空に浮かぶ月とシベイの円環が眼下のジャングルを照らしている。薄暗い夜の中で密林を覗き込むと、まるで深海に引きずり込まれるような不思議な引力を感じてしまう。
地平線の彼方まで広がる樹海の所々には巨大なジッグラトや打ち棄てられた都市などが緑に飲み込まれている姿を見つけることが出来るが、その全てを無視して目的地へと急ぐ。
今俺が乗っているのは《イセリアル・マウント/エーテルの乗馬》の呪文で構築された虹色の馬だ。メイによって召喚されたこの乗騎は深エーテル界を介し空を駆け、常識外れの速度で俺たちを運んでくれる。
この半島を冠する"スカイフォール"の名に相応しい突風が吹きつけるがその風を切り裂き、荒れ狂うエレメンタルが現れたとしてもその速度であっという間に引き離し視界から消し去ってしまう。地上を普通に行軍したのであれば二ヶ月はかかるであろう距離を、幻馬はほんの数時間で文字通り駆け抜ける。
トラベラーの呪いを避けるべく先導するフィアとルーが二人乗りした馬が宙で立ち止まり、目的地に到着したことを知らせてくれる。
「地図の遺跡はおそらくこの辺りだろう。さて、これからどうする?」
フィアが手綱を引きながら今後の方針を尋ねてきた。今回の仕事はジョラスコ氏族の後援を受けてこの付近で遺跡発掘に従事していたハーフリング達を保護、あるいは彼らの成果を回収することだ。
周辺部族に補足され、虐殺された彼らの生き残りは僅か5人。逃避行でやつれたハーフリングがこの茂った密林のどこかにいるはずで、俺達は彼らを見つけ出さなくてはならない。
「メイ、この近くに反応はあるか?」
頼みの綱はやはり占術呪文だ。発掘部隊を率いている男に与えられたジョラスコ氏族の印章指輪を目標に《ロケート・オブジェクト/物体定位》の呪文を発動させたメイの様子を伺う。彼女の技術であれば半径3kmにも渡る範囲を探ることが可能だ。
もし今の時点で反応が得られなかったとしても、呪文を維持したままこの辺りを跳び回っていればそのうち見つかるはずだ。だが今回は幸運なことに彼女は即座に反応を得ていた。
「──西側に反応があります。でも何か激しく動いているみたいで……」
その彼女の言葉を受けて密林へと視線を向けると、突如その一角が炸裂する炎で焼き払われた。間違いなく《ファイアーボール/火球》の呪文によるものだ。
「既に交戦中のようだな。急ぐぞ!」
エレミアが見事な手綱捌きで先頭を駆け始め、ラピスがそれに続いていく。
どうやら事態は急を要するようだ。舌打ちを一つして、俺も彼女たちに続いて幻馬を走らせるのだった。
ゼンドリック漂流記
5-2.ジャングル
「騎兵隊の到着だ。道を開けろ!!」
密林を切り裂いて銀光が闇を照らす。武装したホブゴブリンとバグベアの軍勢の頭上にラピスの投げ下ろしたスローイングナイフが降り注ぎ、哀れな犠牲者の頭蓋に突き刺さったかと思うと突如炸裂し、力場の矢を撒き散らした。
《スペルストアリング》の効果により予めに武器に封じられていた呪文が対象の殺傷をトリガーに起動したのだ。《チェイン・ミサイル/連鎖する魔法の矢》の名の示すとおり、それぞれのナイフから飛び出した大量のマジック・ミサイルが次の目標を狙う。
紫色に輝く力場の矢がその残光で暗闇を染め上げた。骸から伸び上がり次の獲物を狙うその様は蛇を思わせる。生い茂った樹木を避けて踏み固められた獣道に密集していた集団は突然降り注いだ災厄に巨人語で呪いの言葉を吐いては倒れていく。
その声を聞いて先頭でハーフリングを追い詰めていた兵士たちが何事かと振り返ったが、それは彼らの寿命を伸ばすことには繋がらなかった。彼らの頭上からはエレミアが空中から、戦に向かない幻馬を乗り捨てその勢いのまま飛び込んでいたのだ。水平に構えたダブル・シミターはまるで彼女の体に生えた翼のようだ。
その刃の輝きを捉え頭上を振り仰いだホブゴブリンの顔面を足場に着地した彼女は、まず最初にその首を切り落とし肩を蹴ると次の獲物へと飛びかかった。エルフの剣技の達人を"ジェルダイラ/刃の踊り手"と呼ぶが、その異名に違わぬ舞を彼女は見せつけた。
剣刃を閃かせながら敵中を進む姿はまさに死の踊りと言えよう。その武器を一振りすれば両端の曲刃が敵の首へと吸い込まれ、多いときは武器の一振りで4つの首が落ちた。彼女が通り過ぎた後には頭部を失った骸が立ち並ぶのみだ。武器に刻まれた意匠が空を切っては音を鳴らし、まるで剣そのものが歌っているかのよう。
だがその歌自体も長くは続かなかった。ほんの一呼吸ほどの間に、殺気と鉄の擦れる音で五月蝿かった密林は死の静寂で満たされていたのだ。その沈黙を破ったのは骸に突き刺さった投げナイフに結えられた鈴が風に揺らされて鳴らす音だった。だがその風が吹き抜けた後には、残響だけを残してナイフは消え去っている。
《リターニング》の魔法効果を付与された投擲武器が、役目を果たして持ち主のもとへ戻ったのだ。シャーンでラピスの狙った獲物を狩り続けた魔性のナイフは、今やゼンドリックでも彼女の爪牙として数多の敵を屠っていた。
「ちょいと大盤振る舞いが過ぎたかな。どうやら見掛け倒しだったみたいだね。とはいえ狸寝入りしている奴がいるかも知れないし、きっちりドルラーに送っておいてやらないとね」
まるで散歩に出かけるような気軽さでラピスはそう言い放つと、先ほど彼女の放った攻撃で地に伏せている五体満足な犠牲者たちの方へと向かっていった。その手には先ほど死を振りまいたダガーが数本ジャグリングするように弄ばれている。
「出遅れたか。どうやら我らの出番は無かったようだな」
手綱を緩めながら地上付近まで降下しつつ、フィアは退屈そうに呟く。そんな彼女を横目に俺は馬から降りると、突然の出来事に呆然としているハーフリングへと話しかけた。
「ファルコー・レッドウィロー氏とその御一行でよろしかったかな? もし人違いであの連中と友好を深められていたというのなら大変申し訳ない。
とはいえこんなところに私たちが探している以外のハーフリングがいるとも思えないのですがね」
俺がそう言うと特に立派な──こんな僻地にしては、という注釈は付くが──身なりと体格をした男のハーフリングが我を取り戻したようで元気よく立ち上がるとこちらに話しかけてきた。
「見つけてくれてありがとう、ソヴェリン・ホストの神々に感謝を! 私は何てヘマをやらかしたんだと後悔していたところだよ。誰かに尻拭いを手伝ってもらうような事になってしまうとはね」
そう言って彼は弱々しく微笑んだ。
「君たちはジョラスコ氏族が寄越してくれた救援ってわけだ、そうだろう?」
おそらくは先ほど炸裂した《ファイアーボール》の媒介であろうワンドを腰のポケットに突っ込みながら、なんとか陽気さを取り戻したハーフリングはこちらにウインクして見せた。
「そういう事です。俺達は貴方のスポンサーであるジャンダル=ド・ジョラスコの依頼で手伝いに来た冒険者です」
数時間前、ジョラスコ氏族の居留地で俺に声を掛けた氏族の高官の依頼は密林で現地部族の襲撃を受け悲劇的な結末を迎えた遠征部隊の回収だったのだ。その中の最優先項目が目の前のハーフリング、考古学者ファルコー・レッドウィロー氏の救出である。
俺がそのことを伝えると生き残りの他のメンバー達の顔にも生気が戻ってきたようだ。その様子を満足に眺めながらも博士は俺に向かって続けて話しだした。
「ジャンダルは有能な女だ。少し私に惚れているみたいで、それが少しばかり彼女の目を眩ませているようだがね。正直にいうと、私は彼女のその感情を自分の利益のために利用したんだ。だが私は必ず成果を挙げてきた!
自分のためにでもあるが、ジョラスコ氏族のためにもなっただろう。もしお前さん方が協力してくれるなら今回の探索行だって失敗には終わらないだろうさ」
どうやらこのハーフリングは未だに遺跡の探索を諦めていないようだ。そして俺達の協力を取り付けようとしている。どうやら窮地を逃れたおかげか随分と口が滑らかになっているようで余計なことも口走っているようだが。あるいは自分の影響力を示す彼なりの話術かもしれない。
待ち伏せを受けて彼の探索チームはほぼ壊滅し、せっかく見付け出したお宝も敵に奪われてしまっていると報告を受けている。彼自身もそれなりに腕に覚えがあるようだが多勢に無勢という判断だろう。
だがどうやら長話を続けていられる状況ではないようだ。密林の影から姿を現したラピスが敵の増援が近付いていることを知らせてきた。
「それなりに装備の整ったトロルの兵隊が近づいてきてる。さっきの使い捨ての斥候よりかは歯ごたえがありそうだよ。
このまま放っておくともうしばらくで遭遇することになると思うけれど、どうする?」
どちらでも構わない、といった様子でラピスが告げたその言葉にもファルコーは顔色を変えた。窮地を脱したと思ったらさらなる敵が迫っていると聞かされたのだ、その気持ちは解らないでもない。
「どうやらここでは落ち着いて話も出来ないようだ。済まないがもう少し離れた安全な場所まで我々を連れていってもらえないだろうか。君たちの乗ってきた馬に便乗させてもらえないか?」
だが流石に経験を積んだ山師だ。混乱して取り乱すようなことはなく、手短にこちらに必要な要求を伝えてきた。
「いいだろう。俺とラピス、エレミアで近づいてくる連中を掃討する。メイはその分の《イセリアル・マウント》を彼らに回して、安全圏まで離れてくれ。彼らは小柄だから二人乗りでも問題ないはずだ。
フィアとルーも念のため同行を頼む。落ち着ける場所を確保できたら念話で連絡を入れてくれれば合流する。頼んだぞ」
地の利が相手にある状態で追いかけっこを続けるのは得策ではない。空を飛ぶ馬に乗っていけば足跡を追跡される恐れはないし、占術による探知を妨害すれば充分に時間は稼げるだろう。
相手に航空部隊が居た場合は厄介だが、メイの秘術の火力と幻馬の機動力に抗しうるクリーチャーはそう存在しない。例えそんな敵が現れたとしても時間を稼ぐことは十分に出来るはずだ。
あとは念のため後続の部隊を叩き潰して目撃情報を消してしまえばいい。見たところ先程の敵には呪文使いは居なかったようだし、秘術などで連絡を取られている危険性は少ないはずだ。
ラピスの先導に従って夜のジャングルを駆け抜ける。13の月を持つこのエベロンでは雲のない夜はかなりの明るさとはいえ、鬱蒼と茂る樹木が頭上を覆い始めると周囲は暗闇に包まれる。
俺達は全員が予め付与された秘術などにより暗闇をものともしないが、ゼンドリックの密林で生き残ってきた者は多くは同じ能力を有している。その中でもトロルは体格こそ巨人族の中では劣るものの、特に暗視能力に優れた種族だ。
だが秘術で強化された冒険者はその生来の知覚能力を優に凌駕する。敵を先に視界に捉えたのは俺達だった。トロルの成体の平均的な身長は2.7mといったところだがこの集団は全員が3メートルを超える巨体、さらにその体の要所を分厚い革製の防具で覆っている。そんな連中が9体ほど、隊列を組んで密林を進んでいる。
巨大な棍棒以外に背中には弓を背負っており、明らかに戦士としての訓練を積んだ動き。盾を持っていないのは生来の強力な武器である鋭い爪を活かすためだろう。そして鍛えあげられた耐久力は相当なものだろうと容易に想像はつく。
だが、それも所詮常識の範囲内のことだ。戦闘バランスの全く異なるMMO側の攻撃呪文であれば一掃することは容易い。だが強力な呪文は周辺の敵の目を引くし、占術という情報収集手段のあるこの世界では例え目撃者を残さないにしても、頻繁に特異な能力を出すのは上手いやり方ではない。
シャーンの地下のように占術的に遮蔽された地下空間などであれば構わないだろうが、こんな場所で全力で呪文を放っては誰に見られるか解ったものではない。特にオージルシークスの加護とやらで強力な存在の目を逸らせているらしい現在、無駄に危険を引き込む真似をする必要はないだろう。
ここは敵の土俵であっても白兵戦で片をつけるべきであり、またそのための人選である。俺がそのように思考を巡らせている間にも仲間たちは同じ考えで動いていた。白竜の鱗に秘められた護りの呪文を発動させ、エレミアが樹木の影を渡って移動を開始している。
樹木の陰を伝い、側面から足音を殺して忍び寄る。ヴァラナーのエルフは戦士としてその能力を高く評価されているが、その本質は狩人である。商人との契約、古代の宝物の探索、哲学的な議論、いかなる時でもヴァラナーのエルフは「狩人と獲物」という視点で状況を見ているのだ。
足音を殺しながらも魔法の具足の働きによりその移動速度は並の戦士よりもさらに素早い。鋭敏な嗅覚を誇るトロルの索敵を逃れるため、風下から距離を詰めていくその姿はまさに獲物を狙う狩人そのものだ。
だが隊の中央に位置する一際巨大なトロルが突如大声で号令を発した。
「新鮮な肉、エルフの匂いが近付いているぞ! このギーブルブロックス様の鼻を騙すことは出来ん!!」
巨人語でそう言い放ちながらも背負った弓を取り出し、言葉が消えるよりも早く矢を放った。どうやら並のトロルよりも遥かに鼻の効く奴がいたようだ。その巨体に合わせ、むしろ槍と言い換えたほうが良さそうな太い矢弾がエレミアの潜む密林に打ち込まれ、迎え撃った刃と激突して暗闇を一瞬火花で照らす。そして閃光を切り裂いて白鱗鎧に身を包んだエレミアが進み出た。
多くのトロルが奇襲に対応できず未だ立ちすくんでいる中、その隊列を切り裂くように白い戦装束が駆け抜ける。巨人族相手に研鑽された剣技は先ほどホブゴブリン達を相手にした時よりもさらに迅く鋭く、深く敵の体を切り裂いた。トロルが身構えたときには既にエレミアはその敵を切り裂いて次の獲物へと向かった後だ。唯一反応したギーブルブロックスとやらは弓を捨て、その長い腕のリーチを活かして爪で切り裂こうとしたが、エレミアはその直前でさらに加速し強行突破を図った。
包丁よりも大きく鋭い爪が五指すべてに連なり、腕の長さを含めて5メートルを超える高さから振り下ろされた凶悪な迎え撃ちはしかし彼女が後ろに結わえた髪の尾にすら触れることは出来ず地面を抉った。その返礼に振るわれた彼女の刃は対象的に敵の革鎧を貫くと腰を半ばまで切り裂きながら背中へと抜けていく。そしてそのまま勢いを止めずに残る敵にも斬撃を見舞ってエレミアは敵の反対側へと突き抜けた。一拍おいてからようやく傷を負ったトロルの怒りの咆哮が彼女を追うように放たれる。
四肢が切断されたとしても拾いあげて継ぎさえすれば即座に繋げてしまうほどの再生能力を有したトロルにとって、火と酸以外による傷などは死には至らないが不快な物という認識でしか無い。自分たちよりも遥かに小柄な存在にいいようにやられたことで怒りを爆発させ、武器を振り上げた巨人達がエレミアへと殺到した。
彼女自身よりも巨大な棍棒が唸りを上げ暴風のように振るわれたが、エレミアは右へ左へと舞うように動きまわりその全てを回避してみせる。ホワイトドラゴンの鱗から作られた鎧はエルフの中でも特に機敏な彼女の動きを全く妨げることなく鉄よりも固い防御を提供しており、その上に薄く展開された力場は反発力を備え迫る攻撃を寄せ付けない。さらに展開された秘術の盾は彼女の両腕が武器を握っていても自在に空中を浮遊し攻撃を受け流しているのだ。
挟撃どころか周囲を包囲され、そのリーチを活かして反撃を受けぬ間合いから一方的に攻撃されているにも関わらずエレミアはその顔に浮かべた笑みを消さない。死の舞踏を続ける彼女にとって、相手が開けた距離はむしろその旋舞を行うために用意されたステージとして機能するのだ。
エレミアは包囲網を築いた大勢のトロル、そのうち彼女の先程の攻撃で特に深く斬りつけられていた一体の攻撃を掻い潜り、滑るように接近すると再び双刃を煌めかせた。目の前の巨人にすら劣らない膂力で振るわれたその刃は先ほど彼女が与えた傷跡をなぞるように腰部へと吸い込まれ、その半ばまで切り裂いた。そして直後、さらに踏み込みながら対の刃がさらに同じ直線をさらに深く切り裂く。
いかに脅威として知られるトロルの再生力といえども、完全なものではない。深い傷を刻まれれば、表面上はすぐに元通りに見えても内面の傷が癒えるまでには時間を要する。エレミアの斬撃はその傷跡にさらに攻撃を重ねることで巨体の体を両断したのだ。そしてその勢いのまま刃の先端は薙ぎ払われるように隣に立つトロルへと振るわれる。
宿敵の肉を切り裂くことで祖霊の魂を宿したシミターが益々強い魔力を放ち、その切れ味の限界を試すかのごとく致命的な斬撃が次々と振るわれ瞬く間にトロルが斬り伏せられていく。
仲間が倒れていくその様に包囲に参加していた残るトロル達は体格と数で敵を押し潰す策を取った。組み付いてその動きを封じ、鋭い爪で切り裂こうというのだ。ダブル・シミターのような体格に比して大きい武器は全身の力を乗せて振るわなければその真価を発揮しない。筋力が互角だとしてもウェイトの差は圧倒的だ。一度抑えこまれてしまえば確かにエレミアに勝ち目はないだろう。
だがそう考え、掴みかかろうとしたトロルの背後へと忍び寄る影があった。エレミアにのみ注意を払っていたその巨体の背中から、首筋へと短剣が突き刺さる。深く頚骨まで傷つけたその一撃も神経を引き裂きトロルの行動を阻害したが、さらにその刃から染み出すように出現した強酸がトロルの首から上を焼いた。ラピスの仕業だ。
酸は短剣に込められた《アシッド・アロー》の呪文だ。それは神経網を伝うように広がり、脳に達してさらに顔中の穴から溢れ出した。再生不能な酸による攻撃で中枢を破壊されたトロルはぐらりとその巨体を揺るがせて地に伏せる。もはや半数を割った生き残りは新たな敵の姿を探そうとするがその視界には何も映らず、鋭敏な嗅覚は不快な酸の匂いを伝えるばかりだ。
此処に至って彼らは自分たちが誘い出されたことを理解する。剣の踊り手を包囲したつもりが、その実は双刃と不可視の敵に挟み込まれていたのだ。正面には死の舞踏を踊る刃が煌き、死角からは弱点である酸を生む短剣が投擲される。巨兵達が全て倒れ伏すまでにはそれから数十秒も必要としなかったのは当然の事であろう。
無論その間も俺は遊んでいたわけではない。一際目立つ巨体のトロルの目の前に立ちふさがり、その相手をしていたのだ。
「このちびどもめ! バラバラに引きちぎってから食ってやるぞ!」
ギーブルブロックスはそう言って彼らの神の名を叫び、武器を振り上げ襲いかかってきた。奴の棍棒は所々に鉄杭が突き刺さっており凶悪な様相だ。巨大な棍棒のサイズからしてみれば無視してしまいそうなものではあるが実際には大人の指ほどの長さが突出しており、見切りを誤って鉄杭に引っかかれでもしたら骨まで引き裂かれてしまうだろう。
また大質量の物体が高速で振り回されるため、攻撃を回避するたびにまるで大型トラックが真横を通りすぎて行ったような風が巻き起こり体が吸い込まれそうになる。だが、それだけだ。確かに剛力に裏打ちされた攻撃は力強いが単調で、丸一日振り回されたとしても当たる気はしない。膂力と技巧を重ねるように鍛え上げていたゼアドに比べれば児戯に等しい。
ちらりと横目でみてエレミア達の戦闘が片付きそうなのを確認し、俺も早々に終わらせることにする。相手が振り下ろした棍棒の叩きつけを鋭く踏み込むことで回避し、相手の腕と武器の影に潜んだまま"ソード・オヴ・シャドウ"を取り出す。相手が一瞬俺の姿を見失ったその隙に横殴りにグレートソードを振るった。
古木のような分厚い外皮がアダマンティンの黒い刃によってまるで手応えもなく切り裂かれ、人間の大人の胴体よりも分厚い太腿部が両方共切断されてトロルの大将は崩れ落ちた。斬撃の勢いをさらに加速させ全身で駒のように回転した俺が再び正面を向いたときには、先程までは身長差で遥か上方に位置していたトロルの首が真正面に現れている。
「残念、バラバラになるのはお前の方だったようだな」
俺が巨人語で紡いだその言葉を追うように続く攻撃を放つ。2回転目の刃は勿論手頃な位置に降りてきたトロルの首の付け根へと吸い込まれ、先程よりもさらに容易く切断。巨大な頭部がゴロリと地面に転がる。だが緑の巨兵はそれでも死んでいない。首だけになったトロルは地面をその頬と口の動きだけで這いまわると胴体目がけて近寄ろうとしている。
俺はバランスボール大のその頭部を蹴り転がし、胴体から隔離すると武器を持ち変えた。抜き放った曲刀の先端からは緑色の酸が滴り、地面に落下すると嫌な音を立てる。それを見たトロルの顔が恐怖に歪むがこいつらにかけてやる慈悲など持ち合わせてはいない。
「口はまだ利けるだろう? せいぜいお前の神に祈るんだな」
死の宣告の後、額を断つように振るわれた斬撃はその断面に沿って爆発するような勢いで酸を発生させ、あっという間に頭部全体を覆うとその全てを溶かし尽くした。
残された胴体や両足はしばらくピクピクと反射的な動きを見せていたが、断面から欠損部位を生やしてくるようなことはなくやがてその動きを止めた。ドラウの二刀レンジャーが主役の小説では肉片からでもプラナリアのように再生する描写があったような気がするが、この世界のトロルはそこまでの再生能力持ちではないようで少し安心する。
胴体などの遺骸も同様に酸で処理を行うが、その際に腰に結えられていた袋を取り外し中に納められていた宝飾品の類を回収する。悪臭で有名なトロルに持ち運ばれていたせいか匂いが移っていたが、《プレスティディジテイション/奇術》で清潔にしてやると随分とマシになったため他のものとは別の袋に放りこんで隔離しておく。
「トーリ、楽してたんだからこっちの連中の後始末もやっておいてよ。これ以上蓄えた呪文を使うのも勿体無いしね」
悪臭に耐えかねたのか、ラピスはハンカチで鼻を押さえながら転がった巨体の残骸から距離を置きながらそう声を掛けてきた。確かに彼女とエレミアが8匹を相手にしている間、俺は隊長級一匹を倒しただけだ。遭遇脅威度としては似たようなものかもしれないが、楽であったことは確かであるし彼女の言うとおり後始末をして回る。
胴体から横一文字に切り裂かれたトロルの肉片を緑鉄製の武器で切り裂きながら、その断面を観察する。巨人族を宿敵としたエレミアの剣技が、巨人殺しの武器と相まってとんでもない威力を出しているのがそこから判る。対巨人の物理攻撃力に限ればその攻撃力は俺を容易に上回るだろう。
「どうやらこいつらも単なる脳筋で他の連中と連絡を取れそうな道具も持ってないね。逃げた先で敵に出くわしてなけりゃこれでしばらくは時間が稼げそうだ」
遺骸が酸で溶けた後に残る所持品をざっと一瞥してラピスが呟く。普段は裸眼のその顔に眼鏡を装着したその様は中々に新鮮だ。おそらくはレンズを通して《ディテクト・マジック/魔法の感知》の効果が発現しているのだろう。だがその視界に反応する魔力光が映っていないだろうことは予想できる。
大抵の戦士が一番優先するであろう武器がただの棍棒だったのだ。確かゲームではあのボスが魔法のクロークか何かをドロップするはずだが今は見当たらない。財産があるにしてもおそらく巣穴に置いてあるのだろう。そして護衛という仕事の都合上この連中の巣穴を探して回る事もできないし、態々こんな山奥にあるかもわからないお宝を探しに戻ってくることもない。つまりこの戦闘では稼げたのはラピスの言ったとおり時間だけというわけだ。
「どうやら収穫はトーリがさっき剥いでた宝石だけみたいだね。これだから蛮族共の相手は嫌なんだよ、術者が混じってれば少しは稼ぎになるだろうに」
つまらなさそうに吐き捨ててラピスは眼鏡を外すとベストのポケットへと仕舞い込んだ。
「目敏いなあ、でも多分こいつは稼ぎにはならないぜ。見たところ略奪品だろうしおそらくはあの教授御一行の誰かの荷物だろうさ」
腰のベルトにひっかけていた袋を彼女に放るとラピスは中の装飾品を睨みつけた。宝石がはめ込まれた銀の台座を裏返すと、そこには巨人語ではなくコーヴェア大陸の共通語──日本語で人名が刻まれている。流石にそれを見なかったことには出来ないだろう。
「ふむ、大した装備をしていないということはこの連中も敵の本体ではないということか。位置取りの都合上私が有象無象を引きつけることになったが、役回りを変えてもらうべきだったな。
トーリの相手をしていた大柄なトロル一匹のほうがまだ歯応えがあったかもしれん」
傷一つなく8体のトロルを切り伏せたエレミアが不満を口にしているが、正直なところ彼女の連撃に耐えられるような巨人族は殆どいないのではないだろうか。毎秒以上の速度で繰り出される斬撃を三太刀も浴びれば先程のトロルのように切り刻まれて死ぬはずだ。
この熱帯地域で暮らす巨人族は基本的に金属製の鎧を身につけていないことが多いのも原因の一つだろう。鈍重な巨人は分厚い外皮で身を守っているが、エレミアほどの実力があればそんな連中は巻藁に等しい。そのため威力重視の連撃を容赦なく浴びせることができるのだ。
「ま、次があったら大物は譲るよ。とりあえずは合流だな」
ちょうどいいタイミングでメイからの念話が届く。先ほど別れた位置からの座標を確認した俺は、《ディメンジョン・ドア/次元扉》の呪文で跳躍すべくエレミアとラピスの二人をそっと抱き寄せた。
ふわりとした柔らかさが伝わると同時に呪文が発動し体がアストラル界へと溶け込む。そして瞬きにも満たぬ間の後に再び物質界へと帰還すると目の前の景色はすっかり変化している。呪文による瞬間移動だ。とはいってもすぐには合流地点まで届かない。
この呪文は《テレポート》と異なり、転移先に対する見識がなくとも安全な瞬間移動が可能だがその分転移距離が短い。今の俺であれば一回の呪文行使につき200メートルといったところか。
転移先に樹木などがあっては目も当てられないので障害物に重なる恐れのない空中を座標として指定しながら念話のナビゲーションに従って転移を重ねること十数回、ようやく俺達はメイの姿を木立の中に見つけた。
「みんなおかえりなさい。こっちですよ~」
《テレパシック・ボンド/テレパシー結合》の呪文で俺をナビしていたメイが手を降っているところへ、緩やかな速度で降下していく。《フェザー・フォール/軟着陸》の呪文と同じ効果を持つ装備のおかげで落下速度は毎秒3メートルほどの緩やかなものになっており、足を痛めるどころか音さえ立てずに着地することが可能だ。
メイの背後、5メートルほど離れたところ、密林の樹木の密度が下がった区画に景色に溶け込むようにしてコテージが存在していた。勿論これはメイが《ヒドゥン・ロッジ/隠し小屋》の呪文で創造した仮初めのものである。その名前に相応しくこの小屋は周囲の風景に溶け込むように偽装しており、さらには内部の音や灯りが外に漏れないようになっている。
しかもこの小屋の頑丈さは折り紙付きな上、隠密性もあって今の俺達が一時を過ごすには最適な選択だろう。そのうえ小屋の周囲の区画は占術による探知を防ぐ《プライヴェイト・サンクタム/秘密の部屋》の呪文により護られている。どうやらメイは充分な仕事をしてくれたようだ。
「それじゃ中に入りましょうか、皆待っていますよ」
メイの呟いた秘術の合言葉により入り口に仕掛けられていた《アーケイン・ロック》が解除され、主の帰還を察した《アンシーン・サーヴァント》が扉を開いて出迎える。
扉を開いた先は壁際に寝台が立ち並び、中央に架台式テーブルが配置された簡素な部屋になっている。その中の椅子の一つにはハーフリングが腰掛けておりこちらのほうを見ている。先ほどのファルコー博士に間違いない。他のメンバーは疲労困憊だったようで、既にベッドで休息をとっているようだ。
「無事に戻ってくれたようで何よりだ、親愛なる冒険者諸君。おかげさまで久しぶりに屋根の下で快適な夢を見られそうだが、その前に話しあっておくことがあるんだ。
すまないが暫くこのハーフリングに付き合って欲しい」
そう言って彼は腰のスキットルを抜いて口をつける。だがすぐに残念そうな顔でそれをしまい込んだ。おそらくはもう中身が無かったのだろう。俺が自分の腰に下げていた水筒を放ると表情を一変させて受け取り、蓋を外して一気に飲み始めた。
「ああ、懐かしい街の味と香りだ。もはや戻らぬ私の助手達がドルラーに向かう前に、オラドラの慈悲が彼らを包んでくださいますように!」
死んでしまった仲間へ捧げたのだろう。彼は神へ祈りを呟くと一息で酒を飲み干して深く息を吐いた。まるでその吐息に乗って死者の魂まで街の香りを届けようとしているかのようだ。
そうして俯いた顔をあげたハーフリングの表情には強い意思の力が感じられた。
「それではビジネスの話をしよう。君たちがジャンダルからどの程度の話を聞いているのかは知らないが、おそらくは私を連れ戻すように言われているのだろう。であるならばストームリーチに向かう前にやってもらうことがある」
そう前置きをして彼は話しだした。さあ、これがクエスト"レッドウィロー・ルーイン"の始まりだ。俺はファルコーの要望を耳にし、知識と現実のすり合わせを始めるのだった。