東の空から朝日が差し込んできた。それは街を覆っていた陰鬱な空気を切り裂き、体に触れればそこから怖気を取り払っていった。街を照らす照明はその灯りをよみがえらせ、どこか狂っていたように見えた色彩も元の色合いを取り戻し、夜の間じゅう心に圧し掛かっていた不安と絶望は消え去った。
本来の夜明けが訪れると共にストームリーチはドルラーの抱擁から逃れることとなったのだ。
マールートから予め聞いていたとはいえ、再びこうして朝を迎えることが出来たことにほっと息をつく。もしこれがあと数時間も続くようであれば、長時間異次元界からの影響に晒され続けたことで、街そのものが物質界に戻ったとしてもそこに住む生物たちの魂はドルラーに捕えられたままとなってしまう可能性が高かったからだ。俺と仲間達のような一握りの高レベルな存在だけが物質界に帰還できたとしても、大部分の住人が失われてしまってはこの街を維持することは不可能だ。その最悪のケースを避けられたことが今は何よりもありがたかった。
しかし、普段であれば陽が昇ったことで動き始めるはずの街は未だに沈黙を続けている。一晩の間に刻みつけられた心の傷跡が人々から気力を奪っていっているのだ。太陽の光が優しくそれを癒すにしろ、それにはある程度の時間が必要なのだ。街がいつも通りの喧騒を取り戻すにはまだしばらくの時間が必要になることだろう。
だが一方で、夜の間恐怖に抗い続けた者達もいた。
ゼンドリック漂流記
7-4. ドルラー ザ・レルム・オヴ・デス 2nd Day
いつもは食事が並んでいるはずの大テーブルの上を、幻術で映し出された街の図面が占めていた。”トラベラーの呪い"によって地図を作成できないというのがゼンドリックでの探索行を困難にしている最大の原因だが、それはもう少し密林を踏み込んだ先で顕著になる出来事であってこのストームリーチの市内ではそのようなことはない。逆にそういった事象を避けた位置に都市が建設されていると言った方がいいだろう。巨人文明の遺構を様々な種族が利用したその現在の姿がこのストームリーチなのだ。都市の街壁から下水設備など、その先代以前の住民による恩恵は数知れない。
「『サマーフィールド』だけどね、昨晩は大勢がヴォルの教会が随分と繁盛していたよ。
あのあたりの連中は教会を嫌ってるから、夜間の外出禁止なんてのは誰も聞いちゃいなかったみたいだ。
そうやって外にいた連中が恐慌を起こしてローズウッドに駆け込んだんだろうね」
昨晩マールートからの情報を得た後、メイとエレミアを屋敷に帰した一方で俺とラピスは情報の裏を取るべく手分けして街とその周辺の偵察を行っていた。今はラピスがその幻術の地図の上を指さしながら昨晩の結果を報告しているのだ。ストームリーチの南側を占める《サウスウォッチ》は『グラインドストーン』と『サマーフィールド』の二つの区画からなっているが、共通しているのはここに住んでいる住民は貧困などの理由で他の区画に住むことのできない者達だということだ。特に『グラインドストーン』はカルナスからの移民が多く、彼らは閉鎖的な共同体を構築してまるで自治区であるかのように振る舞っている。
この区画を支配しているストーム・ロードはセル・シャドラというノームの女性だが、彼女もこのカルナス人たちには手を焼いている。とはいえ、特にこの街の犯罪組織を影から支配している彼女にとってみればそれすらも見せかけに過ぎないのかもしれない。『ヴォルの血』を崇拝するカルナス人たちはシルヴァーフレイム教徒と反目しあっており、こういった勢力のぶつかり合いの中で利益を上げるのは彼女にとって得意分野なのだから。
ラピスの言ったローズウッドというのは『グラインドストーン』に存在する”ヴォルの血”の教会だ。一般的にヴォルの血の教義はアンデッドと化すことで死を克服することだと言われている。まさに今回のドルラーの接近によって死の恐怖にさらされている者達には、シルヴァーフレイム教会ではなくヴォルの血に縋ろうというものも多いだろう。様々な意味でこの二つの宗教は対立しており、不倶戴天の仇敵同士であるといえる。最終戦争においても、カルナスとスレインといえばその宗教の違いから最も苛烈な戦いを繰り広げた二国として知られている。
一般的なヴォルの血の信徒はこの宗教がある邪悪なリッチの手先であることを知らない。生きるという事は生と死のせめぎあいであり、アンデッドになることがその戦いに勝利する手段の一つであると考えており、その真の目的を知らずにいる。むしろカルナスの現国王カイウス三世がこの宗教を弾圧し始めたことで、信仰を護るために祖国を離れこのストームリーチにやってきた純真な信仰者も多いほどだ。このため、カルナス人の多い《サウスウォッチ》においてはシルヴァーフレイム教会の影響力は皆無に等しい。それどころか、その聖印を掲げて歩き回ろうものなら血気盛んな自警団の若者たちとの間で衝突が起こることはまず間違いないだろう。
この『死の抱擁』に対するヴォルの血の動き──それを確認すべくラピスに潜入を行ってもらったのだが、どうやら特筆すべき情報は得られなかったようだ。アンデッドとなったことで死を克服した彼らにとっても、この『死の抱擁』は忌むべきものなのだ。文字通り、”アンデッド”は生者と異なり負のエネルギーを活力とすることで死を免れた存在だ。あるいは、彼らを狩りたてる存在であるマールートのことを察して大人しくしているのかもしれない。いずれにせよこの『死の抱擁』に際して、街の不穏分子の一つであるアンデッド達がいらぬ騒ぎを起こさないのであればそれに越したことは無い。勿論油断するわけではないが、いつも通りの警戒でいいという判断だ。
「そうなると、街の中には特に改めて注意する対象は無いという事か」
《サウスウォッチ》のアンデッドに動きは無く、《ハーバー》はハーバー・マスターの手腕により治安は大幅に改善されており揉め事の気配はない。それ以外の区画はシルヴァーフレイム教会とシティ・ガードによる警邏が行われており、街壁の内側の脅威は大部分が俺の手によって駆除済みだ。この機に乗じて騒動を起こしそうなものは、あとは反目し合うストーム・ロード達くらいのものだ。そしてそれについては自分たちに火の粉がかからない限り俺は手を出すつもりはない。エレミアの確認の言に頷きながら、今度は俺が昨晩の偵察の結果を皆に告げた。
「街の外だが、マールートから聞いていた通り不定形の大地が延々と続いているようだった。
少なくとも哨戒した範囲にはデーモンやデヴィルは見当たらない。遊撃部隊との不意の遭遇はあるかもしれないが、可能性は低いだろうな」
マールートが言うには、このドルラーにおいて地形とは死者の魂から零れ落ちた記憶の影響を受けて形作られている。そして魂の大半は、物質界において埋葬された土地に相当するドルラーの然るべき場所へと集まるようだ。このため、ドルラーは人口密集地においては物質界に相似した姿を有しているが街から離れれば徐々にその輪郭は不確かなものとなっていく。おそらくはこの大陸に数多く存在する古代巨人文明などの遺跡周辺なども、多くは墓地を含んでいることから同じことが言えるだろう。一方でそれ以外の土地については不確かなものだ。
知性のある生物だけでなく動物たちの魂もがドルラーを訪れることからまったくの虚無というわけではないが、それらはまるで泥のように不安定なものだった。踏み込めば僅かな足を取られる感覚が残るが、それは靴にまとわりつく粘度などではなく、こちらの四肢から何かを奪い去ろうとでもするような意思を感じさせるものだった。少なくとも、定命の存在が足を踏み入れていい場所ではない。短い時間でもそう感じさせるに十分なものがそこには存在していた。あの次元界において大地とは魂から零れ落ちた記憶の集合体であり、それは独特の吸引力を持ってあの次元界に流れ着いた魂から情報を吸い続けているのだ。
そしてそのドルラーには、マールート達の対極として魂を駆り集めるデヴィルやデーモン達が住人として存在する。幸いこの周辺はあのマールート達のおかげか、魂の収奪者の姿は無かった。おそらく、彼らの狩場はこのゼンドリックではなくコーヴェア大陸にこそあるのだろう。最終戦争で多くの死者を出したあの大陸では、いまだ埋葬されずにいる遺体がそれこそ数えきれないほど存在している。それらの死者の安息を護ろうとするマールートと、魂を収穫することでエネルギーを得ようとするデヴィル達。そして魂を弄ぶことで喜びを得るデーモン。これらが激しい三つ巴の争いを繰り広げているであろうことは疑いの余地がない。
例えば高位のデーモンであるナルフェシュネーはコーヴェアとこの地を行き来するに十分な瞬間移動能力を持っているが、そういった存在がコーヴェアでの戦いに飽いて不意にこの地を訪れる可能性は勿論ゼロではない。だがその程度のリスクは『死の抱擁』に限ったものではなく、わざわざ気にするほどのものではないだろう。強者の気紛れによって偶発的に危険に晒される可能性というものは、この世界にいる限り避けられないものなのだから。
「こんなところかな。とりあえず昼間の事はエレミアとメイに任せてそろそろ僕は休ませてもらうよ。
夜通し動き回ったせいで流石にそろそろ眠くなってきたし、今夜に備えて呪文を準備しないといけないしね」
一通りの情報交換が済んだところで、ラピスはそう言って片手の掌で大きな欠伸を隠しながらもう片方の手を振り上げて大きく伸びをした。俺達の中で唯一エピック級と言われる21レベルに到達している彼女にとって潜入行為の負担はそれほどのものではないが、やはり生物であるからには肉体の疲労からは逃れられないのだ。呪文で一時的に緩和することは出来ても、それでは呪文を行使する精神力は回復しない。休める時に休んでおく、というのはどれだけ強くなったとしても冒険者にとって必要なことなのだ。
「では日中の警戒は我々が交代で引き受けよう。私とメイは交代で休んでいたから、二人が戻ってから夜に備えて休みを取ればいいだろう。
差し当たって脅威となるものは確認できなかったとはいえ、異常な現象に巻き込まれていることに違いは無い。
夜に備えて万全の体勢を整えておかなければな」
「そうだな、俺達と交代でエレミアには昼過ぎから休息をとってもらおうか。
しばらく訓練は中止だ。カルノ達には庭に出る分には構わないが、念のため敷地の外には出ないように言っておいてくれ。
休息が終わったら俺は陽が沈む前に少し情報収集に出かけてくるつもりだが、皆はどうする?」
俺の問いにラピスはテーブルに状態を伏せさせたままだるそうに手を振って応じた。外出するつもりはないというサインだ。そんな彼女とは対照的に、メイは意欲十分といった様子でその豊かな胸の前で拳を握りしめている。
「丁度いい機会ですから、私は顕現地帯の特性を調査する準備をしておきますね!
どこか実地に出向く必要があると考えていたんですが、これで随分と手間が省けそうです」
そんな意気軒昂な彼女は、ルーとフィアがいるであろう『黄昏の谷』への移動手段の研究に取り組んでいる。《トラベラーの呪い》によって断絶されたあの領域には通常の手段で辿り着くことは出来ない。第九階梯に存在する《ゲート/次元扉》や《ウィッシュ》などの呪文であればその問題は解決できるのではないかという当初の思惑は既に失敗に終わっている。空間を歪める呪いの効果は最高階位の呪文の効果すらも寄せ付けなかったのだ。そのためこのままでは年に一度《トラベラーの呪い》が解ける間を待つしかないのだが、彼女はそれを解決する手段をより高度な呪文に求めているのだ。
俺が知る限りあちらは《黄昏の森・ラマニア》の顕現地帯であり、その特性を研究することで打開策を見つけられるのではないかというのがメイの見解だ。既に俺達はトワイライト・フォージから帰還する際に神の権能である《ポータル》による瞬間移動を体験していることも大きいだろう。それは定命の存在の限界を超えた階梯──エピック級呪文の開発を行う契機になったのだろうが、彼女であればそれを成し遂げるだろうと俺は信じている。
そしてこの研究は双子を迎えにいくためだけではなく、イスサランの姦計に嵌った時のようになんらかの事情で別次元界から脱出しなければならない場合や、将来的には俺が現実世界に帰還する手段の一つとして役立つはずだ。そのため、今回の《死の接触》によるストームリーチの顕現地帯化はデータ取りという点ではチャンスでもあるのだ。エピック呪文を構築する鍵である『シード』という要素。その中でも移動を司るものを中心に彼女の研究は行われている。未だ秘術呪文の実力が及ばぬ俺の仕事は、そんな彼女が万全の体勢で取り掛かれるように環境を整え障害を排除することだ。この『死の抱擁』も、俺達にとっては環境要因の一つでしかない──。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
午後からの天気はあいにくの曇り空だった。太陽の光は分厚い雲に覆われ、今にも底が抜けたようなスコールが降り出しそうな湿った空気を風が運んでいる。ゆっくりと休息をとった俺は、屋敷を離れ街の外へと通じる道路を一人進んでいた。友好的な巨人族たちが起居している街の外のキャンプ地へと繋がるこの道は普段は活気に満ち溢れているものの、今日は昼間だというのにほとんど人通りというものが無かった。それは決して天気の影響だけではないだろう。だがそれは今の俺には都合が良い。
コロヌー川にかかる橋を渡り昨夜は異界と化していた向こう岸へとたどり着くと、俺は石畳を外れ剥きだしの地面の上へと移動した。歩きながら定期的に小さな水晶のような物体を前方へと放り、落下したそれを踏みつけて地面に埋め込むようにしながら道路の脇を進んでいく。目印となる物体を一定の間隔で街の外に埋めておくことで、顕現地帯の範囲が街の外にどの程度まで及んでいるのかを判断するためだ。念視の対象にすることもできるこの物質は金貨数百枚という価値があるものであり、人通りが多ければこの行動を見咎められ掘り返されるようなこともあったかもしれないが、今の状況であればその心配はいらないというわけだ。
昨夜、街の外に出た際にも同様の事を行っている。そしてその全ては物質界に来ることは無く、ドルラー側に存在したままだ。それから考えるに、夜明けのタイミングで境界線上から外にいた場合、物質界に戻ることが出来ずにあちら側に取り残されてしまう事が予想できる。物質界がドルラーへと飲み込まれるタイミングでも夜明けと同じような現象が起こるのか、またそうであるならばその境界線はどこなのかを確認しておくのだ。
そんな作業を行いながら歩みを進めていると、やがて巨人族たちのテント村へとたどり着いた。昨夜の異界の間は何も存在しなかった地面の上に、今は巨木を材料としたいくつもの天幕が立ち並んでいる。つまりここまでは顕現地帯の影響は及んでいなかったということであり、そんな状態にあった彼らから見てストームリーチがどのように映ったのかを確認することも目的の一つである。
「久しいな、人中の竜よ」
なんどかの訪問の際に顔見知りとなったヒル・ジャイアントの戦士が俺を見つけると話しかけてきた。彼はその体格に応じた巨大な棍棒を持っており、害意ある侵入者をそれで叩き潰すのを得意としているのだ。とはいえここにいる巨人族の若者たちは密林で遭遇する連中とは異なり温厚で忍耐強い。俺がこの街にやってきたころにエルフの一団ともめていた際もその腕力に頼ることなく理性的な対応をしていた。既に失われてしまった過去の巨人族文明が持っていたであろう優れた文化を彼らは継承しているのかもしれない。
「知恵をお借りしたく、訪ねてきた。長老はいらっしゃるか?」
「変わらず中央の天幕にいらっしゃる。お前が来ることは聞いていた。進むがいい」
ここには巨人族に伝わる伝承を聞くために何度か訪れたことがある。ルシェームは古代巨人文明が滅んだあとに最初にこの遺跡群へとやってきた巨人達であり、口伝でデーモンの時代から続く長い歴史を伝えている希少な存在だ。巨人族でありながらも50年前の『炎の嵐』においてはストームリーチ側に与して戦ったなど人類に対して好意的であり、その知識は人類の文明圏にはないものが多く含まれている。また長老は経験豊かなドルイドであり、占術にも長けている。ルーと別れたことで強力な信仰系呪文による情報収集能力に欠けている今の俺達にとっては頼れる相手であり、先方もどうやら俺が来ることは察していたようだった。
立ち並ぶ天幕は布ではなく獣皮を繋ぎ合わされたものであり、中には信じられないほど継ぎ目が見当たらない──それだけ大きな巨獣から剥いだのであろう大きなものも存在する。そしてその中でも特に際立って大きく、年月を重ねた風格を感じさせる色艶をもった天幕へと俺は歩みを進めた。このルシェームで最も古く、最初に設置された天幕。集落の長が代々起居するそこへと足を踏み入れると、植物の香を焚き込めた独特の匂いが空気を色づけていた。
「待っていたぞ、竜の子よ」
フェルトが敷かれた床には二本の柱が隙間を開けて立っており、中央には小さな火が焚かれている。薄く切られた木材が火を囲う様に並べられており、それが匂いの原因であろう。そしてその向こうに年経た丘巨人の呪い師が胡坐をかいて座っていた。人間をそのまま大きくしたよりも長い腕は彼の種族に特徴的なものだ。本来であれば豊かに生えそろっているはずの頭頂には年輪を示す皺のみがあり、その大きな体からは肉体的な迫力ではなくまるで年経たエルフのような精神的な重圧を放っている。彼は鷹揚に腕を振ると、火の手前にある敷物を指し示した。勧められるままそこに腰を下ろし、こちらも胡坐をかいた状態で頭を下げる。
「ご無沙汰しております、ガウルロナック老。どうやら私が来ることは既にご存知だったようですね」
ルシェームの巨人族は世間的にはストームリーチとの交易を求める者達の集まりだと思われているが、彼らはこのゼンドリックにおける盛衰を記録する語り部なのだ。また彼らはこの大陸に眠る魂を安らかに慰撫するシャーマンでもあり、今のこの現状について話を聞くにはもっともふさわしい人物であるはずだ。
「強い輝きを放つものの動きに合わせて陰影もまた揺れ動く。じかに盲いた眼に捉えずとも、自ずと知れようというものだ」
彼はそういうと巨人用の大煙管を焚火へと近づけ、火を取ると口に咥えて一服つけた。吐き出される吐息は天幕内の空気にさらなる匂いを上書きし、焚火を照り返す煙はまるで生き物のように蠢いている。叡智の輝きをその瞳の奥深くに湛えたヒル・ジャイアントの古老は、静かなまなざしでその煙を通して俺を見つめている。
「其方が訪ねてきた用件についても解っておる──だがそれについては我らが知る過去の記録には、伝えられるものは無い。
暗い闇が先を覆っており、未来についてもまた見通すことは出来ん。ゆえに我らが其方に伝えることが出来るのは、ただ現在の事のみだ」
巨人の賢者はそういって再び煙管を加えると、大きく息を吐いた。かき乱された煙は天幕の上へと昇っていき、そこで滞留して雲のような姿を見せている。やがてその雲はまるで生きているかのように蠢きだすと、焚火の仄かな光を浴びて色彩豊かな色合いを帯び始めた。それはここではない、どこか別の場所を映し出している。煙を媒介として幻術系統の呪文を行使し、俺になんらかの映像を見せようとしているのだろう。
上空から俯瞰しているような眺めは、飛行能力を有するなんらかの動物の視点なのだろう。視野を青い光が満たしており、ストームリーチの近郊であることは察せられる。やがてその動物は視界が地上に届くほどの低空へと降りて行った。文字通り飛ぶような速さで映像が移ろっていく。はじめのうちは特に特筆すべきことは見受けられなかった──だが、時間が経過するにつれてある異常が目立ち始める。
不気味な生物が地上を闊歩している。1メートル強ほどの身の丈の、牙を剥いた口がそのまま生命を得たとしか形容しようの無い存在だ。球体の肉塊に大きく裂けた口、目玉がついた突起物が3つほどと、ずんぐりした数本の脚が生えている。そんな不恰好なデーモン──アビサル・モーが青い光に照らされその存在を示していた。最初は何十秒かに1体の割合で見えていたそのクリーチャーの数が、どんどんと増えていく。やがて数秒に一体から常に視界に映るようになり、最終的に幻術が終了するころには地面よりもアビサル・モーに占められている割合の方が多いほどとなった。大地を埋め尽くすデーモンの集団。そして青い光が彼らの影を象っている方向からして、その全てがこの街に向けて移動しているのだ!
「地上を埋め尽くす悪鬼の群れが街へと向かっている。明日の夜にはかの集団がこの地へと到達しているであろう。
そして三日後の夜から先は、占術は何も映さない──我らが其方に伝えられることは、それが全てだ」
大煙管を裏返して焚火の囲いへと叩き付け、燃え尽きた煙草が火中へと放り棄てられると同時に呪文は効果を終了した。先ほどまでは大量のデーモンの姿をとっていた天井近くの煙は跡形もなく消え去り、天幕は焚火の揺らめく炎を照り返して静かに佇んでいる。
礼を述べて天幕を辞し、ルシェームから離れた俺は街の南の平原へと視線を飛ばした。顕現地帯の向こう側、ドルラーにて大量のデーモンが今もこちらへと向かっている。街の住人の数よりも多い、万を超える悪鬼の集団。死者の魂の眠る世界で糧を得られなかった者達が、誘蛾灯に群がる蟲のようにこの生者たちのいる街へと押し寄せようとしているのだ。それはさながら草木を食い荒らす飛蝗の群れのように、全てを貪りつくすか壊滅するまで動きを止めることは無いだろう。そしてその被害を受けるのは植物ではなく、この街に住む住人達なのだ。
俺と仲間達が生き延びるだけであれば容易いことだ。『死の抱擁』が起こっている間、シャーンにでも避難していればいい。だがそうした場合、このストームリーチは失われてしまうだろう。そうなればゼンドリック大陸の橋頭堡は失われ、探索は大きく減速することになる──それはひょっとしたら数十年を超える時間となるかもしれない。
自前の占術師を抱えている街の有力者たちも今頃は同様の情報を手に入れているはずだ。彼らがどのような決断を下すのか。大筋で予想をすることはできるが、巨大な権力にとっての身動ぎ一つが末端には大きな波紋を与えることは当然であり大勢の住民はその影響を強く受ける側なのだ。政治の問題に首を突っ込むつもりはないのだが、現在の危うい状態で拮抗しているパワーバランスが崩れる方向へ加速することは避けなければならない。最悪の場合には直接的に介入することも考えなければならないだろう。そんな嫌な未来予想図を避けるための手段を考えながら、俺は自宅へと重い足取りで向かうのだった──。