人間の里から、少し離れた平地にそれは建っていた。ログハウスと呼ばれる丸太で組まれたそれは、見る者に感嘆の息をつかさせるほど立派な建物である。
実際に、森田 一樹という人間はそうだった。
病気の祖母のために、近くの森まで危険を冒して、薬草を取りに行った帰りにそれを目にした彼は、妖怪が活動的になる逢魔が時だというのに思わず足を止めて見惚れた。人里のものとは違う建築様式が生み出す、何とも言えない穏やかさな雰囲気を放っている。自分も、こんな所で住んでみたいという欲が生まれる。素晴らしい。実に、素晴らしいものだなぁ、と彼は思いながらも気がついた。
「こんな所に、家なんて建っていたっけか? 里から少し離れた此処は、確か何も無い平地だったような……」
そう思うと、とたんに森田は怖くなった。今まで立派だと、散々立派だと思っていたものが、急に不気味に見えた。人は暗闇に脅え、その恐怖は思考を加速させる。一寸先に闇が広がる道中で、その先に、人ならざるものが待ち受けているかもしれないと考えるように。穏やかさも、実はまやかしで油断して入りこんだ人間を食らおうとする妖怪の罠かもしれない。
「か、帰るんだ。 この任務を終えたら、結婚するんだ」
呟きながら、その場を去ろうと踵を返そうとしたその時、ログハウスの二階に人影が見えた。
「あ…………あぁあああああああ」
意味の無い叫びが漏れる。やばい、と本能は警鐘を鳴らす。あれは、やばい、と。自分を殺すことができる怪物だ、と。人影の正体は、少女だ。闇色の衣服を纏う、可愛らしい人形のような少女。人食い妖怪の少女。
「う…………ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!」
恐怖の叫びが漏れる中、森田は思い出していた。稗田 阿求が、書き記した妖怪辞典的存在の【幻想郷縁起】にも載っている危険な妖怪のことを。宵闇の妖怪――――、ルーミア。
人里には手を出さないものに、その付近ではそうでもない。可愛らしい容姿に反して、何の躊躇も無く人を襲うとされる。知っていた。彼は、薬草を命懸けでとりに行くと決意した時に、最も遭いたくないと思った相手。馬鹿だ。馬鹿だよ俺、と脳裏に思う。
彼は、いくら怖くとも叫び声など上げるべきではなかったのだ。黙して、恐怖に耐えるべきだった。何故なら、それは捕食者に自分の居場所を伝えるための愚行でしかないからだ。
「あぅああ…………ッ!」
少女の宝石のような、紅玉髄の瞳が、森田を捕らえた。音が消えた。背には冷や汗が流れている。頭は朦朧とし、呼吸は荒い。そのくせ、視界だけはクリアだ。視界の先、昼と夜の境界が交わる逢魔が時に、少女は一段と美しく世界に光臨していた。その姿を見て、ああ……綺麗だな、と。森田はそう、素直に思った。
「…………」
しかし、暫くこちらを見ていた少女はやがて、興味ないと言わんばかりにスカートを翻して、室内に入っていく。見逃された? 助かった? 死んでいない? 生きてる? どうして? 何で?現状に対する疑問を脳裏に浮かべながら暫くその場で立ち尽くしていても、少女が襲ってくることはなかった。
森田は色々と思うことがあったが、
「………妖怪ってパンツも穿くんだな」
そんな馬鹿みたいなことを呟いた。ログハウスのテラスから覗いた下着が、あまりに印象的だったのだ。不意に、鼻の下に何かが流れた。森田は、汗か、と呟きながらそれを拭う。拭った腕が赤く塗れていた。
「はは…………妖怪相手に、何を興奮しているんだ……俺は」
自分の鼻が流れ出した鼻血が信じられないのか、どこか呆然と言葉を漏らす。自己嫌悪しながらも、彼の頭の中から、少女の白い下着が消えることはなかった。婚約を控えた彼は、婚約者がいる身なのに自分はなんて不義な輩なんだ、と慟哭の涙を流す。
「たまらなく…………自分が情けないッ。……………………………………………………しかし、白の下着とは可憐な」
その後、彼は無事に里までたどり着き、薬草を祖母に手渡すことができた。そして、その数ヵ月後、森田は婚約者と結ばれたが、どうしても忘れられないことがあった。あの日のことだ。逢魔が時に出会った妖怪少女の下着である。それ以来、彼は心に闇を抱えて生きていくことになるが、それはまた別のお話。
∫ ∫ ∫
外で珍獣が喚いている頃、雪人は創造した“即席ログハウス”の裏側で、“牧”を焼べていた。家の裏側に設置した浴室の湯船“即席御風呂・NOZOKIで逝こう”は、すでに温まっていることに違いない。
「風呂まで完備するとは流石だ、私」
戦闘に向かないという欠点がありながらも、この男の“創造することに特化した魔法”はある意味万能だった。菓子類だけでなく、牧や湯船、家と応用範囲がやたらと広い。ちなみに、魔力を使うのは物体が形を成す瞬間だけで、それ以後存在することに魔力を消費することはない。創造した物質は壊されないか、雪人が消そうとしない限り半永久的に存在し続ける。
何とも便利な魔法である。しかし、食べ物のように、一度誰かの体内に取り込まれると、もう干渉することができなくなる。余談だが、最初から湯船に“温水”を入れなかったのは、雪人が古き良き時代の情緒なるものを感じたかったらだそうだ。おそらく、その情緒とやらも、三日もしない内に飽きるだろう。
「さて……ルーミアを風呂に入れさせるか」
「呼んだー?」
暗闇からルーミアが、這い出る混沌のように現れる。雪人は、トコトコと側にやって来た少女を観察する。当然だが、森で会った時と変わらない容姿だ。栄養失調やら睡眠不足で、髪はボサボサ、肌はカサカサである。更に、服もボロボロになっており、女の子特有の強い汗の匂いがする。自称紳士の雪人には、黙って見過ごせる問題ではなかった。
「ルーミア。 風呂に入ってくるといい」
「風呂ってなーに?」
「水浴びみたいなものだ。 ただ、水が温かいから気持ち良いことだろう」
こっちだ、と浴室を案内するためにログハウスの裏口から入っていく。浴室は、裏口から入って直ぐ右手にある。雪人は、水が温まっているか確認するために浴室の扉を開いた。温かな白い湯気が扉から漏れ出す。彼はそれが満足だったのか、扉を閉め大きく頷いた。
「問題ないな。 我ながら自分の才能が恐ろしいよ、私は。 そうは思わんかね、ルーミア?」
「ユキトって、チルノにそっくりだよねー」
「チルノ? チルノとは何者なのだね? 私とそっくりということは、相当できた人物だと思うのだが」
知らないことは幸せだ。というのも、雪人は知らないことだが、チルノとは馬鹿扱いされている妖精のことである。
「ちょっと危険なやつよ ―――――主に脳が」
ルーミアの最後の呟きはどうやら、雪人には届かなかったようである。
「なるほど、そのチルノとやらは相当エクストリームな実力者なのだね。 いずれ合間見えたいものであるな」
「あーもー」
「何故そうも呆れ顔なのだね? というか、ルーミアはどうして私の名を知っている?」
少女は前者の問いかけは無視し、
「あれだけも暴れてたら、誰でも起きてしまうわ。 ユキトたちの声が大きかったから、私の所にまで聞こえたのよ」
「そうだったのか。 しかし、自己紹介が遅れて悪かった。 私の名前はご存知の通り、雪人と言う。 以後よろしく頼む」
「りょーかい」
ほわわんとした顔で告げる少女に、雪人は気になったことを尋ねてみることにした。ところで、と前置きし、
「私と咲夜君との心温まるヒューマンドラマで、ルーミアは目が覚めたと言っていたが、あの後も眠っていたのかね?」
「…………眠っていたわ。 別に抱っこされるのが気持ちよかったわけじゃないからね。 勘違いするなー」
顔を逸らし告げる声は、何故か普段と違って聞こえた。
「そうか。 つまらないことを訊いて悪かったな。 では、風呂に入ってきなさい」
魔力で編んだ洗面器に、タオルと石鹸、ついでにアヒルの玩具を入れて渡してやる。
「ちなみに、排水溝には絶対に悪戯をしたら駄目だぞ。 あそこは、私の【能力】で色々と弄っているのでな」
「はいすいこー?」
雪人は、再び扉を開けて、説明する。排水溝を指差し、
「あれのことだ。 いいか、くれぐれも悪戯はしたら駄目だぞ」
幾ら雪人のモノを創造することに特化した魔法でも、排水処理など様々な問題があったため、魔法だけではどうしても風呂は完成しえなかった。そこで、雪人が持つある“○○○程度の能力”と合わせることで風呂を実現化したのだ。
「わかったー。 じゃあ、はやく入ろうよ」
「入ろう? 入ろうとは、私に一緒に入ってくれと言っているのかね?」
「そーだよー」
雪人は思った。この少女、羞恥心が無いのか有るのかよくわからん、と。純真な瞳で見つめてくる少女を目にしながら、彼はどうしたものかと悩む。純真な期待ゆえに悩んだが、
「そう言ってくれるのは有難いが、君も女の子だろう? なら、もう少し恥じらいを持たないといけない。 何故なら、いい女は安易に肌を許さないからだ」
彼は断ることにした。それは別に、彼がチラリズム派であることが理由ではない。彼が、紳士だからである。 だが、ルーミアは何がいけないのかわからない表情を浮かべている。精神が子どもなのだろう。雪人は一つ頷くと、ちょうどいいのを例に説明することにした。
「八雲紫という妖怪がいるだろう?」
「隙間妖怪のことー?」
やはり無駄に知名度はある、と笑みを零し、
「そうだ。 ルーミアは、八雲のように綺麗に、良い女になりたいか?」
「それなりに、かなー」
「そうかそうか。 それは良い事だ。 では、どうやったら、八雲のような良い女になれるのか教えてあげよう……………っ、と思ったが止めた」
「えー、教えてほしいわ!! あぁーッ、今……どうせ誤魔化したんでしょ!!」
「教えてほしいのなら、今日は一人で風呂に入るといい。 そうしたらいずれ、教えると約束しよう」
頬を膨らませる少女に、雪人は石鹸の使い方を教え、退室しようとしたところで思い出したように、
「着替えは置いておくから、その服は脱衣所に置いておくといい」
雪人は、男物のシャツと、緑と白の縞々の下着、それと薄い緑のキャミソールを創造して、同じく創造した籠に入れておく。剥れる少女の視線を背に受けながら、彼は最後に、確りと浸かるのだぞ、と言い残しながら退室していった。
∫ ∫ ∫
雪人は、リビングの扉を開けるとため息を零した。そこには、見慣れた人物がさも当然のように居座っていたからだ。その人物を表す言葉は沢山ある。例えば、妖怪の賢者、胡散臭い笑顔、境界に潜む魔物、神隠しの主犯。どれもろくなものが無い。
窓際に腰掛け、開けた窓から運ばれる風に、金紗の豊かな髪を靡かせる女性の名は八雲 紫(やくも ゆかり)
「何か用か、八雲?」
「あら、挨拶の一つもないのかしら? 伊達男さん」
「帰れ」
身も蓋もない、とはこういうことを言うのだろう。雪人の顔には、露骨に面倒臭いという感情が浮かんでいる。
「…………ねぇ、何を怒っているの?」
「怒ってる? この私が? 面白い、面白い冗談だなぁ、八雲。 お前相手に、私が怒りを抱いていない時など片時もないことを忘れたのか?」
「悪いとは思ってるわ。 だけど、過ぎたことでしょう?」
胡散臭い笑みと共に、問いかける紫。雪人は、そんな彼女を冷ややかに見つめながら、
「お前のせいで、外の退魔師の連中が、私のことを貴様の【眷属】と勘違いして、死に物狂いで襲ってきたのだぞ?」
あれは悪夢だったよ、と雪人は前置きし、
「殺しても殺しても、殺しても殺しても殺しても殺しても、余程、八雲の姓に恨みがあるのだろうな。 仲間の屍を踏み越えて、私に刃を向けてきた。 おかげで、周りは死山血河。 女子ども以外は皆殺しだ」
「女子どもは見逃したのね……。 どうせ、恨まれるのだから後悔するだけよ?」
紫は、呆れるように呟く。
「私は人殺し以前に紳士だからね、女子どもは何があっても殺めない。 殺人鬼にも、殺人鬼ならではのルールがあるのだよ。 無論、独善だが」
「そのくせ、男共は皆殺し。 私、未だにわからないわ。 貴方という人間が」
理解してほしくもないが、と毒づく雪人は、紫にグラスを差し出す。魔力で創り出したものだろう。
「お前は気に食わないが、女性だ。 少しくらいならサーヴィスしてやる」
「あら………」
「リキュールベースのカクテルだ。 どうせ賢者様のことだ、万年難しいことでも考えてるのだろう? 少しは、甘味でも摂取したまえ」
少女のように微笑む紫に、言っておくが、と雪人は言葉をかける。
「私はお前のことを許したわけではないぞ。 訊くが、私が退魔師の連中の連中に襲われている間、八雲……貴様は何をしていた?」
「眠っていましたわ」
「とんだ策士だよ。 私が連中を殺めたが、連中は元より私のための贄だったのだろう? どうしてだ? どうして、そこまで私に拘る?」
鋭い視線を伴う問いかけだ。拒否は許さぬという意思が込められた瞳を見返し、紫は告げる。
「私は欲張りな女ですもの」
カクテルを呷りながら、紫は妖艶に微笑んだ。幻想郷でもトップクラスの美を誇る彼女の笑みは、並みの精神を持つ男なら傀儡に出来てしまうのではないかと疑うほど、魅力的であった。しかし、雪人は眉一つ動かすことなく、
「八雲、はっきりと言っておこう」
「何かしら?」
「俺は、お前が嫌いだ」
「…………それは、残念ですわ。 だけど、覚えておいてちょうだい。 貴方の居場所は最早、此処にしかないことを」
紫は顔を歪めて、紫は隙間の中へと消えて行く。神隠しの少女は、まるで初めから此処にいなかったように。
雪人は、紫が居なくなったリビングでため息を零した。
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今日か明日には7話を