霊帝の死を境に、諸侯の動きは慌ただしくなる。
『誰が幼い新帝を支え、代わりに国を支えるか』に、野望の矛先は集中する。
ある意味当然な成り行きとして、その任は王都・洛陽を治めていた董卓のものになるかと思われた矢先……一つの噂が流れる。
洛陽に逗留していた天の御遣いは、餓虎の野望を秘めた地獄よりの使者であり、董卓を都から追放し、天子を抱き込み、己が欲望のために民に圧政を強いる暴君と化している……と。
この噂が河北に届くや否や、一つの檄文が各地で割拠する諸侯へと飛んだ。
檄文の出所は、河北の雄、袁紹。その内容は、暴君から帝と民を救うための……反・北郷連合。
「『……と、いうわけだ』だそうです」
平原。
先の黄巾の乱での功績を認められ、その地の相に任命された劉備の許にも、この檄文は届く。
「う、そ……」
その軍師たる諸葛孔明……朱里の読み上げる檄文の内容に、主君たる劉備……桃香は信じられないように呟きを漏らす。
以前から、噂自体は平原にも届いてはいた。だが、当の北郷一刀を知る桃香はそれをただの噂だと判断し、真に受けはしなかった。
だが、それが『反・北郷連合』という、確かな現実として目の前にある。
「『桃香たちは、私よりも北郷の人となりを知っていると思う。私も正直、どうすればいいのか迷っている。お前たちの考えを聞かせて欲しい』……白蓮さんも、噂の真偽を掴みかねているようです」
読み上げているのは檄文のみではない。かつて桃香と共に私塾で学んでいた、今は立派な太守である公孫賛からの書簡もだ。
読み上げる朱里の顔に浮かぶのは、困惑。
それは、陣営に在る誰しもが、今、少なからず抱く感情。
「こんなの嘘っぱちなのだ! お兄ちゃんが都の人たちをいじめてるわけないもん!」
真っ先に否定したのは張飛、真名は鈴々。小さな体を目一杯に怒らせる。
「だが鈴々、もしこの手紙の内容が真実ならば、今も洛陽の民は圧政に苦しんでいるんだぞ?」
「だから嘘っぱちだって言ってるのだ!」
困惑の表情のままに言う関羽……愛紗の言葉を、鈴々が間髪入れずに否定する。
「……『北郷一刀は悪者だ。だから倒そう』、そういう単純な檄文ですが……実際は、朝廷を手中に収めた者への諸侯の嫉妬が原因の、権力闘争だと思われます。ただ……」
「……ただ、なに?」
いつになく口数の少ない桃香が、朱里の説明の続きを促す。
「本来洛陽を治めているはずの董卓さんが、都から追い出されているという現状は……北郷さんが作り上げたものである可能性は、否定出来ません」
軍師である朱里は、軍議の場で私情を挟んだ発言をしない。あくまでも今ある情報から推測出来る事を述べる。
そしてそれが……北郷一刀に私情を抱く人間には、辛い。
「確かに、民を苦しめるような人物ではない。だが、その内に野望を秘めているような節があった事も、確かです」
朱里の言葉に、愛紗が付け足す。ただ、この言葉には私情が少なからず含まれてもいた。
「愛紗はお兄ちゃんの事が嫌いだから……」
「鈴々は黙っていろ! 私がそんな理由で参戦を薦めているとでも言うつもりか!」
「ほら否定しなかった! お兄ちゃん嫌いの愛紗が何言っても説得力なんかないのだ!」
「それはお前の事だろう! 何がなんでも北郷殿の肩を持つような者の言葉など……」
「二人とも、落ち着いて」
苛立ちが表面化するような愛紗と鈴々の言い争いを、桃香の小さな、しかし強い呟きが制する。
それを好機と見たか、軍師の進言が再開される。
「とにかく、今はっきりしているのは……今は北郷さんが洛陽を治めている事。そして、わたし達の参戦如何に関わらず、反・北郷連合は組まれるという事です」
ある意味、単純な結論。結局、彼女たちは真実を判断するだけの情報を持っていないのだ。
要点は二つ、北郷一刀を信じるか否か。そして、それを決めた上で、連合に参加するかどうかだ。
理屈を並べても、全てが空論。“決めるだけ”、そんな空気が場を支配する。
「…………」
やや長い沈黙を経て、
「どっちでも、関係ないよ」
桃香が口を開く。君主として。
「……連合には、参加する。真実を見極めるためにも、そして、“その上で選ぶためにも”。どっちにしても連合は組まれるんだもん、ただ何もしないで見てるなんて、わたしは嫌だよ」
朱里の言葉とはまるで違う。私情に満ちた決定、だが……それこそが彼女の、人を惹き付ける力。
その姿に、心に惹かれて、皆ついてきた。だからこの言葉にも、皆、首を縦に振る。
「……朱里ちゃん」
「……はい」
軍の準備をするために玉座の間を去る一同の最後尾、桃香が朱里に小さく声を掛けた。
「一刀さんの顔って、あんまり知られてないはずだよね?」
「……あ、はい。天の御遣いとしての風評自体は広まっていても、顔や姿を知っている人は少ないはずです」
「ん……そっか♪」
満足そうに頷いて、桃香は軽い足取りで跳ねる。その後ろ姿を見送る朱里は、今の質問、否、確認の意味を理解して……不安に駆られる。
北郷一刀を信じている。それを前提にした上での確認だった。
「(どっちにしても連合は組まれて、洛陽に攻め入る)」
笑顔の奥に秘めた強さを、皆が理解している。
「(わたし達が連合に敵対したって、止められるとも思えない)」
今、その強さが誰を想ってのものなのかも、わかっている。
「(だから、貴方が権力闘争に巻き込まれただけなら、洛陽にはわたし達が一番最初に乗り込む)」
だからこその、不安。
「(それが……貴方を救うために、わたし達に出来る事だと思うから)」
そんな不安を、桃香に向ける。……それは不安から逃れるためだったのかも知れない。
「桃香さま」
背を向け、表情を隠したまま、愛紗は言葉を投げ掛ける。
「情に捕らわれ、義を忘れるわけにはいかない。そうですよね?」
「うん、大丈夫」
「……なら、私に言う事はありません」
そして、そのまままた歩きだす。
その背を、今度は桃香が見送りながら、思う。
「(やっぱり、バレちゃってるか)」
自分が、北郷一刀を信じるという前提の下、決断した事。連合の内側から、何とかしようと考えている事。やはりバレている。
「(結局、余計に怒らせちゃったかも……)」
同時に、もう一つ思う。
『関羽も、鈴々も、孔明も、皆優秀な将や軍師だ。強くて、優しくて、明るい。……でも、脆くて、臆病な所もある、普通の女の子でもあるんだ』
想い人に、別れ際に告げられた言葉。
「(本当、そうだよね)」
『皆の事、頼んだよ。桃香』
「(わたしがしっかり、しなくちゃね)」
所変わって、陳留。
「……相変わらずね、麗羽も」
小柄な少女が金髪を払って、つまらなそうに檄文を放り捨てる。名を曹操、真名は華琳。
「華琳さま、洛陽からの密偵も戻ってきました」
「あら、それは丁度良いわね。……それで?」
「到って平穏。むしろ栄えていると言ってもいいそうです。都の住人は口々に『地獄よりの使者』の噂に対して、憤激を口にするとか」
「……やっぱり、ね」
その場には、曹操陣営の軍師や武将も揃っている。
夏侯淵……秋蘭の報告に、華琳はつまらなそうにため息をつく。
「音々音」
「はいなのです!」
呼ばれ、一人の小さな少女が両手を挙げて応える。その傍らで、もう一人の軍師が苦々しげに舌打ちをした。
「都から姿を消した董卓とやらについて、元々何進の配下だったあなたは、何か知ってる?」
「う〜〜ん、ねねもそれほど深い関わりがあったわけではないのですが……董卓自身は何進に気に入られていただけの、気の弱い少女。そして、傍らに常にそれなりに使える、賈駆という軍師が一人いた。そのくらいの事しかわかりません」
「そう……なら、その賈駆という軍師の仕業かも知れないわね」
少女の名は陳宮。黄巾の乱終結時に、都を訪れた華琳の器を見定め、元の主を見限ってついてきた元・何進軍の軍師である。
「……しかし、この事態を予期して北郷一刀に全てを押しつけたとして、それは全てを捨てた事になるのでは?」
「あら、猪のくせにいい所に気が付いたじゃない」
「誰が猪だと!? この変態軍師!」
「あんたよあんた。せっかく褒めてあげたのに変態とは何よ! 豚みたいに鼻を鳴らして素直に喜べばいいじゃない」
「あんな言われ方で喜べるか! わたしを馬鹿にするのもいい加減に……」
というやり取りを脇に置いて、話は続く。
「それで、どうされますか?」
「どうもこうもないわ。この連合の発端になど興味は無い。私の覇道のために利するものがあるのなら、迷う理由などないでしょう?」
「では……」
「ええ、参戦するわよ。皆、準備なさい。春蘭と桂花も、いい加減おやめなさい」
「「…………はい」」
秋蘭の問いに自軍の決定を告げ、二人の喧嘩を諫める。
規模が大きく、複雑な話について行けず、口を挟めなかった将たちも、その決定を受けて、それぞれ動きだす。
しかし、その中で秋蘭、そして荀イク……桂花は、華琳の少しおかしな様子に気付いていた。ゆえに、その場に留まる。
これは覇道への足掛かり、それにしてはつまらなそうに見えたからだ。
「……何か、ご不満ですか」
「大した事じゃないわ。連合という形で戦う事になった事と……」
それが北郷一刀個人を指していると、秋蘭と桂花は即座に気付く。
以前にも言っていた、“一時の戯れ”が潰れた事だと。
「連合を組んで捕らえても、“暴君”では処刑せざるを得ない事が少し残念だっただけ。“あれ”、少し欲しかったのだけれど」
続く言葉で、絶望を顔に表す桂花。大扉の向こうで派手な転倒のような音もした。
「大した事じゃないと言ったでしょう。いいから、あなた達も行きなさい」
「か、華琳さま、お気を確かに! あんな汚くて下品で浅慮で不細工な生きもっ!? ん〜! んん〜〜〜!?」
「わかりました。余計な事を訊き、申し訳ありません」
退室を促されてなお食い下がる桂花の口を押さえ、秋蘭は一礼して扉へと向かう。もちろん桂花はひっ捕まえたままで。
扉の向こうで荒れているだろう姉を宥めるのも彼女の役目となるだろう事を確信して、華琳は少し苦笑する。
華琳は、誰もいなくなった空間で、今度こそ隠さずにつまらない顔をする。
「だから言ったのよ。……バカな男」
本当に、つまらなそうに。
(あとがき)
数日ぶりの更新です。
今回は劉備陣営と曹操陣営しか書けませんでしたが、次からはまた一刀サイドで始めます。
ちょっと今回は描写不足な感があったようなので、例のセリフの出番を繰り上げつつ微修正しました(八時半くらいに)。