黄巾の賊が各地に蠢く大陸で、常と変わらない時を過ごす場所もある。
王都・洛陽。
貧困と賊を生み出した官の在り様をそのまま体現したような、権力と欲望が、そこに渦巻いている。
「なぁ、董卓よ」
「は、はい……」
黄巾の乱に自身乗り出したものの、ただ一度の劣勢から逃走し、それ以降都から動く事のなかった大将軍・何進も、当然のようにそこにあった。
「君は気立ても良い。穏やかで優しい、とても愛らしい娘だ」
「あ、ありがとうございます……」
そんな何進は今、自室に一人の少女を呼び付けていた。名を董卓。菫色の髪と赤紫の瞳が特徴的な、見る者に儚げな印象を与える少女。
「あの生意気な張遼や呂布も、君がいなければ私の言う事など聞きはしないだろう。まったく……」
「し、霞さんも、恋さんも、とっても良い人たちですよ……?」
何進は、そんな董卓の言葉を聞いていないように、自身の言葉を続ける。
「なあ、私は不安なのだよ。妹が献帝に嫁ぎ、それによって私は大将軍などという分不相応な地位を押しつけられた。己の役割と使命に押し潰されそうだ」
その地位によって、自身の欲望を満たし続けている何進の言葉は、どこまでも空々しく響く。
「だから、これから君が、ずっと私を……」
目の前で小さくなっていく少女の頬に、その手が伸ばされて、
「し、失礼します……!」
それが触れる前に、少女は俯いたまま涙声でそう言って、勢いよく頭を下げた後、小走りに何進の部屋から出ていく。
「………ちっ」
何進一人になったその部屋に、口汚く舌打ちが響いた。
「…………」
「……どうかね? あれが今の大将軍、実質この国の軍事の全権を握る男の姿だ」
その会話を、隣の部屋から聞いている者があった。二つの部屋の窓は開いたままであり、会話は筒抜けだ。
その窓を閉めて、黒い衣を纏う男が、もう一人その部屋にいた人物……眼鏡を掛けた、緑の三つ編み少女に話しかけていた。
「許せないだろう? あんな無能な男が、君の大切な親友に下劣な視線を向けている」
二人の少女の人となりを知って、そこを揺さ振るように、男の言葉は響く。
「無論、あの男の許に行ったとしても、董卓に幸せなど訪れはしない。あの男は、董卓を、まるで気に入った玩具程度にしか見てはいないのだからね」
「…………」
男の言葉に、少女は沈黙を保つ。ただ、爪が食い込み、血が滲むほどに握りしめられた拳が、彼女の心の内を物語っていた。
「止めなくていいのか? あの男は権威に溺れた畜生に等しい、欲したものを手に入れるのに、躊躇いはしないぞ?」
問いの形で繰り返される言葉は、少女自身の葛藤を具現化させるように、心を行動に起こさせるべく誘う。
それら、全てを……
「……はっ!」
少女は、鼻で笑い飛ばした。
「笑わせないで。そうやって何進をボクに殺させて、董卓を新しい権力者に仕立てあげる。それがあんた達、十常侍の狙いでしょ?」
男の言葉の通り、怒りのままに何進を八つ裂きにしてしまいたい。その衝動を、少女は堪える。
「そうやって、“いつでも反逆者として切り捨てられる”、そんな操り人形を手に入れたいんでしょ?」
少女の言葉は、疑問の形でありながら、糾弾の意として紡がれる。
「ボクの月を、あんた達の操り人形なんかにさせるつもりはないわ!」
何より、董卓という少女のために、己の感情を切り捨てて、少女は言う。
「この賈文和を、甘くみないでもらいたいわね」
そう言って、少女はずんずんと荒々しい靴音を立てて部屋を出ていく。
「……使えぬ小娘が」
男、張譲は、苦々しくそう呟いて、自分の親指の爪を噛む。
民の苦しみをまるで厭わず、欲望と策謀が王都に渦巻いていく。
「あーもームカつきますわね!」
「麗羽さまー、もうあんなダルマ放っといて冀州に帰りましょうよー……」
「おだまりなさい、文醜さん!」
「……姫も文ちゃんも、天下の往来で堂々と大将軍の悪口言わないでくださいよ〜」
首領・張角を曹操が討った、という報が広まった後、全ての軍が残党狩りに勤めているわけではない。
最大の功績を挙げる事が叶わないと知るや否や、別の行動に移る者もいる。
この、金色の鎧と、同色の髪が管を巻く女性……袁紹もその一人。
両腕たる顔良、文醜の二人を連れ、少しでも自分の印象を良くする(ゴマを磨る)ため、都に赴いていた。
「なんっっっで名家であるこのわたくしが、あんな肉屋の親父にへこへこしなければなりませんのっ!?」
「そりゃ……もっと地位が欲しいからでしょ?」
屈辱に堪えながらなその行為。しかし、結果はあまり思わしくない。
「董卓さんだっけ……何進将軍のお気に入り」
「キーッ! どんな悪女か知りませんが、何でこのわたくしが田舎から出てきたおのぼりさんなんかより低く扱われなければなりませんのっ!?」
「あたいらに訊かれてもなぁ……」
謁見こそ叶ったものの、門前払い同然に帰らされたのである。
噂では、最近上京してきた董卓とやらに偉くご執心、という事。
「そ・も・そ・も! 実力も無いのに妹が霊帝に嫁いだというだけであんなダルマにデカい顔されてる時点で気に入りませんわ!」
結論の出ない……要するに愚痴を止めどなく流す袁紹を二人が宥めながら、都の雑踏を抜けていく。
時間にして、ほんの二ヶ月余り。
「賈駆はアテに出来ん。だが、別に協力関係である必然性も無い」
たったそれだけの時間が、
「ボクが啖呵を切ったくらいで、連中が諦めるとは思えない」
それぞれの、様々な思惑を秘めて、
「董卓という人物、そしてそれに固執する何進の感情を利用してやればいい」
駆けるように過ぎていく。
「月は優しいから、賛成してくれないと思うけど……」
黄巾の乱という、きっかけを経て。
「なに、我らは霊帝の側近ぞ。後で何を騒がれようと、手出しなど出来まいて」
群雄割拠の時代、その
最初の火種が、
「ボクの覚悟を舐めた事、たっぷり後悔させてやる」
点る。
「なに!? それは真か、張譲よ!」
「はい、董卓も将軍と日々を過ごすうちに、将軍の魅力に気付いたというわけでございましょう」
大将軍・何進の許に訪れた十常侍の一人、張譲。
その用向きは、婚礼の祝辞。董卓が、ついに何進の求婚を受け入れた、という旨を伝えに来たという事だ。
「いやぁ、真にめでたい。つきましてはこの張譲、婚礼の準備を一手にお任せして頂く所存ですが、如何か?」
「おぉっ! 重ね重ねすまんな、張譲。……そうか、とうとう“月”が……」
歓喜に酔ったように、ふらふらと部屋の中を歩き回る何進に、張譲はさらに言葉を重ねた。
「それで、ですね。董卓は婚礼まで、将軍と顔を合わせるのが恥ずかしい、と言っておりましたので……」
「ふむぅ、そうか。なるほど、婚礼となると照れもするか。相変わらず愛いやつよ」
月、という董卓の真名は、本人から呼ぶように許されたわけではない。
董卓本人がいない時、何進は彼女を真名で呼んでいた。
「それで! 婚礼はいつになるのだ!? 長くなど待ってはおれぬぞ!」
「そう仰ると思っておりましたので、お望みとあらば、明日にでも」
「おぉ! おぬしは本当に気の利く男よな、張譲よ!」
年甲斐もなく子供のようにはしゃぐ何進を見て、張譲は内心でほくそ笑む。
「ふふっ……まったく、急かしておいて何だが、緊張してきおったな」
その翌日、董卓の屋敷の前に、一台の馬車が乗り付けていた。
言わずと知れた何進である。婚礼の義、という事もあり、護衛の兵士など十にも満たない。
「日頃の控えめな態度も全て、私に対する好意の裏返しだったと考えれば、何ともむず痒い」
馬車を降り、兵を下がらせた何進が、そのまま屋敷の庭へと踏み入る。無論、護衛などという無粋な者の随伴はここまでである。
そして、屋敷の本殿への石段を歩く先に……
「おぉ! 張譲、今回は本当に世話になったな!」
見かけた張譲に、上機嫌そのままに話し掛ける何進に、張譲は何も応えない。
何進は、それにも頓着せずに、自身の欲望の対象を探す。
「それで、月はどこか!? ああそうか、中なのだな。準備にもさぞ手間をかけたのだろう?」
そんな、あまりにも暢気な何進の姿に、もはや張譲は失笑を隠さない。
「どこまでも、愚かな男よ……」
サッと上げた張譲の右手に応えて、何十もの兵が屋敷から飛び出す。そして張譲は大急ぎで後ろに下がる。
「な、何だ……張譲? これは一体……」
ようやくになって蒼白な顔を晒す何進。だが、あまりにも遅すぎた。
「殺れ」
その一言と共に、放たれた矢が何本も何進の体に突き刺さる。
「ぎ、ぎゃぁあああ!? や、やめろ! 私を誰だと思っている!! よせ、やめで」
そこまでで、言葉は終わる。振り下ろされた剣の一振りによって、恐怖に固まる何進の首が転がった。
「無能も過ぎると罪よ。欲深に過ぎて、人形にすらなれぬ出来損ないが」
張譲はそれに唾を吐きかけて、今は別命を与えて遠ざけている、この屋敷の主を思い、口の端を上げる。
「さて、優しいばかりで野望のない小娘よ、我らが傀儡となってもらおうか」
この光景そのものが脅しにもなる、あの気弱な少女にはいい薬になるだろう、と……“愚かにも”張譲は考えていた。
「……………」
城で内政を任されている董卓を置いて、屋敷からさほど離れていない野に、中隊を率いる少女が在る。
姓は賈、名は駆、字は文和。
「(ボクがいくら汚れたとしても……)」
この日のため、十常侍が企んでいた全ては、少女の掌の上の出来事でもあった。
「(月だけは、絶対ボクが守るから……)」
私欲に溺れるだけなのは、何進のみならず、十常侍とて同じこと。所詮、その程度の策謀しか練れはしない。
それに、自分たちに刃が向けられるとはまるで考えていない所も、何進と何も変わらない。
「全軍前進! 敵は帝を拝して敬わず、王都を私欲のままに荒らす賊徒・十常侍っ!」
この日、何進、そして張譲を含めた全ての十常寺がその命を落とす。
“反逆を目論んでいた”彼らの企みを未然に防いだ賈駆、その主たる董卓は、帝きっての拝命を賜り、王都・洛陽の実権を握るに至った。
(あとがき)
新幕スタート。いきなり一刀のかの字も出ませんでしたが。次回から一刀サイドに戻る予定です。
いつも皆様に読んでくれたり感想もらったりなどが活力になっております。展開の遅い本作ですが、今後ともよろしくお願いします。