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No.10186の一覧
[0] 聖将記 ~戦極姫~  【第一部 完結】 【その他 戦極姫短編集】[月桂](2010/10/31 20:50)
[1] 聖将記 ~戦極姫~ 前夜(一)[月桂](2009/07/14 21:27)
[2] 聖将記 ~戦極姫~ 前夜(二)[月桂](2009/07/19 23:19)
[3] 聖将記 ~戦極姫~ 前夜(三)[月桂](2010/10/21 21:13)
[4] 聖将記 ~戦極姫~ 前夜(四)[月桂](2009/07/19 12:10)
[5] 聖将記 ~戦極姫~ 前夜(五)[月桂](2009/07/19 23:19)
[6] 聖将記 ~戦極姫~ 前夜(六)[月桂](2009/07/20 10:58)
[7] 聖将記 ~戦極姫~ 邂逅(一)[月桂](2009/07/25 00:53)
[8] 聖将記 ~戦極姫~ 邂逅(二)[月桂](2009/07/25 00:53)
[9] 聖将記 ~戦極姫~ 邂逅(三)[月桂](2009/08/07 18:36)
[10] 聖将記 ~戦極姫~ 邂逅(四)[月桂](2009/08/07 18:30)
[11] 聖将記 ~戦極姫~ 宿敵(一)[月桂](2009/08/26 01:11)
[12] 聖将記 ~戦極姫~ 宿敵(二)[月桂](2009/08/26 01:10)
[13] 聖将記 ~戦極姫~ 宿敵(三)[月桂](2009/08/30 13:48)
[14] 聖将記 ~戦極姫~ 宿敵(四)[月桂](2010/05/05 19:03)
[15] 聖将記 ~戦極姫~ 幕間[月桂](2009/09/04 01:04)
[16] 聖将記 ~戦極姫~ 激突(一)[月桂](2009/09/07 01:02)
[17] 聖将記 ~戦極姫~ 激突(二)[月桂](2009/09/07 01:01)
[18] 聖将記 ~戦極姫~ 激突(三)[月桂](2009/09/11 01:35)
[19] 聖将記 ~戦極姫~ 激突(四)[月桂](2009/09/11 01:33)
[20] 聖将記 ~戦極姫~ 上洛(一)[月桂](2009/09/13 21:45)
[21] 聖将記 ~戦極姫~ 上洛(二)[月桂](2009/09/15 23:23)
[22] 聖将記 ~戦極姫~ 上洛(三)[月桂](2009/09/19 08:03)
[23] 聖将記 ~戦極姫~ 上洛(四)[月桂](2009/09/20 11:45)
[24] 聖将記 ~戦極姫~ 上洛(五)[月桂](2009/09/21 16:09)
[25] 聖将記 ~戦極姫~ 上洛(六)[月桂](2009/09/21 16:08)
[26] 聖将記 ~戦極姫~ 深淵(一)[月桂](2009/09/22 00:44)
[27] 聖将記 ~戦極姫~ 深淵(二)[月桂](2009/09/22 20:38)
[28] 聖将記 ~戦極姫~ 深淵(三)[月桂](2009/09/23 19:22)
[29] 聖将記 ~戦極姫~ 深淵(四)[月桂](2009/09/24 14:36)
[30] 聖将記 ~戦極姫~ 蠢動(一)[月桂](2009/09/25 20:18)
[31] 聖将記 ~戦極姫~ 蠢動(二)[月桂](2009/09/26 13:45)
[32] 聖将記 ~戦極姫~ 蠢動(三)[月桂](2009/09/26 23:35)
[33] 聖将記 ~戦極姫~ 蠢動(四)[月桂](2009/09/30 20:54)
[34] 聖将記 ~戦極姫~ 蠢動(五) (残酷表現あり、注意してください) [月桂](2009/09/27 21:13)
[35] 聖将記 ~戦極姫~ 狂王(一)[月桂](2009/09/30 21:30)
[36] 聖将記 ~戦極姫~ 狂王(二)[月桂](2009/10/04 16:59)
[37] 聖将記 ~戦極姫~ 狂王(三)[月桂](2009/10/04 18:31)
[38] 聖将記 ~戦極姫~ 幕間[月桂](2009/10/05 00:20)
[39] 聖将記 ~戦極姫~ 狂王(四)[月桂](2010/05/05 19:07)
[40] 聖将記 ~戦極姫~ 狂王(五)[月桂](2010/05/05 19:13)
[41] 聖将記 ~戦極姫~ 狂王(六)[月桂](2009/10/11 15:39)
[42] 聖将記 ~戦極姫~ 狂王(七)[月桂](2009/10/12 15:12)
[43] 聖将記 ~戦極姫~ 狂王(八)[月桂](2009/10/15 01:16)
[44] 聖将記 ~戦極姫~ 音連(一)[月桂](2010/05/05 19:21)
[45] 聖将記 ~戦極姫~ 音連(二)[月桂](2009/11/30 22:02)
[46] 聖将記 ~戦極姫~ 音連(三)[月桂](2009/12/01 22:01)
[47] 聖将記 ~戦極姫~ 音連(四)[月桂](2009/12/12 12:36)
[48] 聖将記 ~戦極姫~ 音連(五)[月桂](2009/12/06 22:32)
[49] 聖将記 ~戦極姫~ 音連(六)[月桂](2009/12/13 18:41)
[50] 聖将記 ~戦極姫~ 音連(七)[月桂](2009/12/19 21:25)
[51] 聖将記 ~戦極姫~ 音連(八)[月桂](2009/12/27 16:48)
[52] 聖将記 ~戦極姫~ 音連(九)[月桂](2009/12/30 01:41)
[53] 聖将記 ~戦極姫~ 音連(十)[月桂](2009/12/30 15:57)
[54] 聖将記 ~戦極姫~ 幕間[月桂](2010/01/02 23:44)
[55] 聖将記 ~戦極姫~ 音連(十一)[月桂](2010/01/03 14:31)
[56] 聖将記 ~戦極姫~ 音連(十二)[月桂](2010/01/11 14:43)
[57] 聖将記 ~戦極姫~ 音連(十三)[月桂](2010/01/13 22:36)
[58] 聖将記 ~戦極姫~ 音連(十四)[月桂](2010/01/17 21:41)
[59] 聖将記 ~戦極姫~ 筑前(第二部予告)[月桂](2010/05/09 16:53)
[60] 聖将記 ~Fate/stay night~ [月桂](2010/01/19 21:57)
[61] 影将記【戦極姫2発売記念】[月桂](2010/02/25 23:29)
[62] 影将記(二)[月桂](2010/02/27 20:18)
[63] 影将記(三)[月桂](2010/02/27 20:16)
[64] 影将記(四)[月桂](2010/03/03 00:09)
[65] 影将記(五) 【完結】[月桂](2010/05/02 21:11)
[66] 鮭将記[月桂](2010/10/31 20:47)
[67] 鮭将記(二)[月桂](2010/10/26 14:17)
[68] 鮭将記(三)[月桂](2010/10/31 20:43)
[69] 鮭将記(四) [月桂](2011/04/10 23:45)
[70] 鮭将記(五) 4/10投稿分[月桂](2011/04/10 23:40)
[71] 姫将記 & 【お知らせ 2018 6/24】[月桂](2018/06/24 00:17)
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[10186] 聖将記 ~戦極姫~ 邂逅(三)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049 前を表示する / 次を表示する
Date: 2009/08/07 18:36


 春日山城の戦いは、終わった。
 先代守護代・為景が築いた春日山城は、その威勢を知らしめる建造物である以上に、何よりも戦のために築かれた城であった。
 そして、俺がいた天守は、その最終防衛線とも言うべき場所。城内を見渡し、また城外を遠望でき、敵味方の配置が瞬時に把握できるように建てられている。
 その天守から城内の様子を見てみると、俺の仕掛けた火計の影響であろう、まだ雨の中、煙が立ち昇っている場所も見られたが、それでもほどなく鎮火されることになろう。
 人と自然と、双方の手によって。時ならぬ豪雨は、動揺する将兵の心を鎮める役割も果たしたのかもしれない。


 そして、冷静になった景虎様率いる精鋭部隊に、俺一人が太刀打ちできるわけもなく。
 ここに、春日山城は、景虎様の手によって奪取されたのである。
 同時に、それは俺の命運が尽きたことを意味した。越後を真っ二つに分かった敵方の総指揮官であれば、その末路は火を見るより明らかなこと――と、おれは思っていたのだが。
「――縄でがんじがらめにされるのはもちろん、その場で首を刎ねられる覚悟もしていたんだけどな」
 俺は困惑しつつ、城内の一室で座り込んでいた。室内には俺一人しかいない。さすがに襖の向こうには見張りの兵士がいたが、それとてあくび混じりの適当なもので、逃げ出そうと思えば、決して不可能ではなかっただろう。


 とはいえ、俺はそうするつもりには、どうしてもなれなかった。
 これが厳重な警戒下に置かれた後ならば、まだそう思えたかもしれないが、ここまで身軽な状態で軟禁(と呼べるかも怪しいものだが)されると、相手の礼に応えなければ、という意識が先に立つ。
 景虎様は、敗北を認めた俺が、今さら逃げ出そうとするとは思っていないのだろう。そうでもなければ、今の状況に納得いく説明がつけられない。その信を裏切る真似はしたくなかった。


 それに、仮に俺が逃げたとしても、晴景様と合流することは出来ないだろう。
 春日山城陥落の知らせは、すぐにも晴景様のところに届けられるだろうし、そうすれば、晴景様は米山に向かわれる筈である。
 春日山城を制圧した景虎様の軍勢は、錬度こそ高いが、数は三百にも満たない程度で、城を押さえるだけで手一杯であろう。上杉邸から米山まで、晴景様の身が危険に晒される可能性は少なく、また多少の危地に陥ったところで、弥太郎がいれば、切り抜けることは難しくない。おそらく、晴景様は米山まで無事に着かれることだろう。


 では、晴景様が米山にたどり着くことは、越後の争乱の継続を意味するのか。
 答えは、おそらく否。
 春日山城を景虎様が押さえたことで、米山、北条城の晴景軍は孤立し、前後を景虎軍に封じられてしまった。春日山城奪還に動けば、後背から追撃を受ける。仮に他の城、たとえば栃尾城などを奪おうと動けば、米山の守りを自ら捨て、野戦で勝敗を決する必要に迫られる。正直なところ、晴景様では、その統御は難しいだろう。威勢が回復しつつあるとはいえ、本拠地を陥落された守護代の命令に、他の国人衆が従うかもわからない。まして、晴景様が動けば、春日山城にいる景虎様も当然動く。神速の進軍をもって、晴景様の軍勢の後背を衝くであろう。
 そして、それは仮に俺が春日山城を逃げ出し、米山に赴いたところでかわりはないのである。


 さらには、兵糧の問題もある。北条城にはかなりの備蓄があるが、五千をはるかにこえる軍勢を、何ヶ月にも渡って支えられるだけの量は、さすがにない。もっとも、それは景虎様の方とて同じことだろうが、いずれにせよ、対峙する両軍は動かざるをえなくなる。そして、どちらに動くにしても、晴景様が圧倒的に不利な状況に置かれることは、前述したとおりである。
 事実上、すでにこの戦いは終わったと言えるのだ。


 無論、その戦況をつくってしまったのは、俺の責任である。晴景様や、その配下の将兵には申し開きのしようもない。他人事のように論評出来る立場ではないのだが、しかし、他にすることもなかったりする。
「さて、どうしたものか」
 腕組みして、首を捻る。
 とはいえ、勝敗はほぼ定まり、俺自身は捕虜という立場上、行動の自由なんぞない。景虎様の方から何か言って来るのを待つしかないのだが。
 そう思っていると、思いがけないことに、俺の言葉に反応があった。
「――もちろん、この国の兵火を鎮めるために、力を尽くしてもらうつもりだ」
 襖が開かれ、心地よい初夏の風が室内に吹き込んできた。
 入ってきた人物を見て、俺は慌てて頭を下げる。景虎様御本人であったからだ。
 その背後には、先刻、天守の間で景虎様の後ろに付きしたがっていた二人の女性の姿がある。
 おそらく、この二人が直江兼続と、宇佐美定満の二人なのだろう。
 直江の方は、射るように鋭い眼差しでこちらを見据えているのに対し、宇佐美の方は、どこかとらえどころのない煙るような眼差しであった。俺を警戒しているのか、あるいは取るに足らないと考えているのか、その程度のことさえ読み取ることが出来ない。


 だが、今はそんな人物観察よりも気にするべき事があった。
「――兵火を鎮めると仰いましても、敗軍の将に何をお望みなのですか、景虎様」
 俺は戸惑いを覚え、反問する。
 景虎様ほどの方であれば、勝利の天秤がいずれに傾いたかはわかっておられよう。
 春日山城を奪われたことを知れば、米山、北条の晴景様の軍勢は必ず動揺をきたす。たとえ晴景様が合流しようとも、時をかければ、血を見ることなく戦を終わらせることは可能である。
 今、向背定かならぬ俺を動かす危険を冒す必要は、特にないと思うのだが……


 俺の思惑を察したのか、景虎様は小さく頭を振った。
「戦に関してではない――そなたには、姉上の下に赴いてもらいたいのだ」
 そう言う景虎様の顔が、わずかに翳りを帯びた。
 その言葉と、表情を見て、景虎様の言わんとするところは大体察することが出来た。
 俺は困惑して、口を開く。
「晴景様は、私の言うことを素直に聞き入れて下さる方ではありません。降伏であれ、和平であれ、おそらく首を横に振られるかと思います」


 若輩の身で、大将に抜擢された為、越後国内では、俺が晴景様の信頼厚い重臣である、と思われている節があった。
 実際、それはあながち誤りというわけではないかもしれない。
 柿崎と戦う際に、城の府庫を開いて財宝を兵士たちに分け与えたことや、その戦で功を立てた弥太郎らを士分に取り立てた時などは、晴景様は俺の具申をほぼそのまま受け容れてくれたからである。
 だが、逆に、晴景様自身の意向に反する意見を述べた時は、確実に俺の意見は棄却された。景虎様との友好を望んだ俺の意見を一蹴したことも、これに当たる。
 そして、景虎様が俺に望むであろうことは、おそらく晴景様の意に沿わぬことであり、俺がいくら申し上げようとも、晴景様が首を縦に振ることはないだろう。
 何より、俺が景虎様の使者として、晴景様の前に赴いたら、物も言わさず裏切り者として処断されてしまうに決まっていた。


 だが、俺がそう言うと、景虎様は再び頭を振り、澄んだ眼差しで俺を見つめた。
「降伏や和平を求めるわけではない。ただ、姉上と向き合って話がしたいのだ。何故、姉上が私を疎むのかが、私にはわからない。誤解があるのならば、それを解かねばならないし、もし、この身に至らぬ所があるのならば改めもしよう。いずれにせよ、姉上の口から、真実を聞きたいのだ」
 今さらではあるかもしれないが、と景虎様はわずかに面差しを伏せた。


 確かに、景虎様の言うとおり、本来なら話し合いは戦に先立って行われるべきであったかもしれない。 しかし、柿崎を破り、昔年の勢威を取り戻して意気軒昂であった晴景様は、まず間違いなく景虎様との話し合いに応じようとはしなかっただろう。それは、小細工を弄して柿崎景時を操り、景虎様との間に戦端を開いた事実からも瞭然としていた。
 もっとも、その件に関しては明確な証拠があるわけではない。しかし、出陣に先立つ晴景様の様子、そして柿崎城で目の当たりにした景時の言動。その二つを見比べれば、この推測に間違いはあるまい。そう判断したからこそ、俺はあの時点で景時を処断したのである。後々、この真実を知る景時が、晴景様の災いとなると判断してのことであった。
 とはいえ、景時の処断に躊躇がなかったわけではない。しかし、当主である景家の死後、柿崎城の混乱を最小限で鎮めた景虎様の恩を足蹴にするような男は、春日山には不要である。降ったところで、いつ後ろから刺されるかわかったものではないし、景時の随身を許せば、景虎様との和解の機会がますますなくなってしまうという危惧もあった。


 ともあれ、晴景様の、景虎様への憎しみは隠れようもない。このまま戦を続ければ、お二人が姉妹として言葉を交わす機会はめぐってこないだろう。あったとしても、それは勝者と敗者という形でのものとなり、景虎様が望むものとはなりえまい。
 それゆえ、お二人が姉妹として語ることが出来る機会は、今しかなかったのである。晴景様の慢心が崩れ、しかし、表面的にはいまだ戦況は定かならずと見られている今しか。


 そして、それは俺にとって願ってもないことだった。このまま戦況が推移すれば、晴景様の敗北と死は免れない。無論、話し合いの結末によっては、同じ事態が待っているし、仮に和睦が成ったとしても、晴景様の立場が苦しいものであることにかわりはないだろう。だがそれでも、陰謀をもって妹を除こうとした挙句、返り討ちにあったという醜名を残すより、はるかにましな決着ではないか。


 そう考えた俺が、景虎様に諾の答えを返そうとした時である。
「申し上げます!」
 景虎様たちを捜していたのだろう。息をきらせた様子の栃尾の家臣の声が、部屋の外から聞こえてきた。
「どうした、何事だ?」
 直江兼続の声が鋭さを帯びる。
 落城間もない春日山城である。おまけに景虎様方は人数が少ない。何か変事が起きる可能性は少なからずあり、兼続はそれを警戒したのであろう。
 確かに、兵士の報告は変事を告げるものであった。
 だが、それは兼続が予期していたものとは全く別のものでもあった。
 すなわち、兵士はこう告げたのである。
「う、上杉定実様よりの使者がお越しでございます! 早急に景虎様にお会いしたい、とのことですが、いかがいたしましょうかッ?!」


 兼続が景虎様に視線を投じると、景虎様は即座に頷きを返した。
「天守にご案内せよ。すぐに参る」
 兼続はそういうと、やや急かせるような口調で景虎様を促す。
「景虎様、参りましょう。この話は後ほど、改めて――」
 そう言いながらも、兼続は明らかに気が進まない様子である。どうやら、俺は兼続に相当警戒されているらしい。当たり前といえば当たり前だが。
 しかし、上杉からの使者というのは少し気になった。晴景様のことと無縁であるとは思えない。
 定実様は穏やかな為人だと聞くし、晴景様には弥太郎たちがついているから、滅多なことはないと思うのだが……
 俺がそんなことを考えたときだった。


「……天城様、あ、天城様はどこですかッ?!」
「へ?」
 遠くから響いてくる声に、俺は思わず間抜けな呟きをもらしてしまう。今まさに脳裏に思い浮かべていた人の声だったからだ。
「あーまーぎーさーまーッ!!」
 そして段々と近づいてくる声。その合間に、なにやら騒々しい物音が響いてくるのは、どうも道を遮ろうとしている景虎様の家臣を、その都度、吹き飛ばしているからであるらしい。
 ちなみに、今、春日山にいる景虎様の家臣は、黒姫山走破を成し遂げた精兵である。その彼らを容易くはねのけるとは、さすがは弥太郎とでも言うべきか。
「……って、ちょっとまてぃッ?!」
 のんびり感心している場合ではなかった。このままだと、弥太郎は処罰の対象になってしまいかねなかった。


 そう考え、弥太郎を止めるために俺が腰を浮かせかけると、それを見咎めた兼続が素早く刀を抜き、俺の首筋に刃を突きつけた。
「動くな。この期に及んで、脱走など出来ると思うか」
「……ぐ」
 そんなつもりはない、と抗弁したいところなのだが、兼続は本気で刃を突きつけてきている。下手なことを言おうものなら、即座に首を切り裂かれてしまうだろう。
 額に冷や汗を滲ませる俺と、そんな俺を冷たい視線で見据える兼続。
 緊迫した状況に、景虎様がやや戸惑ったように割って入ろうとする。
「待て、兼続、刃を……」
 だが、その言葉が終わらないうちに、この小さな争乱の元凶となった人物が部屋に達してしまった。


「ま、待たれよ、天城殿はご無事であるゆえ……って、ぬああっ?!」
「ええい、人の話を聞かんか、馬鹿者め! 守護様からの御使者とはいえ、これ以上の無礼は……」
「どいてくださいッ!!」
「だから話を聞けというに――がふッ」
「お、おい、しっかりしろッ?! 駄目だ、完全に白目むいてるぞ」
「ほ、ほんとに女子か、こやつ?」
「むう、古の巴御前もかくや、というような女傑よな……」
「貴様が平家物語を愛読しているのは知っているが、今は感涙を流す状況ではないぞ?!」


 ……などと、どこか緊張感にかけるやりとりと、いやに軽快な破壊音が連鎖する中、とうとう襖が開かれる。
「天城様ッ?!」
 そして、弥太郎は室内の状況を見てしまう。
 俺の姿を見た弥太郎は表情に安堵の色を浮かべたが、すぐに俺が置かれた状況に気づいてしまった。
 そう、首筋に刃を突きつけられた、俺の状況に。
 やばい、と全身の毛を総毛だたせた俺は、慌てて口を開く。
「弥太郎、早ま――」
 早まるな、と言いたかった。
 だが、言い終えぬうちに、弥太郎は爆発する。
「お……お……おまえらーーーッ!!」


 弾かれたように突進してくる弥太郎。
 武器こそ持っていなかったが、弥太郎の膂力をもってすれば、そんなものは障害にはなりえないだろう。
 だが、ここにいるのは、景虎様をはじめ、いずれも一城の主である。彼女たちを傷つけてしまえば、勘違いでした、ごめんなさいでは済まされない。
 首筋に擬された刃のことも忘れ、俺が思わず前に出ようとした、その瞬間。


 ふわり、と柔らかい青色の風が、俺の鼻先をくすぐった。


「景虎様ッ?!」
 俺に向けていた刃を、弥太郎に向けなおそうとしていた兼続が、驚きの声をあげる。  
 景虎様が、激発した弥太郎の前にその身を晒したのである。
「――ッ!」
 相手が誰かはわからずとも、自分の邪魔をしようとしていることは弥太郎にもわかったのであろう。その目に、怒りの色を加えながら、弥太郎は景虎様に躍りかかり――


「まっすぐな、良い目だ」
 どこか楽しげにさえ聞こえる景虎様の声。右手を軽く前に突き出した形の景虎様は、弥太郎の勢いに抗しきれず、弾き飛ばされるかに思われたのだが。
「……え?」
 次の瞬間、弥太郎の戸惑ったような声が、室内にこだました。
 景虎様は、たいした力を入れた様子もないのに、弥太郎の突進を、右手一本で押さえ込んでしまったのである。
 否、押さえ込んだというよりは、勢いをかき消したとでも言おうか。それほど、景虎様の動きは自然であり、弥太郎の身体の重心を見抜いて、的確にそこを衝いていたのである。
「う、ううッ!」
 弥太郎も、何とか抗おうとしている様子だったが、弥太郎の身体が動く都度、景虎様もまた、揺れ動く重心に合わせて手を動かし、弥太郎の動きを塞き止める。
 それはあたかも、猛り立つ猫を、虎が微笑みまじりにいなしているかのようで、両者の間に厳然とした実力差が横たわっていることが、武芸には素人の俺の目にもはっきりと映し出されていた。


 そして。
「う、わああッ?!」
 景虎様の手首が翻ったと思った途端、まるで曲芸のように、弥太郎の身体が浮かび上がり、空中で一回点してから、畳に叩きつけられた。
 受身を取る暇もあらばこそ。
 弥太郎は強い衝撃に目をまわし、その口からは――
「……きゅう」
 実にわかりやすい気絶の声がもれていた。


 俺は思わず脱力しつつ、この状況をどうやって誤魔化そうかと頭を抱える。
 弥太郎の登場で、それまでの張り詰めた空気が雲散霧消してしまった気がしないでもないが、顔を真っ赤にしている兼続あたりは何とかしないとまずかろう。
 もっとも、景虎様の顔を見るかぎり、あまり怒ってはいないようだが。
 そんなことを考えながら、気絶した弥太郎の顔に視線を向けていた俺だったが、実のところ、事態は思った以上に急を要するものであった。
 目を覚ました弥太郎の口から語られたのは、晴景様の身に起きた変事であったからだ。





「姉上が、倒れられたッ?!」
 景虎様が、思わず、と言った様子で声を高めた。
 だが、それは俺も同様である。声こそ出さなかったが、身体がぐらりと揺れたことを自覚する。おそらく、兼続らも同様であろう。
 俺たちの視線を一身に受け、弥太郎は畳に頭をこすりつけるようにしながら、知らせを繰り返した。
「は、はいッ。守護代様は、守護様のお邸で過ごしておられたのですが、過日、突然、苦しみ出され、衣服が紅で染まるほどの血を吐かれたのです」
 幸い、その場には定実様の奥方――つまり、晴景様と景虎様の姉に当たる方がいて、すぐに典医を呼んでくれたので、ほどなく晴景様は意識を取り戻したという。


 だが、意識は戻ったものの、晴景様はその後も喀血が続き、食事も咽喉を通らず、わずか数日で驚くほどにやせ衰えてしまったらしい。それでも、意識はかろうじて保っているのだが、典医に言わせれば、いつ意識を失ってもおかしくない状況とのことだった。
 そして、典医はさらにこう続けたという。
 次に意識を失えば、おそらく、再び目覚めることはありますまい、と。



 俺の目に強い光が宿り、知らず、床に頭をこすりつける弥太郎の頭をにらみつけていた。
 その俺の怒りは覚悟していたのか、弥太郎はこれ以上下げられない頭を、さらに下げようとするかのように小さく身動ぎする。
 その口のあたりから、くぐもった声がもれ出てきた。
「……すぐに、天城様にお知らせしようとしたんですけど、守護代様はそれには及ばないと仰られて。春日山の決着がつくまで知らせることはまかりならん、と」
「……そうか」
 弥太郎の声に、俺は小さく頭を振る。
 俺が晴景様の病篤きを知れば、戦を止める為に動くことは晴景様にはわかっていたのだろう。
 自らの命が、旦夕に迫っているかもしれないというこの状況で、それでもなお景虎様に勝利したかったのだろうか。そこに何の意味があるのかは、俺にはわからないのだが……



 考え込む俺の耳朶を震わせたのは、景虎様の落ち着いた声音だった。
「小島弥太郎と申したな」
「は、はいッ、小島弥太郎貞興と申しますッ! あ、天城様の配下で、あの、その、か、景虎様とは存ぜず、先刻の無礼、まことに、まことに申し訳ございませんでしたッ!!」
 景虎様の呼びかけに、弥太郎が軽いパニックを起こしている。
 それはまあ、目を覚ました途端、襲い掛かった相手が景虎様だと知らされれば、動揺せざるをえないだろう。死罪どころか、一族郎党皆殺しにあったところで不思議ではない無礼なのだから。
 だが、景虎様は、そんな弥太郎の狼狽を一顧だにせず、あっさりと許してしまった。
「過ぎたことは良い。主を想っての行動だったのであれば、なおのことだ。それより、そなたが定実様の御使者として参った用件は、姉上の病状を知らせるためだけではないのだろう?」


 景虎様の穏やか声音は、聞く者の心を落ち着かせる効能があるのかもしれない。
 慌てふためいていた弥太郎は、景虎様の言葉にしっかりと頷いて見せた。
「は、はい。守護様からのお言伝でございます。長尾景虎様を、早急に上杉邸にお連れせよ、と。それと、これは守護様からではなく、守護代様からの命令ですが、天城様も、急ぎ上杉邸に来るようにとのことです!」
 弥太郎の言葉の意外さに俺は目を瞬いたが、拒否など出来る筈もない。
 それは景虎様も同じであったようで、一瞬、俺と景虎様の視線が絡まりあった。それはすぐに離れたが、続く景虎様の言葉は、俺の予想どおりのものだった。
「承知した――兼続、定満、供をせよ。春日山城の守備は、新発田に任せる」
「はいッ」
「うん」
 二人が頷くのを確認してから、景虎様の視線が、今度ははっきりと俺の方に向けられる。
「天城殿も同道してもらうが、異存はないか?」
「無論です」
 俺は短く承諾の返事をする。
 この時、俺の胸中には、得体の知れない感情が渦巻いていた。
 それは不安と言えば不安であるし、恐怖といえば恐怖であったかもしれない。だが、最も大きなものは、予感であった。
 何かが終わるという、確信にも似た予感。
 何かが始まるという、確信にも似た予感。 
 相反する予感に胸を騒がせながら、俺は景虎様の後尾について、上杉邸に馬を走らせるのだった。




 ――弥太郎の馬に乗り、その身体にしがみつきながら。
「お前、馬に乗れないのか?」
「ええ、まあ」
 心底、呆れたような兼続の視線を避けるため、俺は眼差しを遠く頚城平野の彼方に向けるのだった……

 

 
 
◆◆




 越後守護上杉定実の邸は、春日山城の北、直江津の外れにある。春日山の庭先と言っても良い場所であり、四方には春日山城の有力な家臣の邸宅が軒を連ねる。
 一見したところ、越後守護たる身を守るためのものに見えるが、逆に言えば、その守護を取り囲んで身動きとれないようにしているとも映る。
 そして、この地に、主筋にあたる上杉定実の邸を築いた長尾為景、その後を継いだ晴景様の思惑は後者であった。
 定実が不穏な動きを見せれば、たちまちのうちに包囲の鉄檻が築かれ、逃げ場のない状況に置かれるというわけである。


 もっとも、晴景様の勢威に翳りが生じるにつれ、定実が置かれる状況も変化しつつあった。実力こそなかったが、越後国内では、いまだ守護である上杉氏の名は浅からぬ影響力を有している。大義名分を欲する者たちは、ひそかに定実に使者を出し、春日山の頸木から逃れるよう促していたようだ。
 しかし、定実はそういった言葉に首を縦に振ることなく、春日山長尾家の下に居続けた。それは、妻のことを慮ったからでもあろうし、越後を覆う戦乱の雲を払うためには、晴景、景虎の二人を和解させることが必要であると考えてもいたからだろう。


 そして今、その定実の希望どおり、長尾家の姉妹は対面の時を迎えようとしていた。この話し合い次第では、これ以上の流血なく、越後の戦火を鎮めることもかなうであろう。
 だが、上杉邸に集った者たちの顔に、笑顔はない。
 俺や弥太郎のように晴景様に仕える者たちはもちろんのこと、景虎様や、直江、宇佐美といった栃尾方の家臣たちも同様であった。


 ――晴景様の容態が、思った以上に悪化していることが、奥方の口から明らかにされたのである。
「……典医の話では、もって後二日。おそらくは、今夜が峠であろう、と」
「――ッ」
 思わずうめき声をあげそうになり、俺はあやういところで、その声を押し殺した。
 弥太郎から聞いてはいたが、改めて他人の口から同じことを聞かされると、重みが違う。決して弥太郎の言葉を疑っていたわけではないのだが、それでも、どこかでそうであることを願っていたのだ。
 だが、そのはかない願いは、奥方の言葉で霧消した。


 奥歯をかみ締める俺の耳に、越後守護たる方の声が聞こえてきた。
「景虎よ」
「はい」
「此度の戦のこと、今後の越後のこと、語るべきことは山ほどあれど、何より優先すべきは命尽きんとする晴景の願いをかなえることであろう。そなたは、病室に行くが良い。晴景たっての願いだ。そなたと、そして――」
 定実の眼差しが、まっすぐに俺に向けられ、俺は戸惑いながらも平伏した。
「天城、と申すはそちじゃな?」
「は、はい」
「そなたも景虎と共に行くが良い。景虎とそちの二人に、話したいことがあるとのことゆえな」
「おれ、いえ、私がですか? しかし……」
 姉妹の今生の別れになるかもしれないというのに、俺のような余所者がその場にいて良いのだろうか。
 そう考えて、躊躇する俺を促したのは、当の景虎様であった。
「天城殿」
 ただ俺の名だけを呼んで、こちらを見つめてくる景虎様。
 今回のことは、景虎様にとって、俺とおなじく寝耳に水の事態である筈。その眼差しがかすかに揺れているのは、景虎様の内心の動揺をあらわしてのことなのだろうか。
「……御意」
 俺は小さくため息を吐きながら頷いた。
 返事を聞くと、景虎様は、姉である奥方の後に立って歩き出し、俺はその後ろに続いた。一瞬、兼続の鋭い視線を横顔に感じたが、晴景様の病室に入るや、すぐにそのことは脳裏から消えてしまった。
 それくらい、晴景様の様子は、俺に驚愕をもたらしたのである。





 先刻まで、かすかに西の地平を照らしていた残照は、すでに夜の闇に駆逐され、邸の上空には星々が、己が光輝を競い合うように、その光を地上に投げかけていた。
 だが、そんな星月の煌きも、この部屋の中を照らすことは出来ない。
 四隅に置かれた燭台の、揺らめく灯火によって闇の中に映し出された晴景様の姿に、俺は声も出なかった。
「……遅い、ぞ、二人とも。危うく、間に合わなんだかと、思うたわ」
 そう言って笑う晴景様の顔は、俺がはじめて見るものだった。
 顔の造作が変わったわけではない。たしかに、短時日でかなり痩せてしまったようだが、それだけならば、俺はここまで驚いたりはしなかった。
 常に晴景様の顔を覆っていた化粧が、完全に拭われている。無論、それは病状の身であれば当然のことなのだが、しかし――
「……どうした、颯馬よ、まるで幽鬼にでもおうたような顔をしておるぞ?」
「……は、晴景様……」
 その、病的なまでに白い晴景様の顔を見て、俺はようやく悟った。
 何故、晴景様がいつもあのように厚い化粧をしていたのか、その理由を。
「……一体、いつから……」
 問いかける俺の声は、はっきりと震えていた。
 対して晴景様の声は、いつもの張りこそなかったが、少しも乱れていない。
「そなたを拾う、一年ほど前からかのう。正直、よう覚えとらんわ」
 典医にも見せておらなんだゆえな。
 そう言って、声を出して笑おうとした晴景様が、そこで咳き込んだ。ただそれだけで、晴景様の口元と、押さえた手には紅色の汚れがついてしまっている。
「晴景、無理をしてはいけません」
 黙って座っていた奥方が、その血をそっと拭いとる。声には力がなかったが、その動作に戸惑いはない。おそらく、もう何度もこうしているのだろう。晴景様の病状は、そこまでたどり着いてしまっているということだった。


「――姉上」
 景虎様が、ためらいがちに口を開く。
 晴景様が口にした言葉の意味を、正確に悟ったのだろう。ただでさえ、越後の国人衆から侮られがちであった晴景様だ。そこに病弱という評判がつけば、事態がどう転ぶかは明らかであったろう。
 妹の景虎様が、武勇、人望、健康、いずれにも問題がないなら尚更だ。
 そんな景虎様の様子を、晴景様はじっと見つめた。
 そのお二人の様子を見ていると、この二人が血の繋がった姉妹であることが良くわかる――そう言えれば良かったのだが、しかし。
(似ていない、な)
 俺は心中でそう呟いた。晴景様が病の身であるということを考慮しても、やはりこのお二人は似ていない。顔の造作もそうだが、それ以上に、その身に纏う気格、あるいはにじみ出る風格、ただそこにいるだけで人を惹き付ける力において、晴景様は景虎様に遠く及ばない。
 晴景様が劣っているというわけではない。ただ、景虎様があまりに抜きん出てしまっているのだ。
 景虎様と並ぶことが出来る人間など、越後の国中を探しても、二人といまい。全国津々浦々まで捜し求めて、ようやく数名、いるかどうかといったところか。
 それも当然であろう。景虎様は、この後、数百年、否、おそらく日本の歴史が絶えるその時まで語り継がれるであろう蓋世の英雄なのだから。



「……まこと、目障りであったよ、景虎、おぬしのことが。おぬしの才が」
 晴景様は、はっきりとそう言った。
 景虎様の顔が強張るのが、俺の目にもわかった。
「私は十も年の違うお主と、常に比べられた。家臣どもは口にせずとも、皆、心の中でこう申しておったよ。私がそなたに優るのは先に生まれたという一事のみ。どうして、そなたが先に生まれなかったのか。そうすれば、何も問題などなかったのに、とな」
 晴景様は、一度、言葉を切って、息を吸い込み、再び口を開いた。
「何故、おぬしのような者が、私の妹なのだと幾度思ったか知れぬ。幼き頃から数えれば、幾百どころか、幾千に到るやもしれぬなあ」
 長年、鬱積してきた負の想念。晴景様は、それを、今際の際に、相手の心に塗り込んでしまおうというのだろうか。
 もし、そうなのだとしたら、俺はこの時、無礼とわかっていても、口を差し挟んでしまっただろう。景虎様のため、というわけではない。生涯の最後を、そんな呪いじみた言動で終わらせてしまうような惨めな生を、晴景様に送ってほしくなかったからだ。


 しかし。
 景虎様への鬱屈を口にする晴景様の顔は、不思議なほどに綺麗だった。
 いや、綺麗というのは臣下の欲目かもしれない。しかし、少なくとも、厭わしいものを感じることはなかった。
 それは多分、俺の気のせいではなかったのだろう。
 当の景虎様もまた、当初の強張った表情を変え、戸惑ったように姉の顔を窺うようになっていたからだ。
 おずおずと。そう表現してもあながち誤りとは言えないだろう景虎様の様子だった。
 そんな景虎様に向かい、晴景様は、はっきりと微笑みかけた。
「つまるところ、私がそなたを疎んじた理由は、妬みと嫉みじゃよ――それが知りたかったのだろう、妹よ」
 びくり、と景虎様の肩が動いた。
 信じられない言葉を聞いたかのように、景虎様は両の目を瞠る。
「――あ、姉上」


 晴景様の独白は、なおも続いた。
「私が優るのは、先に生まれたということのみじゃ。ならば、守護代の地位を失えば、私には何も残らぬことになろう。妹に何一つかなわぬ愚かな姉。そんなものになるつもりはなかった」
 だからこそ、晴景は守護代の地位に固執した。父とは異なる道を歩んだのは、それが守護代を保つために、自分が出来る最善のことだと思ったからだ。
 だが。
「今は戦乱の世。何よりも尊ばれるは武勇であり、将略じゃ。私がどれだけ努力しようと、兵はそなたを望む。私がどれだけ越後のために行動しようと、民はそなたを称える。いつか、気持ちが萎えてしもうたのだよ。所詮、天に愛されし者に、私ごときがかなう筈はない、とな。しかし――」
 ここで、はじめて晴景様の声に無念の思いが滲み出た。こらえきれない激情が、その片鱗を見せる。
「しかし、ならば何ゆえに天は最初にそちを産み落とさなかったのじゃ? 妹が、姉に及ばぬは道理。そちが先に生まれておれば、私がここまで思い悩むこともなかったであろうにッ」


 景虎様の顔に、沈痛な表情が浮かぶ。
 晴景様の口にしていることは、言いがかりに等しい。景虎様の才も、生まれも、景虎様自身が望んで与えられたものではない。その才を花開かせたは、景虎様自身の努力であったにしても、それを責められる謂れはないだろう。
 この場に兼続がいれば、舌鋒鋭く、そう晴景様を非難したに違いない。
 だが、晴景様自身も、自分が理に合わないことをしているという自覚はあるようだった。
 次の瞬間、その顔に浮かんだのは、みずからを嘲る、苦い笑いであった。


「妹を妬む姉など、醜いものよ。それがわかるゆえに、己が厭わしい。そして、その原因であるそなたが、なおのことわずらわしうてならなくなった。その矢先に、この身が病に侵されたと知った……」
 晴景様は、その時のことを思い出したのか、瞼を伏せた。眉間には、何かに耐えるように深いしわが寄っている。
「思ったのじゃよ――このままでは死ねぬ、と。何でも良い。せめて何か一つ、そなたに優る何かを示さなければ、私が生まれた意味さえ、そなたによって消されてしまうじゃろう、とな」




 晴景様の声が、陰々と室内にこだまする。
 兄弟姉妹のいない俺には、妹を妬む晴景様の気持ちは理解できないだろう。姉を慕う景虎様の思いも、理解できないだろう。
 それでも、このお二人が、すれ違いの果てに恨みを残しての別離を迎えるなど、決して認めるわけにはいかない。そう思えた。
 だが、この場にあって、俺は余所者であり、部外者である。何万言を費やしても、晴景様の心に巣食った虚ろを満たせる筈はない。
 俺がそう思い、力なく面を伏せようとした時だった。


「その妄念を祓うてくれたは、颯馬、お主であったのよ」


「……え?」
 思わぬ言葉に、俺はきょとんとしてしまう。
 そんな俺の呆けた顔を見て、晴景様はくすくすと、童女のような笑みをもらした。
「いつぞやも申したが、そなたを春日山への帰途で拾うたは気紛れよ。じゃが――」
 晴景様はそこで言葉を切ると、今度は景虎様に視線を向けた。
「景虎、そちの配下に、主君の癇癪で額を断ち割られたにも関わらず、その主君のために、死ぬと決まりきった戦場に赴く愚か者はおるか? いや、おそらくおるであろう。越後の武士は、頑固者ばかりゆえな。じゃが、その相手が越後七郡でかなう者なしと言われる柿崎であれば――そして、その柿崎を敗死せしめるほどの将略を蓄えた者であれば、どうじゃ?」
「――おります。我が配下の直江兼続、宇佐美定満、この二人ならば、姉上の仰った条件をも越えましょう」
 迷うことなく断言する景虎様。
 それに対し、晴景様もまた満足げに頷いて見せた。
「良き配下を持っておる。では、その二人に加え、越後で最も勇猛名高き、かの長尾景虎を相手とし、越後全土を視野に入れ、戦を操ることが出来る将器を持つ者、という条件であればどうじゃ」
 晴景様は、何だかとても嬉しそうだった。それに影響されたのか、こたえる景虎様も、少し緊張を解いた顔つきだった。
「おりますまい。残念ながら」
 

「そうであろう。うむ、そんな人間が、そうそういるものではない。しかもそやつ、戦局が膠着したと見るや、即座に方針を変更し、敵の総帥の気性と戦略を見抜き、本城に招き寄せ、城と、自らの命さえ贄として、敵将を劫火の中に葬ろうとしたのじゃ。そんなうつけが、そこらにごろごろしておる筈がないわ。のう、颯馬もそう思わんか」
「は、はあ、まあ」
 何と応じたものか、俺は講じはてて、はきつかない返答をしてしまう。
 普段であれば、晴景様は皮肉の一つも言ってくるものだが、今は聞き流してくれたようだった。
 ――あるいは、そんなことに言葉を費やす余裕が、すでになくなりつつあったのかもしれない。


「うつけじゃ。うつけじゃが……臣下として越後に、否、日ノ本に出しても恥ずかしからぬうつけでもある――颯馬よ」
「は、はい」
「どうじゃ、そのうつけ、いまだ私に忠誠を誓っていると思うか?」
「誓っておりましょう」
「私は、そのうつけが忠誠を捧げるに相応しい主君であると思うか?」
「万人にとってどうかは存じませぬが、命を救われた彼のものにとっては、疑いなくただ一人の主君であったかと推察します」


「景虎」
「はッ」
「そなたの配下に、そのうつけを越える者はおるかの?」
「残念ながら、おりません」
「では、私はそなたの全ての配下に優る者を、召抱えていることになるな」
「そうなりましょう」
「つまり――私は、その一点で、そなたを越えたのじゃ」
「はい」


 

 言い終えるや、晴景様は俺と景虎様を、枕元に呼び寄せた。
 ためらいながらも、左右に分かれる形で俺たちは晴景様の傍らに座す。
 晴景様は口を開いたが、その声からは少しずつ生気が喪われつつあった。俺が思わずそう思ってしまうくらい、儚い響きを帯びつつあるのだ。
「颯馬」
「はい」
「我が妄念は、祓われた。じゃが、そうすると、一つ、心残りが出来てしまうことに気づいたのじゃ」
 力のない言葉を受け、俺も自然と声を低めてしまう。
 囁くように問いかけた。
「心残りとは、何でございましょうか?」
「ただ一人の妹に、姉らしいことを何一つしてやらなんだ。そのことじゃ」
 その言葉に、晴景様の頭を挟んで向かい側にいる景虎様の顔がかすかに揺れた。
 それに気づいたのかどうか。晴景様はさらに言葉を続けた。
「とはいえ、何を残したところで意味はなかろう。妹は、景虎は、すべての点で私に優っておるからな。守護代の地位といえど、私が譲らずとも、景虎は自分の力と徳で手に入れるじゃろう。であれば、私が譲ってやれるのは、私が持つ中でたった一つ、妹に優るもの。それしかあるまい」
「……御意」
 晴景様の言わんとするところに思い至った俺は、一瞬、戸惑ったが、すぐに深々と頭を下げる。



「景虎」
「はい、姉上」
「颯馬と戦ったお主のことじゃ。すでに颯馬を知ること、私よりはるかに優るであろう。私の下であっても、これだけの功績をたてた颯馬じゃ。そなたの下であれば、どれだけ雄飛することになるか」
 晴景様がそう言って、景虎様の目を見つめる。景虎様もまた、晴景様の顔を見た。
 おそらく、二人がこんなに近くでお互いの顔を見るのは、物心ついて以来、はじめてのことなのではないか。
「颯馬の力は、そなたの望みを果たすための強き力となり、颯馬の心は、暗夜を示す灯火となりて、そなたの天道を照らすであろう。これが、そなたのために何一つしてやらなんだ姉の、最後の芳心じゃ」
「……ありがたく頂戴いたします、姉上」
 景虎様の目に、小さな雫が生まれた。



 晴景様の、枯れ木のような手が俺の手を掴み、もう片方の手が景虎様の手を掴む。
 晴景様は、それを自らの顔の上に持ってきた。
 必然的に触れ合う、俺と景虎様の手。
 その手ははじめ、戸惑ったように動きを止め――しかし、やがてぎこちないながらに、ゆびを絡ませ、互いにしっかりと握り締め合う。



 その様子をじっと見詰めていた晴景様は、満足したように頷くと、ゆっくりと瞼を閉ざす。
 ――そして、その瞼が開かれることは、二度となかったのである。

  


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