【紅魔館】の図書館よりも更に地下、そこにとある部屋がある。否、部屋というにはあまりに無機質で冷たいところだ。牢獄、とまではいかないが雰囲気はそれに近い。部屋の中は簡素だった。大きなベッド一つに、幾つかの縫いぐるみ、クローゼットがあるくらいだ。
そんな薄暗い闇の中、むくり、と影が動いた。ベッドから半身を起こし、伸びをする。目覚めの動き。
「ん……」
小さな欠伸を漏らして、彼女は夢心地の中、目を擦った。その緩慢な動作で、気だるい雰囲気を撒き散らしながら。
何故、彼女がひどく気だるげかというのには理由がある。というのも、部屋の主、吸血鬼である彼女が起きるのに、昼前という時間は随分と早い、いや、活動時間の真逆に位置するからだ。
では、何故、そのような時間に彼女は起床したのだろうか。
「騒がしいなぁ……ひとが気持ちよく眠っていたのに」
その要因となったものは、音である。
それは、意思が衝突する音、地を穿つ音、大気を振るわせる破壊の音。即ち、戦闘の音だ。地下にまで届く音と、戦闘の気配が彼女の眠りを妨げたのだった。
眠気が残る目を名残惜しげに細めながら、彼女は気配の主を探る。両方とも見知った力だ。それを感じ、記憶から検索する。該当有り。片方は門番だ。そして、もう一方は、白黒の魔法使い。危険な能力を持つ自分とも弾幕ごっこをしてくれる稀有な存在に、彼女は先程と違う意味で目を細めた。
「…………いいなぁ」
ふと、声が漏れた。羨望の感情が乗った声だ。自分とも弾幕ごっこをしてほしい、という羨望の声。
幻想郷では、異能を有するもの同士が、いざこざ解決のためや、コミュニケーションの手段として“弾幕ごっこ”という遊戯に興じる。弾幕ごっことは意思疎通の手段であり、遊びの一種なのだ。
実年齢は兎も角、実際は子どもである彼女にとっても、自分の住んでいる地域で流行っている“弾幕ごっこ”というものはひどく魅力的であり、同時に、心の中で重要なポジションを占めていた。
しかしながら、彼女が所有する固有能力【ありとあらゆるものを破壊する程度の能力】が原因で、その遊戯を行ったことなどなかった。
あらゆるものを壊すことが出来るモノ相手に、遊んでくれる存在など居なかったからである。
そんな中、出会ったのが、先程から門番と戦闘を繰り広げている白黒魔法使い、真っ向から相対してくれた存在、霧雨 魔理沙である。
「いいなぁ」
彼女は魔理沙のことを、姉と同じくらい気に入っていた。
だから、襲い掛かる睡眠欲求に抗い、ベッドから腰をあげた。遊んでもらおう、という純粋な感情に従い。
立ち上がるともう一度、伸びをした。彼女の綺麗な七色の、宝石のような翼が揺れた。それは、躍動する彼女自身であるようだ。
実際に鼻歌を口ずさんでいた。弾幕ごっこ、弾幕ごっこ。 久しぶりの弾幕ごっこー、と。
そして、昔は本当に出ることのなかった、最近では稀に出るようになった部屋から飛び出そうとした瞬間、彼女は不意に覚えの無い気配を感じた。
「……誰、これ? お姉様や咲夜、パチェでもない。 それに……弱いのか強いのかもわからないわ」
戦闘経験こそは少ないが、気配にはそれなりに敏感な彼女が捉えた“それ”はまるで、何かを探しているのだろうか。咲夜によって空間操作され、拡張された館を高速で駆け巡っている。速い。とても速い動きだ。人間の出せる速さではない。妖怪の類だろうか。なんにせよ、気になる。非常に気になる。
「うー」
最初の思惑通り魔理沙に弾幕ごっこをしてもらおうか、それとも、謎の気配について調査してみようか、頭を悩ませる。
「あ、そうだ」
逡巡したが、結局、彼女は後者を選択することにした。謎の気配を調査して、尚且つ、その気配の主に弾幕ごっこの相手をしてもらえばいいのではないか、と。
一度、決断すると彼女の行動は速かった。彼女は部屋を飛び出した。向かう先に、簡単に壊れない玩具がっあたらいいなぁ、と思いながら。
「あ。 変なのが、咲夜に捕まった」
突如やってきた咲夜の気配に呑まれ、その存在感はしだいに弱まっていく。張り倒されたのだろうか。
∫ ∫ ∫
紅魔館の図書館。
本当に無限の書があるのではないかと思わせる書庫では、相も変わらずだった。風通しが悪く日当たりもなく、かび臭い室内の中で、書庫の主であるパチュリー・ノーレッジが書を読み浸っている。
ただ違うとすれば、部屋の中央、いつもは沢山の書が積んである机の上は綺麗にされており、彼女の纏う服装が違うことだけだろうか。パチュリーと言えば、“むきゅー”とした面倒臭そうな表情に、ネグリジェを纏った姿が印象的だ。
しかし、その日の彼女はというと、黒のドレスにその身を包んでいる。それは胸元まで大きく開いており、裾に動きやすくするなどの目的で入れられた切れ目、スリットからは眩しい太腿が覗いている、というゆったりとしたドレスだ。
面倒臭いからという理由でネグリジェ姿でいる彼女を知る者ならば、皆、今の姿に対して珍しいこともあるものだと、そう思うだろう。
実際に、小悪魔、若しくは、コアと呼ばれる司書がそうだった。サキュバスのような容姿をした彼女は、驚きに目を見開きながら、
「ぱ、パチュリー様……? いきなり正装などなさってどうかされ……ハラキリ、切腹ですか!?」
小悪魔が普段使用している机を見る。とある本が置いてある。“馬鹿でも分かる日本の歴史”という日本文化を切腹とサムライ、寿司と天ぷらでしか表現できない悪書だ。おそらく、それに影響されたのだろう。
以前、読んだ“虚胸の使い魔”並みにあの書は酷かったわね、とパチュリーはその内容を思い出して綺麗な眉を顰めた。
「誰が切腹よ、誰が。 小悪魔、あなたも馬鹿じゃないんだから、もう少し常識的に考えなさい」
そうですよね、と小悪魔は安堵の息を漏らしながら、
「仮に、“魔女狩り”が行われた時代に生きていたとしても、そのふてぶてしさで、必ず生き残るであろうパチュリー様が切腹なんてなさるわけないですよね。 ですから、おそらく、研究材料調達のために、里の男を誘惑しに行くんですね? コアは、常識的に考えてみましたが、いかがでしょ痛ッ」
パチュリーは無言で読んでいた本を手に、小悪魔の頭頂部を殴打する。ゴスゴスドスドス、と殴打の音が室内に響く中、それを掻き消すように、
「痛、痛いですぅ! あ、頭が、コアのクレバーな頭が変形してしまいますぅうう……ッ!!」
悲鳴に続けて、行為に抗う声を上げる。
「そ、それ以上の暴行に及ぶのでしたら、コアにも考えがありますッ。 パチュリー様の秘密を幻想郷中にばらまきますよ!」
その言葉に、パチュリーは殴打する動き停める。自分の秘密とは何なのだ、と気になったからだ。怪訝な面持ちで、それを問うてみることにした。
すると、小悪魔は満面の笑みで答える。実はですね、と前置きし、
「パチュリー様はムッツリ助兵衛だったり、年上の危ない男性が好みだったり、お嬢様に内緒で【紅魔館】の資金を使って書を大量購入したりと大人しい顔をして、意外にパチュリー無双して……この淫乱雌猫!!!」
その言葉を脳内で反芻したパチュリーは無表情で頷いた。
「少しお仕置きが必要みたいね」
そして、机に置かれているものに視線をやる。銀の鐘と、黒の鐘がある。銀は咲夜を、黒は妖精メイドを呼ぶための鐘だ。パチュリーは黒の鐘を手にとると、一振りした。
リィイン、と聞く限り特別な音色ではない。どこにでもあるような鐘の音だ。
だが、それの音色を聞きつけて図書館に雪崩れ込んできたものがあった。紅魔館お仕置き専門部隊≪豚は死ね≫だ。彼女達の容姿は一見して、他の妖精メイドと変わらない。しかし、他の固体よりも戦闘向けに教育されているだけあって、その動きは俊敏だ。
突入してきたメイド部隊は、一メートル強ほどあろう物差しのようなものを手に、
「ちょ、ちょっと何するんですかぁ!? どうして、こ、コアのスカートを捲ろうとするんですか!!」
小悪魔のスカートを捲ろうと四方八方から、物差しを伸ばす。まるで、エロ戦車発射と言わんばかりに。妖精メイドは己の仕事に、それなりの誇りを持っているのだろう。皆、真面目な表情で小悪魔に群がっている。
ひどくシュールな光景だ。
群がられた小悪魔は顔を紅潮させ、スカートを抑えているが時間の問題だろう。直に捲られるに違いない。なにせ、お仕置き専門の妖精メイドだ。容赦なんてものを望むのが間違いである。
…………まるで、死肉に群がるハイエナのようね。
同性として、そのあんまりな光景に、パチュリーは流石にやり過ぎたかと思い、声をかけることにした。
「反省した?」
「反省しました! 反省しましたから、この常識を弁えない妖精達を何とかして下さいまし……ッ」
涙声の返答だ。実際に目尻からは光るものが零れている。自分がやったこととはいえ、可哀想だ、気の毒だ。しかし、それ以上に嗜虐心が沸き立った。
「あらあら、何ですって? 少し騒がしくて聞こえなかったわ。 悪いけどもう一度、言ってくれない?」
「で、ですから――――きゃぁああ! こ、この、離れなさい!! ぱちゅりー様ぁあああお願いですから助けてくださぁあいぃ」
騒ぐ小悪魔の周囲では、妖精達が無表情ながらも意地悪そうに、
「ねぇねぇ、見てよ。 こいつ悪魔のくせに、こんなに地味な下着よ」
「今時、清純系って需要あるのかしら? 連隊長ー、どうなんですか?」
「こら! 今、私達は仕事中なのよ。 そういう話は後で、詰所でするって決まりでしょ? わかった?」
「はーい」
尻を叩かれたり、スカートを半ばまで捲られたり、暴言を吐かれたりと、妖精相手に散々な目に遭っている司書に頷く。もう満足いったわ、と。
パチュリーは再度、黒の鐘を手にするとそれを一振りした。途端に、妖精達は動きを止めて、依頼人、パチュリーに視線をやる。何か追加オーダーがあるのでしょうか、と。
妖精の視線を受け、魔女は首を横に振り、
「ご苦労だったわね。 此処はもういいから、各自、持ち場に戻ってちょうだい」
「はぁはぁ…………さっさと消え失せろです。 この、失礼極まりない変態妖精共め」
妖精メイド達は一礼すると、
「痛い痛い……ッ! あいつら去り際に、コアのお尻を一閃していきましたよ!?」
各自、己の物差しのような武器で、小悪魔の尻を叩き終わると退出していく。妖精達は何を考えているのかわからない無表情だが、その雰囲気から“してやったり”という感情が窺えた。
顔を紅潮させ、肩を怒らせる小悪魔の、その反応に、パチュリーは笑みを見せた。くすり、と零した小さな笑みだ。
「小悪魔、あなた、一人で随分と楽しそうね」
「た、楽しくないですよ。 どうして、コアが、コアがこんな目に遭わないといけないんですかっ?」
「因果応報って言葉、知ってる?」
「原因があって、それに伴う結果があるということですね。 つまり……鏡を見ろ、と仰るのですか?」
小悪魔は懐から手鏡を取り出す。鏡に映るのは、まだ子どもらしさを残した低級悪魔の自分の姿だ。先程の妖精メイドとのやりとりで乱れた髪を整え、笑顔を作る。その上で得た答えを口にした。
「筆舌に尽くし難い美少女が鏡に映っています。 これは……コアの美貌を妬んだ魔女の嫉妬、ということでよろしいでしょうか?」
その言葉に、思わず“日属性”の魔法を叩き込もうとするも、書への被害を考えて断念することにした。司書を吹き飛ばすことに躊躇いはないが、書はそういうわけにはいかない。書とは彼女にとってかけがえのない存在だからだ。
我慢するように、気持ちを誤魔化すように溜息をこぼし、
「……いつも思うんだけど、あなたはどうしてそうも、無駄に自信満々なの? 何か根拠でもあるのかしら?」
「当然です。 例えばですね…………」
胸を張りながら、小悪魔は答える。どうやら、自信溢れる言葉には根拠がるらしい。暇つぶし程度に聞いてみよう、とパチュリーは耳を傾けることにした。数分後に後悔するでしょうね、と思いながら。
「コアが人里を訪問した際には、大人達は子どもを家の中に隠します。 それはおそらく、人外であるコアの美貌に、子どもが狂ってしまわないようにするためでしょう。 そして、子どもを隠し終わった大人は、コアを指差して、こう言うのです」
一旦、言葉を置き、
「紅魔館の紅一点がまた着やがったぞ、と。 ふふふ、つまり、コアは紅魔館一の美人ということです」
紅一点とは、大勢の男性の中で一人だけ女性が存在するという意味を持つが、本来は、不特定多数の中で異彩を放つもの、という意味だ。
では、紅魔館の紅一点とはどういう意味だろうか。
紅一点、小悪魔の素行、カリスマ当主であるレミリアのことを念頭に置き、パチュリーは僅かばかり思考してみる。すると、即座に、居た堪れない気持ちになった。
つい、同情にも似た視線を送ると、
「ふふん」
よく意味のわからない笑みを返された。優越に似た笑み、だろうか。なんにせよ、カチン、とくる笑みだった。
…………この不良司書は一度、酷い目に遭わないと学習しないのかしら? 確か、悪魔にも有効な呪術があったわね……。
記憶領域に、激烈で、陰鬱な嫌がらせ方法がなかったか検索をかけながら、パチュリーは話を戻すことにした。
兎も角、と前置きの言葉を放ち、
「話が脱線したわ。 服の件だけど、昨日の話は覚えているでしょう? 今日はね、私の招待したお客様が訪ねてきてくれるのよ」
「そういえば、そんな話をしていましたね。 ところで、そのお客様というのは?」
その問いに、パチュリーは机の上に置かれている菓子の袋を指差す。先日、とある魔法使いから咲夜が貰ってきた菓子の袋だ。
「ああ……パチュリー様が毒見して安全だとわかった途端、あまりの美味しさに、コアが食べ尽くしたアレの製作者ですか」
「…………」
ふてぶてしいのはお前だろうが、と全身全霊で突っ込みたいのを我慢する。それと同時に思う。どうして自分は、こんな性格に難がある司書を雇ったままなのだろうか、と。
おそらく、その理由は腐れ縁。特別な因果も、ありきたりな運命でもなく、本当にただの偶然で繋がった嫌な縁。それ以来、まるで使い魔とその主人のような関係が成立していた。
…………数十年前は、素直でいい子だったのに、一体どうしてこんな性格になったのかしらねぇ……。
特段、事件らしい事件はなかった。紅魔館は、日々を過ごす環境としても快適な筈なのだが。
「しかし、珍しいですね。 コアが知りうる限りだと、パチュリー様がお客様を招待するなんて何十年振りですよ。 一体、どういう心境の変化です?」
「理由は幾つかあるわ。 まずは、創造だなんて珍しい魔法を直に見せてほしい、次いで――――」
魔女の言葉を遮るように、あるいはその続きを唱えるために、小悪魔が口を挟む。
「出来るならば、何か美味しいものをご馳走になりたい、という女の欲望番外地ですね?」
発せられた言葉に、パチュリーは眉間を揉む。眉間に寄った皺を解す動作だ。同時に怒りを解す動作でもある。あながち否定できないそれ
に、何とか耐える。しかし、段々と許容量を満たしていく感情は、あと僅かというところで溢れ出そうだった。
「さすが、紅魔館の動かない大図書館!! 伊達に、食っちゃ寝の生活で、お尻が大きく――」
「Be Quiet!!」
最後の駄目押し。止めの一撃が来た瞬間に、その言葉を遮るように、パチュリーは呪文を唱えた。それは、とある罠を起動させるための言葉だ。衝動的に唱えたそれの後に、パチュリーは問いを放つ。
「陥穽、の類義語は?」
「ええと……罠? 落とし穴ですか?」
小悪魔が、それに答えた直後、彼女の足下の床が音を立てて開けた。ぱか、っとまるでカトゥーンのように。落とし穴。古典的な罠だ。
「な、なんて古典的な! しかし!! この背中の羽は飾りではありません。 コアだってやればできる子なん――――」
・――――月符「サイレントセレナ」
咄嗟に浮遊しようとしている小悪魔目掛けて、手加減した魔法を放つ。落ちろ、と意思を込めて。
パチュリーは精霊、属性魔法の使い手であり、火、水、木、金、土、日、月の七属性を扱う。魔に属する小悪魔に、天敵である日属性が放
たれなかったのはせめてもの情けだろうか。それでも攻撃魔法だ。ある程度の威力は伴う。小悪魔は悲鳴を残して、衝撃と重力により穴の底へ落下していった。
∫ ∫ ∫
小悪魔が消えた室内で、パチュリーはいつもの憮然として呟いた。眉間に皺を寄せ、まるで世の不条理を嘆くかのような表情だ。
「どうしてこうも、私の周囲には常識人がいないのかしら? まったく……」
言葉の途中、図書館の扉が開かれる音がした。停滞した部屋の中に、僅かばかり空気が流れ込む。首を動かし、扉に目をやる。そこには見慣れた人影があった。十六夜 咲夜だ。
「失礼します」
彼女はいつもの涼しげな顔を僅かばかり紅潮させ、何かを引きずりながら入室してきた。いつもは此方の集中を損なわないように時間を停めてくるはずなのに、そうしないで入室してくるのは珍しいことだ。何か理由でもあるのだろうか。
「パチュリー様。 お客様が訪問なされましたので、お部屋へとお連れしてまいりました」
「お客様って……まさか」
咲夜が引きずってきたものに視線をやる。グレイの紳士服を纏い、これまたグレイの髪をオールバックにした男だ。おそらく、咲夜にアポイントメントをとってもらった、お菓子の魔法使いだろう。
そして、戦闘でもしたのか、その服は薄汚れ、整えられていたであろう髪は乱れ、その上、筵で縛られ、つまり簀巻きにされている。
「咲夜……あなた」
ホストである此方の仕打ちとしは、あんまりだ。自然とパチュリー瞳に剣呑な光が浮かぶ。
「申されたいことは理解できます。 しかし、パチュリー様」
いつになく真剣な顔で、
「この方は危険です。 想像を絶する変態です。 何をするかわかったものではありません。 お嬢様やパチュリー様、妹様に何かあってからでは遅いのです。 本当は屋敷に入れるのも憚られます。 これが最低限の譲歩なのですわ」
自分と会話しながらも、注意という意識を男に向けているのがわかる。警戒した瞳に油断はない。余程、酷い目に遭ったのか、と問おうと思ったが、藪から蛇を出すものでもないと思った彼女は口を噤んだ。
「それに、私から攻撃したわけではありません。 つまり、正当な防衛行為ですわ。 確かに、やり過ぎた感は否めませんが」
「正当な防衛?」
咲夜は頷き、思い出したくないことを回想するように、眉を小さく歪ませながら、
「この変態は、私の姿を目にするや否や、涼しい顔で妄言を囁きながら、恐ろしい速さで駆け寄ってきました。 その速度はまるで、お嬢様が投擲された神槍のようで……」
レミリアの放つ神槍は、高速などというレヴェルものではない。投擲後のコントロールは効かないが、放たれた瞬間から、対象に食らいつくまでは本当に、あっと言う間だ。それに喩えたのだから、彼は相当な速度だったのだろうと予測できる。
「そして、何故か腰に手を回されたので、つい」
「つい、不気味に思って張り倒してしまった、と?」
「腰に手を回されたことから、おそらく、不埒な真似に及ぶものだと。 実際、初対面では…………下着を外されるなど散々な目に遭いましたので」
唇を噛み締めて告げる。
「なるほど、そういう事情があるなら仕様がないかもしれないわね……。 この男性は、女性には紳士的に接するって、魔理沙が言って筈なんだけど」
「噂など信用ならないものです。 」
「そ、そう。まぁ、咲夜がそこまで言うのだから、あながち否定できな――――む?」
「? どうかなされました?」
唐突に違和感を抱いた。喉の奥に小骨が刺さった時のような違和感を。倒れている男に対して何かがおかしい、と。理由らしい理由はない。ただ、経験からくる勘のようなものだ。
「ぴくりとも動かないわ……まるで死体ね」
男を見て端的に思ったことが、それだ。まるで人間味が、生気が感じられない。
「咲夜?」
「粗相を働かされそうになりましたので、必要以上に張り倒しましたが、息の根は止めてはいません。 おそらく、気を失っているだけかと」
「私にはどうも……気絶している風には思えないのよねぇ」
とりあえず確認してみてちょうだい、と視線を送る。すると珍しいことに、咲夜は眉を顰めた。彼女がこのような反応を示すことから余程、嫌なのだろう。
「気絶した振りしていて、確認する際に、いやらしい真似を仕掛けてくる可能性がありますわ」
…………これは筋金入りね。 頼めばやってくれるでしょうけど、無理強いはあまりしたくないし……どうしましょう。
自分で確認するという選択肢もあったのだが、咲夜の話を聞いている内に生じた警戒心が、その行動を阻害していた。
「……」
どうしようかと思った時だ。入り口の扉の向こうで騒がしい音がし、
「ぱ、パチュリー様! コアのことをまるで色物みたいに扱って、ただで済むと思っているのですか!?」
図書館の司書、小悪魔が落とし穴から帰ってきた。パチュリーは無表情で頷いた。ちょうどいいところに来た、と。脳内では以前、読んだ書の内容が展開されていた。
…………確か、アレは疑似餌を用いて巨大肉食魚を釣りあげるっていうアウトドアな内容だったわね。
なんにせよ、良いタイミングに来たものだ。
「小悪魔。 帰還早々で悪いけど、仕事よ。 そこに倒れている男性を起こしてちょうだい」
「いきなり何を寝ぼけたことを言っているのですか。 自分で起こして下さいよ。 もしくは、咲夜さん。 コアは司書です」
「起・こ・し・て」
机の上にある黒の鐘を、軽く鳴らす。扉の向こうで気配が生じた。小悪魔の天敵になりつつある鬼畜メイド部隊だ。彼女は頬を引き攣らせて、パチュリーの命令に頷いた。いつか目にものを見せてやる、と。
パチュリーは小悪魔に微笑んだ。やれるものならばやってみなさい、と。
∫ ∫ ∫
何故、咲夜トパチュリーが起こさないのか疑問に思いながら、小悪魔は男の肩を揺する。
「まったく、コアは司書なんですよ。 どうしてこんなことを……バーローが、起きてますかー?」
その表情は凄く面倒臭そうである。
その様子を微笑みと共に、遠巻きから眺めていたパチュリーは唐突に、男に対して感じていた違和感の正体がわかった。
…………なるほどね、この感じ、何かに似ていると思ったら、“あの人形師”が遣う人形に似ているんだわ。 ということは、この場にある
あの身体は本体ではないってことかしら?
「パチュリー様」
倒れた男性を見つめる自分の表情から、何かを読み取ったのだろう。傍らに立つ咲夜から、疑問の声を放たれた瞬間だ、パチュリーは見た。小悪魔に意識の確認をされていた男の身体が崩れるのを。
崩れると言っても前後左右に姿勢が崩れるという意味での崩れるではない。形を持つものが、その形という概念を喪失することだ。同義語に壊れる、という言葉がある。
では、ヒトの身体が壊れるとはどういうことだろか。それは、ヒトの形を構成する部分的パーツの欠損のことを言うのが一般的だろう。欠損といっても、腕や足などの目に見えてわかる顕在的欠損、また、心臓や脳のように目で直接見ることの叶わない潜在的欠損、の二種に分けられる。
この場合、男の身体は目に見えて崩壊している。首は捥げ、手足は千切れ、胴体から独立したパーツとして床に転がされいた。ころころ、と足元に転がってきた首を手にした小悪魔は、
「?」
ぼーっ、とそれを見つめている。いきなりの事態に混乱しているに違いない。そして、ようやく手に持つそれを認識できたのか、
「ぱ、ぱ、ぱ、パチュリー。 首が首がですね、首が捥げまちた、捥げちゃいましたよー!? これ、何ていうレゴですか? 一体どういうことなんですか? ま、まさか突如目覚めたコアの凶悪能力の暴走に……? そんな、なんていうことを……そういえば、先程から妙に利き手が痺れますね……これは、やはり能力の暴走ですか! くっ……静まれ!!」
小悪魔の妄言を無視し、
「それよりも、ようやく違和感に気がついた。 ねぇ、小悪魔。 その手に持っているのは本当に人間の肉? 多分、人形だと思うんだけど」
軽く混乱していたこともあって、きちんと確かめたわけではないようだ。手触りから人肌のようだが……、と小悪魔は手中にある首に再度、視線をやる。パチュリーも離れたところから視線を送る。
『やぁ』
突如、小悪魔の手元から声がした。捥げた顔には笑みが浮かんでいた。人を馬鹿にしたような癪に障る笑みだ。そして、眼球があるはずの場所には黒い穴が開いていており、とめどなく血の涙を流している。ひどく不気味なオブジェだ。
「ひ、変態!!!」
短い悲鳴と共に、小悪魔はそれを放り投げた。あまりに不気味だったからだ。それは一度、地面に跳ねた後、頭はころころ、と転がり、爆発した。
…………人形を爆発させる、か。 まるで、どこかの人形師みたいね。
『痛い、痛いなぁ。 もう少し丁重に扱ってほしいものだ。 私は、見た目どおり繊細な身なのだよ、人形だが』
しかし、室内に響く声は未だに続いていた。また、その声は咲夜にとっては聞き覚えのあるものであった。彼女にとっては気に入らない魔法使いの声だ。不倶戴天の敵と言ってもいい。即座に戦闘態勢に移行する。
「この声は……変態!?」
『そう、その通りだ。 おやおや、咲夜君。 貴方はさっき倒したはずなのに、とでも言いたげな表情だね』
「パチュリー様。 コアは些細な疑問を抱きました。 あの人、咲夜さんに“変態”って呼ばれてそれに肯定、反応してましたよ」
パチュリーの傍らに逃げてきていた小悪魔が呟いた。
「見て見ぬ振りを、聞いて聞かぬ振りをするのが人情ってもの」
魔女と司書の言葉を無視し、男は口を開く。内心、気にしていたことなのだろうか。少し、間があった。
『……変わり身の術、というものをご存知かね?』
「東洋に伝わる忍術の一種ね。 その効能は文字通り、自分の変わり身となるものを用意し、攻撃やら意にそぐわぬものから回避するもの」
「まさか…………さっき、半殺しにしたのはフェイクだって言うの?」
瞬間、男の胴体、手足が爆ぜた。床に転がされていた残りのパーツだろう。爆発で生じた小さな風が、蝋燭の火を掻き消す。地下にある図書館の明かりが消え、自然と室内は闇に支配された。
人間の視力は、明るい場所から、暗い場所に、急に順応は出来ない。そこにラグが生じる。魔女ではあるが肉体能力は人間の範囲であるパチュリーと、人外じみているが人間の咲夜にもそれは例外ではなかった。
また、小悪魔は夜目も効くが、暗闇の中に、男の姿を見つけられない。男の声は聞こえてくるが、姿が見つからない中、小悪魔は
「パチュリー様。 コアはろくな説明を受けていないのですが、何なのですかこの状況は? もしや、あの賊はコアのお尻を狙っているのでしょうか!?」
小悪魔の言葉を無視し、咲夜は何があっても、パチュリーを守れるように構えながら、飛び込んでくる声を聞いた。
「お初に御目にかかる、魔女殿。 私の名は、雪人。 本日は、お宅の咲夜君を、嫁に貰いにきた」
魔法でも使ったのだろう。消えたと思った蝋燭は、あっと言う間に灯り、室内に光が溢れた。パチュリーの視力が順応した時、彼女の前には帽子を片手に恭しく頭を垂れる男の姿があった。
「あら……いい男」
「え?」
――――――――――――――――――――――――――――――
あとがき
師走は忙しい、って言うのは本当でした。
では、またの機会に。GOOD LUCK!!
次回完成率40%