男が去って幾許も無く、阿求の隣に人の気配が生じる。阿求がそちらに視線を向けると、とある女性が興味深そうに彼女を見つめていた。
「……周辺一帯が時間が停止しているようですが、此処で一体何があったのですか?」
短いスカートから覗く脚が魅力的で、時間を操る程度の能力を持つ紅魔館のメイド長、十六夜咲夜だ。
尤も、完全で瀟洒な従者と呼ばれる咲夜もこの“時が停止した異変”を目の当たりにしてか、困惑の表情をありありと浮かべている。
余程、自分以外に時を止める者がいることが信じられないのだろう。
普段は大人な雰囲気を漂わせている彼女からは考えられないような、あどけない表情が印象的だ。阿求も、咲夜のその呆けた様な表情が珍しいのか、時間停止とは別の意味で目を白黒させた。
「……私にも詳しくはわからないんですが。 ただ、これを引き起こしたであろう容疑者を一人知っています」
「私の様に時間(空間)に干渉する能力でもないのに、貴女一人だけ時間停止の難を逃れることができたのは、その容疑者が関係者だから、かしら?」
問われた阿求は、少しばかり先ほどの男とのやりとりを思いうかべる。
「関係者、というほど深い関係ではないんですが」
「何でも構いませんわ。 これを起こした人物に、私も個人的な興味が湧いたし教えて下さらない?」
男の姿を思い浮かべる。
「第一印象が……伊達男と言いますか、色男と言いますか。 兎に角、紳士服の様な洋服を着た手品師の様な人です」
咲夜は、手品師という言葉が出た時、僅かにその端正な眉を顰めた。元来、観察力に優れる阿求はそれを目に、どうかしましたか、と疑問した。
「いえ、時間停止に手品とはますます面白い偶然だな、と思いまして。 それで、その伊達男さんは、時間を止めた理由など言ってませんでした?」
「時間を止めた理由……ですか」
風見 幽香に簀巻きにされて張り倒されるのが嫌だったからというものと、弾かれた木材から阿求を守るためという二つの理由があった。
しかし、それが本当に時間を止めた理由なのか判断しかねた阿求は、
「色々とよくわからないのですが、ただ、里に害を加えるつもりはない、と本人は言ってました」
それに、と続けようとした時、ぴしり、と軋む音を阿求の耳は拾った。 糊でくっついた紙を無理やり、剥がそうとするような音だ。少女が慌てて周囲を見やる。
「どうやら停止した世界が動きだしたようね」
「………………そう、ですね」
世界に色が戻り、停止いた時間は正常に動き出したようだ。無音の空間から、急に姦しい居住空間に変化したことで一瞬、阿求は眩暈にも似た感覚に陥った。
「なにが瞬き十回で時間停止は解消される、よ。 瞬きなんて疾うに十回以上してるわ」
色彩が溢れる世界を眺めながら、阿求自身、掴みきれない感情の籠った罵倒が零れる。
「随分と楽しそうね。 何か良いことでもあったのかしら?」
「いえ、ただ……とても美味しい和菓子が出に入って、つい表情が緩んでしまいました」
そう言って胸に抱いた紙袋を視線をやる。釣られて、咲夜も紙袋を見つめた。茶色い紙袋だ。 その中から、ほのかに甘い香りが少女たちへと届く。
「外の和菓子らしくて、幻想郷にはあまり無い味なので新鮮です」
「外の……? ……ああ、先ほどの伊達男さんかしら?」
阿求の表情から察したのか、そう訊ねる咲夜に頷く。
「無礼を働いた、そのお詫びに、と。 私自身、気にしていなかったのですが、強引な方で」
「ただの、悪人ってわけじゃなそうね」
珍しい外来のお菓子が手に入り笑みを浮かべる阿求に、咲夜は苦笑を洩らす。
「それで、伊達男さんの情報はそれだけかしら?」
「そうですね……。 あとは…………手品みたいに椅子や湯飲みを出していた、くらいですかね」
「椅子? 湯飲み?」
ええ、と頷くと阿求は後ろを向く。先ほどまでそこにあった椅子について思いだしているのだろう。
「結局は、砂の様にサラサラと宙に溶けていきました。 残っているのは、これだけです」
男が何処からか出した椅子や、湯飲みは消えてしまったが、胸に抱えた紙袋だけは確かに存在したままだ。
「…………そう」
何かを思案するように、咲夜はその形の良い顎に手をやる。 顎に添えられた指も細く、しなやかだ。
阿求は同性ながら、綺麗な人だな、と思った。
「最後に、その伊達男さんはどちらに向かったか教えてくれないかしら?」
「かまいませんよ」
「助かりますわ」
「ええとですね、この通りを真っ直ぐ行った所にある、里の出口に向かわれたと思います。 何でも、怖い顔をした女性が来たから、と逃げるように去っていきました。 ちなみに、向こうの方を見て、そう仰られてました」
「…………」
阿求が指差した方向は、咲夜がやってきた方角だった。
いくら完全で瀟洒な従者でも、見ず知らずの人間に怖い顔をした女性が来たから、という理由だけで逃げられたとあっては心が痛んだ。
「と、兎も角、助かりました。 失礼します」
そう言って立ち去ろうとする咲夜に、阿求は慌てて声をかけた。 待って下さい、と。それに咲夜は振り返り答えた。何でしょうか、と。顔に愉快そうな笑みを浮かべていることからも、彼女はわかったいたのかもしれない。 阿求が声をかけて来ることを。
「あの、あの方にもし出会えたのなら、また里に遊びにいらして下さい、とお伝え願えないでしょうか?」
「ええ、かまいません。 それでは、今度こそ失礼します」
咲夜はそう言い残すと、阿求の視界から消えうせた。時間を止めている間に移動したのだろう。時間停止の能力を解除された阿求には、咲夜が瞬間移動したのかのように見えたに違いない。
「……ああ、なるほど。 道理で、手品の件でああも過剰に反応したんですね」
視界にはらはら、と舞い散るトランプを収めながら、阿求は納得いったと頷く。
どうやら、紅魔館のメイド長は予想以上に愉快な人間らしい。
「少しいいかしら?」
咲夜が消えた直後のことだ。阿求に背後から向けられる声があった。時間停止の前に、騒動の中心となっていた片割れの声である。即ち、風見 幽香だ。
振り返る。
すると、幽香は困惑した様子で周囲を見渡していた。どうやら、男がいきなり目の前から消えたことがよほど、不思議なようだ。自分に声をかけたのも、彼について訊くためだろう。
そう思った阿求はクスリと微笑み、
「伊達男さんの奇術は、成功しましたか?」
そう問うてみることにした。
∫ ∫ ∫
一方、二人の綺麗所から「伊達男」と呼ばれた男は、人里から少し離れた森の中を歩いていた。薄暗い森だ。まだ、日も高いというのに、森の中はひんやりとした空気に包まれ、不気味な雰囲気に包まれている。
静まり返った暗い森の中は、人間にとって、日常から切り離されたある種の異界となっており、幼い幼児なら涙を流し錯乱することだろう。更に、今この瞬間も草場の陰から妖怪が待ち構えているかもしれないという疑惑が、恐怖を加速させる。里の人間なら間違えても入らないだろう。間違えて入ってしまったら、妖怪の餌になるのは目に見えている。そう、目に見えてわかるだろう。なのに、何故、この男が森の中を歩いているのかと言うと、単純に迷っただけである。人里で噂に聞いた博霊の巫女を一目みようと、参道を歩んでいたのだが、彼は何をどう間違えたのか……。
「森に入っていく、可愛い妖精さんなど追うのではなかったよ………………………はぁ」
男は疲れたのか、丁度いい所に転がっている黒いものに腰を下ろした。黒いものは意外にも柔らかい。きっとキノコの類だろう、と結論した男は掌に飴を生み出すと、それを口にした。
「……しかし、認めたくないものだな。 若さ故の過ちというものは。 おかげで、今夜は野宿になりそうだ」
「そーなのかー?」
「君はそうでもないのか?」
呟いた声に返答があった。男の極近くから聞こえてきた声だ。声を聞く限り、まだ年端もいかない幼い子どもだろう。だが、その声は子どもらしからぬ妙な艶を含んでいた。 まるで、ずっと待ち続けていた恋人に愛を囁くような、そんな甘い声。それでいて、どこか凄く疲れたような声。
「それよりも、あなたは食べてもいい人類?」
「私のような賞味期限が過ぎたようなおじさんを食べようと言うのか、君は。 面白い、面白いな、きっと珍種に違いない」
「あなたは、もう少し状況をちゃんと認識した方がいいわ。 私が何て言ったか理解してないの?」
「いいや。 理解しているとも。 つまりはお腹が空いているのだろう?」
違うかね、と男は首を傾ける。傾けたが、声の主がどこにも見当たらなかった。周囲を見渡してみるが、姿は見当たらない。
「どこ見てるのー? ここにいるじゃない」
「こことは何処だ? もう少し詳しく頼む」
「あーもー、あなたの下にるって言っているの」
苛立った声に言われて下を向く。 確かに、声の主が言う通り、男の下には黒い何かがある。何かがあるが、男はそれをもうキノコとして認識していたものだ。
「しかし、これは……キノコだろう?」
「キノコじゃないわ。 ルーミアだもん」
「なるほど……これは、キノコじゃないんだな」
「そーそー。 それはキノコじゃなくて、ルーミア」
「つまり、ルーミアというキノコの親戚なんだね?」
苛立ちを噛み締める歯ぎしりが、男にも聞こた。 どうやら、声の主のルーミアは相当苛立っているらしい。
「……いい? チルノでもわかるように優しく言うからよーく聞きなさい。 ルーミアは妖怪なの、キノコじゃないの。 理解した?」
男はルーミアの言葉を何度も反芻して、実にいい笑顔で問いかけた。
「では訊くが、君がキノコではなく、ルーミアだという証拠はあるのか?」
「な、何言ってるの!? ルーミアはルーミアなの!! どうして信じてくれないの!!」
「噂によると、幻想郷には悪戯が大好きな妖精が多数住むという……それは知っているな? それを踏まえた上で考えてみると、この声は妖精の悪戯で、私を騙して楽しもうとしている疑いがある」
「違うもん違うもん!! ルーミアなのーッ!!!」
男の視界が揺れた。 森の木々が揺れていないことから、男が自分とその下のキノコだけが揺れていることに気がつく。もう一度、キノコを観察してみる。
「なんと……っ」
キノコからはまるで、女の子の脚が生えていた。
男の驚愕の声が漏れる。先ほど見た時はなかったはずなのに、と何度も確認するが確かに脚を存在している。尻を軸に身体を回転させると、男の視界に鮮やかな金髪が映った。
「な、なん……だと?」
男が驚愕したのは無理もない。 キノコから、女の子の首が生えているのだ。
「ルーミアと言ったかね? 聞こえているか」
「……なんのようー。 あなたなんて嫌いだから、さっさとどっかに行ってほしいんだけど」
「ルーミア。 済まなかったね、ようやく理解した。 君はキノコじゃなくて、少女だ。 妖精の悪戯でもないらしい」
「自分の馬鹿さ加減を少しは理解したらどう?」
「……そう邪険にするな。 私は、繊細な心を持つ人間だから傷つくではないか、表面上」
男は戯言を吐きつつも、漸くルーミアの上から腰を上げた。ルーミアはまるで熱射病でぐったりしたネコのようにうつ伏せで倒れている。 排熱でもしているのだろうか。
「それで、ルーミアはどうしてこんな所で寝ているのかね? 趣味かね?」
「…………」
うつ伏せで、少女の表情は読みとれないが、きっとうんざりした表情を浮かべているのが容易に想像できた。反応を示さないルーミアの周りをうろうろしていると、ぽきっ、と乾いた木の枝が折れたような音が、男の耳に届いた。
どうやら、木の枝だったようだ。
「……」
男は歩みを止めて、その折れた木の枝を手にする。そして、ルーミアの脇に腰を下ろして……。
「……ツンツンするのはやめてー」
「君はどうして、こんな所で寝ているんだ?」
「力が出ないのー。 最近、人間を食べてないからお腹すいてるのよ。 里を襲うのは隙間妖怪に禁じられているから……ご飯がないの」
「色々と苦労しているのだな」
「そーなのだー」
外見からもそれは伺える。 髪の毛はカサカサで、枝毛も見受けられる。 スカートもブラウスも汚れてボロボロになっている。女の子独特の強い汗の臭いもする。妖怪にも妖怪の苦労があるのだな、と男は思った。
「それほどまでに、お腹が減ってるのか?」
「だから、訊いたでしょ? あなたは食べてもいい人類か、って」
むくり、と闇色の少女は地面から立ち上がった。それにより、今まで俯せで隠れていた素顔が露わとなる。それを見て、男は感嘆の声を上げた。
色鮮やかな金紗の髪、整った綺麗な顔立ち、爛々と赤い輝きを放つ紅玉髄の瞳、そのすべてが殺意と共に、妙な色気を放っている。外見は子どもながらも、それとは不相応な魅力を持つのは妖怪の特権だろうか。
「食べても、食べてもいい人類か、だと? それを、私に訊ねたところで何の意味がある? それで、君の腹はふくれるのかね? 飢えを満たせるというのかね?」
「……うるさい人類ねー」
「此処は森の中、手出しが禁止された人里ではなく、妖怪の狩場なのだぞ? ならば、やることは一つだろう? さっさとその牙で、爪で、ありとあらゆる能力を持って、獲物を殺害し、その血肉を糧にすればいい」
「言われなくても、あなたは私の食糧なんだからッ」
「そうか、そうか。 それは光栄だ。 君みたいな可愛い子から、そのような言葉をいただけるとは、男冥利に尽きるというものだ」
ルーミアは、目の前の獲物など脅せば怯えて逃げるだろう、と思っていただけあって、その動じない態度に疑問を抱いた。胸に抱いた焦りを悟られないようにしながら、へらへらとした緩い笑みを浮かべる男に問う。
「あなた、私が怖くないのー? 匂いでわかるわ、ただの人間なんでしょ? さっさと逃げないと、本当に食べちゃうよー」
その問いが、男にとって余程愉快なものだったのか、笑みの形を強くした。悪戯小僧のような笑みは、外見が大人の姿と相俟って、普通の感性を持つ人間なら虜になるだろう魅力があった。
尤も、精神が子どものルーミアにとっては、友人の氷精が似たような笑みを浮かべていたなぁ、程度にしか思わなかったが。
「怖い? 怖いか、だと? 怖いに決まっている。 妖怪が人間を襲うのが仕事のように、人間は妖怪を怖がるのが仕事だからね」
だがね、と男は言葉をつづける。
「本当に怖いと思っているのは君なのではないか? 違うか、ルーミア?」
「怖い? 馬鹿じゃないのー。 どうして私が、あなたを、ただの人間を怖がらないといけないの?」
「誰も、君が私を怖がっているなどと言っているわけではない。 私に、食糧に逃げられることが怖いのだろう?」
「な、なな何を言っているかわからないわ!! そそ、そそんなことより、さっさと逃げないと本当に食べられちゃうよー?」
「そして、私が逃げるために、背を向けたところを……ぐさっと、かな? さっさと逃げるように警告したのは、そのためだろう? 腹ペコ妖怪の計画的犯行だね、実に苦労しているのが伺える」
「!!」
その言葉にひどく狼狽したのが、ルーミアの挙動から読み取れる。更に、その挙動はあからさま過ぎた。瞳は定まらず、きょろきょろと左右を向いたり、誤魔化すように量の手をぶんぶんと振り回したり、と誰が見ても焦っているのがわかる。
「ち、違うもん。 ルーミアはそんなこと考えてないわ。 ただ、あなたみたいな鬱陶しい人間が近くにいると不快だから、はやく消えてほしいだけなんだもんッ!」
「普通、妖怪と人間のスペック差は圧倒的だ。 人間の成人男性が数人がかりでも、万が一にでも、君には勝てないだろうな」
「そうなのだー。 人間なんて一撃なのだか――」
ルーミアの言葉を遮るように、男が口を開く。
「なのに、何故だ? 強い力を持つ妖怪の君が、私のような凡人相手に、背後からの不意打ちなどという策を弄する? なんなら、弾幕でも展開すればいい。 ただの人間にとっては、回避することも、耐えることも不可能な凶器なのだからね」
弾幕とは、魔力や霊力で構成される弾丸を、大両にかつ連続射撃することの総称。 一発一発にも、強い力が籠っており、何の抵抗力を持たない人間が被弾したら、一溜りもないだろう。ましてや連射だ。妖怪の優位性は明らかだろう。 仮に、巫女や退魔師、魔法使いが相手ならば、結果はどうなるかわからないが。
「そ、それは……」
「考えられる可能性は幾つかある。 単純に、君が人間にも劣る雑魚妖怪の可能性。 そして、空腹で弾幕どころか、単発の弾丸すら放てないほど衰弱している可能性」
「…………」
「先ほどの会話を考慮したら、後者なのは明らかだね。 もしかしたら、弾幕は撃てるかもしれないが、外した時のことを恐怖しているというところか。 確かに、無駄に力を消費して獲物を仕留めきれなかったとあっては、目も当てられない」
だから、と前置きし、
「背後からの不意打ちで、確実に殺害しようと策を弄したわけだな。 幼い容姿に反して、存外えげつない性格だね、君は」
尤も、妖怪を外見で判断するなど意味の無いことなのだがね、と男は苦笑を零す。策がばれたことに驚きを示しながらも、件の少女は、食糧を諦める気がないのか、男が動きを見せると、ぴくりと反応を示している。
「さて、それでどうする? お互い、このまま睨めっこというわけにもいくまい」
「……絶対に逃がさないんだから」
「ふむ。 君は、待ち合わせの場所に、恋人が来ないとわかっていながらも何時間も待つタイプだね」
「…………」
無駄口を叩く余裕もないのか、その紅玉髄の瞳は男を捕らえて放さない。
その様子を見て、男は呟いた。 モテる男は辛いものだ、と。
「…………」
真剣で、剣呑な瞳で見つめてくるルーミアの反応がいまいちだったのか、男は肩をすくめる。
こうして漸く、両者の間に緊迫した空気が流れ始めたのだ。
∫ ∫ ∫
両者が、妖怪と人間として対峙してから、一刻ばかりが過ぎた頃、不意に小さな音が聞こえた。男にとって、それはついさっき聞いたばかりの音である。眼前の、少女の腸が伸縮して「グー」という音だ。余程、空腹なのだろう。 羞恥の感情すらも浮かべることなく、男をただの食糧程度にしか見ていない。
先ほど、男が出会った阿求とは随分と違う。
「こうして女の子に熱い目で見つめられるのは、乙なものだが……今朝から、食したものが飴玉だけだったせいか、私も少し小腹が空いたな」
言葉と同時に、腕をずいっと前に差し出す。 握った掌を上に差し出された腕に、ルーミアは警戒を見せたが、男はそんな少女を気にすることなく、掌に力を込めた。
「どうかな、お嬢さん? この、タネも仕掛けもございません、不可思議な手品は」
警戒の色を浮かべる少女の眼前に、開いた掌を晒す。 それは、銅鑼焼きだった。 先ほど、男が阿求に渡したものと同じものである。ルーミアは、嗅覚を刺激するその甘い匂いに、驚愕を浮かべる。
「……!!」
「欲しい、欲しいかい? 欲しいのなら、わん、と鳴きなさい」
「ほ、欲しいッ」
「君は話を聞いていなかったのかね。 欲しいのなら、わん、と鳴きなさいと言ったのだよ、私は」
「そんなこと知らないわ! 欲しいって言ってるじゃないッ!!」
喚くルーミアを視界に入れながら、男は銅鑼焼きを口にする。その瞬間の、少女の表情は筆舌に尽くしがたいものがあったが、要約すると泣きべそを浮かべた。
「ああ……ッ!」
まるで、この世の絶望を濃縮したような声だ。 男はそんな少女を気にすることなく、呑気に銅鑼焼きを食べていたが。
「流石、私だ。 この味、この歯ごたえ、この香り……完璧だ。 素晴らしいね、私」
ナルシーな気分に浸る。
その様子が余程、気に食わなかったのか、ルーミアは奇声を発して、とうとう男に襲いかかった。策も何もない怒りにまかせた稚拙な一撃だ。 速さも無ければ、技もない。 力も、いつもの三割も込められていないだろう。だが、それでも、その全力を人間の急所に叩き込めれば勝算はあった。これが外れたら終わりだ、と背水の陣をひきながら、ルーミアは全力で、踏み込む。
「私はあなたを倒して、ご飯を食べるんだ―――ッ!!」
切実な叫びと共に、踏み込む脚い力を込め、男の喉を掻っ切るために腕を伸ばす。 食糧を得るために。
∫ ∫ ∫
結果的に言えば、ルーミアの爪は男に届かなかった。
ルーミアは、自分の攻撃が眼前にまで迫っているのに回避行動を取らない男を見て、思った。 とった、と。 だが、一瞬で、彼女の視界から男は消えていた。 先ほど、里でも用いた“時間停止”だろう。それを知らないルーミアにとっては、本当に消えたように見えたに違いない。
「世の中は、儘ならない、儘ならないことばかりだね」
そして、ルーミアは気が付いたら、背後から羽交絞めにされていた状況に目を見開いた。 ジタバタと少女は抵抗するが、空腹のせいで、屈強な男の拘束を振り払うに至らない。今の彼女の体力は、人間の少女とのそれと変わらなかった。やがて抵抗を止めた少女に、男は独白するように語りだした。その表情は懐かしいものを思い出すような顔である。
「私の母は厳しい人でね。 私が野良猫に餌をやる度に、口を酸っぱくして言っていたよ。 安い同情などするな、と。 しかし、幼い私は自分の行動が絶対的に正しい、と信じていた。 子ども故の視野の狭さと、善行に対する絶対的な過信というものだ」
「…………」
「だがね、それから思い知らされたよ。 母の言葉の意味と、無責任な行動に対する責任を」
「……ルーミアは猫じゃないもん、妖怪だもん」
やはり認めたくないものだな、若さ故の過ちというものは、と呟く男に、ルーミアは漸く、口を開いた。 どうやら、野良猫と同列に扱われたのが気に食わなかったようだ。
「もちろん、君は猫でもないし、人並みの知能もある。 しかし、社会性を持たない野良妖怪と、野良猫との間にどれほどの差異がある?」
「……うるさいわ。 結局、何が言いたいの?」
「そうだね、前置きが長すぎた。 では、単刀直入に訊くが、お腹一杯ごはんを食べたいか?」
「あたりまえじゃないッ!!」
何を当たり前のことを言っているんだ、と少女から怒りの感情が零れた。男から、ルーミアの顔は見えないが、その紅玉髄の瞳を怒りに染めている。
「当然、当然の欲求だな。 しかし、こんな生活をしていてもお腹一杯になど滅多にならないだろう? 現にこうして飢えている」
男は、羽交絞めにしていたルーミアから拘束を解くと、その身体を回転させた。そのまま、脇の下に手を挟みこみ、頭上に掲げる。父が娘に行うかのようなそれは、俗に言う、“たかいたかい”という行為だ。
「…………ぇ?」
目を白黒させる少女を可愛らしいな、と男は思いながら、
「実は、喫茶店を出そうと計画していてな。 ちょうど、お手伝いを募集しようとしていたんだ。 まぁ、何が言いたいかというとだな、私の店で働かないか?」
「え? え? どういうこと―?」
困惑した表情を浮かべながら、問う。 どうやら、ルーミアは男の話に興味を持ったようだ。
「私は君が欲しい、ということだ。 妖怪だとか、人間だとか、そんなことはどうでもいい。 もう一度、訊くが……私の店で働いてみる気はないか? もちろん、報酬は払う」
「……ご飯、一杯食べれるのー?」
「ある程度、守ってもらわないといけない義務が生じるが、衣食住のすべてを保障しよう。 なんだったら、博霊の巫女にでも誓おうか?」
この男は、博霊の巫女を神か何かと勘違いしているのかもしれない。それに、博霊の巫女に誓われたとしても、それを信じていいのか、どうかわからない。どうせ、誓うのならば、閻魔様にでも誓ってほしいものである。
「よくわからないけど、ご飯が貰えるってことでいいのかー?」
「概ねそうとって貰ってもかまわない。 ちなみに、判断は君にまかせる。 強制はしない」
「で、でも、ルーミアに働いてほしいんでしょ?」
何故か、男の言葉に妙な反応を示すルーミア。 どうやら、彼女自身の中ではもう答えが出ているのかもしれない。
「ああ、私としては働いて欲しいが、君が嫌だと言うのなら無理強いはできない」
「あ……」
そう言って、男は掲げていた少女を地面に下ろす。 それに残念そうな表情を、我知らず浮かべる少女。
「もし、私の店で働きたいと思ったのならついて来なさい」
そう言って、男は静かにルーミアから離れて行く。男は完全に、決断を彼女自身にまかせるようだ。男が去っていくのを見て、少女の心の中で不可解なものが生じた。それは先ほどまで、男に掲げられていた時に抱いた、不可思議な感情だ。自身が抱いた不可思議な感情に戸惑いつつも、ルーミアは即決断した。
追ったのだ、男の後を。
小走りで追いかけ、男の三歩程後ろを黙ってついていく。 少女は、男になんと言葉をかけていいかわからなかったからだ。その無防備な背中を襲おう、とは思わなかった。
それから暫く歩いた後、男は突如、歩みを止め、ルーミアに振り返る。視線を向けられた少女は、訳が分からず首を傾げた。
「おいで」
そう声をかけられ、ルーミアが男のそばに歩み寄ると、男は彼女を抱き抱えた。
「!? なにするの?」
「これでも、自称紳士でね。 疲れている女の子に無理をさせるわけにはいかない。 何故なら、それが大人の仕事だからだ」
「その割には意地悪だったよー」
ジト目を向けてくるルーミアに、苦笑しながら、男は“造り出した銅鑼焼き”を手渡した。
「今の君は野良じゃない。 私の管理下にある。 なら、食べ物を分け与えても問題ない。 母も許してくれるさ」
「……お菓子だー。 食べてもいいの?」
男の腕の中で、少女は感激していた。今にも涙を流しそうである。男が頷くと、ルーミアは小さな口で、ぱくぱく、と食べ始めた。
どうやら不評ではないようだ。
「食べ終わったら、眠るといい。 最近、寝ていなかったのだろう?」
「え? ど、どうしてわかるのー?」
「肌が荒れている。 おそらく、寝ずに食糧を探し回っていたから、かな」
「み、見るなー!!」
指差しながら告げられたそれは、流石に恥ずかしかったのか頬を赤く染めたルーミアは、顔を隠すために、男の胸へと押し付けた。男はそんな女の子らしい反応を示す少女に苦笑すると、かさかさになった髪を優しく撫でた。
傍から見れば、仲の良い父娘にしか見えないだろう。
「ところで、ルーミア。 この森、どうやったら抜けられるんだ?」
「え?」
どうやら恰好をつけて歩きだしたのはいいが、迷子になったことを忘れていたらしい。
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