真っ暗な水の底。俺を含めた仲間の全員は魔法の保護を身に纏い、サンダー海からゼンドリック大陸に打ち寄せる波間を潜り込むようにして水中を進んでいた。《フリーダム・オヴ・ムーブメント》の呪文は陸上と変わらぬ行動と機動を水中でも可能とし、《エアリィ・ウォーター》の呪文は水圧や呼吸の問題を解決してくれる。戦闘力の維持という面において、陸や空にいる状態となんら遜色ない状態だ。
地下港と呼ばれるハザディルの秘密基地への経路は、スリクリーンの歴史が記された古い石版に記載されていた。ただそれは当然彼らが当時利用した海路に沿ったものであり、それに沿って俺たちは全員が潜水して目的地に向かうことになったというわけだ。俺の記憶にある街の地下構造からのアプローチではなかったためクエストとは異なる侵入経路となっているが、街からのアプローチは当然多くの警戒がされており人員も配置されているであろうことを考えればこちらのアプローチのほうが奇襲には向いているはずだ。
勿論こちらの経路も無警戒というわけではなく、迷い込んできた水棲生物や侵入者を排除するためであろう番犬役のヒュドラが途中その鎌首をもたげていたり、その先には《アラーム》の呪文が幾重にも仕掛けられているなど警戒レベルは充分なものだった。だがそれは一般レベルの視点から見たものだ。ヒュドラはルーが一瞥しただけでその多数の首を竦めて大人しくなり、警戒の呪文は水底を掘り抜いて迂回することで通り抜けた。下手に殺害や解呪を行えば敵に察知される可能性もあるため回りくどい手段を取ることになったわけだが、戦力の温存という意味では良い結果になったといえるだろう。
そうやって進んでいると、やがて水中に明るい光が差し込み始める。どうやら目的地への到着が間近のようだ。念話で合図を飛ばし支援呪文の付与を開始しつつ、俺達はじりじりとハザディルの秘密基地へと忍び寄っていった。
ゼンドリック漂流記
6-3.ハイディング・イン・ザ・プレイン・サイト
ほどほどの透明度の海水のおかげで、水面下からでも秘術の明かりに照らされたその洞窟の概要を十分に窺うことが出来る。数百メートル四方にも渡るその広大な空洞内部は小規模な港として整備されている。桟橋にはエレメンタル・サブマリンが1隻係留され、出港の時を待っているようだ。その周辺には積荷を運んでいる屈強なオーガやバグベアの姿もある。桟橋の様子からすると他にも2,3隻の船舶が停泊する余裕が有るのが解る。どうやらジェラルドの策は功を奏しているようだ。
ゲームの知識ではこの秘密港は複雑なストームリーチの地下構造に繋がっており、それを通じてハザディルは街中にエージェントを送り込んでいたはずだ。そしてこの港を使うことでコインロードに知られることなく密輸を行なってきたのだろう。D&D世界には潜水艇も存在しているが、長期の航海に向いたものではない。噂ではカニス氏族が最終戦争のさなかに3隻の精霊捕縛型潜水艇──従来の風の精霊ではなく、水の精霊を呪縛することで水中への潜行を可能としたもの──を開発したとは聞いているが、実際にはほとんど運用されていない。それはやはり積載量が通常の船よりもかなり少なくなってしまうからだろう。戦争が集結した今となっては、シーレーンの防衛にそこまでのコストをかけられないという事情もあるのだろう。
だがハザディルはそれを実行している。カニス氏族ではなくスリクリーン文明の遺産を用い、この近海を我が物としているのだ。海上を浮くように進むエレメンタル・ガレオンと比較すれば速度では敵わない。だがこと戦闘になれば3次元航行が可能な潜水艦による待ち伏せは圧倒的な有利を生む。秘術でその差を解決する手段もある。《サブマージ・シップ/船舶潜水》という第七階梯の秘術呪文は通常の帆船に水中航行能力を与える。だがシャーンの大導師と呼ばれる存在ですら第六階梯までの呪文行使までしか行えないこの世界で、第七階梯以上の所謂高位秘術の使い手を船の維持のために拘束することは出来ないだろう。そして攻撃側は水中から《ファイアーボール》などで攻撃するだけでいい。攻撃呪文の多くは水中でも陸と同様の殺傷力を発揮する。深海から船底めがけて術者が攻撃呪文を撃ちこめば、一撃で竜骨を破壊することも可能なはずだ。
船から視線を移し、さらに他の区域の様子を窺う。埠頭に隣接する形で三つの扉と一本の通路、そして左手の壁際に埠頭全体を見下ろすロフトのような建築物が一つ。最後の一つが俺の知識ではハザディルの執務室となっている場所だ。どうやら俺の記憶の中の知識と実際の構造に大きな差異は無いようだ。転移と占術に対する防御がされているようでこうして直接侵入する以外に事前情報を入手することができなかったが、これであれば事前の打ち合わせ通りに予定を進めることができる。
──予定通り先行する。ラピスとフィアは同行してくれ。最後の付与呪文が終わったら左手上方に見える区画へ浸透する。
メイはここから港全体の様子を伺って、異常があれば報告してくれ。エレミアはメイの護衛、ルーは水棲の生物が近づいたら対応してくれ──
水面下に潜ったまま、念話で最後の方針確認を行う。了解の返事が返ってくると同時に、メイが音声要素を省略した呪文を使用することで最後の支援呪文を付与する。高位術者ですら数分しか持続しえないそれらが完了するのを待って、隠密に優れた俺とラピス、フィアが密かに水面から浮き上がった。《スーペリア・インヴィジビリティ》は姿だけではなく匂いや音、熱などのあらゆる知覚の源となる物理現象を隠蔽する。さらに水面に広がる波紋は打ち寄せる波間に紛れて消えた。通常であれば不可視を看破する呪文の効果すら遮る特殊な幻術を纏い、俺達三人は無音で空を駆けハザディルの執務室へと向かう。
水中を進んだことで装備が濡れることは避ける事が出来なかったため、空中を進む俺達の体からは水滴が零れ落ちていく。第八階梯の呪文といえども、体を離れた飛沫まではカバー出来ないのだ。一処に留まればすぐにでも広がる水溜りに異常を察知される可能性があるため、俺達のとった手段は速攻である。魔法的・物理的に可能な限りの隠蔽をしても、発見される可能性をゼロに出来るとは考えていない。だが発見から対応されるまでの間にこちらの用件を済ませてしまえばいいのだ。
幸い障壁などは設置されていないようで、執務室には飛行により直接飛び込むことが出来た。低い手すりに囲まれ、テーブルがいくつか置かれただけの簡素なそのロフトにはバグベア以外にも3人の人影が見えた──だが予定に変わりはない。全員がある程度の護りの呪文を身に纏っているようだが、こちらに気付いていないのであれば対処は容易いものだ。まず奇襲の先手を担ったラピスが、転移による離脱を阻むための《ディメンジョナル・アンカー》を放つ。それはこちらに反応できていないバグベアに命中し、その肉体を物質界に貼り付けた。次いで俺が秘術のエネルギーを解き放つ。対人に特化された不可視の衝撃が無音で空間を揺るがし、範囲内の生物の脳をシェイクする。
だが巨竜すらノックアウトするその攻撃を受けてなお、バグベアのみは意識を失わなかった。いや、正確には意識を失う直前に予め護身のために準備されていた待機呪文が起動し、その衝撃を癒したのだ。だがハザディルの実力をメイと同等程度と想定していた俺にとって、その程度の備えがあるであろうことは織り込み済みだ。高速化した同規模の呪文が再度炸裂し、今度こそバグベアの意識を切り飛ばす。非常用呪文《コンティンジェンシィ》は同時に一つしか付与できず、瞬間移動による逃走をラピスが防いだ以上この連撃に耐えるすべはない。フォローのために距離を詰めたフィアが床に転がる4名の意識がないことを確認していき、問題ないことを俺たちに合図する。
──無力化は間違いない。私は警戒に移る
透明化状態を維持した上無音で敵を瞬殺したために、まだ誰もが襲撃には気づいていないはずだ。打ち合わせ通りフィアがこの執務室へ近づく者がいないかを警戒している中でラピスが室内の目ぼしい品を回収し始め、俺は無力化した男たちの拘束を始める。バグベアと同席していた連中は特徴的な装身具から"アーラム"と呼ばれる組織の工作員であることが判る。銀の指輪はその中でも比較的上位に位置する構成員の証だ。彼らがハザディルのスポンサーだったということだろうか。
彼らアーラムはこの街では小さな支部一つ、そしていくつかの下部組織とストーム・ロード達との繋がりを有しているに過ぎなかったはずだ。そしてその中で最も密接な関係にあるのはアマナトゥである。アマナトゥとクンダラク氏族の蜜月、そして富裕層を中心としたアーラムの繋がりはむしろ当然だが、それがハザディルにまで伸びるとなると一気に事態はきな臭くなる。
アマナトゥとグレイデンの関係はお世辞にも良いと言えるものではなく、ハザディルはグレイデンを憎んでいる。アーラムがその両者の仲立ちをしていたとなると厄介だ。ストーム・ロード同士の権力闘争、それが水面下で本格化していたということになる。少なくともこの街に3人いる"プラチナ・コンコード"の中で最も有力な一人がリランダー氏族と協力関係にあることを俺は掴んでおり、それに対抗する組織内の別派閥がハザディルと手を結んだと考えるのが自然だが──いや、考え事は後回しだ。状況の整理はこの男たちから情報を吸い出した後でいい。
俺はバグベアを除いた昏倒している3人に《フレッシュ・トゥ・ストーン/肉を石に》の呪文を打ち込み石像へと変え、"ポータブル・ホール"の中へと収納していった。この異次元空間内の酸素の量は限られており普通に人間を放り込めば十分も経たない内に酸欠で死亡させてしまうが、石像に変えてしまえばその心配も不要なのだ。下手に殺せばどこか別の場所で蘇生されたりすることも考えられるが、石化は『死亡したわけではない』ために蘇生をも防ぐことができるという点で状況次第では殺害よりも有効な手段足りえるのだ。
そしてわざわざバグベアを残しておいたのは、尋問のためだ。実際にこのバグベアがハザディルであるかどうかの確認がまず必要だからだ。《アーケイン・サイト》でバグベアに付与されている呪文を確認し、解呪していく。術者としての素の性能はこのバグベアのほうが高いのかもしれないが、様々な補助により大きく向上している俺の呪文強度は彼を上回るようで、呪文は次々とその持続時間を終了させていった。
まず解呪を行ったのは尋問のために《ドミネイト・パーソン/人物支配》などの呪文を作用させる必要があり、そういった支配・魅了に関する心術に対する防御呪文を剥がすためだ。決定的な呪文だけにその対策は高位術者であれば当たり前のようにしていると考えた方がいい。そしてさらに抵抗力を奪うために《エナヴェイション/気力吸収》の呪文で負のレベルを十分に与えてから、《ドミネイト》の呪文を使用すればさらに万全だ。
だがその俺の下準備は無為に終わった。確かに俺の指先から放たれた黒い光線はハザディルに命中したものの、それがこのバグベアに負のレベルを与えることはなかったのだ。続けて発動した《ドミネイト》も、何かに妨げられるようでバグベアを絡めとるには至らない。とはいえこのバグベアは指輪やそれに類する魔法的な装身具も身に着けていない。いったい何が俺の呪文を遮っているのか? だがそう考え始めた俺の脳裏に、メイからの念話が響いた。同時にフィアも敵の接近を告げる。
──港全体に散らばっていたオーガとバグベア達が一斉にそっちに向かっています!──
──30体ほどが攻撃態勢でこちらに向かって来る。先頭の到着まであと20秒!──
いくらなんでも露見が早すぎる! 呪文か何かで常にこのバグベアを監視するような体制を敷いていたということだろうか。幸いここは2階にあり、梯子などを使用しなければ上がってくることは出来ない。視線を梯子へと向け、《ファイアーボール》の呪文を解き放つ。先ほどの《ショックウェーヴ》と異なり爆音を発しながら構造物を破壊するその魔法により、部屋の一部が梯子とともに吹き飛んだ。
大雑把に見える対処法だが、構造物を外から見た時点でどの程度の破壊であればこの部屋が無事なままかは〈建築学〉によりおおまかに把握できている。これで暫く時間が稼げるだろう、そう判断した俺はバグベアに向き直り──そしてそこで自分の過ちに気づく。分厚い体毛に覆われたその頭部に覗く4つの穴、その奥でぬめって光る緑色の物質──
「ヴォイド・マインド!?」
かつてのラピスも陥っていたマインド・フレイヤーの奴隷、ヴォイド・マインド。この哀れな儀式の犠牲者の状況は主たるマインド・フレイヤーに常に監視されている。つまり外のオーガ達が俺達の襲撃に気づいたのはこのヴォイド・マインドとマインド・フレイヤーの精神的な繋がりによるものなのだろう。幸い身体自体が大量の非致傷ダメージで昏倒している今、ハザディルの体を経由して寄生主が力を振るうことは出来ない。だが、ヴォイド・マインドが一体とは限らないのだ!
慌てて手すりの先、階下を見るとそこには大量のオーガやバグベアを中心とした部隊が迫ってきていた。この距離では濃い体毛に覆われて頭部にあるかもしれない穿孔の有無を全て確認することは出来ないが、ある程度はヴォイド・マインドが混ざっていると考えたほうがいいだろう。少なくともおそらくは指揮官クラスはマインド・フレイヤーからの指示を受けているはずだ。彼らは梯子が破壊されていることを見て取るやいなや、階上の生存者──ハザディル達のことなどまるで気にせずこの部屋を支える支柱へとそのグレートアックスを叩きつけた。大勢のオーガが入れ代わり立ち代わり攻撃を加えることで、建造物は容易く崩れ落ちる。
──ヴォイド・マインドと遭遇、全員精神作用に対する防御を徹底! ラピスは周辺の捜索、メイ達は退路の確認と確保を!──
傾いた床上を滑るように走りながら、俺はハザディルを"ポータブル・ホール"へと放り込んだ。石化させる時間は無かったが、一人分であれば10分程度は酸素ももつ。だがそこまで長い間ここでの離脱に時間を食うことはない。こいつが死ぬときは、俺達がすでに死んでいる時だ。可能であればこの港の敵を殲滅してからゆっくり調査を行いたかったところだが、それだけの余裕はありそうもない。
階下に落とされた俺達に対し、歩幅の関係からオーガの後方に位置していたバグベアの集団、そこに紛れていたドワーフの術者から《グリッターダスト》が放たれた。振りまかれた雲母の粉末が秘術により金色に輝き、爆発的にその量を増大させて半ばまで崩れ落ちた建物跡へと降り注ぐ。《スーペリア・インヴィジビリティ》による不可視化とはいえ、それは知覚を誤魔化しているだけで実際にその場にいることに変わりはない。咄嗟の反応で目を瞑り目潰しを食らうことは避けたものの、金粉が体に纏わり付いて体の輪郭を浮かび上がらせてしまう。
ラピスは呪文の効果範囲から逃れていたようだが、そうやって姿を現した俺とフィア目掛けてオーガの群れが押し寄せてくる。3メートルを超える巨人達が10体、グレートアックスや棍棒を振りかざしている。いずれも今まで見たどのオーガよりも鍛えられているようだ。足運びも隙なく、武器による攻撃も力任せではなく技巧に重きを置いたものだ。足並みを揃えて襲い掛かってくる様からは連携が取れていることも見て取れる。相当な訓練を積んでいるのだろう。
だがそんな攻撃も所詮常識の範囲内に過ぎない。刃の化身の如きエレミアの剣舞や、秘術と剣を掛けあわせたラピスの刺突のような理不尽な攻撃ではない。身体的に優れた種族が、厳しい訓練により習得した技術を持って振るう暴力──そんな程度では、俺に触れることは叶わない。
体を両断せんと振り下ろされる大斧。その動線から軽くステップを踏むことで体を逸らすと同時に、相手の間合いの内側へと飛び込む。そして交差の瞬間に体を捻って見上げるような巨体に対し、相手の膝を蹴って飛び上がるとその胴体に掌底を叩き込んだ。大型トラック等が使用する分厚いタイヤを叩いたような反動が腕を通して伝わってくるが、その抵抗も一瞬のことだ。俺の打撃はその筋肉の束を容易に貫通する。インパクトの瞬間に秘術によって何倍にも拡大された衝撃が浸透し、筋肉を突き破って体内で炸裂。臓器を破裂させ、骨を粉砕する。
そこまでのダメージを受けて即死しないのは激情の発露によりさらに身体能力を底上げしているオーガならばこそだが、戦闘能力を奪えばこの場では十分だ。それに今相手にすべきはただ近接戦を仕掛けてくるような前衛ではない。バーバリアンの激怒により脳のリミッターが解除され能力が底上げされたといっても、その近接戦闘能力が俺やフィアにとって脅威となるほどのものではないと判断したからだ。少し離れたところでは、フィアも敵の攻撃を危なげなく回避し、狙うべき獲物を見定めている。
今最も警戒すべきなのはオーガの膂力による攻撃などではなく、敵の術者とどこかにいるヴォイド・マインド、そしてその寄生主による超能力攻撃なのだ。頭部が剛毛に覆われたオーガに対し、目視で穿孔の有無を確認することは難しい。俺がそうやって周囲を一瞥している間に、フィアは刹那の判断で敵の攻撃を掻い潜って、先ほど俺たちに《グリッターダスト》を放ったドワーフの術者へとたどり着くと手に持った細剣を一閃した。高い精神集中が彼女に死線を認識させ、それをなぞるように振るわれたショートソードがドワーフをそのローブごと両断した。彼女はひとまず術者への対処を優先したのだろう。ならば俺の役割は残るヴォイド・マインドへの対応だ。
だがどうやって見分けをつけようかと思考を巡らせかけた俺へ、突如強力な指向性の超能力が放たれた。《ディスペル・サイオニクス》──超能力版の《ディスペル・マジック》が俺の体を包んでいた呪文を次々と解呪していく。俺が付与したものだけでなく、メイが付与した呪文までもが一撃で解呪されていった。サイオニクスと呼ばれるその秘術に似たパワーは一つだけ決定的に他の呪文体系と異なるところがある。それは一回の能力行使に大量のパワーポイントを注ぎ込むことで他の呪文体系では不可能な圧倒的な効果を発揮することが出来るというもので、それはどちらかといえば俺の行使する呪文体系に近いものだ。それを考えればこの呪文強度も不思議なことではない。だがそれだけ多くのパワーポイントを一回の超能力行使に注ぎこむことが出来るということは、相手がそれだけ強力な能力者であるということは間違いない。
──そちらから我が掌中に転がり込んでくるとは、愚かなものよ
──奴隷よ、地上の住民を殺すのだ!
──さあ、祝宴を始めよう!
周囲を取り囲んだ大勢のオーガ、そのうち数体の頭部から粘液に塗れた異形の触手が伸びていた。その触手全体が震えるようにして言葉を伝えてくる。ヴォイド・マインドを作成するのに必要なマインド・フレイヤーの数は3体。その全員がどうやらこの場を注視しているらしい。ディスペルに続いて、特異な精神汚染がこちらへと向けられるのを感じる。《エゴ・ウィップ》と呼ばれるそのサイオニック・パワーはその荒々しさで人間の心にある個性とでもいうべき精神的特徴をすり減らし、物言わぬ植物人間へと転じさせるのだ。
だが、先ほど皆への警告と同時に俺は一つの指輪を身につけていた。それにより体の周囲張り巡らされた薄い膜に弾かれたかのように、異形の繰り出した精神の触手は俺へ触れることが出来ずに中空で霧散する。"リング・オヴ・メンタルフォーティチュード"は着用するだけであらゆる精神作用を処断してくれる非常に強力な魔法具だ。士気を向上させる呪文や呪歌の効果まで遮ってしまうという弊害はあるにせよ、これがなくては即座に自我を削られて前後不覚に陥ってしまうため選択としてはやむを得ない。だがその代償として敵の第一撃を凌ぐことは出来た。超能力の痕跡がかすかに漂う異臭として残り、俺はその攻撃を繰り出したオーガの変異種へと狙いを定める。直後に放った三条の火閃がそのオーガ達の首から上を薙ぎ払い、消滅させた。かろうじて炎上を避けた触手の先端が溶け崩れ、地下港の床に染みを作る。だがそれらは寄生主にとっていくらでも替えの効く傀儡にすぎなかった。別のオーガの頭部から触手が伸び、狂気に打ち震える。
──抗うか、小癪な地上の生物が
──だがそれもよい、強者の心が折れる様も食事を彩るスパイスとなる
──ひとつひとつ、護りを剥いでやろう
マインド・フレイヤーは脳を貪る際にそこに蓄えられた感情や知識を糧とする。彼らがそうやって蓄えた知識は相当なものだ。勿論、いくら希少といえども自らの能力に対して脅威となる品について彼らが知らないわけがない。今度のディスペルは俺ではなく、装身具を狙って放たれた。歪な精神波長が魔法具に干渉し、その回路を一時的に不全に陥らせる。その時間は短ければ5秒、長ければ20秒ほどか。地下港全体に響きわたっているのであろう異形たちの不快な精神波が殺到する。
物理的なものであれば熱閃などの超高速攻撃であっても回避する自信はあるが、精神を直接攻撃するというそのパワーを回避することは出来ない。ただ自分の意志を強く持ち、押し寄せる狂気の波動に飲み込まれないように耐えるのが精一杯だ。狂気が俺の心からあらゆる衝動を削りとり、あるいは激しい感情の波が繰り返されることで精神を摩耗させる。指先ひとつ動かすにも億劫な感覚が付き纏う。だが自意識を総動員し、オーガの振り下ろす棍棒を転がるように回避しながら巻物を取り出して使用。発動した《ヒール》の呪文が精神に与えられていた傷を拭い去る。さらに機能を抑止された指輪を別の物へと交換。再び不快な精神波を遮断する。
精神を司る能力の達人たちが最大限まで強化して放ってくる《エゴ・ウィップ》の威力は致命的だ。先程は3発を打ち込まれ、その全てに抵抗してもかなりギリギリの状況だった。どこかで敵の精神力に押し負けてしまえば間違いなく自我をすり潰されていただろう。非常識な能力を持つ俺ですらそうなのだ、他の仲間たちが狙われれば一撃で戦闘不能に追いやられてもおかしくない。
だがその例外となる戦士がこの戦場には存在した。敵の超能力を無効化し、オーガの暴力の嵐を掻い潜ってヴォイド・マインドへと挑みかかる小さな黒い影──フィアだ。彼女の強い信仰心が生む加護は、普通であれば先ほどの俺が受けたように抵抗に成功しても影響を免れ得ない攻撃に対しても、その一切を無効化するのだ。そして彼女自身の高い抵抗力を突破するほどの強度は、このマインド・フレイヤー達は持ち得ていないようだった。そしてその加護は防御だけではなく、攻撃にも効果を発している。ショートソードが閃く度に、オーガの巨躯は切り刻まれ、あるいは急所を刺し貫かれて倒されていく。
勿論マインド・フレイヤー達は最も狡猾な部類に含まれる種族だ。攻撃が通用しないと見るや、即座に対処を切り替える。前線を担うオーガ達がフィアへと向かい、ヴォイド・マインドにとっての肉の壁となる。そして脳喰らい達を寄生主とした後衛達が俺へと向き直った。まずは頭数を減らそうというのだろう、先ほどと同じく思念波が津波のようにこちらに押し寄せてくるのを感じた。《エゴ・ウィップ》の波状攻撃だ。
だがその初撃を指輪が防ぎ、敵がその対応として再び解呪を放とうとしている隙に俺は一つの呪文を完成させていた。その呪文を解き放つと俺を中心とした半径3メートルほどの領域の法則が塗り替えられ、精神を陵辱せんと迫っていた波濤はそれに触れると無へと還って行く──《アンティマジック・フィールド》。あらゆる超常能力を抑止するこの空間は、魔法だけでなく超能力ですら無効化する。白兵戦向きのオーガ達の大半がフィアに向かったのをいいことに、俺はヴォイド・マインドの集団へと躍りかかった。
この領域内では脳喰らい達がヴォイド・マインドに及ぼす支配の力さえ無効化されるため、その護りを失った哀れな宿主達を俺の黒剣が切り刻んでいく。魔法の付与や魔法具の強化を失った俺の戦闘力は、普段に比べて大きく落ちている。特に回避能力は文字通り半減だし、呪文による攻撃が出来なくなったことで瞬間的な火力が大きく減じている。だが、それでもオーガの戦士を一体ずつ葬っていくことくらいは充分に可能だ。
だが俺の目的はあくまで敵がストームリーチに仕掛けている企みを阻止することであり、ハザディルの無力化はその手段にすぎない。そうなるとこのまま脱出するわけにはいかないだろう。ハザディルと思わしきバグベアが傀儡だった時点で、この組織の表の首領はマインド・フレイヤーから見ていくらでも挿げ替え出来る程度の価値しか無いはずだ。このまま脱出しても敵の企みを食い止めることには繋がらないだろう。そうなると次の目的はこの地下港の破壊ということになる。
そのためには、やはりヴォイド・マインドの殲滅が必要だ。地底港ゆえに天井をいくらか破壊してやれば崩落させることは可能だ。すでに《ファイアーボール》で破壊する箇所の目星もついている。いまいる場所の頭上は街から離れた小高い丘であり、地表までは2百メートル弱ほどあるはずだ。それだけの質量を崩落させれば一朝一夕で除去することは不可能だし、目的を達成したとしても良いだろう。だがそのためには《アンティマジック・フィールド》の解除が必要となるが、自身を守る為にはヴォイド・マインドを残したままこの呪文を解呪するわけにはいかないからだ。
そんな思考を巡らせつつ、また一体オーガの首を両断した。俺の眼前にはヴォイド・マインドと思われるオーガとバグベアが10体。殲滅速度はフィアのほうが速く、割り当ては同数程度であったにも関わらず彼女の周囲には既に7体しか残っていない。1分もしないうちにこちらに合流するはずだ。あとは退路が確保出来次第、天井を爆砕して脱出すればいい。
──だが、その俺の考えと共に均衡を打ち破ったのは敵の突然の動きだった。
俺の前にいたオーガが突如こちらを押しつぶそうとでもいうのか、その体で覆いかぶさるように圧力を掛けてきたのだ。隙だらけのその体を"ソード・オヴ・シャドウ"で斬りつけるも、今の弱体化した俺ではその一撃だけでは絶命させるには至らない。そうやって複数体のオーガが壁を形成し、俺を阻む。そうやって隔離された敵の最後列、そこにいた1体のオーガに突如異変が起こった。マインド・フレイヤーの秘技により脳に替わって詰め込まれた秘術物質、それが突然泡立つかのように膨れ上がったのだ。強靭なオーガの頭蓋骨も内側からの膨張には耐えることは出来ず、その内容物を溢れさせた。
膨張により薄まったのか、緑から白へと転じたその物質は、オーガの頭部を破砕しただけでは収まらずさらにその容積を拡大させた。それを中心に渦巻く思念波の波は視界を歪めるほどに現実へと干渉し、零れた余剰なエネルギーは火花と異臭を撒き散らしている。定命の者の限界を遥かに超えたサイキック・パワーが収束されていく。無謀な攻勢は俺にあの邪魔をさせないための肉の壁というわけか。だがどんな規模であれ、超常の力が《アンティマジック・フィールド》を超えることはない。専門家たるマインド・フレイヤーもそのことは充分承知のはず。つまりあれはこちらを攻撃する術ではないのだ。
そしてやがて三階建ての建物ほどまで球状に膨らんだその秘術物質は、その不要な部分をこそぎ落とすように落下させるとその内部から無骨なシルエットを露出させた。その体高は10メートルほど。幾重もの装甲板を殻のように纏った胴体が前後に大きく伸び、その前面の中央には埋め込まれるように頭部が存在している。煙を吐き出しながら関節部が展開していくと折りたたまれていた四肢が伸び、その身の丈はさらに大きなものとなった。
安定した二足歩行を成立させるがっしりと太い脚部の関節部分は過剰なまでに分厚い装甲に覆われ、左右の腕はそれぞれが凶悪な様相の武器と一体化している。左腕には爪のように3つにわかれたアダマンティン製の刃がドリルのように回転し、右腕には超巨大な鉄塊がハンマーのように取り付けられている。いずれも武器の大きさだけで先ほどのオーガ達を超えるようなものだ。人間などその攻撃が掠めただけで死ぬことがありありと想像できる、質量差という決定的な違いをその威容が示している。
悪夢で鍛えられた鋼によって組み上げられた戦争兵器、"ウォーフォージド・タイタン"──それはカニス氏族が近年作り上げた紛い物ではなく、正しく古代の巨人族文明を滅ぼした伝説上の兵器だ。頭部ユニットの2つの瞳に赤い光が灯り起動したその機械巨人は、眼前に敵である俺を認めるとそのハンマーを高々と振り上げながら鋼の咆哮をあげた。