隅々まで洗うと言って、目を輝かして迫ってくるヴィオラを撃退して、自分で洗った。
「ダメダメです、も一回洗って下さい」
アマンダが、腰に手を当てて迫って来るので仕方なく、身体も二度洗いとなった。
「はい、ご苦労さま」
風呂場からでると、にこやかにほほ笑みながらグロリアがドライヤー片手に待ち受けていた。
「ここまでやる必要あるのか?」
グロリアに髪を乾かして貰いながら、ゼルマは思わずそう尋ねていた。
「あら?ゼルマは綺麗になるの、キライなの?」
グロリアが髪にブラッシングしながら、応えて来る。
「いや、そりゃ、キライじゃない。ご主人さまも喜んでくれるだろうし」
ハイハイと返事しながら、グロリアは言うのだった。
ゼルマは五人の代表なのだと。
どのような運命のめぐり合わせか、グロリア自身も含め生まれも育ちも違う五人がご主人さまの下に集まった。
私達は、今のこの暮らしに満足してるわ。
そりゃ、ご主人さまが私だけ見てくれたらって思わない事もないけどね。
まあ、無理な願望は置いておくにして、ご主人さまが全力でゼルマの為に頑張って下さっている。
ご主人さまが、ゼルマだけ見てそうならば、私達もそこまで応援しないかもね。
うん何となく、判った気がする。
「ハイ、乾いたわ」
「ありがとう、みんな」
三人に見送られ、ゼルマは食堂に向うのだった。
朝早くから予約が入っているとの事で、何時もより早い時間に朝食を食べる。
それでも、五人ともちゃんと起きて来てくれているのが、嬉しい。
アンがご主人さまを起こしに行ったけど、中々戻って来ない。
結局、ご主人さまは朝食は食べずに済ますようで、ホールに行くとそっちで待っていた。
「おはようございます」
「おはよう」
ゼルマが挨拶すると、ご主人さまはやや疲れたような声で答えられる。
アンジェリカは、逆に元気そうである。
「アン、やりすぎじゃないの?」
「ええっ、そんな事ないですよ~、ちょっと新しい技を試しただけだから~」
ニコニコ笑いながら、そんな事を言い返す、アンジェリカを睨みつける。
「仕方ないじゃないですか~、朝食の代わりに食べられちゃったんですから~」
アン自身、今日は普通に起こしに行ったそうだった。
どうやら、ご主人さまが寝ぼけたまま、アンをベッドに引きずり込んだらしい。
そうなると、応じないアンじゃない。
挑戦は何時でも受けるとばかり、新たな技を繰り出し、ご主人さまをノックアウト。
「まあ、程ほどにな」
ゼルマは呆れながらアンを見る。
彼女は、きっと懲りずにまたやるんだろうな。
「おーい、そろそろ行くぞ!」
「あっ、ハイ、お願いします」
ゲートが開き、ゼルマはご主人さまの腕にしがみ付く。
やはり、堂々としがみ付けるのは何時もながら嬉しくなる。
そのまま、二人でゲートを抜けると、何時ものご主人さまのお国のマンションに出た。
「じゃ、行こうか」
軽く口付けされ、そのままマンションを後にする。
向かう先は、「ヘアーメイク、アルティマ」
何でも高級ホテルの中にある施設らしいが、それが凄いのかどうかゼルマには判らない。
とにかく、ご主人さまが呼ばれたハイヤーと言う馬なしの馬車に乗り、連れて行かれるだけだ。
ハイヤーは、ゲルマニアの馬車と違い、中が狭くて不安になる。
今回初めてこの狭い乗り物に乗ったので、ゼルマはずっとご主人さまの手を握り締めていた。
この後の、着付けも含めて全てのコーディネートを頼んであるとの事なので、ここでご主人さまと別れる。
不安で一杯になるが、担当になった男性が何かと気を紛らしてくれるので何とか我慢出来た。
と言うか、最初の一言で不安もどこかに消えていたと言うのが正しい。
「スタイリストの山崎です。宜しくねー」
「ゼルマです、ヨロシク」
片言の日本語で挨拶したのだが、この時点では物凄く不安だった。
「やさしい旦那様ですわねー、ここまで送って来てくださったのねー、ステキ…」
何を言っているのか、判らない部分もあったけど、『旦那様』と言う言葉だけははっきりと聞き取れた。
否、聞き逃す訳には行かない。
旦那様…、旦那様…、と言う事は、わ、私が奥様!
「あーら、奥様、本当に綺麗な肌をされてますわねー、これだと下手な化粧は必要ないですわねー」
髪を整えながら、良く判らない部分もあったけど、『奥様』と言う言葉だけは、聞き逃さなかった。
わ、私が『奥様』……
ハッと気が付くと、いつの間にか髪をアップにされ、綺麗なドレスに着替えが終わっていた。
こ、これではまるで、グロリアじゃないか。
ゼルマは、少しグロリアの白昼夢がどう言う物か判ったような気がした。
「おー、凄いな、ゼルマ! 見違えたよ、本当に良く似合う!」
赤みがかった濃紺のロングドレス。
七部袖の先には、白い手袋が眩しい。
抜群のプロポーションから生み出される、ドレスの安定感、バランスの良さ。
何処をとっても本当の貴婦人と言うのはどういうものかを体言しているような姿だった。
「そ、そうですか、わ、私自身は、何だか慣れなくて…」
ご主人さまに褒めて貰えたのは嬉しい。
だけど、もう十年近くもこのような格好はしていなかった。
それだけに、落ち着かないのは仕方ないと思う。
でも、これからは表ではこの格好が普段着になる。
少し、堅苦しいかな…
「では、ミ・レディ、参りましょうか」
ご主人さまの差し出す手を取り、歩き始める。
「宜しく」
うん、でもこれも楽しいわね。
優雅な仕草で、周りにいた人々があっけに取られる中、ゼルマは弾む気持ちを隠せなかった。
ゲートを潜りぬけ再び屋敷に戻ると、出迎えた皆から賞賛の嵐を浴びせられる。
「凄い凄い」、「わあ良いなあ」、「綺麗」、それが皆自分の事を言われているのだから、気分が悪い筈は無い。
だけど伊達や酔狂で、こんな格好をしている訳ではないのだ。
これから、始まる復讐劇の為に必要な行為なのだ。
一応今回は、今後のリハーサルも込めて実施される最初の行動。
頑張らねば、こんなに応援してくれる皆がいるのだから」
ゼルマは、意を込めて心に…
「あー、ゼルマ、とにかく、それは絶対に表でやっちゃ駄目だからな!」
ああっ、またやってしまった……
ゼルマの唯一の不安要因。
思った事を口にしてしまう癖。
「大丈夫ですよ~、ゼルマの癖は~、安心している時に出るのですから~」
アンジェリカがフォローしてくれる。
確かに、安心するとやってしまうのだから、大丈夫!
大丈夫だったら、良いのだが…
「待たせたかな?」
ご主人さまが、服装を着替えて戻られた。
何時もの杖を持ち、マントを羽織った格好ではない。
杖は手にしているが、マントを取り全体に地味な服装だった。
ご主人さまの役柄は、ゼルマの執事だ。
執事と言っても、秘書兼ボディーガードも兼ねた役処となる。
「さて、行きましょうか」
アンジェリカが嬉しそうに言いながら、ゼルマに杖を差し出す。
彼女は家政婦長の役割だ。
ご主人さまが原案を作成、アンがそれに肉付けし、ゼルマが演じる。
それ故、三人が向かうのだ。
受け取った杖を振りながら、ルーンを唱える。
目の前に、固定ゲートが展開された。
「じゃ、行ってきます」
「気をつけて」、「頑張って下さい」、「ガンバっ!」
グロリア、ヴィオラ、アマンダの応援を受け、三人はゲートを潜るのだった。
帝都ヴィンドボナ、カイザー大通りの西の大広場に対して同心円状に形作られた三本の大通り。
二本目と三本目の通りの間は、諸侯の邸宅が並んでいる。
並ぶと言っても、それぞれが十分な庭を持ち、邸宅と邸宅の間には結構な距離がある。
大貴族は、両方の通りに面する敷地一杯を使った邸宅。
中小貴族の邸宅は、その区画を幾つかに分けて広がっているのだ。
西の大広場から見て、東北東に位置する一角にその屋敷はあった。
元々、かなり有力な貴族の屋敷であったのであろう、敷地は大貴族の例に漏れず、通りと通りの間一杯を占めていた。
しかしながら、数年前に所有者である伯爵が没落し手放して以来、住む人もおらず荒れ放題となっていた。
このまま行けば、数年後には建物も取り壊され、小さな区画に整備され、中小貴族や豪商の住まいとなる運命だったのであろう。
ところが、一ヶ月前位に所有者が変わった。
大勢の職人が動員され、建物の補修が急ピッチで行われたのだ。
庭の生い茂った草木も、庭師が入り手入れされ見違える程になっている。
どこの大貴族の本宅になるのか、いやいや、ゲルマニアでも名前が知れた豪商の別宅だとか、近所の使用人の間では話題になっていた。
三日程前から屋敷の使用人が入ったので、近所の連中はそれとなく探りを入れるのだが、新しい使用人は口を割らない。
とにかくこれだけ短期間に、居住可能な状態まで戻すとなるとどれ程の費用が掛かる事か。
それを思えば、かなり有力な貴族か豪商である事は間違いないと言うのが、使用人ネットワークの結論だった。
ゼルマを含む三人が転移して来たのは、その話題の屋敷のゼルマの私室である。
「それじゃ、私は~、屋敷の様子を確認して来ますね~」
そう言うと、アンジェリカは部屋を飛び出して行く。
彼女なりに、この屋敷の使用人の出来不出来が気になるのだろう。
何せ、ヴェステマン商会を通して連れてこられた使用人候補を選別し選んだのはアンジェリカなのだから。
「じゃ、俺は馬車の手配と爺さんに挨拶かな」
そう言って、ご主人さまもゆっくりと歩いて部屋を出て行く。
一人ポツンと残された、ゼルマはする事も無く、ソファに腰を下ろす。
どうしようか…
そう思っていると、思いっきり急いでいるのが丸判りの足音が廊下の向こうから響いてくる。
ご主人さま、わざと扉を閉めなかったのね。
彼がご主人さまに会えば、間違いなくゼルマの元に来るのは予想出来る。
それ故、その音を聞かせたいが為に、扉を開けたまま出て行ったに違いない。
ゼルマは苦笑を浮かべ、扉から飛び込んでくる人物を待ち受けるのだった。
「お、おかえりなさいませ、お、お嬢……」
息を切らせ駆け込んできた人物は、そこまで言いかけて、唖然と口を空けたままゼルマを見つめる。
元ヴェスターテ家の家令ルーベルトである。
「お、お、お嬢さまあー」
突然の大声に、ゼルマは軽く指を耳に宛がう。
その仕草も優雅そのものである。
「おお、おお、お美しい、奥方様にも負けない、いや、それすらも超えるお嬢様のお美しさ!
さぞや、旦那様も草葉の陰でお喜びでしょう。
このルーベルト、感激でございます。
お、お嬢様あー」
ぶわっと、瞳から涙を溢れさせその場で跪き、泣き崩れるルーベルト。
爺には、この屋敷の家令を務めて貰うのだ。
「爺、これからも宜しく」
「は、はいーーーいっ! この命に代えてもお支え申し上げます」
尚も泣き崩れる爺に対して、ゼルマはどうする事も出来ない。
早く、ご主人さまが戻って来ないだろうか…
爺の気持ちは判るが、少し大げさ過ぎるのが偶に傷なのだ…
「ゼルマ様、馬車の用意が・・・」
ご主人さまが部屋に入って来て、言葉に詰まる。
泣き崩れる爺を見て、目顔で様子を問う。
どうしようもないですと、ゼルマも笑顔で返す。
「ルーベルト様、お嬢様がお出かけですよ」
苦笑を浮かべながら、一応この屋敷の序列に合わせてご主人さまが言う。
何せ、ルーベルトは家令だ。
立場上は執事のご主人さまより上なのだ。
「おお、バルクフォン卿、いやいやアルバート、ご苦労」
爺もそれに合わせようと、ぞんざいに返事をする。
とにかく、こちらの屋敷で雇っているのは、あくまでも普通の雇用人である。
勿論、家令のルーベルトが声を掛けて、旧ヴェスターテ家にて働いていた人間も何人かは集めている。
それでも、ゼルマとご主人さまとの関係を知っているのは、爺を入れても三人だ。
あくまでも、ご主人さまは、執事のアルバートとして振舞う必要があるのだ。
「それでは、お嬢様、こちらに」
ご主人さまに丁寧に言われるのが、何か変な感じがする。
「では、爺、行って来る」
それでも、自分の役柄はこなさねば。
玄関の正面に、綺麗な馬車が留まっている。
ご主人さまが、向こうの世界に注文していた馬車の内の一台だ。
足回りは余り手を加えられなかったとご主人さまは仰っていたが、外観だけでも大したものだ。
何でも、デ○ニーランドと言う一大遊戯施設に納めている馬車を譲ってもらったとの事だ。
デ○ニーランドも、遊戯施設もさっぱり意味が判らないが、馬車そのものは素晴らしい。
鮮やかな塗装に、洒落た外観がマッチしており、多分ヴィンドボナでも注目を集めそうな馬車だった。
御者が扉を開き、折りたたみ式の階段が準備されている。
階段の横に立つご主人さまの指し伸ばした手に支えられ、ゼルマは馬車に乗り込む。
ご主人さまが続いて乗り込まれると、階段が収納され扉が閉まる。
ゆっくりと動き出す馬車の窓から、建物が見えなくなるまで頭を下げて動かない爺の姿が目に焼きついていた。
その部屋は、四階建ての建物の五階にあった。
要は屋上にとって付けられたようなあばら家だった。
ゼルマは困惑したように、ご主人さまを見つめる。
ご主人さまが、大丈夫だと言うように手を握ってくれた。
視線を合わせると、頑張れと言う声援と共にどこか楽しんでいる様な雰囲気が感じられた。
「ご主人さま?面白がってません?」
「そ、そんな事、少ししか思ってないぞ、それより、ほら、始めよう」
絶対面白がってるんだ。
そう思いながらも、緊張が少し解れた事がありがたい。
ゼルマは、も一度ご主人さまを見つめ、決意を示すように頷く。
ご主人さまがそれを受け、握る手に一旦力を込め放した。
これからなのだ!
気合いを入れ、ドアをノックする。
「どうぞ」
ノックしてから、返事が返って来る迄暫くかかった。
躊躇っていたのかしら?
まあ考えても仕方ない。
横のご主人さまに合図する。
ご主人さまが扉を開き、中の安全を確認する。
一応形だけだ。
それ以前にご主人さまは、中に一人しかいないのを精霊を通じて探っている。
水の精霊ならば、生物の存在は感知出来る。
火の精霊は光があれば、動くものは感知出来る。
真っ暗な中、ゴーレムやカーゴイルでも用意しないと、不意は付けない。
とにかく形だけでも、ご主人さまが安全を確認し、私を招き入れる。
狭い部屋の中、粗末な椅子に腰を下ろした初老の男性がいるだけだった。
最初はご主人さまのそんな様子に、そして次には入って来たゼルマを見て、男性は呆気に取られている。
「ローゼンハイム卿でいらっしゃいますか?」
「ああ、そうだが、君は?」
「お初にお目に掛かります、ゼルマ…ヴェスターテと申します」
そう言ってゼルマは優雅に挨拶を交わすのだった。
「ヴェスターテ? ひょっとしてヴェスターテ伯爵家の?」
男の瞳が何かを考えるように細くなる。
「はい、元伯爵家です」
これを告げるのは心苦しい。
だけど、ここは平気な顔でやり過ごさなければ。
「ほう、『元』伯爵家縁のものが、ローゼンハイムに何の用だ」
疑うような視線を向けながら、男はそれでも興味を示す。
「娘です」
「うん?」
「私は、ヴェスターテの娘でございます」
「これは、失礼したご令嬢とは気が付かなかったのでな」
「いえ、構いません。それよりお願いがあって参りました」
男の瞳が伺うように、更に細まる。
「私を、ローゼンハイム卿の養女にして頂きたい」
ローゼンハイム卿の瞳が大きく開かれるだった。
ローゼンハイム卿は、東方辺境領に領地を持つ伯爵家である。
元々は、アルトシュタット領に領地を持つ侯爵の一族に属する家系であった。
それが、新領地として東方辺境領の一角を与えられ伯爵として独立したのである。
そう言えば聞こえは良いが、実情はもう少し複雑なものだった。
本家である侯爵家にて跡継ぎがおらず、順当に行けばローゼンハイム卿がその後を接ぐものと思われていた。
ところがその時横槍が入った。
先代皇帝より、男爵だったローゼンハイム卿に伯爵位が授けられたのだ。
皇帝が新たに貴族として取り立てる者に対して、比較的安定した領地を与えたいと言う要望に叶ったのが、ローゼンハイムの領地だった。
現在の、ローゼンハイムの領地、二村を召し上げる代わりに、新たに東方辺境領に十村を与える。
そして、爵位に関しても、男爵位から伯爵位へと昇格させる。
これだけ見れば、非常に良い話に見える。
ローゼンハイム卿の目の前に、侯爵位がぶら下がってなければ。
しかしながら現侯爵は、跡継ぎをローゼンハイムに譲ると言明していなかった。
それ故、ローゼンハイム卿には断る事が出来ない。
また、皇帝からの下賜を断る等出来よう筈もなかった。
そしてこの時点ではまだローゼンハイムも、侯爵が亡くなれば自然とアルトシュタットの侯爵になれるものと考えていた。
ローゼンハイムは、伯爵領と言いながらも荒れ果てた大地と、疲弊した領民の中で苦しい領地経営を開始するのだった。
暫くした頃、その知らせが飛び込んで来た。
件の侯爵が、お家存続の為養子を迎え入れたと。
そして、養子の男子がブッフバルト卿の縁のものだと言う事実を知らされたのだ。
嵌められた…
その一言で全てが語られてしまう。
自らの勢力拡大を望むアルトシュタット侯ブッフバルト公爵にとって目の前にある侯爵領は目障り以外の何者でもなかった。
侯爵本人には様々な圧力を掛けながら、跡継ぎ候補であるローゼンハイムを追い出す工作を実施したのだ。
そしてそれは上手く行き、一番の跡継ぎ候補は、遥か東方へと追いやられる。
その隙に侯爵に圧力を掛け、跡継ぎに自らの血縁のものを押し付ける。
通常ならば、侯爵本人がそのような跡継ぎの押し付けに屈する事は無い。
しかしながら、金銭面での締め付け、公爵軍による組織的な嫌がらせ、最後は先代皇帝からの言葉も含め、侯爵本人も飲まざるを得なかった。
何せ、小麦の買取先が突然キャンセルを通告してくる。
借入金の取立ては、通常よりも厳しくなる。
何故か、夜盗や盗賊が頻繁に領内で発生する。
この状況で、皇帝が跡継ぎに養子を取る事を勧めて来れば、その裏に含まれるものは理解できる。
東方辺境領にいるローゼンハイムが何もする事も出来ない間に、全てが決していた。
男爵領よりも遥かに経営が困難な伯爵領を与えられ、その上嵌められた事実を突きつけられた彼に出来る事は荒れる事だけだった。
領地経営も放り出し、ヴィンドボナにて遊行を繰り返す生活。
その間も、疲弊した村々は寂れて行く。
その上、東方辺境領では未だに亜人との争いも耐えない。
事態に対応できる最低限の私軍の維持さえも行わないまま、放置された村の中には一晩で消えうせるものすら出てくる。
そして、二十年経てば何も残らなかった。
村々は荒れ果て、ローゼンハイムの収入もほぼ途絶する。
あるのは虚しい伯爵位と、今の貧相な生活だけとなっていた。
「条件は、ローゼンハイム卿の今後の生活費一切の負担、金額としては年2400エキューを考えております」
ローゼンハイムは、あっけに取られながら自分に説明してくるゼルマの執事の声を聞いていた。
「一件お願いしたいのは、お嬢様のお披露目パーティーを開きますので、その折には娘としてご紹介頂きたい」
それ位、容易い事だ。
禄でも無い人生を送って来たが、相応の遊び仲間等のコネクションだけは山ほど出来ていた。
パーティーを開く上で、紹介状を送る先にだけは事欠かない。
「如何でしょうか? ご了承頂ければ、直ぐにでも貴族院に登録して頂く準備は整えておりま・・・」
「待て…」
ローゼンハイムは、執事の話を遮る。
「なんでしょうか?」
美貌のヴェスターテのお嬢様が、ローゼンハイムに聞いてくる。
「お嬢様の目的は何だ?」
ゼルマは一瞬躊躇いを見せる。
「復讐です」
それでも、ここで弱みを見せる訳にはいかない。
それに、この方もブッフバルト卿に恨みを抱いているのは間違いない。
「やはりそうか! うん、あれは酷かったものな、相手はブッフバルト公爵で間違いないな!」
えっ、少し興奮し過ぎではないか。
ゼルマは何となく不安に思い、ちらっとご主人さまを見る。
ご主人さまも、しまったと言う表情を浮かべている。
言ったのはいけなかったのだろうか?
「判った、お嬢様を養子でも何でもしてやる」
「但しだ!」
先程までの、草臥れたようなローゼンハイム卿ではなく、そこには爛々と目を輝かせた別人のような卿がいた。
「金は要らん、条件は一つだ!」
ご主人さまが頭を抱えている。
そんな事も、ローゼハイム卿には目に入らないように、ゼルマを真っ直ぐに見つめてくる。
「俺も仲間に加えろ!」
「あっちゃー」
ご主人さまが、額に手を当てて叫んでいる。
ゼルマは、どうして良いか判らないまま、ご主人さまとローゼンハイム卿の顔を交互に見つめるだけだった。