少し時を、遡る。
「……………」
正当だと感じる、理由はある。
いくら毒を受けたとはいえ、君主がむざむざ倒れるような事はあってはならない。
桃香殿が上手くやってくれたとはいえ、一つ間違えれば混乱した軍が壊滅的な被害を受ける可能性もあった。
それを………
『ほらっ、全然平気! 色々とありがとう』
「……………」
へらへらと笑う一刀の顔を思い出して、またムカッ腹が立つ。本人は心配させまいとしたつもりだったのだろうが、もう少し………
「(いや、それはまだいい……)」
もう皆から散々叱咤されているようだし、自分でも少ししつこいと思わないでもない。
大体、話も聞かずに子供のように無視し続けるなど、少し大人気な……
「「あ…………」」
などと考えていたら、廊下の角で、考えを巡らせていた人物……一刀とばったりと鉢合わせて……
「お、おはよう。せ……」
ほとんど反射的に、ぎこちなく挨拶しようとした一刀の横を、顔を背けて早足で“逃げてしまった”。
「(ああ、もうっ!)」
またやってしまった。
単に一刀の愚行を諫めるだけなら、一喝怒鳴り付けた後、ネチネチと一晩説教して、その後いつも通りに振る舞えばいい。
常の私なら絶対そうしているはずだし、今だって頭ではそうするのが一番だとわかっている。
それが国のためにも、私の精神衛生上の問題的にも一番だと、わかっているのに………
『毒血を抜くのはなるべく早い方がいい。北郷殿が目覚めるのを待たずに、このまま昏睡状態になってもらおうと思うんだけど……』
『むっ、そういう事ならば致し方あるまい。儂がこの可憐な唇で……』
『卑弥呼ぉ。いくら貴方でも、ご主人様への抜け駆けは許せないわよん』
『何を言う。うぬこそ我がだぁりんに色目を使っていたではないか』
『ご主人様は卑弥呼の顔も知らないのよん。いくらご主人様がイイ男だからって、漢女がそんな事していいの?』
『ふっ、面白い。貴様が儂に漢女道を説くか。ならば、互いを語るに言葉は必要あるまい』
『悲しいけれど仕方ないのね。これも一重に、愛のため!』
『全ては愛しいオノコのために!』
『貴様ら待てーーーーい!!』
「……………あぁ」
あの状況では、仕方ない事だった。武人の情けというやつだ。
実際、“そういう事”とは何の関係もない、極めて真剣な問題であり、意識する事自体がおかしいのだが……
「あぁ〜〜〜っ!!」
実際に相対すると、どうしても顔が見られない。そのくせ目の焦点は不自然にやつの唇に合ってしまうから始末が悪い。
「(どうしよう………)」
このままでは、説教どころか顔を合わす事すら出来な……
「……………」
「……………」
突然の出来事に、私は石のように固まる。
「どしたんですか、星ちゃん?」
「ふぇえっ!?」
風が、目の前で私を見上げていた。
「い、いつからそこにいた!?」
「星ちゃんが悩ましげにため息をついてたあたりから、ですかねー?」
こんな廊下の真ん中で、どうやって私に気付かれずに!?
「風はこう見えて一流……というより、星ちゃんがぼーっとしすぎなのです」
「……大きなお世話だ」
物凄く見られたくない所を見つかった気恥ずかしさで、さっさと風に背を向ける。
どちらかと言えば私も人で遊ぶ性格だと自覚しているが、風には敵わない。その風にこんな状態で捕まるわけには……
「すとっぷ」
「あうっ……!」
立ち去ろうと歩きだす寸前で、私の首が、カクッと後ろに強制的に傾けられる。
風が、私の後頭の部分長髪をしっかり掴んで引っ張ったのだ。地味に痛い。
「星ちゃんは、少し耐性が足りないと風は思うのですよ」
「………耐性?」
そこはかとなく嫌な予感を感じながらも、私は部分長髪を引っ張られて風に連れられて行く。
後日。
「……風、あなた私の部屋に入った?」
「まさかー。風が稟ちゃん秘蔵のブツを漁ったとでも言うのですかー」
「………入ったのね?」
「何となく、面白い事になりそうだったのでー」
「風ぅぅ………!!」
「おや、何やら身の危険が……これにて失礼するですよー♪」
「待てーーー!!」
「……………」
風に連れられて訪れたのは稟の部屋で、何故か途中で出会った雛里も引っ張り込まれた。
そして、寝台の下から風が持ち出したのは、稟秘蔵の艶本。
そこで私は、風の言っていた“耐性”の意味を理解し、「私は恋愛の達人だ」とか、「一晩に五十人を相手にした事もある」とか言って抗弁した。
………嘘だが。
「(女は、秘密を纏って美しく魅せるもの)」
だから、少し見栄を張るくらいは許されるだろう。……それより、風があんな物を持ち出したという事実の方が問題だ。
要するに、この不名誉な心理状態を見抜かれてしまっている。少なくとも感付かれているという事だ。
「(いや、それもこの際どうでもいい)」
それより何より一番問題なのは、結局皆して見る事になった艶本を見て………
『………にが』
『天地神明に誓って。何なら命だって賭けていい』
『そう。なら、俺を信じて』
『は……ならば、私にも教えてくだされ。主達の言う、抱く、という事を』
私の脳裏をよぎった、情景だ。
(かぁああああ)
あんな、鮮明に……。実は私は、鼻血が出ないだけで、稟より遥かに強い妄想癖があるのではないだろうか。
認めたくない可能性が頭にこびりつく。話し方も何か不自然だった、妙な性癖もあるのかも、とそこまで考えて、またうなだれる。
自分に振り回されるなど、未熟者のする事だ。
「……………」
そうして今日一日悶々としていた私は今、城内の庭園。建物の外回りを一人で歩いている。一つの目的を持って。
夜空には月が浮かび、また熱くなっていた顔に、冷たい夜風が気持ちいい。
「さすがに、もう寝ているか」
結局風の提案で耐性などつかなかった……どころか、悪化した。これでは、時間が解決してくれるのにどれだけ時間がかかるかわかったものじゃない。
結論として私が出した解は……
「(寝顔を見て、慣れる)」
というものだ。一刀さえ寝ていれば、私が少々取り乱したところで逃げる必要もないし、ジッと見ていて文句を言われる事も無い。
「(そー……っと)」
一刀の私室から明かりが消えているのを確認して、窓を静かに開ける。
「(鍵も閉めていない。私が暗殺者だったなら、確実に命を取られている所だ)」
閉まっていて困るのは自分なのに、私は理不尽にそう憤った。
静かに窓枠から降り立って、すぐに異変に気付く。
「(……いない)」
月明かりが差し込んでいなくてもすぐにわかった。人の気配が無い。就寝で明かりが消えていたのではなく、誰もいないから明かりがつけられていなかっただけらしい。
「(こんな時間に、どこへ……?)」
ここに来る途中に執務室の窓も見たが、明かりは消えていた。勝手に仕事に復帰して、それが長引いているわけでもない。
「全く、あやつはいつもいつも………」
怪我人があちこちうろちょろと。人の気も知らないで好き勝手に。
「はあ……っ!」
何だか、あんな男の事で右往左往している自分が馬鹿馬鹿しくなって、下駄をすっぽ抜かせて寝台にドサッと仰向けに横たわる。
「(本当に、何をやっているのだ。私は……)」
何とも言えない空虚な気持ちに、ごろんと寝返りをうつ。
そこで、僅かに、何かが、鼻腔をくすぐった。
「あ………」
そこまでやって、ようやく私は、今さらのように一つの事実を思い出した。
ここは一刀の部屋で、“一刀はこの寝台で毎日寝起きしている”。
(ボンッ!)
「あぅ………」
気付き、慌てて、顔に血が逆流して、それでも私は起き上がらなかった。
「……………」
誰も見ていない、というのが、この場合よくなかったのだろう。
私は布団を握りしめて、目を閉じる。まるで“他の感覚”に集中するかのように。
「……………」
いつしか私は、ここがどこで、いずれ一人の男が戻ってくるという事も忘れ………その意識を心地良い安らぎの中に手放していた。
「……い」
……むぅ?
「星」
頬を、ぴしぴしと何かが叩く。それが手の甲である事に気付くのに、大した時間はかからなかった。
「まだ……寝るぅ……」
自分のふにゃけた声が耳に届いて、そこで私は、何か大切な事実を思い出す。それは、“現状”。
「ッ!?」
弾かれたように目を開くと、そこには寝台に腰掛けて私の頬に触れる……一刀。
「わーーーーッ!!」
「ぶわっ!?」
思わず、何故か抱き締めていた枕をその顔に投げつける。
「(えっと、私は……一刀の部屋に忍び込んで、留守で、それから……)」
高速で意識を失う前の事を思い出す。いや、私が高速なつもりなだけだったのかも知れない。
一刀が、黙って私が投げた枕を持って待っていたから。
「……心配、かけたね」
一刀の指が、そっと私の目尻の涙を拭く。…………涙!?
よく見れば、一刀の挙動や雰囲気がいつもと違う。
最近戸惑っていた理由など忘れてしまうほどの大混乱が、私の頭で暴れ回る。
「星……」
まだまとまらない頭で茫然とする私に、一刀は優しく微笑みかけて、頬にぴとっと掌を当てる。
「ッ〜〜〜〜〜〜!?」
ギュルッ! と音がするかと思うほどの勢いで、私は一刀に背を向けて座る。
最近気まずかった一刀、この部屋で寝てしまった私、そして、起きたら何故か雰囲気が優しい一刀。これは、つまり………
「……………私は、寝言で、何か言っていたのか?」
夢を見たかどうかさえ全く憶えていないが、私が寝ている間に何かあったとしか考えられない。
その私の推測に対する一刀の答えは………
「ああ、うん。ちょっと………」
正解。
「ッーーー!」
寝言など、当たり前だが全く憶えていない。しかし、今の一刀の態度にとてつもなく嫌な予感を覚えた私は、背を向けた姿勢のまま、一気に窓へ………
「ちょっ、星! 待てってば!!」
「放せ! その手をどけろ!!」
向かおうとした時、後ろから一刀が両肩を掴んで引き止める。
いつもなら一刀程度の力で止められる私ではないが、寝台に腰掛け、脚力が使えない状態で後ろから両肩を引っ張られるというこんな体勢では少し厳しかった。
逃げる私と止める一刀。ふと強く引かれて、私の上体が寝台に沈み……
「「あ…………」」
いつの間にか、私の上に一刀が覆いかぶさるような体勢になっていた。
「「……………」」
何とも言えない、気まずい沈黙が場を支配する。ここに到って、私は最近悩み続けていた事を思い出す。いや、正確には反芻するように幻視した。
「ごめん……」と言って一刀が離れ、「……忘れろ」と言って私が立ち去り、明日から今まで以上に気まずくなる。そんな未来を。
「………星」
しかし、そうはならなかった。ドキッとするほど真剣な呟きが、私の耳に届く。
一刀の顔が、近づいてくる。私は、目を逸らせない。
いつかのように、殴り飛ばしてやればいい。それでこの狼藉を止められる。なのに私は、腕を動かすどころか、瞬きさえ出来なかった。
近づいてくる、唇。今度は明確な意味を持ったそれを……
「ん………」
私は、拒まなかった。……否、受け入れた。