「…………」
意識が沈んでいく。まるで深い水の底に引きずり込まれていくように。
いや、それは比喩ではない。実際水に沈んでいるのだから。
無様な。武人として育てられ、武人として生き、それこそが我が誇り。そんな私が、溺死て。
情けなくて涙が出てくる。まだ一度も恋に勝ててもいないというのに。
朦朧とした意識の中で、私は……深く沈んでいく体が、何かに支えられるのを感じていた。
「…………」
沈んでいた意識が、ゆっくりと浮上する。何かが叫んでいる。誰かが呼んでいる。
……苦しい、苦しい。
何かが、私の口を塞ぐ。そして、何かを私の中に吹き込んでくる。
私には、それが命そのもののように感じられた。
「……ッ! げほっ! がはっ!」
吹き込まれ、かき回された違和感の後、私は何かを吐き出した。
その衝撃に、急速に意識が覚醒する。
「…………」
うっすらと目を開く。目の前には、顔……北郷か。顔が近いぞ。
「私は、溺れ、て……」
ぼんやり呟いて、ようやく溺れた事を思い出した。
すると……
「よかった……。ホンットよかったぁ……!」
北郷は私の上から退くどころか、その姿勢のまま脱力した。……泣いて、いる?
「……泣いて、いるのか?」
思ったままの言葉を口にする。返事はない。
「…………」
私が助かって、嬉しいのか。よく考えたら、私を助けたのも北郷に違いない。他にいないし。
「………はぅ」
私は、どうしたというのだろうか?
鼓動が早い、息が詰まるほどに。力が入らない、熱病にでも侵されたように。北郷の背中に、輝く虹輪が見える。泣き顔が、可愛い。
……考えられん事。今まで武人として力を磨き、それだけを誇りに生きてきた。
私は女である前に武人、我が恋人は愛用の武器・『金剛爆斧』。そう思っていた。
今までの人生で、そういう事を全く考えなかったわけではない。私よりも強い男……などとぼんやりと思っていた気がする。
北郷は、私よりもずっと弱い。
だが、よく考えたら……私が、自分より強い相手を認めるだろうか? そんな相手と寄り添う。そんな敗者に成り下がるのだろうか?
いかん、どんどん考えが肯定的に……ん? 待て、北郷が私を助けた? つまり、あの時私の唇を塞いだのは……
「(……ぁぁ〜〜)」
冷えきった体に、一気に熱が巡る。
考えにくい事。今まで他人事のように感じてきた事。よりによって北郷に。
それでも、私は知識としてなら“これ”を知っている。他に、説明出来る言葉を知らない。
サラシを巻いただけの、濡れ鼠なこの身が少し恥ずかしい。
やはり、と思うしかなかった。
「舞无だ」
これは私の、初恋なのだと。
「っしゃぁああーー!!」
今日は非番! 昨日は華雄……じゃなくて舞无の騒ぎで大変だったしな。
死ぬ気で資料を持ってった時の、詠の……
『……あんた、明日は非番でいいわよ。その代わり趙雲にサボらないよう言っときなさいよ』
という言葉にどれだけテンション上がった事か。テンション上がりすぎてなかなか寝付けなかったくらいだ。
「……って、何しよう?」
元・現役高校生な俺としては、この世界で一人楽しむ娯楽なんて未だ無に等しい。でも皆忙しそうだし。
街をぶらつく……って、それじゃいつもと同じじゃないか。
「あ」
そう考える中、ナイスアイディアが浮かんだ。
そうだそうだ、日頃から基本フリーダムにしてるあいつが居たじゃないか。
結構街の見回りで会ってるけど、休日に会うのは久しぶり。いざ出ぱ……
「と、その前に星に一言釘差さないとな」
っていうか、今から朝稽古じゃないか。
微妙に上がったテンションを盛り下げつつ、俺は自室を後にした。
「ほら、言った側から……脇ぃ!」
「ぎゃふっ!」
成長してないとか言うな。比較対象が不適切なんだよ。
これでもダウンするまでの時間は伸びているはずだ。タイマーとか無いけどな! そして集中してる時の主観時間ほどアテにならんものも無……やめよ、ネガティブになるの。
「……大丈夫、伸びてる」
「……ありがと、恋」
運良く鍛練の途中で恋と遭遇出来たのは幸運だった。恋ならいつものんびり、詠が恋の手綱を握れてない……って言うか、恋はこれでこそ恋なのだ。
今日は恋の屋敷にお邪魔するプランである。
「だから、今度は恋が相手……」
キャーー!!
「ふっ、良いではないか。敵は私一人ではない。妙な癖などつかれても困る」
「……星、お前俺を殺す気ですか?」
「まさか。殺すのは私ではないのでな」
こっんの、メンマ!
「フンッ!」
「うわぁ! 方天画戟はやめて! ホントに死ぬ! 真っ二つになる!」
俺に向けて戟を振るう恋は、その言葉に目をぱちくりとさせ、星を窺う。俺を窺え!
「恋! お前の好きにしろ」
「(……コクッ)」
頷いたーー!?
戟の風圧が前髪を薙ぐ。背筋が凍る。冷や汗が噴き出す。
繰り出された突きを木刀で横に払って後ろに跳ぶ。
「恋とて、おぬしの身を案じて珍しく積極的になっているのだ。命懸けで応えてこそ男、というものだぞ?」
言って、楽しそうに星は笑う。くそぅ、面白がりやがって。
「……一刀は、前に出る」
ボソッと呟いて、恋は暴風のように戟を振り回し、次々に攻撃を仕掛けてくる。
斬撃なのか刺突なのか、はたまた石突きなのか、ほとんど確認すら出来ない。
これ、間合いに入った瞬間に死ぬんじゃ?
「でも、弱い……」
恋は思った事を隠さず、素直に口に出すから、余計にグサッときた。
「このっ!」
何とか捉えた。戟の柄を木刀で叩いて、横に泳がす。
むしろ俺の手の方が痺れたけど、近づけば少なくともあの刃は食らわない。
そう思って体当たり気味に前に飛び出して……
「ぐぁっ……!」
頬に鈍い痛みを感じて、無理矢理後退させられる。食らったのは、恋の左拳。
そういや、前の世界で星が、恋は体術を織り交ぜるのが得意とか言ってたような……
「っ!?」
そんな悠長な考えに浸る余裕など当然のように無く、恋は方天画戟を振りかぶっていた。
「それじゃ……いつか斬られる」
寂しそうに、悲しそうにそう呟く恋の声が聞こえて、俺は思わず庇うように木刀を構えて……
「………う」
ポトッ、と、俺の木刀の柄から先が、綺麗に切り落とされていた。
何ちゅう切れ味。いや、恋の腕がいいのか。
「だから守る」
またも小さく呟いた恋の言葉は、しかし不思議なほど強く響いた。
「恋……」
ガシャッと戟を無造作に放り出した恋は、俺の腫れた頬を撫でる。
「……痛い?」
「…………」
さっきまで命の危機を感じていた自分を殴ってやりたくなる、その健気すぎる仕草。
「……全く、本当に罪な男だ」
呆れたように、それでいて楽しそうに呟いた星が、ぽんっと水の入った竹筒を俺の頬に当てる。
俺なんかより、星の方がよっぽど恋の事を理解してた、という事なのかも知れない。
そんな、若干涙腺の弛むような空気をぶち砕くように……
「一刀ぉーー!」
中庭に大声が響いた。びりびりと肌を震わす。
「ぬぅ……華雄か」
「……うるさい」
星も恋も、頭を抱えてフラフラとよろめく。
かくいう俺もちょっと耳が痛い。
「やはり居たか! 今の時間ならば鍛練していると思ったぞ」
「……朝から元気だな、舞无」
っていうか、いきなりどうしたんだ。俺また何かしたのか?
「「……真名?」」
その質問を俺が口に出す前に、星と恋がハモった。まあ、勘違いする気持ちはわかる。俺もしたし。
「ああ、華雄の真名、舞无って言うんだってさ」
俺の時と同じ轍は踏まない。折れた木刀で地面に書きながら教えてみる。
「……舞无?」
首を僅か傾げながら、恋が舞无に訊く。……可愛い。
「……そうだ。それが私の真の名前」
「舞无」
舞无の言葉を聞いているのかいないのか、恋は確認するようにもう一度呟く。……そういえば、元々恋の事だけは真名で呼んでたもんな。
そういや、俺さっき「一刀」って呼ばれたな。
「……いつからかな?」
俺をジト目で睨む星。何が?
「華雄にはいつ手を出された?」
「すぐそっちに持ってくな!」
地味に敬語になってるし!
と、とりあえずさっさと用件済まして恋ん家に逃げよう。
「それで舞无、どうしたんだ? こんな朝から」
正直、良い予感はしない。カナヅチの事を黙ってろと、また念を押しに来たとか?
それにしては、両手に乗ってる物体がミスマッチだが。
「手遊びに朝食を作ったら余った! 食え!」
そう、舞无の右手には炒飯が、左手には餃子の皿が乗っていた。
しかし、そんな事より何より………
「「…………」」
「………?」
あまりにも予想外の事態に、三者三様の沈黙。
……えーと、何だって?
「? ……何だ、朝稽古で腹が減っているだろうと思っていたのだが」
いや、そこで舞无に不思議そうな顔されても。もしかして、自分の行動の不自然具合に気付いてないのか?
いや、別にそれ自体はおかしくない。こいつの鈍さは半端ないし。ただ、何でこんな、部活の後輩マネージャーみたいな真似を?
「……もらう」
「あっ! こらっ、恋!」
そんな俺の?にまるで頓着せず、恋は餃子を一つつまみ食う。
「ふむ、少々怖いが……」
「ああぁっ!」
間髪入れずに、しかし恐る恐る、星がレンゲで炒飯を一掬い、食べる。
いちいち狼狽える舞无が少し面白い。
「おぬしもどうだ? 一刀よ。てっきり武以外はからきしかと思っていたが、案外やるぞ?」
何!? この瞬間、俺の一番の懸案事項が解消された。
かつての愛紗のびっくり料理が味覚と脳裏をよぎったのだ。
「?? ……私は、料理など今日が初めてなのだが」
さらにビックリ。初めてで星を納得させる料理を作るとは……予想外の才能だ。
とにかく……
「あむっ……」
俺も食ってみる。おぉ! これは確かに!
「イケるなぁ、これ!」
「ほ、本当か!?」
うん、何か炒め方とか味付けとか、根本的な部分がしっかりしてる。
これが初めてだっていうなら、練習重ねて工夫したら店に出せるぞ。
「ふっ……、嬉しいか? 華雄よ」
「うん!」
「「…………」」
「???」
星の問いに、舞无が無邪気に応え、俺と恋が沈黙、満面の笑顔で頭に?を浮かべる舞无を、星がニヤニヤと見ている。
自分の行動のギャップに気付かないあたりが、何とも………
「……可愛いな」
「俺もそう思う」
星と、そう小声で確認し合った。
「……で、一体何をされたのかな? 北郷一刀殿」
……好奇心を織り交ぜた嫌みは忘れてなかったけど。
(あとがき)
華雄の真名ですが、舞无(まな)と読みます。
前回の感想で、そういうのが紛らわしいと思ったので、補足を。